せっかく榊を飾るのだから、入れる神具もキレイに洗って乾かした。
人工榊のため、水に触れると錆びるらしく、榊立てに水を入れるのはNG。
更に、人工榊は曲げたり伸ばしたり、自在に形を作り変えられる。
面白い。
ウィッグ(人工ヘア、かつら)みたいなものか。(→違う)
そして、お久しぶりの神棚とご対面。
何年ぶりだろう?
現在、住んでいる家を新築して以来だから、23年ぶりか。
埃も被るはずだ。ごめんね、カミサマ。
カミサマ、ほったらかし、ネグレクト。
ではあるが、虐待はしていない。
受け入れたまま定位置に鎮座しているわけだから、雨風には晒されていない。
廃棄されても文句は言えない状態。(誰が誰に文句を言う??)
(ちなみに、廃棄する時は、現職の神主さんがいる神社などで炊き上げてもらわなければならないとか)
そもそも無神論者のわたしの家に、なぜ神棚があるか?
しかも、建て替える前の古い家の時、昭和の時代から(かれこれ35年前)、わたしの家に鎮座している。
建て替えと共に、神棚も一時一緒に移動して、また新築の家に収まった。
この神棚、何が入っているのか、何を祀っているのかも知らない。
わかっているのは、誰かのお下がりではなく、まったく新品の状態で(神具店で購入されて)うちにやって来た。
買ったのは、姑。
(この流れは、安易にご想像いただけると思うが)
息子(夫)の家に置く、息子一家の幸せと安泰を願ってのものだ。
善意のかたまり。悪意など1ミクロンもない。
だが、設置された息子の妻は、、、無神論者。(他の宗教の信者ではないだけ、摩擦が少ないからマシ)
その時、断ればよいものを。
「お義母さん、わたしは無神論者なので、へんに扱いを間違っては神聖な神様を冒とくすることにもなりかねないので、神棚は辞退させていただきます」
と、なぜ、言わなかったのだろう。
当時のわたし。
まったく何にも考えていなかったのだ。
時限爆弾でもない限り、「置いてね」と持って来られたら、すんなり考えなしに置いた。
孤児を受け入れる里親のごとく。
特別に過激な、悲劇を生む新興宗教でもない、神代の昔から日本人には身近に慣れ親しんでいる神様なので、拒絶反応は起きなかった。
ただ、受け入れたからには、ホームステイ先のホストファミリーのように、ある程度の世話をしなければならない。
にもかかわらず、鍵は持たせ、門限なし、友達を連れて来るのも友達のところに泊まるのもよし、長期留守も認め放題の超放任ホストファミリーは、いかがなるものか。
信頼をベースに緩やかに繋がっているかんじか。
まあそういう高貴でお偉い居候(→不謹慎)と長年、同居していた。(現在も尚)
居ることは知っていたが、関与しなかった。
夫の実家のカミサマ・ホトケサマに振り回されて、自分の家は二の次。
というか、何もしないことによって、メリハリをつけてリラックスしていた。
緩急、動静。
で、待ち時間は終わり、さて、今からが本番、本腰!
かというと、そうではない。
わたしは、もう本腰は卒業したので。今は余生。
ということは、余生こそ、カミサマホトケサマとお付き合いし、あの世への待合室に待機するのは、間違ってはいない(はず)。
義務から解放され、何もすることがなくなると、究極の自由エネルギーは、人の幸せを祈るのかも知れない。
なら、ボランティア実践でもせよ、ということだが、自分が出来る範囲のことをしたい。
被災地に出向いてお手伝いしようにも、体力のなさからストレスを溜め、倒れたりしたら、かえって周りに迷惑をかける。
それなら遠くから寄付するほうが、まだ役に立つ。
昨夜、NHK TV「クローズアップ現代」で取り上げられていた「遺贈」なんていうものも、あるそうだし。
ただし、もしお金が残っていたら、の設定。
遺贈するために、がむしゃらに節約するのは本末転倒。
と、話は相変わらず脱線している。
さして信仰心もないわたしが、姑に35年前に寄贈された神棚を、ちょっと埃を払ってもう一度、見てみようか、という話。(延々と続いている、、、)
しかし、神棚のお社の中には、どこの、どんな神様が入っているのだろう?
知らないで、ずっと神棚が我が家にあるところが、なんとも言えない。
わたしをはじめ、夫や子供たちも絶対に知らない。
(夫の実家ではない)我が家に神棚があることすら、知らないだろう。
聞こうにも姑はあの世だし、今度、こっそり、お社の中を開けてみよう。
せっかく今までおとなしくしているカミサマが気を悪くして、バチが当たるか??
そもそも、神棚は長くても20年に1回は、新しくするのが良いそうだ。
古い神棚は、神様の力が弱っているとか。
ということは、あまりご利益は、なさげ。
話は変わるが、
今ふと思うのに、精神的に、やっと夫の実家から親離れ出来た兆しではないかと。
雛に餌を運んだ親鳥は、巣から出て行ったが、残った雛は、親鳥が残していった餌が巣の奥に、フリーズドライになって、まだあったのを発見したようなかんじか。
踏襲するのもよし、手を加えるのもよし、改良するのもよし、捨てて一新するのもよし、
なんでもよし。
たたき台があると、それを見本にして、考えを修正したり、見直したり、改善したり磨いたりしやすい。
あるいは、取り止め、廃止することもある。
たまたまこの度、人工榊を購入したのは、生協カタログに載っていて目についたから。
何げない、ふとした思い、行動である。
ではあるものの、核家族として、親から離れて35年も経ち暮らしていると、親離れし、自立、独立した新しい自分を水面下で、かたち作っていたのだろう。
もう高齢者なのに、今頃自立って、かなり時間がかかっている。
それは、ある程度、目に見えない力でマインドコントロールされていたからではないかと想像する。
昔からの価値観を、自分で考える余裕も時間もなく、押し付けられている。
その長年の圧力、押し付けからの脱却ではないかと推測する。
それにしても、長い。
20や30歳ぐらいで親離れするはずなのだが、なんと2倍、3倍の時間がかかっている。
それだけ従来の価値観は重く強いものだったのだろう。
35年前から我が家に鎮座していたものの、祀られてはいなかった神棚。
そこに、人工榊が偶然仲間入りし、35年前の神棚から、ピヨピヨひよっ子神棚魂が誕生した。
まだひよっ子のため、成長しないで立ち消えるかも知れない。
人工榊は、人工なので枯れることはないが、埃をかぶることは大いにあり得る。
すわ、ひよっ子魂、誕生お祝いか、と威勢づいても、また元通りの、埃をかぶっただけの神棚になるかも知れない。
明日のことは想像できても、1年後、10年後はわからない。