蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

孫に問われて、まごまご

2025-01-06 | 無題
gooのサイバー攻撃?による、システム障害があったと、他のgooブロガーさんが書いていた。
それでなかなか復旧しないとかで嫌気がさし、別会社運営のブログにお引っ越しするらしい。
フランスの弟(裕クン)もシステム障害に巻き込まれている様子。
ある別のgooブロガーさんは、お引っ越しするぐらいなら(面倒くさ過ぎて)gooと心中するとのこと。
わたしも、心中の口だが、気力が残っていたらお引っ越し、脳みそが完全に壊れていたら、丁度頃合いの電子断捨離になる。
負の電子遺産を始末することになるが、ブログはわたしの生きがいなので、出来れば心臓が止まる一瞬まで、いや、それは言い過ぎ、、、出来れば、復活不可能と自分で判断、見極めた時点で、電子遺産を処理、サヨナラしたい。(あくまでも理想)
あとは、生きるシカバネとなって、その後、できるだけ短い時間に、両親の元に行きたい。
(あ、母は存命なので、母を遺してということになるか。
だとすると、誰が母の面倒を見るのだろう??)

引き取り手も、帰る場所も、お金もない、入院している人は、生きている場合、どこに移るのだろう。
行政が道を付けてくれているのだと推測するが。
亡くなった場合は、わかりやすいが(NHK TV番組「クローズアップ現代」で特集されていた)、生きている場合が、具体的に想像しにくい。

と、相変わらず話が脱線している。

それはそうと。
夫の実家では、お正月に今年の恵方に向けて、神具の台座(三宝)にウラジロ、その上に鏡餅、串柿、橙を載せて、拝む。
実家オリジナルとして(かどうかは知らないが)、今昔のお金も載せるのが慣わしとなっている。
それを蔵のニ階に取りに行き、元に戻すのが若干、面倒ではあるが。
三宝も同じ蔵のニ階に前は置いていたが、いちいち取りに行くのが厄介なため、別棟一階に、他の神具台座と同じ場所に置いている。
お節用腕や小皿も、一階に下ろして来た。
重箱も別の場所から移動して、全部、まとめて手近に置き、わたしが楽なようにした。

しかし、お盆お供え用碗皿は、蔵ニ階のまま。
とは言え、すぐ出せるように一人用お膳に個々にセットしている。
この一人用お膳は20膳あり、大きな木箱にきっちり納められていて、いちいち取り出し、ちゃんと元に戻すのが面倒だった。
わたし仕様の手抜き保管方法にチェンジ。
何年か毎に、保管の仕方が段々雑になっている。

で、今年の恵方は、ネットで調べると、西南西になっていた。
そっちを向けて、お正月、元旦のご挨拶。
三ヶ日が過ぎ、実家から自宅に帰る頃、それら三宝やお餅を元の場所に仕舞うのだが、せっかく出したのだから孫たちにレクチャーしようと試みた。

「今年は、恵方は、西南西。
ばあちゃん、ネットでわざわざ頑張って調べたんやで」
と、一人しか聞いていない聴講生の1番上孫Y(小6男児)に説明した。
すると、即座に、「恵方って、誰が決めたの?」と質問が返って来た。
「誰って、、、ネットの答えよ。間違ってないはず」

360度あって、恵方の方向が順々に変わっていって、、、もごもご、、、と、わたしは中途半端な知識を披露しようとしたが、もごもごから枠を出ない。

1番上孫は、(その説明はいいから)「なぜ恵方を向いて拝むの?」と、根本的なことを聞いてくる。

わたしは、もごもご、もごもご、、、

なんでもいいから、恵方を向いて拝めばいいんだ!とは、やはり、言えない自分がいた。
熱心な信仰者である、姑やその上の姑たちは、なぜ?なんて、なかった。
理屈抜きに拝めば救われる、という信仰。
お経は、なぜ読むの?
意味なんかない、読めばいいのだ!
実はお経には意味がたっぷり詰まっているが。

「末端の信者は、そんなことは考えずにひたすら決まっていることを敢行するのみ」

わたしたちのやりとりを聞いていて、そう側から言ったのは、長女(小6孫の母親)だった。
彼女は仏教は学生時代、授業で習い、詳しい。

そう言えば、かつてお盆の時に、姑に読経しろと言われ、口答えしたことを思い出した。
嫁であろうが、家の宗教は強制できない。
宗教によっては、厳しい戒律や改宗を余儀なくされるものもあるが。

孫は真っ白なフラットなアタマで疑問に思ったことをストレートに投げかけた。
信じるものは救われる、、、と、説明すれば良かったか。
「困った時の神頼み」が実情だけど。
だが、自分自身が真面目に信じていないから、頑張って調べたりして、知識を押し付けようとする。

小さい頃に毎週、教会に通っていても、いずれ行かなくなったり、反発したりすることはある。
(ちなみに、わたしは、教会は、大人になってから海外旅行でしか訪れたことがない)

なぜ?
この孫の純粋な質問に、はっとさせられた。
恵方すら、なぜ恵方が決められているの?
誰が決めたの?
ということ。
天動説ではなく、地球が自転し地動説を唱えたり、そういう科学的根拠を示したりすると、理解が得られるのだろうか。

誰が地球を作ったの?
誰が宇宙を作ったの?
誰が人間や生物を作ったの?

となると、世界中にいろんな宗教が存在して、ややこしい。
それに、話が俯瞰的すぎて、
誰が今日の食事当番?食糧、調達は?
のほうが、先。

それで思い出したが、、、
昨日のNHK TVで、日本の漫画を特集していた。
「ONE PIECE」の一コマで、救出に来た主人公を拒む場面があり、
「生きたいのか?」
という問いに、
「生きたい!」
と、ストレートに訴える。
絶望の中から生まれる、こころの叫び。

「進撃の巨人」では、戦禍のウクライナの若者のこころに刺さったと紹介されていた。
人種間タブーがない国、島国日本ならではの、逆に自由な発想、発信が、世界に受け入れられているらしい。

と、、、話はコロコロ転がり、逸れている。
どこに着地していいのやら。

話を戻す。
孫に問われて、目からウロコが落ちた。
とても孫に教えられる立場ではない。
頭から偏狭的に信じて疑わないことを孫に強制する気は全くない。
自分自身、わかっていないことを人にススメられない。
今はインターネットが普及し、いろんな知識、考え、出来事が瞬時に世界中を駆け巡る。
こんな時代に、何を軸に、何を支えに、信じていけばいいのか。
信念は、ころころ修正?
かといって、国の強力な強制力で思想や行動を縛り付けることは、出来ない。
逆に子供にSNSを禁止する国も出て来た。
過去の惨事から学ばなければ、滅亡の一途。
そして、何よりも、今ある平和を大切に守る努力をしなければならない。

最後はそこに行き着く。
これは、自分教か。
自分が頼りなくなれば、信仰にすがるかも知れない。
その時は、一生懸命、恵方を調べるだろう。
暗記は無理なので。
恵方は決まっているので、インターネットが使えなくなった時のため、紙に書いて覚え書きにするかも知れない。
孫はどんな顔をするだろう。






余白の美しさ

2024-09-06 | 無題
人からどう見られたいか、は、自分がどんな人が好きか、にもよる。
どんな人になりたいか、である。
理想と現実のギャップは、常に現実を冷静な目で直視しなければ見えない。  

現実と向かい合えない弱さが自分にあるとすると、現実を変える、という方法がある。
だが、それは現実的に無理だとすると、現実を歪めて見る手もある。
客観重視から主観重視へ移る。
それも不十分なら価値観を変える。
これが一番、強力である。
自己肯定して他を否定する。
あるいは、全部否定。
まれに、全部肯定。

へん、なんだい、あんなの。
自分の力でもない親の七光じゃないか。
見掛け倒しに決まってる。
たまたま運が良かっただけ。
いずれダメになるさ。
などなど、、、。
自分側に引き摺り込もうとする。
自分諸共、身投げ。
逆のほうがいい。
全員一緒に幸せに。
だが、一歩間違えるとカルト教団みたいになる。
それもどうかと。

今まで並列(平等)だったのが、縦(不平等)になるのが耐えられない。
最初から不平等も耐えられない。
能力がある人も無い人も平等、、、
能力がある人が能力がない人をサポートする。
理想的な助け合いの社会。
人を助けるために頑張るのか。
先に自分が一人前になるのが先。
皆んな、それぞれに頑張りましょう。
と、政治家も大変だ。

いくら素晴らしい人でも必ず歳を取る。
100歳まで健康に生きられる健康長寿薬を開発するために、世界中の富豪が巨大な資金を投じている。
世界、人類のためと言うより、自分の老後のためかなあと思ってしまうが。
まあ悪いことではないにせよ、人間の欲望には限りがない。
キリの良いところで、ブレイクタイムにする、あるいは未知の未来を残したまま終了するのも一つの美しい終わり方かも知れない。
果ての果てまで追求しすぎても、良いとは限らない。
余韻、余白は、「無い」だけに美しいかも。


ファン・サービス

2024-09-05 | 無題
好きなことを書く楽しさは、何にも代えられない。
おしゃべりで、内気なわたし。
プレ認知症グレーゾーンを行ったり来たり、うろうろしているわたしには、ブログはぴったりの活動だ。

ちなみに、四苦八苦しながらお手紙を出した相手からは、絶対に返事は来ない。
(一昨日、投函したばかりだし)
それを確信しているのに、手紙の末尾に記した、わたしの連絡先であるEメールアドレス、受信箱を覗いている。
1日1回にすべき?
いや、3日に1回覗いて、あとは1週間に1回、1ヶ月に1回チェックしてみよう。
ファンレターに返事を出す人はまずいないので、返事など来るわけもないのに、岸壁の母になり、舞鶴港から海を見る気分。
2通目を出す気持ちはない。
が、ひょっとすると、ファンレターは半年後にまた出すかも知れない。
今は未知。予想できない。

ブログならお互いの繋がりがハッキリわかるのだが。
特にgoo。足跡機能あり。
前にはよくgooブログ・ピーアール記事を出していたが、あまりにも反響が少ないため、やめた。
自虐嗜好があるわたしだが、自虐ならまだしも、たんに自信がなくなり、意気消沈するだけなので、広く知ってもらおうという気はなくなった。
メジャー路線とは程遠いことは、他ならぬ誰よりも自分が知っている。

その代わりに、好きなブログを応援する側にシフト。
楽しみに、好きなブログを読んでいる。 
だが、好きなブログの数は至って少ない。
あれもこれもにすると、気持ちが分散される。
熱心に訪れていると、ファン・サービスをしてくれるブロガーさんもいる。
直接、メッセージはないものの、ファンを囲い込む、お返しサービスかと受け止めている。

しかし、、、旅はいいなあ、、、。
こころの旅。
実際にあちこちを紹介してくださるブロガーさん、毎日楽しみにしてます。

とかなんとか。
実はわたしも発信側でもある。
インプットとアウトプットを自分の好みの配分で行う。
 

ところで。
関西のTVニュースで終活をまだ目前に迫っていない世代(50代、60代)に勧めるお寺が紹介されていた。
住職さんは、京都の大学教授でもあり、古くから代々継承されているお寺の跡取りでもある人。
一度、人生をリセットすると、また違うものが見えてくるそうな。
今は断捨離ばかりが叫ばれるが、断捨離は宗教的な考え方がベースになっているにもかかわらず、モノを捨てたり、モノを持たないことを推奨したり、物理的な「モノ」に偏っているように感じる。

また、別のメディアで、70代、80代の、自立したお一人様が自立して暮らせる大規模コミュニティを作ったことが紹介されていた。
東京から車で1時間?
廃校になった小学校などを中心に、文化的コミュニティを形成する。
年寄りを閉じ込めるのではなく、他の世代も混えて核となるコミュニティから自由に行き来する。

ではあるが、やはり東京を中心に構想が練られるのだと感じると、少し気が抜ける。
(そこそこの?)企業に勤めた人が、退職金と年金で、一人で最期まで自立して暮らせるコミュニティだそうだ。
だが、そのレベルの人は実際にはどれだけいる??
社会の上層、上澄エッセンスのような話かと感じてしまう。
ではあるものの、絵空事ではなく、実際に今、動いていることであるには違いない。

自分の老後イメージ。
健康を害してからの、介護ヘルパーさんの助けを借りて自宅で暮らす日々。
だが、訪問介護施設がどんどん閉鎖されているらしい。
税金からの出される訪問介護費は下げられ、その分、利用者の負担額は増え、同じ介護費対策税金の割り振り配分から訪問介護費が削られてしまう皺寄せを受ける。
また調整、変動するとは思うが。
最後は介護施設のお世話になるだろう。最期は??

わたしは、お一人様ではない分、計画が甘い。
お一人様の代表でもありそうな上野千鶴子さんが、実際はお一人様ではなく、それ故、詰めの甘さを先輩女性学者に指摘されていた。
とはいうものの、上野千鶴子さんとわたしは、8歳違う。
あちらが歳上。
同世代かというと、微妙。

究極の老いの先のことを考えて能動的に選択、行動している(お一人様を含む)人々の動きが、今、かたちになって見え始めている。
時代の先端を行っていない人はもとより、遅れている人も、後から遅遅、着いて行くことになるのだろうか。






日本からパリを見て

2024-07-28 | 無題
gooアプリが動いた。
動かなくなった朝から6時間後。
焦って「動かない」と、記事にアップしてしまったではないか。
まあいい。

しばらく放置していた。
で、気を取り直してもう一度、一からやり直してみた。
で、ビクとも動かなかった原因は、、、スマホでWEB散策や、何度もSNSをうろうろ行ったり来たり、思いついて調べ物などをしたり、いくつもいくつも、あちこち窓(タブ)を開けっぱなしにしていた。
画面の下に画面がいーーっぱい、幾重にも幾重にも重なって、ほったらかされていた。
だれだ?
こんなに行儀の悪い、後始末をしない奴は?
はい、わたしです。
なんと初歩的ミス。 
しかしまあ、これだけ大量のタブを開きっぱななしにしていたら、そりゃあアプリも音を上げる。

その初歩ミスに対して、gooだけが不平不満ストライキを起こし、固まった。
他のアプリは平気なのに。
というか、他が丈夫過ぎる?
突然の骨折は、軽い捻挫に過ぎなかった。
捻挫にも及ばず、おっとっと、と蹴つまずいて転びそうになっただけだった。
やれやれ。

ちなみに、パリ、混乱しているようだ。
たかだか普通の日の新幹線(日本)だけでも、今週アタマは私的には、ものすごく振り回された。
わたしのスケジュールに大きな狂いが生じた。
世界が注目する、あらかじめ日時が決まっている大イベントを控える警戒体制は大変なものだ。
責任者の緊張感は想像に難くない。
ピリピリ、ピリピリ。
TVニュースにフランスの国鉄や五輪責任者たちが、ちらっと現場でマイクを向けられていたが、わたしの目には、眉間にシワを寄せるわけでもない、ゆったりした余裕の表情に見えた。
が、怪我人など出ず、何も起こらなくて良かった。

王妃の首を抱えて歌う演出に、TVの向こうの日本人は度肝を抜かれたようだ。
王妃を断首した上に、あの神経はいったいどうなっているのだろう。
他国への、わかりやすいアピール?
古いもの、伝統を一旦リセットして、新しいものを生み出す姿勢?
過去に固執しない、柔軟性?
斬新なクリエイティブ精神?
民意反映、ストライキの国。
混在する人種。

日本で例えると、明治維新の前夜、将軍一家、お家断絶、その最期の残酷な様子を国民にショーアップして見せるようなものか?
(平和的、無血のクーデターだったようだが)
それに比べると、最後の将軍、徳川慶喜さんは、明治以後、長生きして、大正時代まで、素晴らしいリッチで文化的余生を送った。
次々と西洋から取り寄せた新しいものに触れ、使い、謳歌していたと見られる。

第二次世界大戦終決における天皇への扱い然り。
(戦勝国と話し合われた結果もあってだそうだが)
日本とは、全く文化が違うように感じる。
ヨーロッパは陸続きで、しかも、クロマニヨン人というと、わたしはすごく強い肉食イメージを描く。
「魚」対「肉」。今は、「草」対「肉」?
平和な島国日本に暮らしていると、想像できない、ということ。
今でこそ、インバウンド観光客が押し寄せ、嫌というほど日本のあちこち各地で、ガイジンさんを見かけるが。
観光を主要産業にしなければ、今後、日本は持たないのかと思うと悲しいやら残念やら、生きていくには協力しなければいけないのやら。
これは、わたしは急激な変化に着いていけない老人の類に足を突っ込んでいるのだろう。

海外に出ていかなくても、向こうからやってくることは、不思議でもあり、恐怖でもある。
黒船来航、いやでござんす(1853)ペリーさん。
開かれた日本は、明治維新以来??
良いことばかりではないが、お金を落としていってくれるなら、仕方ないか、、、と、やたら消極的、非協力的、ペシミストである、保守的田舎モンのわたし。
遠慮なくドカドカ大量に、というのが、わたしは苦手なのだ。
ヒト、モノ、情報のボーダレス移動、国際化。
グローバル化の波の到来が謳われたのはもう何十年も前。30年前?50年前?
あれから随分時が経っている。
賃金の高い外国に日本から若者が出稼ぎに行く時代になっている。
円の弱さを実感する。
とは言うものの、急激に世界舞台にのし上がった日本だったが、明治の前、江戸時代のように、今よりずっと少ない人口で、細々やって行けたらよいかな、などと思ったりする。

地球温暖化は、先進国の責任が重いと言われている。
電力に過度に頼らず、自然エネルギーの力を借りながら暮らせるようになりたいのが、わたしの理想。(無理を承知で書く)
もうここまで来れば、エアコンの力を借りなければ生活出来ないのだろうけれど、「我慢せずにエアコンをつけて涼しい部屋でお過ごしください」とTVでは呼びかけるばかり。
対症療法ではなく、根本治療が必要だ。
が、太陽や雨量を調節したり、天候を変えるわけなはいかない。
「自然」と「人間」。
攻防の知恵が必要だ。

というか、平均寿命が伸びているのは、嬉しい幸せなことではあるが、そうとばかりは言っていられない側面もある。
だがしかし、政治家や学者は、発言を一部分だけ切り取られて報道されることがあるため、誤解を受け糾弾される場合がある。
公人は、発言には十分注意しなければならない。
大変だ。



たかが呼び名、されど呼び名

2024-07-11 | 無題
夫はわたしのことを「おかあさん」と呼ぶ。
は?
わたしには、こんな歳上の息子はいませんが。
子供にとって、おかあさんは母親である。
夫にとって、おかあさんはわたしではなく、姑(故人)である。
いったい、いつまでわたしは、おかあさんなのだ?

娘たちには、わたしは、おかあさんと呼ばれる。
わたしは娘たちの母親なので、ツジツマが合う。
死ぬまで、いや、死んでからも、わたしは、生物的な遺伝子関係は、子供たちのおかあさんである。
にもかかわらず、、、
なんでわたしが、夫に「おかあさん」と呼ばれなければならない?

よく街で、そこのおにいさん、おねえさん、という声を聞く。
当然、姉妹でも、兄弟でもないのはわかった上での、若い人に対する呼びかけ総称のようなもの。
おとうさん、ご主人、おかあさん、奥さん、と、お店などではお客さんに対して呼ばれているのを聞く。
ある程度の年齢になると、そう呼ばれる。
おじいちゃん、おばあちゃん、という声もあるが、おじいさん、おばあさん、とは街ではあまり呼ばれないように感じる。

小さい子供に呼びかける時は、ぼく、わたし、なんていう声もある。
名前がわからないので、年齢、性別から見た呼びかけの一般的名称だ。

ちなみに、わたしは、大手チェーンのダ◯コク薬局の老薬剤師さんに、「奥さん」と呼ばれる。
難はないが、独身の可能性もあるのに。

話を戻す。
一般的な場合は置いておいて、
自分の家庭で自分の夫に、おかあさんと呼ばれるのに違和感がある。
「違和感」という、意識的にトゲがない表現にしている。
本音としては「不快感」である。
もうとっくに、おかあさんの役割は終わっている。
どうしても家庭のポジションを表現したいなら、おばあさん、である。
だが、夫に、おばあさん、と言われるとその瞬間、わたしのアタマから湯気が出る。
誰が、おばあさんやねん!!
あきらかに因縁、イチャモン、筋の通らないクレームである。
じゃあ、なんと呼べばよい?

最近、おかあさん、と呼ばれた後の、わたしの不機嫌ぶりに恐れをなして、夫はその場だけ別の呼び方にするが、時間が経つとまた、おかあさんになっている。
まったく学習能力がない。
その度に不機嫌、不愉快、嫌な気持ちになる。

おかあさん、が、なぜ、そんなに嫌なのか。
時代が変わり、役割も変わり、状況も気持ちも変わっているのに、全く厭わず、考え方を更新しない姿勢にムカつく。
変わらないのは貴方だけ。
普遍のものには、不動だと信じて疑わないのだろうけれど。
貴方だけがそう思っている。
貴方以外は、どんどん変わっている。

良いものが変わらないのはウェルカムだし、試行錯誤を重ねて改善されるのは結構なことである。
だが、時代や周りに対応出来ないカチンコチン石アタマだったりすると、柔軟性の無さにヘキヘキする。
家族は、石アタマを石として扱う。

石は石として、それはそれで存在する権利がある。
存在価値を否定することは、いかなる人に対しても出来ない。




努力しないで生まれのせいにする

2024-06-13 | 無題
「燕は戻ってこない」。
これはNHK TVで火曜日22:00から放送されているドラマである。
桐野夏生、原作。
かなり刺激的な内容であるが、毎週、息もしないで(いや、少しして)固唾を飲んで、熱心に見ている。
稲垣吾郎、黒木瞳が、まあまあまあまあまあなんと、カンジワルイ役で、なかなか印象的。
稲垣吾郎は、夜ドラを挟んで、引き続き23:00からの「ワルイコあつまれ」でのキャラクターのギャップがスゴイ。おもしろい。

今週、一昨日、放送された中に、わたしのこころを鷲掴みにした、黒木瞳(母親役)のセリフがある。
表現は少し違っているかも知れないが。
「努力もしないで(不遇な今の状況を)生まれのせいにするのは最低」
これ、刺さった。
わたしに、言ってる?

多くの人は、「努力している」のに報われないと嘆いている。
あるいは、「努力している」のに報われないのは生まれのせいだ、と、努力していることを主張する。
それをわざと肯定せず、逆説的に扱い、反感を買うことで強調され、インパクトある表現になっている。
深層心理を揺さぶり反応を引き出す。

これの変形バージョンなのだが。
のほほんと、ナマケモノ、省エネ主義のわたしは、
「努力もしないで今の安泰を、生まれのおかげと安堵するのは最低」
そう言われているような気にもなる。
否。努力したから安泰を掴んだのだ、生まれのせいではない、と、自分のやってきたことを評価することだろう。
努力と生まれと幸運のおかげ、なんていうのもある。
どちらにしても、今、波風立たずに満足している人には、不穏な喚起だ。
幸せぼけに一石を投じる。
が、幸せ感は、尺度や基準は人それぞれ。

代理母をテーマにするこのドラマでは、「生まれ」とは、主に遺伝子のこと。
加えて経済状況を含む環境なのだが。
母親役の黒木瞳の口から出るわ出るわ、ケシカラン言葉の山。
あっけらかんと自分肯定、他人否定。
バレエ業界に悪感情を抱かせてしまうのではないなと、かえってわたしは老婆心。
人それぞれ一人一人尊厳があるので、バレエダンサーだけが飛び抜けて地球上の誰よりも尊厳があり高付加価値があるとは理解し難い。
滑稽に思えてくる。笑ってはいけないのだが。
作者や脚本家の意図にハマっている?

努力をする、しない、、、努力の内容も、時代の移り変わりがある。
優秀な遺伝子(精子、卵子)が高値で流通する時代に投げかける、「生命って、なに?」。

知性と思考力

2024-04-11 | 無題
「忖度」抜きで書く。
元々少ないブログ閲覧数なので、あまり気にしない。
というか、それがかえって好きなことが書けてよい。(→「負け惜しみ」を美化、昇華)

益々、人は遠ざかることを承知で書く。
(何度も念押し、しつこい、うるさい)

さて。
自分へのお清めの塩を撒いたところで、スタート。

長く知っている、ある人Aさん。
知的好奇心は、ほぼゼロ。
(動物本能的好奇心は旺盛)
深い思考力は、皆無。
単純、単細胞。
決して悪い人ではない。
世の中には、ズル賢い悪人は山のようにいる。
かくいうAさんも、時にはズル賢く立ち回り、損を最小限に食い止めることもある。
ある意味、防衛本能である。
が、根は正直な人物。

知的好奇心が無いのは、決して悪いことではない。
知的な面での話題を出さなければよいだけ。
小学生の孫と接しているかんじか。
ただ、小学生はまだ未完成で伸び代があり、将来、未来がある。
人によってはそのまま、あまり変わらず成人するかも知れないが。

知性や思考力があるからといって、なんの役にも立たないことがある。
科学者や研究者、政治家、などなど世の中の役に立ったり、実践に活かすなら効果があるが、ただ、頭の中だけで思っているだけでは、思っていないのと同じ。
逆に、リーダーが流れを悪い方向に導く場合もある。

知性や思考力はないが、その代わりに情熱がある、という人もいる。
優しくて、人情家で、力持ちである。
人が良い。
悪知恵などを働かせるかも知れないような知識や思考力は、いっそ無い方が潔癖でいられる。

ちなみに、この度の静岡県知事の職業差別発言で、知事は自らの職を辞することになった。
職業に高度や低度なんて、ねえ、、、。
シンクタンク、県庁職員がプライドを持って職務に取り組むのは結構なことである、、、にしても。
人材が全員シンクタンク系ばかりでは、作業をする人をどう動かすのか。
誰も作業しなくなったら、どうするのか。
リスペクトし合う協働の精神がなければ、うまくいかない。

先日、公民館のトイレ掃除の男性が、トイレ掃除現場で仕事仲間に、思いっきり仕事の愚痴、不満を言っていた。
わかるけれど、、、あんなに不満を募らせて仕事をしていたら、やる気はもちろん、充実感、達成感もないだろう。
好きでやっているのではないのは、わかるが。
愚痴の矛先は、行政のお偉方に向けられていた。
市役所や県庁の方々、、、間に挟まれて大変だろうけれど。


普通、人と人が、あまり深く知らない距離感なら、頭の中身はそうわからない。
明け透けに話したり、出したりしても、それが全てなのか、または真実なのか、誇張表現なのか、等身大のお人柄なのかどうかは、長い目で見ないとわからないことがある。
長い目で見ても、わからないこともある。
が、次第にわかってくる。

友好関係を結ぶにしても、大きく分けると、知的で、思考力の高い人と、そうでない人がいる。
だが、生き延びるには運が左右するので、知性や思考力はあまり関係ないこともある。

知的好奇心がない人は、何かを見ても接しても、あまり本人の印象に残らない。
すーっと表面を見るだけ。
別にそれが悪いわけではないが。

旅行やニュースも、海外には全く興味を示さない。
飛行機が怖い、とかではなく、自分に直接関係がないから関心を示さない。
もし、行けない絶対的な事情があるなら、行きたいという欲求や感情が芽生える前に無意識に押し潰すのだろうか。
関心を示したところで、どうなるわけでもないが、関心が積もり積もると行動に現れる。
一生、関心が薄い人もいて、家族も似たような感じなので、何の摩擦も起こらない。
目覚めるのが良いとは限らない。

人は人。
それが悪いとも良いとも、わたしは言っていない。
そういう人がいる、というだけだ。
同じような人同士が暮らしているので、問題はない。
本を読んだり、情報を得たり、考えたりしないので、こころは例え退屈であったとしても、本人は退屈の理由がわからない。
理由がわかったからといって、解決できるとは限らない。
物知りだからといって、行動しなければ、どうなるものでもない。

思っていても口に出さないだけの人もいるだろうし、行動に移さない人もいる。
ただ、志というものは、「持つ」と「持たない」、「ある」と「ない」では違ってくる。
周りにどんな大人がいるかによって、影響を受ける。
周りにどんな老人がいるかによっても、大きく影響を受けると思う。

※写真は、昨日の大阪市内、桜之宮公園、大川沿い






好きなように自由に出来ない人もいる

2024-04-10 | 無題
人によっては、家で居ても何もすることもない、と、退屈を紛らわせるために押し出されるかのように外に出ることがある。
すると、意外に楽しい「種」に出会うことがある。
あくまでも「種」であって、華々しい実は成っていない。
種を見過ごしたら、何もない、無目的の単なる虚しい暇つぶしになる。
種をキャッチすると、そこから芽が出る。
だが、種は埋まっているので、外からは見えない。
何の種かもわからない。
水をやって、しばらく待ってみないと。
育てることをしないと枯れてしまう。
最初から既製品の商品のように、出来上がったものが用意されているわけではない。
一から作るのはイメージが湧かない場合、パーツやキットをバラ売りしていることはあるが。

高い理想や目標は掲げず、誰でも出来ることなどと高をくくらず、とりあえず外に出て、歩いてみよう。
発見がある。種がある。
なければ、見つかるまで探せ、とは言わない。

休む、休憩する。
また外に出たくなるまで待つ。
発見が無いことが発見かも。
それも気づきの一つかも。
それはそれで、真っ白、純粋な脳ミソなのでは?
伸びしろ100%?

ちなみに、ウォーキングの会でスマホでカシャカシャ写真を撮っていたら、、、
参加者の女性に、「どんな風(テイスト)に撮るんですか?
わたしは、わからなくて」と問われた。
ものすごく不思議な質問に、驚いた。
なぜなら、公式でもないプライベートな遊びの写真なんか、自分が好きなように撮ればよいのだから。
コンテストに応募するわけでもないし、写真展を開くわけでもないし、誰かに見せるわけでもない。
(ブログに使う写真もあるが)
自分のために撮る。自分が楽しいように。
なので、どういう風に撮るのかなんて、思いもしない奇問だった。

そう言えば、幼稚園の時、クラスメイトの園児がいつも、わたしの絵の真似をしていた。
これまた、いつもわたしと同じ絵を描くのが不思議だったが、彼女は後にピアノ方面に進んだ。
ゼロから、無から、思いつかないのだろう。
まあ色々な人がいる。

また、ある人に、品質に対する感想を述べると、なぜそんな感想が湧き出て来るのか、不思議がられた。
経験がないため、思いもよらないようだ。
無意識に接していることに対しては、何の感想もないと思われる。
考えたことも意識したこともない世界。
各人それぞれの歩みが違うと、視点が違う。
視点が違う人同士が出会った場合、何の接点もなく素通りするか、あるいは、考えたこともない感性に触れて驚くか。
未知のものを興味深く捉えるか、はたまた、今更、どうでもよく、接したくもなく避けるか。
色々なケースがあり、その後の展開が変わる。

※写真は、桜で隠れて見えないけれど、今日の大阪城。
去年の今頃も同じ場所で同じ写真を撮った。




プライド②

2024-03-27 | 無題
ブログ村エッセイカテゴリーの何人かのブロガーさんのブログ記事を読んだ。
一つは、自慢たれのご近所の女性の話。
もう一つは、仕事関係のお客さん(利用者さん)。

人は皆んな、プライドで生きていると思う。
プライドがなくなったら生きる屍。
と思ったが、わたしは少数派なのか?

多かれ少なかれ、どんな人にもプライドはあるはず。
それを内に秘めるか、外に出すか、出るか、だ。
行動に現れる場合もある。
無意識に外にダダ漏れの人もいるし、きつくニオウこともある。
プライドは、自慢になったりすると、嫌わられる。
出すつもりはなくても出てしまうため、必要以上に出ることを抑えて、実像とは違う、素ではない様子になっている人もいる。
自慢しないプライドは、どんなもの?
謙虚なプライドって?

プライドを昇華できれば素晴らしい。
が、困難。
プライドだけで生きている人もいる。
立派なのか、頭が下がるのか、はたまた好感を持たれないのか、賛同されないのか。
人との関わりの中で、プライドが顔を出す。
人と関わらないことも、プライドの一種だったりする。
自分を生きにくくすることもある。
特に歳を取ると、老化により、益々、意識と現実にギャップが生まれ、努力では埋まらない。
プライドの塊りのようなお年寄りをあちこちで見かける。
プライドは自分が生きて来た証、芯のようなものだから、今更、取り除けない。
現実に向き合い、柔軟に対応すると生きやすくなるが、それがまた難しい。

思うに、、、同じ価値観、同じ感性、目線の人に素直な気持ちを自然体で吐露できるのが理想。
カチンと来られたり、自慢と受け取れたりする人には、当たり障りのない会話を選ぶ。
受け取り手も、(部分的に)カチンと来ても、さらっとかわす。
だが、深く一歩進んだからといって、分かり合えるわけではない。
どんな人とも自分と同一は不可能。あり得ない。
やはり距離感は必要だ。



人は人と言うけれど

2023-09-09 | 無題
わたしに取っては、何もスケジュールが入っていない時が一番平穏。
落ち着く。
スケジュールが動き出すと、関連付いて、あれこれ予定が入る。
それが2週間ぐらい続く。
今はその前の週。
のんびりできるが、来週を考えると、浮き足立ってなんだか今から疲れる。
せめて何もない日だけでも、ゆったりすればよいのだが。
どんだけ活動が嫌いなんだか。
非活動家。非社交家。
微動だに動きたくない、ナマケモノである。
ワニ園にいる、剥製と間違える生きているワニ。


ダイニングの本棚を整理した。
出るわ出るわ、本の宝庫。
新古品も続々。
わたしは読むのが遅いから、あれだけあれば、しばらく本は買わなくていい。

非生産的な時間の過ごし方をしても、人に迷惑をかけなかったり犯罪でなければ、本人がよければそれでよい。
わたしは、そういう考えではあるが、いかにも非生産的なことをわざわざ時間を割いてしている人を見ると、もちろん非難はしないが、よくわからない。
何が面白くて、、、と不可解なだけだ。
邪魔はしないが理解もしない。

スポーツや、音楽・絵画、映画鑑賞、読書、ものづくり、運動、旅、グルメ、ファッション、健康、教養、資産運用、娯楽、ギャンブル、お酒、ゲーム、交流、色々、趣味は人それぞれ多岐に渡る。
人に理解してもらえそうもない趣味、時間の使い方をしている場合、普通は、自分からは明るみにしない。
が、しつこく根掘り葉掘り聞いたわけではないが、たまたまわかってしまうことがある。
理解出来ない案件として、触れず触らずそっとしておく。
誰しもがメジャーな趣味を持つ人ばかりではない。
もっと他に有意義な時間の使い方はないのか?と思うが、人それぞれ。
その人にとっては、他の人の時間の使い方が理解出来ない(はず)。

自分の好きなことや理解できることをしている人といるほうが楽しみを共有できる。
お互いの理解も深まる。

まるで価値観が違う人から刺激を受けるのは、その時限りのことが大きい。
たいがいは、ビックリ水の効果後は、元の自分のコースに戻っている。
そうやって、自分を小さくまとめてしまうのだろうか。

価値観の共有がキーとなる。
だが、突然変異の変人が、創始者になって、その道を切り開くこともある。
ではあるものの、後には誰も続かないこともある。

面白くもなんともない、毒にも薬にもらならないことを延々と書いている。