蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

文字の海で、溺死

2012-06-30 | ブログ

読書家である、ご近所・某ブロガーさんのお宅(ブログ)にお邪魔して、びっくりした。

彼女が絶賛・推薦しておられる方のブログにお邪魔して、またまたびっくり。

なんと・・・見たこともない文字が、びっしり。
(だが、これは、日本語だ)

よく読んでみると(うそ、ほんのさわりの数行、いや、1~2行だけ)
それは、やはり、見覚えのある日本語だった。

でも、わたしは、その、ズラズラズラと、びっしり、ぎっしり並んだ文字を見ると、
もうそれだけで、めまいがした。
読解以前の問題だ。

(難解なようなかんじの言葉が、アラビア文字のごとく並んでいた。
→読む前から、すでに入り口で、フリーズ)

やはり、わたしは、文字の大群、だめです。
日本語も英語も、スワヒリ語も、すべて、だめです。

言語だけで構成されているモノに対する抗体は、ゼロだということが、はっきり、きっちり、わかった。

そして、あの、ご近所ブロガー女史は、
あんな文章がすらすら読め、しかも、理解でき、さらに、感想まで述べられるなんて、
さらに、女史に絶賛される文章(論説、書評)を書いている、インテリ氏も当然、
やはり、わたしとは、同じ脳ミソは持ち合わせていないと悟った。
一見、おなじ、哺乳類同士、似たような見かけをしているが、まったくの、別モンだ。


ただ、こんなわたしにも、好き嫌いはある。

下品な備忘録だけは、どうしても生理的に受け付けず、
お酒をちゃんぽんした時よりも、台風時の船旅よりも、もっとキツイ嘔吐感に見舞われ、洗面器が必要だ。
価値観とか倫理観とか、それ以前の問題のようだ。

 

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あっぷ、あっぷ、いっぱい、いっぱい

2012-06-29 | 暮らし

いま、我が家は、とれとれ農園・市場状態にある。

デラウエア(小粒のブドウ)・桃・スモモ・さくらんぼが、冷蔵庫にココ狭しと、ぱんぱんに入っている。
もうすぐすると、桃がまた大群でやってくる。

いただきものをするのは、たいへん、感謝して余りあるのだが、なにしろ、一度に、大量に、重なると
生ものだけに、非常に焦る。
昨日のデラウエアにいたっては、4キロもあった。
我が家における果物の消費者は、ほとんど、わたしひとりしかいない。
(わたし以外の人間は文化人でないからだろうか、なぜかフルーツを好まない)

わたしの持論は、文化人たるもの、スポーツとフルーツをこよなく愛する、と、勝手に決め込んでいる。
じつは、わたしとて、文化人ではなく、
いただいたからには、食さねばならぬ、と、なかば義務感にもかられつつ、かなり無理をして食べている。
わたしのスポーツも、ジムと社交ダンスでは、どう見ても、老人の健康維持対策にしかすぎない。

ま、それはそれとして、果物は、遠くにいる娘に送るにも、けっこう、めんどくさい。
(冬にも送ったけれど、荷造りをして、床暖房の上に置いたままにしていたので、おそらく、届いたモノは・・・。
あれは、情けない失態だった・・・)
ある程度、ためてからでないと、いろんな種類を混ぜられないし。
あちこち、おすそ分けをすると、送料が、ばかにならない。

ご近所に配り歩くことになるのだが、皆さん、はたして、どうお思いのことやら、・・・・。
日ごろ、ちっとも交流がないのに、おすそ分けばかり持っていくのは、かなり気が引ける。
到来モノをやりとりすることが、交流の一環だという考えもあるだろうけれど。
ありがとう、と笑顔でアタマを下げて、もらってくださる、としても、
先方様も、季節モノをいっぱいもらっていて、うんざりしているかも知れないし。
出会い頭に、「今、○○、ある?」と聞かれて、「あ、あ~、あります」と心苦しく答えると、
「そうやろうねえ。どことも、そうやわ」と、持って行き場に困っている、あまり親交のないご近所の方もいた。

わたしは、そういうのが、いっさいがっさい、めんどくさい、
生活全般、暮らし全般、人生全般が、めんどくさがりなのだ。
到来モノを配り歩くのは、生きているのが面倒になるほど、わたしにとっては、めんどくさい一大事だ。

出先でも、大きなフルーツを配り歩く人がちらほらいて、
「ごめんね。荷物になるだろうけれど」
と言って、カバンにねじ込んでこられる。
彼女の気持ちも、とてもよくわかる。
生の到来モノに、振り回されているようだ。
近所だけでなく、出先の都心にまで、到来モノを持ち込むぐらいだから、
おそらく近所では、配りきれなかったのだろう。
たいして、仲がよいわけでもないのに、この人ならいいだろうと思える皆さんに配っておられる。
彼女の、自宅から都心まで、どっさり、かさばる果物を持ち込む重さ、
皆さんの、都心から、遠く離れた自宅まで、持ち帰る、かさばり、重さ、
ご苦労様です。
かさばる重いものを持ち込んで、アタマを下げてまで、皆さんにもらっていただいている彼女を見ると、とても人ごととは思えない。

子供が小さい頃、生協に入っていたので、
食品がまとめて配送されるお宅に、注文していた自分の分を取りに行ったついでに、
到来モノをいくつかに分けて袋詰めして、皆に持って帰ってもらっていた。

りんご箱(ダンボールの)ひと箱、とか、みかん箱ひと箱、柿ひと箱とか、そういう、大量の果物をいただくと、
それも、なん箱にもなると、えらいことになる。
うちのほうからも、季節モノの果物を箱単位で、あちこちに送っているようだけれど。
皆さん、果物がお好きな方が多いみたいだけれど、わたしは、味見程度の分量の果物がいい。
2個とか4個入りとか、そんなのが、いい。

贅沢な悩みで、石をぶつけられそうだ。

お互い、そういうブツブツ交換が、気持ちの交換であり、交流であり、お付き合いなんだとしたら、
わたしは、人付き合いは、苦手だ。

日ごろは、冷蔵庫は空に近くて、飢餓状態、
お中元・お歳暮時期は、種類も重なり、あふれかえっているって、どんなもんだろう?
自分の食生活を自分でコントロールできないのは、少々辛い。

自分が欲しいモノを、欲しい時期に、欲しい分量、欲しい。
これもまた、石をぶつけられそうだ。

お互い、やめたらいいと思うのだが、内需拡大、国内景気後押し、経済牽引のお役に立たなければいけない?

到来モノがたくさんある人と、到来モノが全くない人とが、同じ生活圏に混ざって交流していることが望ましいのだが、
一方的にあげるばかり、一方的にもらうばかり、これで、すんなりお互いスムーズなお付き合いができるかどうか。
現実問題としては、難しいものがある。
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ちなみに、トップ画像は、母が庭で植えたアジサイを、屋内で生けたもの。すごく大ぶり。
菖蒲も子供の頃から庭に咲いているもので、この季節、青々して爽やか。


戦友は、別の道を選んだ

2012-06-28 | 趣味
性懲りもせず、ダンス・パーティの話。

わたしに「踊りましょう」と、誘ってくれる人は、ほとんどの人は、上手くない。
昨日は、その最たる方と踊った。

もう、さいしょの第一歩で、わかる。
あ、しまった・・・なんと・・・この人、ひどい・・・すごい・・・へ・・た・・・

まあ、しかたない。
その人が踊っている姿を見たわけではなく、事前チェックなしに、いきなり踊ったので、
こころの構えをしていなかった。


「リラックスして。カラダの力を抜いて」
と、その人は言う。

リラックスしすぎだ、その人。

「ダンス、楽しんでます? ダンスは、楽しまなきゃあ」

そう仰るが、楽しむにもなにも、なんでもいいからダンスしてればいい、ってものではないわけで。
わたしは、時間と、お金を割いて、会場に駆けつけているわけで。
それなりの成果を求めて、来ているわけで。

ずっと何曲も引っ張ってないで、なんでもいいから、はやく、わたしを解放してください。
リラックスする前に、楽しむ前に、相手を楽しませるように、
もう少し、ちょっとは練習してきてくださいよ。
(と、こころの声)

「この次の曲もお願いできる?」「もう1曲」「あと1曲」と、終わろうしない、その人。
タイミングをずっと見計らっていて、ここぞ、という時に
「ありがとうございました!」と、ぺこりとお辞儀して、逃げてきた。

そんなこと言うと、
生意気なヤツ、とお読みになった多くの方に不快感を持たれること、間違いなし。
だ、が。
社交ダンスのパーティでは、ルールとして、女性は、男性を誘えないし、断れない。
そこを、うまく、なんとかして、お上手な人に踊ってもらえるよう持って行き(事実上、誘っているのと同じ)
断る場合は、いかに、相手を嫌な気にさせずに、逃げるか。

今まで、なんども失敗してきた。
「こりゃあ、上手な人だ。ぜひ、つかまえて、踊ってもらわなければ!」と、意気込んで詰め寄ってみると
この道40年の大御所のプロだったり(→主催者側の集客目的で来場していた)
パートナーがいるので、迷惑がられたり。

安引き受けすると、とんだ目に遭うし。
しかも、そのひどい踊りで、ひとに教えようとする勇者も、おられる。


いつしか、少女は大人になり、純粋になんでも受け止めることは、なくなった。

ある程度の目標の域に達するまでは、わざわざ時間を作ってまで、わたしよりヘタな人とは、踊りたくない。
それと同じことを、わたしより上手な男性は、わたしに対して思っていることだろう。
どっちもどっち、おたがいさま。
パーティという、切磋琢磨の場は、華やかで和やかそうに見えて、実は、厳しい。

わたしの、団体レッスン戦友のY子女史は、パーティから、練習の場を別のところに切り替えた。
一時期、いっしょにパーティに行っていたが、彼女なりの方向転換のようだ。
わたしも、このままでいくと、いいような、よくないような。
パーティよりも効率のいい、レッスン方法、レッスンの場を見つけなければ。



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八方美人には、なれない

2012-06-27 | わたし
わたしが、なにも考えずに、自分の小説に、
恐れ多くも、ぺたっと貼っていた「純文学」というものは、スゴイことだったんだ。
ご親切に、教えてくださる方がいないと、わたしは、大恥をさらしたまんま、
銀座の大通りを、シャンゼリゼ大通りを、裸で堂々と歩いているところだった。

でも、実際、あまり、今回は、恥を恥と受け止めていない。
なぜかというと、わたしは、あまり小説に気合を入れていないからだ。

もともと、小説の先生(先輩)から、そそのかされて書き始めたものだし、
そもそも小説を読んだこともない人間が書けるなどとは、まったく思っていないので。
自分を守ろうとして言っているのではない。
ほんとに、ほんとなのだ。

ほんとに、今となれば、たんに、ブログのネタと成り下がっている。
ネタと成り下がっているものは、フランス語もそうだし、けっこう、ある。
つまり、気合を入れたフリをして、自分にハッパをかけるのだが、いまいち、ぱっとしない。
それをブログで、チャラかして、紛らわそうとする。
卑怯な手段だ。
(あ、でも、フランス語は、ほんとにほんとに、まったく、ぜんぜん、気合が入っていない。
ポーズに、すぎない)

第一、インテリが、まわりにいない。
理系のインテリもどきなら、ばらぱらといるかも知れないが、文系の芸術系インテリは、ひとりもいない。
文系もいることはいるが、芸術系ではなく、実務に従事する系。
膨大な数字やらデータやら、書類やら、信用やら実績やら取引やら、そっち系。
芸術を理解するような輩は、ひとりも、猫の一匹も(例えが、おかしい)、いない。

こう言って、自分を正当化して開き直る。
(どこをどうすれば、これが、どう正当化しているのか、よくわからないが)

ま、なにしろ、あんまり深く考えてないので、ひとに指摘されると、いともすんなり変える。
純文学の看板は、下ろしました。
(ほんとうは、小説の看板ごと、下ろしたいです)

小説を甘く見ているから、ほら見たことか、と、姿なき姿から、声なき声が聞こえる。
刃なき刃に、どこを刺されるわけでも、切りつけられるわけでもないが、
傷跡のない、血の出ない、見た目はなにも変わらない、日常どおり、
だが、突然の内臓圧迫で死亡。

おまえなんか、わけもわかっとらんと、このど田舎もんめ、
赤いほっぺに風呂敷包み、ここは大東京、上京して、きょろきょろ、
わあ、スカイツリー、高いなあ。(ちなみに、モロゾフのスカイツリー チョコは、悪くないです)
人口3000人の田舎とは違うんだぞ。

恥を通り越して3周ぐらいして、また入り口近くで、引き続き、懲りずに何食わぬ顔で続編を書くことだろう。

恥なんか、走っているうちに、汗といっしょに流れ出てしまう(・・・のは、わたしだけ?)



はなしは、まったく変わるが・・・

ちょっと個人的に、掲示板として使わせていただきます。
個人宛のメッセージです。

わたしの小説ブログにお越しいただいた、とある、特定リアル知人の方へ
いつも(かどうかは知りませんが)、この蝶ブログをお読みになっておられたのですね。
つまらないブログに、お越しいただいていたようで、ありがとうございます。

連絡が以前はありましたが、ある時、このブログをお教えした途端、すっかり途絶えましたね。
わたしのホンネは、さぞや気分の悪いものだったのでしょう。
ブログは、こういうことがあるので、弱ります。
多くの不特定多数の人や、少人数の実際に知っている人、
そういう方々の目にさらされる、ということを知った上でのブログです。

ま、趣味の一環なので、あまり深くシリアスに考えてないですが。
あれも、これも、完璧な満足を目指すと、なにもできないので。
そこのところ、いい加減なわたしです。ご了承くださいませ。



ちょっと、リアル人のリアルな動きがわかると、微妙な気分にはなる。
ひとりひとりの、すべてのひとのご機嫌をとって、ブログを書くと、
オフィシャルブログみたいになって、そりゃ、プライベートじゃなくて、仕事の世界だ。
しかたないんで、人間関係、ねじれたまんまで、行きましょう。

「あ、これ、わたしのことだ」とお思いの方、数名いたりして。
そんなにたくさんのリアル知人に、このブログを教えてはいないはずだけれど。

いいことも、よくないことも、いろいろあるってことだ。




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一度でいいから、憧れのひとと・・・

2012-06-26 | わたし

ある方の小説を読んだ。

わあ、いいな。
こんなシチュエーション。

好きな人から告白され、交際がスタート!!
わあ、わあ、わあ。

残念なことに、そういう経験は、わたしは一度もない。
そして、今後、おそらく一生ないだろう。

きちんと告白されて交際がスタートする、という、至極、ちゃんとした、そういう交際。
別に順序がちゃんとしてなくてもいいから、せめて、好きな人とお付き合いしてみたい。
好きになってから交際・・・これが、一回してみたい。
死ぬまでの課題。夢として、とっておこう。

交際してから好きになるケースが多い。
好きでもないのに、普通は交際しないんだろうけれど、わたしの場合、おかしいのだろうか。
だって、好きな人は、交際してくれないんだもの。
ダンスと同じだ。
上手な人は、踊ってくれない。
ヘタな人しか踊ってくれない。

男女交際(この表現、すごいです)においては、おそらく似たモノ同士が付き合うのだろう。
憧れの人は付き合ってくれなくて、自分と同じレベルの分相応な人と付き合う。
なんか、小さくて、かなしいなあ。

歪んだ人には、歪んだ人がお似合いなのかなあ。
まともな人と付き合うには、まず、自分がまともな人にならなければならない。
(これ、ダンスと同じ。上手い人と踊ってもらうには、自分も上手くならないと踊ってもらえない)

昔、姉のだんなさんを見て、とても羨ましく思った。
いいなあ、こんな人が、だんなさんだったら。
でも自分は・・・
いやいや、レベルの高い人の相手は、やはりレベルが高い。
低いレベルの人間が高い人を羨ましがるヒマがあれば、自分も高まればいいのだ・・・・が。
向上する努力を惜しみ、低いレベルの者同士である自分を見て、
「我々は、割れ鍋に綴じ蓋だ」と無理に納得しようとする。
というか、相手に文句が言えないのは、努力しない、自分のせいだ。

それに、見方を変えれば、視点の転換で、ころっと評価が変わる。
横から見たら、Aさんの方がカラダが大きい。
でも、上から見たら、Bさんのほうが、頭が大きい(カラダは見えない)。
下から見たら・・・
斜めから見たら・・・

まあ、そんなもの。

あるいは、それぞれの得点を比較して、総合評価しようとする。
駅前の物件は面積が狭い。広いところは、高い。
交通が不便なところは、安い。築年数は、浅いほど高い。
面積、立地、価格、建物、それぞれをトータルに考えて、
自分でどれぐらいのお金を出して、どの物件を買うか、調整する。
それに、似ている。
自分が重きを置くものはどれか、妥協できないポイントはなにか。
逆に、目をつぶるものは、なにか。
優先順位をつけて、自分であれこれ考える。
(その時点で、純愛路線からすでに脱落している。
あ、これ、結婚を決める場合だった)


やっぱり、なんでもかんでも、自分に返ってくる。
自分が変わらなければ、人も変えられない。
自分が変わらないで、人に変わってほしいと願うのは、片手落ち。

人の恋愛を羨ましがって(たとえ、小説のなかのお話でも)
自分は努力しないんだったら、やっぱり、小説のなかで、自分の理想を昇華するのが楽。
でも、わたしは、ものすごく現実主義なので、恋愛ってよくわからない。
恋愛に対して、夢がないのだ。

感受性はあるが、努力と、智恵が足りない。
なによりも、やる気、根性がない。
試合が始まる前から、放棄している。

タナぼたで、恋愛がうまいぐあいに、転がり込んでくる、なんてことは、わたしに関してはありえない。
恋愛に関しては、語れない、かなしい人であります。わたし。
(だから恋愛小説は絶対に書けない)


ちなみに、今、書いている小説、純文学からエンタメに変更しようと思う。
安物の漫画みたいな展開になりそうなので。
しょせん、わたしは、恋愛ものには程遠く、
サッカリンをどばどば入れたお菓子か、味の素をがんがん入れた和食、
そんな作為的な話しか書けそうもない。

天然の素材そのものの持ち味を活かした、うす味で、奥行きがあり、十分おいしい・・・
のとは正反対だが、それも個性。

話は、戻って・・・
自分にはないものを小説で疑似体験できるなんて(方法としては安易だけれど)、ステキ。
ああ、わたしも、好きな人に告白されて、交際したい。
一生、無理。(あ、これ、さっき、書いた)

 

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神経が、ないのかもしれない

2012-06-24 | 日々のこと

昨日は、とてもお疲れの土曜日だった。

母と義姉とのランチの後、性懲りもなく、ダンスパーティに参加した。
ランチ終了は午後1時から2時ぐらいだと予想して、それからの予定を組んだ。
なので、家から、ダンスシューズとドレスを、大きめのバッグに突っ込んで行った。

ランチ(展示会つき)だけだと、せっかく都心まで出てきているのに、その後の時間がもったいない。
義姉は、その足で、義姉の実家に、お父さんのご機嫌伺いに向かったようだ。
我々世代は、やはりまだ、元気もりもりで、一度にいくつもの用事をくっつけて片付けてしまう傾向がある。

わたしの場合、2つでは済まず、3つも4つも、くっつけてしまうので、
帰宅した後、恐ろしいほどの疲労感に見舞われる。
帰宅して、ばたばたと洗濯物を取り入れ、片付けると、しばらくは呆然として動けない。
1日中、酷使した足が、めちゃくちゃ痛い。
靴が合ってない。
わかっていながら、そんな靴を選ぶ自分が、アホまるだし。

もう、そう若くないので、そのときは、よくても、あとのことを考えて、行動しないといけない。

昨日のパーティは、その場によく居続けられるなあと自分でも思うぐらい、さんざんで
もう、しばらくはパーティ休業宣言をしよう、と、昨日はこころに誓った。
が、今日にはもう、そんなことは忘れている。
回復力があるというか、執着心がしつっこい、というか、一度、走ると、激突するまで止まらない、わたしの性質。
とりあえず、その、わたしをひっぱってくれる、なんだかよくわからない、熱情、やる気に、
行けるところまで引っ張っていってもらう予定だ。

しかし、それにしても、わたしは、こころがタフだ。
どうタフかと言うと、誰になにを面と向かって、ショックなことや失礼なことを言われても、めげない、くじけない。
その場では、ちょっと、しょんぼりし、帰宅してからは、二度ともう行かない、と思うのだが、
また、再生力が働き、むくむくと、もとの丈夫な、厚顔無恥なわたしに戻る。
ゾンビか、ロボコップ。(→この例ばかりだ)

突き抜ける天然のヒミツは、ここにある。
恥知らず。この一言に尽きる。

こころが、ぼろぼろになるには、かなりのダメージがないと、傷つかない。
これを、無神経、とも言う。

そのかわり、自覚せずに、ひとを傷つけている可能性もある。
(極力、なにも言わないように、口をぎゅっと押さえつけているのだが、押さえきれないこともあるかも知れない)


人間には2通りある。

神経質なひとと、無神経なひと。
わたしは、明らかに後者だ。

長所と短所は、裏腹。表裏一体。
なので、無神経なわたしは、気遣いがない。ひとの痛みもわからない。
これは、訓練したり、学習したり、シュミレーションを繰り返したりして、身につけるしかない。
このままでは決していいとは思っていない。
なので、もっと自分を向上させるよう、努力しなければならない。
でも、その場にならないと、実際に体験しないと、ぴんとこない。

脳の神経の一部が、生まれつき、破壊されているのではないかと自己分析する。
神経がぴりぴりしてオーバーワークして破壊されるのなら、わかるが、
無神経というのは、もともと神経自体がない可能性がある。

なので、人工の補聴器やら、義足やらをつける、そんなノリで、
人工の神経をつけないといけないのかも知れない。
でも、自分に人工装置をつけるという、そんな気がないので、無神経のまま、一生を過ごすことだろう。

かなわない老人として、鼻つまみとなり、隔離された老後を過ごすことだろう。
それを覚悟して、人工神経をつけないでいよう。
それもさることながら、人工知能も装着しないといけない。

こんな話は、実際に肉親のことで困っておられる方がお読みになると、じつに神経に障ることとなるだろう。
気を悪くされたら、ごめんなさい、スルーしてください。


あいかわらず、好きなことを入力すると、こころ、さわやか、気分すっきり。(でも、ちょっと気にしつつ・・・)
詰まっていたものが、勢いよく通るような気がする。
小説チマチマとは大違い。

いま、雨が降ってきたようだ。
明日の天気はどうなのか、知らないが、明日も、いい日でありますように。

 

 

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苦しまぎれの墓穴掘り

2012-06-23 | 趣味

昨日、元、仕事仲間だった友人とランチした。
で、よせばいいのに、「わたし、小説、書いてるんよ」と、
言ってしまった。

なにが、小説、だ。
恥ずかしげもなく。
よくまあ、そんなことを言う自分が、恥ずかしい。

彼女が、子育てや、長年奮闘、挑戦し続けている国家試験のことなど、
近況を熱を込めて一気にしゃべり、わたしが聞く一方になったようで、
そのことを気にしてくれた。
気にしてもらっては悪い、と思い、自分のこともしゃべらなければ・・・と、
頑張って、プライベートなことを探した。
でも、社交ダンスのことなんて、きっとおもしろくもなんともないだろう、と思ったし、

そこで、出てきたのが、小説だったのだ・・・が。
後悔した。
あとで、彼女から、小説への(インターネットでの)入り口を問い合わせるメールが入った。
お教えしたが、ああ、あんな小説・・・恥ずかしいよ~~~
穴があったら入りたい気分になった。

第一、まだ、書き始めたばかりで、人に言えるような進み具合でもないのに。

まあ、いいか。
それは、それ。

こんなわたしの小説なんか読みたいと言ってくれた彼女に対して、
余りあるような、嬉しいような、照れるような、期待を裏切るような、そんな複雑な気持ちになった。

(はらはらどきどき、小説の展開で期待を裏切るのなら、たいしたものだけれど、
つまらん、しょうもない展開で期待を裏切りそうだ。
いや、ある意味、ほっとするかも)

まだ書いていない、絶望的・煮詰まり小説をネタにブログを書くわたしって・・・
梅干を目の前に置いて、味を想像しながら、ごっくん、すっぱそうな顔をして、ごはんを食べているようなもの?
隣家から立ち込める、スキヤキのニオイで、ごはんを食べているようなもの?

仕入れもせずに、売る物もないのにキャッチセールスをする、こんな商売は、あきません。


自分で自分の首を締めるのは、わたしの得意技。
そのうち、窒息する日も近い。

 

 

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いらっしゃいませ、と、叫んでも、客はゼロ

2012-06-22 | 趣味

今朝も早朝5時から起き、立派な行いをした・・・・・
なら、堂々と人にも言えるが・・・・

小説をチマチマいじっていた。
そのいじり方も、だんだん、ずれてきて、テンプレートのデザインとかも、ためしに変えてみたり、
ぜんぜん、違うところに、目が行っている。
(某・ご近所ブログ女史に、「それ、違うやろ~」と、ため息をつかれそうだ)

昨日は、ジムで、ラットのようにウォーキング・マシーンの上を歩きながら、
あらかじめ決めていた小説の大筋を、変えられないか検討していた。

で、ぜんぜん、まとまらず、直接、紙に書くか、入力して書き始めるか、
なんらかの具体的なことをしないと、アタマのなかで、ふやけているだけだ。

チマチマいじりも、なんだか、ふやけた部分が、ますます、ふやけただけになり、
ああ、もう、こんなの、いや!と、非常に精神衛生上、よろしくない。

せっかく朝、早く起きたのに、その黄金の貴重な時間を
NHKラジオ・フランス語講座の時間を気にしつつ、梅ちゃんを気にしつつ、出勤時間を気にしつつ、
有給をとって休んでいる娘の起床を気にしつつ、
どれも、半分、うわの空で、
そして、それらに犠牲を払っている、いちばんの元凶のものは、
ぜんぜん、ぱっとせず。

どれも、これも、だめではないか。

いちばんひどいのは、ラジオ・フランス語講座。
途中まで、説明と朗読を聴いていた。
本日は、ヴィクトル・ユゴー作品、ジャンバルジャンが主人公の「レ・ミゼラブル」。
いつも、ちんぷんかんぷんなので、べつに、どうでもいいのだが(惰性で聴いているだけ)
真ん中あたりで、いつもより、とりわけ、ちんぷんかんぷんぶりが、著しいなあ、と思っていた。

すると・・・なんだ・・・次週のテキストのページを開けていた。
(フランス語は、どっちみちわからないにしても)
そりゃあ、日本人講師の日本語すら、説明と合わないはずだ。
でも、真ん中にさしかかるまで、気が付かないなんて、かなり・・・というか・・・
これを「うわの空」と言わずして、なんと言う?

こころ、ここにあらず。

ここのところ、そういう状態が続いている。
どれも、中途半端になっている。
わたしの魂はいったい、どこへ行ってしまったんだろう?

今週は、あれこれあれこれ、一日に3分割ぐらいで、いろんなスケジュールが詰まっているのだが、
どれも、なんだか、うわの空っぽい。
というか、めんどうになっているが、どれも、一斉にくっつけて、やっつけている。

やはり、一日の始まりは朝にある。

朝から、わけのわからんことをして、脳を腐らせ、目を曇らせていてはいけない。

しゃきっとしましょう。
(と、キーボードを打つ指だけをぴょんぴょん、むやみやたらに跳ねさせてみても、まるで意味がないが)

わたしの真後ろ、背後には、有給・娘が、ダイニング・テーブルをはさみ、鎮座していることだし、
(彼女はこのパソコンの画面を正面に向いて座っているので、わたしは非常に落ち着きなく)
もう、本日は終了します。
そわそわ。

魚釣りで言えば、1日、釣り糸を垂れていて、一匹も釣れなかった・・・そんなかんじの朝だった。

商売で言えば、いっぱい仕入れたのに、ぜんぜん、売れなかった・・・そんなかんじの早起きだった。

 

 

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またもや、すぐに、こんがらがり

2012-06-21 | 趣味

感情移入って、なんだろう。

昨日のブログでは、なにげなく使った言葉だが、意味を考えてみた。

あんまりアタマを使わなくても、すらすら読める、ということ。
それを感情移入と表現したような気がする。
なぜなら、考えなくても意味がわかる、ということは、同じような考えやフィーリングを持っているから
いちいち翻訳ソフトを使って、言語の意味を自分にわかる表現におきかえなくてもいい。

わたしは、読書嫌いで、小説も読まないし、書いたことは、ほとんどないに等しい。
(ある、と無理に言ったとしても、つい最近、しかも、ほんのさわりだけ、しかない)

たまたま、わたしが読んだ小説も、小説初トライの方の作品。
なので、初心者コースなのかも知れない。
だから、読みやすかったのかも知れない。

読みやすい=感情移入しやすい
と捉えたが、単語や表現が、よく一般的に使われる、誰にでもわかるようなものなので、
読みやすく、立ち止まることなく読み進むことができる。

これは、あまり深く考えないで、勘違いしてしまう、擬似恋愛感情にも似ているのかも知れない。
やさしくされた=好き
みたいな。

よくよく考えてみると、感情移入というよりは、
読みやすい、意味がよくわかる、理解できる、というほうのウエートが高い。

主人公は、わたしとは正反対のタイプなので、
主人公の考えや行動に感情移入する、というには、なんかツジツマがあわないような気がする。
でも、自分は性格的には正反対であっても、
使っている言語が同じというか、同じ母国語を話すというか、同じ時代に生きてきたというか、
主人公のおかれている環境が、説明が加われば加わるほど、すんなりとてもよくわかる、というか、
説明されても、されなくても、わかっているというか・・・
・・・・・なんと言えばいいのか・・・

安心できるのだ。

(ただし、しつっこいようだが、わたしは、主人公と自分とは、おそらく正反対のタイプ)

あとは、主人公が、ものの見事に期待を裏切ってくれることなのだが、
優等生タイプのこの主人公が、はたして、期待を裏切ってくれるかどうか・・・
今後の行方を見守りたい。


さて、もう一方・・・

難解なものは、ハイリスク、ハイリターンだ。
読み手が、途中で挫折して、座礁して、木っ端みじんに砕けて、空中分解してしまうか、
あるいは、空に散ったはずの、砕けた塊りのひとつが、いつまでも、こころに残るか、
難解のまま丸のみして、時間をかけて胃袋の中で少しづつ溶けるか。
どれかだ。

読書も映画も絵画も、いろいろ鑑賞方法や感じ方は、人それぞれ。
その人にあった作品を、その人に合った鑑賞方法で、楽しむのがよくて、
統一された基準なんてない。

まったくの初心者が、まるでどこから手をつければいいのか、アプローチの仕方が皆目わからないという場合、
参考に、人の鑑賞方法を知る、という場合も大いにありえる。

わたしの場合、
こころに残る→そのはずが、しばらくすると忘れてしまう→でも、気づかないうちに身になっている
こころに残らない→素通り→わかってない
まったくわからない→心に残る

別の時期に見ると、別の見方をする、
別のアプローチ方法で、再発掘、再発見、再認識ということも、あるだろう。

ああ、アタマがこんがらがって、
これこれが、こうです!と、ちゃんと具体的に自己分析できない。

 

そうそう・・・
わたしの、へんてこ小説のことですが・・・

わたしのブログを知る、ある近しいリアル人、Kさんに
「小説、読んだよ。おもしろいね。あれ、私小説でしょ」
と言われた。

なんで、あれが私小説やねんっっ

「失礼なっっっっ」と、思わず叫んでしまった。
Kさん、あれは、ジョークですよね?

「もう、やめるかもしれない」
とグチったら、
「やめずに、最後まで書いたら」
とススメられた。
(気楽に、人のことだと思って・・・)

私小説だとおっしゃっていただいたKさんへ、
あなたの期待を裏切れるものが、書けるでしょうか?

自信ないです・・・

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自分の感受性は、おかしい

2012-06-20 | ブログ

人さまの小説を読むのは、気楽でいい。
ふたつとも、偶然、同じテーマだった。

そこで、思ったのは、読んでいて、感情移入できるかどうか。
主人公も書き手も、自分とは違うタイプだが、すっと感情移入できるものは、
安定感があり、すいすいすらすら、ストレスなく、安心して読める。

清涼飲料水みたいで、目薬みたいで、すっきりさわやか。
カロリーも高くなく、胃もたれもなく負担がない。

そして、もうひとつのタイプは、読んでいて、感情移入できない。
ひとつひとつの文章を意味を理解するのに時間がかかる。
主人公のやっていること、行動、どれひとつとっても、難解。

ふたつとも、設定は、ほとんど似たようなシチュエーションなのに、とても不思議だ。

わたしは、読書嫌いなので、あれこれ考えるのが、面倒で、けっこう、素直なひとなんだと気づいた。

すすすーっと入っていかないと、いちいち活字の意味を考えるのが、じゃまくさくなる。
きっと単細胞なのだろう。

でも、読もうという意欲、気力はあるので、
わかるところだけ、わからない部分をすっ飛ばして、わからない単語がずらずらの英文読解みたいに読む。
すると、さささーっと行は進むのだが、
知っている単語がたくさんでてきて、理解できる部分に到達するところまで行くと、
それまでの飛ばしたところの意味がわからない。
つながらない。
で、また、さかのぼり、もういちど、ほんとうに知っている単語はないのか? ほんとうに、わからないのか?
ちゃんと読んでみる。
前よりは、理解できるようになる。
まるで読解の宿題をこなしているようで、楽しいかというよりは、苦しい。

こんな、わたしのようなイージー脳の持ち主は、ついつい脳が省エネを考えて、難解なものは避けたがる。
読書に適していない、脳みそ値を露呈してしまう。

じゃあ、いっそ、と、ビジュアルに走ってしまう。
(映画だと、てっとりばやい。制作費は、ものすごくかかるけれど。BGMも効果絶大だし。
でも、まったく売れていない地味な映画も、じーんとくるものは、いつまでもこころに残る)

そして、なによりも・・・なによりも・・・

自分の書く小説のひどさったら。
夢も希望もない。あるのは、えげつなさ。(まだ、その展開の続編はアップしてないが)
(そのわりには、つまらない)
おそらく、アタマの中の、感性部分が違うんだろうなあ。

言えることは、いろんな感性があるってことだ。
わたしが、ひとの小説を読んで、いろんなことを感じるように、
ひとも、わたしの小説を読んで、好き嫌いを感じることだろう。
(それ以前に、最初の出だしで、もう読むのを放棄されるだろう)

テーマ、ジャンルにもよるだろうし、
媒体にもよるだろうし、読んだときの状態にもよるだろう。

書くのと、読むのは、違うし、
自分も書く人が読むのと、自分は書かない人が読むのでは違う。

それと、これが、いちばん、かんじんなことなのだが・・・

年齢を重ねて、もともと目は悪いのだが、さらに悪くなって、文字が読みづらい。
薄い色の文字は、特に読みにくくて、目を細めても、ぼんやりかすんでしまう。
ああ、かなしい。
プリンターは、いま、インク切れだし・・・。なさけなや。

早朝から、やり慣れないことをすると、目も悲鳴をあげるのだろうか。


意欲のある、みなさま、
まだまだこれからも、どんどんいける、みなさま、

がんばってください。

 

 

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