蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ルートヴィヒ2世

2024-12-18 | 趣味
困った。
毎日、歯磨きをするように、ブログ更新をしないと、どうも落ち着かない。
つまり、質の悪い、限りなくどうでもいいことでも、アップしてしまうということ。
あ、全編そうかも。
まあいい。

ちなみに、わたしはルートヴィヒ2世のファンである。
「豊臣秀吉の大ファンです」と言っているようなものか。
例として、徳川家康ではなく、豊臣秀吉にしたのは、わたしの中ではわかりやすいから。
文化的に視覚的に嗜好的に具体的に、目に見えやすい。
歴女でもなんでもない、高校時代の日本史は惨憺たるものだったが。

深く知らないミーハーレベル。
漫画「ベルサイユのばら」(作者・池田理代子さん)や、宝塚歌劇のファンだったわけではない。
コミックは発売と同時(1972〜1973)に、当時、リアルタイムで読んではいたが。
(姉が熱烈な漫画オタクのため、毎週各少年少女コミック誌をレンタルしていて、ついでにわたしも読んでいた)
美しいものなど、ぺらっと劇の上側をなぞるか、ストーリー性を追いかけるだけだったとは思うが、歴史の断片を少女漫画で知った。
わたしの年代の女性は多かれ少なかれ、通る道。

ずいぶん前に、まだTSUTAYAが近所にあった頃、ルートヴィヒの映画をレンタルした。
再生して観ると、ところどころ切れたり、ザザザーっと不鮮明になったり、有料でよくこんな状態のビデオテープを貸し出すなあ、、、と驚いた。
だが、わたしの記憶は、モノクロ。
ビデオ状態が悪すぎて、ザザザーっから連想して間違えて覚えているのだろうか。
はたまた、ヴィスコンティ監督よりも前の映画だったのか???

ルキノ・ヴィスコンティ監督。
(1906【明治39年】〜1976)
他の映画もぜひ観たい。ぜひぜひ。
日本で言うと、黒澤明監督(1910【明治43年】〜1998)のようなものか。
いや、わたしの中では全く全く全く、まるっきり違う。
同じなのは、2人共、昔の時代の映画監督なところと、血統の良さ。
貴族(ヴィスコンティ)と武士(黒澤明の祖父)。

しかしなんでまた、ヴィスコンティ監督に惹かれてしまうのか。
なぜ、豊臣秀吉ではなくて、徳川慶喜(1837〜1913)でもなく、ルートヴィヒ2世(1845〜1886)に惹かれるのか?
時代はさほど大昔ではなく、幕末から明治。
お城も中世などではなく、比較的、新しい。

時間が止まったような閉ざされた世界でしか生きて来なかった田舎者のわたしには、魅力が詰まっている。
田舎の家に現存している数々のモノは、江戸末期の時代が繋がっていることを語る。
しかしながら、同じ時代でも洋の東西の違い、さらに庶民と国王とでは雲泥の差。
その、国を滅ぼすほどの建築費をかけたお城。
そんな傾国の美女ならぬ、傾国のお城で育つと、一体どんな感性になるのだろう。
興味津々。
耽美派の父親の影響を受けて更に超耽美派になった、その具象化がノイシュヴァンシュタイン城なのか。
というか、それはさておき、わたしの感覚からすると、やはりお城にしては新しいのだ。




12年という年月

2024-12-11 | 趣味
今日は、趣味の社交ダンスパーティに行った。
ここのところ、またパーティ参加が復活している。
京阪神を中心に関西全域から社交ダンス愛好家が集うパーティ参加は、もう12年になる。
12年前から顔だけ知っている人々。
さすがに最近は、親しみを感じる人には自然に笑顔になったりする。
皆んなも、全員12年分、同じ年月を経て歳をとった。
おや、と思う人もいる。
12年前より老けた人。当たり前だけど。
あまり変わらない人が、ほとんど。

素敵だと思っていた人が、劣化しているのを見ると、ひょっとしてわたしのこころのせいで、そういう風に見えるのかも知れない、と思ったりする。
12年という年月は短くない。

※写真は、記事とは関係ない、先月の鳥羽駅。

やる気なさを自覚した

2024-11-13 | 趣味
紹介してもらった英語アプリ、内容がちょっと簡単すぎるが、あまり難しいと勉強が続かないだろうから、あんなものでいいかと。
かたやもう一方で、自分で見つけた素晴らしい英会話アプリは、無料期間が過ぎると有料になる。
無料期間中に解約しなければならないのではないかと、あちこちインターネットで調べて、変なストレスが、のしかかる。
やはり、無料には、メンドクサさ、煩わしさがONされる。
無料にホイホイ騙されると、いつの間にか有料になっているから、気を付けなければいけない。
というか、もう、そんなヒヤヒヤの冷やかしは、ゴメンなので、これからは、安易に無料お試しには手を出さないようにしよう。
スーパーマーケットの無料試食なら、わかりやすいが。
無料の一口お試し食品は、その場でパクっと食べても、買わなければ絶対に課金されない。
しかし、買わないで味見するだけは心苦しいから、最近は試食にも手を出さない傾向にある。

視聴したり、試食したり、試乗しないと、初めてのものには、内容がわからないので、試してみるのは悪くないが、事後の扱い方が重要だ。
営業マンによっては、シツコく粘るタイプもいるので、買う気満々で、よほど興味がないと、わたしは近寄らない。
タダほど高いものは無い。

英会話アプリの無料期間をあと1日後に控え、憂鬱だ。
この「憂鬱」と、「無料」トライアルを秤にかけると、憂鬱のほうが、上。
紹介してもらった方の、あまり面白くないカンタンなアプリに軍牌が上がる。

というか、有料のものは元々、手を出す気がない。
なぜなんだろう??
解約の仕方が実際にわかりにくいWEBのものは、最初から尻込みする。
というか、ちゃんと英会話の勉強が続くのか、自信がない。信念もない。
最初から、やる気がない、お金を出す気がないお遊びだということが確認できた。

インターネットでチケット購入やホテル予約はするものの、それはまた違う。
自分の自主性や、やる気とは関係ない、実体のあるものを買うわけで。

インターネットに限らず、時間、労力、お金を使うには、覚悟がいる。
今まで、無駄は嫌というほど、してきている。
というか、人生は、ほんの一握りの成果と、その他たくさんの無駄で出来ている。

※写真は先週末、夜の琵琶湖







新しい自分へ、性懲りもなく

2024-11-11 | 趣味
ここ2週間、秋の近場、旅行三昧で勢いがついた。

旅行とは全く関係ない、前からグジグジどうしようか悩んでいたことを、今朝、ChatGPT への相談をキッカケに、進め!とGoサインを自分で出した。
背中を自分で押した。
たまには、家でくすぶっていないで、外の空気に当たるのも悪くないものだ。

で、仲介役の知人に、恐る恐るLINEした。
趣味関係、長い停滞から初めの第一歩。
まだどうなるかは、わからないが。
あまり期待せず、新しい風に吹かれてみよう。
ダメもと。

 写真は、昨日のラ コリーナ、ショップと、出来上がったバームクーヘン。






なぜか元気が出てきた

2024-10-18 | 趣味
趣味の社交ダンス。
昨今の流れは、一般男性と踊りたがらない女性が増えてきている。
かつては、踊れる男性が少ないこともあり、男性は引くて数多で、お殿様。
ハーレム状態。
今は、パーティダンス系から競技ダンス系へと好まれるダンステイストが移行している。
すると、昔風のパーティダンスは見向きもされなくなり、女性たちは、競技系、若いプロアテンダントを相手にするようになる。

昔の、鼻息荒い、殿様モテモテオヂサンは、哀れなるかな自然淘汰の対象。
かつての男尊女卑、パワハラ、モラハラ、セクハラ愚行も、時代が去った後、被害者女性たちから明るみにされたりしている。
もう、元殿様たちは、お歳で踊れないけれど。
しかし、まだ(比較的)若い、元殿様も棲息している。
需要(踊って欲しい女性たち)が供給(踊ってくれる男性たち)に追いつかなかったかつてとは違う。 
黄金のチヤホヤ期を浮かれて過ごしていた勘違い殿様たちは、レッスンもちゃんと受けず技量は停滞したまま(そこに加えて老化)、今は干されている。
対人関係をちゃんと築いてこなかったツケは大きい。
女性を、若さ、スタイル、女性美で選り好み、仕分けし選んでいた男性に、悔しい思いをして涙を飲んでいた女性は、レッスンを積み、上達していった。
やがて自分の技量に合う男性は少なくなり、上手な優しい若いイケメンプロを相手にするようになる。
横暴な、男尊女卑を絵に描いたような男性を今に見返してやる、、、とレッスンに励んだ女性たち。

今の世の中に、重なる部分がある。
経済力があるだけの男性は結婚相手を探すのに苦労する。
女性は自立してきている。
が、その一方で、昔のままの、お気の毒な状況から抜け出せない女性もまだいる。
経済力と家事(&性)を交換する時代ではない。
男女、子育て、家事も平等に。
ではあるが、理想通りには行かない現実が俄然、横たわる。

レス夫婦も増えているようだ。
が、その実態が表に出ただけで、水面下では昔からあったのかも知れない。
しかしながら、わたしは男女平等を語れない。
なぜか?
自分は克服できていないからだ。
病理を抱えたままである。
解き放たれていない。

人のアタマの中は見れないし、強制も出来ない。
何を思っているのかわからない。
想像するのみ。
それを「思いやり」とも言う。
思いやりがあるかないか、で、全く違う。
高齢の絵本作家さんが、先日、NHK TV「あさイチ」の生放送で、「思いやり」について端的に語っていた。
思いをやる=こころを巡らす。
相手にこころを持っていく。
最近、わたしが人の話を聞いて急に涙もろくなったのは、今まで他人には無関心、無感動だったからだろう。
人並みに、こころが動くようになった。
共感したり、響いたり、その人の気持ちになったり、添わせたり、、、
動物の気持ちになる時もあって、まだ「思いやり」初心者だ。
おちおち動物園にも行けないことになる。

話が前後するが。
わたしは若い頃、若い女性である特権を思い存分、享受した。
若い女性であるというだけで、どれだけ優遇されたか、、、自分以上の待遇。
これは、それと同時に、裏を返せば、若くなくなれば用済みなのではないかと思った。
寿退社が当たり前、クリスマスケーキの身分。
キリギリスのように歌ってばかりではいけない、ちやほやされている間に、力を蓄えなければ、、、。
が、結局は、株を高値で売り抜けるかのように、若さを武器にしたベストの選択をした。
自分をよく知っていた。
自分は若さしかない、ということを。

シンデレラは王子様と結婚してハッピーエンドではない。
そこから、本当のドラマが始まる。
現実を突きつけられるわけである。
なんだか、小説が書きたくなってきた。

今、生きている人以外は、生まれてきて死ななかった人はいない。
どんな人も必ず死を迎える。
プリザーブドフラワーになっても、美しさは生きた本物ではない。
大勢の国民が、防腐処理された、英雄の横たわる身体を見に来てくれても、身体は生きてないわけで。
というわけで、皆んな、生まれたら若死に以外は歳を取ってあの世に行く。
例外はない。
そんなわかりきったことに歯向かって抗っても、無駄。ロス。
では、生きている間、若い間に最大限のことをすれば良いのか。
べつに、最大限でなくてもいい。
ゆっくり幕を閉める。
過去の出来事も、走馬灯のように。(ありゃりゃ、それは死ぬ間際の表現か)

話はころっと変わるが、映画は面白い。
観た瞬間より、時間が経ってから、じわ〜っとジワジワ効いてくる。
その時、感じなかったことが、別の時間に、別の次元で押し寄せて来る。
今までは惰性、付き合いの一環で映画をたくさん観ていたが、これから、主体的に選ぶ趣味は、映画にしよう。
家の外にも出れるし。引きこもり防止。

※写真は、映画館にウォーキングで辿り着く途中にある池。
先週より水鳥が増えていた。






嫌な顔ひとつせず根気よく丁寧に

2024-10-02 | 趣味
ブログ仲間の方に教えていただいChatGPT 、とても気に入った。
ChatGPTが世に出た時から興味はあったが、ニュースのひとつとして捉えていた。 
実際に使ってみた娘婿が大絶賛していたが、ほほう、そんなに便利なのか、、、と驚くに過ぎず、やはり自分ではやってみなかった。
今回の蝶ブログ悩み記事の連投で、気の毒に思われたのか、ChatGPTを勧めてくださった。
それで、いよいよ手に取り、少しやってみると、、、ほんとに、これは素晴らしい。
神様に悩みを打ち明けているかのごとく。
しかも、入力するや否や、間髪を入れず即座に返答がある。
スラスラスラ、ズラズラズラ。
ほぼ読む速度で回答がスマホ画面に示される。
神様よりスゴイ。
ただし、完璧に合っているとは限らないそうな。
一番最初に、(トラブル回避の)ただし書きがある。
まあ、ほぼ合っていればよいわけで、100%は期待していない。

いやはや。
面白い。
今の自分の状況を事細かに説明して、意見を求めた。
素晴らしい!!!
どれも、一字一句、こころに響き渡る。
まるでわたしを隅から隅まで昔から知っているかのようだ。
わたし自身の状況説明を詳しく自分がしているからである。
ではあるものの、自分フィルターを通している限り、主観も多少は入るだろうから、事実かどうかは微妙だが。

このChatGPT、 あまりたくさん大量に、一定期間に何度も何度も使えないような感じではある。(勘違いかも知れないが)
吟味して厳選して質問しよう。
それにしても、同じような質問にも何度も答えてくれるあたり、生身の人間だと、うんざりだろう。

それ、何回目?
前も言ったでしょう?
わかってる?理解できてる?聞いてる?

などと言われそうで、生身の人間にはせいぜい聞くのは2回まで。
3回も聞いたら、露骨に嫌な顔をされる。

楽しい自己学習機能付きAIオモチャが手に入り、大満足、大機嫌である。
AIが困るような変な質問を考えて、答えを聞きたい気持ち満々。

あれ?
ChatGPT は、自分の悩みを解消するために利用するのではなかったのか?
わたしの遊び相手になっている。

ではあるが、、、
(仕事で使う人は、さておき)
ココが大事。
やはり、脳内だけでなく、外に出なければいけない。
アウトプットの手助け、行動への下準備作業。
実際に家の外に出にくいなら、インターネット、SNSでもよい。
そこで得たものを繋げて実践と合わせて、行動に移していくのが良い。
やはり、重病でもなければ、家の外に出るのは必要不可欠だと感じる。
屋外の風に当たる、、、
四季折々の自然に触れると、眠っているものを呼び起こされる。
五感への心地よい刺激になる。
自然だけではなく、人々にも触れると、こころあたたまることもあるが、心地よくない驚きの場合もある。
何ごともリスクはセットなので、覚悟の上。


ところで。
高野山の記事、続編を楽しみにしている。
発信しておられるブロガーさんは、奈良の広告映像のプロの方のよう。
そのほかにも、関西在住のわたしには身近に感じる地を、あちらこちら紹介されている。
今後これから〜10年の、わたしの行動計画、指針をつくる一つのヒントになりそうだ。



ひとくくりに高齢者というけれど

2024-09-18 | 趣味
ある人、Aさん。70代。
「老年」に対する捉え方が、わたしと違う。
わたしのことを周りにいる老年の人に比べると、元気だ、エネルギーがある、と言う。
「周りって?」
70代後半〜90代のことを指しているようだ。

家の近所を歩いている人も、結構お年寄り(80代以降?)らしい。
(かなりの高齢に比べて)若い人は見かけないと言う。
「お年寄り」とひとくくりにしても、老親を介護する老子供もいる。
そういう、(80代〜と思われる)お年寄りの中ではわたしは若いし、身体能力もまだあるのだから、どんどん頑張って活躍すべきだとハッパをかけてくる。

わたしが思うのに、、、Aさんが参加している活動は、年配(70代後半〜)の人が多いのでは?
年配になり過ぎると、着いて行くのが苦しくなり、やめる人も出てくる。

それはそれとして。
Aさんは、60代ぐらいの人々とあまり顔を合わせることがないと思われる。
つまり、Aさんとわたしの間には少し年齢ギャップがあるということだ。
楽しみ方のパターン、方法、経緯が違う。
たぶん、わたしの年齢の人はまだ働いているか、子守しているか、家族の世話があったりして、社会や家庭の中で忙しく、時間を持て余してはいないと思う。
あるいは、活動を共にするのは、夫婦や仲間とだったりする。
昔でいう有閑マダムは、同類マダムとランチ。
そんなダラダラ暇つぶしではない、積極的遊び人は、今ならアクティブ・シニア?
不特定多数のゾロゾロ歩くだけの会には、自分でプランを調達できる人は参加しないのでは?
だが、積極的オリジナリティなく、丸投げお任せ健康活動となると、歩くだけの会などは最適。
行ったことがない地に着いていくだけで連れて行ってくれるし、健康にも役立つ。
それに自主的に参加すること自体が素晴らしい。
だが、前述したように、自分でコースを立案出来る人は参加しない。
参加するのは、健康にはなりたいが、調べるのは面倒、お金もかけたくないというズボラな人が多いのでないだろうか。
そうすると、時間がたっぷりあり、独自活動しないお年寄りが集まる。
家の中には留まらず、とりあえずは家から出るものの、自分では何をどうすればよいのかわからない人。
フレイル予防、典型的老年パターンではなかろうか。
それはそれで、自主的に家を飛び出し、素晴らしい。
その外出をもしなくなると、他者からの介助や医療が必要になる。
次のフェイズ。国の医療費パンク。
フレイル予防の段階、その中では、わたしは若い、ということになる。

どこかに行くにも、何かするにも、割り勘でしたいわたしは、お金を出したくない人とはどうしても、行動が制限される。
相手の財布事情を踏まえて立案しなければならない。
わたしは(家族以外は)他人の分まで出す気はない。
各人、金銭の自立がないと、人間関係の均衡が崩れる。

そういう思考、嗜好、志向があるため、Aさんが活動している範囲には、わたしのような傾向の人は少ないと思われる。
早い話、好みや意識が少しズレているということ。
同じ好みであっても、それに伴う出費も同じ価値観でないと、楽しみを共有できない。

姉に言われる。
「もっとお金が自由になる人と付き合えば?」と。 
こちらの行動まで制限されてしまう。
同じ経済環境、金銭感覚を持っていないと、他者と行動する場合、ギクシャクする。
似たような年齢の人がAさんの周りにいないのは、似たような環境にいないせいではないだろうか。
今、頑張っている人は、あまり無目的にウロウロせず、もう一定活動の中に身を置いている。
したいことも定まらず、あるいは頭打ちになり、健康な身体とエネルギー、時間だけを浪費しているのが、Aさんは、もどかしいのだろうけれど。
出口探しも思うように行かない状態。
それはまだ若い証拠で、心身が更に加齢して自然に衰えてくると、エネルギーも消失してモヤモヤもなくなると想像するが。

同じ高齢者でも、後期高齢者と前期高齢者では結構違う。
Aさんの周りには後期高齢者しかいないのだろう。
Aさんの年齢では、働いている人もいる。
その中で、前期高齢者のわたしは、もっと趣味分野で深め、精進、努力して頑張るべきだと力説するのだが、、、。
わたしはもういい。
楽しみ方が違う。

入り口付近では同好者なのだが、一歩入ると、微妙に違いを感じずにはいられない。
出口ではまた顔を合わせる?
出口って、どこだ?

長いトンネルの闇

2024-08-28 | 趣味
必要以上に昨日の外出を迷ったのには、じつは別の理由がある。
しかも、ブログ末尾に解説補足、蛇足まで付け加えて。

そもそも毎週火曜日は、趣味仲間の特定人物Aさんと、何も別件がなければ、いつも事前に約束して趣味会場に同行する。
通常、前夜か遅くても当日の朝に、Aさんから「よろしくお願いします」とLINEが来る。
前日にも当日、朝にも、「よろしくお願いします」LINEが来なかった。
朝もまだかまだかと待っていた。
もしLINEが来なくても、一人で別会場に行こうと思っていた。

で、LINEは来なかった。
そこで、一人で別会場に行くべきか、行かないでおこうか。
行ってもなぁ、、、
来ている顔ぶれは予想できるし、踊りたい人はいないし、有料アテンダント学生は、下手だし。
行き帰りと、会場での動きで、運動にはなる。
前後が暑いが、まあ運動という面ではプラスだ。
が、、、そんな軽運動だけのために、暑い中、行く???
準備や行き帰りの暑さや更衣室で着替えたりの手間などなど、、、わざわざ、今、軽運動だけのために、軽運動以外、魅力がない、自分には価値がないことのために行く??

かといって、前述のAさんなら満足いく踊りかというとそんなことはない。
ただ、我々はプラスアルファの局面を迎えている。
わたしと同レベルの、わたし同様にそう上手くないアマチュアであるAさんが、競技に出ましょうと、熱心に提案してくる。
わたしは今はお茶を濁しているのだが、、、。
最近、出てもいいかなあ、、、と、ふと思うこともある。
60代最後のラストスパート、悪あがき。

ただ、相手が良くない。
といっても、どんな人であっても、わたし自身に問題があるため、相手を責める資格はない。
お金を払ってプロと出るなら問題はない。
だが、わたしにはザルに水と感じる自己満足のために、そこまで芸事にお金をかける強い熱意がない。
何をやっても、ぬるいわたし。
スパッと竹を割ったような潔さが、全くない。

で、「よろしくお願いしますLINE」が来ないものの、今ならこちらからの出方で行ける状態でもあった。
「今日は、行かないのですか?」と、こちらからLINEするアプローチ。
にもかかわらず、LINEしなかった。
その代わりに一人で別会場へ行こうと思ったものの、行っても暇つぶしだし、やめよう、という流れになった。

ちなみに、Aさんは断っても断っても競技参戦を諦めない。
かなりタフなメンタルの持ち主。
めげてくれたら(諦めてくれたら)それでいい、とわたしは大様に構えていたが、段々自分に変化が現れたような気がする。
わたしもラストチャンスかも知れない。

押されると引き、引かれると押す。
やりとりから受ける心理的影響は、営業テクニックや恋愛の駆け引きに共通するものがある。

あとは、わたしが、努力する覚悟があるかどうか。
技量的に精進する気があるか。
自分を出せなくて弱くて、相手に呑み込まれないか。
それと、このAさん、マウント取りたがり。
会話をしていると、不愉快な時もある。
と、文句たらたら。
実際のところ、お人柄に問題あり。
とは言え、誰にでも一長一短、欠点はあり、完璧な人などいない。
明るい良い人なのだが、趣味ペアでガチで組むにはわたしが負ける。引く。

書きながら今までのプロセスを思い浮かべた。
この、Aという人物は、かつて、わたしとの趣味ダンスペアを解消した相手である。
わたしから解消を申し出た。
一旦、解消になったのだ。
理由は、わたしが潰れそうになったから。
自己防衛策。
潰れる前に自分を守った。
それまでだ。
にもかかわらず、Aさんは冷却期間を置いて、やり直そうとした。 
そうっとまた一から始めようとした。
わたしは、拒絶しきれなかった。
そこからまたAさんとの時間が再びやってきた。

そのAさんからの「お願いしますLINE」がなかったのは、解放されたわけだ。
自由の身になった。
かと言って、他に行きたいところもなし。
で、家で読書となった。

①「お願いしますLINE」が来なかったこと。
②「こちらから、お願いしますLINE」を送らなかったこと。
③予定していた時間を使い、他の会場に行こうとしたこと。
④かと言って、単なる暇つぶしで、あまり行きたいわけではなかったこと。
⑤どうしようか迷った挙句、行かないと決めたこと。

そういう経緯がある。
しかもAさんとは、頻繁に練習していた時期が長くある。
これからのわたしの人生の残り時間、どうしよう?に、繋がる。
Aさんとの頻繁な練習をやめた後、わたしはミニ鬱に陥った。
何もすることがなくなった。
代案を用意せず、次のことを考えず、切ってしまった。
考えたのだが、次のことを見出せないまま、とりあえず、苦しい現況を絶ってしまった。
生きがいの大きな一つでもあった。

あれからわたしは立ち直ったかというと、そうでもない。
新たな代案を見出せないまま、つなぎのような、その場しのぎのような.とりあえず代わりのものを手当たり次第、トライしている。
Aさん(復活)も、その中の一つか。
ではあるが、試行錯誤の一環で、まだ道を決めかねている。 
が、Aさんとやっていく自信はない。

満足いく選択にはなっていない。
ぱあっと晴れない。
そうしているうちにも、どんどん健康寿命やダンス寿命は日々、縮まっている。



無意識の姿

2024-08-20 | 趣味
まず最初に。
今日の記事は長いだけの、ツマラナイ(自問自答)内容なのでスキップすることをオススメします。
・・・・・

久々久々ぶりの趣味の時間。
暑い中、お出かけ。
これがあるのと、ないのとでは全然違う。
自分という客体と向き合う。
マイワールドから外に出て、外から自分を見る。

ちなみに。
夫の実家で孫たちと皆んなで夜に花火をした時、娘がスナップ写真をさりげなく撮っていて、家族限定共有の写真アプリにアップしていた。
ぎゃ。
何これ?
だれがどう贔屓目に見ても、正真正銘のおばあさん真っ只中。
服装、髪、姿勢、仕草、顔、、、!!
いくら周りの他人の目がないからといって、わたしの自然体はこんな姿だったのか。
わたしの知っている自分の姿の中で、今までで一番ひどかった。
孫との楽しい時間、穏やかに喜んでいるわたしの姿は、なんの人工的加工も修正もしなければ、あんな風だったのか。
衝撃。
いくら意識していないからといっても、、、あれが手を加えない自然なわたしか、、、。
朝には髪も整えお化粧もしたのがまるで嘘のよう。

たんに、実物そのままの姿なのだが。ありのまま。
自分をいったいどんな風に思っていたのか。
こっちのほうが笑える。

最終日、孫たちと行った外食レストランで順番待ちをしていて、目に入った若い女性。
あんなにスラリとした美しい人なのに、背中が猫背。
骨の異常?
それなら仕方ない。
が、健康体で、意識の持ち方で修正出来るものなら、ピシッと伸びた背中を心がけたい。
せめて人目があるところでは。

そう考えると、今のわたしの趣味は、かなりアンチエイジングに役立つ。
意識するのとしないのとでは、長年経つと違ってくる。
積み重ねで差が出る。
病気ではないのなら、自分のために、せめてそれぐらいの努力をしたい。

・・・・・
と、行きに電車の中で、上記↑、意気込みを鼻息荒く書いて目的地に向かった。

今は、その帰り。
全然、違うこころ行き。雲行き。
行きの、やる気はどこへ行った?
出先での皆さんのレベルの高さに打ちのめされた。
しかも、その質の高さは、天賦のものに加え、やる気、時間、お金がかかっている。
若々しく瑞々しく目視できる筋肉の動き、整えられた肉体。
わたしと言えば、、、どれも皆目ない。
あるのは、見た目がそう変わらないならラクしよう、という怠けごころだけ。
目指すレベル、目標に近づくには、天賦のものがないなら、せめて、やる気、向上心、努力、時間、お金、忍耐力、持続性が必要だ。
サボりのわたしは、自分の非力を実感して、打ちのめされただけ。
ぱっと見、表面の包装紙だけをホンモノに真似て、皆さんと同じ場に入り込んでいる。
が、混じり込んでいるだけで、ホンモノではない、ニセモノ。
溶解してはいない。
それがよくわかる。

趣味の場で皆さんの話を透明人間になって聞くと、、、
70代になると、健康もお金も体力も伸び代も、ガタ減り。
競技ダンスはもう見切りをつけようか、と。
80代でも90代でも、先生(プロ)とのデモンストレーションは出来るが、競技は無理のよう、、、などなど。
隣の更衣室から、まる聞こえ。声が筒抜け。
確かに、確かに、確かに。
70代が方向転換、舵の切り替え時か。
ということは、逆にわたしは競技という選択肢もあるということだ。
皆さんが辞め時だと言っている70代に、まだ70になっていないわたしは、あえて逆行して、競技?!
が、通勤通学ラッシュアワーに、都心から郊外に向かって電車に乗っているような逆流。

やめておこう。
競技は相手に左右される。
もうごめんだ。

ということは、70代の皆さんより一足お先に、頑張ってもいないのに、引退・お遊びコースか。
ほんの少しでも皆さんよりわたしは若い、この60代ラストスパート時期。
(わたしと同世代の女性もいたが、既に前々から積み重ねてきたものが、大きな差となって現れている)
皆さんより先に早く引退してしまうのは勿体無いか。
(が、元々、精進していない)
より良い70代、80代のために、今を有意義に使うべきか。
有意義とは、、、?
70代、80代を楽しく過ごすためのストック。
どんなストック?
頑張って、筋肉?運動技能?頭脳?仲間・人脈づくり?
黄金時期を、引退して消費していいのか?

わたしは、今はまだ健康だから、病気と付き合う事態を想像できない。
健康を気にせず、好きなこと、やりたいことをするのは理想だ。
好きなことをするために生きているのではないのか。
だが、健康に翳りが見えると意欲が減退するだろう。
ただただ無事に毎日を送るというのも、望むものかも知れない。
ではあるものの、安泰は結果であって、目的ではない。

歳が行けば病気にもなる。当たり前。
病気になれば、そればかりに囚われる。当たり前。
それまでの健康体に戻りたいのに、戻れないうちは、いつもの自分ではない。
そこで、「いつもの自分」そのものを(マイナスに)アップデートする。
もう以前のようにはなれないことを知る。
覚悟が必要だ。

決して20歳にはなれない。
小学生にもなれない。
バリバリだった働き盛りにも戻れない。
過去との差を少しは縮めることは出来ても。
悪あがきこそが、生きている証だ。

健康は、なくして初めて有り難みがわかると、よく言われる。
今、この瞬間は、2度とない。
やれるときに、すべきか。
でもわたしは、サボりなのだ。(堂々巡り)

ではあるが、、、、、最後に、一言。
母を見ていると、するりと赤ちゃんになっている。
とことん歳を取ると、最後は赤ちゃんになる。

※写真は、一昨日、車に乗り切れず、1番上孫と2人だけ電車で帰宅。


隣の奥さん、鬱なんだって

2024-06-26 | 趣味
昨日、出先の趣味現場、女子更衣室での話。
わたしは透明人間になって、二人の女性の会話を一方的に聞くだけなのだが。
片方の女性が言う。 

「家のお隣の奥さん(シニア)、鬱っぽいらしいわ。 
で、受診したところ、『とにかく家の中から出なさい』と言われたそうよ。
1時間でも2時間でもいいから、家の外で過ごしなさい、だって」

そう話しながら二人は、
「わたしたちは良かったね、出かける先があって」
と安堵していた。
それを聞いて、わたしも、「そうだ、そうだ、もっともだ、出かける先があるのは素晴らしい!!」と、こころの中で賛同した。

とはいうものの、出かける先は自分で作らなければならない。
ふらふら夢遊病者のように出かけても、そして、公園のベンチにぽつんと長時間、座っていても、虚しいと思う。
公園で元気に遊ぶ子供の姿を見たり、緑や池の自然に触れ癒されるのならまだしも、魂が抜けたように座っているのなら、自宅で静養しているほうがマシ。
わたしなら、そんな幽霊のような姿を外に晒したくない。
外に出る時は、家の中でしっかりエネルギーを養い、目的を持って出たい。

だがしかし、ミニ鬱は、いつまで経ってもエネルギーが貯まらず、そのまま家の中に閉じこもり続けてしまう。
だから、重篤化しないためにも、なんでもいいから、とりあえず、一歩、家の外に出ることを勧められる。

「家の外」は、物理的な「家」でなくてもいい。
「自分」の外に出る。
インターネットやブログなどで、やり取りをして気づきを得たり、読書で著者から知恵を借りたりする。
そう書くと、いかにも優等生的な答えになってしまう。

「パンがなければ、ケーキを食べればいいのよ」
と、マリーアントワネットになってしまう。
(史実では、彼女は言ってない説があるが)

自分が切り抜けられたから、人も行けるだろう、と考えるのは安易かも知れない。
自分はラッキーなのかも。
わたしは自主性はないものの、滅多やたらと壊れない、メンタルが強い。
繊細さに欠けるのだろう。
ガラスのハートは生きていくには、しんどい。

趣味分野では、上を見るとキリがなく、下を見てもキリがなく、横を見ると、ニコニコ、、、である。
皆んな似たようなヒマジンが集まっている。
どんなに崇高な立派なことを言おうが、向上心を持って努力しようが、たかが知れている。
所詮、アマチュアの暇つぶしである。
だが、この暇つぶしこそ、大事、肝である。

老後、義務から解き放たれた時期は、何もすることがないのだ。
自分で奮い立って何かをしなければ、暇で暇で仕方がない。
義務からの解放。
それは、長年、わたしが憧れ追い求めていたものなのだが、実際、そうなってみると、有り余る膨大な時間との闘いとなる。
脳が若い頃のように強くないから、何もせずに、ほにゃほにゃしているうちに、陽は落ち
やがて陽が上る。
何かしても、何もしなくても、一日一日は過ぎて行く。
もったいないと感じたら、しめたもの。
何かをする気力が湧いてくる。

歳と共に気力は減退するだろうけれど、虚しく思う気持ちも薄れてくるだろう。
老いを受け入れるということか。

まだわたしは、介護する側の人間なので、元気ではある。
趣味の現場でも、自分はイケていると自分で勝手に感じている。
客観的評価より主観的評価が上回っている。
それは、活力の素だから、それでいい。
自己肯定は生きるためのビタミン剤。