蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

師は走るが、馬は走らない

2016-12-30 | わたし
押し迫ってくる年末に負けて追い越されそうだ。
ぐずぐずしていると、新年明け。
時は待ってくれない。

なぜ、わたしはこんなにグズで、優柔不断なのだろう。
人の役には立っていないが、迷惑をかけることだけは避けたい。

わたしなどこの世に居ないほうが、迷惑をかけなくて、いいのではないかしら、と思うと、また涙が流れる。
またまた鬱?

世の中の人々は、いろんな人がいる。
以前はどうも思わず図太くgoing my wayだったが、どうも老化現象なのか、痛く傷つくようになった。

鈍感力の反対だ。
今までの鈍感力が、麻酔切れか。
ピリピリするのであれば、気も回り、気遣いできれば良いのだが、そこは鈍感なまんま。

益々、殻に閉じこもる傾向にある。

これぞ、典型的な孤独な引きこもり?
孤独を愛していたのではないのか?
孤独はまあマシとしても、人から離れたい。引きこもりたい。


と電車内で入力している途中に、夫の実家がらみの電話が、入った。
車内なので、蚊の鳴くような小さなボソボソ声で、わたしは答えた。

「今、向かっている途中です」

電話の、向こうでは
「あ、そうですか。着いたら電話してください。
お宅に、お伺いしますので」
と、待ち構えている様子。

やっぱり、私、スタートが遅過ぎのようで、しびれを切らされた。
こんな用事でもなければ、わたしは完全に引きこもり老人になっている。
しかし、用事は死ぬまで続くのだろう。
解放されるには、母たちのように、自立出来ない状態にならなければ無理。

用事や義務に振り回されるか、引きこもり老人になるか、はたまた自立できない老人になるか、どれがよい?

どの道にしよう、と、うだうだ悩んでいるうちが華。
ある程度のところまで行くと、本人の選択肢がなくなるのだから。

遅刻気味の年越し準備。
姑より1歳年下の元気モリモリの、おばあさんにお尻を叩かれて、馬(わたし)は走る。

もともと馬車馬なのか、働かない馬車馬なのか、
走れない競走馬なのか、走らない競走馬なのか。
食用として馬刺しにされても、美味しくないと思われる。

家を出る時は、自宅周辺ではなんとなく年の瀬、迎春支度も仕上げ前のような、ぴんとした緊張した空気が漂っていた。
わたしは自宅の玄関には、夫の実家で年末年始を過ごすために持ち運ぶ荷物を山のように並べ、周囲の活気ある家並みからするりと抜け出し、ひとり、先に電車で向かった。

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弱々しい内なる対話

2016-12-29 | わたし
年末の強迫観念に苦しむ一歩手前。
いろんなことが起こる直前で、しーんと凪状態で、実は苦しんでいる。

あんた、なにもしないやん。
なんにもしないで、苦しむって、それ、おかしいでしょ?
なにかしたら?
する努力をしたら?
ちょっとでも。

わたしがすることは、おかしなことばかり。
一種の奇行。
母のDNAの恐怖も迫ってくる。
アタマがおかしくなりかけている。
狂っているのかも知れない。

なにもしないのではなく、できない。
サボっていると見なされる。
実際、サボっているのである。
サボり歴、年齢と同数年。

でも、自分は苦しい。

サボりスタンスを謳歌していたはずなのに、バランスを崩しているようだ。
開き直るパワーがなく、なぜか涙がはらはら、こぼれ落ちる。
このまま年を超え、新しい年を迎えるのか。

あんた、鬱ちがうの?

そういう声がどこかから聞こえる。
鬱かも知れない。

原因は?
あれと、これと、それと、いろいろある。

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背後から年末が襲ってくるが

2016-12-26 | わたし
クリぼっち、などという言葉が流行り、街のジングルベルもこころなしか、トーンダウン。
なぜか、こころに響かない。

今年ほど、年末気分が盛り上がらない年はない。
ちっとも押し迫り感がない。
年賀状も、お年賀挨拶品も、お年玉準備もまだ。
ついでに言うなら、掃除もまだ。
家の迎春準備は、もっとまだ。

まだまだ、まだまだ、まだまだ。
わたしの空気が年末ではない。

夫の実家には、とどの詰まりの(使い方、間違っている感あり)年末、30日に行く予定。
既に発送手配、発注済みの御節料理や、暮れ正月用の食品を現地で受け取り、さらに追加品を買いに、年末の安くなった地元スーパーに買い出しに出かける。

娘一家が来ないことと、姑が居ないことで、こうも気が抜けるものか。
し〜んとした、誰の目も気にすることがない、内なるお正月。
ある意味、これが、元々の姿?

12月の次が13月で、その翌月は、2月ならいいのに、と本気で考えた。
1年のトータル月数は、12ヶ月で変わらない。
歳も取らない。
暮れの慌しさもない。
その代わり、年明けの清々しさもない。
(2月が新年月になって、同じことか)

今のわたしは、メリハリは、要らない。
あくまでも、今のわたし、ではあるが。

節目として、正月には子供達が家族を連れて集まってきてくれるのが、賑やかでいいのかも?
我々が親元に集まったように。

とりあえず、あと3日は平常通り。
29日は切り替え日、30日、31日で、バタバタ、行く年、来る年をして、さして重みも思い入れもなく、安易に歳を重ねるのだろう。


実家が地方にある皆さん。
行ったり来たり、ご苦労様。
実家はあっても迎えてくれる人がいない皆さんは、もっとご苦労様。
迎えてくれる、実家の長男一家が実家にいないで、自分の実家を新しく作っている。
家父長制大家族は崩壊し、核家族の時代。

核家族であるが、実家の維持に四苦八苦しておられる。
親なきあとの実家を処分することになる。
地方は、ほんとうに元気がなくなりそうな予感がする。


孫にとっては、実家(子供の家)の実家(我々の家)の実家(我々の親の家)の実家(親の親の家)、みたいなかんじで、着ぐるみの下に着ぐるみを着て、さらにその下に着ぐるみを着ている。
脱いだ着ぐるみが、いっぱい。
蝉の抜け殻みたいに、脱いだものは、どんどん処分していくと合理的のだろうけれど、不動産価値のない田舎では、二足三文。
心情的に、脱ぎ捨てるというわけにもいかない。
それなりのソフトランディングが必要だ。


核家族が進み、子育ても介護も、家庭から国、行政、福祉へ比重がシフトしている。
世の中は、大きく変わったと実感する。

昨日のビートたけしや爆笑問題が出ていた夜の番組「TVタックル」、小学生(11歳)の哲学者が出ていた。
わたしは、あの子供の唱える説には、全く賛成しなかった。
「学校教育のように、強制されて物事を行うのは自由がないから、したくなければしなくてもいい。
協調する必要はない、賛成してくれる人がいなければ、賛成してくれる人と集まり行動すればいい」
そう言っていた。
(編集されて、力説したいことがカットされ、誤解を生む部分だけが放送されたのかも知れないが)
彼は、行きたくないから学校も行っていない。親の教育方針から受ける影響も強いのだろう。

あんなふうに、個人個人の自由ばかりを認め追求していたら、支離滅裂、空中分解してしまう。
おそらく、勘違いして、都合の良い面だけを取り入れる子供も大人も出るだろう。
「子供が」ということでテレビネタになるからピックアップしているのだろうけれど、テレビ側の視聴率欲しさの愚行なら情けない。
専門が科学分野なら応援したいが、
自立もしていない、実体験、経験の少ない子供は哲学を語る資格はないと、わたしは思っている。
周りで、はやしたてるのは非常に不愉快である。
誤った過激な思想に走る可能性も否めない。


と、話は「年末」から著しく脱線した。
はい、いつものことで、すいません。

古い衣を脱ぎ捨てて、新しい老人になる

2016-12-24 | わたし
86歳から88歳の2年間で、出来なくなったこと、あれこれ。
産まれてから2歳までの2年間で、出来るようになったこと、あれこれ。
血統、縦つながりで、わたしの、88歳の母と、2歳の孫。
同時進行。
これに、今秋、沖縄旅行に行った後「オスプレー」の説明をしてくれる、3歳半の上の孫を加えると、84歳半から88歳の母の、下降曲線と、孫の上昇曲線も、対比例がさらに鮮明になる。

この2ヶ月の間に、90歳を超える、ご長老親戚が、バタバタと立て続けに亡くなった。
この世を去るかたわらで、新しい命が産まれる。
(人口は、産まれる人数のほうが少ないから、当然ながら少子高齢化になる)

わたしの年齢は、昔なら鬼籍に入るコース間近なお年頃。
しかし長らえている。
今からが黄金のシーズンらしい。
が、わたしは、得体の知れない無力感に襲われている。

新しい老人が誕生する直前の、産みの苦しみか。
ニューオールド前夜祭。

お祭り騒ぎをする気分にはなれないけれど、何かが動いている。



はたまた、新老人育成セミナー、入塾決定、前期分講習料、納入手続き前か。
いやだ〜、行きたくない〜。
駄々をこねてもかわいくないお年頃でもある。

イタイ!

2016-12-23 | わたし
わたしは、どんどんイタイ老人になっている。
年齢的には、自称「老人予備軍」でもいいのだが、中身、実質的には、ずぼっと老人枠、ストライクゾーン。

イタイ実例を間近に2人も見続けていたが、最近は、自分のやらかしていることがその実例に加わり、イタイ実例数を増やしている。

見る側や観察する側ではなく、参加する側に。
お祭りや、スポーツ、イベントなら、見るだけよりも、参加するのも良いが、イタイ老人実例集に自らの参加実績を着々と増やすのは、非常に寂しいものがある。

イタさを超えて、悲しさを超えて、さらには、なぜか、笑っている。
そして、胸がキュンと切なく締め付けられて自傷の、実感的な痛い記憶はあるものの、感傷に浸るのは数分にして、あとはさっそく、脳の記憶ステージからは積極的に降りてもらおうと働きかける、わたし。
無かったことにしてしまおうという企み。
闇に葬る動き。

そのイタイ実例。
無自覚に、無意識に、間違いをやらかす。
回覧板の回覧日欄に、間違った日付けを記入したり、良人が持ち運んできた醤油を、自分が持ってきたと言ったり、自分では真面目に正確にやっているつもりで、間違った記憶はないのだが、状況証拠から、どう見ても自分が、やらかしている。

〇〇が、盗んだ!
わたしではなく、××が、やった!
とか、全然、叫びようがない。
誰がどう見てもも、わたし以外の誰でもない人物(=わたし)がやっている。
特徴のある筆跡も、わたしのもの。

夢遊病者なのか?
ポカは、よくあること?
(しかし、若い頃からこんな感じ)

世の中で、一番自分が信じられない。
でも、状況証拠を冷静に照らし合わせ、判断することにしている。
自分の仕出かしたことを受け止め認識する。


ええカッコしー、は、カッコ悪い。
自分は、そんなヘマはしない、とか、失敗やミスを絶対に認めない、人生の先輩たち。
自分のミスを認めるとプライドが破壊されるからだろうけれど、事実は事実として、素直に認めざるを得ない事態では、認めたらよいのに。
見苦しい。カッコ悪い。
悪あがきに見える。

自分は難しいことや、ハイレベルなこと、知的なことに興味があり、理解している、という自負、または憧れがある場合、
実際には理解していないし、全くわかっていないし、興味もないくせに、いかにも、その、現代先端、精鋭の、ど真ん中にいるかのように振る舞う。
これも、わかってないのが丸わかりなのに、カッコ悪すぎる。
へんに、知ったかぶりは、著しく逆効果である。
わたしなど、それ、まるまる、そのまんま、知ったかぶり墓穴、赤恥人間。
ふと予想するだけで、その瞬間、顔が真っ赤になる。
間違いだらけの知識、発言だらけである。
「右」を「左」と、「上」を「下」と、平気で言ったりする。
しかも、無意識で。


お年寄りが高齢者施設でやっている、幼稚な遊びや体操など、とんでもない。
塗り絵など、ばかばかしい。
そんな時間潰しのことはしたくない、と、実母は言う。
「じゃあ、これ、読んで理解して、必要書類を作成してよ」と、わたしが、法律や条例の書かれた書類を渡すと、「こんな小さな字は、読めんわ」と、突っぱねる。
彼女は、絶対に、理解できないのはわかりきっているが、自分は人の出来ないようなことをすることに意義を見出す。
理解どころか、自分の身の回りのこともちゃんと出来ないのに。
意識だけは、気高い。


さて、話をわたしのことに戻す。
なかには、気をつけているつもりでも、うっかり、ポッカリというのがある。
が、それも、周りに迷惑を与えている。
わたしなりの、弁解、弁明は胸中にあるのだが、みっともないので言い訳しない。
しかしながら、どんどん、果てしなく落ち込む。
弁解がましい人は、周りには顰蹙(ひんしゅく)を買っても、自分を救っていることだろう。

しょうもない、良い人ぶりっこや、かしこぶりっこは、プライドが邪魔するだろうけれど、イタイからやめたい。
でも、やめようと思っても、なかなか自分の思い通りにならない。
徐々に、ホンモノのアホになっていけば良いのかしらん。
今も、ホンモノのアホだけど。

出来ないくせに、出来ると思い込んでいる人、イタイ。
出来ないで、自分で出来ないことがわかっている人のほうがマシ。
潔い。
かしこぶるアホが、一番イタイ。

それ、やめてんか〜

2016-12-21 | わたし
嫌いで嫌いで、気が狂いそうだ。
バスの真後ろの座席に座った、70歳ぐらいの女性。
詩吟だか、演歌だか、なんだか知らないが、小さな声で唸る。ずっと。
ちょうど私の耳の真後ろに、彼女の口がある。

へんな音色、音調。
ビブラートも、限りなく気味が悪い。
まさに、脳波を破壊しようとするかの如く。
それが、ずっと続く。

たかだか、鼻歌、ハミング。
見知らぬ他人に、怒鳴られたり、殴られたりするよりはマシではないか。

しかし、これが、キツい電波のように、イライラを刺激する。
他にもこういう、おばあさんが時々車内にいる。

やめて〜〜。

バスから降りた頃は、拷問室から解放された気分。
必ず解放される、とわかっているので、ちょっとの時間なら辛抱できる。我慢する。

こんな些細なことでも、回避できずに逃げ道がなく積み重なると恐い。
世の中で起こる、隣家騒音殺傷事件は、こんな些細なことから始まるのだろうか。

ひとり、転じて、ひとりごと

2016-12-20 | わたし
理想と現実の乖離、ギャップに身動きできない。
本人はけっこう苦しんでいるのだが、おちゃらけ天然キャラのせいで、深刻ぶりがまわりに伝わらない。

マジメになればなるほど、しょうもないことをして、まわりに煙たがられる。

自分を理解してくれる人など誰もいない。
だけど。
それがどうした?
理解してもらったからといって救われる?

わたしは無宗教。
教えに、すがれない。すがらない。
無神教。自分が教祖で教徒も自分。
社長、兼、社員、合計ひとりの会社と同じ。
自分ひとりだから小回りがきく。
(て、それ、宗教と別の話になっている)

神があるとすると、「自然」の神様。
人間は、抗えない。

人間は、単体。
ひとり、なのである。


↑と、電車内で入力していて、ここで目的地の駅に着いてしまい、アップしてしまった、、、が。
だから、なんやねん、の世界で、オチを書かないと落ち着けない、「起承転結」病に冒されている。
自己満足ブロガーの宿命である。

で、結論、まとめ。
用事があったりして、とことん命題を突き詰められない、雑用や雑菌にまみれた生活は、人間を救うのだ。

あんまり思い詰めても、ろくなことはない。
好きなことや、美味しいもののことでも考え、想像し、楽しい夢でも見ましょうかね〜〜。
ただでさえ、物騒な世の中なのだから。
今日が一日、平和で暮らせたら、そして明日も平和が続けば、それで幸せだ。
ただただ、それを願うのみ。

これ、オチになってない感あり。
結論は?結論!
結論は、明日に持ち越して、とりあえず、寝るということで。
おやすみなさい。

しぶとい

2016-12-15 | わたし

しつっこく、今日のモミジ。
不思議なことを発見。
色付かず(紅葉せず)、枝についたまんま、落葉しない葉っぱが、あちこちにある。

これ、人間界で言えば、わたし?
時期が来ても熟しもせず、干物にもならず、しがみつく人。
しかも、この葉っぱ、何枚も何枚も、お仲間がいる。
しがみつき、おひとりさま軍団?

ひょっとして、枝についたまんま、こと切れているのでは?
見かけは青いが、実は、青い枯れた葉で、すっかり干物なのかも。
このまま来年まで年を越し、新芽の季節にも居座り、やがて、まぶしい新緑の季節を新生葉っぱたちと共に迎えるのだろうか。

無理無理。

素直に落ちる時期に落ちていればいいのに。
色付かなかったから、落ちる時機を失ったのだろう。
これ、モミジの話なのか、わたしの話なのか。
あのモミジは、まさに、わたしである。

モミジは、わたしに語りかける。
わたしが、わたしに語りかける。

モミジよ、モミジよ、モミジさん。
しぶといのが良いとは限らない。
はよ、落ちろ。

関西弁はシャンソンにならず、なんかいつも吉本新喜劇。

ちりぬるをわか

2016-12-12 | わたし
わたし、ただいま、凪状態。
微動だに動かない。

冬眠中のクマのように、エネルギーをチャージしているのか。
だが、春になっても、活動目標が見えてこない。
やるべき事は、ズラリ、順番待ちされ、手を付けられれずに放置され、ホコリをかぶっている。

次年度、春以降、始動する躍動感あふれることが、次々に控えている。
新しい事が始まる。

にもかかわらず、、、

人間失格か。
生きているだけの、ナマケモノ。
元気が何故か出ない。
活力が湧いてこない。

なんでもしたい放題の、黄金の時期なのに、引きこもっている。


わたしは、早熟でオマセだったので、成長し、熟するのも早く、落ちるのも早いのかも知れない。


エコーの検査時、先生に、
「息を吐いて〜、ゆっくり〜」
「吸ってぇ〜、大きく〜」
「吐いてぇ〜、吐いてぇ〜、吐いてぇ〜」
と言われ、吐けなくなるまで吐いているのに、さらに吐かなければならない、そんなかんじ。
もう、なんにもない。








枯葉よ〜、なぜ散るの?

「なぜ?」に、意味はなく、世の無常です。

ふたつの人生見本

2016-12-09 | 無題
実母は、人の為に尽くしたり、耐えたり、そんなことはしない。
あるのは、自我のみ。劣等感もない。
勢いにまかせ、がむしゃらに倒れるまで頑張る。

それに比べると、一歳しか違わない、同じ時代を生きた姑は、正反対だ。
耐える、辛抱する、目標に向かい計画を立て頑張る。
計画は、作戦だったり、策略だったりする。理知的、策士。
あるのは、プライドと、優越感。高く承認されること。
自分の思い描く水準をキープできないことへの恐怖感。

社会的な人物像として見ると、姑の方が秀でていると、わたしは感じる。
二人とも、ずっぽり戦中派で、学生時代、青春は戦争一色。
学業よりも、国への奉仕。
戦後まもなく結婚しているので、職業として自立するための高等専門教育を受けることなく(教養や生活実践にとどまる程度の学業と思われるが)自立した職を持たず、配偶者や家長の収入で生活していた。

だが、夫の職業が違う分、妻の社会的な立場が微妙に違っている。
雇用されている人を夫に持つか、雇用している人を夫に持つか、で、社会での関わり方が違ってくる。
そこらあたりは、大きい。

夫たちが現役の時と、未亡人になり超高齢者になった今でも、過去の経歴は影響がある。

個性、性格、考え方、経済、など、それぞれ別個である。
長い目で見たり、距離を置いて見たり、見方によって、評価、感想は違ってくる。

どちらが良い悪いではなく、わたしより28年先行く、わたしの、わかりやすい人生見本になっている。

ただし、あくまでも見本。手本ではない。