最近、わたしはヘンだ。
朝、布団のなかで目を覚ました時から、そのヘンぶりはスタートする。
自分の考え、行動を、客観的表現を使った「小説」として、
アタマのなかに設置されているキーボードに、ちゃかちゃか入力している。
「スロー(=わたし)は、快適な朝を迎えたが、いつまでも起き上がらずに、昨日の出来事を思い出していた。
スローの脳内には、いや腸内には、いやいや、食道には、
昨日、あまり噛まずに飲み込んだ、巻き寿司の感触がありありと臨場感あふれ、蘇った。
急いで食べたところが、喉元から食道の真ん中より少し上あたりで、止まったまんま、通過しない。
目を白黒させた、こういった苦しみは、スローにとって、2度や3度ではなかった。
去年の夏、蕎麦をどんどん押しこみ流し入れた時の苦しみは、こんなものではなかった。
喉ゴシつるりの、まさに反対で、
喉と食道との間を行ったり来たりせず、上にも上がらない、吐き出せない、下にも下がらない。
圧縮機械で、プレスされ、糊でべっとり固められ、微動だにしない蕎麦の塊り。
あのときばかりは、
不幸にも、喉に食べ物を詰まらせて窒息死した、仕事関係の知人の顔が思いうかんだり、
死ぬかと思った。
でも、とっさに、掃除機の先っぽノズルを思い浮かべ、吸い取れるか? でも、どうやって?
などと、アタマのなかで、必死で、もがき、試行錯誤していた」
などなど、あれこれ、勝手にストーリー展開が進んでいくうちに、
布団のなかでの時間がどんどん経ってしまい、
「いつまでやってんの? もう、起きんとあかんやろ!」と、
過去ではない、どんぴしゃリアルタイムのわたしが、(文字通り)目を覚まさせる。
(フランス語の文法で、こういう用法「代名動詞」がある→関係ないですが)
でも布団タイムはまだまだ、離れがたく、
布団の上で、日課の側面・片足上げと、腹筋運動を行い、やっと重い腰?を水平から垂直へ、ひきあげた。
たんに、お寿司を食べたことを思い出しただけのことに、こんなに長い文章を浪費した。
ごくろうさま、わたし。
こういう意味のないことには、時間を惜しまないのに、大事な、なすべきとこには、てんで手抜き。
勉強をし始めると、とたんに机の整理や、周辺掃除を始めるタイプ。
重要なことを説明されている最中に、ふと、まったく関係ないことがアタマに次から次へと浮かびだし、
はっと我に返ると、真ん中の説明をすぽっと聞き逃している、ということがよくある。
これは、かなりアブナイ状態だ。
幽体離脱に少し似ているが、似て非なるもの。
体から魂が分離するのではなく、脳ミソから、ミソが分離する?
思考Aから、思考Bに、突然、ワープする。ただし、このAとBは無関係。これが、よろしくない。
目は開いているんだけれど、ちょっといつもの瞳の濃さより、薄いかんじ。
肉体だけ置いて、目だけ開けて、中身は、べつのところに行ってしまっている。しかも、あっちこっち。
でも、いまのところ、元のところに、ちゃんと帰ってくるから、まあ、よしとしよう。
お散歩好きな、わたしの脳ミソ。
これを単に「気が散っている」または「集中力、欠如」と言うのだけれど。
だから、この生まれつきの欠点のせいで、マジメにやれないのかも知れない。
あ、ちなみに、教職とか持っておられる方、すごく尊敬します。(唐突ですが)
話は、ころりと180度変わって、
61歳で定年後、パチンコのやりすぎで、体を壊し、それから社交ダンスに転向したという人がいる。
えらくまた、大きく方向転換したものだ。
パチンコでお金もしっかり稼いで、車も買ったし、旅行にも行ったし、と、まるでセミプロのよう。
だが、あまりにも根を詰めすぎて、どえらいことになり、それ以来は、ぴたっと、まったくパチンコはしていないそうだ。
今は、汗だくになってダンスをして、家に帰って(昨日なら)プロ野球を見て、あとは、ころりと朝まで爆睡。
ダンスを始めて、もう10年以上になるという(つまり少なくとも、現在は72歳以上)、
その方のお話を伺い、お年にはまったく見えないことにびっくり。
朝から晩まで、空気の悪い密室に閉じこもって、
体は動かさず、目だけをギンギンぎらぎら凝視するパチンコより、ずっとずっと、健康的でいい、と、しみじみ思った。
ただし、ダンスをする人は、いまのところ、わたしの知る限りでは、ほぼ100%、お酒はほとんど飲まない。
飲んでも、ビールをほんの少し、といったところ。
これは、一人を除いて、外れたことがない、マイ集計データだ。
この例外は、昨日、わたしのブログにアップした美しき男性。
アル中かと思えるぐらい、強烈にきついお酒のニオイがしていた。
美しくても、いろんな側面を抱えておられるようだ。
そして、あの端整な美しすぎる容貌や、動作から、ストイックで、極端な理想主義者であるだろうことや、
生活感あふれる女性の無神経な逞しさ、雑菌まみれのずうずうしさ、とは相反するもの、相容れないものを感じた。
なので、あの人は、狂気の王ルード・ヴィッヒ2世(1845~1886)や、
そのルード・ヴィッヒを描いた映画を作ったヴィスコンティ監督(ミラノの名門貴族出身)、
同じくイタリア・ミラノ出身のデザイナーで、1997年に、高級男娼に殺された、ジャン二・ヴェルサーチみたいな人かしらん・・・と
(あくまでも)勝手に想像した。
真の美の追求者は、俗な現実を嫌い、女性を寄り付かせない人が多い。
女性は、もわっと暑苦しいんだろう。
とことん無駄を排除した究極の美の追求には、ジャマなんだろう。
それで、女性であるわたしは、あんなに美しい男性と接近したにもかかわらず、ロボットのように感じたのではないだろうか。
やはり美しすぎるものには、現実味がない。生きている生暖かい体温が感じられない。(その代わりに、アルコール?)
わたしは、現実主義の生活者なので、少々汚れている人でないと、呼吸が感じられないのかも。
美しすぎる人と共通点がないって、つらいものがある。
(案外、しゃべってみたら、ふつーの人だったりして・・・
思い込みもここまで来ると、なかなかのもの)
と、見事に、話がころりと逸れた。
これが、わたしの脳ミソからミソがワープするという欠点そのものだ。
ということで、今日も結論はなく、書き散らしただけになった。