蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

年末せかせか

2013-12-29 | 日々のこと
年末。
とても忙しい。
読んでくださる方々も、お忙しいことだろう。

で、もう夜の8時にもなるというのに、
夕飯もまだ作らず、ちょこっとのヒマを見付けて、中毒のブログをちょいと・・・。

独身の方が羨ましい。
なぜなら、年末やら迎春やら、そういうのとは無縁なのでは?

といいつつ、配偶者や同居のご家族を亡くされた方にとっては、用事は同じ量なのに、
人手は、不足、という、一人頭の労力増で、割が合わないことになっているだろう。
そういう、不幸な方を除いて、独身が長い方、
こういう方は、年末年始、非常に寂しい方と、そうでもない方がいる。
寂しい同士で、わいわいやるのも、よし。
一人が気楽でいいわ、という人もいるかも。
第一、めちゃめちゃ楽だ。

でも、なんだか侘しいような気もする。

コタツに、みかん。
年末、年始、テレビ。
ミニ御節。

しかし、バタバタと、大量の用事からは開放される。
どっちも、どっちか?

わたしは、三世代(四世代の時もある)家族で大勢で迎えるお正月しか経験したことがないので、
なんとも言えない。
その代わり、自分の家は、ほったらかしで、今まで一度も迎春準備をしたことがない。
これも、どうかと。

で、今年は、自分の家をちょっと迎春を意識して、整頓、掃除をした。
(というのは、娘の目がコワイ)
年賀状を書く暇は、吹っ飛び、今夜、遅くに。
明日の朝早くから、夫の実家に移動するので、核家族の家は、明日で今年は、さようなら。


さてさて、息子は帰ってくるのだろうか? (移動に片道1日かかる場所に住んでいる)
(仮に帰ってくるとすると、
突如、1時間ぐらい前にメールがきて、突然に、玄関に、にょきっと、現れる可能性、大。
前が、そうだった)


民族大移動。

あっちへ行き、こっちへ行き。
娘夫婦も、娘婿の実家やら、あっちこっち。
娘婿の実家にも、婿のお兄さん一家やらも遠くから帰省、
大勢が連泊するらしく、乳幼児も複数、お家は、多忙期・民宿、ぎゅーぎゅー、すし詰め状態。
(あちらのお母さん、ご苦労様です。ほんと)

びゅ~ん、びゅ~ん、と、すごい勢いで、行ったり来たり。
受け入れ準備も、すごい勢いで、びゅ~ん、びゅ~んと、これまた大変。


わたしの実家にも、母の元に、お正月(元旦ではない)に、4世代、6家族が大集合。
お年玉やら、年始のご挨拶、お年賀・物流大合戦が行われる。
ばたばたばた、と、忙しなく。
義姉さんに負担をかけてはいけないので、今年は滞在は2時間限定にしようと、姉たちと3人で事前に相談した。
せっかく遠路はるばる行って、居るのは短時間でも、
長老からベビーまで、みんなの元気な顔を見ることができると思うと、なんだか楽しい。

ということで、ブログタイムは、せかせか、終了いたします。


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男前

2013-12-28 | 日々のこと
昨夜、ぶらりと初めての店に行ってみた。
そこは、以前は、おすし屋さんだった。
市川海老蔵と同じ年という、市川海老蔵のような整った美しい顔の、美しい肌をした男性が、
カウンター越しに客の話相手にもなってくれる。
別にスナックとか、いかがわしい店とか、そういう類の店ではない。
女性客もいて、常連客が多そうだった。

で、わたしは、思った。
わたしは、若くて、男前が苦手だ。
なんだか、居心地が悪い。

おそらく、今までの人生のなかで、男前という人種に縁がなかったからだろうと思われる。
袖をちょこっと、するぐらいなら、あるかも知れないが、本格的にわたしの人生に登場することは決してない。
なぜか?

わたしに容姿コンプレックスがあるからだ。
あれ? コンプレックス部門は、学業、学力、頭脳コンプレックスだったんじゃないの?
いや、わたしのコンプレックスは多岐にわたっていて、バラエティに富んでいる。
ノーテンキで、楽天家なのだが、コンプレックスもあれこれ抱えていて、無意識にバランスをとっているようだ。

まあ、いい。
特に男性の美形には、からっきし縁がない。
前の会社に、美形が、複数いた。
ヒゲの渋い、味のある人もいた。
わたしは、その中の特に美形男子、O君を「TOM]とこころの中で呼んでいた。

なんてことはない。
リカちゃん人形の、リカちゃんのボーイフレンドのTOMに似ていた。
長身でスタイルも抜群。
おそらく、TOMを生身の人間にすると、こんなかんじかなあと、思って、
自分のつけたネーミングに、悦に入っていた。

彼は、若い頃は、カジュアルな服装で、TOMっぽかった。
次第になんだか、会社で偉くなったようで、スーツを着るようになった。
スーツは、これまた、めちゃめちゃキマッていた。
が、わたしは、カジュアルな格好のTOMのほうが好きだった。

その、かっこいいTOMとは、何度も接したことはあるが(仕事で)
どうも、わたしとは、わたしが透明人間役なのか、実態の人間としての、接点がない。
重なる部分は、すすーっと通り抜けてしまう。
べつに、見かけがどうとか、コンプレックスがああだとか、一方通行の好意の裏返しがこうとかではなく、
感性や中身に、わたしとの接点がない。
不思議なほどに。

なので、いくらカッコよくても、ああ、そうなんだ・・・と、
わたしは、自分との好みの上でちょっと距離感を感じた。
わたしは、外側だけを猛烈に愛するタイプではないようだ。
容姿フェチではない。

もう一人の長身和風しょうゆ顔・男前氏も、そうだった。
(ゲゲゲの女房に出ていた、漫画家アシスタント役の男前俳優みたいなかんじ)
すーっとしていすぎで、クセも味もない。ひっかかりもない。
なんか、違う。
わたしが、へんなのだろう。

わたしは屈折しているので、
学生時代にあまり頑張ってお勉強をしてこなかった、ただただ美しいばかりの、感性だけの人は、
魅力を感じないようだ。
(学力コンプレックスが、まだ克服できていないのだろう)
するっと、すり抜けて通り抜けてしまう。

少々ブサイクでも、自分なりに努力している人のほうが、高得点をあげてしまう。
ただし、ブサイクで、屈折していて、でもちょっと偉くなって、へんに「オレ様」タイプは困る。
それなら、男前で、困ったタイプのほうが、まだマシか。


男前にもいろいろある。
1)単に男前な人。それがすべて。
2)男前で性格がいい人。そりゃモテる。
3)男前で、性格が悪い人。一部の人に、モテる。
4)男前で、なんでも万能な人。雲の上。
5)男前で、それ以外はぜんぜん、だめな人。ダメンズ。稼ぎのいい女性に養ってもらえる可能性あり。


男前が苦手・・・
苦手分野は、先ずは、敵の研究から、ということで、男前を分析してみよう・・・
と思ったが、今さら、どうこうする気もないので、分析解析の手が緩む。

わたしにとって、男前は、嫌いではないが、神経を分散させられる(気が散る)ので、邪魔かも?
男前でないほうが、なぜか、気楽。


年配部門の男前、そういう分野は、けっこう面白い。
男前というだけでは、世の中、渡れないことを十二分に体験して、年をとっておられるはずなので。
元・男前と、現在・男前がいる。
現在・男前は、深い味わいで、魅力的である。
元・男前は、すごく素敵な場合と、逆の場合がある。

あ、女性もそうだと思う。
元・美人と、現在・美人。
今までの長い人生が姿に出ている。
こころも、顔に出ている。
顔のパーツや美醜という範疇では、収まらない。
元・ブサイクの巻き返しは、年配部門では、追い込み追い越しあり。

・・・・・

話が、どんどん逸れている。というより、焦点そのものが、どこかに行っている。

要は、わたしは、若いキレイな男前は、苦手だってことだ。

その後、二次会で行った店が、年配の妖怪屋敷だったので、ほっと安心した。
リタイア直前・直後、60歳前後、あるいは、もっと上の、
ご自分に酔っているような、(本当にお酒で酔っている)痛々しい男性もちらほらおられたが、
やはり、自分と似たような痛々しい、よれよれした世代のほうが、落ち着くと感じた次第だ。

でも、わたしは、「おっさん化」は、決して、しておりません。


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3年

2013-12-27 | 暮らし
乳幼児はかわいい。
万国共通に、かわいいものだ。
広告作りも、ネタがなくなると、モチーフは動物か、アカチャンになるのが常套手段だとか。
いちばん、手っ取り早く、万人にアピールできる。
万人を、にっこりさせることができる。


アカチャンは、かわいいのだが、
アカチャン側としては、ほぼ動物のようなもので、こちらの存在があまりわかっていない。

一生懸命遊んであげても、お世話しても、見返りを求めてはいけない。
ボランティア精神あるのみ。

あんなに頑張ってお世話してあげたのに、遊んであげたのに、・・・と力んでも、本人は、1%たりとも覚えていない。
なので、期待してはいけない。
ただただ、自分がアカチャン&子供好きで、
遊んであげているのではなく、遊んでもらっているという感覚でなければ、後に疲れる。
アカチャンに愛を与えるのではなく、愛、生命力をもらう。

ある程度、大きくなると、うっすら記憶のようなもの、脳に残像が残るかも知れないが、
1歳やそこらのアカチャンは、たぶん、サルか猫か犬ぐらい。
が、発育過程、内容、段階、速度などを観察するのは、非常に興味深いものがある。


危険な目に遭わせないように気をつける、
退屈がらないように遊んであげる、
退屈になったら、遊んであげる、
お腹が空いたら食べさせ、眠くなったら眠らせる。
余裕があれば、絵本を読んだり、音楽や運動、知育玩具などで刺激を与える。

なんだか当たり前の、児童学科で学ぶ、発達心理学みたいで、
そんな学問は、あってもなくてもどっちでもいいんじゃない?
と感じるぐらい、ノーマルな人間らしいメニューだ。
(ちなみに、わたしは、児童学科ではありません)


自分のやっていることは、乳幼児にとっては記憶には残らないけれど、
自分がいかに、乳幼児との短い期間を充実して過ごすか、ということだ。
どの乳幼児も、とても濃厚な時間である。
なぜなら、3年ぐらいは、あっという間に経ってしまい、乳幼児の期間は過ぎてしまうから。
一生でいちばん、かわいい。
そして、いちばん、手がかかる。
三つ子の魂、百までも。

その逆もある。

人生の最期の3年ぐらいがいちばん、手がかかるとする。
いちばんかわいい・・・ということはない。いちばん、・・・?? 人によるだろうけれど、
いちばん辛い? 苦しい? しんどい? 情けない? 
認知症の場合は、神様が苦悩から開放してくれるプレゼントをもらったようなものだが、
その分、家族やまわりは、たいへん。
最期の3年で、その人の人生の〆られ、終結する。
これまた、濃厚な3年であるが、いつからの3年、というのが期間がわかりにくい。
(末期癌の告知でも受けない限り)
最期の3年の記憶は、亡くなる人にとっては、あとあとまで続くかというと、3年後、死を迎えると、そこで終わり。
一生懸命取り組んで介護しても、当人は他界してしまうので生存中には記憶の先は3年しかなく、
介護する側のこころにどう残るか。
アカチャンと同じで、相手のこころへの影響度に、期待はできない。


楽しい、かわいい、将来への夢がたっぷりの、うれしいボランティアと、
その逆の、終わりに向けてのボランティア。
どちらもボランティア精神がないと、見返りや打算ではできない。
しかし、余裕があればボランティア精神もありだが、心身も時間も余裕がない場合、自身を削って、
そんな悠長な優雅なキレイごとを言ってられない。
あんなに可愛い赤ちゃんを育てる、同じキラキラ光る素晴らしいことでも、
一人で抱えると育児ノイローゼにもなりかねない。
介護も、キラキラはしていないにしても、最後のゆっくりした時間、厳かな時間であってほしい。
厳かになるまでが、本人も回りも大変で、
闘いの時間でもあるかも知れないが、多くの人の手が必要だ。
 
ゆとりがあると、愛が生まれる。
ゆとりがないと、愛が削られる。

協力が大事。
でも、みんな、理想どうりには行かないから、世の中には様々な現象が起きている。



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うさぎ

2013-12-26 | わたし
とある若手辣腕・税理士、K氏。
彼は、若くてカッコよく、努力家で勉強家で、その業界でもキレモノで名を馳せている。
どんなにカラダに異変が起こるぐらいの大変な状況でも、点滴を打ちながらでも仕事をこなす責任感は強いが、
いささか、ワンマンで、オレ様タイプではあるので、事務所スタッフの方々や、ご家族の方々は、
ちょっと、しんどいかも知れないが。

彼は離婚歴がある。現在は独身。
彼の元・奥さんは、彼に見合う、当然ながら、ぴかりと光る、若くて知的あふれる美人だった。
彼が、射止めた。
ここでも手腕を発揮している。

結婚が破綻したのは、仕事魔である彼が、家庭を顧みることができなかったことが、主な原因であると思われる。
仕事第一主義。
奥さんは、子供もいなかったので、共働きではあったが、彼のいない家庭に見切りをつけた。
夫は、いるんだけれど、いない。
奥さんは寂しかったのだろう。

寂しくないように、二人でいるために結婚したのに、こんなに寂しいのなら、結婚する意味がない、と。

・・・

うさぎ病?
うさぎは、さびしくて死んでしまうとか?
この説は、ほんとうか、どうかは知らないが。(都市伝説か?)

男は仕事だ。
これは、彼の言い分。
家庭での時間を確保できないほど、若くして独立したK氏は、仕事に追われていた。


姉とわたし、わたしたちは二人でこの成り行きを見つつ・・・
「へえ~、でも、休みって、1年に1回ぐらいはあるんでしょ?」
過労死をまるで後押し、推進するような、マヌケな発言。

我々の父親は、よく過労死しないなあと思うほど、休みがなかった。働き詰めだった。
体力と根性の人であった。
なので、我々は、夫が家にいない、仕事に追われている姿には、まったく動じない。
しくしく、うさぎちゃんには、なれない。

へ~、旦那さんが仕事ばかりしている、って、泣く人もいるんだ~。
これが、我々の感想。
しかし、やはり、現在ではそういう考えは通用しないだろう。
そんなに家庭を維持できないほどの状況なら、結婚するな、ってことになるだろう。
夫としての役割を果たせ、と。

・・・

我々きょうだいは、いつもほったらかされて、ハナタレ小僧だった。
(実際、鼻は垂れていたかどうかは定かではないが)
わたしなんぞ、自分はちょっと、他の園児と比べると知恵遅れ気味だったんじゃないかと、
幼稚園児であった頃を振り返る。

母親も父の仕事を手伝い、我々は、まさに、ほったらかされていた。
野山をかけめぐる、野生の馬か牛か、いのしし。
はたまた、鎖のついていない、首輪だけの、犬。

今の幼児のように、家庭教育で文字が読めるよう、教えられいるはずもない、我々。
幼稚園への行きは、親の出勤と同時に自家用車に同乗するものの、帰りは放置。
ひとりでバスに乗って帰らなければならなかった。
バスターミナルに並ぶバスの中から、どのバスに乗っていいのか、バスに表示してある文字、行き先が読めない。
わたしは、バスのフロントガラス正面上に表示されている漢字を、じーーっと、じーーーっと見つめるのであるが、
見つめたところで、あっそうか、と、理解できるわけもなく。
で、適当に乗る。
すると、間違った行き先に着き、運転手さんが、折り返しターミナルまでバスに引続き乗せておいてくれる。
そして、また、振り出しターミナルに戻る。
何度も何度も何度も懲りずに経験した。(学習能力が低いと思われる)
(いまだに、乗り間違えは、よくやる)

そうやって、適当に訳もわからず、「まずはやってみよう精神」は、この頃から身についたものと思われる。
迷子の、バス乗り間違え常習犯きょうだい、として、バス運転手さんの間では、ひょっとして有名だったかも知れない。


参観会も、お遊戯会も、行事も、まったく母は不参加。
姉もそうだったそうだ。
兄はどうだったのか、知らないが。(ひょっとして、兄だけには、熱心だったかも?)
跡取りである兄だけは特別。女の子は、カス。
男尊女卑、子供版を経験していた。
カスはカスなりに、親に頼らず自力で、どうにかしないとならない。


夫が仕事で家にいない、え~んえ~ん、と、しくしく泣く母に育てられていたら、
もっとわたしも、しおらしい乙女ちっくな女性に成長していたかも知れない。
いささか、残念である。

しかし、うさぎ病にはならなかったものの、弊害がある。
夫が家にいると、違和感を感じる。(悪い意味で)
これは、リタイア後、悲惨な展開になると予想される。

・・・

K氏の元奥さんの、お父さんは、公務員にほぼ近い勤務体制・時間の会社に勤めておられたそうだ。
やはり、自分が育った環境というものは、大きい。
毎夕、早い時間、定時にお父さんが帰ってきて、家族揃って夕食、団欒、・・・
そういう暖かいご家庭に育って、いきなり、新婚からほとんど家庭時間がない夫、となると、ショックも大きいだろう。
やはり、育った環境が似たような背景であるほうが、結婚後のトラブルを解決しやすいのかも知れない。

その点、専業主婦で家庭的な、良妻賢母の見本のような義母に育てられた夫は、お気の毒としかいいようがない。
が、わたしを妻に選んだ夫の、自己責任である。



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老新人

2013-12-25 | わたし
年の差カップル。
他人事なら、いいかも、と思うが、自分のことなら No thank you.
自分が年下ならよいが、自分が年上なら、絶対に嫌。
同じ世代ぐらいが、一番無難。

年齢のことでコンプレックスを持つのが嫌だからだ。
自分は自分で、年齢なんか関係ない・・・だろうが、年齢も自分を形成する重要なコンテンツ。
年をごまかして、なんて、ありえない。
なんていいながら、若く見られると誰しも喜ぶが。(かくいう、わたしも)

年齢は絶対的なものである。
実年齢、精神年齢、容姿年齢(皮膚、頭髪、歯、骨格、体形)、
脳年齢、肉体年齢(身体能力年齢、筋肉、内臓・骨年齢、目、耳)、
見かけ年齢(物腰、しぐさ、動作、対応、経験値)・・・

そのうち、容姿年齢と、見かけ年齢は、かぶっているところがある。
例えば、皮膚や、歯、頭髪。
肉体年齢ともリンクする。
どれもこれも、相互につながっている。

個体差、個人差は、著しい。
同じ年齢の人でも、いろいろだ。
また、同じ人であっても、どれかの部門が、飛びぬけて著しく若い、あるいは、老いている場合がある。


いくら本人が努力しても、年齢には勝てない。
アンチエイジングしても、限界がある。
このことは、老いをマイナスにとらえたくない、負けん気の強い人々にとっては、辛い。
前にも書いたが、開き直りするしかない。

自分の老いは、開き直りで、どうにか「負け犬」感を一瞬、払拭したような気になるが、
一夜明けると、また同じ。
くよくよと負け犬になっている。

それは、どういうことかというと・・・
世の中の老いた素敵な人を知って、自分を納得させるのは、おおいに効果があった。
彼らは自分より年上の人だからだ。
だが、年上と比べるのではなく、現在、自分より若い人と比べた場合、どうやって心の安泰を保つ?
絶対的な年齢の差は、どうしようもない。
とくに、それが、恋人の周囲にいる、若い人だったりすると、切ないだろう・・・なあ・・・。(空想)
いつまでたっても、特定の年下の人は、何年たっても自分より、常に若い。


わたしは、ヤキモチは、焼くより焼かれるほうがいい。
絶対的な、どうしようもないこと(自分の年齢)で、自分を卑下し続けなければならないなんて、割に合わない。
なので、年下のお相手は、嫌なのだ。

それは、わたしが、若さに執着しているからだ。
とくに、「女性であること」に、執着している。みっともないほどに。
そもそも、わたしは、どんなにキレイ事を言おうが、肉体がすべてだと思っている。
精神が崇高であろうが、魂が美しかろうが、知性と教養があふれようが、聖母のように慈悲深かろうが、
究極のところ、女性は肉体で勝負できないと、ぜんぜんダメだって、思っている。
絶対不可欠要素と捉えている。
(肉体以外、なにもないような・・・そういうのも、ダメだけど)


肉体で勝負できない年齢に突入すると、わたしの美学が、崩れる。
そういう場合は、去る。
人知れず、舞台から去る。
さ、さ、さ、さ~。(誰も気付かない、気付いてもらえない、・・・う、つらい)
そして、新しい美学を打ち立てる。
だって、しょうがないも~ん。

・・・

敗者復活戦。
シニア新人戦。

シニアなのか、新人なのか、よくわからないが、シニアという目線で見ると、まだまだ若い。
しかし、これも、なんだか痛々しい。
自分でも、その無理っぷり、ハッパかけっぷりが、とても自覚できて、悲しい。
まだ若いのに、芸のために、抜歯するような感覚?

・・・

今は、入門したてで、自分が哀れでも、いずれ、やんわり、しんなり、こなれてくることだろう。
住めば都で、公園の土管暮らしでも、工夫次第で楽しいかも。

「おんなは、灰になるまで、おんな」という説がある。
あんなのだったら、辛くて困る。
死ぬまで辛いってことだから。

早く、「おんな」を卒業したいものである。
性別のない、おおまかな、くくり「シニア」だったら、すっきり晴れた、雲ひとつない空で、どんなに楽だろう。
(アンケート調査結果だと、10代、20代、30代、40代、50代以上、なんて、
いきなり50代以上は、「人生の残り・その他」、みたいなかんじで、じつに、おおまかに片付けられる)

あと少ししたら、しっくり、歯のない自分の顔に慣れることだろう。
今は、頬に白い布を当て、むくみ、痛みが引くのを待つだけだ。
痛みははたして、引くのだろうか・・・?
一生引かないで、毎日、怨々ブログを書いていたら、どうしよう・・・。


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閲覧数

2013-12-24 | 日々のこと
とある人のブログ。
閲覧数が極端に少ないらしい。(ご本人の弁)
そんなはずはない、・・・はずである。
わたしは、絶対に面白いブログだと思っている。
まったく、ぜんぜん、どこがいいのか、さっぱりわからない、まるでつまらんブログが、
ありえないほどブログ村でポイントをカウントしているのを見ると、
人々の気持ち、嗜好、動向というものには、つくづくわたしの理解を越えていると感じる。
わたしが、時代遅れ? おかしいのか? 超少数派マイノリティ?

これは、嗜好だけではなく、世の中の流れ的なものも影響していると思う。
アベノミックス景気に取り残された人々、こころの病、ネットにどっぷり入り込んでいく背景・・・その他・・・
政治でいうところの浮動票的なもの。
その浮遊している数が、ひとつひとつは単体だが、
集まると、鳥の群れのように、膨大な数になるのではないだろうか?
マイナーなものの塊は、目を引くが、プラスのものには、あまり人は集(たか)らないのでは?
2ちゃんねるのような、ああいう類のものは昔から盛んだ。
楽しいことや、良いこと、立派なこと、素晴らしいこと、そんなことが書かれているブログ、その他に、
人々は集まるだろうか?
絶対に集まらないと、わたしは思う。
なぜなら・・・面白くないから。こころに、響かない。

これは、わたしが、無意識のうちに魂を病んでいるかも知れない。
素晴らしいことを否定する気は、まったくないし、賛同もするし、憧れ、理想とする。
が、まったく見ず知らずの人で、なんの関わりもなく、自分とはまるで違う世界の人であった場合、
わくわくして読むか、どうか・・・

・・・

物書きという人種は、「本質」が見えるそうだ。
表に表れていること以外に、その下にある部分が見えるらしい。
見たくなくても、勝手に見えてしまうのは、本人としては、好ましくない、望まない場合もある。

言葉で表していることの、行間に、別の意味があることもあるらしい。
ややこしい。
しかし、本音と建前を使い分ける人種とされている日本人には、たいして胸も痛まず、
ごくごく日常として、美しく難なく、本音と建前を使い分ける。
雅やかな、上品で歴史深い都の人々は、特に。(らしい)

ま、それはそれで、どうでもいいとして・・・
(どうでもいいことばかりを書く主義)

・・・

いきなり、
面白いブログなのに、閲覧数が少ない話に戻ると、
なにかの間違い、たとえば、コンピューター上の、とか、人為的初歩ミスとか。
検索ロボットが、うろうろしていて、
機関銃を担いで、かたっぱしから人の家に鎧をつけたまま、ターミネーターのように上がりこんでくる。
閲覧数(IP)はカウントは「1」だが、ページビュー(PV)が、異常に多い時もあるし、あほほど数が膨らむ。
しかも、グーグルだけでなく、いろんなところのロボットが、うごめいている。

なので、ロボットは来て欲しくないけれど、ほっておく。
べつに、悪さはしないようなので。

・・・

と、支離滅裂っぽいが、
ブログ文化、じつに面白いと、わたしは感じている。
閲覧数はどうであろうが、ブロガーさんがご機嫌よく書いてくれると、それを楽しみに読んでいる。

書き手、読み手、双方向だったり、
蝶ブログのように、だらだら自問自答、結論を自分で勝手に出して、自己満足、一方通行だったり。
(朝の読経タイムですので。。。。)

じつは、朝の指の運動に非常にいいのだ。
ピアノのレッスンのごとく。
しかし、同じキーをぱちぱち打つのでも、
この時期(かなり遅いが)、年賀状のデザイン・レイアウトをしなければいけないのが、憂鬱。
宛名を入力しなければいけないのが、さらに面倒。
今まで、和紙やらハンコをぺたぺた貼ったり押したり、手作業&手書きの年賀状で、
「まあ、なんとアナログ!」と驚かれていたが、今回は、娘婿の指導もあり、パソコン制作に挑戦(の気持ち)。

間際になって、時間切れで、
かえって、時間のかかる手作業の年賀状にして、パソコン制作は、しないかも知れないが。
(年賀状自体も、「やめたやめた、もう出さない」と、放り投げるかも?)

根っからの※アナログ人間は、アナクロ、時代錯誤、時代遅れ人間でもある。
(※アナログの定義からすると、こういう使い方、厳密にいうと誤用らしいです)



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頭痛

2013-12-23 | 日々のこと
わたしのブログは、gooさんで、開設以来、無料で使わせていただいている。
が、メールが来年4月から有料になる。
どケチなわたしは、無料のブログは、とりあえずキープしておいて、
有料メールは辞めて、goo以外のアドレスでメールをやりとりしようと思った。

昨日、年賀状作成ソフトの説明をしてくれた娘婿に、
ついでに、gooメール事情を話し、「他のところの、オススメのメールってある?」と、さりげなく聞いた。
すると彼は、あるところのメールを提案してくれた。
しかもそこは、無料にもかかわらず、有料になってからのgooのメールより、送受信容量が断然、何倍も多いらしいということ。
で、即、4月以降は、そこのメールに切り替えることにした。
今は、準備段階として、少しずつ、アドレス移行をしていこうと思う。
現在、ウエブ・クレジット決済、月次レポートに使っていたり、お遊び以外の使用も複数あるので、
あっちこっち切り替えるのが、いささか面倒だが。
これも、だただた、どケチ根性が、自分の首を絞めている。


で、娘婿の提案してくれたメールが、いかに良いか、便利か、ということを説明してくれたのだが。
途中から、どうしてもわからないことが出てきて、考えれば考えるほど、頭が痛くなってきた。
自分のメールアドレスに、まったく同じアドレスからメール送信すると、インターネット上の保管箱のようなもので、
保管でき、どこからのどの端末からも引き出せて、便利だそうだ。
なんで、同じアドレスから、同じアドレスに送るのかが、どうもはっきりわからない。
彼は、赤チャンか、幼児か、サルに教えるように、非常にわかりやすく説明してくれ、その説明は大変よくわかった。
が、どこかが、わからない。
もやもやっとしている。
でも、あまり深く煮詰めると、ますますわからなくなってくるし、生返事で、2~3質問をしたものの、
彼らが帰った後、深夜の3時近くまで延々と、一人で取り組んでいたが、力尽きた。

まあ、送信されてきた大量のいろんなメールを整理するときに、
自分から送られてきたメールは、特別に自分が区分けした目印っぽくて、わかりやすい、のかな?
ってことで、お茶を濁しておこう。


他にも、来年4月以降は、今までの送受信済みメールが消えてしまうので、
今まで来たメールと、3月末までに来るメールをすべてプールできるよう、設定してくれた。
それはありがたいのだが、
これって、自宅のパソコンやiPadは家族と共有しているので、家族にわたしのメールが筒抜けってことだ。
まあ、そんなに見られてマズいメールはないにしても、プライバシーは確保できない。
で、ちょこちょこイジっていたら、なんだか、デスクトップ型パソコン上ではうまく機能しなくなった部分も出てきた。
まあ、いいや。
また、いずれ・・・。(今日はサジ投げ)


・・・

わたしは、パソコンには疎いので、そもそも難しいことはわからない。
几帳面、生真面目、気配り、突き詰めるタイプではないので(真逆)、ウツにはなりそうもないが、仕事もできそうもない。
ラテン系でもないのだが。
なにが、ウツを遠ざけているのかというと、やはり、詰めの甘さだろう。

一生懸命やって、うまくいかなかったら、「ま、しゃーない」で、片付けてしまう。
「また今度」と、とりあえず、中断する。
張り詰めていた糸が、ぷっつんと切れる前に、自分で緩めて、糸をくるくる手巻きしている。
で、性懲りもなく、また根を詰める。
でも、できない。
ずっとやる。疲れ知らず。恥知らず。
恥をかいたら、「あ、恥ずかし。でも、一瞬のこと」と、恥かき記憶を消滅、脳内で削除する。
人の無神経な言動でアタマに来ることがあれば、
人の振り見てわが身、直す、ああいうことは、やめよう、と、反面教師、悪いお手本として、自分に言い聞かせる。

自分が無意識に、ひどい行動をしていて、後で気付いた場合は、とりあえず反省し、
(気付くのが遅いので、事態を収拾するには、時効)
繰り返さないように自分に警告し、過去は忘れる方向に持っていく。
この脳内メカニズムは、几帳面で真面目な人から見れば、腹立たしいに違いない。
自分を守るには、アタマを使え、という人もいるが、アタマから消却せよ、というのも、ひとつの手である。
脳から指令を出さないのに、勝手に消却してしまっている場合もあり、この歳になると、笑うに笑えない。

大事なことも一緒に同時に消却してしまう危険性もあるが、
リスクは、つきもの。(と考える、雑さ、キメの荒さ)

・・・

三連休、楽しく過ごしている。
三日目になってやっとお日様の顔を見ることができた。
部屋の空気、酸素も、おもいっきり吸えて、とても清清しい気持ち。
外で過ごしている人も、よいお天気に恵まれ、よかったね、と、素直に家の中から拍手を送りたい気分。

暮れも押し迫る中、ちょっとした嵐の前の静けさっぽい。凪状態。
その、ミニミニ期間限定まったりを、満喫している。

なにごともなく、つつがなく、今年も暮れたらいいですね。


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比較

2013-12-21 | 日々のこと
わたしの娘。
おそろしい・・・。
いやはや、ぐうの音も出ないほど、正論を吐く。
なので、なんの反論も抵抗もできない。
しかも、いちばん、抵抗できない部分、その部分は、なんと、
わたしの価値観とまったく、ぴったり同じ。
冷や汗が出た。

この偏った人間は、わたしが作った?

彼女は、苦情係に、ぴったりだと思う。
(現職は、苦情係ではないが)
ああ言えば、こう言う。
こちらの非を見逃さず、うまくすくい取って、正論で攻めてくる。

・・・で、わたし・・・。
どんな人に対しても(他人を含め)
すぐに、言いくるめられる。
文句や苦情を言っても、反論されると、即、「すみません・・・」と、しょんぼり、しんなり。
あっさり、なにも考えずに非を認める。(とっさに思いつかない)

こういうユーザーは、クレイマーの中においては、とても優良で善良で、あほな客だそうだ。
うるさいクレーマーをいかに黙らせるか、納得させるかに、てこずらされ、躍起だ。
なので、わたしのような、人が良くて大人しくて、あまり追求しない、おっとりしている客は、
待てど暮らせど、まったくほったらかし。
価格交渉も、納期も、相手の思う壺。
他で損をした分、お人よしの客からふんだくる。
業者と客は、そういう構図。

お客様満足度をあげるとか言っても、いかにクレーマーを黙らせるか、である。

・・・

と、そんな話を書きたかったわけではない。

「こんなことがあって、頭にくる・・・。」と、娘にぼやくと、
「なんで、こう、切り返さないの?」と、間髪を入れず、すばらしいアイデアがぽろぽろ出てくる。
なんで、そんなに次から次から、攻めの発想が湧き出てくるのか、不思議を通り越して、頼もしくなった。

「言われるままにしているのは、あほ」
と、娘に怒られる。
「自分を守るには、頭を使わないと、誰も守ってくれないよ」とのこと。
別の知人にも同じようなことを言われた。
こんな時に、こうなったら、どうする、こう言われたら・・・ああする・・・、と、どんどん、浮かぶそうだ。

おひとよし=あほ
わたしは、かなりの「あほ」である。
その鬱憤をブログで発散している。
昼行灯(ひるあんどん)は、辛い。

・・・

自分が一番になりたい人がいる。
こういう人は、スポーツに向いている。
なにがなんでも勝ちたい。負けると死ぬほど悔しい。
わたしは、スポーツや、勝負事には、まったく向いていない。
負けてもぜんぜん、どおってことない。
お先にどうぞ、と、席を譲ってしまうタイプ。

で、その勝ちたい人、Aさんという人がいる。
義母のご近所さん。
彼女は、孫が最近できた。
自分の孫ばかりをさんざん自慢して、他の人の孫自慢(義母の場合、ひ孫)を聞いてくれないらしい。
自分の孫の誕生日の、同じような写真を100枚近くも見せられて、義母は、うんざりしていた。
孫自慢、甚だしいそうだ。

「結婚したら、子供ができるのが、普通よね。Bさんの息子さんは、どうして子供がいないの?」
と、Aさんは平気で言うお方。
不妊治療もさかんに行われ、子供を授からない苦しみに、もがいている人が多い昨今、
誰でも彼でもカンタンに子供ができるわけではないことは、私と同世代なら、ご存知のはず。

AさんとBさんは、いつも行動を共にする、ご近所仲良しさん。
よく、そんな人と付き合っているものだ、と、わたしは感心を通り越して、摩訶不思議。
わたしとほぼ同世代であるAさん(Aさんのほうが年上)なのに、
その発言内容の、蔑視、無理解、無知識、無神経ぶりには、驚くばかりだ。

わたしは、かつて、その人と1年間、同じ地域で暮らし、ご近所さんだった。
今も義母の家に行くと、Aさんと顔を合わせることがある。
ああいう人が、普通に住んでいて、お友達付き合いもしている、そんな地域って・・・?
義母が言うには、「10人中9人までが、Aさんのことを嫌いだって言ってる」そうだ。
まあ、好かれるわけがないのだが。

要は、彼女は、人の上に立ちたい、
自分が優位になりたい、そういう人なのだ。
そこで、わたしは思う。
・・・ひとの弱点をほじくり出すことでしか、自分が優位に立てないなんて、なんと気の毒な人かと。
そういう精神構造が今もなお現役で機能し、熟年である現在も進行中なところが、驚きだ。

世の中には、いろんな人がいる。

自分の尺度でしかモノゴトを見ることができない。
比較するもの、コトを自分で選ぶ。
(マザーテレサと比べて嘆く人もいるが、それもどうかと)

自慢している人がいるとする。
その自慢のレベルがどれぐらいかで、赤恥をかく。
え?そんなレベルで、自分は一番偉い、すごいって思ってるの?
子供の頃、こんなのだった、あんなのだった、すごいでしょ?
・・・で、今は?
それ、すごいの?

そこで、堂々と言えるかどうか。
もちろん、自分を否定するのは悲劇だ。
肯定する人生を歩みたい。
ただ、自慢していたら、自慢した分だけ、説得材料、自慢の内容に対して誰もが納得できる「現在の事実」が必要だ。

へ~・・・
そんな程度で自慢する?
みたいなことは、すごく恥ずかしい・・・と、わたしは感じる。
なので、わたしは、自慢しない主義。
自分がたいしたことないのに、カッコ悪いから。

自慢のレベルが、問題なのだけれど、
幸せを感じることと、自慢とは、また違う。
どんな小さなことでも満足できて幸せを感じることは素晴らしい。
自慢するなら、いろんなレベルがあることを承知の上で、その中で自分はどんな程度か、知って、
あえて敢行するのなら、まあ、よしとしよう。
知らないで自慢するのは、何度も言うようだが、非常にみっともない。

自慢やイヤミに聞こえないような、お互いのレベル、回りのレベルが似たような感覚なら、問題なしである。

・・・

と、なんだか、なにが言いたいのか、わからなくなってきた。
おばさん同士のオシャベリみたいになった。
自分が言いたいことだけ言って、相手の話を聞かない。


またもや、結論なしで、強制終了の時間になった。

ほったらかしで、失礼いたします。


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家族

2013-12-20 | 
核家族が一般化してきた。
嫁・姑の陰湿なイジメ、確執なども、別居することによって、マシに。
お互い、距離を置いて生活する。
気に入らないことは、見て見ぬふり。
なにかあると、合流する。
いくつもの核家族が集まった、ゆるやかな大家族が理想だと思う。

4世代交流。
4世代で同居している家族も何家族か知っている。
なかでも、絶妙な設計により、玄関だけは同じだが、あとは、どの世代も顔を合わせない、
工夫された住空間を保っている大家族もいる。
都会に近い地域においては、珍しい。

おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、長男、長男の嫁、孫、次男。
4世代8人家族だった。
はじめてお邪魔したときは、その知恵、設計力に唸った。
普通の一戸建てに、3つの水回り(台所・浴室洗面・トイレ)が、個別に備わっていた。
2階建てだが、階段は2つ。
両親エリアに属する次男の部屋は、両親エリアからしか上れない階段で空間を上下に分け、
うまい具合にプライバシーが守られていた。
1階は、両親エリアと祖父母エリアに分けられ、
2階は、若夫婦家族エリアと、両親エリアの一階から階段で続く、次男の部屋。
マジックショーのごとく。

単純に1階と2階を老夫婦家族、若夫婦家族に分けておられるケースもある。
老夫婦の1階には、介護の必要がある、おばあちゃんの部屋がリビングに隣接して設けられていた。
これまた4世代同居。
お互いに気配だけを感じる。
用事のあるときは、電話かなにかで連絡する。
電気ガス光熱費は、別々。
つかず離れず。

(※現実的には、経済的事情や仕事の都合などで、そんな良い立地や、家の広さを確保できない家族が多いだろう)


通い婚ならぬ、通い実家(夫の実家、あるいは、妻の実家)、というのもある。
核家族夫婦が子供を連れて実家に通う、またまた核家族の親、子供、全員で孫を連れて、実家の実家に通う。
実家の実家には、おじいさん、おばあさんがいる。
4世代である。

(※これまた、現実的には、各世代のそれぞれの住まい、世帯を独立して維持できるかどうかという、人的、経済的問題もあるが)

だが、忙しい子供夫婦が、そう度々、実家に通うというケースは稀だ。
よほどの求心力がないと実現できない。
この求心力は、何か? 誰か?
長老となる人か。
札束だけをひらひらさせて、帰ってきたら、あれをあげる、これを食べさせる、それを買ってあげる、なにをしてあげる、
などという現ナマ作戦もあることだろう。
が、ご機嫌をとったり、とられたり、それだけでは、見え見え、ギスギス、どろどろ、逆効果の場合もある。
こころの求心力が必要だ。

(しかし、今のご時世、経済的、物質的援助ゼロ、労力援助ゼロで、求心力を発揮するには、相当の確固たる揺ぎない絶対的なものが必要だが、
新興宗教とか、マインド・コントロールとか、そういうのは、わたしは興味がない)

・・・

なぜ、わたしが、4世代にこだわるかというと・・・

赤ん坊が生まれる。
お年寄りがこの世を去る。
赤ん坊が少しずつ成長する。
お年寄りが少しずつ衰える。
こういう過程を自然に知るということは、とても大事だと感じるからだ。
病院で生まれて、病院で死ぬ。
生も死も、プロに任せっきり。
生々しさに、触れずに生きていると、人間として、なにかが欠如しているような気がする。

赤ん坊がひとつひとつ、なにかが出来るように、老人は、ひとつずつなにかが出来なくなる。
その過程を同時進行で見続けるというのは、とても生死の意味を見つめる、重大な経験だと思う。
老人のボケや粗相を叱ったり、嘆いたり、邪険にしたり、いらいらするのは、経験のない若い人なら仕方がない。
自分には考えられないようなことが起きると、理解不能になる。怒りもこみ上げる。
しかし、サルがだんだん4足歩行から2足歩行になるように、
人間も、徐々に成長し、徐々に衰退し、ついには死を迎える。

こういうことを日常の一部として経験できることは、大きな幸せである。
人間は生まれて、そして、死ぬ。
喜びも悲しみもセットである。

赤ん坊を世話している、若い母親が、傍らで、自分を世話してくれていた祖母が、どんどんダメになっていく。
孫の世話をしている熟年の人が、一方で、高齢の母親の世話をする。
日の出を見る勢いの新しいエネルギーを受けつつ、
と、同時に平行して、かつての日の出を終結させようというエネルギーの収まりどころのお手伝いをする。
この構図は、3世代では経験できない。やはり4世代必要だ。


もっと若い、ひいばちゃんも、いる。
ひいばあちゃんが、あの世に行きかけるころ、ひ孫はもう高校生以上、もしくは成人になっている。
子供と孫が、ひいばあちゃんの最後あたりの「人生レース」にお付き合いすることになる。
子供は、老年、孫は中年、ひ孫は青年。
5世代にわたることもある。

新しい命の輝きがあってこそ、老人は安らかな生活を送ることができる。
自然に枯れて、自然に土に還ることができる。
何事にも執着し、邁進することはよいことであるが、限度を逸して、闇雲にしがみつくのは老醜だと感じる。

生きることに対しても、とは言わない。
生きる気力をなくすと、なんにもならない。
「生きること」にしがみつくのと、「生きる気力がある」のとは、違うと思う。
単なる言葉遊びで、表現方法だけが微妙に違うだけだと、感じるかも知れないが、
・・・
・・・どう説明していいか、よく、わからないのだが。

・・・

多世代家族をつなぐ求心力が何か、である。
若い世代は、自分たちのことで精一杯。
年寄り世代に首を突っ込みたくないだろう。
中心となる人物がいる、生きている、ということ。
では、その人が亡くなると?
また、新たな求心力となる人物が受け継ぎ現れることだろう。
現れない場合もある。
それは、それで、おしまい、ストップ。
強制力を持たない制度は、もろい。
続けるには、かなりの信念とエネルギーが必要である。

家父長制度のように、意識、概念、制度が社会全体で無理やりなら、
不満や悲劇も多いが、それなりに続いていく。
それがなくなった今、それに変わるものは、あるのか?
おそらくないのでは?

地方の家は、跡継ぎがなくなっていることだろう。
(根無し草の人々が寄り集まっている都会は、もともと価値観が違うので、ここでは言及しない)
しかし、頑張っている人々もいる。

・・・

価値観は、ひとそれぞれ、家族の中でも一致しないことが多い。
こころの中身をどう表現し、実行するか、それも、ひとそれぞれである。
家族の中で、メンバーそれぞれが、バラバラというのはいいと思わないが、
各、各々の家族には、各々の家族としての考えがあるだろう。
各家族の考え、思惑、ポリシーに従って、行動するのがよろしいかと思う。
ポリシーが無いというポリシーも、よろしいかと思う。
毎日が楽しければそれでよし、何事もなければよし、というのも、ある意味、正解のひとつである。
何が正しいとか、間違っているとかはない。

めんどくさいことは、お断り。それも、あり。

なんでもあり、なのである。

あえて、困難な道を選ぶ自由もある。



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年齢

2013-12-19 | 日々のこと
昨夜、大阪市役所の近くにある中ノ島で、イベントをやっていた。
幻想的なイルミネーション「OSAKA光のルネサンス」
その一貫で、パフォーマーの演技を見た。
フランスやシルクドソレイユの公認パフォーマーでもある「蛮」という、驚異の人。
今後は海外に移住して、そちらで活躍したいと言っていた。

すごく面白いパフォーマンスだった。
アニメ系ダンス?とでもいうのか。
傾向としては、今風の、須藤元気率いるパフォーマンス集団「ワールド・オーダー」みたいな踊り。
ジャニーズやEXILE系ではない。

腹筋をはじめ、筋力もすごい。
全身の筋肉を使い、お客さんの目の前に瞬間移動したり、スピード感ありで、迫力も満点。
臨場感は、路上パフォーマンスならでは。
お腹~胸を波のように順番に、膨らませたり凹ませたり、筋肉を自在に使えるって、びっくり!!
わくわく、どきどき、お目目、まんまる。
寒い中、集まっていたのは、若い人が多く、わたしは、お客さんの中では、おそらく最年長だっただろう。
ダンス感想の表現の仕方が、おばさん臭さを通り越して、時代遅れ甚だしい。

最盛期のマイケル・ジャクソンが、すごい筋肉の動かし方をして、
斜めに立つダンスをしていた頃があったが、年齢が上がると絶頂期の踊りは、できなくなった。
が、ああいう、若い筋力や俊敏性を必要とするパフォーマンスだった。
若いって、すごい!!と、へんな感心の仕方をした。
映像でもなんでもなく、手の届く、ほんの目の前でリアルタイムというのが、
インターネット時代の逆を行くようで、その場にいる人にしか味わえない醍醐味だ。

小学生の感想文みたいになっているが、おばあさんのご愛嬌。

・・・

好きなこと、興味あることをのぞいたり、やったりしていると、ふと回りを見ると、
若い人ばかりで、わたしは突然、恥ずかしくなってしまう。
わたしの年齢、年代に合った行動ではないようだ。

わたしの年代の人は、暗くなると、もう、寝る。
だからだろうか。
しかし、日中、明るいうちでも、わたしが行く場所は、
ふと気付くと、若い人が多くて、居場所がないような、居心地の悪さを感じる。
わたしの感覚は、あきらかにズレている。
見かけがおばあさん、中身が若人。

1年に5歳、歳を取ってしまう難病があるそうだ。
見かけは、老けていても、中身は、子供。
映画のテーマにもあった。

外側が先々に行き、あとから中身が着いていく。
待って~と、息を切らせながら。
中身に合わせて外側を作ると、自然の摂理に反して無理が生じる。実年齢は、若くない。
先に外側が老けていくほうが、マシか。

「若い」と「未熟」は、似て非なるもの。
ボージョレーヌー・ヴォーは、爽やかだが、深みはない。(と、たぶん、思う・・・)
円熟と若さを同時に、なんて、無理。

わたしは、多くの熟年世代の人の行動と、少しズレていることは、認めざるを得ない。
少しずつ、他の大勢の人たちと、足並みが揃うようになるのだろうけれど。
パリでも感じたが、わたしの場合、若いのではなく、未熟部分が多くを占めるような気がする。
単に感覚がズレているだけかも知れない。

大人になる期間がなくて、幼児から子供へ、そして、いきなり、おばあさんへ・・・。
う、気持ち悪い・・・。
少し気の毒なわたしだが、幅広く楽しめる、自由脳は、神様からのプレゼントか?



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