オモテの自分、ウラの自分、意識化の自分、無意識の自分・・・
自分がいまだにわからない人は、捜し求め続けていることだろう。
そもそもアイデンティティとは?
自分とは?
自分に向き合ったことは、誰にでもあるだろう。
もし、そんなことをしたことがない人がいたとしたら、とても幸せな人だ。
いい意味でも、悪い意味でも。
私は、今まで、2度、自分って、なんだろう、と、深く思い詰めたことがある。
それは、自分の歩んできた道の岐路に立った時だった。
書物の知恵、知識、力も借りた。
その結果、自分の行く道を選択する決断をした。
自分は、なんだろう? どうしたいのか? どうすべきか?
自分と向き合って、自分の答えを自分から引き出した。
今にきて、3度目の決断の時が、もうじきやって来る。
まあ、まだ時間はあるので、ゆっくり考えればいいのだが。
あるいは、決断せずに、ずるずるとこのまま行く、という新手もある。
しかし、ぼやぼやしていると、期限切れのカタログ・チョイス・ギフトが、
先方の決めた商品に決定されてしまうのと同じように、選択肢がなくなってしまう。
自分で自主的に選択して生きる「能動的生き方」と、
選択肢なく、余儀なく不本意に生きる「受動的生き方」とでは、どちらがいいか?

私は、だれ?
なんのために生きている?
何がしたいの?
どうすべきなのか?
自分の声に耳を澄ますと・・・
実は、今のままが、一番いい。
緩やかな曲線を描きながら、優しく微妙な角度で、爽やかに下降していく、
そして、その先は、ふんわり、ソフト・ランディング。
このまま、一生、今の状況が続けば最高なんだけれど。
そう思うと、一日一日の貴重さを噛みしめ、
大切に、思う存分味わって送らなければ、もったいない。
だらだら無意識に黄金の時間を過ごしてしまうと、後々、後悔しそうだ。
しかし、時が動かないということは、ありえない。
地球が自転している限り、人は年を取り、やがて死ぬ。
愛する人々も、死んでいく。自分も確実に死ぬ。
世界一の傾城の美女も、時の権力者も、例外なく盛者必衰の理を表している。
黄金の時期は、永遠には続かない。
とかなんとか御託を並べて、決断を先延ばしにしているだけ?
自己中心・逆風だらけの、理解者が一人もいない孤独な自由人か、
人の評価が怖い小心者、不満だらけ、自分騙しの自己犠牲か、
あるいは、ミックス・バランス型か?(投信、ファンドも、こういうのがおススメらしい)
どちらも選ばない(選べない)、あるいは、どちらも取り入れる、そういう中庸が無難。
いずれにしても、人は一人では生きられないのだから、
自分だけの我ままを通すには、強い意志や、それに裏打ちされた実践力が、必須だ。
私に、それがあるのか???
覚悟を決めたら、コトが進んで行くに従い、
今まで備わってなかった力も、苦労とともに徐々についていくのか
あるいは、気力だけでは、現実はどうしようもないことを痛感して、挫折するのか。
いずれにしても、らくらく、楽しいだけの人生などない。

どうせ、なにもできないのなら、ジタバタあがかず、
ハナから何も考えないで、流されるままの、与えられる人生が、楽で、いいなぁ・・・
なにもできないアタマやカラダなら、そんなもの、いっそ無いほうがマシだなあ・・・
今まで無知で知らなかったこと、気付かなかったことがあるということを、
目が開いて気が付いても、
人生を切り拓くことになったケースと、
悲惨な現実を直視するだけで、知らなかったほうが幸せだったケースとがある。
お嬢様、奥方様コースを順風満帆に歩けたらよかった?
婦女子に、情報や知識、教育は不必要、と、昔の人はよく言ったものだ。
感じ方、実践の仕方、生き方は、ひとそれぞれなんだろうけれど。
「魂が救われるのは、信心」という終着駅が、もしあるとするなら、
私は、まだ、生身で生体反応があり、あの世へ直結の神頼みには、身も心も若すぎる。
瀬戸内寂聴さんが、知ったら、一喝されそうだが。
神仏に頼れない者は、究極の間際まで、自分で答えを探し彷徨うのが、その宿命?
要は、この年になっても、まだモラトリアムな私。
自業自得のなせる業ということですかね。