蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログについて

2019-11-29 | ブログ
わたしのフォロワー、12人。
フォロー、0人。
これは、結構少ないほうだ。
全く気にもしていないが、気にしないと言いながら、これは少ないなあ、、、とある日、ふと思い、ブログ表面に公表されない方法はないかとgoo事務局に問い合わせた。
が、的を得ない返答に失望した。
10年以上、毎日のようにブログをアップしているが、一方通行感がある。
最初の頃は不安だった。
中には読んでくださる方もおられるということを実感する展開もあった。
新しいアプリになってから特にその印象を強く受けた。

そもそも、わたしは実態のないものには興味がない。
最初の頃は、閲覧数に左右されていたが、今は参考にしているに過ぎない。
ずっと読んでいただいている方には、ありがとうの気持ち。
でも、期待には応えられない。
誰も期待なんかしてないだろうけれど、勝手に想像して勝手に落ち込んでいる。
しかし、出席簿やタイムカードを使っているわけではないから、どうぞお気楽に。

わたしは、年齢より、オマセ、老けた考え方をしている。
が、その一方で、幼稚な面がある。
さらに、またややこしい、その別な面には、とても情熱的なところがある。
蝶ブログには、情熱的なことは書かない。
わたしが自分で棲み分けをしている。
どこのSNSにも書かないんだけど。
書いてどうこうするものではないので。

書くとすると、自分を鎮めるため。
怒り、悲しみ、腑に落ちないこと、不条理、などなど、、、自分流解釈で、負けている自分を説得する。
落ち着くのだ。

ちなみに、新しいアプリは使いにくい。ストレスの山。
慣れるのに時間がかかる、わたしのポンコツ脳のせい。
書いても消える。
わたしのようだ。


黄金期、黄昏ている暇はない

2019-11-28 | 老い
雪がちらちら降るかのように、庭の紅葉がパラパラ降る。
動画撮影したい気分だ、けど、毎年のことだし、わざわざ動画を撮るのもいかがなるものか。
秋の光景をリアルタイムで楽しもう。
しかし、落ち葉、どんどん増える。
オー・ヘンリーの「最後の一葉」のような哀しさはなく、大量の葉っぱ。ざわざわざわ。

さて、いきなり、、、
天然との対峙。
日本にいて、近所に若い世代の近親者が住んでいて、(あ、家に同居人もいた)、さして重要な社会的役割も、個人的役割も課せられていない場合、アタマはどんどんお花畑化していくだろう。

近所に80歳を超えたご夫婦が住んでいる。
30年以上前から知っている奥さんは、よく笑う明るい女性だが、近年、認知症と診断されている。
軽いものだと思うが、旦那さんは、その認知症診断に首を傾げている。
「どう見ても普通で、よくしゃべり、よく笑い、テレビも見て、機嫌よくやっているのに、なんで認知症と診断されるのか、、、」と、なかば嘆きにも近い。
だが、最近のご主人の様子を見ると、わたしが思うのには、ご主人も認知症傾向が出て来ている。
二人して、家庭内で認知症になると、外にはわからない。
そういう老夫婦の実数を把握できないだろう。
深刻な社会問題である。

それはさておき、お花畑になり放題のわたし。
とても機嫌のよい赤ん坊みたいなものだ。
お腹も減るし、やりたいこともする意欲はある。
ただ、やらなくてはいけないことの自主規制枠をどんどん狭め、やらなくてもいい枠をどんどん広げていっている。
毎日365日、お花畑に居たい意向である。
にもかかわらず、時折、お花畑から引っ張り出されるのである。
しかたない。
ちゃちゃっと義務をこなして、またお花畑に戻って、まったりしたい。

人には二種類ある。
回遊魚タイプとお花畑タイプ。

わたしのダンス練習相手。
隅から隅まで、ダンスの一部分を除いて、全くわたしと接点がない。
理解できないし、しようとも思わない。
理解できない部分を取り出して、話し合ったり改善したりするには、人生の残り時間が少なすぎる。
なので、目をつぶって理解しないまま丸呑みする。
時々、お腹の中で暴れているが、致命的な症状でもなければ、ほっておく。
共通の部分だけで、つながる。

ちなみに、、、話は違うが、(言いたいことの根は同じ)
メキシコの遺跡、学者が研究し尽くしているが、諸説ある中で、新説は、採択されないらしい。
今更、新しい学説が出てくると、これまで積み重ねられてきた研究や説を翻すことになる。
そんなことになると、膨大な蓄積がパーになってリセットされ、また一からは、大変。
だから、新しい説は、認められないそうだ。
この話をメキシコの現地ガイドさんに聞いて、う〜んと唸った。
それぞれの場には秩序があり、秩序を維持するための方法がある。
もちろん、幾度となく秩序はぶち壊され再建されていくのが歴史なんだけど。

80歳を超えると内臓に起因する病気の手術をしないで、薬で持ち堪えるほうが無難。
それと似ているのか?
守りの姿勢。
若き血沸き肉躍る人には理解できないだろうし、自分もそうだった。
姑に、過去のある日、「若いあなたにはわからないだろうね。歳がいく哀しみは」と言われ、嫌な気持ちになったことを覚えている。
歳の若い人にわかってもらうのは無理だ。
歳がいかないとわからないことがある。

と、まだわたしは60代なのに、気分はすっかり80代後半。
あと10年は黄金期を楽しみ、次の10年は黄金期は終わり次への移行期。
徐々に景色は変わり灰色へとスライドする。
その後の時期は、身体だけ生きていると予想する。
あの世との移行期を迎えるが、自分では、きっと、現状を自覚してないと思う。
今から家族と終末期の医療について話し合いましょう、と政府は推奨しているが。
(吉本に発注した啓蒙ポスターはボツになりそうだけれど)

順調なら天寿を全うする終末期を迎えるという想定だが、そんなにうまくいかないかも知れない。

話を戻す。
今更ながら、火薬庫の火種になりかねないことをほじくり出しても、スッキリするかと言えば、ろくなことはない。
持病を抱えるほうが、慎重に行動する。
だが、羽目を外したい時は外せばいい。
自分が楽しめそうな道を直感的に嗅ぎつけて、実践するといい。
が、人によっては、ろくでもないことばかりを直感で選ぶ人がいて、お気の毒としか言いようがない。
なんでこう上手くいかないことばかり、、、は、偶然ではなく、必然なような気がする。



いろんな文章に触れて

2019-11-27 | ブログ
わたしごときの好き勝手、暇つぶし戯言。
お隣ブロガー組エッセイスト認定、ありがとうございます。

ちなみに、
文体の持つイメージってある。
すらすら気持ちよく脳に流れて溶けこむような、邪魔にならない快感、、、のようなものもあれば、短文でピシリ、グサリ、バサっ!!という強烈なものもある。

私は、書かれている内容が第一、大事だと考えるが、法律用語がズラズラ並んでいるようなものでは、読む気を削がれる。
文章にもリズムがある。
数学に音階があるかのごとく。

書かれる内容そのものは、よほどのオーソリティか、専門家か、特殊な体験をした人でもない限り、似たり寄ったり。
あとは、感じ方や表現の違い。

読み手は、太平洋より広い海の中から選び放題。
ではあるが、安定の、いつものあの味、定食屋のワンパターンが落ち着くこともある。
お腹や気分に応じて、行きつけの居酒屋だったり、最寄りのスーパーでお惣菜を買って家飲みだったり。
家でドリップコーヒーだったり。
ウィーンの、世界的有名店で有名ケーキやコーヒーを飲まなくても、なんら問題はない。
まろやかに、にこにこと楽しむ自分がいる。

文章も、そうかも知れない。
ローマ教皇のお言葉もさることながら、近くのお気に入りさんの日常に、ほっと安らぎを感じることがある。
わたしも、老い支度、完璧か?

しかし、すごいスピードで孫に瞬く間に追い抜かされている。
驚きと実感の毎日。
脳細胞の分裂の速さ、実際、幼児から子供になる成長を目の当たりにすると、今更ながら、人間の科学の不思議に直面する。
老いもさることながら、成長もアメイジング!!
上昇と下降が、人生に程よく組み込まれ、受け入れる、とか、受け入れない、とかの世界ではなく、楽しむ!!
そんな境地である。

子供から大人への成長にも目を見張るものがあり、末は博士か大臣か(大臣はイマイチ憧れないけれど)と、多大なる期待を寄せる。
その頃が一番楽しい。
実際のところ、普通の大人になってくれたらそれでよい。
身近に存在する、生きた刺激発信ブツとして、大いにわたしをエキサイトさせてくれる。
ありがとう、幸せです。

さきほど、逆放物線を描く母から電話着信があった。
みんな、それぞれ人生のカーブに沿って頑張ってます。

どんまい、わたし

2019-11-26 | 日々のこと
今日も楽しく1日が過ぎた。
有難いこと。
一日、一箇所ぐらい、自分は退化していると思うが、まあよい。
進歩していることは、退化している現状を嘆かなくなったことかなあと。
受け入れているということ。
まあ、わたしは、小さい頃から、若い頃から、天然一色だったので、今更始まったことではないが。

今日は、行きの電車内からブログ記事を書き始めようと思ったが、居眠りして、着手せず。時間オーバー。
終着駅で、親切なおばあさんに、「着きましたよ。(よほど)お疲れなんですねえ」と、とんとんと肩を叩かれ、起こされ、慰め励まされた。
まだ午前10時だったから、よほど疲れるには、ちょっと時間が早い。
スマホを握りしめたまんま、爆睡していたようだ。

しかも、地下鉄に乗り換えようとすると非接触型ICカードが、ビービーと赤ランプが点滅。
中に入れない。
いきなり、横にいた駅員さんに、「○○駅で乗車したまんまになってます」と、改札機を通してもらえなかった。
一つ前の電鉄会社に戻って、どうにかデータを書きかえてもらわないと、非接触型ICカードが使えない。
地下鉄から、けっこうある距離を逆戻りして、出場データを入れてもらい、また地下鉄にUターン。
別の定期を持っていたのだが、使い忘れて無駄なお金を使ってしまった。

ああ、まったくの無駄遣い。
失敗勉強代金を支払うことになった。
時間と労力とお金を無駄にした。
代わりに得たものは、あいも変わらず、ぼーっとしている自分の行動を哀しく再認識したこと。
ほんとうに、戒め料金を払い、今後、気をつけよ、という訓戒。
お金で済んだからいいけれど。
こういうのを自業自得と言うのだろうか。
どんまい、わたし。
命まで取られるわけじゃなし。

帰りは思いっきり緊張して入場には定期を使ったから大丈夫。
またミスって、入場しっぱなしだったりすると、今度はバスに乗る時に、非接触型ICカードが機能しないことになり、いたって心臓に悪い。
とりあえずは、1か月ぐらいは気をつけて緊張していることだろう、、、けれど、、、
また、やりかねない。
どんまい、わたし。
この、へんに明るい自分肯定、背中押しのため、どんな失敗でもすぐに、リカバリーしてしまう。
どんまい。



咲き誇る花々、ここはどこ?

2019-11-25 | 
ばはなの里?  カリブ海?
ばななの里? 南国フルーツ?
なはばの里? なに、それ?
はばなの里?  こんな感じ?
なばなの里?  いや。これか?

なにしろ、そういう里に行った。
空には富士山がUFOみたいにクルクル回る飛行物体。
そんなかたち、システムの展望台もあったが、時間切れで乗れなかった。
(写真があれば、わかりやすいが、あいにく、撮らなかった)
バスガイドさんが、「ここから富士山が見えますね、あれが、展望台です」とバスの中で説明してくれて、頭のなかが、思いっきり???で満たされたが、なるほど、そうだったのか、と、後でわかった。
しかし、なんで富士山なの?
多少、疑問は残るが、印象、記憶にも残る。
メキシコのカンクンにも似たような回転昇降型展望台があった。
面白いです、、、

ばはなの里へ、いや、なばなの里へ行ったのだが、ベゴニヤが圧巻。
お花が大大大好きな私はには、申し分ない楽しい時間だった。
バラも日本庭園風も、色々、人の手がたっぷりかかっていた。
ゴミもチリひとつもない、しかも、少しでも枯れた花は、即座に切り取られ、美しく咲き誇る花々だけが君臨、競演していた。
北海道に2016年、道内を南北縦断して見た、5つの広大なガーデンがオーバーラップした。
色々見ておくものだ。
目の前の花々が、何十倍にもなって大合奏を繰り広げてくれる。
ただし、花に全く興味のない人(特に男性に多い)にとっては、まるでつまらないと思うが。
趣味が同じ、同好の人と回るか、あるいは一人でツアー参加して回るか、、、好きなものを存分に楽しめるのは、最大の喜び時間である。

なんといっても、わたしは、自分の家、敷地内ガーデンだと(なかば本気で)思って、見て回った。
ガーデン職人さんに、ちょっとお給料をあげてあげないといけないなあ、でも不景気だし、、、ごめんね、うちのガーデンに勤めてもらっているせいで、お給料も安くて、、、今日、見た分には良い仕事が感じられましたよ、
と、脳内では勝手にシュミレーションが展開されている。
本格的に認知症になっても、いたってすんなり夢の世界に以降しそうな、シャレにならないジョークである。

桑名市にある、1870年頃、創業の老舗料亭に寄った。イタリアンランチに、スパークリングワインと赤ワインを楽しむ。
この邸宅料亭、これまた大好きな風情、テイスト、雰囲気。
よくぞうまくリペア、リフォームしてくれましたね、とまたまた、女主(あるじ)になった気分。
どこへ行っても、すっかりその気になれる、感情移入が至ってスムーズに簡単に行うことが出来るようだ。
(映画を観てもそう。七変幻に忙しい)




















※画像、うまくいかないみたいなので、次の記事に写真だけ貼り付けます。
(ダブっているかも?)
さわっていて、また記事が消えたらショックなので、とりあえずは、このままで行きます。
気が向いたら修正、補修します。
(いい加減なあなあ主義、、、)



透明人間、秋の小旅行

2019-11-23 | 
今、伊賀に来ている。
恒例、夫の仕事がらみ旅行。
よく飽きもせず、毎年毎年、参加したものだ。
少なくとも10年以上にはなる。
参加していない奥さんも多数いるし、最初のうちは、嫌で嫌で仕方なく、渋々、義理参加だったが、慣れてきた。
夫への家庭内営業。

参加者は、ゴルフ組と観光組に分かれて、大多数がゴルフ組。
夫婦で観光組のペアもだいたい1〜2組いる。(今年は1組)
が、うちは、毎年、別々。別行動。

ちなみに、わたしなんかは、参加の皆さんとは、職業は違う、仕事地には住んでない、そもそも、なんの接点もない。
が、透明人間を続けていると、それなりに、「元気で参加することに意義がある」を実践するに至る。

元々、単独行動が基本スタンスのわたしなので、ひとり離れて観光でも、なんの問題もない。
交流といっても、最低限の挨拶のみ。
なにしろ「参加する」ことで、わたしの役割は全うされているとわたしは捉えている。(愛想が悪かろうが)
○○さんの奥さん(わたし=スロー)大人しくて、居るか居ないか、わからないね、と思われていることだろう。
べつにそれでいい。
わたしは、貸切バス内での飲食サービスを専属のバスガイドさんから受け、いたって少人数を率いる添乗員さんの引率で、秋の風景を楽しみ、美味しいものをいただく。
黙々と。
わりと、嫌ではない。
皆さんの職場話を聞きながら、マイペースで食べたり飲んだりして、おしまい。
職業も職場も違うし、ゴルフもしないから、共通の話題なんかない。
無理やり笑顔を作って話しかけなくても、自然体でわたしは、そこにいる。
自分から何も発信しないから、言葉を理解してるんだか、してないんだかわからない、認知症でも気づかれない。異邦人みたいに思われているかも知れない。
十数年後には本格的な認知症のわたしが、にっこり微笑んでいることだろう。
今と全く同じ様相で。
でも一応、会に所属している参加者の家族だから、まるっきりどこかから紛れ込んできた、アカの他人ではない。

もうすぐ、夕食タイム。宴会。
二次会はパスして大浴場に行きたいなあ、、、しかし、わたしの希望は叶えられるかな?
場の雰囲気によっては、二次会にも参加し、さらに寡黙ぶりに拍車がかかることだろう。
よくこんなので居心地が悪くないね?と自問。
昔から、夫の職場の仲間たち(先輩、同年、後輩)はこんなかんじ。
奥さんなんかは、参加しているだけでよいのだ。
妻は、刺身のツマ。
わたしも頑張って合わそうとか、無理しない。
ツマはツマの役割で良いと考える。
刺身がメイン。

明日は散策とランチ。
ゴルフ組は、朝早い出発、ごくろうさま。
わたしはゆっくり、おひとりさま朝食のあと、観光組の知り合いの皆さんと、付かず離れずの距離感で、のんびり秋を満喫する予定だ。

明日撮るスマホ写真が、アップできるかも知れない。

急いで、まったりする

2019-11-21 | 日々のこと
たっぷりの陽だまりは、実態のないプレッシャーとなって、わたしに押し寄せ、押しつぶしにかかる。
て、抽象的な表現は、読む側には、まるで意味不明。
お日様ぽかぽか、まったりした時間も、もうすぐすると、大音量テレビ公害に押し流されてしまう。
たんに、家人が帰ってくるため、単純に、時間の経過とともに、残り時間が気になって、ぽかぽかを楽しめなくなってきている。
ぽかぽかで、何がしたいわけでもなく、ただ眠いだけなのだが。
というか、すべきことが2つある。
やらなければ、、、
これ、義務を先延ばしにして、退屈と闘っているだけか。

孫Aの宿題の仕方とそっくり。
さすが血は争えない、、、と、こんなところで感心している場合ではない。
まったりした時間を楽しむのではなかったのか。
早く楽しまないと、大音量のモトが帰ってくる。
はやく、はやく、はやく、、、。

まったりをはやく急いで楽しむには無理がある。
矛盾のかたまり。
そんな、しょうもない無意味なことを入力している間にも、まったり時間は刻一刻と減っている。
「矛盾」とは、、、「退屈」の親戚か。

いつも、孫Aに、口を酸っぱくして言っている。
「はやく宿題を済ませなさい。やれば5分で済むじゃないの」
ああ、それ。わたしのこと。

やりたくないことは、先延ばしにする気持ちは500%理解できる。
でも、教育的指導でとりあえず、孫Aには、はやくしなさい、と言っている。
この矛盾。
いったい、矛盾は、毎日の生活にいくつあるんだろう。
矛盾だらけ。

意外にわたしは、この矛盾が嫌いではない。
真っ当なストレート攻略もさることながら、人は矛盾と闘う生き物だから。
て、書き始めてから何一つとして実の有ることを書いていない。
これを「落書き」という。
落書きの定義は、、、「書いたら気持ちが楽になる」ということ。
あ、ラクの字が違う。
では、「書いたら気持ちが落ち着く」ということ。
いや、全然、落ち付かない。
むしろ、まったり残り時間が減って焦ってきた。

庭の紅葉、見るたびに苦しいほど、赤くなる。
緑と赤が、混合。
秋は黄昏。
しかし、混合はどうだか。
持ち時間が減るのか、はたまた、使った時間が増えていくのか。
同じことやん。

緑と赤の割合が逆転していく。
紅い紅葉も美しいから、まあよい。
書きたいことがあるのだが、宿題が気になって気分が集中できない。
と、言い訳。
はやく紅葉の写真を撮って、まったり時間をおしまいにしよう。

幸せ女芸人のごとく

2019-11-20 | 日々のこと
応援ポチ、ありがとうございます。
わたし、少し変人ですが、励みになります。

さて、電車内、つり革の輪っかに掴まりつつ、時折、手を離しつつ、ブログ更新します。

電車スピードが速いから、よろけて不安定。
座れないと、不自由である。
よろけるぐらいなら、かわいいが、こけたりしたら、周りの人が恥ずかしいだろうなあ。
駅に停車すると、スピードが緩くなるので、入力チャンス!
それよりも、なによりも、席が空いた!
やったぁ、これで、鼻歌まじりに入力できる。
しかし、何を書こう?

あと数分で下車駅なので、こういう時は困る。
だが、無理やりアップする。

・・・
あかん、あきません、ノリが悪い。
書きたい時というのは、ううっ!と、いっぱい色々溜まっている時。
今みたいに、帰路、電車内なんて、今日一日、心身ともに思いっきり、プラスのエネルギーをアウトプットした後で、すっかり、すっからかん。
リア充になると、書きたい意欲は、すっからかんになる。
女芸人が、女の幸せを手に入れると、途端に面白くなくなるかのごとく。
やはり、芸術は(そんな格調高いものではないが)、マイナス・エネルギーの放出だと感じる。
幸せ、ぽわんぽわんでは、パステルカラーで、幸せキルト、パッチワークとか、そんなイメージ?
いや、超大作を作る時は壮絶な気合いの入れ込みである。

話はバラバラ、行ったり来たり。
とりあえず、アップすることに意義がある。


そわそわタイム

2019-11-19 | 子育て
今日は、わたしは在宅。
いつもは、孫Aは授業が終わると小学校の放課後指導ルームに移動し、夕方遅くまで学校にいる。
他にも多くの低学年の、学年が違う子供達が、親が帰ってくるまでの時間をそこで過ごす。

が、今日はわたしが在宅だから、ばあちゃんちに来てもいいよ、とついラインで娘に言ってしまった。
あとで、知ったが、今日は勤務体制のシフトで、父親が早くに帰ってくるらしい。
あ、しまった、、、親の手があるんなら、わざわざ手を挙げるんじゃなかったと思い、「来ても来なくても、どっちでもいいよ」と孫Aが来ない選択肢もあることを追加したが、孫Aに選ばせると、どうやら孫Aはうちに来るらしい。

ばあちゃんは、甘いからなあ。
甘くて弱くて、なんでも言うことを聞いてくれるから。
しかし、「あの子ったら、こんなことしてたよ〜」と、あとで、怖い母親に、泣き言、密告するのだけど。
言うことをホイホイ聞いていたら、孫Aはどんどん付け上がる。
しまいには、もう知らん!と、わたしも、優しいばあちゃんを返上することになる。
でも、基本的にはナメられている。

今は、孫待ちタイム。
手作りオヤツをあれこれ準備したり、そわそわ。
時間がはっきりしないから、困る。
自分の子供の時には、オヤツのことや、色々あーだこーだと、こんな余裕はなかった。
むしろ、どんなふうだったかも忘れている。

子供に出来なかった甘い甘い顔を、甘やかし放題の祖母特権を乱用して、罪滅ぼし。
世の中の、ジジババが甘いのは、自分がしてやれなかった後悔と反省からだと思うのだが、、、。
これって、あたり前すぎて、平凡すぎて、なんの感動も刺激も発見もない感想、考察だと思う。
でも、こういうところに、幸せの種は落ちているのかなあと。
見過ごしてしまいがちだけれど、大きな幸せを噛みしめる。

しかし、いくら甘やかし放題といっても限度があり、孫Aの好き勝手無理難題に、ついには頭から湯気をあげるのは時間の問題だ、、、。