蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

いつもミスばっかり

2021-12-29 | 日々のこと
さて。
年末、師走。
年末年始は忙しい。
迎春準備に追われる。
1月が1番嫌いだという人がいた。
いつも12月には嫌だ嫌だとボヤキまくる。
じゃあ、12月の次は13月にして、その翌月を2月にしたらいかがでしょう?と提案すると、スルーされた。
そういう単純な問題ではないようだ。

そもそもわたしは、自他共に認める超天然である。
何かが、ズレている。
良い面もあるが、悪い面もある。
一長一短、表裏一体。
ちなみに、わたし(たち?)天然が一番不快なのは、天然の人。
イラつく。
このアホ!と思ってしまう。
同類なのに。
感性が同じなので、自分にもある自分の欠点を他の天然の人から感じ取ると、その同じ部分が許せない。
自分の天然が許せないということ。
甘えているような部分が見えたら、ぞーっとする。
本人は無自覚なのだろうが、それがワザと甘えているように見え、バッシングの元になった経験がある場合、気をつける。
気づかないまま一生過ごす人もいて、純正天然培養が完成する。

わたしは、天然だとあちこちから言われ、自分でも思いあたるフシがたくさんある。
が、なぜか、ひね曲がっている。
ごくごく最近、あまり親しくない、わたしをよく知らない人に「どんくさい」「天然ボケ」と言われ、少し凹んでいる。
言われたそのままで反論は出来ないが、もっと弱者に優しくしてもよかろうものを。
でもその論理は自己擁護から逆ギレになり、可愛げがない。
ついにわたしも、笑えない自分本位グループに入る日が来たのか。
ひねた天然、、、

自分の欠点や弱点を指摘されると傷つくようになった。
前は、天然力で明るく笑い飛ばし、まったく1mmも1μも気にしなかったのに。
天然に鈍感力が加わって、ハイパワーになり、強力な前向き天然が出来上がっていた矢先、なんだかなあ、、、と、しゅんとする。
自分の天然をマイナスに捉える。
なんでも良いように捉えるわたしの天然力が弱ってきた?
(鈍感力+天然力)<老化
わたしにとって、老化によるボケは屈辱的だが、天然によるボケは許せる。
人から見ると同じようなボケなんだけど。
わたしの中では意識が違う。
緊張を和らげる、空気穴みたいなボケと、深刻なボケ。
違うのだ。
て、なんの意味もないこだわり。

・・・書きながら居眠りしていたら、降りる電車の駅を乗り過ごした。
あーあ!
Uターンしなければならない、労力、時間の無駄!
これは、鈍感力?天然?老化?
いつもの凡ミス!
これがわたし。全く嫌になるーーー。


※写真は落葉した、我が家の紅葉。
なぜか、鮮やかな赤と黄色の葉っぱが、へばりついている、、、。
最後の一葉ならぬ、最後の二葉??





キャッチー

2021-12-28 | 老い
ふるさと納税の御礼方々、その自治体から情報誌が送られてきた。
裏を見ると、介護付き有料老人ホームの広告が大きく載せられていた。
わたしは、このキャッチコピーに釘付け。
ハートを鷲づかみされた。

この豊かな老後の理想!!
「私にとっての豊かな老後とは、子供に迷惑かけずに生きることです。」
さらに、大きな文字で、
「人生を、満開に。」となっている。
唸りました、名コピー。

少し前なら、姥捨山に捨てる気かぁ〜〜!と鬼の形相で叫ばれるところだ。
(はい、わたし、母に叫ばれました)
時代は変わるものだ。
母がシニア施設に入ってもう6年になるか?
そんな日もあったのね、あったのかしらん?
ん?なかったかも?
ぐらい、遠い日に思える。
もちろん、母と同じぐらいの年齢の老親御さんと同居しておられる方々もおられる。
三世代同居だったりする。
たまたま知り合いに、パターンがそっくりの家族構成の人がいる。
娘さんが2人いて、2人とも独身。両親と、おばあちゃんと同居。
おばあちゃんにとって、お嫁さん、または娘さん、頭が下がる。
わたしたち姉妹も母の世話を通いで交代で短期間したが、ネを上げた。
近くに住む、血が繋がらない遠縁にあたる元従業員女性も手助けしてくれたが、母が少し認知症が出てき始めていたせいもあり、お金の管理にどうも信頼がおけず、我々姉妹2人だけで母を見た。
通うにもわたしは片道2時間半かかることもあり、週に何回もはきつかった。
泊まり込むなり、引き取るなり、選択肢はあったが、姉と相談して、まだ、意識がしっかりしているうちに、老人ホームに入ってもらうことにした。
本人は納得したものの、約束の入所日には抵抗した。
ここ(自宅)からの美しい眺望ももうこれで見納めか、、、と、感傷に耽って嫌がるのを、さあ、時間だから、と急かすようにすると、母の口から姥捨山発言が出た。
わたしとしては、無理矢理家から引き離すような、そんな気持ちだった。
かといって、母を引き取れない、引き取らない。
母にとって豊かな老後は、いつまでも自宅で自立して過ごすことであり、皆さん誰しもがそうだろう。
一世代下のわたしでさえ、そう。
できる限り自宅で過ごしたい。

癌など末期の患者さんを最期の日々を病院ではなく自宅で過ごしたいという希望を叶えてくれる、緩和ケアをしてくれるドクターの活動をTVで紹介されていた。
母は身体は病気ではないが、自立生活ができなくなったことは事実だ。
認知症も病気だとすると、老いや病気と向き合いながら、共に生きていかなければならない。
だが、自立できる、できないの、線引きをどこでするかが重要なキーポイントとなる。
自分による判断と、客観的判断は違う。
まだまだ元気なのに、収監されるかのごとく、老人ホームに入れられるとなると、姥捨山発言も出るだろう。
自ら、姥捨山に出向く人は少ないと思う。
しかも、荷物は少なく最小限。それは、優等生。

お高いホームだと、長生きしすぎると、費用を払えなくなる。
想定内期間中にあの世に行かないと、その後、どうする???
皆さん、どうされているのだろう。
入るは良いが、出られないのではなく、入り続けられない。
かなり余裕の資金を用意しなければならない。
人生100年、105歳、108歳まで生きたら、老人ホームの費用が100歳までしか用意してなかったら、、、?
長生きすることを考えて、資金力に見合った所に入らなければならない。
老人ホーム運営会社が倒産することもありえる。
子供に、もろに迷惑をかけることになる。
理想はあくまでも理想で、そう心がけていれば、きっと積み重ねが良い展開を招くかも知れない。
楽観視。

が、生きている間の費用でさえ不安があるのに、意識が曖昧の状態期間の分の費用まで用意できるのか?
なるようになる、と、子供に頼る?
子供がいない人は?

人生を、満開に、、、、どうやって?
ツッコミを入れていては、広告、宣伝にならない。
不安を煽ってはいけない。
しかし、万が一の、生き続ける自分をどのように設計しているのだろう?

わたしの知人で、親御さんを早く亡くした人は、悲しみに暮れておられる。
親御さんが、延々と健康で生きておられる方は素晴らしい。
経費がかかる所で、延々と生きておられる人は?
入所当時、母は費用のことばかりを気にしていた。払えるのかと。
面会に行っても、こんなところで遊んでいてはいけない、と席を何度も立とうとする。
それも認知症の一種なのだが、認知症は現実を理解しないことだとすると、費用が気になるのは認知症ではないのかも知れない。
お金にはシビア。

まあ豊かな老後、、、理想と現実はギャップもいろいろあるが、ただでさえ老化を受け入れるのはハードなのに、今だけでなく、先々のことをくよくよしていては老人鬱になってしまう。
とりあえず、今日一日は楽しく、明日も楽しく、、、少し右肩下りでも、そこそこそれが続けばいい。

と、無理矢理、着地。
今日も無理矢理感、ありあり。
最近、どうも、納得の結論に辿り着けず、スッキリしない。
何期目かの、もやもやのお年頃か。

※ちなみに、写真は、広告のもの。
わたしは、こんなに美しいグレーヘアではありません。



静かではない1日

2021-12-27 | 日々のこと
昨日、長々記事の続きを書きかけて放置していたまま。
こんなうんざり長々に、楽しい嬉しいコメントをいただいた。
ありがとうございます。
(しかし、裕さん、褒めすぎは身に余りすぎて身体に良くないです、、、)


直近長々ブログ記事、朝から書き始め、バスに乗り込んだところで一旦、ストップ。
帰宅途中、電車内や、帰宅してからも、まとめようとするが、まとまらず。
延々、〆られない。
で、翌朝、読み直し、まだちょこちょこ訂正を入れる始末。
よほど気になって自分の中で収まりきっていないのだろう。

かれこれ、40年以上前から知っていて若干交流のあるAさん。
応援してあげてもいいではないか。
わたしの器が小さい。 
が、嫌いな人を応援するには、かなり、無理な流れになる。
彼女が苦境に陥った場合、ざまあみろ、とはさすがに思わないが、とりあえず、平時はマイナスからゼロに近づけていく努力から始めよう。

しかし、嫌いなものは嫌い。
もし、助けを求められるのなら自分が出来る援助をする。
ふん!と蹴っ飛ばしはしない。
助けは求められないとは思うが。

(一昨日から昨日まで)考え続けている。 
なぜ、彼女が嫌いなのだろう。
あれこれ色々考えられる。
好きも嫌いも、何も意味はないかも知れない。
彼女なりの社交に、わたしが付いていけないだけ?
わたしは拒絶はしないが、ウエルカムでもない。
感覚に世代ギャップがあるとも推測できる。
なんといっても、一世代上である姑の知人だから。
やはり、昔の価値観が見え隠れして、ギャップは埋めようもなく理解を超える。
姑が描く息子一家の理想像を押し付けられ、窮屈で悲鳴をあげているのかも知れない。
わたしこそ、姑の理想の嫁ではないし、夫にしてみれば、わたしは理想の妻ではない。
が、、、
なんで、わたしが理想の嫁や妻にならなければいけない?
理想を押し付けられても、わたしは、わたし。
姑はもう天国だから良いが、夫は、ちょっとだけ可哀想。
なので、オカズを一品増やしてサービスする。
(全部食べずに残されると、ふてくされるが)

お互いの要望を汲んで調整、協調して生きていこう。
と、かなり無理矢理、着地しようとしている。
この話題、わたしが飽きた模様。
読んでくださる人はもっともっと飽き飽きヘキヘキされていることだろう。

今朝は7:30から小学生男児孫たちが、押しかけてきている。
今日はわたしは都合悪かったのだが、絶対に何がなんでもダメというわけではなかった。
明日と交代できないか打診したが、長女は最後の出社(あとはリモート在宅ワーク)、娘婿は明日から休み。
わたしは、今日ではなく明日なら良かったのに、残念、、、。

わたしには重要案件スケジュールなど抱えていないのが、バレバレで、足元を見られている。
これはある意味、幸せなことだ。
「(孫受け入れ)困難だったらいいよ」、とは長女には言われたものの、ちゃんとまだ返事してなかったのに、見切り発車で児童たちを送り込まれてしまった。
朝から、わーわー騒いでいる。
彼らは母親から1人100円もらっていて、オヤツを買いに行く。
校区以外は子供だけでは勝手に行ってはいけないと学校で言われているため、信号を渡ると校区外になってしまうコンビニにわたしは着いていかなければならない。
コンビニで1人100円のお菓子を選ぶのがまた大変。
校区内の近所に10円単位の駄菓子を売っているところもあるのだが、どうもコンビニのほうが彼らには魅力的な様子。

昼食、夕食、宿題、、、長く、うるさい1日となりそうだ。

考え、まとまらず

2021-12-25 | お付き合い
長々だらだらの蝶ブログ、お読みいただき、恐縮の至りです。
かと言って改めるかといえば、そうでもなく、サービス精神が欠如、また、だらだら行きます。

さて。
先ほど、バス停で入手したばかりのホットなネタ。
いつもの苦手な方、Aさん、最近はバス停で近寄って来なくなってやれやれと安心していたが、今朝は違った。
半分、にこやか、半分、しかめ面で、お話。

「おかあさん、いい人でしたね」から始まり、ひととおり、関係者の直近動向リサーチ。
そのなかで、彼女が興味があるのは、「娘さんがいる人」。
最も興味がないのは、「毎日、朝早くから近所の山歩き、ウォーキングしている人」

今日のホットニュースは、バス停から見える至近距離の家の奥さん(Bさん)の話。
レモンと蜂蜜の素晴らしい手作りジャムを持ってきてくださったそうだ。
それも、そんじょそこらへんにはない素敵なオリジナル・ラッピング。
さらに特筆すべきは、自作の俳句が、それぞれのジャム瓶に添えられ、さらに加えて特記すべきは、毛筆で書かれたその達筆ぶり、力量たるや、またまた、そんじょそこらの、年賀状に添えられている一言コメント毛筆などとは雲泥の違い、目を見はり唸るほど、素人ばなれしているとか。
はあぁ〜〜。(ため息)

「素晴らしいですね!」とわたしが感嘆の声をあげると、意外にも彼女は顔を歪めた。
あれ?なんで?
わたしはそう思いつつも、
「爪の垢でも飲みたいほどですね」と言わなくてもいいのに追加した。
ちょうどバスも到着して乗り込んだので、その後の反応は確認していない。


彼女の心境は想像できる。
勝手に推測、心理分析すると、、、
今、置かれている自分の状況は、決して良くなく、将来的にもあまり希望が持てない。
特に、健康面では不安がある。(Aさんは80歳ぐらい)
だが、健康的に運動を取り入れて前向きに日々実践しているシニアの話には興味がない。
前の、彼女がまだ健康面で支障をきたしていない頃の関心事は、共通の知り合いが病気かどうかだった。
話題の人物の病気が深刻だと、彼女は明るいトーンになり、元気だと落胆の色が見えた。

また、彼女の家族はこれ以上は増えず、右肩下がり。
賑やかにはならない。
介護(される側)が待っているだけ。
さらに、こころを満たす趣味がない。
今更、何かを始めようなどと、そんな気もない。
毎日、あちこち体の不具合を騙し騙し緩和しているだけ。
完治は不可能。
目指すは緩和。
大きなトラブルがなければ、そっと使っていけたらいいとわたしは思う。
しかしまあ、あんなに華やかな女性だったのに、なんだか明るくない未来を感じてしまう。
せめて、趣味があるとか、未来や希望につながる何かがあるとか、もし無いなら、
現状に感謝するこころを少しでも持てば、幸せを得る第一歩だと思う。
(上から目線で感じ悪い感想)

彼女は、わたしに
「良いご主人でほんとに幸せで良かったですね」
と仰るが、外から見ただけの薄っぺらい感想は、薄ら寒さを感じる。
わたしは一言も夫や家族のことなど話したことはない。
ほら、これがこう、こんなに幸せなんです!!と具体的に内情を明かして説明する必要はないものの、人の幸せを外部がジャッジすることなかれ。
評価していただきたくない。
あまり、軽々しくそういう浮わついたことを口にするのは、わたしは好きではない。
面と向かって悪口を言われたり非難されたり否定されたりするよりはマシだが。
人のことはほっといて、と言いたい。
(言わない、言えない、、、が)

毛筆俳句&素晴らしい手作りジャムのマダム、わたしには輝いて見える。
が、真似はしない。(出来ない)
同じことをしても、わたしは輝かない。苦しいだけ。
人には人の自分の活かし方がある。
「こんな人がこんなことをしています」と活動を紹介するにも、自分がどう思っているか、どう接するかによって、話す時の表情や声の調子が変わってくるように思う。
あのマイナス顔は、羨ましいのか、悔しいのか、負けず嫌いなのか?
人は人。
歳を取ると自分を確立出来ないのかなあ、、、
あんなに自立していた人なのに、、、
美しかった姿も、手入れが行き届かない名庭のように、なんだかやつれて見える。
元が良いだけに、残念だ。

しかしながら、わたしは、嫌いな人とは言え、少し落ちぶれてしまった彼女をもう少し暖かい目で見て受け入れ許容できないのか?
別に意地悪されたわけでもイジメられたわけでもなく、なんらかの被害を受けたわけでもないのに、、、
うーん、、、
やっぱり嫌い。
嫌いなものは、嫌いで、別に好きにならなくてもいいと思う。

あ、思いついた、なぜ嫌いなのか、、、
この人は30年間、ずっとわたしの周りにいる人(わたしの学生時代の美人の友人を含め)を褒め続けて、外側からばかり褒め、わたし自身をただの一回も一言も褒めたことがなかった。(褒めて欲しいとは思わないが)
褒められる要素はないにしても、わたし自身には関心がまるでない。
わたし自体を1ミリも知らない。興味もない。
だからわたし以外の外側の話ばかりをするのだろうけれど。
貶されるよりマシだが、30年間、毒がじわじわ回る感じである。
かわいそうな彼女、わたしにそんなに嫌われる筋合いはないのに。
褒めてばかりで嫌われるなんて、まったく割に合わない。
褒められる一方なのに、褒められても褒められても、褒められれば褒められるほど、寒い風がビューと吹くのは、わたしの性根が悪いのだろうか。
しかし、正解は何かを断定できない案件なのに、自分のせいにすると、こころの病気になりかねない。
べつに、彼女と喧嘩するわけじゃなし、誰かに悪口を言いふらすわけでもなし、だが、蝶ブログにはしょっちゅう登場する。
ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい、Aさん。
誰も悪くない。
世の中、そういうものだ。

ただ、わたしは自分の個人的生活や人の人生をあれこれ言われるのは、大嫌い。(まだ言ってる、、、)
良かれと思って褒めていることでも、これだけ逆効果も珍しい。

この人は姑の長年にわたる知人なので、姑が彼女にあれこれ話していたのだろう。
ひょっとして、こころの奥底の無自覚な深層心理として、わたしは、姑が嫌いなのかも知れない。
そんなこと、嫌いだなんてことは絶対にない、とわたしは思い込んでいる。思いたい。
感謝こそすれ、嫌いだなんて。

またまた亡霊に悩まされることになる。
だが、姑がAさんに話していたのは自分の家族の悪口ではなく、無意識の自慢かも知れない。
それはそれで、結構なことではないか、、、。


それにしてもまあ長い記事になっている。
あり得ないほどの長さ。
書いても書いても書き足りない。
書けば書くほど、わたしが嫌な人間であるということを不特定多数の人にアピールしているようにも感じる。
嫌な自分をなぜわざわざ?

今回はなかなか着地できない。



現実とお花畑

2021-12-24 | 思い出
最近、あまり夢を見ない。
若い頃は、子供時代の夢をよく見ていたように思う。
まだ自分も幼かった頃(推定)、印象に残る夢は、
田舎の実家の庭、子供部屋がある場所の屋外周辺。
窓の下近くで水のせせらぎ、、、(生物の自然現象、排尿)
気持ち良い瞬間に目が覚めると、夢時間と同時進行で、おねしょ。
そういう夢を見ている夢。何回も。
まだ未だに、おねしよ? 
さすがに、今の年齢ではそれはないのだが、将来はあり得る。
いや、時計を逆に回した、幼い頃の逆の時間に近づいてきているのか。
笑えない、、、この夢の話。

しかし、子供部屋があった、田舎の実家の様子は手にとるように瞼に浮かぶ。
子供部屋はリフォームしてから、我々3人きょうだいの部屋を新たに増築?改築?された。
最低一度は、蝶ブログにも書いている。
兄は、小窓がある面に勉強机。(窓の向こうは庭、小さい小さい人工ため池、その向こうには祖父が伏していた部屋があった)
勉強机が置かれた壁の続きにピアノ。
その面の壁は終わり、新しい直角に続く面になり、一面窓。(窓の向こうは庭を挟み、鶏小屋)
またその面が終わり、直角の面(ピアノが背面)、上半分窓。(窓の向こうは、自家栽培畑を見下ろす)
その続いた2辺の上半分窓の下あたりに造り付けの勉強用にカウンターのようなものが設てあった。
一面は、姉、一面はわたし。
カウンターは直角に続けて作られていた。
兄の机の背後に当たる面には、2人掛けソファが真っ白いカバーをかけられ置かれていた。
部屋の続きにはトイレ。
トイレのその続きには和室の縁側の一面に続く。(縁側の前は大正時代の庭=せんだい)。
兄の机がある方には、別の和室や2階への階段上り口に接していた。
その和室は納戸と呼ばれる部屋で、祖母の和ダンスや、階段下にはわたしの人形などオモチャを入れていた。
納戸ではあるが、天井近くから床まである掃き出し窓があった。
ガラス扉を開けて下に降りると、左に子供部屋、右手に少し行くと、小さい小さい人工ため池に進む。
その部屋は現在の仏間になる。

私が中学生頃(半世紀前)に大規模リフォームをして、子供部屋はなくなった。
子供部屋は代わりに何に姿を変えたのだろう?
たぶん中庭の一部になった?

祖父が晩年伏していた部屋は今もそのままで、男女別トイレは、バストイレに改装された。
さらに次のリフォームで、再度浴室は趣向を凝らしたものから明るい機能的なものへと変わった。
台所は、2度リフォームされたが、昔の釜戸、へっついさんなど、薪部屋、味噌部屋、その他は大正時代のまま。
建築当時、地元の学校に赴任してきた新任先生が住む小さな家も別に敷地内に独立して建てられていたが、わたしが知っている頃には二間?あった和室の畳をあげて、収穫したジャガイモを一面に並べてあった。
ジャガイモを取りに行くのは、畑の時もあるし、その家に取りに行くこともある。
その家に住んでいた若いN先生(会ったことがある)が後に結婚して、美しいウエディングドレスの結婚写真を見せてもらったことがある。
美人で溌溂としたキビキビ、スタイリッシュな先生だった。

わたしは家屋の歴史、移り変わりと同時並行して時代を進んできた。
大正時代に建てられた家に、生まれ育ち、やがて家も庭も変遷してその時間の推移と共に大きくなった。
家はリフォームやメンテナンスを重ね、風格を増していった。
だが、巨大化したマツシタPanasonic、中内さんのダイエーのように、維持することが、時代の流れに追いついていかなくなった。
コンパクトなものならエコ時代にマッチする。
が、生活費の比ではない維持費が必要となると、次世代には荷が重く、背負いきれない。

最初は静かなスタート、低空飛行で滑り出し、やがて一気に上昇し上空へ。
空を見上げたり、空から見たり、見下ろしたり。
これは田舎の実家家屋の推移と共に、わたしが学生時代を過ごした父の仕事場地域へと軸足を移し、変わりながら時間は流れた光景。
田舎実家と、市街地仕事場地域は、同時並行し、徐々に重心をスライドしている。
と同じ時期、戦後の高度成長期とも重なり、日本は大きく成長した。
が、、、成長の後に来るものは停滞、衰退。これは世の常。無常。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

美しい物を目の前で手に取り、見て、愛でて、心洗われる空間で過ごせた経験は、決して無駄ではない。
たとえ、消滅しても、こころの中には、はっきり肌感覚で生きている。
自分の手を離れても、美術館や旅先、街中で目に入ったり、その空間に佇む時間は至福のものとなる。
自分にとって最高のもの(自分比)を経験することは、幸せなことだ。
それを感じるのが実際のリアルではなくても、映像や音響であったとしても、自分の中に培われたものは一生ものである。
わたしの幸せのこころの素のところまで、導き誘引してくれる。
(家自体はまだ実在しているが、いずれは消滅するだろう)

これ以上のものを築きあげようという意気込みはない。
今まで体験や脳内でインプットしてきた材料を自分なりの、オリジナルな感性で作り直す、組み立てるのが、今後の楽しみである。
自分のこころの中は、とてつもなく深く広いので、まだまだどう変化させることも出来る。
暖かく、気持ちの良いもので満たしていきたい。


と、ここで予約タイムセットしてあるラジオが鳴り出した。
が、、、ジージーガーガーガー、、、雑音のみ。
あ、またもや孫の誰かがダイヤルをぐるぐる回したようだ。
おそらく、2番目孫(小学1年)だろう。
昨日、上2人小学生男児チームが来たから、(あとから保育所女児チームが来たが)、
その時にイタズラしたのだろう。
もう〜、まったく、、、!!
今日も早くから来て昼食から始まり、うちは(自分の孫のみ)学童保育場となる。
それにしても、キャーキャー走り回る4人に、うちは学童のみならず、ミニ託児所かと。
フローリング床も、べこっと凹んだ傷があちこちに付いているのを発見した。
お気に入りの木製、趣きある椅子も不具合が見つかった。
絶対、犯人は孫!!
ラジオは、なかなかお気に入りのいつものFM曲にチューニングできずに、嫌いな歌手(椎名林檎)の曲が延々流れ続けてイライラ。

せっかく夢のような気分でうっとりブログ遊びをしていたのに、現実に引き戻された。
この現実と夢を行ったり来たりの、脳内架け橋が、自分の蝶ブログである。

脳内遊びにお付き合い、お読みいただき、ありがとうございます。

さてさて、男児ギャング来襲時間を前に、準備までのあと少しの時間、1人遊びに耽ろう。
あ、もう残り時間がない!

※写真は孫の家の宿題。
10.506kg=?gが、どうしても不正解。








十年一日の如く、愚痴

2021-12-22 | 日々のこと
どなたかが引っ張りだしてお読みになった何年も前の過去蝶ブログ、書き出しから全く同じことを書いていて、進展のない面はあくまでも進展がないものだと、あきれた。
家で大音量のTVに悩まされ続けているわたし。
ずーっとずーっとずーっと。
夫と暮らしている限り、この悩みは終わることがない。
上沼恵美子さんもそうだと勝手に外から見て言われているらしいが、夫源病になりかねない。
私は、結構忍耐強いので、病気にはならないけれど。
吐き出す先を確保した蝶ブログに救われている。
が、読まされる方々にとっては、ヘキヘキだろう。
スルーでお願いします。

夫であろうが、誰であろうが、皆んな似たり寄ったりで、歳をやたら重ねると自分のことしか頭にない。
人の話など聞いていない。
興味がない。
理解しようという気もない。
それはわたしもだから、人のことは言えないが。
ああ、あなたも!!と、いつも失望すると同時に、皆同じであることに、へんに諦めに近い納得をする。

歳を取ると、頭の構造が変わるのだろう。
変わった自分にも気づかないことが多いが、人の言動を見て、鏡を見るかのように、たぶん自分もあんなかんじなのだろうと推測する。

耳が聞こえないのではなく、聞かない。
目が見えないのではなく、見ない。
だが、口だけは達者。自分中心。
これは、あとすこし先の将来のわたしでもある。
ひょっとすると、現在進行形でもある。
ああ、恐ろしや。

美しいものを観て、
美しい音楽を聴き、
美味しいものを食べ、
楽しい体験をして、
感動したら、すこしは将来の(嫌な)わたしの訪れが先に延長されるだろうか。

自分ワールドに閉じこもっているだけに過ぎない。
時々、自分ワールドから出てきて外の空気に当たらないと、カチン、コチンに固まってしまうかも知れない。
風通しとバランスが大事。
世の中や外の人とも接しないと、シーラカンスになってしまう。

今日は、なんだか締まらない。
ぬぼーっとした記事となった。
本日の実生活は楽しく充実したのだが。
わたしは、マイナスからのバネ、跳ね上がりが原動力になるようだ。
逆噴射パワー。
プラスはどうもその場で溶け出してしまうかのごとく。
リア充のブログは面白くない。
私生活、幸せいっぱいの女芸人のように。
なぜって、書くわたし本人にノリがない。
どうも自虐テイストが好きみたいだ。



贅沢

2021-12-21 | 暮らし
蝶ブログ。自分の何年も前の過去記事を引っ張り出してどなたかが読んでくださる。
その経緯から過去タイトルを見つけて、自分の記事を読む。
かつては、ドキドキしていた。
どんな変なことを書いているのだろうと、自分のヘマに気づかずアップしているのではないかと。
今は違う。 
安心して読める。
自分の過去記事に自分が励まされる。
過去のしっかりした内容(自分比)に触れ、今の安らかな衰えを感じる。
一時、流行った鈍感力というものだろうか。

それと、、、
お読みになる方がわたしの年齢が上がるのと同時に、歳を重ねる。
わたし同様、若くないと思われる。
なので、ピックアップ記事が上がった年齢に相応しい内容のものになる。
その年齢でこそ感じること。
その2つの側面から、安心して過去記事が読めるのだと思う。

かつての、今より若い年齢の時は、お読みになる方もわたし同様に若く、記事内容もそれなりに若い。
老境が理解出来ない年齢のもの。
痛々しかったり、けしからん内容だったり、今に比べると、若気の至り。
世の中の若者を嗜めるより、自分の若い時は最もわかりやすい「来た道」の実況見本だ。

しかし、過去の自分に、現在の自分が励まされたり、諭されたりするなんて、思いもしなかった。
ブログの想定外の副作用だ。
将来の自分もまた過去の自分から見て拍手されたり、労われたりするのかも知れない。
過去の自分を見ては、こんな元気な時もあったなあ、、、と懐かしむのだろう。

過去のわたしから今のわたしに「頑張ったね!」と。
今のわたしから過去のわたしに「頑張ったでしょ!」と。
将来のわたしから今のわたしに「若いね」と。
今のわたしから将来のわたしに「年とったね」と。


わたしは、人生100年時代だというのに、まだ3分の1も残っているというのに、、、
朝、好きな時間に起きることの贅沢に酔いしれている。
夜、好きな時間に寝ることもまあ、悪くない。
最近は寒くなってきたので、あまり夜更かししない。
ゆっくりお風呂に入って体を温めて寝ると更に幸福感は増すのだが、一人だけお風呂の湯を張るのになぜか抵抗がある。
たんなる気分屋なのだが。
もっともっと寒くなると、自分だけのためであってもお風呂を沸かすだろう。

一日中自由な時間をまったり満喫している。
これは最高に満ち足りた気持ち。
好きな時に好きなものを飲み、食べる。自分だけのために。
自分の好きなTV番組を自由にのびのび、熱心に見る。
しかし365日これだと、絶対に退屈するだろう。
目前に控える年末年始、家族大移動がアタマをよぎる。
タオルはどうしよう?こちらからある程度、持って行こうか?
シーツ、布団はだいたいはあるものの、大丈夫か?
食品はオーダー品の他に、うちから持ち運ぶものや、むこうで買うもの、あれこれ。
調味料も一つ一つ、ケータリングのように持っていかなければ。
正月のお飾り、設は??
・・・・・
アタマの隅っこでチラチラし始めている。
が、テコでも動かず、自由時間を無理矢理満喫しようとしている自分がいる。
追い詰め、切羽詰まらないと動かない。
前倒しで毎日少しずつ準備したら、楽だし、忘れたり失敗もないのに。
でも動かないわたし。
さすがに、じわじわお尻が熱くなりそうな気配。
だが、無理矢理、今日もまったりするぞー!!と、へんに自分にハッパをかけている。
全く優雅でもなんでもない。
宿題をしないで無理無理、苦しそうに遊んでいる小学生孫のようだ。

罪の意識からか、罪滅ぼし、免罪符効果を無意識に求めてか、今朝は夫のシーツや枕カバーを洗濯した。
こんなことで、サボりが紛れるならあまりにも自分の存在意義を軽視しすぎか。
わたしは軽いからそれでいいのだ。
今日はシーツ洗濯したから、100点!
(洗濯機がやってくれる。水だってはるばる運ばなくても、蛇口を捻ると出る)

とは言いつつ、贅沢な自由時間というものは、制約があってこその贅沢だということ、、、小学生孫だってわかる。

幸せになりたい人が読む本

2021-12-20 | 暮らし
子供たちは皆、自立、独立してくれてわたしは、こころから安堵している。
わたしだけが、取り残された、昭和の蜘蛛の巣が張った古城に籠城している。(はい、老嬢ですから)

時代は変わり、令和になっている。
もしわたしが令和生まれなら、生きて行けない。
かつての亡霊たちと共に過去の価値観を引きずっているからこそ、令和になってもどうにか生きている。

どこがどう生きて行けないか。
自立力の無さだろう。
今はまだどうにかやっていけるが。
それまでの蓄積を切り崩して。

自分なりに頑張ればよいが、頑張らない、頑張れない。
それを時代のせいにしようとする姑息で卑怯なわたしがいる。
昔昔大昔でも自立心旺盛な頑張り屋さんは存在する。

女性は女性らしく。 
自立していなくても家庭に入っていれば生きていけた。
今なら「おかあさん、何をしているの?」と厳しい娘たちの声が聞こえてくるようだ。
夫に従っていれば、夫は喜ぶし、何の問題もなく平和で安泰の毎日、、、

なのにもかかわらず、、、夫には従わない、協力もしない、むしろ反逆。
で、その分、自分は何かをしているのか?
(ここで、娘たちの厳しく怖い効果音が響く)
・・・何もしていない。
実践を伴わない理想なんて、持たないほうがスマートである。
自分の身を削らないで差し出す要望なんて、、、わたしには権利はあるのか?

自分の身の丈の分だけ、享受すべき。
だが、身の丈以上に、享受しているし、更にもっともっとと欲張る。
全てを手放して、凍てつく寒空に自身の身を投げ出す気もないくせに、やたら反省したりする風を装い気分だけを味わって、何かしたような気になっている。
実際は何もしていない。

花嫁修行中、家事(家業ではない)手伝いという、今はなきカテゴリー。ポジション。
自分でしたことで現在も活きていることと言えば、、、DNAを継承しただけだ。
(それでも一応、若き当時、道選び、岐路で究極の選択をした結果)
それはこの世でたった一人、わたしだけのDNAを活用している。
(長女も仕事上の選択岐路に立った時に似たようなことを言っていた)
だが、世の中の皆さんのように同時進行して色々仕事を成した、だとかならまだしも、、、、、、

人生100年時代に突入し、まだ実親も存在する中、わたしはお役目終わりでリタイア。
生き甲斐を失う人もいるようだが、それはバリバリなんでも活動する、やる気満々の人の場合だと思う。
わたしは、リタイアをこころの底から喜んでいる。
ただし、今は。
これが、誰にもあてにされず、役割も与えられず、一人ぽつんとしていたら、生きる屍となるかも知れない。

面白いことに、わたしの子供たちの日常シーンには、まだまだ若い彼らであるが、家族メンバーにお互い役割を創設している。
姉妹の夫たちにも、気まずくならないように、シーンシーン毎に役割をプラン、用意されている。
若くても、義理の間柄でも、ポジションや役割は、人間関係や日常生活をスムーズに運ぶには欠かせないもののようだ。
リタイアした人間だけのものではないと感じて、なんだか変に納得している。

さて。
先日、大手書店で立ち読みした著書。
「幸せになりたい人にオススメの、自分を生きる方法」みたいな内容だったが、パラパラ読んでびっくり。
すべて自分が思っていること、していること。
何ひとつ目新しいことは発見できなかった。
わたしは、ある意味、自分では無意識で幸せを手に入れているのかも知れない。




行き先

2021-12-18 | 無題
わたしが一番大事にしているのは、バランスである。
一つの方向にばかり偏らずバランスを取ること。

例えば、承認欲求。
他人に承認して欲しい場合と、自分自身が自分を認める場合、、、うまくバランスを取らないと自分の求めていることを見失うし疲弊する。

著名な心理学者は、ピラミッド型に、肉体を生命として維持させる基本的欲求の上に社会的承認欲求があり、その上に、さらに自己実現欲求、そしてまた上に超自我欲求があるとしている。
最後の超自我に達成するのは2パーセントの人らしい。
わたしは、真ん中を抜かして頂点はあり得ないのか?と疑問に思ったりする。

別の心理学者は、嫌われる勇気が必要だとも言う。
人に認められたいために自分を犠牲にするのは本末転倒かと。

わたしの場合、どうだろう?
人に認められたい承認欲求はあまりない。
自分、自分、自分ばかり。
孤高の変人にならないように、最低限の社会との関わりや常識は意識しているつもりだが。

リクルート的なナビ要素があるサイトでは、モチベーションを上げたり、自分の能力による適性な働き方を見つけたりする。
わたしはもう卒業だが、娘たちがサイトを利用して自己診断したりしていた。
その中で、わたしはとても大事なことを見つけた。
導いてくれるコーチみたいな人が言っていた。
ある程度の基礎能力を満たした上での、適正進路だそうだ。
当たり前だ。
いくら隠れた潜在的能力があっても、職業に活かして昇華されるには、基礎が必要だ。
アイデアばかり湧き出ても、攻撃的だったり、怠惰だったり、協調性が皆無だったりすると仕事にならない。
たとえ独創的なアイデアであっても、アイデアを具体化する試行錯誤が必要である。
玄人にはあり得ない素人発想のアイデアは重宝される。
社内では上の昭和人間から一蹴されるが、一からの発想が大事だとTVの向こうで言っていた。
まあわからないでもない。
とんでもないアイデアを自分なりに工夫できる力が求められていると思う。
「工夫」が大事で、一過性の思いつきなら、その場だけの使い捨てスタッフになってしまう。消耗品。
などなど、、、人生のナビゲートではなく、仕事のナビゲート的サイトなので、そういう色合いを帯びる。

仕事に比べて、人生のナビゲートは360°それぞれ、個々に存在する。
不幸に陥る悲惨な例もあるが。
幸せを感じる指数が世界的に見ると日本は低いらしい。
横並び意識が強いからか?
かつてはその国民性をうまく活用して経済大発展を遂げた。
さて今は、、、。半導体しかり、、、。
産業の衰退は国の政策によるところが大きい。
あとから、失敗してから答え合わせをしても遅いが、まだギリギリ間に合うかも。
国際競争、、、飛ぶ鳥を落としていた時代にはその果報を享受したが、今は重い問題と感じる。
孫たちの習い事も変化してきている。
学歴偏重の時代ではないように思うが、さてさて具体的にはどうしたらよいものか。

未来を生きる人々には重責、大きな課題ではあるが、これまで長く生きてきた人は肩の荷が降りて、はいよかったね、で良いのか。
人の役に立つ前に、人の心配をする前に、自分のことは自分でしてよね、と、神さまでもない、もっと身近なところからの声が聞こえるようだ。
ピラミッド段階を通り越して、上には進めない。

ちなみに写真のお酒、十四代。
幻の銘酒。ものすごく美味しい。

自分の嫌な面

2021-12-17 | ブログ
蝶ブログ記事、今日、1200文字ぐらいを書いたが、非公開にする。
自分のけしからん思いをわざわざ公開する気にならない。
隠す必要はないにしても、聞かれてもいないのに自分から自分が嫌だと思っているマイナス欠点を不特定多数の人に晒しても、誰の得にもならない。
何よりも、自分が一番嫌な気持ちになる。
気が乗らない。
だから、せっかく入力したが、ボツにする。
時間と労力の無駄遣いであるが、きっと何らかのプラスに繋がると信じて、忘れよう。
居眠していたと思えば時間は惜しくない。

いつも、自分の嫌な面や欠点を書き連ねては、冷静に分析して遊んでいるのに、今更、今回はなぜ非公開にしたのだろう?
思い当たるフシはある。
思いや悩みの内容が、わたしの実生活を想像させるリアルなことに繋がる点と、自分の嫌な部分を自分が好きではないこと、多面的に何面も何通りもの見方をすれば、取るに足らぬことかも知れない。
だが、どこから見ても開き直れない嫌な面、改善の余地も、改善する気もない、たとえ本気になっても改善することも出来ない、わりと末期症状のマイナス点。
そんなガンは、表に上げず、静かに地下に眠らせておく。
悪性病の手術はせずに温存、病と共存する。
わたしから悪い面だけ切り離せない。
良い面も悪い面も両方表裏一体でわたしに張り付いている。
霜降り肉みたいなもの。脂を切り離せない。
どちらかを取ると、わたしは存在しなくなる。
そういう自分が嫌な面だと自覚していることなのだが、まだ開き直るまでに至っていない。
目下、修行中。

と、延々、非公開にした理由を書いたが、誰一人として興味ない内容だ。
わたしが、こだわっただけ。
そういう、落ち着いて考えを整理する落書き帳としても蝶ブログを自分のために使っている。
しかし、読んでくださる方がいるのは励みになる。
わたしは救われる。

時間泥棒、ごめんなさい。
何回、書いても今日は同じような路線になる。
またボツも何なので、アップします。

ちなみに、写真、真ん中あたりに大きめの鳥が止まっています。
どこからやって来たのか知らないけれど、木の色柄に混ざって保護色のようでわかりにくいものの、いらっしゃい、こんにちわ。