蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

おおげさ

2013-11-30 | 人生
わたしは、現代美術は、まるでわからない。
まるでわからないということが、非常に自分はニュートラルな凡庸人間であることが自覚できて、
ちょっとがっかりする。
わたしという人間は、とんがったところは、まるでない。
これは、美術のみであらず。
なにごとも。
まるすぎて、これまた、話にならない。

ゲイジュツなんてものは、自分だけで、各人あれこれ思っていればいい。
人は人の思いがあって、ゲイジュツ評論家の言っていることやら、なんやら、
へえ~、と、これまた人間観察。
感性は人それぞれあるので、
それを「○○である」と決め込み解説する専門家は、とてもパラドックスを抱えている。
お偉い先生は確信犯であると思うが、そうでなければ、えらいこと。

・・・

話はころりと変わって・・・

自分が新生児の時に、生まれた産院から取り違えられていたら?
しかも、「王子と乞食」のような、格段の両極端である親、背景だったら?
今より立派な家庭の子供だとわかった場合と、今よりぐんと落ちる家庭の子供だった場合。
さあ、どうする。
本来のところは、落ちる家庭出身なら、今までの人生、お得。
実際は、上の家庭出身なら、今までの人生、ちょっとした人生勉強。楽しい別の修行旅。
どっちにしても、プラス評価。

ということは、わたしは、今まで歩んでいた道のりは、自分にとって幸せ、満足しているということだ。
感謝もしている。

しかし、今後、本当の出生の、落ちるほうに移行させられるとしたら、困ったものだ。
急に、いままで関わりのなかった病人やら借金やらを一気に抱え、えらいことに。
上のほうに移行させられるのは、ウエルカム。喜んでお受けいたします。

つまり、上には行けても、下には下がれない。
人間、厄介なものだ。
幸福満足度を自分でレベルを徐々に上げてしまっている。
しかも、努力して、である。
努力して、贅沢になっているのか。
逆噴射。


そんなことなら、努力せず、向上を目指さないほうがよかったのか?
上を見ながら夢見て努力する、その過程が楽しい幸福な瞬間なのだから、
結果は案外、どうでもいいのかも。
プロセス、目標、夢こそ、大事なのかも。
山があるから登るんだ、である。
馬の目の前にぶらさげるニンジン。
「モチベーション」ともいう。

が、険しい山、登るのは良いけれど、降りるほうがもっと大変。
エネルギーは使い果たしているし、喜びも絶頂感を迎え、あとは、体力、気力がなくなる一方。
なので、下るエネルギーも少しは残しておかねば。
といいつつ、絶頂の喜びは、エネルギーが自然に長い間、下る分も含めてチャージされていることだろう。

誰も下ることまで考えて、登らない。
ひたすら頂上を目指すのみ。
その後、頂上から視界に広がるものをしっかり見下ろして、それから考える。
体力、気力もその頃には、衰え、年もとっている。
うまいぐあいになっている。

いつまでも、しがみついている「老醜」は、わたしの美学には反する。
みっともない姿をさらしたくない。

アンチエイジングなんていって、年寄りを年寄りらしくさせてくれない、扇動もあちこちに見られる。
扇動されて、若くいられると自分で楽しく思えるのなら、それはそれで、けっこうなこと。

・・・

ブログ、昨日更新できなくて、せっかく今日更新できたというのに、この内容。
時間に追われて、やるべきことを抱えているので、焦っている。
いつもこんなことを書いているが、これも、ひとつの人生プロセス?
だとすると、もう少し、時間割を上手に組まなければいけないが、
そんな予定通りには、行かないのが、人生である。

なんて、おおげさなことをいつも書いている・・・。



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おカネ

2013-11-28 | 日々のこと
わたしは、ひじょ~に、生臭い人間なので、おカネの話が大好きだ。
なんでもかんでも、価値を金銭に換算してしまう。
試算、シュミレーション、おおまかな概算、見積もりを脳内で出してしまう。

これこれするには、いくらかかる。
こういう行動なら、いくら。
ああいう状況なら、いくら。

これには、実費も人件費も、プランニング・企画料も含まれている。
サービス価格にしてみたり、お試し価格にしてみたり、
ぼったくり価格にしてみたり。
時には、目玉で、「無料」ということもある。
奉仕の場合も、泣く泣くの場合もある。

この試算は、払う側にもなるし、いただく側にもなる。

・・・

わたしは、骨の髄までケチ根性が蔓延っていて、できれば、省エネしたいわ~などと思ってしまい、
しなくてもいい苦労や、非能率的なことをしてしまう。
おカネで換算すると、労働しているにもかかわらず、マイナスの時もある。
金儲けをしようとして、かえって目の前が見えず、労多くて、無駄が多い。
小心なケチ者にありがちな、陥りやすい、ドつぼである。
「墓穴を掘る」にも似ているが、少し違う。
目先のことに、とらわれ惑わされる、しょせん、器の小さい人間である。

・・・

ドケチのくせに、おカネで買えないことに、やたら価値を見出す。
これは、性質(たち)が悪い。
習い事の免許皆伝やら、そういうものは、鼻で笑う傾向にある。
真剣にやっておられる方に怒られそうだが、
おカネの力がモノ申していることが、ありあり、はっきりわかったりすると、
まるで魅力を感じない。

「下駄を履かせる」というコトバがある。
かさ上げする、とでもいうのか、実力ではない借り物の力で底上げするとでもいうのか。
おカネやコネなどで優遇して、下積み部分をスキップさせて、一歩先を歩かせる。
お高い塾の教育費や、高名な医師にかかるための「袖の下」など、そのうちのひとつ。

しかし、あくまでの「底上げ」であって、最後は、本人の力。
いくらおカネを積んでもダメなものは、ダメ。
最終の頑張りは、本人がしないと、ダメ。
その力がない人は、しょせん、おカネの力でどうにかなるレベルまでしか到達できない。

おカネで情報や知恵を買ったり、時間を買ったり、労力を買ったり、
効率よくショートカットするためにおカネを生かす。
それは、悪くない。
わたしの使い方は、おそらく、その逆だと思う。
人、時間、おカネの使い方の効率が、とても悪い。

ドケチのくせに、へんにこだわりがあるから、
ショートカットとは真逆の方向に逆噴射しているのではないだろうか。

・・・

おカネのレベルで手に入れていることを自慢したりしている人を見ると、恥ずかしくなる。
おカネのあとの、ほんとうの真価が問われる部分にたどり着いていないことが、わかっていない。

・・・

「私は、○○を持っている」
「私は、○○が出来る」
「私は、○○と知り合いだ」
「私は、○○出身だ」
こういうことは、その人の歩んだ人生に大きく関わっている。


「私は、○○が好きだ。嫌いだ」
これは、どうでもいい。ひとそれぞれの好みだ。

「私は、○○をしている」
これ、範囲が大きすぎて、まとめられない。判断できない。
非合法の悪いことかも知れないし、慈善、善意のことかも知れない。
義務でやっていること、自発的にやっていること、
嫌だけれどやっていること、楽しくてやっていること、
劣等感をもっていること、誇りに思っていること、
いろいろだ。


おカネでどうこうできるレベルに達していないことも、いっぱいある。
いくらおカネをつぎ込んでも、どうしようもないこともある。
救いきれない、悲惨な悲劇が、世の中には存在する。
解決できない、社会の問題点、病理がある。

おカネでは、価値観が計れないこともある。
そういう時に、脳内の、自動見積もり器は、ストップする。

プラス方面のことも、マイナス方面のことも。

ストップした見積もり器の代わりに、
何が作動するか?
何を作動させるか?


・・・

おカネは、ひとつの基準であって、絶対ではない。
こころ、人、そういうものが必要だ。
ある程度、おカネで買えるかも知れないが、すべてではない。

・・・

今日は、アタマが、冴えない。
(いつもだけど)
脳内見積もり器、動かさなければいけないこと(めんどくさい実社会での用事、義務)が、
目の前にあり、ぐずぐずしている。

で、ここで、終了します。




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濡れ枯葉

2013-11-27 | 人生
英語教育について。
あんまりたいしたことは、わたしは書けない。
が、とあるブログを読んで、なるほど、と納得した。

べつに、目からウロコガ落ちたわけではなく、いつも自分が感じていることと同じだった。
英語は、目的ではなくて手段であるということ。
どう話すかは、まあ教育、教養のほどが示されるが、何を話すかが大事。

・・・

何十年か前、英会話のグループレッスンを受けていた。
そこで、最初の挨拶の後、[What's new?]と先生が生徒一人一人に聞く。
当時の生徒は、ヒマヒマなご婦人ばかり。
お上品な奥様が口をそろえて、ゴルフに行ったコトやら、遊びに行ったコトやらを話す。

いつも同じ。
まあ、つまらんこと、つまらんこと。
せっかく英語を習っているんだから、ちょっとは表現を変えるとか、内容を変えるとか、
なんなりと変化をつければいいものを。
あれじゃあ、自慢大会。
NEWって、ぜんぜん、NEWでもなんでもない。
今日のNEWS、トレンドとか、そういうのがNEWだと思うが。


奥様方。
小柄で白いAさん。細いBさん。太くて赤い顔のCさん。縮れっ毛で色黒顔のDさん。
わたしは、こころのなかでは、もっと呼びやすい、二文字か、三文字で呼んでいたが、
的確に特徴を捉えたその呼び方は、ここで文字にすると、差別用語になってしまってはいけないので、書かない。

彼女たちは、同じ学校ご出身。
地元では、裕福な商人系のご子弟たちが通う一貫制私学。
わたしは、あのメンバー、顔ぶれで、その学校に対する偏見がしっかり固まった。
脳内で自動的にデータ検索が始まり、偏差値が、ちゃかちゃかちゃかと、はじき出された。

英語だから、表現しにくいので、手っ取り早い、自分が話せる内容にしているとしても、
レッスン後の日本語でのおしゃべりも、似たり寄ったり。
他に考えることは、ないのか?
一見、表面は乾いているようだが、
ぷすぷすと、幾十にも積み重なった、濡れた枯葉に足を突っ込んで歩いているような気になった。


一人だけ、まともな生徒、Eさんがいた。
わたしは、当時、子育てが一段落して、進む道を模索中だった。
彼女に、「自分は、なにをしたいかわからない。夢中になれるものがない」と、こぼした。
「一旦やりたいことを一通りして見つからなくても、
何順も何周も、繰り返しやっていたら、そのうち、だめだと思って捨てていたものの中から見つかるわよ」
と、彼女からのアドバイスを受けた。

他のカルチャーセンターに行ってみた。
眠ったようなお年寄りばかりに見えた。(実際、彼らは講義中、眠っていた)
カルチャーセンターにいた熟年の皆さんは、
それまで一生懸命働いてきて、退職後やっと手に入れた余裕の時間を、好きなことに使っておられた。

自分は、老後の中にいる、と感じた。
それには、早過ぎる。年齢が、若すぎる。

当時、無職の主婦も、そう珍しくなかった。

老後までの、たっぷりある時間を、自分なりに充実させようと、試行錯誤した。
自分のしたいこと(理想、要望)と、できること(現実、要請)の、すり合わせ、調整。
わたしの道は、途中、止まったが、きゅい~んとカーブし、自分の行く道に向かって歩き始めた。

・・・

で、話も、きゅい~んとカーブし、

微分積分、漢文、古典、・・・勉強なんか、実生活に何の役にも立たない。
(方程式は、役に立っていると思うが)
日本を出ないかぎり、英語もそう。できなくても困らない。

ただし、仕事としての英語に関しては、
英語だけ出来ても、英語のプロや、通訳や翻訳家になるのならいざ知らず、
中身(英語以外の専門)がないと厳しい。


社会に出ると、知識だけでなく、知恵が必要になる。
学問だけでは、どうしようもない。
教授などの専門職が、派閥争いに巻き込まれたりすると、専門分野を生かすこととは程遠い流れ、結果となる。


知恵は、単純なところから生まれることがある。
思いを伝えたくて、複雑でも高度でもなんでもない、単純な繰り返しを積み重ねて、成功する場合もある。

・・・

なんの役にも立たないこともある、学校の勉強であるが、勉強の仕方、脳の使い方を経験する。
それは、経験した人と、していない人とでは、ぜんぜん違う。
脳のトレーニングの一種だ。
若いときに集中的に、「やった」と「やらない」とでは、これまた脳の差が大きい。
究極の自分流の方法を考え出す人もいるだろう。

わたしの場合、勉強は、苦手中の苦手で、大嫌いだった。
その不得意中の不得意の分野で、競争させられ、ちょっとやそっとでは克服できない劣等感を植え付けられた。
(単純にいうと、アタマが悪い、ってことなんだけど)

でも、そうやって苦労して挫折して報われなかった思いが、たっぷり蓄積されていて、
あんなに苦労したのに、その経験をこのまま無駄にしては、ばからしい、と、
転んでもタダでは起きない精神が、むくむく湧いてきた。

で、負のエネルギーは、子育て時に強制的に養われたエネルギーと合わさって、増強され、
いつの間にか、正のエネルギーとなって蓄積された。

なので、なんにも考えない、ちゃらちゃらしている生活はしたくない、と、自分のコースを選んだ。


しかし、それは、うんと若い頃。
今では、なんにも考えないのは似たようなものだが、
「ちゃらちゃら」の代わりに、「ゆったり」「のんびり」だ。


・・・

勉強すること、苦手なものに挑戦すること、これは人生経験として大事だと思う。
それを経て、ある程度、年をとると、苦手分野はもう無理と潔くあきらめ、
得意分野を伸ばす方面だけを見て、自分を甘やかす。

で、「のほほ~ん」になりすぎて、もうすぐボケてきそうなのが、非常に深刻に心配である。



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2013-11-26 | 日々のこと
昨日は、たまたま移動時間が、どしゃ降りもどしゃ降り、びっちゃびちゃになった。
ブーツも靴下も、コートも、バッグも、コートのファーも。
水を吸収する化学ダスキンのようなビラビラが内側についている、折りたたみ傘を入れる携帯用袋の内側で拭いたが、
たいして効果なし。
さらにハンカチで拭いたが、ハンカチは絞れるほど、びちゃびしゃ。
雨が止んだあと、風が、びゅんびゅん吹いていたので、風で乾かした。

ガソリンスタンドにある自動洗車マシーンか、人間・食器洗い乾燥機みたいになった。

濡れた足が少し寒かったが、風邪もひかずに、自然乾燥された。

よかった、よかった。


・・・

雨があがった空を見ると、絵画で見るような空だった。
絵画学校で絵を学んだといっても、画家は上手に絵を描くなあと感心した。
というより、わたしは、なんでわざわざ美術館に足を運んで絵を観るのだろう?と不思議な気がした。

まったく、ちんぷんかんぷんなのに、どういうふうに鑑賞すればいいのか、まるでわからないなりに、
何年も絵を観続けた。
ずいぶん、長い間、ちんぷんかんぷんのまま、絵を観ていた。

最近、やっと、なんだか、絵のもつ力のようなものを感じるかも知れないと、思い始めた。
やっと、である。
人生のほんの一瞬に、見た絵の一部が重なるときがある。

何百年も多くの人々を感動させいるものには、力がある。
絵だけに限らない。

そういうことだ。




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ぐるぐるが、大好き

2013-11-25 | 人生
ここのところ、ブログの閲覧数が、するするすると下がって、低迷した位置でキープされている。
上がったところで、キープされたり、みるみるうちに下がったり、
おもしろいものだ。

つい最近まで、過去最高のところでキープされていたが、現在は、今までの平均より低いあたりで止まっている。
ゆり戻し現象というところか。
ちょっと読んでみたけれど、はい、もういいわ、って、かんじだろう。
文章、長いし。


と、その気ままな閲覧数は、心理的に複雑な影響を及ぼし、
わたしのブログを書くモチベーションと、不思議な関係を保っている。
つかず離れずの関係である。

気にはなるが、気にしない。
それでいい。

実態のつかめないものに対する距離感。
ただし、お互いに流動的である。

わたしのイメージでは、宮崎アニメの「ぽにょ」の小さな魚の子どもたち、みたいなかんじ。
小さい魚が群れになって動いている。
小さいぽにょたちは、チマチマ動くか動かないぐらいだが、全体では、ぐわーんと、動いているところが、ミソ。

・・・

得たいの知れない大きな数のものより、しっかりしたもの、
それは、たった一つでもいい。
幻想、想像と現実が一致するピンポイント。
無数のピンポイントが存在する。
そのピンポイント自体が、お互いに動いて進んでいる。
ぼやっとしているが、鮮明でもあり、確実でも不確実でもある。
大きな海のなかで、ぽにょみたいに泳いで、
とてつもなく広い広いなかから、「偶然」と「必然」がドッキングしたようなものを見つける。

大きな時間の流れを共有できるところが、とても味わい深い。

・・・

ハナシが、ころっと変って・・・

「死の旬」というものがある。
ボケずに、突然あっけなく亡くなると、美しい思い出がキープされる。
が、寿命が長くなると、身体も脳も老化しながらも生きていく。
身体と脳、こころのバランスを保つのは、非常に難しい。
自分でコントロールできないから、ややこしい。


この世に未練があるとすると、なんだろう?
幸せは、完結編などない。
老衰で安らかに、誰にも迷惑をかけず、ある日、ぽっくり亡くなること?
そんなうまい具合に、身体と脳、こころの終焉の時期が、ぴったり一致するなんてことは、めったにない。
で、未練が残る。

人生のハッピーエンドはいつか?
シンデレラ・ストーリーでは、「結婚した時」。
王子様と結婚したら、めでたし、めでたし。
それって、人生の始まりだと思うのだが。
逆説的なお話なのだろう。
後は各自、想像して楽しんでください、ってところか。


子どもが生まれた時が、人生、最高に幸せ。
寝返りした、這った、立った、よちよち歩き、人生最高の可愛い時。
やがて大きくなって、いろんな問題が発生してくる。
では、ハッピーエンドではなく、不幸の始まりということになるのか?
何事も、ハッピーの絶頂は、下り坂への助走か?
ハッピーエンドというのは、ハッピーがエンドすることか?
「終わり」の始まり?


今が一番、若い。
なるほど、今のこの一瞬、・・・そう入力してから、もう30秒近く経ってしまっている。
時間は待ってくれない。
時が止まらず、動き続ける限り、刻一刻、年を取る。

ハッピーエンドの期限の延長に延長を重ね、ずるずるとエンドを延ばしていく。
伸びきったゴムのようになって、ついにエンドになる?
息も絶え絶え、これって、ハッピーなのか?
延長期間は、タクシーのメーターが上がっていくように、気になって落ち着いてハッピーを堪能できないのでは?

まだまだいける。これは、エンドではない。
そうやって幸せであり続けることは、すなわち、生に対する執着か。
では、幸せでない人は、生に執着はないのか。
幸せの概念が、ひとそれぞれ違う。価値観の相違。
なので、どんな人も、とりあえずは、幸せであり続けたいと願う。
毎日、ご飯を食べられる幸せ、空が青い幸せ、なんでも当てはめてみると、幸せである。
空が暗い日は、日を待てば、いずれ明るい空になる。
が、夜になれば、暗くなる。しかし、朝になれは、明るくなる。

そうやって、毎日を塗りつぶしていく?
本当のエンドが来る瞬間まで。

・・・

自覚があるか、ないか。
自覚しているからといって、幸せとは言えない。
自覚してないほうが、幸せの場合もある。
なにが、幸せなのか、わからない。
ひとそれぞれ、違うから。
だが、多くの人が幸せと感じること、不幸と感じること、共通の価値観はある。

自分の置かれている立場、境遇の中で、幸せを見つける。
どこの誰が見ても、世界中の人が見ても不幸と感じる境遇であった場合、どうやって幸せを見つける?
それは、宗教かも知れない。

が、宗教も、絶大な力を持つと、権威主義やらなんやらが蔓延(はびこ)って、
権威を維持するために、教義や経典の内容まで書き換える。
なので、すべてを信用することは、できない。
新興宗教は、もっと信用できない。

とすると、自分を信用するしかない?
自分を信用しても、自然の猛威やら、地球の異変やら、自分を含め、人間の力でどうしもようないことがある。
じゃあ、どうする?
宗教の力を借りる?

宗教は、信用できない(堂々巡り)

時間ばかりを無駄に使っている。
入力し始めて、何分も何十分も時間が経ち、その分、年を取った。

なにやってんだ、わたし?




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から雑巾

2013-11-23 | 思い出
今朝の気分は、から雑巾。
絞っても、なにも出てこない。

・・・

パリの日々・・・。


ある人に聞かれた。

「一人で行ったの?」
「はい」
「怖くなかった?」
「怖かったです」

これは、ほんとうの話。

ひとりっきりなので、室内で、なにかがあったら、どうしよう・・・、と、お気楽な反面、
実は恐怖に震えていた。
アパルトマンのお隣の部屋をノックしても、おそらく隣人は出てきてくれないだろうし、言葉も通じない。
これを書いていて思ったが、初日に「よろしく」と、挨拶に行っておいたほうが良さそうだ。

日本語サービス付きの海外旅行保険には入っているものの、病気や怪我の緊急サポート。
それ以外の、例えば、台風や、災害や、強盗やら、そんなことは、対応してくれるのか?
一度も電話したことがないので、その保険、通じるのかどうかもわからない。
今度、試しにシュミレーションとして、やってみておこう。

たとえば、ケータイが壊れたとしよう。
保険屋さんに電話もかけられない。いくら日本語が通じても、電話自体がつながらない。
iPadが壊れたとしよう。
誰とも、なんの連絡も取れない。
四方八方ふさがれた状態。
これは、今、思えば、非常に恐ろしいことである。


アパルトマンを紹介してくれた人が、フランス国内で使えるケータイを貸してくれた。
数回、知らない人からかかってきたが、わたしは持ち主でないことがわかってからは、かかってこなくなった。
わたしも、何度か、試しにかけてみたが、早口の、録音されたフランス語が、機械的に流れて切れる。

あとで、部屋を引き払うときに、ケータイを貸してくれた人に、つながらない状況を説明し、操作方法を聞いてみたら・・・
「あら。チャージできてないですね。お金が入ってない。通じないですね」
と涼しい顔。
わたしは、そのケータイを万が一のために、ずっと持ち歩いていたのに。
死んでいるケータイを頼りにしていたのか。
つながらないケータイを貸す人も貸す人だ。
日本人でも、フランスに長く住むと、フランス流になってしまうようだ。

ライフラインは、通信。
これが通じなくなったら、わたしは、どうしようもない。
部屋の外、屋外の街に出て行って、わめいて、おまわりさんにでも見つけられ、どこかに収容される?
それで、どうにか生命の維持ができる。

よくよく考えれば、
まわりは見知らぬ人ばかり、コトバも通じない、おそろしい日々を過ごしていたわけである。
なにかあっても、通信できなければ、
ほんの少しでも知っている人に、助けを求めようにも、まったくどうしようもない。

最悪の場合は、恥をかなぐり捨て、見知らぬ日本人観光客に泣きすがるという手もある。
人間、土壇場になれば、なんだってできる。
が、信用してもらえるか・・・?
そういう手口の詐欺と思われるかも知れない。
関わらないように、さっさと逃げられるかも知れない。
JCBなどの営業窓口に駆け込むか。
冷静に考えると、いろいろ方法はある・・・。


来年も、行けるかなあ・・・と、考えると、ちょっと固まってしまう。
自分の健康管理や、家族などの周辺事情が何事もない状態を保つのは、けっこう難しい。
なので、行けるときは、えいやっと、行く。
渡った後から後から、どんどん壊れていく橋を、後ろを振り返らずに、全力で走って渡る。
とりあえず、向こう岸に着くまで。
あれこれ考えていたら、なにもできない。
向こう岸に着いてから、またゆっくり問題点を改善したり、試行錯誤、フォローする。


といいつつ、パリでは、日々、ぼーーっとしていただけなのだが。


「また行けたらいいな」、
ではなく、ぜひ、行けるよう、努力しないと、行けない。


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辛酸なめ

2013-11-22 | 日々のこと
毎朝、特定のブログを見にいき、一方的に会話する。
双方で会話しない、この会話方法は、じつに軽妙でおもしろい。
ちびちび、ちょこちょこ、その日のブログに書かれていることにコメントするわけではない。
いらないのだ、コメントは。
で、十分、会話が成り立っている、と、自分で感じるところが、非常に味わい深い。

・・・

今日は助走ナシで、書きたいことがある。
しかも、ふたつも。
両方、時間内に書けるかなあ?

・・・

まずは、先日、自分のお肉のせいで、お肉が食べられなかった結婚式。
その絢爛豪華の素晴らしい式典に出席し、お肉は実感したものの、わたしは、若い二人の前途を祝った。

が・・・
後日談。
近隣・親戚たちからの声。

どんなに良いところに嫁に行くのかと思いきや、あのようなところへ・・・。
別嬪さん(花嫁)で、いつもあんなに鼻が高かったのに、蓋を開ければ、なあああんだ・・・。

そういう声が、あちこちから聞こえているらしい。
わたしは、耳を疑った。

若い美男美女、大勢の人々に列席、祝福されての一流ホテルでの豪華な結婚式。
喜びいっぱいのご両家。
胸にせまる、花嫁からご両親への手紙。
(わたし、新郎新婦、初対面なのに、ぽろぽろ涙が流れました)

わ~、よかったね~。
と、単純に、そのお似合いの美男美女カップルにうっとりしていた。

でも、皆さんは、違っていた。
へ~、そうなんだ・・・。
若い幸せそうな二人。素晴らしいお式。言うことないじゃない。
また、なんで?


結婚相手は、見かけで選んだらだめだそうな。
え? そうなの?
見かけって、大事じゃないですか。

いつもわたしは、見かけだけに惑わされるな、見かけの下の真実を見ろ、とブログでさんざん言っている。
が、結婚は別。
そんな真実を煮詰めたら、結婚できるものも、できなくなる。
結婚するときは、両目をつぶるべき。えいやっ。どっぼ~ん、ざっぶ~ん。
そして、勢いで結婚して、後から、反省して、二人で、試行錯誤して、築きあげていけばいい。
でないと、結婚できません。

哀しいかな、わたしは、非常に冷静な目を持っていたので、結婚に関しては、両目をかっと見開いていた。
勢いで結婚なんてありえなかった。
だから、せめて若いお二人は、冷静さを失うぐらい、見かけにだまされて結婚してほしいのだ。
(言い方が悪すぎるが)
くらくらと、めまいがするぐらい相手を気に入って、結婚してほしいのだ。

しかも、親が大反対とかでもなんでもなく、
あんなに大勢のお客さんを動員できるほどの盛大な式を挙げられるような環境。
言うことないと思うのだ。

しかし・・・
あんな風に思われているとは・・・。


まあ、よくあることなのかも知れない。

夫の見かけは悪いが、自分の結婚は幸せだと言い張る人も、その結婚をよく言わない人の中にはいて、
そんなこと何も誰も聞いていないのに、なんだか寂しくなった。
良いじゃない、一時の幸せに浸っていられる間は、喜びにみちみちあふれていれば。
わたしは、人の幸せに、ケチをつける気にはなれない。

よほど、自分の結婚は、思い通りにならなかったので、腹立たしく、惨めになり、不快を解消しようとして、
自分が、なしえなかった夢を実行している人を否定し、自分の道を肯定、自分で納得しとようとしている人ばかりなのだと感じた。


へ~んなの。

皆さん、幸せ・・・と、言いつつ、じつは、不幸なのか、とも思った。

わたしたちは、夫もブサイク。わたしもブサイク。
でも、美男美女カップルを見ても、ひがみはしない。
土壌が違うし、活躍舞台がまったく違う。
専門分野、得意分野がまるで違う。
だから、美しいものは素直に美しいと評価する。

強がりというわけではない。
美男美女であっても、醜男醜女であっても、結婚の喜び、ピーク時の絶頂、またその後の高波、低波、アップダウン、
良いことも悪いこともあるってことは、皆おなじ。
なので、頑張って欲しいとエールを送る気持ちもある。
喜べる間は十分喜び、思いっきり幸せをかみしめて、こころにプールしておくのは良いことだと思う。

なので、わたしは、皆さんが口々におっしゃるようなことは、客観的事実としてはそうかも知れないが、
それはそれであって、べつに、どおってことない。
批判するには値しない。
「それが、どうしたの?」
と、黒いキラキラ光る、まんまるいお目目で問う少女、になっている。


たんに、お婿さんが、わたし好みの醤油顔だった、ということが大きいのかも?
観客、ギャラリーは、いつも気楽だ。


・・・

さて、二つ目。
時間がなくなってきているので、さらりと。

「男はいいな」、という、ある感想に対して。
しかし、「女はいいな」、と、そうも思える。
私立一貫女子校に通うと、いささか教育に偏りがあると感じる。
そのあたり、辛酸なめ子女史とか、すごく面白い。

私立女子一貫校も、学校によっては、今は、大学は、他の学校に進学する生徒が増えている。
そのまま進む場合は、よほど、自分の学校が、他にはない独自のカリキュラムを取り揃え、
自分が追求したい学問と、ぴたり一致、師と仰ぎたい教授陣の研究も魅力いっぱい、
大好きで誇りに思え、他の大学と比較しても揺ぎ無い信念で選んだ場合なんだろう。
他校に進学するには、学力が足りない場合もある。


男性と女性は協力しないとね。
どちらが上でも下でもなく。

ジェンダーで、無理やり男にさせられて、ドロップアウトする男性もいる。
強い男になれ、男なんだろ、なんて、社会の枠に当てはめられて、ねじ込まれて、悲鳴をあげる。
女性も、そうだけれど。
自分が女だからといって、女性ばかりに味方するのも、片手落ち。
女性も男性も、共に、たいへんだ。
と、最近、そう思うようになってきた。
前は、不公平だ~と、訴えていたが、男性は男性で大変だと思えるようになってきた。

昨日の敵は、今日の同士。
年、取った、ということだ。


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寝言

2013-11-20 | 日々のこと
ぐっと寒くなってきた。
着ても着ても寒いので、風邪でもひいたのか・・・と思いきや、
やっぱり気温のせい。
なので、厚着をして、ぶくぶくになっている。

秋は、さびしい。
人生の持ち時間が、少しずつ少しずつ減っているのを感じる。
逆に、今を精一杯、生きなければ・・・と、じつに大げさに意気込んでみる。

・・・

家族や親しい人に、お年寄りがいる人と、いない人では全然、感性が違うだろう。
同世代の若い人としか接しないと、
年がいくということ、老人になるということ、それが、まったく現実としてわからないだろう。

若い人だけの家族、お年寄りだけの家族。
核家族は、長所もあるが、短所もある。
お互いに良い面だけを見る。
悪い面は、見えない。つまり、知らない、ということになる。
それは、よかったね、では済まされない。
「悪い面を知らない」イコール「悪い面は無い」ということではないのだから。
いずれ、どこかで帳尻を合わせる時がくる。

マイナス面は、一度にどっと、よりも、少しずつローンで、のほうがマシか?
プラス面は、いつもいつも、あふれるごとく、、、でありたいものだが。(理想)

・・・

昔と違い、今は、・・・
「死」も、病院で。
看取るという感覚もないだろう。
人が死ぬというイメージも、小説か、ドラマであるかのような、肌感覚から遠いものだろう。

自分の排泄物でさえ、洋式トイレ(しかも、ウォッシュレット付き)で排泄後、見向きもせず流してしまえば、
まるで、そんなものは、なかったかのよう。
自分の汚物の実態も、ぴんと来ず、つかめない。

でも、パソコンやケータイでは、
エログロっぽいゲーム、ありえない、起こりえないような、えげつない世界が繰り広げられる。

現実の汚いものや、大変なもの、哀しいもの、悲惨なもの、辛いものからは、目をそむけ、
仮想の世界で、わざとデフォルメして楽しむ人々?
ゲーム世代との、年齢ギャップか?
ついていけない。

縁側でお茶、お年寄りの仲間入り。

・・・

思い出を作るのは、とてもいい。
シーンひとつひとつを思い出すと、こころが温まる。
温度、湿度、色、音、体感、屋外、室内、都会、田舎、自然、歴史・・・
人のぬくもりが一番、こころに残る。
こころは、すべての事がらの「核」になる。

美しい自然の風景には、こころ洗われる。
無機質なもの、たとえば、コンクリート、
そういうものにも、自分のこころが抜き出され、審判を仰がれているような気になる。
どちらにしても、自問自答・・・

・・・

秋から冬へ。
あっという間に年末年始。
優雅な寝言を言っている暇はない。


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・・・




どうぞ、お好きに

2013-11-19 | 暮らし
わたしは、経済を軸に、ものを考える。
だが、精神、こころがそこにないと、すべて成り立たず、崩壊する。
ヒトの動かないもの、こころのないものは、
ソフトのない、ハコモノだけが残り、無駄に終わり、ハコモノはやがて取り壊される。

ヒトが先で、ニーズが沸き起こり、経済を牽引する場合もある。

愛情、助け合い、暖かい人間性・・・そういうものは、不可欠である。
だが、経済も不可欠である。

・・・

専業主婦に関しても、専業主夫に関しても、兼業主婦に関しても、兼業主夫に関しても、
経済抜きでは、語れない。
適正があろうがなかろうが、働かなければならない事情があれば、働かなければいけない。
理想が言えるのは、余裕があるのだと感じる。
理想は、現実の上に立たなければならないと考える。
現実が、あってこそ。

その余裕こそが、じつは、要。
余裕のベースは、ヒトの場合もあるし、経済である場合もある。
家族のメンバーが、それぞれに欠損している部分を補いあって、協力すればよい。
(キレイごとを言い放つだけにして、あとは言及しないで、ほっておく。
各人、どうぞ、ご自分のスタンスで)

・・・

ヒトも経済も、その感じ方、捉え方は、ひとそれぞれである。

・・・

「ひとそれぞれである」と〆る場合は、
はっきりした結論が出ない時と、自分の意見を述べることを放棄した時。

要するに、〆になっていない。



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専業主夫

2013-11-18 | 暮らし
専業主夫を夫にしている女性は、経済力がある。(一般論です)
理想では夫に主夫になってほしいとしても、女性一人で家族全員を養うのは、たいへんだ。
夫、子供だけではなく、夫の親や、自分の親も、受け皿要員として、経済的バックアップも、ある程度必要だ。
それを承知で、専業主夫の夫をぜひ持ちたいと希望している女性がいるとすると、頭が下がる。

いまどき、専業主婦を抱えることができる夫は、素晴らしい。
娘の友人たちを見ると、専業主婦はいない。
なぜかというと、夫一人の収入では、自分たちがプランする生活ができないからだ。

育児休暇のあと、復職する。

自分だけが収入を得る、一家の大黒柱となるのは、きつい。
だが、それを希望する若い女性もおられるようで(ブログで読んだだけですが)、
若いながらに、よほどの経済力と将来性がおありなのだと想像する。

ちなみに、うちの娘には、同僚の男性と同じ額の給料をもらっているが、専業主夫&子供を養える余裕はない。
なかには、同じ給料で、専業主婦&子供を一人で抱えている同僚もいて、「すごい!!」と娘は驚愕している。

・・・

育児休暇中に、復職しないで、専業主婦にとどまることを決意した同僚もいる。
ご主人の、毎日、深夜まで仕事という勤務体制では、育児協力は不可能。
育児休暇の間は奥さんが育児に専念できるが、二人とも働いたら、仕事と育児の両立は無理だと、感じたからだ。
夫が家にとどまり、奥さんが復職する手もあるが、その同僚は、夫の仕事続行を選んだ。
いずれ、子供の手が離れたら、奥さんも、なんらかのカタチで仕事に復帰されるのではないかと思う。

・・・

一人の肩に、全家計がどどんと圧し掛かるのは、リスキーだ。
リスク分散していたほうが、よいと思う。
経済の担い手が二人いると、どちらかがピンチの時に負荷が軽減される。

・・・

プランする生活は、各家庭ごとに違う。
何かの費用を特に捻出したくて、働く場合、その「何か」、は、家庭によって様々。

水道・電気ガス光熱費は、よほど、4畳半に3人でシェアとか、何千坪もあるお城のような大邸宅でもない限り、
そんなに変らないと思われる。
食費は、外食が多いとか、収入のゆとりが、ある、なしで、多少、多い少ないはあるだろうが、
一ヶ月1000円、一ヶ月100万円なんてことはないはずだ。
家庭菜園をされ、自給自足的な生活をしておられると、そうそう膨大な食費にはならないだろう。
(ただし、若い世代では、家庭菜園をする余裕はない)

衣料費や趣味分野などは、多少、好みが反映されるだろう。
交際費も、どういうスタンスかによって多少違ってくるだろう。
教育費、レジャー費が、長い時間の間に積み重なると、大きく違ってくる、境目のように思う。
(あ、家を買ったり、住宅費も大きい)

つまり、究極のところ、
遊ぶのか、教育にかけるのか。
余裕があれば、両方にかけられる。
余裕がない場合、どちらかを少しずつ削るか、あるいは、どちらか一方を切るか。

住宅ローンに教育費、重くのしかかると、なかなか遊びにまわすお金がない。
1円でも安い目玉商品を求めて、自転車に乗ってスーパーまわり。
遊んでいるヒマはない。
あるいは、時間の切り売りで、複数の職場を掛け持ち、働く人もいる。

教育費にかけられなくても、その働く母親の姿が生きた見本、教育となる場合もある。

・・・

だが、教育費がかかることも事実である。
一生懸命かあちゃんの姿だけ見ていれば、
成績が上がるわけではなく、優秀とされる学校に進学できるわけではない。

進学塾や進学校に行かずして、優秀な進路に乗るのは、かなり大変である。
受験はある程度、テクニックでカバーできるところがある。
テクニックをお金で買うのだ。
そのお金がない分、自分で試行錯誤となると、やる気と根性と要領とコツが必要。
ノウハウを自分で見つけてテクニックを身につける・・・
要領の悪い、どんくさい、呑み込みの遅い、わたしには、めまいがしそうな、卒倒しそうな作業である。

親が教えるといっても、限度がある。
東大を目指す幼児ならいざ知らず、学校に上がった頃からは、目を白黒、まして高校3年生にどうやって教える?
わたしが教えてもらいたいところだが、
教えてもらったところで、まるで理解できないのは、火を見るより明らか。

・・・

親自身が担当する家庭教師の部は、挫折。ぽきんと折れる。
これは、わたしの場合。
が、優秀な親御さん、お祖父さんお祖母さんもおられ、熱心に教えておられる。
頭が下がる。

・・・

教育は、難しい。
昨今、日本の学力的にみた競争力は低下している。
ゆとり教育の弊害などとも言われている。
が、進学競争の激しい国では、
落ちこぼれたり、挫折したりして、絶望のあまり、若い命を絶つ現象が多く見られる。


・・・

「幼児教育を家庭でしましょう」と謳うところがあり、教育熱心なママを募っている。
教材は、市販の既製品。
その説明会のようなものがある。
そこで説明する先輩ママは、ご自分の体験をもとに、
いかに自分がやってきたことが、効を成し、うまくいったかを力説する。

が、その成功体験談を聞いた、あるママ。
「なあんだ、あんな程度のことが成功なの?
その成功後、ごく普通の人生を歩んでいるようだし。
専門家にお任せするのではなく、手間のかかる自分の手で、
しかも自宅で、どんなメソッド(教育法)があるのかと期待したけれど、
肝心の教育ツールは、市販の既製品!!
これって、がっかり、興ざめだったわ」

と、かなり手厳しい感想。

ご近所や、親しいママ友の集まり、サークルで、ちょこっと話す程度ならまだしも、
成功例というのは、各人、捉えようが違うわけで、
よほどの万人が納得するような、特別の卓越した成功例でもない限り、
ビジネスには、つながらないようだ。



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