蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ムズムズして気持ちが悪い時は穴を掘る

2019-01-31 | 無題
昨日から買い物三昧。
と言っても、小さい小さいスマホ画面で、延々チマチマ。
買う商品は消耗品。
なのに、楽天、アマゾン、自社メーカーオンラインショップ、個人店、その他、全ての商品をチェック。
目が見えなくなるのでは、、、と思うぐらい、休憩なしに集中した。
勉強もこれぐらい集中できたら、今のわたしは、いない。
ぐうたらナマケモノには、決してなってないと思う。

で、思う。

デキる人には何タイプかある。
もともと、脳みそのデキが良い人。
さほど努力しなくても、飲み込みが早い。正確な理解力、記憶力。
これ、夫のタイプ。
副作用として、デキない人の気持ちが全く理解出来ない。
長嶋が「なんで他の人はホームランを打たないんですかねー、球が来たらバットを振るだけなのにねー」
なんてシャーシャーと言ってのけるようなもの。
人に教えても手間がかかるし、アホすぎてイライラするため、自分でやってしまう。
かくして、わたしは元々アホ要素があったところに、追い打ちをかけるように、アホが完成されてしまった。
今や、針の穴に糸を通すことも出来ない。(嘘です)

デキない人は、どんどんサボり、デキる人は、どんどん仕事が増えてしまう。
ちなみに、生まれつき派は、家族で言えば、夫、姑、長女。DNA直列、縦繋がりライン。

その次。
努力家。
生まれつき、あまり飛び抜けて秀でてはいないが、血の滲む努力で頑張り成果をあげる。
そういう人は、頑張らないアホを見ると無性に腹が立つか、あるいは、バカにしまくる。
悲しいことに、このタイプは、今、私の趣味の練習相手で、私は、嘆き哀しんでいる。(でも、まあ、いい)
欠点を修正しようと、ガミガミうるさく言われる。
努力派は、家族で言えば、父。

さらに、その次。
たいしたことがないのに、たいしたことがあると、一点の曇りもなく信じているタイプ。
確かに学校の成績は悪くはないのだろうが、学校そのものが怪しい。
だが、頭脳以外の頑張りはスゴイ。
家族で言えば、母。

勉強の仕方やコツをつかんで、すごい集中力を発揮するタイプもいる。
姉と次女。

兄、舅、長男は、どこに入れようか。
たまたま全部、男性。
自分の身内を褒めるのは、自慢しているようで嫌であるし、かといって無難な表現をあれこれ考えるのはモヤモヤするので、いっそ、仕分けはしない。放置。


先日、姉と話して、彼女との頭脳の違いを今更ながら痛感した。
若い時から頭を鍛えている人と、鍛えてない人では、えらい雲泥の差がある。
これからは、老化を口実に、頭が悪い(アホ)という真実の追求から逃げようと思っているが、今更、誰も追求してこない。
アホもカシコも一朝一夕ではない、長年の積み重ね。
強弱、硬軟、高低、色々あるほうが深みが出る、ってものである。
と、自己擁護、自己肯定にさっそく回る。

またもや、大きく話が脱線している。
もし、わたしが賢かったら、今の自分はいない、って話だった。
あり得ない仮定は、するだけ無駄。
しかし、ブログ文字並べ遊びとして、ちょっとシュミレーションしてみよう。
と思ったが、またまためんどくさくなってきた。やめ。

それと、、、話はまたまた横道に逸れるかも知れないが、
自分の美点を自覚した瞬間に、美点は美点でなくなると思う。
自分は人格者だ、と自覚している人格者はいるか?
人格者であるなら、またまだ自分は未熟だ、不完全だと思うのでは?
美人だとか、頭がいい、とかは自覚する人もいる。
客観的な事実として証明されている美点を自分でやっきになって大声で否定するのも、なんだ、嫌みったらしく映らないでもない。

ただ、例えば、自分は優しい、だとか、品がある、清楚だとか、そういう美点は自覚した途端に、別のものになる。
自覚してはいけない。
別に自覚してもよいが、美点の性質が一変する。
わたしは無意識で無作為な所が良い、と言われることもあるが、それを意識した途端、無意識ではなくなるわけだ。
長所を自覚するやいなや、長所は吹っ飛び、ただの、わざとらしい人に転落する。
無意識を意識的にキープしなければならない。て、どうやって?
レッスンで「意識して、無意識に力を抜いて」と言われるのだが、真逆を同時進行は難しい。


趣味SNSの自分のハンドルを「◯姫」としている人がいる。
シャレでなく真面目に。
例えば、「平成の歌姫」とか、自分で言う時点で、それって、違うんじゃない?と思ってしまう。
皆さんや世間、マスコミが言ってくれるなら、まだしも。
自分で言った途端に、たとえ素晴らしくても、◯姫の座から転がり落ちるような気がする。
心の中で自覚するのらならまだよいが、口に出して、自分の名前にしてしまうなんて、、、、

娘ことを姫◯号、孫のことをプリンセス◯号と(恥ずかしげもなく)言って、写真や動画を(堂々と)アップしている人が趣味リアル知人にいる。
皆さんは、お美しい娘さんですね、可愛いお孫さんですね、とたくさんコメントを付けている。
そういう行動は、わたしの感性とは合わない。理解出来ない。
(可愛いさかりの、イギリスのエリザベス女王の曽孫たちなら、喜んで拝見する)
だが、色んな考え方の人がいるので、自分との違いがよくわかるのであるのは結構だとしても、うっ、となる。
プリンセス孫や姫娘がいる身で、実母のことを、ママ、ママといって甘える、、、って、、、。
うっっっ、、、(げっっ)、、、である。
なので、近寄らない。
たまに、そっと見に行くこともあるが、そっと帰ってくる。
自分の居場所に帰ってこれる、棲み分けが出来ているから、なんてことはない。
自分を、うっっっ、、、にさせるものには近寄らない。

こそっと地中、穴をほって吠えて、またすぐに、上から土をかける。
くれぐれも、墓穴にならなければよいが、、、

ナマケモノの日常

2019-01-29 | 日々のこと
ひたすら、ダラダラしている。
動物園のナマケモノのほうが、まだマシなのではないかと。
いったい、どこまで、ダラけたら気が済むのか、自分との闘いである。
て、こんな楽な闘いは、認められないだろうけど。
自分に打ち勝ったら?
負けたら?
ダラけ時間が多少伸び縮みするだけか。


昨日、NHKテレビで、ファミリーヒストリーを見た。
伊東四朗。
81歳になるのか。
ちょっと意外なような、自分も若くないと感じるような。
血筋的にはよく調べ尽くされていて、親戚に血統や家系図が好きな人がいると助かる。
平家や源氏、藤原のナニガシにもルーツは繋がるようだ。
が、伊東四朗自体に全くそれを今の年齢まで知らされていなかった。
そのことが、あまりルーツには意味がないような気がした。
伊東四朗の子や孫なら、まだ若いし今からの人生にまだまだ役立たせられる。
が、80歳を超えて知ってもなあ、、、と思ってしまう。
伊東四朗自身は、死ぬまでに知って良かった、と言っていたが。
というより、ルーツって、自覚した人や、大切に思ってきた人にとっては意味があることであって、どうでもいい人にはどうでもいいことなんだと、今更ながら乾いた感想を抱いた。

彼の父親が実は養子だったことや、あまり働きがよくないせいで継いだ店も潰し、周りは苦労したようだ。
そのせいもあって、あまり自分のことは言いたくなかったのか。
母方も悪くないルーツなのに、踏ん張りや頑張りの、誇りの種にするでもなく、何もアピールされていない。
お見合いで止むを得ず、良い選択とは言えないにもかかわらず、働きの悪い夫との家庭を守るのに必死だったのか。
当時の結婚は普通はあんなものだろう。
伊東四朗は、成人するまでは、大変だったが、時代背景もあり、あの年齢の人は皆さん、厳しい時代を通ってきている。
延々と辿るルーツは、なんの役にも影響も及ぼさないように思えたが、働きの悪い父親を反面教師とし、また、家庭の金銭的余裕を奪った父親の道楽が、結果的には伊東四朗の血肉を形成していたようだ。
そして、ルーツに表面上は直接関係がないが、ちゃんとした先祖が延々脈々と真面目に生を繋いできた。
それが、勤勉だったり、知的だったりする一族の流れだ。
現在も地に足を付けて地元で暮らしておられる。
伊東四朗の兄が苦学して早稲田大に行っていなかったら、伊東四朗も、父親譲りの単なる娯楽好きに終わっていたかも知れない。
一番良かったことは、母親が明るい人だったこと。
貧乏で家庭は暗いどころか、明るかったこと。
家族を支える一家の柱は母親だったような気がする。
まさに母親は、しっかり者の働き者の太陽だ。

伊東四朗を作り上げた色んな偶然は、必然だったようにも思う。

私の姑は、ことあるごとに自分のルーツや嫁ぎ先(わたしの嫁ぎ先でもある)の自慢をしていた。
と同時に、嫁ぎ先での辛かった思いを、わたしに吐き出していた。
わたしは、うんざりしていたが、まあ、聞くだけだから楽勝と思い、そうですか、と一方的に聞き役に回っていた。
家庭内の専業主婦というものは、いかに社会と遮断されているかということが、よくわかった。
親戚、近隣住民、家族が全て。
それ以外は、一人もいない。お見事、あっぱれ。
一本、筋が通っていて気持ちよいぐらいだ。

かくいうわたしの母も、働く女性ではあったが、頭の中身は、似たようなものであったが。
戦中派は、あんなものなのだろう。
自分で考えることを許されなかったのか。
あるいは、ワザと考えなかったのか。
個人主義ではない時代。
今の潮流で、当時と同じように物事を考えるわけには行かない。
に、しても、、、
全く考えが違う人が上司で、意見、考えを押し付けられるのは、自分の魂を抜いて抜け殻の自分になって、行動するしかない。
スイッチをオンからオフにする。
着ぐるみを着たり脱いだりする。
まあ、ルーツをそれだけ大事に、自分の人生と重ね合わせている人もいて、それに寄添わなければならない立場の人もいて、色々あります。

夫は、わたしの考え方が、天邪鬼(あまのじゃく)だと言う。
なんでも人の反対をする、と。
夫の考え方は、親の考え方であり、自分独自の考えは、1ミリも、1グラムも、1ミクロンもない。
なぜ、わたしが、夫の親の考えをなんでもかんでも首を縦にしなくてはならない?
自分には自分の考えがある。
親の考えから、一歩も出てない、その脳ミソこそ、問題があると思う。
息子が親の意向に沿わないからと夫は嘆くが、自立してくれたらそれで良いではないか。
なんで、自立した後も、親にべったり同調しなくてはならないのか。
わたしは、そのあたりが、全く理解出来ない。
成人し、独立した子供を自分の思い通りにしようなんて、間違っている。

と、ファミリーヒストリーから、いっきにヒステリーへと移行してしまった。
ルーツと言っても、夫は大してその内容も知らないくせに、自負や誇りだけは高い。
なら、すらすらルーツを説明してほしい。
なんだかよくわからないが、なにしろ良いんだ、と思っているのだろうけど、なんじゃいな、それ。

わたしは、婚家のルーツには何の関係も血の繋がりもない、はっきり言って他人である。
最近、そう思うようになってきた。
本来は、子や孫に言い聞かせ、伝えることが役目なんだろうけれど、今、わたしのところで止まっている。

過去が良かった話ばかりを嫌というほど聞かされた反動である。
現在も悪くはないが、過去ほど良くはない。
時代の流れもあるのに、その肝心な時代背景を全くと言っていいほど、理解していない姑。
愚痴られるのは、鬱陶しいが、自慢もそこそこ鬱陶しい。
わたしの実家のほうが、ぱっと咲いて、ぱっと散る、花火みたいで潔い。
結果残ったのが、我々きょうだいと、その子供たちと孫たち。
それで十分だ。

とは言うものの、まだ、両家共に、おばあさんは存命。
このブログを書いている最中にも、おばあさん(わたしの母)から電話あり。
どうもミスして、かけたっぽい。
さらに、2度目の玄関チャイムで、渋々出て行った、お巡りさんのパトロール巡回訪問。
サボりにサボっている、くつろぎをはるかに超えた格好をしていたため、とりあえず服を少し着替え、取り繕ったが、無理がある。
大きなマスクをして出て行った。
不気味なおばあさんだと、若い笑顔の可愛らしい女性巡査さんは思ったことだろう。

と、いつの間にか、ブログが時系列順に、小学生の作文化している。
「大野君の夏休み」も書きたかったが、スタミナ切れとなった。

で、何が言いたい?
テレビネタと、芸能ネタ、家庭の愚痴、これって、昔風、寝っ転がって、ボリボリおせんべいの、太った主婦像。
「ブルータス、お前もか」などとはそんな使い古された時代遅れのフレーズは、恥ずかしくてとても使えない。

ではあるが、まさに、ぐうたら主婦そのものになっている。
とりあえず、週の後半はバリバリ働く予定である。
ナマケモノ日記、皆さんに、ナマケモノ菌が飛来していないことをお祈りして、筆(人差し指)を置きます。

女同士のドロドロ

2019-01-24 | 趣味
趣味のSNSで、社交ダンス愛好家平均年齢より、少しだけ若めの女性が投稿していた。
一般的には中高年のくくり。
若いといっても、孫が2〜3人いても普通の年齢。
だが、50代というだけで周りが目の色を変える若さ。
異常に平均年齢の高い、この趣味の愛好家の中では若い方。

ネットではなくリアルの世界で、その若い?女性Aさんに嫉妬する、若くない女性Bさんがいて、ドロドロが繰り広げられている。

Aさんが悪口を言いふらされて、犯人を突き詰め、直接、犯人Bさんに詰問したところ、「若くてお金と時間をたっぷり趣味に注ぎ込めるAさんが憎らしくて嫉妬したから」、と泣きながら自白したとか。
しかも、Bさんは、敵になるようなレベルではない、歳がいっていて、美しさ、女性としてのランクは話にならないぐらい数段下なんだそうな。
あんな女性に振り回されて、アホくさかった、という感想のAさん。

その話を読んでわたしは、詰問したAさん、あっさり自白したBさんに、2人ともに潔さを感じ、意外に好感を抱いた。
しかもBさんにいたっては、髪はボサボサ、マニュキアは剥げ剥げ、マスカラ、アイラインは号泣の涙で溶け落ち、パンダ目になりながら、敵に白旗を振っている。

が、Aさんは、さらに連続投稿していた。
友人だと思っていた人(たぶん、別の人、Cさん)が、自分の保身のために、Aさんの個人情報をリークしていたらしい。
「女は、信用できない」とAさんは憤っていた。

しかし、Aさん。Cさんを友人だと何故思うの?
友人なんか、どこにもいない。
女であろうが、男であろうが。
自分の情報を流してしまった自分が悪い。
自分が言わなければ、自分の個人情報は全く外に漏れない。

しかしここで、事実とは異なる嘘の情報を流してみるのも一つである。
なりたい自分、理想の自分の情報を流す。
情報操作。
すぐバレるけど。
見返りに、見栄っ張りの嘘つきというレッテルを貼られるだけだが。

さて。
自分の情報でわたしが人に公開するのは、、、
まず、どこに住んでるの?と聞かれると、
◯◯県の北部とか、南部とか、嘘ではないけど特定できない地を言う。
相手がさらに突っ込んで特定しようとすると、、、
しかし、今まで、突っ込んで来た人はいない。
なぜなら、こんな曖昧な返答をする人間の心情は、「答えたくないんだな」という暗黙の察しがつく。
だから、突っ込まれたことはない。
よほど鈍感な人は、どんどん聞いてくるのだろうけれど、わたしの「聞いてくるなオーラ」が強いようで、さらに詳しく聞かれたことはない。
あまりにも愛想ないかな、と思った時は、ちょっとヒントを付け加える程度。

住所でさえそうなのだから、あとの情報も全て似たようなもの。
答える気なしオーラをぷんぷん発している。
仲良い友達なんか、別に欲しくないし、近づいてきても、距離を取るのみ。
仲良くなろうなんて、最初からさらさら思わない。
だが、わざわざ嫌われるような態度は取らない。
おそらく、あの人は、人と接するのが嫌なんだな、と思われているだろう。
あえて近づきたくなるほどの魅力もないし。
だから、個人情報は一貫して10年以上、一言も発していないので、もし噂が流れたら全て嘘だということがわかる。
誰が言ったか聞いてみたら、即、嘘がバレる。
これは言ったけど、あれは言ってない、なんてことはなく、全て言ってないから。
想像や推測だとしても、事実無根、証拠がない。

わたしは人が嫌いなわけではなく、個人情報非公開を徹底しているだけだ。
別に込み入った会話なんか要らない。
お天気の話や、ドレスなどの話、パーティ情報、そして笑顔があればそれで十分。
仕事の話や家庭の話なんかいらない。
「今から仕事で」と言う人がいても
「大変ですね」で終わり。どんな仕事?なんて聞かない。
それ以上言いたい人は、聞かなくても勝手に自分から言う。
どうせ誰かから、それとなく情報は入ってくる。
入ってこない場合は、本人が漏らしていない。
情報が、ある段階の途中まで入って来るが、さらに深くは入って来ない場合も、本人がそこまでしか漏らしていない。
そんなこんなで、今まで何不自由なこともなく、不快な思いもしたことがなく、トラブルもない。

あの人がああ言った、この人がこう言った、が、一切ないのは、わかりやすい。

なので、信じていた人に裏切られた、なんてことはない。
ハナから信じていないから。
口も、こころも開かない。
たとえ長い期間が過ぎようが、知らない人ばかりが集まるところで、自分をさらけ出すと事故の元である。
知っているのは顔だけでよい。

だから、わたしに関しては、ドロドロがない。
それもつまらないから、人のドロドロを聞いて楽しんでいる。
うわあ、最悪の人間、わたし。
しかし、人様に娯楽を提供しなければならない義務や義理はない。
ゴシップは聞いて楽しむものであって、作ったり、巻き込まれたりするものではない。

で、ドロドロ現場の皆様へ。
エネルギーを余計なところに使うと、気力と体力が消耗しますよ。
人のことなんか、何をどう思われようが、他人のこころや感情を無理やり強制することはできないんだし、どうでもいいじゃありませんか。
気にしはじめるとキリがない。

しかし、世の中、人のことが気になる人がなんと多いことか。
人のことを気にする時間、余力があれば、自分のこと専門に集中したら、もっと充実すると思うが。
どうも、そういうわけには行かないらしい。

小学生のころ

2019-01-23 | 思い出
小学生になった時の思い出。
はじめて開いた教科書。
理科の教科書で見た「菜の花」が、印象に残った。
国語の教科書、「さくら、さいた」が、優しく目に映った。
担任のH先生は、わたしが幼稚園の時からレッスンを受けていたピアノの先生。
上品で柔和な優しい先生だった。
先生は、地域では高級住宅地とされる高台に、お姑さんとご主人と息子さん2人でお住まいだった。
長い階段を登って行くのに、子供ながら息が切れた。
門をくぐり、庭の中をまっすぐ歩くと、裏玄関があり、そこから入って右に回ると、先生のお姑さんが習字を教える和室があった。
和室の前は、一面に裏玄関まで通ってきた庭が見える。
わたしはお姑さんに書道も習っていた。
さらに、その和室を出て、応接室のような部屋で、ピアノのレッスンを受ける。
お姑さんも上品で柔和な方、ご主人も背の高い、アメリカドラマに出てきそうな上品で素敵な男性、子供たちも、超おぼっちゃまだった。
わたしは、小学6年まで、その先生の家に通っていた。
ただし、習字は、小筆になってから、全然うまく書けず、脱落した。
筆が細いため、付けた墨が続かないのだ。
先生は、一度墨を筆に付けると、さらさらと何文字も書いてお手本を見せてくれる。
だが、わたしは、一文字、やたら太くなった無様な文字。
枯れた文字など到底書けず。
で、辞めたわけだ。
辞めることに対して、親は、どういう反応だったか忘れた。
バレエも珠算も、自分から言いだして習った。(正確には「習わせてもらった」)
小学生高学年から6年生ぐらいまで。

全部、中途半端で終わった。
自分から習いたいと言い出したくせに、軟弱にも2〜3年ほどで辞めている。
ただ、家庭教師だけは、わたしには充てがわれなかった。
兄にも姉にも家庭教師がいたのに。
兄や姉が家庭教師が来た年齢になると、自分も当然、順番が来るものと思っていたが、一向に気配がない。
で、一応、わたしもー、と親に頼んだような気がするが、どうもスルーされたようだ。
末っ子なので(あるいは見込みのないものには投資しない、合理主義か?)、明らかに手を抜かれた。
母は仕事に追われ、末っ子の声を聞く余裕がなかったとも考えられる。

その頃のわたしは、小学校では成績は最下位クラスで底辺で蠢いていた。
個人面談では担任の先生から母は、もっとわたしを家でも勉強させるようにと注意を受けたと聞いたが、母はその指令を無視し、見事に逃げた。

そのあたりから、わたしの学業不振の根源があるのかも知れない。
その後、成績が振るわなくても親のせいに出来るネタを掴んで、何かと不利な状況に陥れば、そのネタを持ち出し、自分を慰めた。
その一方で、母に、ぎゃーぎゃー勉強しろとうるさく言われない状態に胸を撫で下ろし、妙に安らいでいた。
身に覚えが有る無しにかかわらず、自分の不出来を、他のせいにするシステムを自分で自然に構築する傍らで、自分のマイペースな居場所を確保し、涼しい顏でのんびりしていたのかも知れない。
放任主義って、ラッキーだなあと、後先のことも考えずに、意外にのびのびしていた。

(5年生後半あたりから、担任の先生のスパルタ方式が功を成したのか、成績はぐーんと伸びたようで、笑い話で済むものの)

話は、戻る。
ピアノの先生であり、小学1年の担任だったH先生。
想像するに、昔は公務員も副業が認められていたのだろう。
H先生からの、受け持ち小学生としての初めての通知表。
先生直筆の小さな美しい文字で書かれた、わたし評価は、「大人しく優しいが、芯はしっかりしている」だったような。
これ、ブログに何度もしつこく書いている。
気に入っているんだろう。

幼稚園に入った時は、父が信号機の見方、横断歩道の渡り方を、現場でわたし目線になるよう父が、しゃがんで教えてくれた。
父がちゃんと1対1で接してくれたのは、それぐらいだ。
あとは、食事中のマナーが悪いだとか、こんなことも知らないのか(知識がない)だとか、叱られてばかり。

父が帰宅する車の音がするや否や、それまでうちで遊んでいた近所の子供たちは、蜘蛛の子が散るように、一斉に駆け足で逃げて帰った。
ガラの悪いガキ大将や、ハナタレ小僧の嫌いな父だった。
自分の息子に、彼らからの悪影響が及ぶのを嫌がった。

わたしは、末っ子で、しかも女の子だったので、あまり期待もされず、力も入れられず、野放しに近い状態で育った。
逞しく雑草のごとく育ったと多分思うのだが、見かけはフツーに大人しげだったようだ。

【補足】
長々長々、延々と調子に乗って書いてしまい、本人は気持ちよく酔いしれているだけだろうけど、まあ、真面目に真剣に読む人はない、という日記でした。
書くことによって今日も元気になる、ブログ・セラピーである。
自分を救うのは自分!
皆さんもどんどん、ブログを書きましょう。
(さすがに自己陶酔しすぎて恥ずかしくなったのか、なぜか行き先、方向が変わってきている、、、)

同じ星から来た変人仲間

2019-01-19 | 無題
先日、踊ったプチ教え魔。
どこか、顔のイメージや雰囲気が蛭子能収さんに似ていた。
その教え魔男性の、変な踊りなのに悲観的でないところ、押し付けでも卑屈でもない不思議な自己肯定感、突き抜けた明るさをわたしは面白いと感じた。
でも、練習相手に感想を言うと、「彼を面白がる人はいない」との返答。
なんだか腑に落ちないので、趣味SNSの自分の日記に書くと、皆さんからの賛同は只のひとつもなかった。

やっぱりわたしは、変わっていて、変人はそうそうゴロゴロいないのだと痛感した。
同じ星から来た、変人仲間で、地球人には理解されないようだ。

顔は浮かんでも蛭子さんの名前が浮かんで来ず、ググって調べて見た。
蛭子さん、漫画家でもあり、天才とキチ◯イの間を行ったり来たりしている人らしい。
彼の風貌からは、想像も出来ないが、言われて見れば、そうかも、と妙に納得したりもする。
彼の面白さを理解する人々の解説によると、異常過ぎて一回り360度回って、普通のオヂサンになってしまったような人だそうだ。

アンダーグラウンド、サブカル支持層には熱狂的に評価されていた。
わたしも、サブカル仲間なのかなあ?
わたしは、ちょっと星が違う。(星座ではありません)
わたしは、サブカルは、理解する余裕はあるが、自分からは発しない。

イジメられたり虐げられたりした結果、人に迷惑さえかけなければ、何をしてもいい、何を思われてもいい、どんな評価でもいい、という考え方、そして見かけは「ニコニコ柔和」であることは、蛭子さんとピッタリ同じなんだけど。

蛭子さんとの違いは、わたしには、ハングリー精神がない。
なにくそ!が、ない。
嘆かわしい現実が、ない。
イジメられても、全然、その時、瞬間的に凹むだけ。
イジメる側の人間より、わたしのほうがポジション的には上にいると思っているので、パワハラにはならない。
自分より上の人間には、なぜかイジメられたことがない。
接点がないのだろう。
しかし、接点がないって?
限りなく変であるが、、、
宇宙人の宇宙人たる所以だろうか。

もし、こころの何処かに傷となって残るような、イジメられた経験があるとすると、、、
幼稚園の時の中間管理職の、真っ赤な口紅の若くない女性教諭かな?と思う。

高校の先生にも今、思えばかなりエゲツない暴言を浴びせられていたが、全然聞く耳持たず。
耳を素通りした。
「エグいわー。もしナイーブな生徒なら絶対傷つくような、タブー的発言だ」とは思ったが、わたしはまるっきり傷つかなかった。
何故だろう?

高校教師をバカにしていた?
そんなことはない。
ではなぜ?
先生の言っていることが本当だったからである。
歯に絹着せず、叱咤激励ならまだしも、激励されてない。

はあ、そうですが、それがどうしました?
みたいな、クールな反応。
わたしは実は学校に対する情熱や緊張感は、中学卒業と同時に卒業した。
だから、まったく学業には気合いも入れてないし、(というか、入れようにも気合が入らない)、先生に何を言われても、痛くも痒くもなかった。
まるでやる気がない生徒である。
卒業さえ出来ればそれで良かった。
出席日数は、ほぼ完璧に近いし、何の問題も起こしていない大人しい生徒だから、卒業させてくれない理由もないけれど。

だから、先生に嫌味を言われても、こたえない。
あと何日で卒業、、、と指折り数えていたかも知れない。

と、何を延々と書いてるんだろう、、、
どんどん、話が逸れている、、、

パワハラされても、一向にこたえない話だった?
私は選択肢、選択権があると思っているからだろう。
逃げ道が無いわけではなく、嫌ならいつでもやめられる、いつでも逃げられる、と思っているからだろう。
しかし、家庭、特に姑や夫婦間の嫌なことは、避けては通れず、余裕のない時期もあった。
が、過ぎてしまった。
家庭はわたしの仕事の場である。
苦しいことも当然あった。
逃げ出すにも、どこへ逃げてよいのかわからない。
というか、なんで逃げなければならない?
逃げるとしたら、相手が逃げるべきだ。
わたしは、動かない。
自分を軸、芯にしているから、動かない。
動くなら自分以外の人が動けばよい。
(しかし泥舟だと判断したら、船長じゃないので、しがみつかずとっとと逃げる)

文章が長く長く長くなって、文字数がどんどん増えている。
にもかかわらず、落とし所に全然到達しない。
まとめ、結論がない。
起承転結の転結がない。その兆しもない。

そう言えば、蛭子さんの描いたものも、起承転結の転結がない、と酷評されていた。
あ、蛭子さんは、わたしとやっぱり同じ星の人かも知れない。

ブログ・アップ病

2019-01-16 | ブログ
閲覧数を上げるために書くのか、はたまた、書いたら閲覧数が上がったのか。

閲覧数が上がったから気を良くして書く、とする。
すると飽きられ、また閲覧数は下がる。
それとともにモチベーションも下がる。
ずっとずっとずっと、猿の一つ覚えのように(差別用語か? しかし、猿には人権はない。が、動物愛護協会が保護する。猿を精神的に傷つけることがあるとすると、動物園は、どうなる?)
と、目的地になかなか近づけない無意味な説明を付けながら、、、
と、なにしろ、なんどもなんどもなんどもその繰り返しで、全く学習しない、泥沼のような行為、ブログアップであるが、
(やっと、主語に辿り着いた。長くてすみません)

その目に見えぬネットの向こう側におられる皆様の生み出す閲覧数に振り回されるブログ、最近はさすがに、どうでもよくなったのだが。
アップしない時のほうが、閲覧数が上のこともしばしばある。
つまり、アップは直接関係ないということだ。
で、モチベーションは何かというと、たんなる気まぐれである。
気まぐれには入魂的エネルギーは要らないが、気まぐれの難点は、自分でコントロールできないことだ。


一人の人のコンテンツなどたかが知れている。
ましてや、ど素人で、日常生活は別のところに確保されている。
死に物狂いで命を削って書く、魂の作家でもなんでもない、対極の位置。
息抜き以外の何物でもない。

と、そう書くと、またまた閲覧数は下がるのだろうが、この閲覧数はわたしのものであって、誰のものでもない。
ちょっとした目安に過ぎない。

それより、閲覧数自体が疑わしいとすると?
国の出したものでさえ、疑わしい昨今、何を信じてよいのか。
壊れたか、集計ミスか、わざと捏造か、なんだか知らないが、たまたま真実を反映しない数だったとする。
その数に一喜一憂したり、振り回されるとすると、じつに無意味なことである。
しかし、意味があることだと信じていたことが無意味なことだとわかったとすると、、、その後の行動、考え方は?

価値観を変えるか、自分独自の尺度、基準を持つこと。
ブレないことではなく、ブレてバランスを取ること。
地中に基礎柱を作るのではなく、浮いている中に、岩盤に届かない、浮き基礎を作る。
(これは、昨日、建築家の人が言っていた。パクリます)
わたしは、浮き基礎のようだ。
しっかり地中奥深くではなく、接する面をやたら大きく広くして、上に構造物を建てている。
芯なんてないってこと。

猿より学習能力の低いわたしが、まるで学習しないのは、、、
もともと学習する気がないのだろう。
「失敗すると、次に失敗しないための糧にする」なんて自分では自分をフォローしているが、転んで付いた傷口をぱぱっと土を払っている程度で、人間、本質的には変わらない。

間違ったもの、ことに踊らされるのも勉強の一つ。
自分を見つけるためのエキソサイズだ。


今日のブログ、最低だと自覚した。
閲覧数が上がった後のブログは、いつも全然面白くない。
閲覧数が下がることを予期しているからだろう。
あれだけ振り回されないと自分で言っているくせに、無意識のところでは振り回されているようだ。
しかし、じつに人間らしく、猿らしくて良いのでは?
ころころ変わる主張。なにしろ浮いているので。
眠くなってきたから間違いなさそうだ。

落し所は、いつも甘い

2019-01-15 | 人生
昨夜NHKで観たドキュメント番組。
登山家の挑戦、冒険の共有。
35歳での若すぎる死。
あまりにも痛々しくて、すっかり沈痛な思いに囚われた。
彼を追い詰めた、追い込んだものは何?

ネットユーザーは、一方的に応援したり、勇気をもらったり、叩いたり。
彼は人に勇気を与え、喜んでもらうことが最大の喜びだったそうだ。
喜ばれる、というのは、反面、失望される、に繋がる。
数多くの「いいね!」に結果的には首を真綿で締められることになるような、人々の善意。
思いに応えなくては、、、というプレッシャーは、強すぎると、やがて自分自身を見失うことになる。

わたしは、自分の評価は自分で決める。
自分で自分を評価し、他者が何を言おうが思おうが、自分は自分だけのものだと思っている。
最低だってなんだっていい。
決して他者とは共有しない。
もし共有したいという人がいたら、逃げる。
ほんのちょっとだけ、部分的なら、まあ良いが。

わたしはわたしのものなのに、なぜ他者と共有しなければならない?
そのかわり、孤独。
でも、孤独は楽しいこともある。
なぜなら、自分は自分の命令に従ってくれる。反逆しない。

だが、自分の意に反して、病気になったり、行動がのろのろしたり、最近は、わたしを困らせ、不安がらせる。

弱ってピンチになると、たちまちのうちに、孤独なんか返上する。
人様のお世話になる。
だから、保険をかける意味でも、あんまり変人を貫くと互助システムが機能しないから、そこそこの変人ぶりで抑える。

だから、見かけは、やっぱり普通の人、とても平凡な穏やかな自分がいる。


長々と記述するほどのこともない日常

2019-01-14 | 日々のこと
この連休、夫は飛行機に乗って遠方地へ遊びで不在。
わたしは、ホームアローン状態を楽しんだ。

まず、帰宅すると、玄関にリュックをぼーんと放置。
リュックの中身をぶっちゃける。
ホームウエアに着替える際、外出着、脱いだら脱ぎっぱなし。(まるで夫のよう)
元の衣類収納場所に戻さない。
わたしは3日とも同じ場所に同じ目的で同じ行動をするため、(たんに公民館に行くだけなんだけど)、持っていく荷物は同じ。
お風呂に入る前後、わざわざ服を取りに行ったり、しまったり、全然せずに、ほったらかし。
だらしないこと、この上ない。
が、期間限定、暫定的なだらしなさを楽しむ。

好きなテレビ番組を見放題。
いつもチャンネル権は夫にあるので、自分の見たい番組を見たい時間、好き勝手できる。
笑いたい時に大声で笑い、テレビの前で寝っ転がってゲラゲラ。
とても楽しかった。
昔、見たマンガやドラマの、だらしない太った奥さんみたいな、あんなかんじ。
一度、やってみたかった。

2日目は、見たいテレビ番組がなく、延々と見たくもないスポーツ番組を流していた。
スマホをだらだら弄って、なかなか寝る時間の踏ん切りがつかず、無理やり退屈な時間を過ごし、疲れた。

3日目は、夕方にはわたしが帰宅するより早く娘一家が訪れ、後に夫も帰宅。
バタバタあたふたと夕食準備。
娘婿、娘と共同作業。

面白くもなんともない小学生の日記のような記述であるが、
誰もいない家で、思いっきりだらしなく過ごして楽しかった。

ただし夜だけ。
日中は、前述した通り、公民館!
ひょっとして、わたし、健全に過ごしてるかも。
誰も待つ人はいないのに、帰宅はいたって早い時間。夜遊びゼロ。
帰路のバス、待ち時間が長すぎて歩いて帰ったほうが早いと、家に急いで帰る必要がないから焦ることもなく、のんびりのびのび徒歩。
しかし、のびのび徒歩って、なんと健全な。
だが寒くて耳がちぎれそうで、コートのフードをかぶり、(ゲゲゲの鬼太郎の)ネズミ男状態に。

やっぱり、お年かな。
順調に歳を平凡に重ねている。

じつのところ、今週半ばは3日間、ちょっとした病気で寝たきりだった。
しかし、連休は公民館に遊びに行くために、早く病気を治そうと必死。
頑張って寝込みすぎたため、腰が痛くなった。
若くないと寝込むのもエネルギーが要る。

まあ無事、ほぼ病気も治りかけ、やれやれである。
まだ食欲はないものの、自己最低体重を記録したのだが、実は悪い気がしていない。
そういう考え方は、歳を取ると良くないのだが、とりあえず体重が落ちてその体重がキープ出来たらと、軽薄にも思う。

薄っぺらな日記になった。
まあ、人生そんなもんだ。
こういう、どうでもよい日常の積み重ねが幸せを形成していると感じる。
て、しかし今回は、なぜか軽薄感が色濃く漂っている、、、、、
この連休、楽しかったので、ちょっと浮かれているのかも知れない。

不甲斐ない自分が情けない

2019-01-13 | ブログ
今朝、行きの電車に書き始め、帰りの電車内で熱心に推敲や加筆を重ね、書き上げた日記を趣味のSNSに夕方、アップした。
が、4時間弱でお蔵入りにした。
せっかく書いたんだから、ここ、蝶ブログにアップすればよいのだが、たった4時間とはいえ、一旦アップしたものを別のところで公開するのは、私のモットーに反する。
「一寸の虫にも五分の魂」的、心情かなと。
で、日の目を見たのは短時間。
ほんの数十人の目に触れた。
コメントを寄せてくれた人も2人いたが、個々にミニメールを入れ、非公開にしたことを詫びた。

なんだか、悪い、嫌な予感がした。
なんだか、、、、
アップした時から。
過激な表現は全て柔らかくオブラートに包み、何度も修正してアップし直した。
それでもやはり、、、
黒いもやもやが胸に立ち込め、アップ続行をやめた。
恥ずかしながら、原因を自己分析してみると、そもそもその記事を書いたモチベーションの根に、わたしの、アップ記事の「受け狙い」があった。

蝶ブログなら最初のまんまの原文で、しれっとアップしていたことだろう。
同じ自分の駄文じゃないか。
なぜ、違うのか?

違うのだ。
恥ずかしい受け狙いの日記に対する、人のダイレクトな反応には耐える自信がない。
それに比べると、蝶ブログの反応は、ダイレクトではない。
ブログを開設した頃は、手応えがなく、それが、かえって、もやもや不安になった。
が、ダイレクトではない反応が今は快適である。
だから、受けを気にせず、すんなりホンネが書ける。
受け入れられようが、受け入れられなかろうが、反応が無かろうが、有ろうが、どうでもよい。

メールで別れや辞職の意を示す、メール世代のごとく。
生の反応が怖い。苦手。
つくづく未熟な自分だと感じる。

女の夢

2019-01-07 | 無題
去年の世間でのニュースに、土建屋(表現がよろしくない? 建設会社というのか)の経理女性が5億円だか何億円だか横領した事件があった。
田舎(表現がよろしくない? 地方というのか)での出来事。

何億円も高級ブランド品のバッグなどを買い漁り、所狭しと部屋を占領していた。
ミッキーマウス御殿を建て、西洋人らしき年下愛人男性との愛の住処にしていたとか。
数億円の使い方、、、箱庭遊びのようで、なんだな、哀しいような、、、
所詮、(最初は)ちまちま罪の意識に苛まれながら、人様のおカネに手をつけたものだから、あんなものだろうけれど。

かと言って、ギャンブルで、すってんてんのスッカラカンが潔く男らしい(ジェンダー表現)使い方かと言えば、そうでもない。

では、美術品を買い漁り、日々、優雅に格調高く眺めているのが、素晴らしく上品かというと、そうでもない。
うん億円では、買えない美術品もあるので、小物買いになる。
それなら1点、何百億円もする絵画を観に、美術館に通う方が良い。
(車椅子になる前に急いで)

前述の横領女性、夫がいるらしいので、あまり派手なことは出来なかったようだが。
女性の夢って、あんなものなのか。

若い女性ならまあわからないでもないが、中高年にもなって、、、であれ、今まで満たされなかった夢を実現したのだろう。
ある意味、非常に単純明快でわかりやすい。
鬱病とかには、ならない性格である。
こころの闇を抱えると、モノでは解決できない。

人の目を盗みながら、盗んだおカネで使うものは、所詮、そういう使い方しかできない。
自分で稼いだおカネなら、たとえ、1万円でも、充実感があると思う。

と、そんな感想はキレイ事に過ぎないと次女に言われた。
今日、明日のおカネに困っている場合もあるんやで、と。
その通りである。
次女も、(社会的ポジションや年収は別として)立派に自立してくれ、自分を確立したなあと感じた。

なぜか、子供たちは皆んな、ブレずに辛口。
いつも、わたしは叱られる側に回ってしまう。