さて、今日は朝の早くから、頑張ってまいります。
作業と、事務処理。無報酬。遠隔地。
暑くなるそうだけど、なぜか、いま、わたしは燃えています。
太陽といっしょに、燃えてしまわないように。
あ、帽子は持っていきます。
気休めですが。
いつまで続くのか。
続かなくなるまで、頑張る予定。
気力と健康が続くまで。
では、行ってきます。
さて、今日は朝の早くから、頑張ってまいります。
作業と、事務処理。無報酬。遠隔地。
暑くなるそうだけど、なぜか、いま、わたしは燃えています。
太陽といっしょに、燃えてしまわないように。
あ、帽子は持っていきます。
気休めですが。
いつまで続くのか。
続かなくなるまで、頑張る予定。
気力と健康が続くまで。
では、行ってきます。
わたしのブログ、お読みになられる方のみ、お読みになっていただけたら・・・と思う。
(当たり前のことを書いています・・・)
とある近しいリアル人のブログ、もう決して更新されることはないが、
ちょっとずつ読んでいる。
読まないときもある。(そのほうが多い)
なにしろ、膨大な記事量なので、読む気力を溜めるのに、それまでに時間がかかる。
だが、閉鎖されていないでの、読む側は、悠長に構えている。
ある日、突然、閉鎖されるかも知れないのだが、今のところ、そんな気配がないので、
気が向いたら、ゆっくり訪れている。
・・・
人生って・・・
と、とつぜん。
若い人が言う人生と、中年が言う人生、老年、死の床の人が言う人生とでは、違う。
中学生スイマー(水泳選手)がオリンピックでメダルを取ったとき、
「人生で一番、嬉しいです」と言っていた。
早い時期にピークを迎えたら、あとは長い道だろう。
人生のスタンスは、人によってちがう。
なにを軸に置くか、である。
多くは共通すると思う。
愛情、豊かな生活、生きがい。
程度の差は少しあったとしても、日本の場合、総中流なので、ほどほどの生活は保障されているようなもの。
戦争時や、昔の時代なら、人権意識も今と違い、悲惨な生活だった。
だが、一部を除き、当時は皆、そうだった。
衣食住、事欠かなくなり、生活の質は向上した。
が、同時にこころの問題が発生する。
生きるために必死な時代は、余裕がないので、食べることで精一杯。
余裕が出てくると、人は上を見たり、疑問を感じたり、不安を感じたり。
貧困、病、老い、戦争・・・これらの不安から逃れるために、宗教(信仰)にしがみつく。
それらがひと段落し、生活は満たされても、こころに、ふっと隙間風が吹く。
その活路を見出そうとする
成功している人は、意外に熱心な信者であったりする。
といっても、得たいの知れない新興宗教ではなく、昔からの「神頼み」に近いもの。
たとえば、企業の屋上や社屋に設置されている神社(お社)や、家の中の神棚、・・・
街のちょっとしたところに混在して存在する、お地蔵さんや、小さいお社、
お花が供えられていたり、立ち止まって拝んでみたり。
おそらく、不幸だから、しがみついているわけではないと思う。
日常の一こま、こころが落ち着くのだろう。やすらぎの一こま。
企業に関しては、社員の精神を束ねる求心力の役目を果たすのだろう。
しかし、家族まる抱え、まるごと面倒を見ていた終身雇用制も崩れ、今は、強烈な求心力の代わりに、成果主義となっている。
ドロップアウトする人や、ついていけない人、割り切りの精神に、こころが殺伐とすることもあるだろう。
だが、へんにぬるっと暖かかったり熱過ぎたりする温度より、
自分なりのクールな温度のほうが、好きな人もいるだろう。
・・・
自分の好きなコースをチョイスするには、ある程度のお金が必要である。
介護施設ひとつにしても、そうだ。
最終段階の看取りの場である病室でさえ、個室と相部屋がある。
(最期は、別部屋かも知れない)
そこそこのお金が確保できないとなると、ほどほどの欲求に抑える。
財布と相談。
あるいは、精神論を持ち出し、自分をなだめる。
お金とリンクしない欲求は、あるのだろうか。
健康か。
いくらお金を使っても、お金があっても、保険の利かない自費治療ができたとしても、
根本的には翻すことはできないと思う。
人間関係は、そこそこお金で解決できるように思う。
付き合いたくなければ、代用品で済ますことができる。
義務も、代理人を雇って、自分の変わりに動いてもらえる。
マンパワー代金。
ほんとうに気に入った人とだけ付き合うのにも、(気に入らない人と付き合わなくていいようにするには)
お金が必要かも知れない。
欲求の質のレベルがどんどん上がるのは、ある意味、不幸を招く。
質の高いものを知らなければ、現状で満足できる。
しかし、人間は、困った生き物であり、自分の首を自分で締める愚かな行動をとる。
質の高いものを知っている、評価できると、自負している人々(とあるブログに書かれていたのと同じ)
彼らは、ほんとうに素晴らしいのか。
人の数だけ評価は分かれると思うが、評価する人数が増えてくると、そこそこ体系立てることができるのだろう。
・・・
わたしの困ったことは・・・
他の人にとって良いと思うことは、さほど自分のこころは動かず、さして取り入れようと思わないこと。
羨ましくない。
自分が良いと思うことは、さほど他の人は良いと思わないかも知れない。
変人として映るかも知れない。つまり、超少数派である。マイノリティ。
歴史上の人物を見ても、
その人が生きている間には、まったく評価されず、変人、奇人、狂人扱いされていた人が、
後の世で、認められるケースは多々ある。
なにもわたしは、自分が悲運の天才だと言っているのではない。
ちょっと変わり者かも知れないな~と、危惧しているのだ。
杞憂であればよいが。
才能を認められない天才や、お金に恵まれない天才。
そういう人の才能にしびれる反面、もう一方では、
お金がすべてだ、と商魂丸出し、銭ゲバ根性で成功した人も評価する。
両方、ほどよくブレンドが最も良いことぐらいは、わかっているが、理想だけ言ってもはじまらない。
・・・
わたしの話は、現実味がない。
あいかわらず、雲の上で霞を食べている。
毎日、図書館に足しげく通って、空想、妄想を膨らませている、夢見る暇人のごとく。
ただし、わたしは、図書館は嫌い。
実際の人物たちに接するのが、好き。
人物が無理なら、足跡、作品に触れる。
文字などの平面的なものだけではなく、立体的でリアリティがあるものが臨場感、迫力があって、
わたしの薄ぼんやりした脳への刺激には良い。
・・・
つまらないことを書いた。
がりがりに痩せた、偏屈じいさんの、独り言みたいになっている。
・・・
最後にもうひとつだけ。
パリで一人、うろうろする自分は、場に合っていないと昨年、二度目に行ったときに感じた。
パリは、老女一人は似合わない。
変わり者の意固地な孤独人みたいな自分が、見えた。
というのは、似たような年齢の一人歩きの女性を見て、おそらくわたしもあんな風なんだろうと、
非常にがっかり肩を落とした。
決して、わたしの望むところのものではない、憧れのパターン、テイストではない。
次回、行くときは、また行動パターンを、自分好みの方向性に向くよう、練ってみよう。
なにもパリである必要はないような気もした。
(パリは、一人でどうにか、どこにでも行きたい住所のところに行けるから選んだだけなので)
偏屈じいさんから、とっくに夢見る年齢を過ぎた甘党のおばぁさんになっている。
・・・
好きなことを書き散らし、ああ、すっきり。
バイキングで、「ああ、食べた食べた」とお腹をさすりさすり、ゲップをするかのごとく。
では。
昨日は、出先への移動時間中に、ブログ記事を書いた。
ガラケーの電池がレベル4になってしまいつつ、一生懸命、熱を入れて入力した。
あまりにも自分の胸の内をさらしすぎたせいで、アップしようか悩んだ。
アップしないんだったら、と、ついでに自問自答して、自分にあれこれ問い正してみた。
それは、わたしの実家に行く道中のことだった。
2つの場所で、2つの用事を済ませて、帰路、電車の中でブログ記事を仕上げた。
行きに書いたものと、感想は少し違っていて、爽快感、すっきり感、自分でのもやもや感、解消、
結論の方向性は、こっちだなあ・・・と感じた。
そして、思った。
ああ、アップしなくてよかった。
自分の胸の内をさらして、なにが嬉しい?
恥である。
ひとつ、恥の流出を未然に防げた。
帰りの電車で、ついでに、友人の実家に遊びに誘われていた件、
自分の実家の用事で、行けなくなったので、お断りの返事をした。
理由は、明確には書かず
「6月中に済ませなければいけない用事が発生したので、残念ですが行けなくなりました」
とメールに書いた。
そのお断り内容は、嘘でもなんでもなく、真実、事実である。
ただ、はっきり具体的には明言しなかっただけだ。
今のわたしには、人の実家に遊びに行く余裕がない。
ほかにすべきことが、けっこうある。
優雅に遊んでいられない。
すると、返信メールには、
「○○ちゃんは仕事、△△ちゃんは用事。□□ちゃんは会ったばかりだから、この会、今回は、お流れにするわ」
と書かれていた。
無理して合わせて行かなくてよかった、と、本気で思った。
皆も、それぞれに忙しいのだ。
優先順序をつけると、学生時代の友人と、お茶してランチ、などという時間の使い方は、
今のわたしには、(申し訳ないけれど)最下位である。
しかしながら、わたしの実家へのお誘い申し出の時には、
よくぞ、皆集まってくれたものだ。(たいして親しくもないのに)
たまたま時期が良かったのだろう。
・・・
ちなみに、昨日、とある人たちとの会でのお話。
出生率について話していた。
いまどきの出生率、あれは、未婚の人は分母の数には入っていないのでは?
実際は、もっと出生率は低いに違いない。
と、未婚の税理士先生の意見。
それを受け、「未婚の人々はかなり多い」、と、某女史。
結婚できない、しない、したくない・・・と、いろいろ。
そこで、某女史が、つい先日、見た光景を話した。
阪急デパート・梅田店でエレベーターに一気に一緒になった、ヤング・ハイソ・ママ軍団。
お金持ち風・子連れママが4人一堂に集まり、すごいオーラで、その全員の服装、身なりの高級なこと。
あんな専業主婦を扶養できる夫は、普通のサラリーマンでは絶対に無理。
奥さんか、だんなさんの親が金持ちとか、そういう付加条件がついていないと、若い夫だけの稼ぎでは不可能だ、と、某女史の感想。
ママたちのアタマの先から、足の先まで、赤ん坊の服装、持ち物、ベビーカー、すべてが超高級。
お車で、都会のど真ん中のデパートにお越しになっておられる、これは、金持ちに他ならないと。
「家ではいったい、どんな格好なんでしょうね?」と、わたし。
「同じようなかんじでしょう」と、独身税理士。
「いっしょに家にいたら、息がつまるでしょうね」と、わたし。
これって、ハイソな方々に対する、興味、疑問、苦手感を通り越して、われわれの毛嫌い?
わたしは、たいして、毛嫌いしているというかんじではなく、
よくそんな息苦しい格好をして、都会のデパートくんだりまで、ベビーを連れて出てくるなあ・・・
しかも、複数で・・・
と、そっちのご苦労様ぶりに、驚いた。
あんなに疲れる、ストレスのたまることが、彼女たちのストレス発散なのだろう。
わたしとは、逆ベクトル方向だ。
わたしは、そもそもストッキングが大嫌い。
夏にストッキングを履くだけでも、ぞっとするのに、それにまた輪をかけたような拷問に近いハイヒールを履いて、
しかも、地球上のどこの何よりも、ストレスの塊である、赤ん坊を連れて、
あんな人ごみいっぱいのデパートへ・・・!!
いくら大金を積まれても、わたしは、ご免こうむりたい。
あれが、ハイソの証であるとしたら、わたしは、ぜったいにハイソには一日足りとも息苦しくて、身を置けない。
一目散に逃げるだろう。
義姉の大好きな趣味の世界も、あの匂い、あの香り。
わたしは、あの手の世界が、大の大の大の大の苦手である。
窮屈で窒息しそうだ。
「おハイソ」というものは、肌に直接サランラップを巻いているかのごとく、
わたしから、ふつうに皮膚呼吸する機能を奪う。
おそらく、これは、父の影響だろう。
今頃になって、へんなところで、父親の偏狭な嗜好、趣味を受け継いでいることを自覚して、ある意味、ぞっとした。
父は下品や野卑、無教養も嫌っていたが、ザアマスの世界も大嫌いだった。
ひっそりと自分の好きなことを追求する、誰に見せびらかすでもない、自分だけの世界に浸るのが好きだった。
その趣味のためには、寝食を削って、かなりの労力、時間、お金をかけていた。
おっほっほっほ~と、高らかな笑い声のするようなザアマス夫人の居ない、
静かな世界が好きだった。
自分は、身を粉にして、一生懸命、働き、趣味にも体を使って、
(もっと面白おかしく享楽的にも楽しめる身なのに、傍らから見るとご苦労さんとも見える)熱情を注いでいた。
なんか、父とわたし、似てるかも?
と、ふと思った。
ついでに、母にも、わたしとは表現や行動の仕方、性格はまったく違うけれど、
これまた、芯の部分の流れている何かで、なんか似ているところがある。
まあ、親子ですからね。
これを「受け継ぐ」と、もし言うなら、血を受け継ぐのではなく
(血も受け継いでいるけれど今後にはあまり直に、発展性がない)
理念というか、信念というか、文化というか、マインド、魂というか、
大事にしていたこころと、大事にしていたもの、それらを大事に守っていきたい、
ただし、自分ができる範囲で。
しかも、健康体と気力と、お金が続けばの話だが。
守りきれなくなったら、そこでオシマイだろうけれど。
その3つの条件がすべて揃う時期は、人生の時期で限られている短い時間だと思う。
とかなんとか、夫の実家にもそれに近い義務が山のようにある。
自分はほったらかして、息子に守らせようなんて、そんな甘いことではバトンタッチできないだろう。
親の姿を見てこそ(今回のわたしの両親とわたしのように)、
その大事に育て愛着あるものを自分の代でも守っていきたいと感じるのである。
ということは、う~ん・・・
夫の家、あまり愛着はないけれど、最低限度、維持できるだけのシステムを構築しておこう。
いまどきの子供は、晩婚なので、あるいは、結婚しないので、
息子の嫁に伝えるべきこと、あれこれを、伝えたくても、嫁がいない。
そして、わたし自身が、あんまりよく知らない。
アタマの中にあるものも、いつまで正確に覚えられているか、自信がない。
こうやって、受け継がれていくべき事柄、無形の文化が、消滅していくのだろう。
不特定多数のアカの他人に向けたブログをお遊びでやっている暇があれば、
もっと実のある、実際に求められている、役に立つ、有効なことを後世の子孫のために、
わかる形で具体的に残すべきだろう。
めんどくさそうな作業(製本)を先送りにし、でも、視野に入れ、・・・
にもかかわらず、ブログを更新する。
ある近しいリアル人の方のブログを延々とさかのぼって読んだ。
もう、そのブログは更新されないのだが、閉鎖もされない。
ブログを開設されて8年ぐらいになるのだろうか?
その中に、わたしが3年前、お送りした写メールがアップされているのを偶然、発見した。
その扱いには、悪い印象は受けなかった。
ブログ記事量があまりにも膨大すぎて、なかなか目を通すことができなかったブログだが、
時間がある時に、少しずつ読んでいる。
ほんの稀に、わたしの関わったこともアップされている。
あ、これ、わたしだ~。
なんだか、不思議な気持ちだ。
・・・
学生時代の友人から、「実家に遊びに来ない?」と、複数の友人宛に一斉メールが入った。
「○○ちゃんは遠いから、このお誘いメールを送ってません」
「△△ちゃんは、その日、仕事で無理だそうです」
とも追記されていた。
わたしは、時間が取れたら参加する気、満々である。
わたしの実家にも、何年か前に、彼女たちを招待し、遊びに来てもらった。
実家が元気な状態で存在するうちに、一度、呼びたかった。
彼女たちの記憶にも留めてほしかった。
なので、今度は、彼女が呼びたがっている、ということは、なんらかの心境の変化かも知れない。
今は、お一人で住んでおられるお父さんが、もし他界されたら、あのご実家は消滅するのかも知れない。
その前にぜひ、知っておいてほしい、と思われたのではないだろうか。
彼女のルーツ、生きてきた証の一部のようなものを。
家は、どんどん消えていく。
継ぐ人のいないお墓も、どうなるのだろう。
彼女は、お子さんのうちの誰かに家を継いでほしいのかも知れない。
彼女は、二人姉妹の長女、子供さんは、全員娘さん。女系家族だ。
よほどの財産でも残さない限り、跡を継いでほしい、と頼みにくいとわたしは感じる。
お金があっても、継いでくれるとは限らない。
強い信念もって、マインドを引き継がせることに成功しているのなら、どうにか願いは叶えられるかも知れないが。
わたしは、もはや、自分の中では、家を継ぐという意識が薄れている。
義務放棄は決してしないが、
さらっと、薄味で、簡素に簡単に、引き継げるものであればまあ考えられなくもないが、
重すぎるものを押し付けるのは、押し付ける側はいいが、押し付けられる側になると、重圧である。
時代も変わり、価値観も多様化、ライフワークも様々になり、住居も好きに選べる。
住みもしていない土地に愛着が育つだろうか。
昔ほど、イエ意識も、家に対する愛着も信念もないように思う。
ハード面、ソフト面、両方、バトンタッチは、なかなか上手く理想的には行きにくい。
自分の今後は、見通しがつくが、その他の皆はどうなるのか?
次男や三男、四男・・・、未婚の人々の墓は?
人の心配している暇があれば、自分のことをもっとちゃんとしなさい、という声が聞こえてきそうだ。
散骨だって葬送セレモニーだって、なんだって、自分でデザインする時代。
いろんな生き方がある。
その中で、跡を継いでほしい、と願うのには、
相当の自分なりの理由、自分に対する説得力や信念が必要だ。
あああ・・・。
また来てしまった・・・。
別れられない、罪な人、・・・。
わたしを引っ張らないで・・・、と言いたい。
が、ブログはまたまた強烈に、離れようとするわたしに、揺り戻しをかけようとする。
悪いオトコに、さんざん泣かされた後、甘い言葉と優しい態度で、気持ちが揺らぐように。
(→実際には、そういう経験は、ありません)
やはり、振り回される自分がいる。
自分のブログに、自分が振り回されるなんて、こんなおかしなことはない。
しかも、コメントがどうのこうの、そんなことは、まったく関係がないというのに。
こういうのを一人芝居っていうのだろうか。
しかし、一人芝居も立派な芸のジャンルとして確立されているし。
ということは、ブログも、なんでもありかも。
とは言いつつ、
別れを意識し、一旦は、決断したのだから、そうそう、ぐらぐらしていては・・・。
より強い鋼を作るように、鉄を熱くし、真っ赤な鉄を焼き、一気にじゅじゅっと冷却し、また火を入れ・・・
そうやって、繰り返し、強い揺るぎないものを作る。
行ったり戻ったり、出たり入ったり、試行錯誤のモラトリアム。
しかし、何度も同じことをして、いっこうに進化がないのは、いかがなるものか。
自分で自分の見切りをつけるのが、大事な美学だ。
引け際が、肝心。
製本は、流通に乗せるなど、とんでもなく、また、配布用などでは決してなく、あくまでも自分用。
控えである。
コンピューターが使えない時のための、紙の原本控えバックアップ。
2部ぐらいが、いいかなと。1部プラス、スペア1部。
あまりにも嵩(かさ)高になるなら、1部でも良しとしよう。
・・・
ちなみに・・・話は変わって、
昨日、プリントアウトした自分の日記風のものを発見した。
最初は、誰かに宛てて書いていたものの、途中で、送るのをやめ、独り言としてそのまま続きを書いたようす。
長女が就職したばかりの頃なので、今から9年前のもの。
書いていることと言えば・・・当時の近況、心境や人生計画。
なるほど、その当時としてはそうだろう、と、懐かしく思った。
9年前の自分は、今の自分より9歳若いだけあって、元気だ。
あれこれ、やりたいことを具体的にプランを練り、何案も書き出していた。
今では、どれもできないことばかり。
実践を目的にしているというよりは、空想して楽しんでいるかんじ。
その中で、実践に近いことは、ひとつぐらいしかない。
第一、仮に、状況がころっと変わったら・・・という大前提で、予測、プランしていたのであるが、
その後、その前提自体が無くなったことで、大きく予定が変わった。
人生の舵きり。
とは言うものの、速度が緩まっただけであって、方向は同じ。
緩まったというか、ストップした。
その間に、計画は実行されなかった代わりに、なにもせず、力をチャージしたことになる。
で、いま、チャージされた力を発揮する時期に突入しているのだが、
早くも息が切れかけている。
まだまだ坂は、上り始めの最初の10分の1ぐらい。
残りはたっぷりあるし、坂の勾配はどんどんキツくなる。
ぜーぜー。
もうじき、暑さの厳しい夏がやってくる。
チャージしたつもりの力は、じつは、充電器が弱いせいで、
あまり大量の強力な力をチャージできなかったのかも。
9年間、ちんたらこんたら遊んでいただけか。
というか、そういうプリントアウトした日記もどきを目にすること、それ自体が、
たまたまプリントアウトしていたから、手に取って見ることができた。
他にも23年ぐらい前のプリントアウトしたもの
(A4サイズに、文字間隔、行間ブランクたっぷりで、3枚ぐらい?)も、ほんの手元にある。
それは、若い自分がその当時、アタマに来て、ある人に送りつけたものであるのだが、
けっこうおもしろい、と思って、捨てられずにいる。
そっちは、なにしろ23年も前なので、完全に時効である。
他にも、中学時代の日記がたっぷりある。
何冊ものノート(B4サイズぐらい?)に、万年筆でびっちり書いたものだ。
これは、実家の母に、「持って帰ってちょうだい」と、押し付けられた。
母が処分してもよかったのだが、書いた本人に委ねるのが手っ取り早いと、母は思ったのだろう。
それは、さすがに読む気がせず、しかし、いまだに手元にある。
わたしは、自分の独り言を書いたものをうんと後に読むのが好きなのだろうか。
おそらく、中学生日記は今後、読まずに処分することになると思う。
処分する段になって、最初の数ページだけぱらぱらと見て、なにか思うんだろう。
・・・
今のところ、本気で、ブログを製本にすることは考えている。
(電子化という案もあるが、あえて、紙)
ただし、これは、配偶者と別れようと本気で考え、離婚の本を読み漁っている段階と同じだ。
気持ちを固め、いざ、実行となるには、あとどれぐらいの時間がかかるのだろう。
静かにこころの準備をし、進めようとは思っている。(離婚の話ではありません)
一生懸命取り組んでいるうちに、本来の目的を忘れてしまうかも知れない。
今日こそは、ほんとうに本気で、蝶ブログ、やめてしまおうと思った。
で、ひさしぶりに、あちこちのブログにお邪魔してみた。
へえ~。近況が変わったんだ~。この人。(Aさん)
わあ、相変わらずの文章のキレ、冴え、頭が下がる・・・(Bさん)
などなど・・・
お伺いしたブロガーさん(Aさん)の記事に
「自分がブログを開設したときのように、今では毎日更新している人は、あまりなく、
一人、また一人と、かつてのブログ仲間が姿を消していく(ブログを閉鎖する)」
と、あった。
やめてしまいた理由の大きな原因は、・・・
ブログ更新は、単なる自己満足であることが、はっきりわかったから。
客観的結果が見えた。
その次の原因。
まったく見ず知らずの不特定多数の人に、自分の想いを打ち明けすぎた、後悔。
わたしがブログを閉鎖しても、無断転載ブログではまだ生き残ってしまう。
自分という資源が、無条件、無制限に、どんどん採掘され、残らず吸い取られ、枯渇しているような気分。
限りある資源の大切さに気づかない自分。
どこの誰ともわからないアカの他人である不特定多数が、どういう風に扱うかも知れない
吹きっさらしの場に、惜しみなく、無防備に無造作にさらしてしまった。
とすると作家さんは、大変だろうなあ、と思う。
自身の身や肉、血を削って、作品にしているのだから。
それが生業で、お金とってるんだから、ある意味、しかたないけれど。
自分だけでなく、肉親や身内、友人まで売ることにもなる。
もっと自分を大切にしなければ。
自分を救ったのは、想いを放ったその場だけで、
その積み重ねは、日常に飲料水に混ざった工場廃水を飲むかのごとく、
少しずつ、知らず知らずに体内を蝕んでいるのかも知れない。
その場限り、一時しのぎの開放感、爽快感には、根本的解決でもなんでもなく、
さらに弊害も含まれていることも知らずに。
そして、三つ目の理由。
閉鎖する前には、製本化しようと思っているので、その膨大な量との格闘、および、めんどくささ。
・・・
ブログの先の、実態のわからない、有形ではあるが無形の固体、人物たちに、
ほのかな期待、幻影を抱いていた私が、甘かったのだろう。
幻覚である。
私信という扱いで、特定のリアル人だけに向けて書くのもアリかも知れないが、
リアル人にこそ、じつは、このブログを読んでほしくないわけで、
そこには、大きな矛盾が生じている。
多くの人々・・・一見、見た目は同じ。たいして違わない。
悪い印象を与えない服装、日本語も通じる。
でも、自分と、まるまるそっくりな境遇の人は、あまりいないかも?
しかし、その違いなんて、微々たるもの。
自称「生まれも育ちも貧乏のどん底」という人に、子供時代の話を聞いた。
その境遇をマイナスにとらえているようだったので、
「そんなの、貧乏でもなんでもないですよ。
おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさんがいて、
あなたみたいな明るく、たくましい人が育ち、良い家族に恵まれ、これからもまた新しい命が生まれ、
素晴らしいと思います。
今が充実していたら、それでいいじゃありませんか」
そう言ってみたものの・・・将来のことを考えると、人それぞれ、多少違うかも知れない。
将来に不安をまったく抱いていない国民って、いるのだろうか?
健康、お金、家族、友人・・・
不安がある人、ない人。
多少の不安なら、だれにでもあるだろう。
たっぷり不安がある人、ない人。
ほんの少しの接点でも、つながっている人は、自分と共通点のある人だ。
わたしは、老若男女、前向きで、明るくたくましい人が好きである。
このまま、細くデリケートに、いえ、図太く、たくましく、時には粗雑に、わたしは進む予定。
理想と現実、机上論と実践、織り交ぜて。
わたしの人生は、わたしのもの。
自分でデザインしたい。
ブログもあちこち氾濫して、もはやかつての手作り感、ぬくもり、ほのぼの感を感じられなくなったものもある。
いろんなブログにお邪魔する時間も気力もなくなった。
ブログに対する熱の掛けようが変わってきたのかも知れない。
それよりもなによりも、自動的に、人のブログを勝手に無断転載された、
いんちきブログのほうに、コメントが寄せられているという、この事実。
ブログって、なんだろう?と感じる次第だ。
わたしのブログが無断転載されている、いんちきブログが幾つもあるのだが、
その中で、わたしと同じく、無断転載されている被害に遭われた方のブログ記事をたまたま読んだ。
http://emily231.seesaa.net/article/397371561.html
これがまた、すごく面白かった。
残念なことに、そこにコメントしても、いんちきブログだとわかっているし、
ブロガーさんの知らない場所(いんちきブログそのものをご存じないはず)にアップされているものなので、
コメントしても、ブロガーさん自身が、目にすることは絶対にない。
コメントを書きたい欲求を抑える。
そのいんちきブログは、数々ある無断転載いんちきブログの中では、
デザインがとても気に入った。
わたしも、あれと同じデザインにしようかしらん。
河田潤一さんという関西で活躍されているイラストレーターの作品を使ったブログデザイン。
かわいいというか、白場(ブランク)も使われ、へたうま感が気に入った。
正統路線で描かれている作品もあるが、わたしは、子供の落書きみたいな、こういうニュアンスが好き。
大阪のイラストレーター(画家?)さんのようだ。
先月、クロアチアで買ってきた、小さいクロアチア・オリジナル絵画にテイストが似ている。
色使い、へたうま系、ほのぼのした味わいが、脱力感あり、で、優しくふわっと気が抜けていい。
いま、いぶし金色の額縁の中に小さく納まって、うちのトイレに飾ってある。
ま、そのいんちきブログも、デザインが気に入ったわけだが、
中の記事には、自分のプライドを粉々にされてアタマに来たブロガーさんが、
いかに冷静に論理立てて、偏見と主観に立ち向かうか、というプロセスが書かれていた。
ぶちまけたい怒りを、仕分けし、原因を追究、分析し、まとめ、自分の結論に持っていっていた。
初対面のお見合い相手の女性に、自分の職業を同情された、という1シーンから論理展開されたものだった。
「鼻と口にハンカチを当て、背をそむけた」という、彼女の反応に、
思わす笑ってしまうほど(人は、ショックが大きすぎると、逆に笑いたくなる。わたしは、いつもそう)
大きなショックを感じたわけだが、
あとで、よくよく読み返して見ると、
ひょっとして彼女は、突然、くしゃみをしたかったのを抑えただけかも知れない。
考えすぎかも知れない。
その考えすぎで、あれだけの論理展開ができるのは、ある意味素晴らしい。
わたしも、同じ穴のムジナか。
またもや、この記事が、そのいんちきブログに、無断転載されるかも?
コンピューターが自動的に記事を選んでいるらしいので、
温情的な、心情的な、血の通った選択はいっさい関係ないだろうけれど。
偶然の「機械」による機会で、わたしは、イラストレーターを知り、論理人を知り、・・・
そういう偶然もある。
マイナスばかりでもなさそうだ。
(株などのトレードも、生身の人間よりもコンピューターがやったほうが、無難であるように)
笑って楽しむ余裕が、いまのわたしには、ある。
とかなんとか、自分のブログは誰に向かって発信しているのか、いまではすっかりわからなくなっている。
が、それもそれ。
ブログに対する情熱も、変化している。
しかし、ブログから派生する出会いは、非常に、突発性のあるもので、自分の予測をはるかに超え、
けっこう、おもしろかったりする。