「プリティー ウーマン」のDVDを観た。
家で、娘2人と、3人で。
上娘
「わたしがリチャード・ギアになるっていうと(相手側に成功を求めるのではなく)、男子に引かれるかなあ」
下娘
「あんな、リチャード・ギアは、街に、ころがってないよな」
わたし
「リチャード・ギアって、目、たれてるなあ」
下娘
「あのストーリーで、ジュリア・ロバーツ扮する『街の女』が、
リチャード・ギアと出会うのがたまたま友人のほうの女性だったら、話の展開は、変わっているよね」
わたし
「1週間で、契約終了ってこと?かな」
ストーリーの背景。
時代を感じるそうだ。
オードリー・ヘップバーンの「マイフェア・レディ」は、それなりの時代背景。
バブル紳士の時代が去った後、今の時代なら、サクセス・モデルは、ちょっと違ったものになるだろう。
幸せの指針が、経済、お金で図れない、違うティスト、オプションの展開が必要だと思う。
おんなごころをくすぐる、憧れの具体的サンプル例も。
とかなんとか言っても、いつの世も、男と女は、お金と愛が、基本か。
大きな人生の分かれ目で、どっちの道を選ぶか、とてもわかりやすいパターン。
ビバリーヒルズでセレブな生活。
これは、(米の場合)女性の憧れなのか?
オペラは、最初が肝心で、理屈ではなく、好きになれるか、なれないか、だ、そうだ。
(と、リチャード・ギアが言っていた)
ジュリア・ロバーツは、オペラを観て涙を流し、見事、OK、クリアーだったようだが。
それにしても、わざわざ、私用のオペラごときのために、自家用ジェット機で移動する必要性は、ちとわからないが、
まあ、セレブ強調・演出デフォルメご愛嬌。
お金をがんがん使ってる感を出すには、ペントハウスや、服や宝石ぐらいじゃあ、表現しきれないのだろう。
日本で言うと、歌舞伎を見せられて、
「最初が肝心で、理屈ではなく、好きになれるか、なれないか、だ」
なんて言われても、翻訳機がないと、歌舞伎のセリフの意味わからんし。(わたし、だけか?)
わたしは、リチャード・ギアに見初めてもらえなさそうだ。
最初の1週間どころか、1日で、即クビになること間違いなし。
しかし、個人の芸術的感性を人間性ジャッジの基準になど、されてたまるか。
(と、すっぱいブドウ外野組は、思う・・・)
・・・
憧れのセレブ生活の具体例は、どんなのだろう?
セレブ・ストリートの豪邸に住み、海外のセレブが集うヨットクラブに出入りし、
海外から犬のトリマーを呼び寄せたり、趣味に湯水の如くお金を使う・・・???
(・・・発想貧困バレバレ感は否めない)
いくらセレブでも、いつでも、どこでもケータイ電話が追いかけてきて、
「売った・買った」と莫大な金額をシリアスにやり取りし、いつ殺されるかも知れないリスクを背負い込むような、
そんな、命を削ってまでものセレブ生活なら、セレブ生活のほうを捨てる。
(わたしなら。→捕らぬ狸の皮算用であるにしても・・・だ)
注)
「セレブ」という言葉、乱用しすぎ。
ボキャ貧が、うかがい知れる。
どんより、目のくもった、おばちゃんである、わたしが想像する
「人々が憧れるであろうスタイル、サクセス人生モデル」は、
今の、若い人々の描く理想のスタイルとは違うかも知れない。
憧れとして、ぴぴっと来ないかも知れない。
若い人々が目を輝かせてくれるような、
最新版の「プリティー ウーマン」を制作していただきたいものだ。
自由にお金を使ったライフスタイルは、時代によって違うかも知れない。
でも、お金があってこその、現実があり、想像がある。
子供が親と違う道を選ぶということは、よくよくある。
親の職業を継がない子供もいる。
何代も続く歌舞伎役者などは、親も子も、さぞ苦労していることだろう。
結局は、親と同じことをしていたり、
親みたいにだけはなりたくない、と、正反対のコースで満足したり、人それぞれだろう。
自分は、自分が選んだ道が一番いい、と信じるのが一番いい。
人になんと言われようが、自分がいいと思えばいいんじゃないか?
人の声が気になるということは、自分でも、少し、後悔している部分があるからだろう。
後悔を打ち消すには、人を否定すると、じつに近道である。
「なんだ、あんなこと、あんな人。わたしのほうが、ずっと幸せよ」
そうやって、人は年を取っていく。
でも、そういう、無理やりっぽいのは、いい顔の年寄りにはならないと思う。
「なによ、あなた。ぜんぜん、それって、わたしの目から見ると、幸せには映らないわ」
モノゴトのわからない、コトの善悪を小さな子供に教えるのならともかく、大の大人に対して、
そういう余計な、お節介な、無意味な、くだらんことをまわりに示さないと、満足のいかない、
そんな人も、なかにはいるだろう。(世の中、広いんだし)
自分の優越感を満たしたいために、
そういうことは、すればするだけ、人格を貶(おとし)めるのだから、やめといたほうが、およろしいかと。
自分が納得して、人格的にも高まる、そんないい方法はないものか?
高飛車でもなく、自慢でもなく、他者を否定するでもなく、自分をけなすでも卑下するでもなく、
自分も、自分と違うコースの他者も同時に認めて、両者ともに高め合う方法は?
わざわざ、そんなことを文字にして示すわたしも、
相当、無意味人生を送っているのかも知れない。