蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

「愛だけで充分」という人生は、ブログネタにはならない。

2013-01-31 | 人生

「プリティー ウーマン」のDVDを観た。
家で、娘2人と、3人で。

上娘
「わたしがリチャード・ギアになるっていうと(相手側に成功を求めるのではなく)、男子に引かれるかなあ」
下娘
「あんな、リチャード・ギアは、街に、ころがってないよな」
わたし
「リチャード・ギアって、目、たれてるなあ」

下娘
「あのストーリーで、ジュリア・ロバーツ扮する『街の女』が、
リチャード・ギアと出会うのがたまたま友人のほうの女性だったら、話の展開は、変わっているよね」
わたし
「1週間で、契約終了ってこと?かな」


ストーリーの背景。
時代を感じるそうだ。
オードリー・ヘップバーンの「マイフェア・レディ」は、それなりの時代背景。

バブル紳士の時代が去った後、今の時代なら、サクセス・モデルは、ちょっと違ったものになるだろう。
幸せの指針が、経済、お金で図れない、違うティスト、オプションの展開が必要だと思う。
おんなごころをくすぐる、憧れの具体的サンプル例も。

とかなんとか言っても、いつの世も、男と女は、お金と愛が、基本か。
大きな人生の分かれ目で、どっちの道を選ぶか、とてもわかりやすいパターン。

ビバリーヒルズでセレブな生活。
これは、(米の場合)女性の憧れなのか?
オペラは、最初が肝心で、理屈ではなく、好きになれるか、なれないか、だ、そうだ。
(と、リチャード・ギアが言っていた)
ジュリア・ロバーツは、オペラを観て涙を流し、見事、OK、クリアーだったようだが。

それにしても、わざわざ、私用のオペラごときのために、自家用ジェット機で移動する必要性は、ちとわからないが、
まあ、セレブ強調・演出デフォルメご愛嬌。
お金をがんがん使ってる感を出すには、ペントハウスや、服や宝石ぐらいじゃあ、表現しきれないのだろう。

日本で言うと、歌舞伎を見せられて、
「最初が肝心で、理屈ではなく、好きになれるか、なれないか、だ」
なんて言われても、翻訳機がないと、歌舞伎のセリフの意味わからんし。(わたし、だけか?)
わたしは、リチャード・ギアに見初めてもらえなさそうだ。
最初の1週間どころか、1日で、即クビになること間違いなし。

しかし、個人の芸術的感性を人間性ジャッジの基準になど、されてたまるか。
(と、すっぱいブドウ外野組は、思う・・・)

・・・
憧れのセレブ生活の具体例は、どんなのだろう?
セレブ・ストリートの豪邸に住み、海外のセレブが集うヨットクラブに出入りし、
海外から犬のトリマーを呼び寄せたり、趣味に湯水の如くお金を使う・・・???
(・・・発想貧困バレバレ感は否めない)

いくらセレブでも、いつでも、どこでもケータイ電話が追いかけてきて、
「売った・買った」と莫大な金額をシリアスにやり取りし、いつ殺されるかも知れないリスクを背負い込むような、
そんな、命を削ってまでものセレブ生活なら、セレブ生活のほうを捨てる。
(わたしなら。→捕らぬ狸の皮算用であるにしても・・・だ)

注)
「セレブ」という言葉、乱用しすぎ。
ボキャ貧が、うかがい知れる。


どんより、目のくもった、おばちゃんである、わたしが想像する
「人々が憧れるであろうスタイル、サクセス人生モデル」は、
今の、若い人々の描く理想のスタイルとは違うかも知れない。
憧れとして、ぴぴっと来ないかも知れない。

若い人々が目を輝かせてくれるような、
最新版の「プリティー ウーマン」を制作していただきたいものだ。


自由にお金を使ったライフスタイルは、時代によって違うかも知れない。
でも、お金があってこその、現実があり、想像がある。

子供が親と違う道を選ぶということは、よくよくある。
親の職業を継がない子供もいる。
何代も続く歌舞伎役者などは、親も子も、さぞ苦労していることだろう。
結局は、親と同じことをしていたり、
親みたいにだけはなりたくない、と、正反対のコースで満足したり、人それぞれだろう。

自分は、自分が選んだ道が一番いい、と信じるのが一番いい。
人になんと言われようが、自分がいいと思えばいいんじゃないか?
人の声が気になるということは、自分でも、少し、後悔している部分があるからだろう。

後悔を打ち消すには、人を否定すると、じつに近道である。
「なんだ、あんなこと、あんな人。わたしのほうが、ずっと幸せよ」
そうやって、人は年を取っていく。
でも、そういう、無理やりっぽいのは、いい顔の年寄りにはならないと思う。

「なによ、あなた。ぜんぜん、それって、わたしの目から見ると、幸せには映らないわ」
モノゴトのわからない、コトの善悪を小さな子供に教えるのならともかく、大の大人に対して、
そういう余計な、お節介な、無意味な、くだらんことをまわりに示さないと、満足のいかない、
そんな人も、なかにはいるだろう。(世の中、広いんだし)
自分の優越感を満たしたいために、
そういうことは、すればするだけ、人格を貶(おとし)めるのだから、やめといたほうが、およろしいかと。

自分が納得して、人格的にも高まる、そんないい方法はないものか?
高飛車でもなく、自慢でもなく、他者を否定するでもなく、自分をけなすでも卑下するでもなく、
自分も、自分と違うコースの他者も同時に認めて、両者ともに高め合う方法は?


わざわざ、そんなことを文字にして示すわたしも、
相当、無意味人生を送っているのかも知れない。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


不幸自慢で、幸せを得る

2013-01-30 | 日々のこと

幸せは、人それぞれ。
それで、いいんじゃない?


わたしたち、これこれこれこれで、これこれこれだから、幸せよね~~っ、
と、確認しあうと、さらに幸せ度がアップする傾向にあるようだ。
相互確認による、幸せ・すり込み倍増現象。
これは、家族、恋人、友人、仲間、なんにでも幅広く適用できる。


皆既日食をいっしょに、隣で見た、初対面同士でも、喜びを分かち合う。
キャンペーン中のお得な商品が、ほんとにお得だったりすると、客同士、手に手を取って感激し合う。


幸せの内容は、人それぞれだが、
程度の差こそあれ、だいたい共通のベーッシックな価値観はあるだろう。


似たような価値観の中で、どんぐりの背比べをするのが趣味の人は、
それはそれで楽しいのかも知れない。
幸せ自慢、不幸自慢、いろんな自慢がある。


自慢には、ニオイがつきものだ。
ニオイは、カラーにつながる。
個人の持つオリジナリティだ。


無色透明の人もいる。

自慢は、自分へのエールだろうか。


「どう? すごいでしょ?」
これは、自分に言っているのではなく、明らかに他者に向けて発信している。
この逆もある。
「なに? あれ。自慢じゃないの?」
これは、無意識に対抗、過剰反応しているんだろう。

自分の気持ちを無理やり抑えて、うわっつらを美しく整えようとすると、ぎくしゃくする。
本心が、どことなく見えてしまう。
まったく見えない人も、なかにはいる。
それは、同じ価値観を持っていながら、別の面では違う価値観がある(部分的に価値観が共通する)場合
鼻につかない、お互いが気にならなかったりする。
びたびたっと、スミからスミまで、まったく同じ価値観だと、息苦しいし、ケンカの元になる。


純粋に、脳内だけで価値観を共有するのは素晴らしい。
実生活にもっていくと、あれこれ比べたり、煩悩や強欲の元が、ごろごろしている。
ピンポイントの僅差で意識し合うと、しんどい。


どう? すごいでしょ?
でも、これって、アタマの中だけのことなんだけど・・・


脳内の中なら、比較する絶対的なモノサシ、基準がないので、優越つけられない。

IQ知能テストや、国家試験やら資格やら、
なんやらかんやらで、脳内の一部の絶対値を示すものもあるかも知れない。
でも、一部だ。
「オレの考えは、すごい。どうだ?」
そんなこと言ってる人がいたら、シラけるだけだし、
仕事での話だったとしたら、企画書から書いて東奔西走するなり、スポンサーを見つけるなり・・・
発案から立案、具体化のほうが、大変な道のりだ。


どうだ? すごいだろ?
と、言わなくても、スゴイ!と、接した側が思えば、勝手に知らず知らず影響を受ける。


小さい犬は、キャンキャン吠える。


・・・・・


わたしは、イジけて、なんぼ、のもんです。
しょっちゅうイジけている。
ひとりで、部屋の隅っこで、三角すわりをして、へのへのもへじを描いている。

でも、なんというか・・・
それって、カッコ悪いと感じる。
だから、もっと陰に隠れて、人に気付かれないよう、一人でひっそりと、イジけようと思った。


今日の天気は、曇り。
理屈なく、こころも、曇り。
落ち着かない一日の始まりである。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


 


埃と共に去りし、思ひ出

2013-01-29 | 日々のこと

さあ。自分と向かう時間です。

朝4時45分から起きて家事や用事をすると、あたりが明るくなるころには、終わってしまう。
引き続きやっても、せいぜい、8時半には終わる。
仮に朝の10時から起きても、お昼12時ごろには終了して、似たようなものだけど。
ただ、12時に終了した場合は、明るい時間は、あと半日、延長の場合は13時45分に終了すると、あと、少ししかない。
それから、ごそごそ外出支度して、出かけようたって、ぐずぐずしていると、あっという間に、出られなくなる。
仕事をするにも、昼下がりからの仕事って、・・・?

スポーツクラブやダンスパーティに来ている、そこそこの年齢の女性たち。
「家にいると、なんにもしないで1日が過ぎて、よけいに疲れるから」
と、頻繁に顔を出す。
なにもすることのない人って、幸せだなあ・・・とつくづく思う。

田舎の家、広い家に住んでいると、それだけで用事だらけ。
部屋の温度差は激しいし、モノを取りに行くにも、段差だらけで、延々、遠い。
それに比べると、町の小さな住まいは、とても快適で、便利。
スーパーも近所にあるし、宅配サービスも整っているし、
掃除といっても、ほんのちょっとしかない。
せいぜい、部屋を圧迫させないよう、せっせせっせとモノを捨てていくことぐらいか。

立ち読みした本で、どこかの元、偉いさんが言っていた。
年を取ったら、小さな家、小さな部屋でこじんまりと、が、一番いい、と。
ましてや、別荘だの、庭園だの、とんでもない。

関心を自分のことだけに集中して、食生活と運動を心がけ、健康管理。
好きなところに、好きな時に、出かけて、帰ってきたら、小さな部屋で、完結。
これは、究極のライフスタイルの断捨離。
どこかの待合室で読んだ、年配向けの雑誌にも、断捨離が、繰り返し紹介されていた。

(・・・最後の最後の小さな部屋は、棺おけだったりする)

が・・・、
わたしは、そうは、いかないところに、問題がある。
次に来るステージを想定して、想像している段階なので、まだ現実が、完結に遠い。
好きなようにしようと思っているのに、孫・子守の予約も入ってしまった。
しかも、「おかあさんのライフスタイルから考えると、子守をお願いするは無理みたいね」
と、上娘(=教官)に言われ、
「そんなこと、ないよ。孫守しないなんて、言ってないから」
と思わず、口がすべってしまった。

家守も、ババ守も、旦那守も、あるのに、さらに、孫守・・・!

と・・・ここまで書いていて、教官が、横で断捨離を強行している。
夫が、海外旅行のお土産で買ってきた、バッグ(いっぱい)やら、
家族旅行で、いっしょに買った、思い出のあれこれグッズの数々・・・
どんどん、がんがん、ゴミ出しベルトコンベヤーに乗せようとしている。
(今日は、ゴミの日)
ひとつ、ひとつ、成長過程の思い出のシーンが、詰まっている・・・。
旅先での出来事の、ワンシーン、ワンシーンが蘇ってくる・・・。
親である、わたしたちが子供に目を細めて買ったものだけに、
ゴミとなって捨てられるのを目の当たりにすると、こころが痛い・・・。

ひとつの時代が過ぎたという現実か。
夫が見たら、さぞや悲しむことだろう。。。。
知らせないでおこう。

(とりあえず、わたしは、ひとつ、バッグをゴミ行き袋から救済した)

ああ、やっぱりわたしは、断捨離できない世代だ。
(世代だけでは問題は解決できない? 性格の問題か)


そうやって、なにも無くなった教官の部屋には、新しい孫グッズが置かれるかというと、
その予定はないそうで、
何も無いまま、すっきりとした空間を維持させるそうだ。
わたしは、その空いた空間に、「これは、自分の増え続けるモノを置くのにいい」と、
またまた新たな物置場の創出に、悲しみながらも、喜び、進出させたい思いがむくむく湧き出てきたが、
教官に、
「おかあさんのグッズたちは、置かせないからね」
と、ぴしゃり釘を刺された。


ああ恐ろしや。

だらしない、わたしのペースが乱されそうで、いや、現実に、毎日、乱され、
どんどん領地を占領、侵されていくような気がしている。
このまま行くと、自治権まで剥奪されそうだ。

孫でも生まれたものなら、
わたしの、いい加減な子育て方法は、ことごとく糾弾、指導の対象となりそうで、
戦々恐々としている。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 

でもね、ビジネスや勉学みたいに、理路整然と、理屈通り、計画通りに行かないこともある、ってこと、
完璧主義でいくと、子育てなんて、できないってこと、
教官は、わかっているのかな?

いろいろあるから、人生は、おもしろい。


喉元過ぎれば、みな、いっしょ。

2013-01-28 | 暮らし

グルメについて。

グルメは、趣味のひとつだと思う。
そんなの趣味ではない人にとっては、なんの価値もなく、どうでもいい。

とてつもなくマズイものや、品質に著しく疑いがあるものや、ありえない料理以外なら、
べつに大して違いはない。

美味しいほうが、マズイよりいい。
これは当たり前だ。
健康を害すると、食べたいものも食べられない。
なので、食べられるうちに、食べたいものを食べておいて、悔いの残らない人生を送る。
それも、一理ある、ひとつの選択。

しょせん、食べ物にかけるお金は、たかが知れている。
何十億円も、かけられない。
ただし、美しいおねーちゃんに囲まれての一流クラブでの豪遊や、
リタイア後の、二度目の結婚で、アジア妻の親戚一同がついてまわる店の勘定を持たされたり、
わいわい、大勢の人を引き連れ、飲めや歌えやと、人にご馳走したり・・・しない、
自分だけ、ひとり分だけの純粋に食費としての計算設定である。

どこどこ産のキャビアやフォアグラ、トリュフ、世界の富豪が飛びつく、とろとろの大トロ、などなど・・・
どこかのデパ地下で買ってこようが、お取り寄せしようが、
それは、運搬費や人件費、希少価値としての特別加算費、
そういう、食材そのものの価格に、別の値段が上乗せされてついた、目玉の飛び出るお値段。
まあ、目玉が飛び出ようが、舌がびろーんと伸びようが、それはどうでもいいのだが、
要は、美味しいものを手に入れるための費用であって、
食べる食材そのものは、たかが知れている。

絶滅種のレアな食材で、あと数人分しかこの世には存在しない食品だったとしても、
食べてしまえば、それまでだ。
それなら、いっそ食べずに、
絶滅しない方向の研究に、全力あげて、もっと熱意を燃やすほうが、ずっと価値がある。


それは、それとして・・・
世界の絶品を味わえることが究極の贅沢、と思える人は、それはそれで幸せだ。

悲しいかな、わたしは、さして、興味がない。
なぜなら、美味しいものは、カロリーが高い。塩分も油分も多い。
糖尿病というわけでもなく、医者から制限を加えられているわけでもなく、持病もない。
たんに、自分のカラダへの配慮が、舌を上回っているだけだ。
カラダへの思いは、中身(内蔵・血管・骨)も外見(贅肉・筋肉)も、両方だ。
さらに、体力やスポーツ運動機能にもリンクする。

カラダのためになるものなら、継続することによって効果が得られるとかなら、努力もするかも知れないが、
瞬間的にその場だけ、刹那的に自分が嬉しいだけのものには、あまり、力を注ぐ気にはならない。

(ただし、理屈ばかり、こね回すわりに、目の前のケーキなどには甘い・・・
実は、自分にとっては机上の空論で、空腹を満たしているだけではないかと・・・)

憧れるのは、引き締まったカラダ。(あくまでも、理想)
直近の同窓会で、ぴたっとカラダにフィットしたウエアを着て現れたF君、離婚したらしいが、
彼の、引き締まったカラダを見て、なるほど・・・と、へんに納得した。
3人の子供も成長した今となって、彼の離婚は、発展的なものだったんだと想像した。
彼のカラダと、柔和で華やかな笑顔が、それを物語っていた。

彼は、ほっておくとブクブク太るタイプの体のようにお見受けする。
仕事で超過密スケジュールをこなしていた彼が
社会的にも経済的にも、ある程度の成果を収め、(運動不足を解消すべき努力をし)、
最近は、違った方法での仕事のアプローチ、取り組み方をしているように思える。

「わあ、かなり、頑張ってるね。なかなかのものですね~」
と、ぴたっとしたお腹を指して彼に言ったら、にっこり微笑んでいた。


カラダ、特に胃腸が弱くて、食べ物には気を使っている人もいる。
あるいは、今までの生い立ち、人生から見て、明らかに経験的にグルメに縁のない人もいる。

わたしは、美味しいものをまったく口にしないわけではない。知らないわけでもない。
知った上で、選択できる立場での発言は、さぞや嫌味なニオイがすることだろう。
いえ、すっぱいブドウでは、説得力がないと思いまして・・・
嫌われて、なんぼ、です。わたし。


グルメに振り回される人は、ある意味、幸せだ。
どこどこのなになにが食べられると聞けば、即座に馳せ参じ、いつでもどこでも、スタンバイ。
時間も労力もお金も、いとわない。
それこそ、趣味。

趣味というものは、人それぞれ。だから、趣味なのだ。
体力や気力、お金が続く限り、精いっぱい、やればいい。
できるうちが、ハナ。

そういうわけで、
わたしは、グルメではないので、振り回されることもなく、日常生活は、楽園、天国。

人には人の幸せ、自分には自分の幸せがある・・・と、つくづく、にんまりしている。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

舌もカラダも喜ぶ、産直とれとれの魚や野菜が、オススメではあるが、
当たり前すぎて、書くのを忘れた・・・。

 


ステキな豚。これは、ステキなのか?

2013-01-27 | 日々のこと

お気に入りブログを、ぱぱぱっ~と駆け足でまわるのは、じつに良くない。

味の違う、ジャンルの違う、美味しいお料理を、次から次へと、じゃんじゃん口に詰め込んでいるかのごとく。
せっかくの、それぞれの味が、ごちゃっとなってしまって、もったいない。
ひとつひとつを味わって、じわーっと感じながら、満足しながら、
あ~、美味しかった、この味わい、たまらんなあ・・・うっとり・・・
(一定の時間を置き、じわじわっと脳に染み込ませる・・・)
そして、はい、次!!と、行きたいものだ。

とても、気に入った記事は、何回も読む。
読んでいる途中、気に入った瞬間、絶対、もう一回読むぞ、って、思いながら、読む。
二回目は、二回目の楽しみ。
ぱぱっと、読み捨てにするのは、あまりにも、もったいない。
バイブルにする場合もある。

すごく、すごく、よくわかる、というか、アタマに染み込んで行く。
わたしの場合、ちょっと性別不明っぽいところがあって、
アタマに染み込むのは、男性ブロガーさんの書かれるものだったりすることもある。
(女性は、同性故、鋭すぎて、怖かったりする・・・)
感情や不条理、人生を、ジョークと哀愁と肯定と否定で、言い切ってしまう、独断と偏見が、
アタマに、きーんと来ると、「お~、来た、来たっ」というかんじで、気持ちいい。
染み込むというのではなく、わかる、わかる、その感覚、というかんじだろうか。
感情で騒ぎ立てるのは、暑苦しい。
同じ目線である。
妖怪屋敷から見た風景。

それと、・・・
わたしが、ブログに書いていることはウソではない。
多少の演出はあるが。
だが、書いていることが全てではない。(他のブロガーさんたちも、当然そうだろうけれど)
なので、もどかしい部分はあるが、べつに、そこのところは、そのまま放置、というスタンスにしている。
あえて書ききっていない部分に対して、他のブロガーさんが、なにか書いておられても、
異論を唱えることはしない。
書けないのではなく、書かない。

自分のすべてをさらけ出して、スッキリするかというと、そんなことは、ない。
ブログは、あくまでもストレス解消、遊びの一環である。
すみません。わたしは、自己チューの権化です。
と、自分で自分のブログの注釈をつける。

「自然」というものに対して目線を移す。
おおきな宇宙。
人間は、そのなかの、ちいさなひとつ。
年を取って、男女枠から外れ、中性になり、
いままで、囚われていたことから解放され、もっと偉大なものに触れるステージへと移る。

見える風景は、どんなかな?
同じものもあるし、同じでないものもある。

・・・
あまり、概念や抽象的なことを考えると、ワケがわからなくなる。

ここのところ、毎日、食事の献立にアタマを悩ませることはなく、
適当に、材料を買い込み、
野菜中心、余りモノ中心、冷凍庫・在庫処分・中心に、じつに、いい加減に作っている。

最近、お腹にお肉が付いてきた。
せっかく、去年1年のダンス鍛錬で、ウエスト周りが締まってきたと喜んでいたのも、束の間。
教官指導の元の生活は、わたしにとって、豚への道なのか。
清く正しい生活は、まあるくなるってことなのか。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


だあれ? この、おばあさん顔のひと?

2013-01-26 | 人生

わたしのブログへの訪問数は、順調に、なだらかに降下し続けている。
つまり、おもしろくない、ってことだ。
人々からの興味が薄まり続けている、ってことだ。
今、世界で起こっていることや、身近にある迫ってくる生活を圧迫する出来事、・・・
などなどに比べると、一人の、取るに足らぬ凡人の、幾度となく繰り返し書かれる個人的思い出なんぞ、
比較しようも無いほど、限りなくどうでもいい。

で、社会的に意味の無いことを追究することに、意味を見出す、わたしは、
さらに、訪問数などよりも、自分、自分ばかりに固執して、自分を掘り下げる作業に没頭する。
そして、内々だけで密度の濃い空気を吸って満足していればいいものを
外の社会に、裸に近い薄着で出て、「あいつ、バカだな」と嘲笑され、
そして、風邪をひいて、自分のバカさかげんを知るに至る。

昨夜からわたしは、妖怪屋敷(我が家)で考えている。

年を取った自分を嘆かない方法はないか? 
老化をプラス思考で、肯定、納得する方法はないか、と。

前に母が、言っていた。
「年を取ると、なんのいいこともない。なにひとつない」
そういう母に、わたしは言った。。
「そんなこと、ないよ。ないはず。年がいっても、いいことも絶対あるはず」

慰めるつもりだったのか、いや、本当にその時は、そう思っていたように思う。
ところが、今は、母の気持ちがよくわかる。

昨夜、妖怪屋敷のリビングダイニングで、あれこれ考えた。
年とって、いいことって、ある?
老化している自分を慰める、老化を正面向いて、マイナスではないと正当化できる、
なんか、しゃきっとした理路整然な論理って、ある?

ぶつぶつと自問自答の時間が過ぎた。
横になると、その瞬間に眠りにつき、目が覚めると、いきなり朝。
結論が得られないままでは、すっきりせず気になるので、寝ながら考えようと思っていたのに。
ちょっとチェックしようと開いたケータイは、開けたまんま、アタマの下敷き。
(とりあえず、壊れなくてよかった)
で、朝になっても、まだ疑問は解決されず、続いている。


老化して、なにか悪い?
人は、生まれて死ぬ。
赤ちゃんから成人になり、老人になり、死ぬ。
若死にでもしない限り、誰もが必ず、老いる。

まず、顔。
明るい日の当たるところで見たのが、悪かった。
レッスン場の更衣室で1回、パーティ会場の更衣室で1回、不意にのぞいた鏡で、まじと、見てしまった。
誰? この顔? ありえない。
わたしの知っている顔ではない。

細かい、さざなみのごとく、間隔狭く、細く刻まれたシワ。
(大きく太い、どでんとしたシワは、前々から知っている)
目のまわりの、張りのなさ。
顔、全体の印象は、どこからどう見ても、おばあさん、そのものではないか。

こんなわたしにも、若い頃はあったのだし、存分に若さを満喫したはずだ。
でも、人間は欲深い。
まだまだ、終わりがない。

役目を終えて、舞台を降りる、そんな日が来ても、まだ、しつこく、しがみついている。

そして、こんな顔で、まだ、人を好きになる。
顔だけでない。カラダもだ。
おばあさん、なのに。

理由や法則が思い当たらない。
理屈ぬきなところが、理屈に合わない。

相手もそれなりに、枯れ木に花、状態のおじいさんに、すべきだ。
縁側で、お茶。

なのに、なぜか、若い人。
(といっても、自分より上だったりするが、うんと上ではない。少しだけ下だったりすることもある。
ひとくくりにすると同世代)
ということは、自分も若いのか?
枯れてないってことなんだろう。
やれやれ・・・

枯れたいのに、枯れない。
これは、苦しい。

外見や肉体は、年寄りなのに、こころが、枯れてない。
肉体とこころのアンバランス。
いずれ、だんだん、こころが、カラダに従うようになるだろう。
カラダがこころを支配するようになるだろう。
(思いや、やる気があっても、カラダがいうことをきかなくなる)
こころが、カラダをリードすることもあるかも知れないが、それは病気との闘いのステージのような気がする。

べつに、なにか、特別に、けしからん行動をとっているわけではない。
が、こころだけが、騒ぐ。

カラダとこころは、やがて、手に手をとって、老化の足並みを揃えることだろう。
年寄りとしての自覚が、芽生えてくることだろう。
いまは、そのプロローグ、予告編といったところか。

好きになる、ならない、は、別の話として・・・
えっと・・・
そうそう、顔がおばあさんになっているのを、もろに見て、今さらながら愕然としたという話だ。
これは、ブログの訪問数がどうのこうの、という話などとは、比べものにならないぐらい、
わたしにとっては、大ショックだった。
今さら、ながら、なにを?

おばあさん顔にふさわしい、新しい自分を構築しなければ、
過ぎ去りし若さにしがみつく、みっともないヒトに、なりさがってしまう。
過去の栄光(万人に共通。だれもが、経験済み)である、若さとの決別。

こころや脳は、トレーニングや努力によって、ある程度、どうにかなると思うのだが、
(カラダも、規則正しい生活習慣や運動によって、老化をスローダウンできるだろう)
顔は、エステや美顔法ではカバーしきれなく、
かといって、美容整形という、自然の摂理に逆らってまでの悪あがきは、したくない。

若さを一日でも長く保ちたいという、人間の欲。
欲が自分を苦しめるわけだ。
欲は限りなく、湧いてくる。

老化を是とし、受け入れ、老化状態に満たされる活動って、なにだろう?
宗教活動か?
写経でもする? お遍路さんまわり?
年寄り限定で、若い人は一切交えず、年寄りだけを肯定して、お付き合いする?
老化をあるがままに受け入れ、この先、ますます老化していっても、穏やかでいられる、
そんなこころの持ちよう、活動はないか・・・

妖怪屋敷のリビングダイニングで、わたしは延々と考えたわけだが。
へんにあがかず、自然の大きな流れを受け入れる、ってことか。
大きな流れに身を任せる。
いいご縁は、自然とそちらに向かい、悪いご縁は、自然と立消える。
ちまちま、せこせこ、ちびちび、うろうろせず、ゆったり構え、時に身を委ねる。

そのうち、自分に合う、自分風の、行き先に向かう船に乗ることができるのか。
今は、どの船に乗ろうか?
電車? それも、新幹線? ローカル線・各駅停車? ジェット旅客機?
道を歩いていて、突然の行き止まり。
「老化により、この橋は、渡れません」と書かれた立て札。
一休さんを呼んで来て、いい智恵を出してほしいところだが、自分で考えるべし。
橋を越えた、次の行き先が見える手前、
どうやって行くのか、乗り物の種類や手段が決定するまでの、
おろおろ、たじたじ期間かも知れない。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

うんと前、30歳になった時、愕然と自分の年に驚いたことがある。
わたしが、もう、30歳??!!
うわ、すごい歳とってしまった。もう若くなんかない。
若いわたしよ、さようなら、と。

いろいろ、人生には、四季折々、見える風景があるようだ。


イジメられた、あんな日、こんな日。

2013-01-25 | 思い出

わたしは、少しだけ、いじめられっ子だった。
幼い時は、近所の悪ガキに、幼稚園の時は、同じ年の子H君に、
小学校の時は、1つ年上の男子、2人(チビとデブ)に、
そして、特に低学年の時は、同級生の幼なじみT君に、
高学年の時は、これまた別の同級生F君に。
いつも、いつも、男子。
小学校高学年の時に、一人だけ女子に、靴箱で顔を合わす度に嫌なことを言われ続けていたことがある。
でも、中学以来、その子とは、それっきり。
クラスも違うし、話もしない。
嫌なことの内容が、思い出せないのが、複雑なところ。
忘れてるってことだ。

一人の幼なじみのいじめっ子・T君は、彼のお母さんがわたしの母と女学校でクラスメートで、
さらに、同じバス路線を利用し、いつもいっしょに帰っていたこともあり、親しい雰囲気だった。
ただし、それは、幼稚園の時。
小学校に入ると、彼は、いじめっ子に変身した。

中年になった彼は、ある日、同窓会で逢った時に、こう言っていた。
「スローさんは、親が決めた僕の許婚(いいなづけ)で、結婚しないといけないって思っててん。
それでか、なんでか、わからないけど、イジメてたんかも知れない」
鳩に豆鉄砲。
はぁ?と、目を真ん丸くしたまんま、わたしは固まってしまった。
あまりにも、ありえない発想で意外すぎて、コメントのしようがなかった。
今となれば、笑える話だ。

彼は、小学校高学年になって、ぴたっと、わたしをいじめなくなって、やれやれだったが、
代わりに、別の男子F君が、毎日、いじめるようになった。
毎日、毎日、卒業する日をわたしは指折り数えた。(中学も同じだけど)
まあ、彼には、その後に、仕事で新規クライアント開拓の時、お世話になったので、まあ、許してやろう。

中学になってからは、さほど、いじめられることはなかったが、
人気の美人クラスメートが男子達にチヤホヤされ、
わたしは、その他大勢の外野として冷遇され(多少の被害妄想感あり、は否めない)、
ヒネてスネることは、あったかも知れない。

高校では、クラスの男子や、同学年の男子とは、ほとんど話さなかったように思う。
いじめられることもない代わりに、わたしという生徒がいたことも、さほど皆の記憶にもないことだろう。
志望高校に進むのが精一杯で、
以後、成績のぱっとしない、勉強嫌いのわたしにとって、拗ねている時代、暗黒の時代かも知れない。

今、思い出してみると、
いじめられるといっても、べつにケンカをするでもなし、大きな暴力を振るわれるわけでもない。
ただ、鬱陶しいだけである。

爽やかに、力のある独裁者に対抗する、正義の味方みたいなヒーローとは、程遠いが、
優秀で真面目、お利巧さんのクラスメートは、いつも先生に可愛がられるのを、
遠巻きで、拗ねて見ていたように思う。
嫌な子供だ~。


しかし、
お金持ちの子供が優遇されることは決してなく、PTAの会長の子供が一目置かれるわけでもなく、
スポーツや、五教科以外の科目で活躍しても、五教科が良くないと、
たいして注目も集めず、
ただただ、本人の成績が良い、優秀な子が、素晴らしいとされていたように思う。
お金持ちや権力者の子供でも、デキが悪いと、それまで。
ある意味、背景は関係なく、本人だけの実力主義で、気持ちいいかも知れない。
親のせいにできない。

が、塾や、サポートは、やはりお金の力によるところが大きい。
成績も、あるレベルのあたりでは、お金がモノを言うかも知れないが、
一定以上では、お金や背景、環境は、ぜんぜん、役に立ってくれない。
そのあたりが、面白いような、ざまあみろ、のような、潔さがある。
(わたしは、どうせ、レースには関係ないので、気楽なものだ)

子供ながらに、子供同士、実力で勝負、という厳しさを味わったような気がする。
(かんたんに負けてるところは、良くないけれど)

すべての条件を整えられて、同じ条件にして、さあ、闘え!!と背中を押されると、
案外、キツイかも知れない。
自分のせいではない理由を見つけてきて、言い訳が出来ないから。


いじめられたことは、あんまり根に持ってなく、さほど苦にもしてなかったように思う。
今に見ていろ~、と力むわけでもなく、それをバネに強くなるわけでもなく。
わたしにとっては、イジメよりも、問題は別のところにあって、
淡々と自分の力というものを見せ付けられ、思い知るだけだったような。
そして、家の外のほうが、家庭内に比べたら、楽々な世界だと感じていた。
それに、状況が変わって学校で顔を合わせることがなくなると、自然消滅していた。

鈍感だっただけか?

なんか、だらだら、綴っただけの、メリハリのないものになってしまった。
時間限度、ここでいっぱい。
だらだらのまま、おしまいです。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


どうせ、わたしは・・・ヒネ枯れススキ。

2013-01-24 | オトコとオンナ

恋って、不思議。
むかし、むかし、大むかし・・・布施明という歌手が歌っていた。

「恋というものは・・・不思議なものなんだ・・・
・・・逢えばまた切なくて、逢えなけりゃ悲しくて、逢わずにいられない・・・」

 
そもそも、恋なんていう不安定な精神状態、これは、精神衛生上よろしくない。
しかし、芸術や、小説、映画、その他、これを主題に、メインテーマに多くの作品が描かれている。

ある人が言っていた。
「結婚して、すごく、ホっとしてるの。
これで、もう恋に振り回されなくて済むから」


わたしは、子供の頃、家で鏡に向かってメークをしている母に聞いた。

「ねえ、なんで、もう結婚してるのに、おかあさんは、お化粧するの?」

誰に教わったわけでもないのに、幼いわたしのアタマの構図では、
女性美アピールは、結婚するための、オスを捕獲する策略みたいなものだと考えていたのだろうか。
マセている? 冷めている?
あるいは、子供の頃から、人生に対して見えるものがあった?

その時、突拍子も無いことを言い出す、小さいわが子に、
母はなんと答えたか、覚えていないが、おそらくわたしを納得させる答えではなかったに違いない。


シンデレラ姫は、王子様と結婚して、めでたし、めでたし、幸せになりましたとさ。
こうやって、ストーリーは、ヒロインが結婚して完結していく。
だが、本当のストーリーの始まりは、結婚してからだ。

しかし、めいっぱい脅すと、誰も結婚なんかしなくなるので、
神様は、恋キューピットだかなんだか、を、チョコレート業界と結託、提携、グルになって、
恋の魔法をかけて、目潰し、目くらまし忍法で、人々を結婚へと導いていく。

あんなに激しく燃えた恋、
この人がいなければ、太陽も昇らない、と、胃がキリキリ痛むほどの想い。。。。
で、隣で大いびきで寝ている、この人は、誰?
一夜が、10日になり、1ヶ月になり1年になり10年になり、現実が横たわる。
しかも、この現実は、不動のものではなく、さらに悪化するケースもある。
(好転するケースもあるけれど)

PL法をかざして、不良商品、不法販売法だ、悪徳商法、こんな欠陥商品、どうにかしろ、
と思ったころで、身動きは取れない。
かくして、神様の仕組んだ罠に、はまるわけである。
それが、男と女、人間の幸せなんだけれど。
神様が人間に与えた二大プレゼントのひとつだ。
一つは、恋、一つは、惚け。

と、ここまで延々と書いてきて、
で、わたしは・・・?

書きたくないが、書きたい心境のときもある。

わたしは、猛スピードで突進して、相手を追い抜き、恐れ、怯え、うんざりさせ、
直撃、激突、激つぶれ、沈没、自滅パターンを繰り返している。
突然、いきなり上がる炎は、相手を一目散に逃がし、
火の手を止められないまま、自分を焼き、
消防士さんに放水された後、壁は焼け落ちたが、残った黒焦げになった骨組みや生活用品が、水で、びしゃびしゃ。
なので、恋が成就したことがなく、すっぱいブドウ、そのものだ。

この豊富なワンパターン失敗例のせいで、自動制御装置が働く。
強烈なブレーキが、き、き、き、き~と、かかる。

想像力ばかりが、逞しくなる。
(想像だけの世界ってのも、哀しいものがあるが)

相手が自分に対して持つ気持ちとは裏腹に、勝手に炎が不意に燃えてしまったとき、
(一言で言うと、それを「片想い」という)
それは、消すしかない。
苦労して消して、やれやれ、と思っているところに、また炎をつけられる。
これは、火元から、火種から遠ざかるしかない。
君子、危うきに近寄らす。
一人芝居で、一人で疲れて、苦しいだけだ。
アップダウンの振幅に振り回されるのは、心身ともに消耗するので、こころを水平にフィックスする。
動かないように、地震防止用の家具転倒ストッパーみたいな頑丈な器具を、がしっと、つける。
早い話、傷つくのが嫌。

そのうち、こころも動かず、なんともなくなるだろう。
湿気たマッチを擦り続けて、力尽きたいところだが、哀しいかな、わたしは、マッチが、なかなか湿気ない。
充分な火力を持ちながら、外に出ることが出来ず、赤い顔をして中で暴れまくっている。
ほっておくと、自然発火しそうになるが、しない、その闘い。
根気、スタミナがあるのも、善し悪しだ。


この火力を化学変化させたり、工夫したりして、別の分野に使うことができれば、たいしたものなのだが。
例えば、研究や、開発、仕事、ボランティア活動・・・などなど。
そう理屈通り、うなくいかないから、法律があったり、警察があったり、芸術が生まれたりするのだ。

恋のメカニズムは、科学的に分析すると・・・生理学者やら、生物学者やら、動物学者やらが、
なんたら、こーたら、いろいろ、解明に尽力している。
「性科学」なんちゅう学問もあるようだし。

わたしは、年齢が、ぐぐっと上がっているので、ズバリ「そのもの」に対する興味は卒業の感がある。
下ネタのどこが悪い?という、下ネタの正当性を訴える理論を展開されても、
それは、各個人の感じ方なので、どちらが正しいというものではないし、自分の意見を押し付けるつもりは毛頭ない。
超個人的見解、感想、趣味では、わたしは、下ネタはお下品であると感じる。
お下品と感じない人、下ネタが大好きな人がいても、全然問題ではない。
わたしが、下品だと感じるだけであって、毎日、地球の回転する動きに、なんの影響もない。

それはそれで、置いといて・・・
疑問は続くよ、どこまでも。

好みでもなければ、理想でもない、共通点もない、まして、好かれてもいない人を、好きになるのはなぜだろう?
おそらく、状況設定、かかわり方のあたりに、原因を解くカギがあるように思う。
道行くすれ違う人や、テレビやスクリーンの向こうの人に熱をあげるのは、まあいいとして・・・
出会うタイミング、頻度、偶然性、神秘性、
47番目や48番目のAKB48みたいに、ぽっと出の前から応援している親近感、手の届きそうな距離感。
無視されるわけでもなく、そこそこ応えてくれるけれど、かといって、深くは相手をしてくれない・・・
そういう、付かず離れずのバランス、はらはらドキドキ感が、
じつに、効果的な刺激的な香辛料となり、絶妙な働きをする。
スパイシー効果は、絶大だ。

で、目がスパイスでやられ(目潰し効果)、
自分で勝手に想像した、実際の実体とは違うイメージ像に振り回される。
目潰し期間が過ぎ、だんだん目が見え始めてくると、あれ?これは誰? こんな人だったの?
となってくる。
目が慣れると同時に、お互いに対する気合も弱まり、緊張感が緩む。
(その代わり、馴染んでくる)

若いうちに亡くなった人は、永遠に若い。
恋も、成就しないうちが華。
永遠に、こころがキリキリ痛んでいるほうが、夢がある。美学がある。

そんな、ひねた見方ばかりしていても、
松本幸四郎ご夫妻や、三浦友和・百恵ご夫妻のように、素晴らしい(ように見える)ご夫婦もいる。
しょせん、ひね曲がった人間には、まともな人とは、カップリングできないのだろう。
まともな人は、お互い、素通りしてしまうのだろう。

で、ヘンな、わけアリみたいな者同士が、ケンカしあって、嘆きあって、芸術や趣味に逃げ、
柔和な顔どころか、ヘンな顔の老人になっていくのか。
(あ、これはリアル世界での話で、ブロガーさんを指していません)

地球の自転を妨げてはいないから、まあいいか。

でも、枯れきることができないで、そのまま、干物になると、すごくクサイ。
そういう、臭さがウリの食べ物も、あるけれど、そんなのが好きな人は、とてつもなく変わり者だ。

変わり者は、変わり者の、妖怪世界でしか生きていけないのか。
素人さんや、一般人を好きになってはいけないのだ。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


甘いささやきに、ころっと参る。

2013-01-23 | ファッション

さて、ここのところ、教官指導のもと、清く正しい生活が続いている。
なので、ブログに書くネタがない。
ということは、わたしは、清く正しい生活を送ると、毒もアクも出ないということか。
ということは、いつもの生活は、清く正しくないのか?
というか、清く正しい生活って、なに?


昨日、超久しぶりに、お気に入りブティックに行った。
近所の大手商業施設からお引越ししてしまった、そのブティックは、うんと遠いところに行ってしまって、
あまりにも遠くて、ややこしいので、引越し後、一度も行っていない。

教官と、用事で出かけるついでに、その引越し先に出向くことにした。
車でぐるぐる、何度も道を間違え、3つの市を行ったり来たり。あ、4つかも。
ちょうど、各市の境目あたりに、その商業施設はあった。

久しぶりのブティックで、お気に入りの商品がズラリ売られていて、感激で、
いつものノリが、一気に戻り、長時間、居座った末、またまたいろいろ買い込んだ。
バーゲンは、もう、終盤なので、どれも半額。選び放題。
どれもどれも、デザインがおもしろく、ユニークで、目移りこの上ない。
ただ、色がちょっと渋すぎて、黒オンパレなのが難点だ。

とあるメーカーの、特定ブランドが、わたしのお目当てなのだが、
その店で売られているのは、そのブランドがほとんど。
引越しすると聞いた時に、他店にも、そのブランドは売られていないのか?と聞いたところ、
うんとうんと遠い店舗を教えてくれたので、それなら、無理、とあきらめていた。

わたしが悩んだのは、キレイ目ファッションではなく、デイリーに近い感覚の、
ユーズド仕立ての、柔らかい革(シープスキン)のジャケット。
わたしの年齢になると、上質のキレイ服を買うべき。
それを、上質素材なのに、
わざと薄汚れた風の、よれっとした風情を出した、ぼろっちい、くたびれた仕立てのものを
わざわざ大枚をはたいて(死語?)買うのは、いかがなるものか・・・?

かなり悩みに悩んだが、
その店に、引越し後、初めて訪れた記念に、えいやっと、買った。

おなじみの店長とのやり取り。

わたし
「この丈、流行の丈とは違うみたいだけど。合わせるのが難しいですよね」
店長
「いえ、今は、なんでもアリです。
着る人が、好きなものを合わせたら、それでいいんです。ルールなんてありません」
わたし
「雨とか降ったら、たいへんですよね。
それに、ずっと着ていると、こんなに柔らかいと、すぐ、ヨレヨレになるんでしょうね」
店長
「着込んで増すのが、味わいです。
どれだけ、着て着て着倒すか、ですよ。元を取る以上に着ていただかないと」

そして、決め手になった、やりとり。

わたし
「キレイな服とかの上には、合わないですよね?」

店長
「キレイな服の上に着て、着崩す、カジュアルダウンは素敵ですよ。
スローさんは背が高いから、なんでもイケます。
髪、アップにして、着こなされたら、絶対カッコイイですよ」

この言葉が、ハートに、ぐさぐさぐさと突き刺さり、
(うまいこと、おだてられて)
嬉しそうに買ってしまった。

客なんて、店員さんの言葉ひとつ、だ。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


暗いひとを救えなかった、後味の悪さ

2013-01-22 | お付き合い

わたしが知っている人のなかに、数少ない「暗い人物」がいる。

彼女、Sさんは、職場の後輩で、年は、わたしより6~7歳、年下。
彼女が入社した時から知っている。

彼女は、イマドキの人のようで、先輩であろうが、年上であろうが、タメ口をきく。
わたしとSさんは、職場の昼時間にランチに行くようになった。
毎回、ランチに行っているうちに、ついには、
「あんた、今日は、なに食べたいん?」
と言うようになり、タメ口もここまでくると、わたしの許容範囲を越え、
その日を境に、こころの距離を置いた。

次第に、彼女とのランチの回数を減らした。
「先に行って。わたしは、まだ、ちょっとすることがあるので」
とかなんとか、適当に理由をつけた。

だんだん、まったく一緒にランチに行かないようになり、彼女も気付いたことだろう。

彼女は、わたしの上司でもある人物にも、呆れられるような失態を仕出かしていた。
べつに業務的に損失をもたらしたわけではないが、
仕事がらみの、とあるコトで、上司の面目をつぶし、嫌われた。

「もうしないから・・・、もうしないから・・・」
と、彼女は必死で謝っていたが、上司は、クールだった。


ランチをいっしょにしていた頃、
独身である彼女に、結婚相手・候補として知人を紹介した。
いわゆる、カジュアルなお見合いである。
場所は、我が家。
彼女は、いつになく、ハイテンションで頑張っていた。
かなり無理をしているようにも思えた。
結果的には、うまく行かなかった。
彼女のその後の言葉は、いまでも忘れられない。

「スローさんは、自分だけ幸せになって、ズルイ・・・」


当時、同じ案件を担当した営業の人たちと、皆で打ち上げや、ランチに行っていたこともある。
営業のA氏に言われたことがある。
「スローさんと、Sさんとじゃあ、ちょっと、キツイですねえ・・・」
いろんな解釈の仕方があるだろう。

Sさんは、地の底から地響きのするような、うめき声が聞こえるような、ものすごい迫力のある暗さを持っていた。
べつにわたしから質問したことは、ひとつもなかったが、
彼女は、いろんなことを話した。
怨み話が多かった。

「わたしが、いい大学に行けなかったのは、
そんな大学があるということを教えてくれる人が、まわりに、いなかったから。
なんで、わたしに、教えてくれないの?」
(成績が悪いからではなく、まわりが、悪いってことか?)

「わたしは、モデルになろうと思っていたけれど、身長が160センチしかないので、18歳の時にあきらめたの」
(意見や、見た目に関する率直な感想を言い合う友だちはいなかったのか?)

「どこどこの誰々(名のある企業や団体の偉いさん)の娘と友だちなのよ」
(友だちって、知り合い?ってことか?)

「わたしは、いつも、そう・・・哀しいことに慣れているの・・・。
辛い目にばかり遭ってきたの」
(反省するときは、自分は悪くないのに、まわりが悪い、という分析結果に常にたどり着く)


後々、思えば、ひとつの方程式が、びしっと確立されている。
モノゴトを振り返り、うまく行かなかったことの原因は、自分ではなく、まわりにある。
不幸な運命にある、可愛そうな自分。
ふっとため息をつき、あきらめたような、暗い目で視線を落とす。

不幸を呼び寄せているのは、自分なのではないか、と、
誰一人、親身になって彼女に忠告をする人はいなかったようだ。
まわりでは言っていたかも知れないが、非難されていると感じていたのかも知れない。
聞く耳を持たず、なのだろう。
自分で気付くしかない。

わたしも、彼女にもっと働きかけるべきだったかも知れないが、
お見合いを設定した程度にとどまってしまった。
(でも、お見合いって、いま、思えば、
オススメの人物を紹介するべきであり、引き合わせる人物を吟味するのが紹介者の義務なのに、
さして、知らないまま紹介してしまったという、反省に至る)

いやはや、暗くてネガティブな人を必死で立ち直らせようとするほど、
わたしは、余裕があるわけでもなく、立派な人物でもなく、・・・
至らないことを自覚させられるようで、自分に返って来るような気がして、後味が悪い。

しょせん、わたしは、凡人、小市民。
自分の幸せを守ることに精一杯。
それに、職場は、友人作りの場ではなく、仕事をする場である。
常識をもった個人が、仕事をするために集まるのが、職場だ。


不幸なひとを救い、明るい方向へと導くのは、
わたしごとき小者が思い上がったとしても無理がある。
自己犠牲や、無償の愛を唱え、実践されている、
素晴らしい人格の、熱心なボランティア奉仕家さまや、崇高な宗教家に、お任せしよう。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ