蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログのアクセス数を増やすためのノウハウを読んで、アクセス数を減らす人

2015-09-28 | ブログ

ブログをより多くの人に読んでもらうためのノウハウを
gooの編集部さんが、やさしく、丁寧に説明してくれている。

わたしは、そういう記事を何度も読んだが、ほぼ、無視している。
自分の書きたいように書きたいのだ。
goo編集部としては、面白いブログがあっても、閲覧数が少なくて惜しくて残念なので、
ちょっとしたコツで、閲覧数を上げられる、と、あれやこれや、手取り足取り、導いてくれる。
まあ、なんと親切な!!

一人でも、より多くの人に読んでいただくのは、ブロガーの夢、理想だろうけれど、
世間に迎合するのが苦手な、孤高(偏屈とも言う)のわたしは、いいんです、閲覧数など。
しかし、閲覧数というと、なんだか無機質な響きだが、
一つ一つの閲覧数は、一人一人の方が、蝶ブログを訪れてくれている、ということである。
(検索ロボット以外は)

へろへろ、べんちゃらは、性(しょう)に合わないが、
もともとわたしは、マイノリティ嗜好なので、アンチ多数派である。(へそ曲がりとも言う)

お世辞は、大嫌い、ぞっとする。
とかなんとか、そのくせ、
「お若いですね」なんて言われると、社交辞令、営業トークと、みすみす、ハッキリ、クッキリ解りきってきても、
「え、、、あ、ありがとう」などと、みっともなく真に受ける。

アタマとこころは、ビミョーに違うってことだ。
理性と感情は、いつも、シーソーゲームをしている。

理性で割り切れても、感情が着いていかないこともあるので、
ブログに書いて、アタマの中の仕分け作業を行っている。
理性と感情の交通整理をして、思考を組み立てる。
図や表をまじえて、考えをまとめるのと似ている。
料理でいえば、材料を分けて、洗ったり切ったり下準備しつつ、一方ではもう漬けたり煮たりと、作業に入っている。

書いているうちに、ぼやけていた考えが、だんだん焦点が定まってきて、クリアになってくる。
ふ~む、mmmmむむむむ
どうすればいいのかな?
ようし、この考え、この方針で行ってみよう! となる。

が、結果的には大して動かないのだけれど。
進路の確認も兼ねている。微調整したりもする。

で、で、で・・・ああ、結論は??
今日はなかなか結論にたどり着かない。
とりあえず、本日のルーチンワークに取り掛かることにする。
そのうち、良いアイデアが浮かぶかも知れない。

 

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PS
すいません。無駄な文字数、使ってこんな内容で。
gooの編集部さんが、最も避けたがるパターンになってしまった。

 


ボケと毒

2015-09-27 | 日々のこと

わたし・・・最近、毒が、なくなりつつある。
かわりに台頭してきているのは、ボケ。

このボケの恐怖は、毒など吹っ飛んでしまう。
蝶ブログをお読みになる方にとっては、面白みに欠けることであろう。

毒に冒されて、ボケになるならまだ悲劇っぽくてナンなのだが、
ボケてきて、毒が効かなくなっている。弱い。毒が蔓延しない。

そして、「許せないコト」が、「なんだかどうでもいいコト」になってしまう。
ま、いいか~。どうせ、わたしも、ぼけぼけっとしてることだし~、と。


人格や性格が丸くなることは、悪いことではない。
と、嘆いているばかりではないのだが、代わりに、新たな毒が、外から押し寄せてくる。

「おかあさん、なんも考えてないね」
「自分で、なにかしようと思ったこと、あるの?」
うんぬん、かんぬん。
(これ、お任せ気分の旅行中に言われたこと。でも、いつも、だいたいこんなもの)
その天然、どうにかしてよ、とばかりに責めて来る長女。

わたしは、そんな高度な、高尚な、ハイレベルのことを目標にはしていない。
もはや、「天然」を通り越して、「老化」の域に達している。
したがって、なにを言われても全く馬耳東風なのだが、
恐ろしいのは、記憶が抜け落ちることである。

目立って自覚症状として悩ましいのは、モノを置いた場所を忘れること。

以前は、背筋に冷たいものがサーっと降りてきたが、
今は慣れっこになってしまって、ああ、またか、と、余裕の自己対策までも確立している。

「落ち着け、落ち着け。
今は、焦っているから思い出せないだけ。
時間がたてば、思い出すに決まっている」

ここに無ければ、あそこ。あそこに無ければ、次のとこ。
次から次へと見つからないと、いったん、脳の電源を切る。
時間をおいて、一番初めに探してみて見つからなかった場所に、もう一度、戻り、一から探すと、見つかることがある。
焦ると、集中力を欠くようだ。
脳の解析機能が劣化し、著しく容量低下。回路は、すぐヒートアップして、システムダウン。
あぷあぷ。わあわあ。


我が母、人生の大先輩。
今、わたしのボケの大先輩となっている。
DNA的側面から見ても、もともと、母もわたしも、あまり賢い頭脳の持ち主ではない。
ボケは特に遺伝的要素、大で、恐怖である。

次女に言わせると、
「おばあちゃんは、おかあさんの30年先。おかあさんは、わたし(次女)の30年先」

みんな同じこと。時間をスライドさせると、通る道。
・・・なんだけど、90歳でもシャキシャキ、バリバリの、かくしゃくとした人もいる。
まあ、年齢がそう高くなくても、逆の場合もある。
個人差があるということだ。

 

ボケと、毒、どっちがマシ?
う~ん・・・辛い選択肢である。

 

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旅は道連れ世は情け

2015-09-26 | 

シルバーウィークは、長崎に行った。
長女一家と、我々じじばば。

大人4人、乳幼児2人。
ベビーカー1台 プラス、抱っこ紐。

伊丹空港へ行く車の中から、2歳児の、ゲボーっの洗礼を受けた。
なにもしゃべらなくて、おとなしいな、と思っていたら、
ゲボー、あららと慌てて、ハンカチで受けていたら、さらに、ゲボーっ、ゲボーっと、引き続き大噴射。
合計3回、2歳児のシャツ、ズボン、靴下、ハンカチ、車のシート、わたしの両手、その他、
ゲボゲボだらけ。
2歳児が朝に食べたヨーグルト、全部、ゲボーっ。

前途多難の予告編。
子連れ旅行は、予想外なことが起こること自体が、想定範囲内。


大人のメンバーは、私以外は、皆さん、体育会系。
ああ、わたし、足が痛いの、暑いの、疲れただの、お腹が空いただの、
2歳児と、ほぼ同じレベルの、あかんたれ。
長崎は、意外に暑かったのだ。
歩く、歩く、歩く、歩く・・・。
乳児は歩けないから、いつもベビーカーか、抱っこ。まあこれは、よい。
2歳児は、歩いたり、歩かなかったり、抱っこだったり、乳児の弟を押しやってベビーカーだったり、
身体のサインの発するまま。
乳幼児は、元気な皆さんに任せ、
わたしは、自分自身しか面倒見ていないのに、ぜーぜー、はーはー、暑いよ~。
体育会系は、なんでこんなに強靭な肉体&エネルギー?

ハウステンボスは、オープン当初、23年ぐらい前に、じじばば付き、3人子連れで行ったことがある。
イメージはそう変わっていないが、
一時衰退し、新たにSISが買い取り、リニューアルしたようだ。
老若男女で賑わい、活気があった。
前は、オランダだけをテーマにしてあったが、リニューアル後は、テーマをオランダに絞り込まず、
国や地域だけでなく、ジャンルを360度広げて、多彩に展開され、幅広い層が楽しめる。

待ち時間が短い、水や月をテーマにしたアトラクションや、トリックアートに行った。
広大な土地が利用された、ダリア園も、こころがなごむ。
音楽も、クラッシックから、ロックや、懐かしのオールディーズなど、じじばばも、若い人にも、気配り路線。
今は、建物にカラフルなイルミネーションを照らし出す、デジタル・ライト・アートのようなものが、人気のようだ。
川に浮かび上がる美しくデザインされたイルミネーションも、日が落ちて涼しくなってくるとともに、心地よく、幻想的な味わい。

あ~、日中は暑いけれど、夜は、いいなあ~、と、一日目の夜(ハウステンボス)も二日目の夜(長崎市内)も、
心身ともにそう感じた。

 

じじばばは、軍艦島に行った。
若ファミリーとは、別行動。

雨風などの天候事情で、3回に1回は上陸できないらしい。
お天気の神様に、微笑まれた。
世界文化遺産になってからは人気のようで、船は満席。
明治から昭和の、日本の基礎を築いた、産業基軸の足跡を肌で感じた。
当時の日本人は(外国労働者も入っているかも知れないが)偉かったなあ。
住まいは鉄筋コンクリートの高層集合住宅だったとしても、あんなに過酷な労働で、頑張ってきてくれたのだ。
お父さんもお母さんも、子ども達も、みんな一丸となって産業を支えていたんだと思うと、ぐっとくる。

帰りのフライトまでの時間が少しあるからと、平和公園に寄ったところで、ちょうど雨が、ぽつりぽつり。
お天気は、ぎりぎり、もった。やれやれ。

四半世紀前と照らし合わせながら、思い出深い旅行となった。
当時の義母(姑)のほうが、ずっとずっと健脚で、元気だったということが、よお~くわかった。
わたしは、へなちょこである。
が、その分、周りは元気モンが揃っているから、お任せしちゃっていいので、まあバランスが取れている。
(と、また自己チュー発想)


非日常は、日常を色鮮やかに浮き出させてくれる、大事な役割がある。
だから、旅は大きな意義がある。

 

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なんのためにブログを書くのか

2015-09-20 | ブログ

我が蝶ブログ、水をやらないと枯れてしまう。
造花にでもすれば、枯れないが、今度はホコリをかぶってしまう。

よしよし、いい子だ、ちゃんと美味しいものを食べさせ、気持ちよく安泰に過ごさせてあげるからね。
と、(精神的に)ご機嫌をとるわけだが、
いったい、どの行為に対してご機嫌をとっているのか?
(ご機嫌をとる=ケアする、メンテナンスを行う)

ちゃんと通常通りに快適に動くよう、お客様がおられない時も、フォークやナイフなどを磨いて、
時間を1秒も無駄にしないよう、アタマや目や耳、カラダや手を動かして、緊張感を保ち、
いつ出動してもいいように、スタンバイをキープしておく・・・???

というような精神は、ブログに関しては持ち合わせていないが、
自分の生き方に対して、そういうスタンスで臨んでいると、自然とブログも、そういうプロセスやら結果やらが染み出る(はず)。

わたしは、なんのために、誰のためにブログを書いているのだろう、と、前々から、薄々思っていたが、
(「読んでくださる方がおられてこそ、であります」と、カンシャの言葉を連ねるべきだ、と、
常識人のわたしは、わたしの耳元で囁く)
ところが・・・じつに不思議なような、不思議でないような、
実際のところ、真の愛読者は、わたしであることに気づいた。

読んでくださる方々は、わたしにとって、馬の目の前にぶらさげられたニンジンに過ぎない。
アクセス解析(あ、月々、有料です、ケチなわたしが、まあなんと!)で、どういう読まれ方をしているか、推測できる。
ニンジンはあくまでも、わたしにとっては、ご褒美であって(餌ともいう。モチベーションです)、
走り続けることに意義がある。
といっても、無意味に走るのは、これまた意味がない。

自分の道を探る、見つける、見い出す、創り出す、改良する、調整する、変化させる、
あらゆるコースを自分で試行錯誤して選び出し、
実践していくための、ひとつのメソッド、
自分が作る、自分のためのテキスト教材用の、資料集めみたいなものだ。
自分を知り、自分の納得できる人生を歩むための、
トレーニングジムに設置してあるトレーニング・マシーンみたいなもの。

自分の人生を楽しむための、ひとつのツールである。
うんとはやい話、超・カンタンにヒトコトで言えば・・・「趣味」である。

なあんだ、そんなことぉ・・・??

いえいえ、趣味は人生をバラ色に彩る大事な大事な要素である。
わたしの趣味を、ひいては人生を多彩に盛り上げるために、皆様に(ボランティアで)お手伝いしてもらっているのである。


趣味の世界って、いいなあ。
つくづく、そう思うのであります。

 

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好きすぎては、いけない

2015-09-15 | 人生

ふと思い出した。

小学生の高学年の頃、1つか2つ学年が下の男子、オカダ君が好みだった。
といっても、せいぜい彼も、当時小学校3年生ぐらい。おこちゃま。
オカダ君と同じクラスのマツモト君は、色白、目がぱっちりのかわいい男子だったが、
その、かわいいマツモト君よりも、オカダ君がよかった。
オカダ君は、色が黒くて目が細かった。

その後、私は中学1年の時、先輩(当時中学3年)に一目ぼれ、
初恋、告白、即日、初振られ失恋。
彼も、色が黒くて細身、目も細かった。

俳優で言えば、綾野剛。

ああいう顔、好きなんですね、わたし。

以後、人生で一度もああいう顔の男性とは縁もなく、お付き合いもせず、今日に至る。
ジャンル分けすると同じ醤油顔でも、向井理のような美形よりも、
ちょっと影があるほうが好きなのだけれど、(醤油よりも、塩顔っていうらしい)
それが、どうした?という、どうでもいい話だが。


店などを経営する場合でも、インテリアや、食器、備品等にとことん気合を入れて、
ターゲットを絞り込んだ戦略ならまだしも、
たんに自分の趣味を追究しすぎると、
お金をかけすぎて道楽的要素が強くなり、合理的な経営ができなくなる。

モノもヒトも、日用品としての実用向きと、鑑賞用としての趣味追究向きに分かれる。
現実において、
冷静を保つためには、好きすぎて、没頭して、理性を失うほど熱を入れないこと。
溺れると身の破滅を招く。 

なにごとも、ほどほどがよい。

 

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恋人なんか、いりません・・・らしい

2015-09-12 | 時事&世の中

近頃の恋愛・結婚事情、昨夜、NHKの番組を観た。
恋人がいない人にアンケート調査すると、半分に近い人は、恋人は、いらないらしい。

とても、若くてかカワイイ社会学者が出演して、解説していた。
まるで、メードカフェのウエートレスか、コスプレのアイドルみたいな、そんな、現役教授だった。
彼女のルックスの意外性に、そっちのほうが、驚いた。
社会学には、ぴったりかも知れないが。

まあ、それはヨシとしよう。

レポート、取材、解説、一字一句を聞き逃すまいとして、
食い入るように30分間、集中力をかき集め、脳みそに流し入れた。
そんなに頑張る必要はまったくないのだけれど。
たんに、興味ある分野なだけなんだが。

要は、面倒なんだそうな。
恋人になるまでの駆け引きやプロセス、
告白して、振られたり、うまくいっても別れたり、・・・付き合っていても、相手に振り回されたり。
自分の時間を削ってまで、相手に合わせてまで、犠牲を払っても得るものは、犠牲には見合わないそうな。
現状で、いっぱいいっぱい、あるいは、たいして現状に不満を感じない。

今は、価値観が多様化して、これという強固な強烈なモデルサンプルが見つからない。
情報過多、溢れる情報の海で、取捨選択できない。
擬似恋愛的ゲームやアニメも充実し、
経験していないのに、経験した気になって、もういいや、お腹いっぱい、となる。
手のかかりそうな相手と付き合うぐらいなら、自分の趣味や好きなことをするほうが、充実している。
あるいは、恋愛でなくても、「別れた」だのなんだの面倒くさいものよりも、友達として長く付き合いたい。

取材されていた、ある大学院・男性は、両親の離婚を経験し、愛を維持する生活は不可能だと体感したようだ。
そういう話はよく聞くが、逆に「僕は、だから家庭を思いっきり大事にしたい」という人もいる。
が、トラウマみたいになっていると、ちょっと根治しにくいかも。

恋人がいない、恋人もほしくない、そんな男女がウヨウヨいたら、そりゃあ出産率は低下する。
イマドキの若い人々は、あんまりガツガツしないようだ。
淡々としている。
(それに比べて、中高年のギンギンギラギラなこと)

ん~・・・そんなものなのか。
お見合いさせたパンダのカップルを同じ檻の中に入れても、ちっとも二匹の行動に変化はない、ってかんじか。
男性が淡々としていたら、女性としては、非常にやりにくい。
餌をまこうが、香水を振りまこうが、突っつこうが、擦り寄っていこうが、
その気ゼロで、逃げられてしまうと、ほんと、どうしようもない。
女性も、また、男性に寄っていかないらしいので、これは、発展しようがない。


かわいこちゃん教授が、番組の最後に言っていた。
(冒頭ならまだしも、番組の最後なので、
わたしの集中力が続く持ち時間ギリギリだから、ちゃんと理解できていないかも知れないが)

自分が楽しめるコトに没頭するのは悪いことではないので、おおいに楽しめばいいけれど、
自分の内へ内へと向くのではなく、外側に向って、趣味なりボランティアなり、好きなことをしていけばいい。
すると、いずれは自然なカタチで社会の中での、楽しい過ごし方が見つかる。
異性を交えた中での楽しみ方を覚えると、良い方向に向っていくのではないだろうか。

というニュアンスだったと、解釈した。(わたし流・解釈)


今朝、出かける次女(未婚)に、
支度している横から、昨日の番組内容や、教授の論説を一生懸命、伝えると、
「聞いてないからね」
と、つれない言葉を残し、あたふたと出ていった。

 

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【ついでに、補足】

結婚は、見合い結婚から恋愛結婚に移行。
一昔前は、男らしさ、女らしさが、キーだったが、
高度成長期以来、フィーリングが合うかどうかが基準になってきている、とか。
なるほど・・・。
社会的男女役割(ジェンダー)の意識変化である。

ちょうど、わたしの世代は、その移行期(後半)にあり、
女性の意識は先行しているのに、男性の実態は、旧来のまま。
そのあたりにも、夫源病の発生原因も隠されているようだ。

 

 


妻を病気にする夫たち、が、夫ばかりが悪いわけではない

2015-09-08 | 暮らし

夫源病と名づけられた病気がある。

つい最近命名された病名で、現代病の一種。
妻が体調が悪くなる、具合が悪くなる原因が夫にあるというもの。

夫が定年後、妻の体に異変が起きる。
夫が仕事に行っている間、仕事を持たない妻は好き勝手に楽しく暮らしていたが、
さて夫が毎日、家にいるようになり、世話を一日中焼くことになる。
と・・・体調が狂うということに。

夫になってみれば、家族のためを思って頑張って仕事をしてきたのに、
定年になることを夢見て、それまではなにがなんでも・・・と、必死で仕事をしてきたのに、
家庭での受け入れ態勢の、このギャップ。温度差。

熟年離婚は妻から申し出るケースが多いようだが、
金の切れ目が縁の切れ目、と、ぽいっとサヨナラできるほど、まだお金に余裕のある人は多くないと思う。
別々の住宅に住むと、生活費はそれぞれにかかる。
独居の場合、年老いて病気になったときの不安もある。
見守りパトロール隊員と同居している、と思えばいいのか?
それにしては、あまりにも近い空間に常駐しているパトロール隊員、一挙一動が気になりすぎる。

ある医師が「夫源病」の名づけの親であるが、彼の著書で、
タイトルはちょっと違うかも知れないが「夫の一挙一動が気に入らないのは、なぜか? 」
というものがある。
読んでみたい。
「火花」は立ち読みで、ちら読みしたが、夫源病関連のほうが、ずっと現実的である。

なぜかというと、わたしにも、最近思い当たる節があるのだ。
どう見ても、夫が悪くないのに、ちょっとした癖のひとつをとっても、カンに障る。
「亭主の好きな赤烏帽子」の逆バージョンか。

さて、一般論として、・・・

亭主は被害者か?
どっちも、どっちか?

亭主元気で留守がいい、と、
好き気ままに自由を謳歌していた、亭主不在中の妻も、お遊び時間が過ぎたことを悟らなければならない。
パーティは終了だ。ゲーム・オーバー。
病気になって自滅するか、相手を病気にさせるか、そんな取捨選択しかないなら、
別れたほうがよい。

妻を亡くして、まだ1年あまりの人がいる。
寂しくて寂しくて、再婚したいと、言う。
夢を見ているように思う。
亡くしてはじめて大切さがわかるのは、健康と同じ。
妻を亡くしたからって、すぐまた欠番に補充するわけにはいかない。
永久欠番である、
が、熟年以上になって、再婚する人も少なくない。

後妻業には、くれぐれも注意。
お金は取られたら、被害額が、はっきりわかるが、
毎日、毒を盛られて命を削られても、減った分は、把握しにくい。
幸せと引き換えに、命を取られたら、馬鹿らしい。

幸せなんて、自分で掴むもの。
自分で作るもの。
人に、もたれかかったり、期待しても、だめ。

ちゃんと一人で立てるようになったら、夫源病も、被害者だか加害者だかわからない夫族も、
もうちょっとは、被害が少なくなるんじゃないだろうか。

 

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避難

2015-09-06 | 日々のこと

長女の家庭では、日曜日、この時間、夫と妻は、上の子供と一緒に食料品・買い出し係(夫)と、下の子供を寝かせて家で衣料品整理係(妻)に、分業するそうだ。

うちは、一階のテレビ鑑賞係(夫)と、二階のパソコン係(わたし)に、分業。
正確に言うと、「分住」。

パソコンは、二階はノートパソコンなので、使いにくい、文字が見にくい、操作がし辛い。
でも、あえて、わざわざ二階のパソコンで頑張るのはなぜか?
一階のパソコンなら、スイスイ、3倍速ぐらいのスピードで、ストレスなくできるのに。

答えは・・・分住。

夫とは平日は、仕事で別々の場所に分散。
休みは、平常は夫はゴルフで不在。
これが、お互いの幸せを、限りなく最大限に合理的に形成している。
お互いが楽しく、満足でハッピーである。
明日からの仕事のエネルギー源にもなる。
ベストな形態、状況である。

が、ほんのちょっとしたことで、「ゴルフ」がない場合。。。
これが、ビミョーな歪を生み出す。
ビミョーは、さらに進化し、ビミョーではなくなる。
怪物に成長してしまう前に、食い止めなければいけない。

そこで。苦肉の策が、一階と二階に分かれる、分住である。

二階のほうが、断然、住みにくい。
そもそも二階は、子供部屋と寝室、クローゼット、納戸、物置しかない。
居間や書斎は、設えていない。

一階は、ダイニング・キッチン、リビング、和室となっていて、
リラックスする空間として活用されている。
食べたり、飲んだり、テレビやビデオ、音楽を聴いたり、本を読んだり、
書き物をしたり・・・
そういう、暮らしを豊かにする工夫を盛り込んで、設計してある。

が、それを夫に与え、わたしは、不便な二階に泣く泣く移る。
これも、平和を保つための、最小限度の我慢、忍耐、努力である。
不快な思いを爆発させて、喧嘩するよりは、マシかと。

夕方になると、長女一家も顔を出すので、それまでの辛抱だ。
ちょっとぐらいパソコンが使いにくいからといっても、少しのガマン。
長女一家と合流すると、あとは、にぎやかな時間が訪れる。

ただただうるさい、大音量のテレビ、しかもガチャガチャ、常にザッピング、
どの番組を見たいのか、さっぱりわからない、テレビ中毒。 
それらの拷問に、わたしの脳の血管がぶち切れる寸前まで耐えなければならない、
そんな過酷な現実から逃れられる。

もし、一部屋しかなかったら?
なんらかの事態の変化が起きることだろう。

と、打ちにくいキーを、目をしょぼつかせながら、肩を凝らしながら、
しかも書いている内容は、こんな内容で・・・
そうしているうちに、娘一家が登場する時間になる。

こうやって、楽しい、実りある人生を歩いていくのだろう。
光もあれば、影もある。

だれが悪いのでもなく、いろんな異分子と協調してやっていこうという、
そういう努力は、決して無駄ではないと思う。
ただし、押しつけがましいのは、よくない。
偽善のニオイは、もっとよくない。

わたしさえ、我慢していれば・・・なんていうのは、精神衛生上、よくない。
美談にはならない。
だれか一人に、負担がかかるのはよくない。
喜びも悲しみも、負担もシェアするべきだ。
ベストな方法を選ぶ、あるいは、創り出すのがよい。

各人々の置かれている状況によって違うので、試行錯誤して、
そこそこ努力すれば、思った以上の幸せは手に入る。

がんがん押すのではなく、一歩ひいて、やってみると、案外、うまくいくことがある。

そうこう思いながら、そろそろ長女たちが来る頃だ。
またまた、掃除・整頓が出来ていないと、ガミガミ怒られる前に、ちょっとぐらいは、体裁をとりつくろっておこう。
といつも、そう思って、パソコンの電源を切って支度にかかろうと動くちょっと前に、
長女は到着し、ガミガミ台風が巻き起こる。

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子どもエネルギー熱風、あちちち

2015-09-05 | 子育て

平日の午後。
とある市営体育館。
幼児体操教室のような、(たぶん)参加費無料の定期的な催しがある。

小さな、幼稚園に行く前後ぐらいの子ども達と、保護者でごった返している。
子どもの体育系の、お遊びテイストの運動を、体育教師みたいな若い人が、広い体育館で指導している。
それを体育館の観客席?応援席?みたいなところで、保護者が見守る。

子ども達が、運動を日常生活の中に自然に取り入れられたらいいと思う。
と、それはいいとして・・・
平日の午後1時、・・・・保護者たちは、仕事はないのか?
休みをとってまで、わざわざ?
それとも、育児休業中?
あるいは、無職ママ?

まあ、なんでもいいのだが。
子どもの元気な声とは別に、ママたちの元気?な声。
高い大きな声。大勢になると、そうとうな音量になる、
共通の会話は、子ども。
子どものことだけで、つながっている。

帰りに、お茶に寄るママ友・親子達も、いそうだ。
が・・・、子ども達の、運動機能や、成長に一喜一憂。
他の子どもとの比較もあるだろう。
おそらく、子どものことしか見えてない、という、熱の入れようのママもちらほら。
ほんとうに、ごくろうさん、である。

一生懸命、子どもを育てることは、いい。
ネグレクトより、ずっといい。
が、大変だ・・・・・。子どもを頑張らせるママ達。
やさしい、時には怖い、飴と鞭を持った調教師のいる動物園が、わたしの脳の別のスクリーンに映った。

わたしにも、ああいう時期はあったのだが、
子どもが小学校に入って、親がべったりついていかなくなると、
やがて、ママ友たちとのお付き合いも、自然解散。
仕事に出る人が多くなることだろう。
収入を得るための活動をしない人もいるだろう。


能力開発など、本来、子どものためにやっていることが、他の子どもとの比較することによって、
優越感や劣等感を感じることも少なくない。
それは、自分を軸にしていない、そして、自分の子どもを軸にしていない。
他人との比較に振り回されることに、終始している。
子どもを圧迫したり、追い詰めたり、
せっかく発育にプラスになる良いことをしているのに、考え方ひとつで、マイナスにも転じる。

子どもは、自分の分身ではなく、別個の人格を持っている。
自分の思い通りにしてよい、というものではないと思う。(あくまでも、個人的見解であるが)
子どもの出来、不出来は、親の出来、不出来ではない。(身体能力や学力の場合)
常識の習得や価値観は、親の生き様や、習慣、躾、教育に大きく左右されるだろうけれど、
「子どもの能力」は、親の力を判定するものではない。

あの、大勢の子ども達や、ママたちに呑まれて、渦に巻き込まれ、
本来の目的を見失ってほしくないなあ、と感じた。
闘鶏のシャモに競わせるかのごとく、親のプライドを満たすために、子どもを操ってはいけない。
イマドキの親は、わたしとは世代が違うので、考え方も大いに違うだろうけれど。

ママたちの、各自それぞれの、自分の子供に対する掛け声や、振る舞いを見ていると、
なんだか、社会に対して自己表現の出口がない人が、
子どもを使って自分を表現しているような気がしてしまうのは、わたしが、そうとうヒネくれているからだろうか。

自分の子供を応援したいのは親として当たり前であり、
少しでも子どもに良かれと思い、頑張っているのかも知れないのに。
しかしながら、もしわたしなら、自分を見失ってしまいそうな、あの熱狂的なママと子どもの集団に、いささか慄いた。

今は、もう干物時期にさしかかっているわたしだが、
子育て時代は、子どものエネルギーをどう扱い、導いてきたのだろう。
自分の成長と、子どもの成長が同時進行で、混乱して、めちゃめちゃ、ぐちゃぐちゃになっていたと思われる。
にもかかわらず、
ずいぶん前に終わってしまって、ああ、よかったと安堵のため息である。

子どもは、今は、ママとなり、自分の子ども達と闘っている。
ごくろうさま。
どんどん、子どもエネルギーに巻き込まれていくことだろう。

 

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一瞬、賢くなった

2015-09-04 | 日々のこと

今日の学問。

アリストテレスについて。
哲学や科学をテーマにした、超絶わかりやすいブログがあり、彼の考えを解説してある記事を読んだ。
すらすらすら・・・ふむふむふむ・・・
読んで右から左へ流れそうだったので、速攻、ブックマークに入れた。
小学校高学年~中学生向けぐらいに、難解ではない、やさしい言葉を選んで書かれていた。
うん、これなら、わかる。
わたしも、今日からアリストテレスの弟子。