ドイツブログ。
朝から泣かせていただきました。
わたしにも清らかな涙があるのかも知れない、、、と思わせてくれるような、、、そんな気になった。
過去の記事も併せて読み、また、涙はらはら。
わたしの涙腺は、明らかに弱っている。
さて。
昨日、 NHKテレビ番組を見た。
わたしが好きな番組がたくさんある。
受信料を払う値打ちがある。
だが、民放のバラエティレベルのつまらないものもあり、そういう時は消す。
※ちなみに、民放にも素晴らしい番組がある。
テレビ朝日開局60周年記念の「氷と雪に閉ざされた秘境の地 天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日間」(2020年3月8日 20:53〜23:26放映)は、感動した。
テレビを消すのは、、、
テレビを常に垂れ流している某、あの方(わたしの一番身近にいる人物)の弊害、テレビ公害、2次被害を常に受け続けているので。
身体中に嫌いなテレビ番組の毒を常時、浴びさせられている。
わたしはわたしで、好きな番組があり、あんなに某氏のように、次々行ったり来たりザッピングして番組を変えない。
いよいよ見るものがないからと、テレビショッピング番組までつけている某氏。
テレビショッピングに個人的怨みはないが、買う気もないのにテレビショッピング番組にまで至る行為をわたしはテレビ中毒認定している。
その、テレビ好きを通り越して中毒の人と、ひとつの部屋でテレビライフをシェアするとなると、、、
しかも一生、、、
Les Misérables.
日本の狭い住宅事情では悲惨な例があり、部屋を別に出来ないケースもある。
幸い、少ないながら、わたしには選択肢はあるので、どうにかこうにか生き長らえている。
じっと興味深く見ているテレビ番組をささっと自分の好きなチャンネルに変えられると、怒り以上のものが湧き上がる。
チャンネル権は、もはや生存権に近い。
そして、チャンネルを変える権利もさることながら、テレビを消す権利もあるはずだ。
なので、わたしは見たい番組がない時はテレビを消す。
すると、嗜好や感情の波は、すっとなだらかに上下の差は縮められ平坦になる。
無理やり脳に刺激を求めない。
波動が静かになると、こころ穏やかにニュートラルになる。
たかがテレビ、されどテレビ。
まあなんと長々とした前置き、助走、序章。
で、昨日の面白かった番組。
しかし、ここまで書いて、息絶え絶え、、、。
深く突っ込む気力がなくなった。
とりあえず、さらっと。
偏差値最低学生が東大合格するまでの逆転人生。
可愛い男の子だった。
今、問題にされている、詰め込み式の教育から、考える力をつける教育にシフトする必要性。
教育に一石を投じているが、実践は一足飛びには難しく、更に結果を見るのはまだまだ先のこと。
東大あたりは、とうの昔からやっているのだろうけれど。
わたしは東大の受験過去問題集など全く縁がないから、何とも言えないが。
何故?
これが大事。
丸暗記ではなく、何故なのか?
丸暗記やデータ読み込みは、AIにやらせ、人間はどう料理するか、指示を出す。
しかし、どう料理するかは、基本を知らないですっ飛ばしている無知な頭からは、方向違いの発想が生まれるかも知れない。
それはそれで固定概念にとらわれない斬新なものがあるだろう。
基本を知れば知るほど、新しいアイデアは生まれないかも知れないが、そこを頑張る。考える力。
だが、あまりにも基本を知らなさすぎる場合、話にならないことがある。
素材をいかに活かすか、なんだろう。
一方からだけでなく、いろんな方向性からの取り組み、チャレンジ。
教育のオーソリティがコメンテーターとして出演していたが、理想を実践しようとしている、その東大生に大いに拍手を送って喜んでいたものの、コメンテーター氏自身は実際には頭がカチンコチンで面白かった。
わたしも、気持ちは賛同して舞い上がっても、あんな風か、いや、もっと瞬発力がない。
脳のシナプスがあちこちぶちぶち断絶され、お地蔵様みたいに、微動だにビクとも動かないだろう。
でも柔和な顔をしたお地蔵様だと思う。
雪の日には誰かが傘を被せてくれるかも。
で、次。
その番組に引き続き放映されていた。
若い詩人。最果タヒ。
難解にもかかわらず、よく読まれているそうだ。
さわりだけ紹介されていて、ちょっとだけわかったような気になったが、ちんぷんかんぷん。
日頃、わたしが思っていることとあまり変わらないようにも思うが、言葉の使い方が難解。
人に分かりにくい言葉を自分の感覚に沿った言葉として使っているのだろうけれど、外に発する場合、もっと分かりやすい言葉を使って欲しい。
なので、理解しようという気にならず放置。(じつのところは、理解できずに放置、というのが正解)
深く突っ込まず、ちょっとだけ口に入れてあとは食べずに捨てるかんじ。
作者と読者の隙間、ちょっとした距離、余白があり、親切丁寧にいちいち細かく説明せず、その余白を読者がそれぞれの目線で自分流に解釈するんだそうだ。
わたしは、余白にも入れず。入り口で、Uターン。
高速道路で言えば、ECカードを組み入れていないで現金を支払おうとしても係の人が居ないで、遮断機が開かない状態?
この作者、たんに自分の世界のワケのわからない感覚的なことを発しているだけなら、わたしは寄り添う気はないと思っていた。
しかし、この作者、インテリだった。
わたしは、水戸黄門さまの葵の御紋の印籠のように、インテリの証、日本で有数の天才が自由に学ぶ大学イメージの、権威ある「○○大学」在学中から活動、、、には理屈抜きで弱い。
ミーハーの極め。
東の東大に対して、自由な学究イメージを持つ。
なので、作者プロフィールに強烈な先入観が後から上塗りされると、ワケわからん詩は、賢い人の頭脳、発想にはわたしは着いていけない、理解できない、という感想に変わる。
ワケわからんのは、わたしがアホだからなんかなあ、、、と。
いや、そこまでは卑屈にはならないにしても、脳の種類が違うんだと感じるに至る。
良い悪いではなく、上と下、比較するのではなく、種類が違うため、同じ枠内、土俵では闘えない。
だから、降りる。
結局、降りることには変わりないのだが。
この作家の詩が好きな人は、今、現代社会で真摯に生きることに向かい合っている人が多いのかと想像した。
何故?と問いかけながら、自問自答、試行錯誤を繰り返し、一生懸命生きているような人々。
この作者は、人にわかるように説明するのではなく、自分の言葉で自分の感覚や脳内を表現しているのだけど、ひょっとすると、たんなるわたしの好き嫌いだけかも知れない。
昔、吉本ばななを読んだ時に、まるで無理解、無感動だった。
そんなかんじかな?と。
作家名は、好きだけど。
わたしは、きっと理解する側には居ないで、勝手に一人で遊んだり静かに騒いだりする派なんだろう。
人の書いたもの、特に感覚的なものは理解しようとしない、撥ね付けてしまう傾向があるようだ。
が、取材ドキュメントものは好き。
ドキュメントにも作り手側の意向や意図があるので、そのまま丸々受け取ると、作り手側に踊らされる可能性がある。
そこで、考える力が必要になる。
事実をどのように見せようとしているか、見せる側の目も同時に持ちながら、何を訴えようとしているか探る。
訴えられたからといって、賛同するとは限らないが、感動することはあり得る。
敵の手に惚れる、みたいな。
と、長々、着地点が見つからない。
軟着陸、さて、どこにしたらいい?
ちなみに、最果タヒというペンネームは、すごくいい。
けど、孫に命名にはやめておこう。
暗いから。