蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログ音痴

2021-02-27 | ブログ
ブログというものは、本当に千差万別。
で、自分のブログを一番面白がっているのは自分。
他のブログは、いつも読むのは、たった2つだけ。
あとは、ブログ村エッセイ部門の中で、稀にタイトルに惹かれて読むことがある。
が、閲覧数が記事内に書かれていたり、公表設定になっていたりして、その閲覧数を知る。
あるいは、いいね!などのリアクションで、皆さんの反応がわかる。 

わたしは、もともと、ひとり遊びが大好きなので、他の人の閲覧数が多いブログを読んでも、ちっともこころが動かされない。
なぜ、こんなに多くの人々が反応するのか、全くわからない。
琴線に触れないし、あまり興味もない。
だから、ブログは読者こそが千差万別の目を持っていると思う。

そう言いつつ、自分のブログへの反応にはあまり興味がない。
が、他のブログへの反応を見ると、首を傾げる。
もちろん、反応の多さ、影響力の大きさに納得のいくブログもある。
が、そうでないものを見ると、気が抜ける。
あるいは、自分が皆んなとは違う感覚を持っているとのだろうかと思う。
多数派ではないようだ。
そう強く思う。
わたしは感覚が世間の皆様とは少しズレているようだ。
ピントがぼけている。
面白いと感じることが、多数派の皆さんとは異なる。
わたしにとってのピントは、世間の皆さんのピントとは違う。 
お互い、違う、合わない。
時々、わかってもらえないと感じて虚しく哀しくなることがある。
が、べつにわかってもらわなくてもいい。
わからなくてもいい。
で、孤立してしまう傾向にある。
孤立感を感じる時は、こういう時。
何度も言うが、自分のブログに人気がないのは全然平気なのだが、閲覧数が多いブログを読んでみると、いったいどこがいいのか、さっぱりわからない。
難儀だなあ。
(超人気ブログは、わかる、納得できるが)

そんなことを書いても何の役にも立たないのに、わざわざ書いて、解せぬ気持ちの空気抜きをしている。
これこそ、つまらないブログの極め付け、典型だろう。
ほんとに。
自覚症状あり。


低迷

2021-02-26 | 日々のこと
蝶ブログ閲覧数、連日激減。
ブログをスタートした頃の勢いで?少ない。
教育ネタは人気がないようだ。
育児とセットにすると尚更。
蝶ブログにお立ち寄りくださる皆さん、もうとっくに子育ては卒業されていると想像するので。
しかし、コアな方だけが殊勝にも来てくださるようだ。
読者さんによるブログ断捨離?
一番大事なところだけ残ればよいと思っているので、閲覧数さえ、もうわたしのこころやアタマにはあまり影響を与えない。
とは言いつつ、gooユーザーサービス「アピールチャンス」が回ってくると、やっていることをほったらかして、急いでアピール作業にかかる。
しかも、登録時間切れ、タイムアウトを知ると、がっかりする。
いつ死んでもいい、と言いながら、咳の一つでもすると医療機関に駆け込むかのごとく。


ちなみに、子育てと教育、自分の体験をベースに書いているため、益々共感を得られないことだろう。
問題提示として、困窮家庭や、シングルマザー家庭、DVやネグレクト、社会病理をはらんだ家庭、、、そういう家庭の子供たちの受け皿やヒント、導きには全然なっていない。
髪の毛を染めてはいけない校則も、自由な私服の学校には存在しないだろう。
髪の毛を染めても問題ないかも知れないし、元から金髪の生徒や、国籍の違う家庭の子供さんもいたりする。
といってもインターナショナルスクールでもないし、帰国子女向け学校でもない。
自由な校風といっても、手に負えない生徒を野放しにするのではなく、個性豊かな生徒の能力を伸ばす、そういう自由。
中学入学時には既に受験を経験した子供たちではあるが、入学後も緊張が続く場合と、大らかな場合がある。
能力自体が大きいと、のびのび勉強するが、まだ花開かない段階の能力キャパシティに詰め込み式に、ぎゅーぎゅー盆栽みたいに強制的に形作る場合もある、、、。
手取り足取り教えて業績を伸ばす学校もある。
今は、ひと昔前とはまた違うので、傾向も違うように思う。
昨今の最新事情がよくわからない、ひと昔前のわたしが書いても、そりゃあ面白いはずがない。

と、それはさておき。
なんと、これ、前置きだったの?
長っ!

今、夫の実家のリフォーム構想に、長女と取り掛かっている。
だが、長女が育児休暇が明けるまで、カウントダウン状態なので、お尻に火がついている。
夫が姑亡き後、リフォーム希望の意思を示すものの、わたしひとりでは、一向にラチがあかないため、長女が乗り出した。
力強い味方ではある。
長女は今後の別荘がわり、遊びや遠征拠点に利用しようという魂胆。
さてさて、どうなることやら。


元教育ママゴン

2021-02-24 | 子育て
楽しいのは、どんな時?
わたしは、自分が楽しめる文章を書いて、何度も読み返してニヤニヤしている時が、愉快。
外から見ると、最高に不気味だろう。
究極の1人遊び。
自分で作って、自分で遊ぶ。
友達がいなくても平気。なんともない。
とか言いながら、寂しがりなんだけど。

姉は小学生の時、友達がいなくて、休み時間は図書館に籠っていた。
図書館中の本、全部を何周も何回も読んで、読む本がなくなっていたそうだ。

わたしは、、、と言えば、小学4年の頃に友達と家に集まり、GS(ザ・タイガースのファン)のレコードを聞いたりして、担任の先生に呼び出されて注意を受けた。
そういうのは、ダメなんだそうだ。
変なのー、先生、なに言ってんだあ?と思いつつ、まじめに素直に先生の指導に従った。
不良になるかも知れない芽は、早くから摘むのだろうか?
レコードで不良になったら、えらいことだけど。
ミュージシャンは不良の成れの果てなのか?

最近、髪の毛の色が茶色なのは、教育指導上、良くないから染めろ、と学校に言われ裁判を起こした女子生徒がいる。
髪の毛の色が天然か否か?が裁判の争点?
半世紀も前、わたしが高校の頃は公立校でも私服、私立でも私服の学校があった。制服でもオッケー。
経済的ゆとりのない家庭の生徒は、制服を着ていたそうだ。
それと、ダサい子。服を選ぶセンスが欠如しているため、制服。
あと、「ダサい」など価値観の範疇に存在しない、ダサいセンスの子も私服。
こっちは、貧富の差は関係なかった。
高校の時から私服だった子は、大学で一斉に皆んなが私服になると、すでにセンスが洗練されていて、ひとつアタマ、抜きん出ていた。
制服校出身の子は、初めての私服通学なので、最初は服選びに戸惑ったようだ。
だが、その後の歩みでまた変化する。

わたしは制服校で良かった。
私服は、なにかとめんどくさい。
学校に行くまでの時間を服装選びで煩わされるのが目に見えている。
こんな年齢になっても、行き先はスポーツ系でも、UNIQLOヘビーユーザーでも、悩むのだから。
(ただし、UNIQLOはアウターには着ない主義)

半世紀前の当時、私服の学校は問題があったか?
私服オッケーなのだから、髪が肩にかかると束ねろ、なんて校則も当然存在しない。
ガチガチに縛り付けるのが教育指導だとすると、自由な学園に転校させたい。
と言っても、今のわたしにはそんな年齢の子供はもういないが。
孫たちは公立校。その後はどうするのか知らない、関与しない。
わたしは教育ママゴンだったが、今の教育はまた違うようだ。
子供3人を全員、東大理3に入れた母親の本がベストセラーとして書店に平積みにされたものを目にした。
その類は昔からあり、現在、精神科医?として活躍されている人のお母さんも過去に書いていたような、、、。
今回、(表紙だけ)目にした本は子供3人とも同じ大学、同じ学部ではツマラナイかも?
偏ってないか?
と、捕らぬ狸の皮算用。
そんなこと言ってる暇があれば、週末に控える案件に向かって整理整頓、掃除でもすれば?と、自分に言われそう。

「自分のことだけしてね」と、身近な師(長女)に言われている。
これは、人の役に立とうとして失敗してかえって迷惑をかけるな、という意味。
器以上のことはするな、無理はするな、ということだろう。

「人のことはいいから、まず、自分のことは自分でしてね」
なかなか良い大人に成長してくれた。
乳幼児を含め4人も子供を抱える、猫の手も借りたい多重タスクの渦中の長女に諭されるなんて、、、ねえ、、、
期待されない身の軽さ。
でも、あちこち目移りして気が散って、自分のことぐらい、、、が、なかなか出来ないものである。

書きたいのは、こんなことではない、けど

2021-02-22 | 日々のこと
「花束みたいな恋をした」。
映画鑑賞後、アタマに次々と浮かぶあれこれ。
恋だけに限定しなくても、広義でセオリーが詰まっている。
同棲後、出来婚で出産、子育て、環境は移り変わる。
それまで興味も接点もなかった、保健や教育のことなども身近な問題として関わっていくことになるだろう。
色んな局面から変化していく。
恋だけを取り上げて、純粋培養するには滅菌室に2人で籠らなければならない。
仕事や人生への取り組み方も変わっていくだろう。
お互いが良い刺激として、あるいはライバルとして、同志として、進んでいくのもよし。
恋ごころは持続しなくても、別の愛に変化するだろう。
変化するまでもなく、氷が溶けてなくなるように、消えて、自然消滅もあるだろう。
恋だけで持ち堪えるのは、よほどの逆風でもないと、順風満帆は、飽き、倦怠、隙間風につながる。
いつまでもいつまでも、ラブラブなんですー、なんていうカップルもいるようだが、わたしは疑いの目を持って見ている。
何かが、欠けている、あるいは、追求が緩い、理想が低い。
ハードルをうんと、地面すれすれにしたら、長持ちするかも知れない。
それも有り。
へんに痛く破綻するより、最初からあまり求めなければ良い。
理想を追求してはいけない。

映画ストーリーのネタバレになっては良くないが、、、
ずっと一緒にいたいから結婚しよう!と同棲相手からプロポーズされるものの、その理由を聞いて、ロマンティストの相方は首を傾げる。
恋が消滅した今、別れが次に待っているだけなのは嫌だから、それを避けるために結婚しよう!と。
まあそれも良いと思うけど。


胸が張り裂けそうに恋い焦がれる相手は、絶対にオナラなんかしない。
したら、幻滅。
ゲップもダメ。
これでは暮らせない、生きることが出来ない。息も出来ない。
別々に暮らすと良い。
オナラしたい時は、自分の家に帰ってすれば良い。
メデタシ、メデタシ。

恋は幻想。
現実を見つめ、受け入れると、恋は恋ではなく、愛に変わる。
「恋愛」は、「恋」と「愛」がくっついた言葉。
人間愛、動物愛、地球愛、親子愛、同志愛、みたいな○○愛があり、その中で「恋」愛なのだろうか。
恋愛にも、異性愛、同性愛、色々ありそう。

恋は、麻疹みたいなもの?
ブームみたいな、一過性。
ハイテンションになる分、必ず落ちる。
脳のイタズラか?

「○○に恋してる」なんていうのもあり、○○は、チョコだったり、好きなアーティストだったり、大好きな空間だったり、流行りのものだったり、、とても好きだ、熱中している、という意味に使われることもある。
安易に平凡に説明してしまうと、なんの面白みもない。
浅く薄く軽い解説など、無いほうがマシ。

ちなみに、好きになるより、好きになられる側のほうが楽である。
少なくとも恋の苦しみは無い。
だが、厄介な相手と関わると不運である。
何ごとも用心するのに越したことはない。
自分の人生は自分で守らないと、誰も守ってくれない。

しかしながら、、、具体例を一つも出さない文章の、なんとツマラナイことか、、、。


身近な師

2021-02-20 | 日々のこと
最近のわたしの師匠は、長女である。
少し前は、指揮官だった。
今もその要素は持続したままであるが、近頃は、師と仰ぐような発言に感銘を受けるようになった。
知らなかったこと、気づかなかったことに啓蒙され、衝撃を受ける。

とは言っても、たいそうなことではなく、わたしの視野が狭すぎるのだが。
ぼんやり、ぼーっと生きている。
彼女は、わたしとは26歳違い。
つまり、わたしが26歳の時に産んだ子である。
しかしまあ、負うた子に教えられ、とはよく言ったものだ。
わたしの人生経験より、彼女のほうが濃いように思う。
子供の数も負けたし。(わたしは3人、彼女は4人)
彼女は同時に複数のタスクを正確にこなすため、わたしの数倍、成し遂げる行動が多い。
わたしは、同時になにかすると、ドジを踏む。

娘自慢をしても何の自己満足にも繋がらないし、自分が生きてきたことが無駄ではなかった、自分は(頑張ってないなりに)頑張った材料、物証にする気はさらさらない。
過去の出来事ではなく、今のわたしの役に立つ、気づきを与えてくれ、これから生きる日々にプラスになるという、至って実用的な喜びである。

で、師匠の直近の名言。
その言葉に背中を押されて、新書を一冊購入した。
本はamazonで古本か、ハードカバーから文庫本になってから買うもの、あるいは図書館で借りるもの、と、わたしは思っていた。
財布の口が硬いというか、口無し財布の持ち主だ。
なんで、あんなに高い、出版されたばかりの本を買うのかわからない、、、と思いつつ、とても刺激的な本を立ち読みして、このまま立ち読みはしたくない、と感じた。
が、高い、、、。
が、面白い、、、。
しかも、最初のところ数ページを読んでしまっている、、、。

買おうかどうしようか迷っていて、その時、側にいた長女に相談した。
彼女は古本は買わない主義だそうだ。
まあ、それは好き好き、好みだろう。
ではなぜ、高いお金を払うのか?その意味は?
師匠と弟子の問答は続く。

「高くてもお金を払うのは、その作家にまた良い作品を書いて欲しいから。
応援の意味もあるわ。
そして、出版業界、本屋さんに少しでも利益が出るように、業界を応援するということもあるね。」

おお、そうか!
その説明がすーっと理解できて腑に落ち、感激した。
わたしは、その本を大事に胸に抱えて書店のレジの列に並んだ。

大事にしすぎて、家に帰ってからまだ1ページも開いていない。
たぶん、わたしの読書元年になることだろう。
ありがとう!長女!

と、ここで終われば美しい話なのだが、、、
これとは違う、わたしへの、長女の的を突いたキツイ言葉には身も心もズタズタになっている。
(内容は割愛)
が、全て正解なだけに、自業自得感を味わうのみ。
キツさ、イタさに痛、痺れている。


花束みたいな恋をした

2021-02-19 | 日々のこと
いきなりだが、、、
どうでもいいことに熱中出来るのは、幸せだ。
人とシェア出来なくてもいい。
が、やっぱり人のとの関わりは欲しい。
勝手なものだ。

ところで、、、
ダンス関連のある人。
今、はまっているアニメを次々紹介してくれる。
わたしは全く興味なし。
原作の小説も同時に紹介してくれるが、まるで素人、小説同好会の投稿のようで、レベルが低すぎて付いていけない。
無料でWEB公開されているものの限界を感じる。

全て隅から隅まで、端から端まで、全く趣味が合わない。
ジャンル、レベル、テイスト。
そのほうが摩擦がなくていいかも知れない。
ピッタリだとかえって、めんどくさい。

話はころっと変わって、、、
恋愛のメカニズムの解説書のような映画を観た。
「花束のような恋をした」。
菅田将暉は、お目々がかわいいなあ。

純粋な恋とは、成就しない恋なのではないかと思う。
成就すると恋ごころは変化、変質するようだ。
恋はお終い。
何事も「無常」。(無情ではない)
これはわたしが常日頃から思い、考えていること。

しかしまあ、人間は欲深い生き物だ。
と、したり顔で解説するほど、経験値が高くないわたしだ、、、。


雪のち快晴

2021-02-17 | 人生
今朝は雪がチラホラ。
2番目孫のマラソン練習があるので見に行こうかと思っていたが、中止になったようだ。
お昼過ぎにはお日様が顔を出したけれど、寒い。
今、16時だが、しっかり照って明るい。
雪の分を取り返すかのごとく。

ちなみに、趣味関係の人物、共通話題は趣味以外は天気しかない。
ため息、、、。
全世界的に共通だ。

午前中は、何もせずに、ほんとうに何もせずに、ぼーっとしていた。
たまに陽が照ると、認知症予防や近視など目の病気予防に良いと言われる日光を窓越しに浴びた。
ひょっとすると認知症、発症?と言われても客観的には何の申し開きも出来ない、その姿。
こころの中は錦です!と言ったところで、実証する証拠はない。
気分を実証する必要はまるでないのだが。

認知症ごっこをしているつもりが、ほんとうの認知症に差し掛かり、もはやボーダレスになっているかも知れない。
あるいはマーブル状か?
認知症になっても、火の始末や、お金、重要書類の取り扱いだけは、脳とこころに鍵をかけておかねば。
しかし、あと20年は心身ともにもってほしい。

認知症の人の家族は本人の意思確認なしで預金を引き出せるように制度が緩和されるらしい。
現制度では、成年後見人だかなんだか、ややこしい手続きを経なければならない。
2025年には認知症の人は700万人、2030年には預金が215兆円に及ぶとか。
そりゃあ、ほっとけない。
政府も手を打つわけだ。
国民の預貯金が1200兆円あるだとか聞いたことがあったのは、随分前のこと。
いったい、いつのこと?と笑われるかも知れないが。
国債などの発行による借金もたんまり。
差し引きすると、どうなるのか?
よく知らないが、コロナ関連で財政は未曾有の大ピンチは誰しも想像できる。
どうなるのだろう、、、。
ワクチンも現実として実際に動き出したようだし、トンネルの出口は見えたと思えるが。
しかし、まだまだマスクが消える日は遠いと感じる。

全く何の役にも立たないわたしではあるが、あと20年の間に自分が出来ること、ある意味、自分の使命みたいなものを遂行しようと考えている。
もちろん、皆んなの邪魔にならない、迷惑にならない、そして、何らかの意味があること、そういうことを為したい。
趣味などのお遊びではなく。
趣味は趣味で大事な役割を果たす。
車が走るガソリンの役目。
(あ、これからは、EV車かな?)

一日、ぼーっとして考えたが、一日の前半と後半では内容、テイスト、温度が違った。
ブログを書くとなんだか締まるような気がする。
考えを文字に起こすと、きゅっと考えがまとまるような、、、方向性が見えるような、、、。

わたしは著しい激しいスロースターなので、構想に20年かけ、実際に行動に移すのは21年目ぐらいだったりして。
まあいい。
21年目に、突然、やっぱりやめよう、と中止するかも知れない。
でも充実の20年となり、あっという間に過ぎるなんてことになると、意外に楽しいに違いない。

何かしても、何もしなくても、そう変わらないとわたしは思っている。
何もしない一生、人生なんて、と後悔したり軽蔑されたりするかも知れないが、人には人の道がある。
社会の役に立つ、あるいは社会を大きく変えた偉人は確かに尊敬に値する。
偉人は、偉人になりたくて偉業を成し遂げたのではなく、高い志のもとに行動したら、偉業となり、偉人となった。
当時としては、変人だったかも知れない。
時代の先端を行き過ぎて異端児と見なされることもある。
時代が味方するか、しないか、は、運が大きい。
デッカいことをして世間をあっと言わせたいという発想、モチベーションは、わたし個人としてはあまり共感を覚えない。
順番が違う。

で、それがどうした、という話になってきた。
ブログを書いていたら、時計は進み、もうじき17時だというのに外は明るく青空。
少し前なら、夕方になるとすぐ真っ暗になっていたのに。
自分にも言えるかも。
間もなくすぐ終わる、終わり支度をしなければと思っていた人生は、まだまだ暮れずに明るいのかも知れない。

過渡期?

2021-02-15 | 無題
本日の写真はコレにした。
なんとなく楽しそうだから。
どこだったんだろう?
国内だとは思うけれど。
ちょっと暗くてピントがボケている。
え?わたしのこと?
いえ、違います。
わたしはボケていても暗くないので。

さて。
最近はUNIQLOのヘビーユーザーになっている。
その理由としては、日々の行き先が晴れ晴れしい華やかな場所や公式の場ではなく、スポーツ系に移行しているから。
着心地よく、快適である。
何よりも、コーディネートをあまり考えなくてもよい。

ユニラーになって思うこと。
自分の背景は完全にリセットされていると感じる。
そして、趣味、嗜好なども無色透明化されたようなかんじ。
人との違いはただただサイズだけ。
色も違うが、同じデザインのため、テイストにはそう影響はない。
あとは、定価で買うか、価格限定期間にお安く買うか、それだけの違い。

つまり、その人自身、「本体」だけの違い。
年齢、性別、背が高い、低い、太い、細い、身体の特徴と、あえて言えば身体能力の一端が出る。
颯爽と歩くか、猫背でノロノロ歩くか、など。
経済事情や肩書きなどは、一切関係なく、横並び均一、平等感を感じる。
UNIQLOなら全国津々浦々どこにでも店舗はあるし、行けない人はネット販売されているし、価格もお手頃。
たた、ユニラー同士は値段がよくわかる。
お互い憧れることも嫉妬することも珍しがることもない。
階級社会ではなく、平等社会のよう。
あくまでも見た目だけ、服装だけに言及しているが。
目に見えない、深層、水面下のことはまた別である。

ではあるものの、全国、全世界均一衣料品を日常的に着用するようになってから、なんだか、コミュニティのユニフォームのような、そんな気もしている。
趣味でご一緒しているAさんは、隅から隅まで、すべてUNIQLO。
練習着、普段着、その他すべて。
1シーズン、着て着て着て着たおして、摩耗すると、新しいものを買っている。
まさに消耗品。
着るものだけではなく、食も、amazonで売っているモノも全て。
amazonでは、アニメやゲームなど、物質ではないものも多い。
わたしとは少し価値観や生活様式が違うが、所詮他人なのでどうでもよい。
接点は趣味分野だけでよい。
理解できない他人を理解するためには良い教材になっている。

何でもかんでも、じっくり味わったりしないで、ひたすら、ばばばーっと猛スピードで消費するAさん。
わたしは、味わうタイプ。
まさに正反対。
趣味以外には、まるで共通点はない。
それが趣味を持つことの面白さかも知れない

なので、趣味以外でご一緒することは絶対にない。
全く合わないから。
時間を共にする意味がない。
Aさんのご家族の方々は皆さん同じ価値観で行っているとしたら、世の中には色んな価値観があるということ。
自分と同じ価値観の人とだけガッチリ固まって生きるのも摩擦がなくて良いかも知れないけれど、価値観が合わない人たちも存在していることを知るというのも、ある意味、より自分の人生が色濃く充実するような気もする。
あくまでも違う価値観の存在を知るだけであり、シェアは出来ないが。
自分と違うものを否定するのはおかしいということは分かる。
違うもの同士、シェア出来ないのはお互い様だろう。


ちなみに、
人と違うことがしたい、人と同じは嫌、という人がいる。
わたしは、人は人、たまたま同じなら別にいいんじゃないかと思う。
唯一無二のはずが、いくつも世の中に存在していて、全然、独創的、スペシャルではなかった、というのも、別に悪くはない。
悪いと言ったところでどうしようもない。
唯一無二のはずの特色を自分がやめて人に譲るのか、自分以外の人が譲るのか。

仕事で「世の中にまだ無いものを作れ」という指令を受けているならまた別だが。
平凡は嫌という人、何故なんだろ?
たまたま自分が好きなものが、汎用品、平凡なものだったなら、それでよい。
既製服に身体のサイズがぴったり合うなんていうのは、経済的でよい。

と言いながら、ダンスでドレスがカブる(誰かが同じドレスを着ていると)と最悪で最大に不快だが。

皆さん同じでもいいと言いつつ、自分は自分、唯一無二だ、なんていう変な自負がある。
UNIQLOは着るけれど、特別なものではなく皆んなと同じでも問題ないと思える、それぞれ、個の自分を確立している。
でも他人にとっては没個性の人間に映るかも知れない。
しかし、個性って?
では、没個性って?
個性が無いほうが、逆にすごくインパクトがあり目立つのでは?


人のことを気にしすぎだ、とある人に言われるが、その人は、気にしなさすぎて、自分がどんな位置にいるのかわかっていない。
自分を知るための他人との比較。
奢ったり、落ち込むためではなく、自分はどの辺りにいて、課題は何か?
知ったほうが目標や努力のポイントが絞れて効率が良いと思う。

しかしまあ、、、こういう風に、何度も同じことをブログでツラツラ綴って、面白がっているのかというと、そうでもなく、、、自分に言い聞かせているように思う。
言い聞かせる意味は?
別に言い聞かせる必要はないのでは?

最近、わたしは、おばあさんになって、人間の中身の変わり目、節目なのかなあと、、、思ったり。
年齢、人生ステージの過渡期か。
きっと、どなたからも共感は得られないと感じる、、、。


おばあちゃん

2021-02-14 | 人生
とりあえず、写真を先に選ぶ。
これ、どこ?
まだまだストックはたくさんあるから、わたしがブログを止めるまでは持つと思われる。
新しく撮るのもストックが追加され、選ぶ楽しみが増える。

さて、と。

今日ふと思ったこと。
今のわたしのアイデンティティは?
かなり昔、30歳代の頃、わたしって何?と随分悩んだものだ。
母でも妻でも嫁でも主婦でもない自分を探して仕事をし始めた。
自分探しのワガママのせいで、わたしの周りの皆さま方には、ご迷惑をおかけしたことだろう。
おかげさまで、還暦も過ぎ、自分探し旅は終了し、今度は別の世界へ旅立つ日を迎える準備期間となった。
導きは自分教みたいなものが指針となりそうだ。
ナビゲーターは、自分。

で、今のわたしが一番しっくりいくアイデンティティは、、、
おばあちゃん。
わたし、「おばあちゃん」やってます。
主婦でも嫁でも母でも妻でもない、「おばあちゃん」。
「祖母」と書いてもよいのだが、「おばあちゃん」のほうが、字から来るイメージがやんわりしている。
年齢だけでいくと、年配の女性は、おばあちゃん。
孫がいる女性は、おばあちゃん。
血縁関係があると、おばあちゃん。
良い響きだ。

明らかにひと昔前のおばあちゃんとは、1世代違う。
シニア世代だけではなく若者も中年も全体に20歳は若くなっている。
美空ひばりや小林旭なんていうのは、わたしのイメージでは85歳ぐらいだ。
実際には美空ひばりはもっと若くしてこの世を去った。
現役モノクロ映画に出てくる小林旭は、リアルタイムでは知る由もなく(趣味、嗜好の違いで)今の小林旭はまあ世界中からバッシング真っ最中の森さんぐらいの歳のイメージか。

医学が発達し、それとともに社会も成熟して、若さをキープできるようになった。
というか、熟さない人が多いかも。
年齢相応に歳を取らない。
良い意味でも悪い意味でも。

まあそれはそれとして。
早々、おばあさん席に座ると楽である。
わたしは、おばあさんがいい。
のんびり。
職業欄としては主婦ではなく、「おばあさん」というものはないかなあと。
肩書きは「おばあさん」というのがしっくりする。
「おばあさん」は、お仕事していたりしてもよい。
一応、まだ心身ともに自立しているおばあさんである。

ちなみに、
知人で、はやく孫の顔が見たいと強く願っている人がいる。
娘さんは二人とも独身。
孫の顔、、、物理的に見るだけなら、見れないこともないだろう。
だが、棚ぼた式に、ベルトコンベア式に年月を重ねたら孫が生まれる、という単純なものではない。
遠く離れた所に住んでいる孫なら、LINEやリモートで会話もできるだろう。
離れていると寂しいかも知れないが、すごく気楽でもある。
実際のリアル孫はまた違う。
喜びの分だけ負担が大きい。
良いとこ取りは、なかなか難しい。
しかし、どんなことでもそうである。

苦は楽の種。
楽あれば苦あり。

アップダウンの繰り返しで、旅立ちの日まで上がったり下がったり喜怒哀楽。
そうやっていると、その日まで、あっという間なんだろう。


イメージ

2021-02-13 | 日々のこと
さてこれ、この写真は、ちょっと暗い。
海外かと思いきや国内のよう。
うーん、どこだったんだろう、、、。
写真を先に選ぶと、中身はそれに合わせようとする気持ちが働く。

が、気にせず好き勝手に書く。
今日は陽気ぽかぽかなのに、真冬向けの、ぼってりした長めダウンコートを着て出てしまった。
あ〜あ。
服装が合わないと、結構わたしは不快になる。
自業自得ブーメラン。

ちなみにわたし、お腹がちょっと割れている。
ぶよぶよなのに、なんだか凹んでいる部分がある。
インナーマッスルトレーニング、5ヶ月目、その影響のようだ。
ヘンといえば、ヘンだ。

ところで、昨夜、NHK教育テレビ、シニア向け番組「明日も晴れ!人生レシピ」を見た。
40代女性の3人に1人は尿もれで悩んでいる!が、テーマ。
ゲストの森三中の一人、お笑い芸人女性、勇気があると感じた。
自分の病状を告白していた。
男性MC、これまた女性の身体や尿もれについて詳しく説明していたが、サラッと話すのは大変かなと思った。
出演者、まわりは、全員女性。
賀来千香子さんは神妙な顔で医師の話を聞いていた。
自分もそういうことは、あるとも、ないとも、ないことはない、とも、何も絶対に言わなかった。
イメージダウンにつながるし。
賀来千香子さんは嘘をつくようなキャラに見えないので、イエスともノーとも言わないのは賢明な答えだと思う。
仮に、そんな症状がないなら、「今はなくても、今後のために役立ちます」と言うだろうし、
症状があれば、「わかります、わかります、経験あります」と言うだろう。
何も言わないということは、、、どちらにも取れる。
まあ、なんでもいいんだけど。
と、どうでもいいことを延々書いてしまった。

で、その番組で、漏れないためのトレーニング方法が紹介されていた。
熱心に見入っていたせいか、いつもは必ず明け方近くにトイレに行きたくなるのに、今朝は大丈夫だった。
精神的な影響は大きいようだ。
見て役に立った。
めでたし、めでたし。

て、自分は症状があるのか、ないのか、書いてないが。
イメージ重視。
賀来千香子さんと同じだ。