蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ホンネ

2017-09-30 | 趣味
ホンネは言えない。
書くことは出来る。
が、相手に直接、言えない。
言ったところで、事態は悪化するだけ。
誰も救われない。

わたしの悩み患いの種となっていた、趣味関係の某氏、Aさん。
今まで、何人もペア相手を替えている。
お相手だった皆さん、それなりの理由をつけて、自分が悪者にならないよう、うまく立ち回り、逃げていると感じる。
笑顔を見せながら後退り。
なので、Aさんは、自分の欠点や非に気づかず、相手がコロコロ替わるのは、偶然の外因のためだと思っている。
これって、結構、深い問題。

そもそも、なぜ、皆さんは、上手に逃げるのか。
オトナの知恵。
とかいって、わたしも上手に逃げた(と思っている)一人。
皆さん、相手を傷つけまいと優しい、と一見は思われるが、そうではない。
自分が悪者になりたくないのだ。
要はなんでもいいから、トラブらずに悪い印象を持たれずに、別れたい。
何よりも、別れたいのが、第一。
いかに、上手く別れるか、は、二の次。
どうしても別れられなければ、汚かろうが恨まれようが、グチャグチャになろうが、何がなんでも別れるだろう。

Aさんは、紳士である。
物腰や言葉使い、表情は、優しく知的な雰囲気。
話の内容も、低俗ではない。
背も低くなく、品のある顔立ち。
第一印象で嫌だと思う人はいないだろう。
なので、Aさんと縁のある人々は、非常識なヒステリータイプはいないと思われる。
外側は、オッケーなのである。

問題は、内側。
外側の優しい柔和なイメージとは異なり、内側は自分本位。
相手は自分に合わせるものだと思っている。
自分の考えに合わないことがあると、相手に苦言を呈する。
「自分が間違っているかも? 」「相手の意見を聞き、調整したほうがいいかも?」
とは考えない。
「信念の人」といえば聞こえは良いが、頑固者。

人の気持ちを考えず、無神経なことを平気で、ずけずけ言う。
せめて、フォローの心構えがあれば、欠点を補うことは出来るのだが。

まあ、これらの欠点は、多かれ少なかれ誰にでもある。
欠点を上回る長所があれば、クリアできる。
が、わたしにとって、なんの長所も感じられない。
本人は、自分は悪くないと思っているのでフォローする必要性を感じていない。
だから、欠点だけが浮かび上がる。

ダンスをするのは、二人での共同作業。
自分のことだけを考え、自分は強靭に何も変わらず、相手に合わさせるダンス。
ダンスの神様や、尊敬するプロならともかく。
それだけでも十分、嫌。
ストレスの塊。

歴代のお相手の皆さんは、どうお感じになったのかは知らないが、長続きしていない。
Aさんの怪我でペア続行がダメになった例もあるが、さっそく、当時のペア女性は次のお相手を見つけている。

まあそういう訳で、オトナの綺麗な別れ方を皆さんされているので、Aさんは、よもや自分の性格に基づく行動が嫌われて、愛想を尽かされたことに気づかない。

一生、気づかないままである。
幸せなのか、不幸なのか。

誰も親身になって直してあげるためのアドバイスや、進言をしてあげない。
損な役回りをして嫌われてまで、正義感を振りかざそうとしない。
深く関わりたくないのだろう。
愛されないキャラなのか?
でも、本人の耳が痛いようなことは誰も言わないから、本人は傷つかない。
しかし、身内や家族はいったいどうしているのだろう。
(余計なお世話)
ちゃんと仕事をし、家庭を築き、子供達を育て、親を看て、立派な社会生活を送っておられるので、褒められこそすれ、アカの他人にとやかく言われる筋合いは全くない。
とりあえず、わたしは、アカの他人というポジションに戻れ、ただただ嬉しいだけである。

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自分の人生、流れ流されるままに

2017-09-28 | 無題
マインドコントロールされた人がいる。
親に知らず知らずにコントロールされ、親も知らず知らずにコントロールしていた。

戦時中の軍国主義のようなもの。
自由な発想はない。
しかし、わたしは、ある日、価値観は、自分で作るもの、と気づいた。

親や周りのお仕着せではない。
流されたくない。
地域に根ざす価値観とは相入れなくなった。
そういう場合、どうするか。

子供にも自分の価値観を押し付けていたとする。
ころっとスタンスを変えては、まだ人格が固まっていない未成年なら、混乱をきたす。

自分で調整してね!と、無責任に背を向けるか。
戦争や革命で価値観がころっと変わることは、歴史上、よくある。
特権階級が入れ替わる。
そのドサクサで成り上がる人もいるし、没落する人もいる。

別に大きな出来事がなくても、価値観が変わることもある。
権力の新旧入れ替わりの時期。
年功序列は崩れ、合理主義。
努力する時間の長さではなく、成果で評価される。
あるいは、親の事業が失敗したり、なんらかの不幸な出来事が起こったり。
天と地ほどの差がある暮らしになる。

美徳の中味も変わる。
時代の移り変わり、流れである。

一方で変わらないものもある。
時流を取り入れ、自分流アレンジをして価値観を繋ぐ。

我が家の跡取り息子は、遠い地に赴任してしまい、ちょっとやそっとでは追いかけられない。
うまい具合に逃げられた。
彼の自立心、絶妙な自立の方法には拍手を送りたい。
親が最期の時ぐらいには、駆けつけてくれるだろう。
バトン渡しにかかる時間は短時間でも、それなりにバトンタッチできれば、それでよし。
バトンを受け取らない、という選択肢も残されている。

流されたくない時は、必死でしがみついているものへの力を抜いて、流されてみるのも、ひとつの方法だ。
それも結果的には、自分の進みたい道にたどり着いたりもする。
しかし、かなりの信念と忍耐力は必要。
すぐに結果を出したい人には不向き。
短気はいけません。
もちろん、たどり着かないこともある。
それはそれで、流れのままに身を委ねてジャッジは神に任せよう。
(わたし、無神論者ですが)

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お蔵入り記事が3つ

2017-09-28 | ブログ
非公開記事が3つ溜まっている。
どれも辛辣すぎて、毒があって、明るい未来を照らしていない。
斬ったところで、解決策がなければ意味がない。
行先を照らさなければ、痛いだけでは、辛いだけだ。
なので、公開しない。
自分でそれを自分流解釈、納得して乗り越えられるまで、痛々しい現状とドロドロは寝かせて醸造させる。

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安堵の朝

2017-09-26 | 趣味
やっと胸に支えていた重々しい黒いものが、取れる運びとなった。
そのこころの経緯をつらつらと書いたが、ホンネすぎて、毒々しすぎて、非公開にする。

結論としては、悩みのモトが断たれた。
ああ、よかった。

とりあえずは、傷を癒す時間。
それが過ぎると、また新しい悩みが待っているんだろうなあ。

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土蔵の中で

2017-09-23 | 
今日は、お彼岸。
嫁ぎ先の墓まいりをした。
お坊さんが檀家を回ってお経をあげる。
恒例行事。
代々、姑たちは、1日も欠かさず、やっていた。
姑抜きで、お坊さんを迎えたのは、今日で5回目。
姑が倒れてからの、去年のお盆、秋の彼岸、今年の春の彼岸、お盆、秋の彼岸。
1年に3回。
お坊さんの稼ぎ時である。

姑たちは、嫁に来て、全員、姑になっている。
わたしだけが、たんなる嫁で、姑という肩書きがない。
息子に嫁がいないからである。致し方ない。

これも時代の流れだろうと、自然に任せている。
奥の土蔵に入ると、わたしの息子や娘たちに実家から贈ってくれた、兜、破魔弓、お雛様、羽子板、市松人形などの入った箱が、積まれている。
娘や息子に贈られた箱の上にかぶせた紙の上の土埃はまだマシ。
(土蔵なので、土埃がある)
思いっきり土埃だらけの紙が乗っているのは、60年以上前のお雛様や、その前のおじいさんたちの兜や人形。
ちょっとマシな土埃の紙に包まれているのは、多分、舅の兜。
これは、毎年のように出していると思われる。

この人形などが入っている土蔵は、電燈がないので真っ暗闇。
小さな窓をパタンと開けて窓に突っかい棒をして、お昼間に入るか、
はたまた、工事現場やイカ漁船を照らしているようなライトを蔵の外にあるコンセントプラグに差し込んで、コードを延長させライトを灯して中に入る。
一階は人形類。
二階は昔の陶磁器や漆器類。
前に入った時より土埃がすごいように思う。ゲホゲホ。
ぶーんと蚊の鳴くような音がして、刺されたら嫌だと焦る。
なかなか、お目当ての品が見つからない。

お目当ての品は、小ぶりの木目込みお雛様。
娘に、初めての女の子が生まれたので、来年、お雛様を娘の住んでいる家に飾ろうと思う。
わたしに長女が生まれた時に実家から贈ってもらった仰々しいお雛様一式はあるが、そんなたいそうなものは、飾れない。(手間、スペースの問題。アンチ省エネお雛様)
次女が生まれた時に、買ってもらったお雛様は、マンションの玄関にでも飾れるコンパクトサイズ。
あれがいいなあ、と思って探したが、なかなか見つからなかった。
しかしながら、仰々しい兜やお雛様、一度出さねば。
そして、箱を包む土埃だらけの紙を新しい紙に変えねば。
前にわたしが、姑と見て初めて飾ったのは30年以上前で(最後に娘、息子の兜、雛人形を飾ったのは25年ぐらい前)、その時についでに見た箱に乗せてあった紙は、昭和30年ぐらいの新聞紙が箱の上にかぶせてあった。
夫の五月人形だ。
30年に一度の、オープン。
その時は、さらにその25年ぐらい前(85年ぐらい前)のお雛様(舅の妹の分)もついでに飾ってみた。
なぜ、舅の妹(夫の叔母)のお雛様があるかというと、、、、
舅の妹が生まれた時に、お雛様を母親の実家から贈られたものの、後に舅の妹は嫁に行ったが、女の子が生まれなかったため、実家にお雛様一式を引き取ってもらった。
たぶん、二人(姑と、1代前の姑と)で、一度は出したものの、その後は、ちらっと存在を確認しただけではないかと想像する。

しかし、わたし一人でガッツがあるかどうか。
30年前には、姑とわたしは、二人で開けて飾って、収納した。
夫の分や、舅の妹の分は、土埃だらけの紙を捨てて、箱から出して飾るにも、膨大な量で、お雛様が佇むお屋敷も、木製の組み立て式で、ものすごく複雑な設え。
出すのは良いが、飾り方に四苦八苦(30年前もかなり苦労した)、それにも増して、仕舞うのが、多分、手に負えない予感。
なので、気持ちは前向きだが、一人ですったもんだの手間暇を考えると、出さないでおこうかと思う。
娘と息子の分だけ、出すことにして。

とすると、子供の誕生を祝う品々は、わたしのようなズボラな者にとっては、贈ってもらった時しか飾らないということだ。
実にもったいない。
昔は、丁寧に手間暇かけて、子供の成長を愛情込めて願い、祝ったものだと、つくづく感じる。

親のこころ、子知らず。
しかし、ライフスタイルも変わり、兜、雛人形、破魔弓、羽子板、市松人形、、、これらを嫁の実家の親が子供一人一人に贈っていた時代は過去になりつつあると思う。
(もう過去完了かも知れない)

わたしは、孫には、作家が作ったの木彫りの兜(壁掛け仕様)と、マンション玄関仕様の破魔弓を贈った。
しかし、あれも、小学生になれば飾らないだろう。
何十万円もするお雛様や兜が、季節になるとデパートに売られているが、親ごころ、どこまで子や孫に伝わるか。

土埃にまみれた土蔵の中で、わたしは、自分の役割を果たさずに、途中下車して降りようとしている自分を発見した。

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身から出たサビ

2017-09-21 | 趣味
わたしは、努力嫌い。
いつもサボることばかりを考えている。
いかにすると、手を抜き、効率の良い結果を出せるか、試行錯誤する。
そんな「手の抜き方」の試行錯誤なら、手を抜かず、一生懸命マジメに真摯に取り組んだほうが、早道かも知れない。

嫌だ嫌だと避けても、結局は、やらなければいけない、通らなければならない道なら、ぐずぐず入り口でダダをこねてないで、潔く努力の道に突入すればよいものを。
努力しない道を探すことに、全力をかけ努力している。
これって、明らかに努力の方向性、方法を間違えている。

努力しなければ、思いは達成しない。
努力せずに思いを達成しようとするなら、努力を怠った分の内容しか、思いは達成できない。
ちょっと、ほんの少しだけ効率が良いとしても、30%の達成率のところが、40%になるだけであり、100%からは程遠い。
頭から努力をしない方針で計画を立てている。
そこに、わたしの、何事も達成できない、超中途半端な、サボり人生そのものが凝縮されている。

サボっているのだから、結果を受け止めなければいけない。
自分のやったこと、自分の判断したこと、自分の能力に対する結果は、誰のせいでもなく、自分のせいである。
より達成率を上げたければ、サボるのはやめて、努力を重ねるしかない。

努力を重ねて脂汗をかき、苦しいけれど乗り越え、達成感、充実感を味わうのだろうが、、、
悲しいことに、わたしは充実感を得る前に苦痛のために、努力を放棄する。
ここが頑張りどころ、という点に立つと頑張れずに倒れる。
根性がない。

頑張れないということは、目標設定が高すぎるのではなかろうか。
あっさり降りて、自分を守ってもいいのではないだろうか。
戦おうが、降りようが、負けは負け。
負け犬、負傷兵で目に見えない傷を負いながら、静かに生きていてもよい。

戦う勇気、立ち向かう精神は目立つし、称賛に値するが、戦わないのは意気地なしと見なされ蔑まされる。
蔑まされてもいい。
世間の称賛を浴びたいために、わたしは生きているのではない。
自分のために生きている。
なので、戦うか戦わないかは、自分のこころだけに忠実になる。

いま、こころの声を聞こうとしている。

昨夜、あと数秒で戦いから降りるところだった。
降りる具体的なアクション・ツールとしては、スマホ。
入力はしたが、送信をためらっていた。
まだ迷っている、意思が固まっていないのにその段階で、誤って指が滑ってスマホ送信してしまっていたとしたら、事態は変わっていただろう。
一日、待とう。
そう思い、送信画面に何度も行ったが、送信するのを思い留まった。

しかしながら、戦いから降りたところで、また新しい戦いが待っている。
自分が変わらない限り、戦いはずっと続く。
自分が変わるというのは、努力して自分を高めるということだ。
努力を放棄して戦いから逃れても、目標から脱落した自分とどう向き合い、どう認めるか。
答えは、、、「諦める」。
惨めになった事柄から遠ざかる、距離を置く。
戦って負けた時と、結果は同じ。
戦っても戦わなくても、どっちみち、同じなのだ。

個人個人の性格は違う。
戦わないで負けるなんて、そんな屈辱は耐えられない人もいる。
戦っていたら勝っていたかも知れないのに。
「飛び込むんだ、勇気を出して!」
などと映画のワンシーン。

戦うか戦わないか、考えて考えて、究極のところまできたら、わけがわからなくなって、その場の成り行きに任せそう。
黒田官兵衛には、なれない。

いいかげんな人生。
いいかげんな性格。
わたしは、アタマのネジがゆるい楽天家?

が、考えて考えて、悩んで、わけがわからなくなること自体、戦いの真っ最中なのかも知れない。

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押し付けがましい、幸福への道案内

2017-09-20 | 日々のこと
スマホの画面に、あれこれ広告が出る。
出ない時はないぐらい。
中には、画面のど真ん中を横断する、チカチカする帯CMがある。
あるブロガーさんのお気に入りブログなのに、そのCMが著しく目障りで、記事の中身に集中できない。
ブログを書いているご本人は、自分のスマホブログ画面がそんなことになっているとは、おそらくご存知ないと思うが。
どうも、あのチカチカには、頻繁に訪れる気力を奪われる。
いくら無料のブログとはいえ、無理やりCMは、やりすぎではないか?

と、長い前置き。

スマホ画面CMの中に、断捨離セミナー勧誘みたいなものがある。
CDや、テキストの購入を促すようだ。
べつに、買わなくても、イントロ導入部だけで、十分役に立つ。
「もっと知りたい方は、コチラ→」となって販促につながるのだが、そこまで読めばもう中身を知ったようなものだ。
そのCMは、かつて何度も読んだことがあるのだが、またまた今朝も読んだ。

で、、、感想。

断捨離、自分でします。
なにもテキストがなくても。
というか、断捨離、しません。
わたしは、両極端の逆ベクトル同士が引っ張り合って成り立つキャラクター。
中庸はない。平均値は、真ん中。
なので、モノに対しては、必要な品は、ゼロか、全て。
断捨離するなら、全て捨てる。
断捨離しないなら、全てのモノをお取り置き。
そして今は、断捨離しない人生時期。

CMでは、不仲で冷え切った夫婦が、断捨離で会話も増え、笑顔、笑い声が響き、ご近所やお友達からも、その変化に驚かれている、とのこと。
借りに我が家なら、断捨離したら、ただでさえ隙間風ビュンビュンなのに、一気に破綻するだろう。
夫はモノを整理しない、捨てない人。
勝手に捨てたら怒るので、いちいち聞くと、返事は全て「捨てずに置いといて」。
自分の分でも必至の努力なのに、夫の分がそうなら、断捨離ストレスが爆発する。
ましてや、夫の実家には、めまいがするほど昔からの物品が、どどどんとあるが、それは生活空間からは分離され、生活を脅かさずに完結している。
昔の暮らし民俗資料館となっている。

夫婦関係が破綻するだけでなく、精神的に病気になったら、
断捨離提唱者の方、責任とってくれます?

提唱者に責任の所在を求めるのは、当然間違っていて、提案を取り入れるのも、取り入れないのも、こちらに能動的な選択肢がある。

断捨離する気もないのなら、反対意見をぐだぐだ書くのは、意味があるか?
全くない。
断捨離CMを見て、自分の考えを再確認しただけである。

どんな考えか?
人それぞれだなあ、と。
断捨離は、モノだけでなく、こころの整理、人間関係の整理を行うもの、とのこと。
子供に手もかからなくなり、老いていく不安にもかられ、こころに、ぽっかり穴があいている、アナタへ。

自分基準で断捨離すればいい。
他人に導かれ、他人基準の断捨離なんか、もっての他。
他人と自分が、同じわけがない。

人間、老いるのは当たり前。
あまりある時間で、生物学の本でも読めばよい。あるいは哲学書。
(すぐに眠くなって、ほどよい快眠)
なにをしていいかわからない、なにもすることがないなら、ボランティアをすればどうだろう。
ただし、押し付けがましいのは暑苦しい。
なにもしなくていい時間が、溢れかえる状態なんて、最高の時間だと思う。
断捨離して、モノやこころが片付いた後に、さあ、自分のやりたいことが見つかった!とばかり喜んだ途端に、自分の自由タイムが終了するかも知れない。
断捨離する暇があったら、先にやりたいことをやっておいたほうが悔いが残らない。
やりたいことがない人は、ギャンブルや薬に溺れるぐらいなら、断捨離して時間潰しをするほうがよい。

なんて、断捨離に毒づいているのか、チカチカうるさい広告に毒づいているのか。
今朝は、毒づく対象が見当たらなかったので、待ち時間にブログってみた。
思えば、わたしは、いつも待ち時間。
待っている時間のほうが大事なものが詰まっているのかも知れない。

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カウントダウン

2017-09-19 | 趣味
毎度毎度、愚痴愚痴。
自分ながら情けない。
が、膿を出します、皆さん、避けてください。

趣味のことは、趣味程度に留めておくのが、一番、趣味を満喫できると思う。
わたしの場合、あまり、シャカリキになるのは、エンジンが焦げる。
元々、大型車の排気量で、そぉっと走るのが好き。
軽四でムリムリ飛ばすなら、いっそ自転車か徒歩で。
わたしにとって、余裕が無いのは、空気が無いのと同じ。
というわけで、たとえ大型車であっても、ガンガン飛ばすのは、わたしの嗜好には合わない。
好きでゆっくり走って(歩いて)いるのに、速く走れと、ピシピシ鞭を打たれても、走れない。走らない。
だから、趣味の楽しみ方は、わたし流を選びたい。

そういうことは、やってみないとわからない。
なので、自分には合わないやり方は、消去していく。

最後のご奉公が終われば、来週からは、仕切り直し。
少し離れてみたい。

今までこんなに鬱陶しくて嫌だったことはない。(たぶん)

所詮、趣味。
楽しくなければ意味がない。

こんな同じような内容を何度もアップするなんて、わたしも相当、ヤキがまわっているようだ。

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手作りメニューは、高コスパで、しかもハッピー

2017-09-18 | 日々のこと
台風も過ぎ、やれやれである。
今朝の太陽に、ほっとした。

昨日は、朝3:30起床、5時に家を出た。
目的地に着いたのは7時頃。
長い一日(3分の2日?)となった。
重くて痛い足を引きずり引きずり、帰宅するなり、寝込んだ。
夕飯は、娘が作ってくれ、感謝。
あと、1回のレッスンと、1回の試合で終わり。
ただただ、その日を待っている。
あと一週間。
それで終了だ。

話は変わるが、
今日は、まん中の孫の3歳のお誕生日。
ほんとうは、一週間後なのだが、その日は、わたしの最後の試合があるので、前倒しにしてくれた。
ハッピーバースデー 。

カボチャコロッケ、カボチャ煮、春雨チーズ巻き、ワカメもやしサラダ、ポテトサラダ、玄米赤飯、シシャモ。
次女の手作り人参ほうれん草パウンドケーキ、アイスクリーム添え。
高コスパ。
お婿さんのお母さんの、お食い初め手料理よりは落ちるけれど、
ケーキまで手作りにすると、食費は、ものすごく抑えられる。
大人5人、子供2人で、材料費は、2000円ぐらいかも?
メニュー基準は、子供が喜ぶもの、子供の好物、子供中心に選んだ。
夫が、出かける用事があったので、ケーキを買って来ようかと聞いてきたが、パウンドケーキとアイスクリームを予定、それ以上ではカロリーオーバーとなるため、却下された。(長女の要望により)

○○のお取り寄せグルメ、△△店の有名ケーキ、××の、、、
などではなく、手作りオリジナルを重視、すると収入がバタンと激減してもやっていけそうなメニューになった。
全て手作り。お安く、栄養バランスも悪くない。
食材の買い物は、長女と婿、料理は、わたし、婿、次女、の3人共同制作。
食前酒には、甘味果実酒(ESTD 1790 SANDEMAN ポルトガル本社で出会って持ち帰り、それ以来、輸入品を購入)の炭酸割り、シャンパンや日本酒、さらにノンアルコール梅酒も。
食事の割には、アルコールが充実していたかも?
お酒だけは、大人メニュー。
お酒を飲めたら、みな美味しい、と感じる、単細胞集団。

しあわせは、高いお金や、無駄な労力を使わなくても、ほんのそこらへんに落ちている。

自宅手料理、食べ物記事は、内容がお粗末で読む側には参考にならない、そういうのが苦手なわたしのブログには似合わないなあと思った。
が、まあいい。
自己満足、自己完結のストーリーだ。

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ぐだぐだ負け愚痴

2017-09-16 | 趣味
台風のど真ん中の日に、試合がある。
勝ち進んだら、台風がきつくなる時間に突入し、早々に負けたら、雨風が激しくなる前に帰れる。
勝ってよし、負けてよし。
でも、帰りにタクシーもなく、大きな荷物を持って、風に飛ばされるかも。
「負けてよし」に絞られそうだ。

相変わらず、趣味の相手からは、わたしの技量、能力に対する全面否定の超失礼な言葉を浴びさせられている。
わたしは、言いたいことを抑えているのではなく、言われている内容に反論できない、自分の技量の未熟さがある。
しかしながら、これは一種のモラハラ、パワハラではなかろうか。
先生に言われるならいざ知らず、完璧でない素人に言われることに抵抗がある。
まあ、あと少しの辛抱なので、爆発してもエネルギーの無駄遣い。
当初から心準備していた、終焉予定の期日に刻一刻と近づいている。
だから、まあ、いいのだ。
最初から、終わりを見据えた修行と思っている。
嫌々、渋々の後ろ向き姿勢オンリーではなく、せめて得るものは得ないと、苦労の念だけ残るのはバカらしい。
転んでも、タダでは起きないのが、わたしのモットーである。
なにかしら、掴むものを掴みたい。
人生に、無駄な時間は無いはず。


趣味の世界にも、人それぞれの生き方が出る。
血の滲む努力をする人や、スケールの大きな人、おおらかな人、色々いる。
わたしは、やはり、エコ。
無駄な動きは、したくない。
とは言っても、今まで10年間、無駄一本槍だった。
エコを掲げているくせに、全然、反比例。
まあ、そこは趣味の世界。
お遊びを効率的にやってしまったら、すぐ終了してしまう。
なるべく、長く、グズグズ引きずったほうが、楽しみが長持する。
「どんくさい」とは言わず、体裁よく、「奥が深い」と表現しようか。
と、負け惜しみを言って、自己肯定。

さて、その趣味にも、根本的な人生スタンスが現れていると感じる。
たとえば、、、考え方。
真摯な人、真面目な人、負けず嫌いな人。
様々だが、わたしは、考えなしの人である。

人の踊りを見ていると、人のことはよくわかる。
ある、女性が上手、男性イマイチのペア。
長く頑張っている。
が、試合には勝てない。
そこでわたしは、思う。
イマイチの男性をレベルアップさせる時間、エネルギーよりも、イマイチでない男性とペアを組み替えたらいいのに。
なぜ、あのイマイチの人と長くやっているのだろう。
二人の世界にどっぷりで、客観的な評価を気にしないなら、試合に出なければいいのに、試合には出ている。
試合に出るなら、勝てる相手と組めばいい。
と、そこで、勝てない相手とでも試合に出続けるには、理由があると思う。
おそらく、イマイチでない男性がいないのだろう。
あの、上手な女性に合うレベルの男性の絶対数が不足していると思われる。
女性も、ピカイチ上手だとか、若い美人だとかなら、相手も選り取りみどりだろうけれど、普通に上手(飛び抜けて上手とまではいかない)ぐらいでは、見合った男性は、ある程度の技量がある若い美人か、居心地のいい人と組む。
で、若くない女性は、技量が少し落ちる、イマイチ男性と組むことになる。
年齢は若くなれないのだから、自分の技量レベルをもっと上げないと、相手ターゲットとして、イマイチ男性からは抜け出られない。
技量を上げて、同レベルの男性と組めたらよいが、同レベルの男性は、さらに技量に加え、若い美人と組む。
マッチングできないスパイラル。

余るのは、普通に上手な女性と、イマイチ男性。
ということは、あのペアは、相手を替えることは困難だということだ。
替えたとしても、「普通に上手な人の市場」と「イマイチ市場」の中から、再度、洗い直し、物色、組み替え。
固定カースト制における、マイナーチェンジ。

二人して、少しずつ上達目指して頑張るしかないのかも知れない。

あとは、普通に上手な女性が、普通に上手な男性と組むコース。
普通に上手な男性は、引く手あまたなので
男性のご機嫌を取りながら。
それが嫌なら、イマイチ男性で我慢。

わたしの場合、ペア相手は、たぶん、「普通に上手」レベルだと思う。
わたしはイマイチ技量、なので、彼は自分より下目のわたしをボロカス言いながら、自分のペースでやっていきたいようす。
(とびきり上手な女性からは相手にされず)

わたしは、イマイチ技量ではあるが、ボロカス全面否定には耐えられないので、レースから降りようとしている。
そもそも、わたしは、レースなど向いていない。
貴重な経験をさせていただいたことには、感謝している。
何事も、やってみなければわからない。
やらずにケチをつけるのはよくない。

先生でもない素人の、上から目線は、あほくさくて、やってられない。
ということで、あと、ほんの少し、解放される日は目前となっている。
心配なのは、台風だけである。
(これが一番、深刻に心配だ)

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