雪がちらちら降るかのように、庭の紅葉がパラパラ降る。
動画撮影したい気分だ、けど、毎年のことだし、わざわざ動画を撮るのもいかがなるものか。
秋の光景をリアルタイムで楽しもう。
しかし、落ち葉、どんどん増える。
オー・ヘンリーの「最後の一葉」のような哀しさはなく、大量の葉っぱ。ざわざわざわ。
さて、いきなり、、、
天然との対峙。
日本にいて、近所に若い世代の近親者が住んでいて、(あ、家に同居人もいた)、さして重要な社会的役割も、個人的役割も課せられていない場合、アタマはどんどんお花畑化していくだろう。
近所に80歳を超えたご夫婦が住んでいる。
30年以上前から知っている奥さんは、よく笑う明るい女性だが、近年、認知症と診断されている。
軽いものだと思うが、旦那さんは、その認知症診断に首を傾げている。
「どう見ても普通で、よくしゃべり、よく笑い、テレビも見て、機嫌よくやっているのに、なんで認知症と診断されるのか、、、」と、なかば嘆きにも近い。
だが、最近のご主人の様子を見ると、わたしが思うのには、ご主人も認知症傾向が出て来ている。
二人して、家庭内で認知症になると、外にはわからない。
そういう老夫婦の実数を把握できないだろう。
深刻な社会問題である。
それはさておき、お花畑になり放題のわたし。
とても機嫌のよい赤ん坊みたいなものだ。
お腹も減るし、やりたいこともする意欲はある。
ただ、やらなくてはいけないことの自主規制枠をどんどん狭め、やらなくてもいい枠をどんどん広げていっている。
毎日365日、お花畑に居たい意向である。
にもかかわらず、時折、お花畑から引っ張り出されるのである。
しかたない。
ちゃちゃっと義務をこなして、またお花畑に戻って、まったりしたい。
人には二種類ある。
回遊魚タイプとお花畑タイプ。
わたしのダンス練習相手。
隅から隅まで、ダンスの一部分を除いて、全くわたしと接点がない。
理解できないし、しようとも思わない。
理解できない部分を取り出して、話し合ったり改善したりするには、人生の残り時間が少なすぎる。
なので、目をつぶって理解しないまま丸呑みする。
時々、お腹の中で暴れているが、致命的な症状でもなければ、ほっておく。
共通の部分だけで、つながる。
ちなみに、、、話は違うが、(言いたいことの根は同じ)
メキシコの遺跡、学者が研究し尽くしているが、諸説ある中で、新説は、採択されないらしい。
今更、新しい学説が出てくると、これまで積み重ねられてきた研究や説を翻すことになる。
そんなことになると、膨大な蓄積がパーになってリセットされ、また一からは、大変。
だから、新しい説は、認められないそうだ。
この話をメキシコの現地ガイドさんに聞いて、う〜んと唸った。
それぞれの場には秩序があり、秩序を維持するための方法がある。
もちろん、幾度となく秩序はぶち壊され再建されていくのが歴史なんだけど。
80歳を超えると内臓に起因する病気の手術をしないで、薬で持ち堪えるほうが無難。
それと似ているのか?
守りの姿勢。
若き血沸き肉躍る人には理解できないだろうし、自分もそうだった。
姑に、過去のある日、「若いあなたにはわからないだろうね。歳がいく哀しみは」と言われ、嫌な気持ちになったことを覚えている。
歳の若い人にわかってもらうのは無理だ。
歳がいかないとわからないことがある。
と、まだわたしは60代なのに、気分はすっかり80代後半。
あと10年は黄金期を楽しみ、次の10年は黄金期は終わり次への移行期。
徐々に景色は変わり灰色へとスライドする。
その後の時期は、身体だけ生きていると予想する。
あの世との移行期を迎えるが、自分では、きっと、現状を自覚してないと思う。
今から家族と終末期の医療について話し合いましょう、と政府は推奨しているが。
(吉本に発注した啓蒙ポスターはボツになりそうだけれど)
順調なら天寿を全うする終末期を迎えるという想定だが、そんなにうまくいかないかも知れない。
話を戻す。
今更ながら、火薬庫の火種になりかねないことをほじくり出しても、スッキリするかと言えば、ろくなことはない。
持病を抱えるほうが、慎重に行動する。
だが、羽目を外したい時は外せばいい。
自分が楽しめそうな道を直感的に嗅ぎつけて、実践するといい。
が、人によっては、ろくでもないことばかりを直感で選ぶ人がいて、お気の毒としか言いようがない。
なんでこう上手くいかないことばかり、、、は、偶然ではなく、必然なような気がする。