蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

家庭の中の女性、家庭の外の女性 【3】

2009-03-31 | 仕事
社会の中は、複雑な面もあるが、ある面、単純な仕組み、構造にもなっていて、
同じような場所には、同じような人が集まる。
狭い範囲の自分の周りが全てだ、と思い込む人が多い。
そして、お互い、交わることのない層に対して、全く理解しようとしない。
別世界の、縁のない人々と捉え、視野の中に入らない。
異星人のごとく、無関心を貫く。

社会全体を見渡さない、自分の周りだけの小さな世界が、
全体にも通じると思っている人たち・・・
私は「マリー・アントワネット軍団」と名づけている。
マリー・アントワネットの実像には、いろんな諸説があり、
池田理代子さんの「ベルばら」では、いいかんじだけれど。
彼女は歴史のうねり、軋みに巻き込まれた被害者でもあるが、
ここでは、民衆の憎悪の対象となった、血税浪費のド派手生活をデフォルメして。
それと、お勉強が嫌いなところも。

自分と世の中の皆は同じではない、ということさえ、気づいていない。
閉ざされた社会に身を置いていると、見える範囲が限られている。
中でも、お金を稼ぐ必然性がなく、稼いだことがない上に、
お金の重要性を考えたことがないという、素晴らしい「ぬるま湯」は、
ものを見る目に大きな影響を与える。
(特別な心身上の理由がある人は別として)
もっと曇りのない大きな目で、世の中、世界を広く、深く、見渡して欲しい。

ぬるま湯から出ると風邪をひく、
自分を客観的に直視するのが嫌、
自分にとって、都合の悪いことには目をつぶる、
同じ環境の仲間と、どっぷり「ぬるま湯」を享受する、
まわりでワーワーおしゃべりしているだけで、本質には近付こうともしない。
その場限りの膨大な享楽時間を上っ面で楽しむだけで、
何かを考えている様子は、ほとんど感じられない。
わざと、考えていないフリをしているのか?
生活信条は、「何も深く考えないこと」なのだろうか?

曇りのない目で世の中を見ると、汚れたものも見える。
そのことで、純粋さが失われるわけではない。
いろんなものを知らないなら、知ろうとする姿勢も大事だ。
知った上で、自分の作ったフィルターをかけるのは自由だと思う。

人様には迷惑もかけていないし、攻撃もしていない。
自分を守って、どこが悪い。
まあ、それも人生。
人には人の道がある、とういうものだ。
他人があれこれ口出しするものでもないと思う。

が、私は、「世の中を知ろうとしない」方々は、苦手だ。


家庭の中の女性、家庭の外の女性 【2】

2009-03-30 | 仕事
ある日、テレビドラマを見ていたら
(実際のところは、見ていたわけではなく、テレビをつけたままパソコンに向かっていたら)
子供の世話を人に任せて、外で働くお母さんを激しく非難する男性上司が登場して、
言いたい放題。
「保育園の費用と同程度しか稼げないなら、家に居て、子供の世話をしろ!」
なんていうセリフも飛び出す。
(おそらく、脚本家は,女性だと感じる。)
働きたい「有能な」お母さん、
ハードな状況で孤軍奮闘しているお母さんが聞けば、頭から湯気が出るだろう。
それは、脚本家の狙いなので、挑発に乗ったら、番組制作者の思うツボだ。
わざと、狙っているに違いない。

仕事に取り組む姿勢は、男性と同じ女性もいるが、
逆に、女性であることを言い訳に、しっかり責任を持って仕事をしていない女性もいる。
(責任を持って仕事をしない、ダメ男性もいるが。)

大黒柱としてお金を稼ぐには、それだけのことをしている。
ほんのちょっと社会勉強程度に「お仕事」をして、お小遣いを稼いで、
「私は仕事をしているのよ! 家事を分担して!!!」
と堂々と家事の折半を詰め寄る人もいる。
夫に代わって、大黒柱として働ける妻は、いったいどれだけいるのだろうか?
(夫に働けない理由がある場合は別として)
「明日から、オレが家事するから、お前が働いてくれ」
と言われて、喜んで選手交代をする妻は、どれぐらいいるだろうか。

突然、働けと言われても、キャリアを積んでいない場合は、夫と同じだけの収入を得るのは困難。
例えキャリアを積んでいても、夫と同レベルの能力があるかどうかも、重要ポイント。
(これは、仕事を続けていようが、結婚していなかろうが、個人レベルで歴然とした違いがある。)
一旦、家庭に入って、また働き出したとしても、
家庭との両立を図り、仕事内容や、時間、収入面で、
あくまでも家庭に力点が置かれることが多い。
そのプロセスがあるのに、夫と急にバトンタッチしても、ハンディがある。
しかし、家庭に入ることを決めたのは、自分の意志なんだろうから、
自分の取った行動の結果は、自分で受け止めなければならない。

口いっぱい平等を掲げて権利を主張するのも
男女の区別なく働けるようになるまでの、道のりのひとつであるなら、応援もしよう。
そうなるには、厳しい仕事を男性同様、こなさなければいけない。
重圧にも耐えなければならない。
家庭での理解、協力、バックアップも必要だ。

男性と肩を並べて働くというところにまでたどり着く、能力、忍耐力、やる気がない理由を、
女性だから、家庭があるから、とういことに摩り替えている人を見ると、うんざりする。
確かにハンディを乗り越えて、頑張り抜くのは、並大抵のことではない。
ハンディのせいで、乗り越えられない壁もある。(ハンディは、家庭の事情を抱える男性にもある)
しかし、乗り越える前に、ハンディ以前のところで、自分自身を甘やかす女性もいる。

(つづく)

家庭の中の女性、家庭の外の女性 【1】

2009-03-29 | 仕事
家族のために・・・・
そう思って、一生懸命頑張っていることは、実は、自分のためだったりする。

家族のために、家を美しく整え、美味しいご飯を作り、衣服を整え、
完璧なハウスキーピング。

きちんと規律正しい生活。
子供の学校への提出物や忘れ物もない。
完璧、完璧、完璧。
家族は、気持ちよく、清々しく家庭生活を送ることができる。
まさに主婦の鑑。

これは、専業主婦でなくても、時間や体力のない人でも、
人の力、お金の力を借りればできるとも言える。
それどころでないギリギリの生活をしている家庭にとっては、
また別のところに問題が山積されているが。
それはそれで、子供は逞しく育っている例もある。

昨今のマスコミは、
専業主婦は、「外で仕事ができない人」という扱いが多くなってきている。
「無職主婦」。
「奥様」は、奥にいなくなり、「有閑マダム」は死語化し、
もはや憧れの対象ではなくなっている。
「自分の力で行動する女性」が、注目を浴びる。

もちろん家庭の事情で、働きたくても働けない人もいる。
働きたくなくても、働いている人もいる。
自分の事情で、働けない人、働きたくない人、反対されても働く人もいる。
働くのは、息をするのと同じで、なんの意識もせずに自然体で働いている人もいる。
かたや、働かないことに、なんの疑問も抱かない人もいる。
世の中、いろいろな家庭があり、いろんな人がいて、一様には、言い切れない。
だが、話が広がりすぎると、焦点が絞りきれなくなるので、論点がぼける。

仕事と家事との両立に疲弊した有職のお母さんを見て、
専業主婦に憧れる若い女性も増えたとか。(揺り戻し復古現象)
中には、専業主婦のお母さんに憧れて、専業主婦を希望する娘さんもいる。
経済能力のないお母さんを、働かない社会性のない人だと憐れみ蔑んで、
自分は自立の道を目指すケースもある。

(つづく)

こころの手当て

2009-03-25 | 子育て
胃の激痛に襲われた。
定期的に訪れる、あまりの痛さに自分で胃の上から手のひらを当てて、そっとさすっていた。
それを見ていた娘が、言った。
「そもそも『手当て』という言葉の語源は、手を当てるということにあるんやで」
ふうむ、手を当てて、手当てするわけだ。
そういう意味があるのか。
この歳になって、初めて知った。しかも娘に教えられ。

仕事仲間のGさんに、話の流れで、手当ての語源を(受け売りで)教えてあげた。
そこで、Gさんは、お腹が痛いときに、よくお母さんにお腹をさすってもらった、
と思い出を話してくれた。
もう随分前に亡くなっておられるお母さんの記憶が、すっと出てくるところが泣かせる。

そういう時、私は母ではなく、別の人(子供の頃同居していた、世話をしてくれたTさん)を思い出す。
幼い頃、母親に実際に直接なにかしてもらった記憶があまりない。
(私は、いたって健康のため、病気や怪我をほとんどしなかったせいでもあるが)
一般的には、お母さんに、やさしくしてもらった原体験が源になって、
人としての優しさが、育まれるのだろう。

帰りの地下鉄で、そういう母子のことを想像してたら、涙がポロリ。
恥ずかしいから寝たふりをした。
いよいよ終点駅で、たまっていた涙がこぼれ落ちて、ダウンコートの襟にポトリ。
シミになったら困る・・・な。

母親経験者としては(ただし、及第点すれすれの)、大して何も思い入れがないことや、
さほど深刻にやってないことでも、あれこれ口に出して、子どもに接していることがある。
結構、気ままに。
子どもの受け取り様も、十人十色。
Gさん母子は、ほのぼの、いい組み合わせ。
私は全然だめだ。まるで漫画だ。
幼いときに子供が何気なく書き残したものを見ると、私はかなりいい加減な説明を子供にしている。
幼い子供は、それをまともに受け取っている。

一般的に、男の子は特に、母親にはすごく強い愛を感じているようだ。
ただし、行きすぎはよくない。
マザコン男性を夫に持つと、うんざりする妻が多いのはよくわかる。
妻は、夫の母親にはなれない。
ただし、息子には無条件で無償の愛を注ぐ。みなさん、そんなものだろう。
そして、マザコン2世を無意識に創り上げる。
スパイラルは繰り返される。

妻に母を求めるのが所詮無理。夫に父親を求めても無理なように。
私は夫の母親にもなれず、夫に私の父親にもなってもらえず。
マザコン&ファザコン。
二人とも未熟。大人として落第。
いまだに我々の親が、子供(とっくの大昔に成人)の未熟な分を補完して、どうにか保っている夫婦。
いい歳をして、親孝行どころか、まだ二人とも、それぞれに高齢の親に甘えているのだから。
そんな未熟な両親に育てられた子供たちは、いったいどんな家庭を持つのか。
また、親の過保護スパイラルが続くのだろうか。

私が、子どもに対しても夫に対しても、
素晴らしい愛情あふれるお母さんになれる頃は、きっと、私は棺桶の中。
馬鹿は死ななきゃ治らない。

自分は、こんな未熟な母親。また、私の親から見れば、いつまでも未熟な子供。
私は、子供をはじめ、家族にあふれるほどの愛情を与えていないように思う。
母親が存命のうちから、母親の愛をひしひし感じて育っている人は、
こころ優しい大人になっていると感じる。
大概の人は、親孝行、したい時には親はなし、なのだ。

家族にあれこれ期待する以前に、自分がちゃんとしないと話にならない。




はじめまして、マツゲさん。

2009-03-23 | ご近所さん
前々からバス停で顔をよく見る、ご近所の、うら若きお嬢さん。
彼女を初めて見た時は、超ミニスカート。
歩く度にプリーツが揺れ、黒い下着が見え隠れする。
本人はきっともう一枚、下にはいているから気にもしないのだろうけれど、
見る側としては、いきなりパンチラ(→死語)では、
何枚はいていようが、一枚きりであろうが、やはりビックリする。

そのお嬢さん、今まで一度も顔全部を見たことがなかった。
いつも真っ黒の大きなサングラスをして顔がわからない。
目の整形手術でもしたのかな、と思っていた。
1年を通して、快晴の日も、雨の日も、濃い、真っ黒いサングラス。
背中まである髪は、まんだら金茶。
ミニスカートじゃない時は、お腹や腰の見えるジーンズにピンヒールが多い。
いつも黒の大振りのトートバッグを肩にかけているが、バッグは他と比べると地味め。

今日は、サングラスをしていなかった。
彼女を知って、かれこれ1年以上になるが、初めて顔を見た。
そうっと見る、緊張の一瞬。
わ、目の回りが、まっくろ。
つけまつげ、長いのと、短いの、2つはしている?いや3つ?
ニューハーフショーでも、あそこまでしないのでは?
大衆演劇の「女形」?(歌舞伎ではなく) 
おんなの目ヂカラ、とどまることを知らず。

前回に私が、自治会班長のお役が回って来た時、Uさんという人が自治会長をやっておられた。
Uさんは彼女のおばあちゃんに当たる?
Uさんのお宅からいつも出てくるから、おそらくそうだと思う。

会長職は、抽選で決めるのだが、くじで当たってしまったら、
適役であろうがなかろうが、1年間は、自治会に振り回される酷な役。
自治会の進め方などについて、キツいことをバシバシ言う男性会員もいるが、
ご高齢で女性なのにもかかわらす、Uさんは、けなげに大役をこなしておられた。
あのUさんのタイプと、お孫さんのタイプがあまりにも違うので、
ひょっとしたら、お孫さんを引き取っておられるのか、学校の関係で下宿させているのか、
想像は尽きない。

親の顔が見たい、とまではいかなくても、おばあちゃんの顔は知っている。
まあ、そういう私も、若い時は、「いったいどんな親?」と
ジロリとご近所おばさんに、見られたこともある。
面と向かって、「あなた、どこの子?」と言われたこともある。
若いってことは、そういう季節なのだ。


桜咲く、人生。いいな。

2009-03-22 | わたし
この時期、新聞の下段に載っている広告に、合格速報!!みたいなかんじで、
各予備校の合格者 顔写真一覧が載っている。

私は、それぞれの各予備校、ひとつひとつ、
顔写真、名前、出身高校、合格大学&学部を念入りに見てしまう。

別に知り合いが受験したわけではないのだが、ついつい熱心に見る。
どこを見るかというと、そのバックボーンを含む、バランス。(ほとんど私学だが)
そして感じることは、
頭脳明晰かつ眉目秀麗、才色兼備。
つまり、一人の人物が、秀でた長所を一人でいくつも独占していること。

一昔前なら、
優秀難関校&学部に受かる生徒は、運よく、生まれつき端正な顔立ちだったとしても、
いかにも勉強オンリーという人が多かったように思う。
でも、今、みんなの爽やかな顔を見ると、
屈託のない明るい笑顔のなかには、
勉強の妨げになるものは、一切シャットアウトし背を向けるどころか、
むしろ自分を自由に表現するセンスのよさを感じる。
オシャレに敏感だ。
髪型ひとつにしても、随分、手をかけていそう。

なのに、そういう難関校&学部にスイっと合格する余裕。
私とは正反対のところに棲息している人種ではあるのだけれど、
あっぱれ!!と感激してしまう。

なかには、ぼさっとしている人がいても、入学後やこれからの人生において、
自信をつけたりして、洗練されていくことだろう。

頭が良くて、カッコイイ(可愛い、キレイな)人。
これほど輝くものはない。
単にカッコイイだけ、キレイだけも、それはそれで素晴らしいが、
年齢とともに容色は衰える。
中身が必要だ。
これは、年とともに、積み重ねていけるもの。

真っ暗な洞窟から、卑屈に歪んだ目で見ているのではなく、
少々薄暗いのは仕方ないかもしれないが、そういう場所から、
「素敵な人たちだなあ・・!!と私はエールを送っている。


ここからは、蛇足です。


そう書くと、いかにも無理してそうに見えるだろうか?
そんなことない。絶対に。
心の底から、評価、応援している。
無理なんかしていない。
などと、力みながら、そんなことを気にしていること自体が、
コンプレックスのかたまりなのかも知れない。
まあ、まだ死ぬまでには、時間はたっぷりある。
気長にコンプレックスとお付き合いしよう。

生まれつき、はるかに違いがあること(資質)に対して、
あれこれ言っても、仕方ないこと。
上にいけば行くほど、その悩みや努力も、大きくなっていく。
期待や課せられたものの大きい人は、それなりの重圧に苦しむ。
壁にぶち当たった時、どう乗り越えるか。

素晴らしい人には、素晴らしい分だけ、苦しみも大きい。
さほど秀でていない人は、秀でたことによる苦しみは、それほどでもない。
「自分」はこの世でたった一人。
自分にとって、「自分」は掛け替えのないもの。
そんな自分と、どう向き合っていくのか。
自分を慈しむバランスが大切だ。




突然、までの時間。

2009-03-21 | わたし
一昨日夜、帰りに、自宅の最寄駅ホームで、バタンという音。
見れば、60歳代ぐらいの女の人が仰向けに倒れていた。
駅員さんが初動しているところだった。
女の人はホームに仰向けのまま笑顔だったけれど、そのまま起き上がれなかった。
私と年代こそ違うけれど、他人事ではない。
全く元気でも、何が起こるかわからない。
明日は、我が身。
今日の無事に、感謝。

元気だからこそ出来ること、やらなくっちゃ。
今のうちに。
そのうち、なんて思っていると、状況が変化して、出来なくなることもある。

義母は、旅行も温泉も、お誘いしても、もう行きたくないと言う。
風邪を引かないかとか、自分の身体に自信がないから、行っても不安が募るだけだそうだ。
不安があっては、なにをするにも楽しくない。
都心へのショッピングなどのお出かけも、負担らしい。
家(敷地)の中と、せいぜい半径3キロぐらいの範囲の中での行動が、気疲れもしなくていいとか。
年とともに段々そうなっていく。
行けないのではなく、行きたくないのだ。
行きたいのに、行けない、では、辛いだろうが、
自分を守る傾向から、自然に、行きたくなくなるようだ。

そうやって、自然に行動が枯れていくかのごとく、
だが、毎日の楽しみの内容も変化していく。
草花など、自然との対話。信仰を通しての、自分との対峙。移ろい行く、季節の味わい。
旧き友との語らい。ご近所との他愛無い、ほのぼのした交流。まわりを慈しむ心。

そんな風に行動範囲が狭まるまでには、今の私にはまだ相当な時間が残されている。
せめて、まだエネルギーがあふれる元気なうちは、
行きたいところに行って、やりたいことをやっておきたい。
(ただし、財布と相談しながら)

枯れたときに、たくさんの思い出を胸に、心の引き出しから一つ一つ取り出して、
ニヤニヤしていたい。
その、ニヤニヤのモトを、彩り濃く、ひとつでも多く創り、
頭と心のCDに、焼き付けたい。

ブログが、いっぱい ②

2009-03-17 | わたし
うららかな陽光に、春の気配を感じる。
素晴らしい季節なのに、床暖房依存症は、まだ続く。
そんな春うらら。
ある件で、インターネットで手続きなどをしようとパソコンを立ち上げる。
あらあら、あら。
予定の用事もこなしてないのに・・・、するすると、波乗り。
画面から目がが離せない。
「勉強しようとすると、机の掃除を始めるタイプ」、そのままだ。

いろんな人が、いろんなブログを展開している。
数え切れないほどのブログの中で、双方向にご縁があることは滅多とない。

ただただ一方的に、読むだけのブログ。
ほとんどのブログが、そうだ。
ごくたまにコメントを付けたくなる時もある。

最初は興味本位でも、徐々に疎遠になるものもある。
久しぶりに訪れてみたら、もう長い間、更新されていないものもある。
パソコンを立ち上げると必ず訪れるブログもある。

私が日課のように訪れるブログは、
ご本人がちゃんとした生活を送っておられるのがわかるもの。
私にないものをしっかり持っておられる人。
どこかに共有するものを見出せる人。
ただ、私は、「お気に入りブログ」などを載せないので、
ちょっとそのあたりが、ブロガー同士、円滑な連携プレーをしない傾向にある。

それは私が、協調性がないこともある。
あれこれ綴りながら、考えをまとめる、自己満足の世界。
自分一人で完結している。

自動検索でヒットする数も結構含まれているのだろうけれど、
アクセス数って、なんだか、おもしろい。



食育 ケース バイ ケース

2009-03-15 | 子育て
私自身は「家族が作る、家庭の味」と、「家族ではない人が作る、家庭の味」と、
「プロの味」で、大きくなった。
舌感覚への影響は、ごちゃ混ぜになった感がある。

さて、こんな私だが、自分の子供たちへは、どういう影響を与えたか?
私は、ものすごく生まれ年月のくっついている年子がチマチマ3人いたので、
一番下の子は、義母が生後3ヶ月~1歳まで、遠方にある義母の家で育ててくれた。

私は、見知らぬ土地で、自分一人で二人の乳幼児の世話をしていたので、ふーふー。
義母は、自宅で、一人プラス何人かの手を借りて、一人の乳児の世話をしたので、余裕。
私は、どうにかこうにか生活するのが精一杯。
食事も、適当。スーパーで売っている離乳食をそのまま食べさせた。
時には、既製品を加工、アレンジしたりもした。
義母は、懇意にしている魚屋さんが卸市場で仕入れする時に、同時に頼んで、
新鮮な魚を取り寄せ、毎日、トレトレ魚で作っていた。
ダシもちゃんと、かつおと昆布でいつも一からとって、
人工添加物のない、100パーセント、純正な食べ物で、下の子を育ててくれた。
真ん中の子も、1歳になるまでの頃、時々、義母の家で面倒を見てくれた。

三つ子の魂、百までも。
手抜きVS熱心  既製品VS手作り  添加物入りVS天然もの
さて、その結果は? 成果は?

手抜き離乳食の長女→何でも食べる子に成長。好き嫌いなし。
不味いものでも食べることができる代わり、美味しいものも、さほど感動せず。
純正食品の次女→好き嫌いあり。和食党。でも和菓子は嫌い。濃い味は苦手。
単純なものが好き。同じものばかりでも、単一でもOK。ジャンクフード大好き。
ブレンドタイプの真ん中(長男)→小さい頃は、食べられないものがあったが、
知らないうちにクリアー。何でも食べる。一人住まいの食事は自分で作る自炊派。
素材の持ち味を大切にする。調理法など、原点に戻る自然派志向。

長女が小学校一年の時、給食参観日があった。
彼女はパンを一口か二口で、ぎゅぎゅっと口に詰め込み、静かに席を立ってトレーを返却し、
残った時間をひとり、涼しい顔で本を読んでいた。
その間、口に詰め込んだパンを少しずつゆっくり、口の中で、もごもご食べていた。
宇宙食みたいな食べ方をしている、と、ある意味、不思議な感動を覚えた。
すごく合理的な行動をする子だ、と思った。

純正食品育ちの次女の小学校生活では・・・
教室の机の中に古いパンが何個も詰め込んであった。カビのはえたものもあった。
その他プリント類といっしょに、押し合いへし合い、詰め込んであった。

ブレンド型の長男は・・・
幼稚園のお弁当給食の時、給食を載せたトレーを持って、
どこに座ろうか、おろおろ、泣きそうな顔。
食べることよりも、別のところで本人は苦労している様子。

実証パターンとして上手い具合に、3例あったので、とても分析しやすい。
結論としては、各自、個人差によるものが大きいように思う。
1歳以降のあとの長い期間、育成歴が3人とも同じなので、
記憶に残らない乳児期の食べ物が違っていても、ほとんどその影響には差がないように思う。

うちの場合、必死で取り組んでも、適当に取り組んでも、
結果はあまり変わらなかった、ということだ。
こんないい加減なデータは、なんの役にも立たないか?




グルメって?

2009-03-14 | 読む人々には興味ない話
良いもの、悪いもの、美味しいもの、不味いもの、
手間がかかっているもの、手抜きのもの、
素材で勝負しているもの、技術で勝負しているもの、
希少価値のあるもの、ないもの、高いもの、安いもの、
どれも食べたことがあるし、食べることができる。

美味しいものは美味しいと感じるし、不味いより、美味しいほうがいいに決まっている。
栄養のバランス、味、食感、組み合わせ、旬の材料、素材、見た目、量、鮮度、
調理法、ctc…
そういった要素の総合的判定基準は、自分なりに持っているものの
例え総合点数が低くても、別に絶対的な大きなこだわりは持っていない。

ということで、私は多少の個人的好き嫌いはあるが、許容できる範囲が広い。
それをきっと「グルメではない」と言うのだろう。
まして、自分で作るものなら、基準点数はうんと甘い。
(自分で作れないのに、家庭料理にあれこれ文句を言う人は、嫌いだ)

グルメを追求するにも、家庭では共働きで時間がない人に、手の込んだ料理は無理だし、
子供が小さいのに、手間暇のかかるメニューは大変だし、
何世代分もの料理を担当している大家族の人には、複雑なものは負担が大きいだろうし、
予算があって、一番削りやすいのが食費だとすると、予算上妥協はやむを得ないし。
予算、時間、材料、仕入れ、嗜好、力量など、制約を受ける要素がたくさんある。

最も尊敬するのは、家庭料理に精進している人。
手抜きをせずに、工夫して、愛情かけて家族のために、作るお料理は本当に素晴らしい。
それが、私には欠落している。
子供に対する「食育」も、ちゃんとできていない。
優先順位は、①栄養 ②バランス ③早く出来るもの 
で、味は重要度合いランクが低い。(料理がヘタなだけだが)
家庭内で「美味」を味合わせてあげていない点が、反省ポイントだ。

グルメ追求を趣味としているご夫妻もいる。
予算と相談しながら、仲良く、食べ歩き。
それはそれで、いい趣味だと思う。

つまり私は、生きていく上で、最低必要条件である意味での「食糧」は最重要視するが、
享楽、趣味という側面では、柔軟性があるということだ。
この柔軟性こそが、妥協を許してしまう、味の追求者にはなれない
「グルメではない」ということなのだろう。
あれこれ、考えていると、うーーん、、、
「グルメではない」のと、「味オンチ」とは、別のものかも・・・と思えてきた。

今のところ、私はアルコール類においては、味オンチなのかも知れない。
でも、ビールは、アサヒスーパードライ、焼酎は、断然、麦、
食パンは、フォションやドンクが好きだし・・・などなど、
それなりに好きな傾向が定まっているものもある。
とは言っても、芋焼酎も飲めるし、150円のスーパーの食パンも食べるし、
状況に応じて、何でも食べる。

美味しいものがあれば、喜んで食べるし、なければ、なくてもまあいい。
美味しいとラッキー、美味しくないと、美味しくないなぁと感じながら食べる。
ただ、それだけ。
別にそれほど、こだわらない。
年がら年中、美味しいものに囲まれていなくても
たまに、美味しいものを食べると、日常と、非日常のメリハリが楽しめる、
というW効果がある。

ということで、ワインに対しては味オンチ(目下、修業中)
その他のジャンルにおいては、単に許容範囲が広い「グルメではない」人なのだろう。
味への沸点が低いのかもしれない。