蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

自ら気分を悪くするような愚かな時間

2015-05-31 | 日々のこと

今日はまったり、爽やかな風。
大物の洗濯もし、一人時間を満喫中。
ああ、たっぷりネット遊びができる・・・と思ったが、
たっぷり、がよくなかった。
しょうもない、アカの他人に対する、アカの他人の書き込みをいくつも読んで、気分が悪くなった。
アカの他人の、感情の捌け口のようなものに触れる自分が、そうとうアホと感じる。

ネットも、自分が気持ちよくなれるような内容のものをチョイスしないと、
だらだらっと、なにも考えずに、安易に流れると、ろくでもないものも、うようよ存在しているから、要注意。
せっかくの気持ちのよい、最高気分の日曜日が、前半、吹き飛んだ。

ヒマはよくない、だらだらは、よくない。
が、時には、そういう失敗も、自分を分析するネタになるので、悪いとばかりは言えない。

自分のことをネットの向こうのアカの他人に伝えたいと願う、その気持ちは、いったい何なのか?
そこらあたり、その根源から、分析していなかければならない。
フェイスブックのような、実名、実顔写真、実学歴、実職業を公表している、そっちのほうに書けばいい?
ところが、わたしは、フェイスブックは参加していない。登録していない。
登録していないので、知り合いはもちろん、家族のフェイスブックも見ることができない。
架空の名前で、実在しない人物を装って登録し、見ようと思えば見れるが、
そこまでしたくない。

匿名で投稿する書き込みには、悪意のあるものが多いと感じる。
自分の行動に、責任を持たなくていいからだ。
そうやって、実社会では吐くことのできない本音やストレスを発散しているのだろうけれど、
ネットは、ゴミ処理箱となっている。

近づくのも自分、近づかないのも自分。
自分が見たい、接したいものはどういうものかによって、アプローチしていくものが違ってくる。
若い人だけでなく、大人、初老の人でさえ、大人になりきれない、近寄りたくない人々が存在する。
わたしの年齢になると、もう、人生勉強は卒業したい。
良くないものは必ず存在することはわかっているので、それらには近寄らず、
良いものに接していきたい。

が、自分自身に、良くないものがある限り、
根絶は無理だろう。

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教科書どおりには、いかない

2015-05-30 | 日々のこと

まだら認知症の人と、いっしょにいると、自分までおかしくなる。

まだらなので、非常にやりにくい。
自分がおかしいのか?相手がおかしいのか?
なんだかわからなくなってきて、自分も壊れてしまいそうだ。

「認知症は、老化の一種なんだから、自然の成り行きなんだから、
気にしないで、あるがままに受け入れたら?」
と、わたしは、人ごとだから、そう言える。

本人にとってみると、日一日、壊れていく自分に不安や恐怖を感じている。
記憶の消滅だけでなく、体も以前のようには動かなくなっている。

「前に出来ていたことが、出来ない」と嘆く。
「じゃあ、出来ることだけして、出来ないことは、しなかったら?」とアドバイスする。
が、本人は納得できずに嘆く。

「人はどんな人でも必ず老いて死んでいくんだから、それが老化で、人の自然な道なんだから」、
と、まるで、教科書でも読むようにわたしは、言う。
人ごとだから。

これが、もし、自分のことだったとしたら、どうだろう?
哀しくて、やるせなくて、絶望的な気持ちになるだろう。

しかし、人間に生まれてきたからには、覚悟というものが必要だ。
老齢にもならず、事故死したり、若死にしたりすると、悔いが残る。
幼い子供を亡くしたりすると、言葉にならない悲しみに襲われる。
だが、自分が、平均寿命の年齢に達し、その生を感謝するどころか、
老化を嘆くのは、とても人間臭いことなのだろう。

なかなか死ねない苦しみ。
これは、こころの持ちようで、180度変わるような気がする。
今日まで生かしてもらったことの有り難み。
物忘れする、あれが出来ない、これが出来ない、と、嘆くより、
外の緑を見たり、空を見たり、こころに正のエネルギーをチャージし、
自分の平穏を得るほうに目を向けるわけにはいかないのか。

でも、できないのだろう。
今まで、好きなように自分の思い通りに生きてきた人は、
思い通りにならない人生は、苦痛の極みなのだろう。

人は、生きている間は、悪口を言うが、亡くなると、悪く言わない。
亡くなると、もう、自分には被害や恩恵、影響を受けないから、悪く言う原因がなくなるのだろう。
亡くなってからも、怨み続けている人もなかにはいるようだが、数は少ないと思う。

「『もう死んでくれ』と家族に思われるぐらい嫌われないと、いくら歳を取ったからって、そうカンタンには死ねないんやで」
とは、さすがに言えなかった。

自分の思うように出来るわたしが、出来なくなっている人に対して、言えるわけがない。
出来なくなってはじめて、その心境がわかるのだろう。
せめて、苦しみをやわらげてあげるお手伝いができれば、と思う。
が、なかなか出来ない。

 

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人のことなど、どうでもいいのか

2015-05-26 | 日々のこと

旅の月刊・情報誌を読んだ。
いつもは、表紙をちらっと眺めるだけで、めったに読まないのだが、
今日は、たまたま気が向いた。

中には、エッセイが数本掲載されている。
プロのエッセイは、お上手だけど、多くの人々に合うような感性で書かれている。
旅のエッセイで、定期月刊誌だから、ハチャメチャな内容は無い。
求められるものを的確に嗅ぎ取って、プロはお仕事されている。

ふ~ん・・・と思うが、ソツなくこなされているが、
面白くなくはないが、・・・ふ~ん・・・そうなの・・・という、わたしの軽い鈍い反応。

わたしの脳、感性自体が、最近、鈍っているのだろうか。
あまりたいして刺激されない。
そのくせ、なんでもない風や、風景、普通の会話などに、じーんと来たりする。
歳を重ねて、感性の変化が見られるのだろうか。

価値観も少し変わってきたように思う。
たとえば、お金の使い方。金銭的価値観。
そもそも、わたしのまわりにいる人間が、お金を使わなさ過ぎる。
4人家族で広い一戸建てなのに、電気代が一ヶ月1000円台(2000円を切る)だったり。
どうなっている?

かたや、一人住まいの高齢のあるお方Aさん、電気代、一ヶ月6万円だそうな。
どうなっている?
もっとすごい、ある高齢のお方Bさん・・・

その差、振幅、大きくないか?

なので、価値観もオーソドックスではないかも知れない。
通常の平均値の範囲に納まっていないような気がする。
下にいるか、上にいる。
あるいは、右にいるか、左にいる。
3Dで、不思議な空間に位置しているようにも思える。

しかし、プロセスはどうであれ、結果的には、目に見える分では、
世間の人と足並みを合わせ、歩調を乱さないでいると感じる。
つまり、常識を保っている。

歳がいくと、どんどん個性的になってきてしまい、自分を持て余すこともある。
皆さんも、そうなのだろうか?
年寄りは頑固になる、ってやつか。
自分の人生を肯定しすぎるあまり、柔軟性に欠ける。
わたしは、そういうのも、イタイと感じる。
しかし、多くのお年寄りたちは、耳が悪いのか、脳が固まってしまっているのか、
咄嗟に反応できなくなってきているのか、
反応に時間がかかりすぎて次第に反応しなくなるのか、

自分のことは一方的に話すが、人のことは聞かない。
聞こえないか、聞く気がないのか。

耳のせいなのか、脳のせいなのか。
どっちも、か。
双方のコミュニケーションが取りにくくなるのは、老化のせいなのか。

わたしも、順調に老化の一途を辿っている・・・のだろうか。

 

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貪欲に、爽風を肌に取り込む・・・

2015-05-24 | 人生

気持ちいい気候である。

深く考えるわけでもなんでもないのに、最高気分を味わっている。
ただただ単純に、肌に感じる爽快感。
四季のある日本、・・・毎年、毎年、この季節はやってくる。

しかしながら、ああ、なんて心地よいのだろうと、
一生のうちで、そうそう何度も感じるものでもないと思う。
ひょっとすると、今が、人生のうちで一番良い季節なのかも知れない。

どうにか暑い時期を過ぎ、山の頂上にはたどり着いたものの、まだ下山時間まで、少し余裕がある。
景色を見るなり、トイレに行くなり、お土産屋さんに寄るなり、写真を撮るなり、
なんにも考えずに風景を見て、風を感じるなり。
好きなように過ごせばよい。

山にいる人々は、バスをチャーターして上った人もいる。
一段一段、階段を膝まづいて祈りながら上った人もいる。

後に必ず訪れる、宗教の手助けを借りないと乗り切れないかも知れないような苦難、困難。
そんなもの、来ないような気がするぐらいだ。
若い頃、自分がおばさんになるなんて、想像もしなかったし、
中年になったら、もっともっと歳をとる自分など思いもよらなかった。

しかし、良いにしろ、悪いにしろ、身近に人生見本がある。
母&義母である。
同性であり、一時代、先を歩く。
いずれ、ああなるんだ。
と、そう感じる。

母の前を行くのは、祖母たち。
いすれ、ああなるんだ。

娘たちも思うことだろう。
いずれ、ああなるんだ。

 

近年は、生死を生活の一部として、身近に感じることがなくなった。
赤ん坊は、自宅ではなく病院で産む。
出産現場には、夫しか入れない。
産婦の親は、入室を許されない病院が多い。
娘の出産に関わるのは、婿。

病気になれば、入院し、病院で死ぬ。
歳がいって自立できなくなれば、老人施設に入り、長年を過ごし、そこで死ぬ。
人生で一番大事な「生死」だけが切り取られ、生々しい体験をすることなく、他人の手に委ねられる。
代行サービス。
(※自宅で介護されている家庭もある)
自宅で、生死を感じることはなく、葬式などの儀式も、セレモニー・ホール。
便利で、キレイで、煩雑でなく、さっぱりしている。

家族葬も、やがて一般化しそうである。
お墓も様々な形式になり、個人墓は減少するかも知れない。


暑い時期と、寒い時期の、ちょうど隙間の、ベスト・シーズン。
これを楽しまないで、いつ、楽しむ。
やがて、・・・いや、明日にでも来るかもしれない、ベスト・シーズンの終焉。
そう思うから、いっそう、肌に感じる風が、至福の癒しに思えるのだろうか。

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行きたい方向を自分で決める

2015-05-20 | 人生

最近、自分が少し壊れかかっているような気がする。

次へのステップの転換期かも知れない。

大阪都構想は、実現できなかったが、緩やかに、その意思を受け継ごうとする動きも出てきているようだ。
橋下さんは、ただただ無残に負けただけ、ということはなかったのだ。

それと同じようなことが、人生にも言える。

自分があえてキッカケを作って、コトを起こさない状態であっても、
偶然の出来事で、風向きが変わることがある。
風向きの変化を自分の思いの方向に方向展開していくチャンスの到来である。
実行するとなると、大きな障害が予想され、逆風も大きいが、
それなりの結束力を生む、意外な波及効果をもたらすこともある。

なりゆきのままに、身を任せるのも一つの方法であるが、
なんでもかんでも、おまかせ、というのではなく、
自分の意思、向って行きたい方向があるのなら、そっちのほうに向くよう、策略を練るのも一つの方法である。

構想は、漠然とあっても、具体的実践方法は、短時間には練れない。
じっくり時間をかけて、自分の人生をデザインしたい。
だが、時機を逃がすと、意味がない。

なすがままの、受身一本槍より、能動的に生きるのも、生きがいがあるように思う。
軌道に乗れば、あとは、すーっとそれに沿ってゆっくり歩いて、時が来れば自然に消えていきたい。

 

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パクって、涼しい顔

2015-05-19 | 日々のこと

昨日の、とある安・居酒屋。
テレビのニュース解説とまったく同じコトを言っている人がいた。
わたしも、たいして変わらないけれど。

あれは、あの人の考えなのか、パクり、そのものなのか。
たまたまニュース解説員と同じ考えだったのか、
はたまた何度も聞いているうちに、自分もそう考えるようになったのか。


昔、知人が、「自分が父親を越えた瞬間」というものを聞いたことがある。
父親の口から出る時事ネタ解説が、週刊誌に書いてあったこと、そのままだったことを発見した時、だそうだ。
それまでは、父親は、大人だと尊敬していたのに、ネタバレしたわけである。
父親も、ネタ元の週刊誌は、子供の目に触れないところに置いておかねば、ね。

持論、解説、切り口は、自分の目から見ないと。
ただし、意見や考えがまとまるまでは、あちこちのニュースや解説を読むのは良いこと。
誰かと議論するのも、よし。
いちばん、よくないのは、解説のパクリ。
お気に入りのコメンテイター、例えばマツコ・デラックスとか、の受け売り。

わからないんだったら、わからないで、正直者が、いちばん。
わかってないのに、わかった気でいる人は、ちょっとイタイ。
あ、それ、わたしでした。

 

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政治、まったくわからんです

2015-05-18 | 日々のこと

橋下氏、辞めるようだ。

政治にまったく関心のない私だが、昨夜は、なぜか、手に汗握って、
テレビで刻々と推移する数字、・・・大阪都構想、賛否の結果を見ていた。
ほぼ、五分五分の戦いとなった。
橋下氏、手に職があるから、政治家を辞めても、食いっぱぐれはないだろうし、
あの知名度、今後も実業界など、まだまだ挑戦できる分野はあると思える。

私は、大阪府民なので、非常に実のところ、関心があった。
橋下さんと対抗する勢力の訴える、
「よくわからないコトには、賛成しないほうがよろしい」というお勧めフレーズ、
まさに、よくわからないお年寄りには、効いたのではないか。

残念ながら、私は大阪市民ではないので、投票権はなかった。
しかし、税金の使い方などは、確実に大阪府民も巻き込まれるはずなのに、受け入れる側の大阪府民には投票権がないなんて、
非常にアンフェアだと思っていた。
あそこまで、ぴったりと賛否が半々に分かれるということは、大阪市民の皆さんは、よくわからない、ってことなんだろう。
「都構想」の言葉ばかりが先に歩いたかんじで、
生活に直接関わってくる市民としては、実態がつかめないまま、実際に後押しするのに怖気づいたといったところか。

昨日のためにせっせせっせと、長年、準備していた大阪府、大阪市の公務員の方々、
橋下氏とともに討ち死に、いっしょに負けた感があるんだろうなあ。
税金はああいうカタチで使われるのだと不思議なものでも見るような、わたし。
だけど、何に使われているのやらわからないよりは、ずっと、はっきりとしたカタチとなって現れ、実感はあった。

かつて、オリンピック誘致を中止することに方向転換し、それまで進めてきたことに使われた税金がパーになる、
と非難を浴びていた人、時代を、ちょっと思い出した。

と、昨日のこと、長く、書きすぎた。
私生活、実生活では、もっともっとプライベートな家族のこと、行事がけっこう、あったのに。
そういうことは、その時、その時に、リアルタイムで燃焼してしまって、あえて文字にする気持ちにならない。


そういう日常の喜びや充実感を通り越して、もっともっと自分のことを掘り下げたことが書きたくなった。

一昨日、外出先に向う途中の、地下鉄のエレベーターで(足、減るから、エレベーター使用してます)
鏡に映る自分の顔を見て、げげっと、はっと、息をのんだ。
皆さんもよく書かれているが。
そこに映るのは、見知らぬ老婆。

え? 

これ、あかんやろ。

わたし?

あの日のわたしは、完全に老婆だった。
突然の老婆の顔に、わたしはうろたえた。
目の下のクマの部分が少し黒ずみ、落ち込んでいる。
前日、夜中遅くまで、アイフォンのちっちゃな、ちっちゃな画面で、コミックを読んでいたからか?
まあ、それはどうでもいいとして。
(どうでも、よくないが。自分を納得させる、なにか具体的理由が欲しい)

宗教は、病、戦争、死、老の苦から逃れるためのものらしい。
老いは、死ぬほど辛いのか?

しかし、若死にしない限り、生命体は必ず老いる。
逃れようのない宿命である。

女性は特に見かけがどうのこうの、男性に比べて、どうのこうの、美がすべて、どうのこうの、・・・
と言われている。
しかし、わたしの年齢になると、女性にあれこれイチャモンやら理想やらを押し付けてくる男性も、
自分の姿をもっとよく見て欲しい。
一方的に映画でも観る感覚で、女性の外見に思いを馳せたりしているが、
双方向のコミュニケーションを取りたいのであれば、たとえ、夫婦でも、自分の身も構わなければ、人にばかり注文はつけられない。
女性は見られて、なんぼ、男性は、見て、なんぼ、では決してない。

ある男性が、あるSNSで、女性のファッションにとても興味がある、と言っていた。
あれこれ主張しておられ、わたしにも、「あなたはセンスがいい」
と、(わたしの外見を知らないのに)コメントのようなものをくださったが、
「見るばかりではなく、そういう男性も、女性の目を意識していますか?」
というスタンスで、男性のお洒落について、わたしが書いたら、いつか知らない間に、その人は消えてしまった。
嫌な奴かも知れない、わたし。

と、話がそれまくっている。
ちょっと、書き始めると、止まらない。
起承転結は、まったく吹っ飛び、キーが踊る・・・のはいいのだが、
時間を考えずにスタートしたので、突然になるが、こここで、終わりとなります・・・。
ああ・・・ブログの私物化。
でも、これ、あたりまえ。わたしのブログですから。

ここで、やむなく強制終了いたします。
ごめんあそばせ、あそばせ、です。

 

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変わらないものに、美しさを感じる

2015-05-07 | 

スペイン国境に近い、フランスの南西の静かな村々を訪れた。

日本人は、我々以外には見かけなかったが、
最後の3日は、家族メンバーだけで構成された1グループと顔を合わせた。
観光地で出くわした欧米人の中で、日本や日本人に、とても好印象を持っておられる方々が多くいた。
奈良などを訪れたそうだが、「日本は素晴らしい!!」と絶賛され、当の日本人である我々が、驚いた。
黄色人種や、有色人種の顔は、観光客の中には、なかった。もちろん、現地にも。
いつも、大阪、なんばで、必ず見かける、お国柄に特徴のある、多くの観光客の人々、
もはや日常の1シーンとなりそうだが、あの言語、・・・まったく耳にしなかった。

今回、訪れた地が、あまりにも、渋すぎる選択で、観光バス対応はされていない。
ほんとうに訪れる人は少ない、希少価値のある名所だと感じた。

観光立国というのは、心意気が違う。
日本も、見習わなければ。

ヨーロッパは、豊かな国である。
豊かになってからの歴史が長い。
(かつて新興勢力アメリカに追い越されそうになって、成果主義のアメリカを目の敵にしていたが、
もはやアメリカとて、いつまでも絶頂期を維持できない)

その歴史、伝統に、重みを感じる。
中世と何ひとつ変わらない風景、町並み、家屋を見て、
維持に対するエネルギーは、静かな見かけ以上に大変だろうと想像した。

時代とともに人々のこころも変わっている。
が、変わらないものもあり、変わらないように維持する意思、気力、時間、労力、お金、・・・
派手さは全くないが、それこそ、底力だと思う。

歴史は、どこの誰の目から見たものかが、大事。
史実の解釈には、視点によって180度変わる。
我々が習ってきたのは、欧米の目から見た歴史。
強い国は、弱い国を吸収合併して(乗っ取って)成り立っていたりする。
強い国も、弱い国も、それぞれの独自の文化や良さがある。
メリット、デメリットも、お互いにある。
合併や、独立を繰り返し、独自のカラーを生み出す。
が、そのまま、歴史に置き去りにされたような村もある。

そのあたり、背景やら歴史を学ぶには、膨大すぎて、とても旅行出発日までには間に合わない。
帰ってきて、せいぜい、ああ、そういえば、学校で習ったなあ・・・
あんなこと、こんなこと、と思い出したり、答えあわせをしたり。

誰だって、時間とお金と健康と、身の回りの事情が調整できれば、自分の好きなところに行きたいことだろう。
他人の行ってきたところの、嬉しそうな記事なんぞ、読みたくもないだろう。
そういう人は、読まないでとっくに、スルーしていることだろう。
なので、書く必要もないが、一応、アタマの端っこに、念頭に、ちょこっと無意識に入っている。
多アングルの視点に設置されたカメラが、今では設置した覚えもないのに、勝手に、ぐる~っと回る。
いずれ、カメラも壊れる日も来るだろう。

 

静かで、豊かな村々。
わたしの脳裏、網膜、脳のスクリーンには、しっかり焼きついた。
行けども行けども、美しい輝く土地。
農地は国土の多くを占めるのに、農業に従事している人は、国民のたった0.3パーセントだとか。
どおりで、村の集まりには、kubotaのロゴが、よく目につくはずだ。

自国の農業だけで国民が食べていけたら、こんなに素晴らしいことはないのに・・・
どこの国も、たいへんだ。
時代が進むと、いろいろ、便利になり、維持も困難になり、理想も高くなり、価値観や選択肢も広がり、
アタマを悩ます要素が増えてくる。

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何を書く?何を書けばいい?

2015-05-04 | 
以前には、旅先からリアルタイムでブログアップすることに、異常なまでに熱意を燃やしていた。

さて、あれから2年弱、今は、割と、どうでもいい。

リアルタイムのブログ更新などに時間とエネルギーを割く意味、意義を見失っている。

そんなことしていたら、自宅にいるのと同じではないか。
のんべんだらりん、日常と非日常の境目がなくなる。
メリハリ、区別は大事と感じる。
今、その時、現地のリアルタイムの自分が大事。

別に自分のことを特に誰かに知ってほしいわけでもなし。

確実な具体的な何かを感じないのに、時間を割く気にはなれない。
しかし、逆に、リアルな人に報告義務があるとしても、息苦しい。

でも、今、ブログ更新中。
なんで?
旅が終わる、ケジメ。
というか、明日は帰国日で、フライトの時間に余裕があるので、朝はゆっくり。
前夜は、のんびりできる。

日常に戻る直前。