ああ自宅。
なんてのんびりのびのび、リラックス。
1人時間は最高だ。
本格的に老後になったら退屈なのかも知れないが、チビッコたちから解放された気分は言いようがなく、快適快晴。
ちなみに、わたしは雨をはじめとする自然の気象、天候恐怖症だ。
雨、コワイ。
昨日は帰りに立ち寄った湯葉うどんの店の最後時間あたりから、乗り込む電車駅に移動するときに、ポツリポツリから始まり、またまた一気に土砂降りに見舞われた。
お土産をリュックに入れていたが、お土産の紙製パッケージが染みとおる雨でズルズルになっていた。
自宅用のお土産ではなかったので涙目、ぐすん。
リュックの中も、びっしょり。
だが、帰れる嬉しさが濡れる悲しさを大きく上回った。
それはそれとして。
全く別の話を書く。
二日目の宿で孫たちとプレイした温泉卓球。
はじめてラケットを握る小学生低学年孫とは相手にならず、卓球台からはみ出して飛んでくる球をひたすら受け取る係となった。
だが、たまには、数回ラリーの応酬をすることもあった。
わたしは、実は中学の時、1年間、卓球部だった。
その一学年下に、当時かわいい愛らしい顔の、現在国会議員のボクちゃんがいた。
(これは蛇足)
あれから半世紀、ラケットを握っていない。
卓球初体験の孫たちと同じレベルかなあとドキドキしていたら、やはり昔取った杵柄、玉がちゃんと当たって、上手く返った。
やれやれ。
姉も中学から卓球部でそれ以来現在も市民卓球選手として活躍している。
(長女も元テニス部キャプテン、体育会系)
わたしは、1年で挫折してやめている。
試合に出る頃に、下手で試合に出るのが嫌でやめたと記憶している。
中学で次に入ったのがバスケット部。
これもたいしたこともできないまま、うやむやに中学を卒業。
なにをやっても挫折。
体育会系が向いていないのだろう。
高校では中途半端な文化部に2つ入ったが、ほぼほぼ活動もせず、帰宅部。
ああなんて、消極的な自己肯定感のない学生時代なんだろう。
中学では簡単に挫折したが、今ならなにをしても挫折感をさほど感じない。
そのかわり、苦しみと引き換えに得る達成感もない。
年と共に考え方が変わった。
視野が広くなった。
選択肢が持てるようになった。
こうでなければならない、という凝り固まった考え方をしなくなった。
学校と家庭しかない、他にはない、この自分が今置かれている道しかない、と逃げ道や出口がない中学時代とは違う。
まだ子供である学生さんはたいへんだ。
どんな家庭であろうと逃げられない。変えられない。
わたしは、当時は居心地の悪い家が好きではなかったので、行ってきま〜す、と家から出られたら、それでまあ気分転換できた。
出向く行く先は学校しかなかったが。
学校が楽しいわけでもないとしても、家よりマシだったかも知れない。
ふてくされて不良になる要因は抱えていたが、不良にはならなかった。
過去ブログにも書いたが、不良がカッコいいと思えなかった。
なぜなら、当時わたしが目にしていた不良たちは、落ちこぼれの学生だったから。
脱落した学生が寄り集まり、数でチカラを示していた。
1人では拗ねるだけだが、複数になるとマイナスエネルギーがプラスに転換できたような錯覚に陥っていたのだろう。
わたしは、不良たちがプラスではなくマイナスの要素を持つメンバーばかりだったため、魅力を感じなかった。
仲間に入れてあげるよ、と誘われても(誘われなかったが)、感覚的に合わなかった。
家も嫌、学校も嫌、クラブも挫折、塾も劣等生、、、よくこれで、不良にならなかったものだ。
親友はいたが、社会人になってからそれ以来、ぷっつり親交は途絶えている。
親友といっても、いつも一緒に行動して、遊んだり、自分の気持ちを吐露して憂さを晴らすだけの相手だったのだろう。
学生時代の友人なんて、そんなものかも知れない。
今までわたしは、挫折ばかりして、なに一つものになったことがない。
それでよく腐って不良にならなかったものだ。
自分でも不思議だ。
挫折するのがわたしのスタンダード、定位置か。
くよくよ落ち込まないが、弊害はある。
それは何ごとに対しても自信がないということ。
苦難を乗り越えたことがない。
成功経験がない。
かといって、腐ってはいない、自己否定もしない。
わたしはこういう人間なんだという自覚があり、べつにそれで罪を犯しているわけではない。
手に入れたいことがあれば、ちょっと手を伸ばして頑張る。
力が及びそうもないなら、策士になって策を練る。
ダメモトで、自分の欲求や、こころの声を聞いて、努力する。
脱落したり達成せず挫折したりを繰り返して自信喪失していても、七転び八起きの積み重ねは自分を強くする。
失敗や挫折にへこたれない精神、それは自信につながる。
なので、挫折もわたしの勲章の一つである。
あらま、そんな勲章ばかりだ。
ホンモノのトロフィーがない。
が、いいの、いいの。
夢見て頑張りたいと思う気持ちが大事。
トロフィーより、わたしは自分の欲求が沸き起こる、膨らむ気持ちを大切に思う。
なぜなら、何もやる気がない、したくない、何も欲しくない、食べたくない、見たくない、聴きたくない、、、
何の欲求も好奇心もなく、いたずらに時間だけが過ぎていくのは、次のステップのためのエネルギーチャージ段階ならともかく、自分自身に活力がある今の理想や目標としていない。
生きている限り、なんらかの心身共に動きが必要だ。
中学以来、幾度も挫折しても、大して何も感じなかったわたしは、相当な大器晩成型か、鈍感人間か。
自分に自信はないが、自信のない自分をひっくるめて自己肯定している。
いつの間に、自己否定から自己肯定へと逆転したのだろう。
自分を否定し続けても何も生まれない。
なら肯定しよう。
と、無意識に意識した日を境に?
そんな日、あった?
よくわからないが、挫折→自己否定→自己肯定→自信と、オセロゲームのようにひっくり返ったようだ。
深層心理の自己防衛本能から来るものか?
まあなんでもよい。
挫折の積み重ねは、別のわたしを生んだようだ。