蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

GW行脚

2012-04-29 | 

さて、GWスタート。
イタリアに足を伸ばしてまいります。
余裕があれば、現地から報告しますが、無理かも・・・です。(おそらく)
現地でレポートって、本人は必死の割りに、後で読んでみると、全然、おもしろくなかったし。

では。

 


人生の後半

2012-04-28 | 人生

あるブログをやっと卒業した。
お互い、見にいくことも、ないだろう。

リアル人を介しての、実在人のブログ。

かつて、行き来も少しあったが、もう、わたしのブログには見に来られてはいないだろうと確信して、書いている。
もし、偶然、見に来られていたら、それもご縁。

わたしは、自分では認めたくないのだが、潜在意識として、そのブロガーさんの生活が羨ましい??
そう自己分析する。
そのブロガーさん自身のことを羨ましがっているのではなく、「生活」が、羨ましいのだと思う。

わたしも羨ましがられている場合だって、ありえる。
決して「羨ましい」という表現ではなかったが、批判を込めて、「恵まれている」と、面と向かって言われたことがある。
ついでに、「ワガママだ」とも言われた。
そのとおり、ご無理ごもっとも。


気になる人(悪い意味で)への対処法を考えてみた。。。。

パターン1
羨ましい→妬ましい→憎たらしい→キライ→離れる→消去→平穏な心境

パターン2
どうかと思う→許せない→批判を受けるべき→でも、のうのうとしている、または確信犯→へんに無邪気
→ムカつく→憎たらしい→キライ→離れる→消去→平穏な心境


ハナシは、微妙にそれるが、
わたしは、専業主婦の人とは、友人、知人として、あまりお付き合いがない。
そして、本人の資質以外の特徴(背景)については、あまり関心がない。

一生懸命、家事をカンペキにこなして、子育てもカンペキ、夫との関係も、親戚とのお付き合いもカンペキ・・・
だったとしても、申し訳ないけれど、あんまり興味ない。
もちろん、否定する気は全くなく、そんなに素晴らしい方には、アタマが下がるのみ。確実に尊敬する。

わたしは、主婦としては最低。落第、一歩手前。仕事は、もっとデキが悪い。
人間として、ちょっとレベルが低い。

ワガママ勝手の、し放題。
いまに、しっぺ返しが来るはず。でないと、世の中、不公平。
おそらく、そういう目で見ている人もいるだろう。

ほんとうのところは、どう見られているかなんて、人のこころの中など、わからない。
想像しているのは、自分なので、自分のこころが、そう思っているだけかも。

かつて、母が、こう言っていた。
「世間は、あれこれ人のことを言っても、実際には、なにもしてくれない」
なるほど・・・
世間体、世間の目に対する母の考え。
人の意見に惑わされるな、自分自身をしっかり持て、ってことか。
ただし、自己責任のもとで。

こんなにワガママにしていると、実家の義姉さんが、仮に、
(もし、義姉さんが、このブログをご覧になっていたら、とっても、ややこしいことになっては困るので、
あくまでも、「仮に」ですよ、おねえさん、仮定法です)

わたしと同じように、ワガママ好き放題にしていても、母もわたしも、文句が言えない。
こういうところで、自分のやっていることの「しっぺ返し」は、違うカタチでやってくる。
姉、義姉、わたしは、ほとんど年が同じ。
三人で、旧来の価値観から、試行錯誤し、現代に応じた、アレンジ価値観を築こうとしているのかも。


義母(そして、義母と一卵性双生児と言われていた義姉も、らしい)が、かつて、よく言っていた。
「自分が、こう思う」から、「こうする」のではなく、
「人に、こう思われる」から、「こう、せざるをえない」

選択肢がある中から、能動的に自主的に選ぶのではなく、
選択肢があるにもかかわらず、嫌々渋々、自分がしたくないほうを無理やり理性的に選ぶ。
そして、うまくいかないときは、自己犠牲の代償を求め、責任を押し付ける。

批判を恐れるあまり、やりたいことをせず、いつも人を非難する側に回る。
確かに非難はされなくていいかも知れないが、そんな人生、おもしろい?

あまり極端なことをすると、本人も回りも疲れる。
そこそこ、周囲との妥協線を見出し、調整し、それなりの自己実現に向けて努力するのは、
残り少ない自分の人生、それぐらい、してもいいのでは?

人生の後半、だらだら下るか、それとも、違う意味で、上りつめるか。
自分次第。

 

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電子トモダチ

2012-04-27 | ブログ

さて、早起き第三弾。
家事を前倒しにして・・・さあ、ブログタイム突入だっ!!

いつもの女性研究ブログを読む。
読んで、その感想は・・・。
わたしは、こんなブログを読むために早起きしたのか?
いやはや、隠れファンではあるが、価値観、志向、嗜好の違いは、はなはだしく、
でも、さらっと、「あ、そうですか」、と次(のブログ)に進む。

しかし、他のお気に入り米ブログもう昨夜チェックしてしまったので、もう、読むブログがなくなった。
なんと早い、終了時間。
わたしは、こういうふうに、ひとさまのブログを読んで、それを助走タイムとしている。
読んでいるうちに、書きたいことが、見つかるかもしれない・・・と。

今朝は、女性研究ブログのみ、で、しかたなく、あとは、自分のパリブログ。
昨日、超久しぶりに更新したので、様子を見に行った。
なんの変哲もなく・・・なんの変わりもなく・・・
ひとり、足跡がついていたが、何百人も、インターネット上のトモダチのいる人で、
相互にトモダチを承認しあっていた。
相手から申し込まれて承認した人は300人近くいて、自分が申し込んで承認された人は5人だった。

ブログを見てみたが、100人以上の読者登録をされている割には、まったくつまらないブログだった。
内容が、ほとんどなかった。更新も、さほどなく。
(自分のことは、まったく棚にあげて、棚の上にあげたことも、ころっと忘れて、人のことをさらりと言ってのける・・・)
なんで、あんなにたくさんの人が、お互いつながりあっている風を装うのか、意味不明。
若い人の感覚、わからない・・・っていうか、世代間ギャップひしひしと。
それなら、いそ、Facebookで実名で参加すればいいのに。

ま、ともかく、そんな人が、わざわざわたしのパリブログに足跡を残していってくれていた。

あ、ちなみに、わたしのパリブログは、誰も足跡を残してない日が、ここのところ、続いている。
訪問数は、少数ながらにあるのだが、足跡(ぺタ)とか、そういったニオイは残していく人は稀。
理由は・・・・・高飛車、ナニサマ、殿様商売だから・・・だろう。

この蝶ブログも、全編ナニサマ・テイストで成り立っている。
別のブログと言えど、
同じブロガーが書いているのだから、いくら隠そうとしても、ところどころ、そのニオイは出てきているだろう(と思う)。

蝶ブログは、お読みになる方は、わたしの年齢はおよそ見当がついておられるが、
(あたりまえか、ブログ村に「50代」&「エッセー」でエントリーしているから)
パリブログは、年齢不明、「女一人旅」でエントリーしている。
判明しているのは、性別のみ。

女一人旅に興味を抱くのは、だいたい若い女性が多い。
読んだ方が、自分と同世代だと信じてご覧になると、なんて、ヤなやつだ、と思われるだろう。
実は、同世代ではなく、20~30才、わたしのほうが年上なので、かなりギャップが出てくる。
でも、そこのところは、ほっている。
ブログの中では、自分の年齢に触れるようなことや、家族のことは一切、書いていない。
年齢というククリをくっつけると、わかりやすくて、親しみやすいかも知れないが、
逆に、別のものを失う。
年齢では縛られない、開放された何かを、わたしは表現したかったりする。

そのせいか、この蝶ブログも、最近では、ブログ村の人気記事ランキングでは、
年代別のランキングより、エッセー部門のランキングのほうが上位になっている。
(依然、その選択基準には、疑問を持ち続けているが、まあ、結果が良かったらいいんじゃない?ってかんじで、
曖昧、ファジー、適当、いいかげん。)

エントリーされていないブログでも、かなりおもしろいブログは、ある。
エントリーする、という行為は、とても小市民的で、小さい世界が大好き、という証拠みたいなもので、
小さなわたしにとっては、安心、自己満足、手ごたえの下支えみたいなものか。


件のぺタ(足跡)主ブログをさらに詳しく読んでみた。
やはり、どう読んでみても、まともなことはひとつも書かれてなかった。
なにを「まとも」、ととらえ、なにを「まともでない」ととらえるか。
長いばかりで、内容がないもの(例えは、蝶ブログ)もあるし、
押し付けみたいな鬱陶しいものや、自分の正当性ばかりを訴えるもの、自慢、グチ、ひとり言・・・いろいろある。
人それぞれ。好みや個性、信条もそれぞれ。

実体のないものも、癒しのひとつかも知れない。
ダイレクトに伝わってしまう生身の人間ではないので、なまあたたかい体温も感じられないだろうし、
実社会で行き難い人にとっては、あるいは、順応している、まともな優秀な社会人も、
無機質な、人工的な反応のほうが、安心できるのかも知れない。
ある意味、ゲーム感覚?
(このあたり、ゲーム世代ではないわたしには、理解を超えてくる)

なので、なんでもあり、というブログの海。
どう泳ぐかは、自分次第。

 

 

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トモダチ

2012-04-26 | 日々のこと

友達が多い人と、少ない人がいる。
わたしは、少ない人の最先端にいる。
つまり、ほとんどいない。

これは、ひとつには、ものぐさ、めんどくさがり、親切心なし、世話焼きの反対、協調性なし、
などなど・・・自分の性格に起因する。

たとえば、大勢で集まった時、スナップ写真を撮る。
撮った写真をすぐさま、焼き増して、その場にいた皆に配る。
わたしは、いつももらうばかりで、配ったためしがない。
というか、データのまんま、なんの加工も加えられず、ずっと眠っている。

いつも「ありがとう」と言う側の人と、「ありがとう」と言われる側の人。
それぞれの定位置がある。
たまには、ちょっとぐらい、頑張らないといけないのに、いつも、「ありがとう」とにっこりするだけ。
そうやって、そんな積み重ねから、知らず知らず、友達リストから、どんどん外されていく。

「またお茶しようね」と送信されたメールの最後に、挨拶言葉が添えられる。
「ぜひ、お茶しようね。楽しみにしています」
そうメールで返信して、一件落着。あとは、ほったらかし。
おたがい、社交辞令。

こっちからアクションを起こすことは、めったにない。
お声がかかったら、リアクションする。
(そういえば、声や拍手に反応して踊る、サンタさん人形があるなあ・・・)

気が付くと、友達が100人いるAさんと、友達が0人のわたし。
これを自業自得と言わずして、なんと言う?


付き合うのが、めんどくさい。
時間を合わせて、いっしょに食事して、おしゃべりして、・・・ホンネも言えないような仮初めの会話は、つまらない。
ホンネは言わないほうが、いいと思っている部分もある。
当たりさしさわりのない会話は、わたしには、聞いても聞かなくても、しゃべっても、しゃべらなくても、
べつにどっちでもいい。
べつにイヤではないけれど、あっても、なくてもいい。
そういう付き合いも含めて、「トモダチ」と言うのか?
おしゃべりするぐらいの人なら、何人もいる。でも、べつにトモダチではない。

趣味でよく顔を合わせる人たちがいる。でも、べつにトモダチではない。
「知人」だ。

仲のいい「知人」のことを「トモダチ」と言う人もいる。
ま、べつに、どっちでもいい。
口に泡を飛ばして、議論するようなことではない。

わたしのニュアンス的感覚でいうと、
わたしには、「トモダチ」と「知人」の間を行ったりきたりする人が、100%。(100人ではありません。念のため)
つまり、知人はいても、「トモダチ」という位置で、ぴたっとフィックスする人はいない。
自分が、未完の人間なので、割れ鍋に合う綴じ蓋、そんな商品価値のないガラクタは、
クリニャンクールの蚤の市(パリ)にでも、足しげく根気強く通っても、なかなかないだろう。

あえて言うと、隅っこで三角座りしているわたしと、それを見ている、もうひとりの自分が、真のトモダチか。

この黒子トモダチは、わたしにとっては、とてもいい人。
わたしのことをよくわかっている。理解してくれる。付き合いも長い。
なぜなら、もうひとりのわたしだから。
いつも、二人で会話し、漫才みたいだったり、一人芝居みたいだったり、
音響や美術舞台装置つきの大舞台のミュージカル仕立てだったり。
ときには、(いや、最近は、毎日)、文字にしたりして、ブログにアップする。


ひとりで、見えない相手としゃべっている、わたしは、かなり怪しい、アブナイ人だろう。
これは、ひょっとして現実の世界と、どこやらの世界を行ったり来たりする、ビョーキ??? (宇宙人なら、まだマシ)
本来は、病院にいなければいけない?
家が病院? 病院が家?  いや、元の星に強制送還?

自宅軟禁のアウン・サン・スー・チーさんも、やっと本格的に活動の場を得たようだ。
わたしは、軟禁されているわけではないが、自分で勝手に檻に入っている。
外の世界に出ても、檻のサイズと同じ面積、体積以上には、はみ出せないに違いない。


わたしがボケても、だれひとり、わたしの周囲の人は、気づかないと思う。
いつも、にこにこ、なにを考えてるのかわからない、おばあさん。
そのわたしを見て、ちょっと、かなしくて、もうひとりの自分が、「違う、違う」と首を横に振っている。

やはりわたしは、この星にはなじまない、缶コーヒーばかり飲んでいるヒトか?


ただでさえ、本日の記事、内容がないのに、どんどん無意味な文字の羅列になってきた。
トモダチの話は、いずこへ・・・?

星に帰る時間なので、ここで終了いたします。

 

 

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迷い道、くらくら、うねうね

2012-04-25 | お出かけ

昨日、体育館のあるスポーツセンターに行った。
一度、そのセンターには人に連れて行ってもらったことがある。

今度は、別の人を連れて行く案内人として、わたしがナビゲーター役をした。

スポーツセンター近くまでは、覚えている。
でも、さらにぐっと近く、至近距離になると、記憶が曖昧になる。

えっと~・・・たしか、このあたりで、曲がったような・・・でも、次の筋だったかなあ・・・

自分だけならいいが、人を導くとなると、間違えてはいけないというプレッシャーが、のしかかる。

確実路線を取り、ぐるり大回り、スポーツセンタ周辺を約一周したところ、
お連れした人に、「えらく遠いんですねえ」と、素直な感想のなかに、げんなり疲労感漂うボディランゲージを読み取った。
弱ったなあ・・・と思いつつ、
目立たないものの、ちょこんと貼ってある「→スポーツセンター」の小さな標識を見つけ、
おお、間違ってはいなかった・・・と、ほっとした・・が、・・・・。

その一角にあるであろうセンターが、見つからない。
→矢印に沿って、ぐるぐる回る。
ぐるぐる、延々とぐるぐる、いつまでも、ぐるぐる、は、わたしの得意技だ。

だんだん、お連れさんが、わたしではラチがあかないと判断したようで、
通行人に「スポーツセンター、どこですか?」と聞き始めだした。

連れて行った人に聞かれては、わたしの沽券にかかわる(そんなもの、あるのか? Too small)
わたしも負けじと、広場に面して立っている建物から出てきた年配の男性に、尋ねた。
「スポーツセンター、どこですか?」(にっこり笑顔)
「さぁ~。知らんねえ」(浮かない顔)
と、おじさん。

近いはずなんだけどなあ・・・

次に広場のど真ん中にある駐輪場に、とめていた自転車を取りに来ている女性に聞いてみた。
自転車に乗り、地元の駐輪場を利用しているのだから、近隣・地元住民であることは、間違いない。
「スポーツセンター、どこですか?」(この人なら、絶対、知っている。自信満々)
彼女の反応は・・・
「さぁ~・・・知りませんねぇ・・・」

(なに? このおばさん、・・・
わたしが、知らないと答えているのに、「そんなはずないでしょ?」みたいな不満そうな顔して詰め寄ってきて)
彼女の顔に、そう書いてあった(ような気がした)。


え~、ふたりとも知らないとなると、お連れさんが尋ねていた人を含めて3人の人が、知らないと答えたわけだ。
そんな知名度の低い場所なのか。
行政の運営する、市民のためのセンターなのに、地元の人に、これほどまで浸透していないとは。
この認知度の低さ。
行政がPRを怠っているのか、地元住民の意識が低いのか、余裕がないのか。
(逆切れモードにスイッチが入る)

近隣の人でも知らないような場所に、遠くから来たわたしが、お連れさんを無事に案内、到達することができるだろうか。
なかば、がっかり、肩を落としたわたし。
彼女の、ここまで来た時間、労力、交通費、店で食べる時間を惜しんでコンビ二で買って準備した食品・お茶、
なによりも、自分だけならまだしも、
その日、彼女の後半のスケジュールを無駄にしてしまったとしたら、とても責任を感じる。

なにがなんでも、探さねば・・・と、やる気まんまんで、パリで迷子になったかのごとく、自主的にパワーがあふれ出た。
自転車の女性に聞いた直後、即座に、カラダの位置を90度回転し、目の前の建物を見た。
なんのさえぎるものもなく、ほんとうに、ほんとうに、目の前、まん前。

すると、その建物に掲げられている、「スポーツセンター」という表記が目に入った。

なんやっっ
目の前やんっっっ

それにしても、住民のみなさま、ながらく住んでおられ、目の前であろうが、なんであろうが、
興味のない建物、施設には、なんの関心もないのだ、ということのほうが、驚きだった。

3人もの人々、しかも、通りすがりではなく、確実に毎日、そこでなんらかの関わりのある人々が、
「知りません、そんな建物、施設なんて」と答える、その事実に、わたしは、のけぞりそうになった。

お連れさんを案内している、という役割より、そっちのほうが印象が強くて、
無事、スポーツセンターにたどり着いたものの、その喜びは、すでに薄れていた。

しかし、建物に入ったところ、入り口の雰囲気が、目指す会場とは違うようなかんじ、
案内にも、その日、催されるイベントの告知がされていないので、
あれれ? 間違えた? 会場自体を? 日にちを?
恐る恐る、見当をつけて建物内部を進んで行くと、閉ざされた会場の外側から、音楽が漏れ聞こえた。
ああ、やっぱり、ココだった・・・と、ほっとした。


これだけ、脳の回路に、しっかり焼き付けておけば、次回、来るときは、迷わずにたどり着けそうだ。
とりあえずは、有効期限3ヶ月ぐらいは、この道順の記憶、持ちそうだ。

 

 

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また、こんがらがり

2012-04-24 | 人生

昨日に引き続き、早起き第2弾。
いつまで続くことやら・・・

冬が終わり、朝、明るくなるのが早くなると、寝ているのがもったいなくなる。
ちょっと眠いのだが、眠い目をこすりながら、頑張って起きると、朝の貴重な時間が確保でき、
家族が起きてくるまでの時間、ブログやら、なんやら、余裕をもって遊べる。

昨日は、お肉や、いろんなメニューをたくさん食べたので、まだ、お腹にこたえている。
お肉は、お腹の持ちが、非常にいい。
大きな餌食をまるのみした蛇のごとく、お腹のなかにお肉がまるまる残っているかんじで、ずっしり重い。


エッセー人気記事に久々ぶりにランクインした。
選択基準は、依然、曖昧なまま、おおいに疑問も残るが、最近は、単純に喜んでいる。
ところが、喜んだ後が、困りもの。
いつもなら、すいすい、なにも考えなくても、指が先々、キーボードを打ち、勝手に動くのだが、
いまは、ぴたり、と、止まっている。

さて、何を書こうか。
せっかく朝の貴重な時間を確保したというのに。
おそらく、お腹に残っているお肉のせいで、アタマの回転が遅くなり、感性が鈍っているのだろう。
胃と脳は、つながっているようだ。

と、まあ、あいもかわらず長い長い前置きを書いてしまった。
時間があるというのは、わたしの場合、ただただ、無駄に助走時間に使ってしまう、欠点あり。
有効にコトを前倒しできないとは、厄介な性格だ。

こんなことを書くために、早起きしたのか?


さて、・・・と、ここでやっとハナシが始まる・・・

先日、ブログにも書いたが、ある方の、昔の恋のお話をブログで読んだ。
好き同士なのに、結婚はしないという独身主義の男性が、お相手だったらしい。
わたしなら、お互い、独身なら、結婚に進まない恋は、続ける自信がない。
彼女も、それで、その人とは結婚には至らなかったようだ。

適齢期の若い頃の自分なら、当然、結婚を意識するし、
結婚しない自由な恋愛は不安がいっぱいで、絆自体も頼りなく感じる。
今、この年になると、結婚にはこだわらないだろう。
というか、自分は結婚している身なので、その設定がすでにおかしいが。
仮にこの年で独身なら、そして、かつて結婚を経験していたら、もう結婚しないかも知れない。

自分も既婚、相手も既婚なら、話にならないが、
仮に、自分は独身、相手は既婚なら、あまり結婚を意識しないかも知れない。
自分は独身、相手も独身なら、事実婚、というよりは通い婚みたいなかんじに進むのかも知れない。

いずれにせよ、なんの経験もない、すべてが地に足のついていない仮説なので、信憑性も説得力もない。


仮説ついでに・・・
自分はなんの努力もしないのに、勝手に相手が、かっかと恋の炎に燃えていても、
そして、延焼して自分も燃えたとしても、
そんな炎は、おそらく、ある期間を経過すると、消える(と思う)。
ましてや、デート期間の享楽タイム、
そんなものは、外での豪遊やら食べ歩きやら、旅行やらだったら、楽しい事ばかりを前倒しして、
いいトコ取りをしているので、あとに控える実生活では、げんなりすることだろう。

しかしながら、先に、いいことをばばっとプレゼンテーションして、導入部として、飛びつかせる仕掛けでもない限り、
結婚なんかできない(と思う)。
でも、浮ついた享楽主義で結婚する人など、ほとんどいないだろう。
(いや、ラブラブのノリで結婚する人もいるだろう)
この人を信頼して、ついていく、苦楽を共にする、そんな気構えも、もちろん不可欠だ。
最初に、楽しいことや、いいことばかりをすべて味わい尽くしたら、あとは、冷める一方。
恋愛と結婚は、ちょっと違う。いや、大いに違う(と思う)。

こういう、クールなわたしは、結婚生活において、失望はない。
結婚は、こんなものだから。
たいがいの人は、そんなことは、経験して知っていることだろう。
(あるいは、失望してから知る?)

一気に結婚前に、楽しいことを先にすべて味わい尽くすのではなく、
結婚生活を送る長い間に、楽しいイベントも盛り込み、メリハリをつけるのも、通常のことだろう。
子供ができたり、人生のステージを進む毎に、また新しい楽しみや喜びも見出せるし。


人を好きになった場合、結婚というカタチを取るか、取らないか。
子供ができ、子育てなどを考えると、日本では結婚するほうが、なにかとスムーズ。
子育て独身ママも頑張っているようだけれど。

好きだから結婚するのか、結婚してから好きになるのか、結婚してから、キライになるのか、
結婚はしない主義なのか、
なんだか、考えれば考えるほど、よくわからなくなって、理路整然の反対、まとまりがなくなってきた。

やはり、この話題、「恋愛」は、わたしには縁遠い、リアリティのない、不得意分野だと、ひしひし実感する。

そして、昨日のお肉が、また胃の中で、むかむかしてきた。
早起きは、毎度毎度、よい成果をもたらすものでもないようだ。

 

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もつれた糸を解いてみると

2012-04-23 | 人生

わたしは、ある一定の枠から、出ることが出来ない。
少し、はみ出たりすることはあっても、自主的にすぐに元の檻の中に戻ってくる。
まるで、DV被害者のように。

DV被害者は、暴力の恐怖から、相手から逃れることができないわけだが、
わたしは、別に暴力を受けるわけでも、ののしられるわけでも、なんの圧力も受けない。
つまり、自由なのに。

でも、自由は、束縛があってこその自由で、本当の自由のなかで、自分を解放すると
大空の上で、飛べない鳥のようになってしまうだろう。

たぶん、なにかに囚われている。
ほんとうの意味では、自立していない。
こんな年になって、情けないような気もするが、
得るものと失うものを比較し、自然と自分をコントロールしてしまう。
ブレーキをかけ、自分の位置を確かめ、制御する。

自己責任をもって何事も行うべきであり、自己責任の範囲は、広いようで、けっこう狭い。
たとえパリに一人旅しようが、ほんとうの意味での自由ではない。
ひとときの擬似・開放区だ。

だれも、わたしを束縛しているわけではないのに、自分で勝手に束縛されている。
ほんとうに自由になれるのは、死ぬときなのだろうか。

だとすると、死は、そんなに怖いものではなく、
一生に一度ぐらいは味わってみたい、待ち望んでいたことかも知れない。
ただ、一度味わうと、後戻りできない。それがコワイ。

大切なもの、愛するものと永久的に別れることは、わたしにとっては出来ない。

だとすると、自由を束縛しているものは、自分にとって、かけがえのない人々ということだ。

死は、確かに怖いし、避けられない。でも天寿を全うする死は、怖くない。

「死」以外の状況で、自分の大切なものを失うとすると・・・
家族崩壊・破産・病・戦争・諍い・災害・事故・・・・
自宅にポスティングされる、宗教関係のチラシに書いてあるような内容になりそうだ。

いつなんどき、幸せな日常がストップするかも知れない。
欲を張らず、感謝のこころを忘れず、身の丈に応じた生活を送るべき。
これまた、近所のバス停に設置されている、どこかの宗教の、ありがたい教本みたいな内容になりそうだ。

自分のこころを縛るのも、開放するのも、自分次第。
誰の影響も束縛も受けるものではない。
すべて、自分にある。

こころが軽くなり、アタマが軽くなり、そして、カラダも始動し始めた。

お腹が空いてきた。
家族も起き出して来た。
朝ごはんを食べて、さあ、今日も元気に出かけよう。

 

 

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「教え魔」と「セクハラ」との違い

2012-04-22 | 趣味

社交ダンスのパーティに行くと、ほとんどといっていいほど、
わたしは、いつも教え魔の格好のターゲットとなる。

「見ない顔やね。ここは、はじめて?」
こう言われ、「社交ダンスは、まだやり始めて、あんまり経ってないの?」
と、ダメ押しされる。

実は、わたしは、かれこれレッスンを受けて6年近くなるのだが、
いかにも初心者扱いで「始めて、何年?」と聞かれると
「2年です」とか「3年ぐらいになります」とか、サバを(悪いほうに)読んでしまう。
というのは、さきに「2~3年?」と聞かれ、「ハイ・・・」、と頷くと
「そうでしょうねえ、そんなかんじやね」と言われることが非常に多いので、
先に防御線を張っておくことが身についてしまったようだ。
ましてや、今、プロの現役A級選手に個人レッスンと団体レッスンを受けている、とは、とても言えない雰囲気。
それぐらい、わたしは、初心者風で、へたで、実際、ちゃんと踊れていない。

もし、プロの先生に習っている、とでも言おうものなら、のけぞられることだろう。
ザルに水。ブタに真珠。もったいない。なんの、引っかかりもない、と。

それを察して、やむなく習っている年数を縮めて言っているのだが、
しかも、わたしがレッスンを受けている、と思っていない人もかなり多い。
まったく我流、自己流で、やっている、と思われているようだ。
「へえ~、その期間の割には、お上手ですね」と言われたことは、(かなしいかな)一度もない。
「気長にやっていれば、そのうち、踊れますよ」とは、(なぐさめの、上から目線で)言われるが。

これが、ザルに水でなくて、なんだろう?
レッスン代は、ザザ漏れ、大洪水。


で、ここで、教え魔の出番だ。
(お上手な方は、ここで、退散。二度と踊ってくれない)

カウントの取り方、始めの第一歩の出し方、一から教えてくださる。
(実際、わたしは、そんなこと、とっくの昔に習っているのに、ちゃんと出来ていないようだ)
お願いもしていないのに、ご親切に丁寧に教えてくださるわけで、別に迷惑などとは口が裂けても言えないが、
わたしにとって理想的な踊りをされる方は、残念ながら、おられない。
(一人だけ、師と仰ぐコーチに出会ったが、師は、忙しくて、なかなか滅多に手ほどきしてくれない)

競技の選手のような、美しい踊りをされる方となら、わたしも美しく踊れる可能性も(少しぐらいは)あるのだが、
そうでない方とは、それなりの踊りしかできない。
理想の方は、パーティでは踊ってくれないし。

自分の踊りがちゃんとできないので、相手に100%合わせることになる。
海のなかをふらふら浮遊するクラゲのごとく。

教え魔のなかでも、自分の踊りたい方針と全然違うタイプの教え魔に遭遇すると、お手上げだ。
いろんな踊り方があるので、まあ、武者修行のひとつではあるが。
明らかにセクハラとの境界線が曖昧な教え魔もいる。
本当にダンスのためになっているのか?首をかしげたくなる。
次から次へとそんな人ばかりが、やってくると、自分は、飛んで火に入る夏の虫? 鴨ねぎ?
そんな気にもなる。

本来なら、たんなる、縁もゆかりもない、ご高齢のおジイサン。
自分も若くはないが、彼らよりは、ずっと若い。
それが、ダンスの会場に入ると、とっさに、先生になり、教え魔になり、セクハラもどきも、まかり通る。
一人、あからさまな人がいて、疑いを抱き始めると、
他の教え魔にも、ほんとうに、教えてくれているんだろうか?と、半信半疑。

「あと3年もしたら、(上手くなって)(我々みたいなものとは)踊ってくれなくなる」
という声も、ちらと、どこからか聞こえた。
なに?
わたしは、今ならタダのキャンペーン中?
新企画、新商品お試しトライアル期間か?

ある人なんかは、
「あ、こりゃいい。身の動きが軽い。指示どおりに動く」
と、まるで、新発売のボールペンを、ペンの先っちょのボールをくるくる回しながら、
備え付けの紙に、さらさら試し書きをするかのごとく。
あるいは、新しくバージョンアップしたパソコンソフトの使い勝手を試すかのごとく。
または、新車の試乗会のごとく?(そんな、いいものでもないか)
試作品、試薬、市場に出る前夜、あるいは、企画倒れ商品?

発売日は、いつ? これ、いくら? 今なら、キャンペーン価格?  え? 無料?
買う気はないけれど、タダなら、もらっとこう。

手垢ぺたぺた。

なんか、とても嫌な気がして、このわたしのキャラ、絶対的な大改革が必要だと、本気で思った。
いくらヘタを自覚していても、ヘンな教え魔の餌食にならないよう、毅然とした態度を取るべきだ。
ただ、毅然とした態度といっても、
「わたしは、今はヘタで、ちゃんと踊れませんが、プロに習っています。
そのうち、実を結ぶ予定ですので、ちゃんとした正しい内容を教えてくださるなら大歓迎ですが、
中途半端な教え魔さんは、ご遠慮願います。ましてや、セクハラは、やめてください」
と、はっきり口に出して言う勇気はなく、
せいぜい、教え魔に聞かれたら、
「プロにレッスンを受けてます」と言って、まわりをシラケさせるぐらいの方法しか思い当たらない。

会場には、うまい人がどれぐらいいるのか、全体のレベルはどれぐらいなのか、ざっと見て、だいたいわかる。
あまりお上手な人がいない会場の場合、(お上手な人がいても、そういう人は相手してくれないので)
それを言ってのけると、誰とも踊れない憂き目に会う。
「なんだ、あいつ。ヘタのくせに、プライドだけ高い。バカか?ナニサマ?」
そう思われ、誰も誘ってくれなくて、定位置は、壁のシミ。

でも、自分がヘタなのに、理想じゃない人だからといって、踊らないというのも、どうかと思うし
自分のレベルから考えると、ヘタな人がちょうど釣り合いが取れている。
社交ダンスは、相手があってのものなので、いろいろ、蝶クラゲは、悩むわけであります。


パーティに顔を出さず、ひたすら水面下で練習を積み、レベルを上げてからデビューするのが望ましいが、
そんな堂々とした力量に到達するまで待っていると、
晴れがましいデビュー日は、おそらく棺おけに片足をつっこんでいることだろう。

市場に出ることなく、試作品の段階でこの世から葬られた、多くの商品・作品のごとく、
蝶クラゲは、海の底で埋没していることだろう。

 

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会場で一人で練習(シャドウ、と言います)している男性は見かけるが、女性でシャドウしている人は、見たことがない。
なんか、女性の場合、いかにも、相手がいなくて、うら寂しいかんじがするし、
それより、わたし、相手に合わせて(依存して)いるので、一人でシャドウできないのが最大の難点。
それを克服しないと、今のまま(=惨状)で、上の段階に進めないだろう。

ダンスのネックと、実生活のネックは、共通項を持つようだ。
なにごとにも、性格は出るってことだ。

 


見捨てられた者同士

2012-04-21 | 暮らし

珍しく恋愛の話題が、いつもお邪魔するブログで展開されている。
今のご主人と出会う前の話だそうだ。

わたしも、そういう話をちょっと書いてみたい・・・が・・・
照れる。
というか、むしろ恋愛体験がない。
これは、人間として、欠陥品なのでは・・・?

本気で恋愛したことは、・・・一度もない。
かなり、欠陥、著しいのでは・・・?

でも、ちょっと前の時代の人は、
結婚するまで相手の顔も見ずに、婚礼の時に始めて顔を見て、そのまま結婚なんてこともザラだから、
べつに、欠陥人間ではないはず。


この人、結婚相手に、よさそう。
安定した職業、自分と似たような環境。
第一、彼は日本語を話し、わたしのネイティブ日本語スピーキングも理解してくれた。
これで、結婚を決めた。

お見合い結婚なんて、そんなもの。
結婚後に恋愛したら、いいなあ、などと、そんな甘いことも考えなかった。
わたしの人生には、恋愛というものがない。
哀しいけれど、しかたない。
恋愛の意味がよくわからない。
そのかわり、想像力は逞しい。
ただし、想像することは、チープな三文小説的なものが多い。

ただ、夫は、おんなごころをまったく理解しない人である。
ということは、他所(ヨソ)でも、そうだろうと推測する。
女性に関しては、粋な人では、ない。無粋な人だ。
わたしという女性、研究材料は、彼にとっては、あまり勉強する気にさせない、良くないテキストだったかも知れない。
別の女性なら、もうちょっと、マシになっていたかも?
(誰でも、いっしょかも?)
いたって、単純明快で、複雑さゼロ、すっきりしていて、これもまあ、いいか、と最近は思っている。

へんに、ごちゃごちゃ考える人は、うっとうしい。
自分みたいな人が、パートナーだったら、腹の探りあいで、疲れる。
なので、恋愛とは程遠い、そういうキャラクターは、日常にはサッパリしていて、よろしいかと。


夫の話を書くと、数行で終わってしまう。
べつに、書くことがない。
あるとすると、グチ。
でも、最近は愚痴ることもあまりなくなった。
夫婦は、空気みたい、と、よく言われるが、決して空気とは思えない。
あんな、嵩(かさ)の高い空気があるものか。
部屋の空気を減らす(酸欠)ことはあっても、ぜったい空気などではない。
が、徐々に、同世代のお友達になりつつあるようだ。

ま、それもよし。
お互い、子供に見捨てられた、気の毒な、父親と母親。
被害者同盟でも作るか。
慰めあって、これから、細々と生きていくのね・・・
なんか、みじめで、かわいそう、わたしたち。

日本酒、ビール、ワインやシャンパンに、今週はシェリー酒が加わった。
たんなる酒飲み夫婦?
いえ、酒飲みは、夫だけです。
わたしは、軽く口をつけるだけで、夫が酔いつぶれるのを、薄目を開けて待っている。
これもまた、不気味で、恐ろしい図だ。

決して毒など盛っていない。
ただ、夫が酔いつぶれて寝てしまったほうが、あとに残ったわたしは、気楽だ・・・
なぜだろう・・・?
やはり友達夫婦でも、空気夫婦でもなく、
どこかがおかしい、ボタン掛け違い夫婦? 
それでも30年近くきている。
でも、恋愛なんて、へんに温度や湿度のあるものより、さばさば、湿気なし、で、とても気分は爽やか。

ボタンは掛け違っていても、服は脱げ落ちはしない。

 

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しょうもない、ぐずぐず

2012-04-20 | 日々のこと

昨日は、わたしのスポーツ・デーなのに、ぐずぐずして出遅れた。
なんと、鏡に映る自分の姿が、みっともなくて、イヤになったのが、その理由。
というか、服がイヤだった。くたっとして、よれよれして、見るに耐えない。
若いお年頃の娘さん、いや、思春期、いや、子供以下の理由。

服を着替えてみたものの、やはり、ぼさっとして、パっとせず。
スプリングコートで、隠さなければ・・・
スプリングコートを探したが、パっとせず。
娘が日曜日に着て出かけていた、彼女ののコートを借りようとしたが、
そんな現役コートを拝借しては怒られそうなので気が引けた。
それより、娘は、わたしが狙っていた、娘のお古のコートをこっそり捨てたようだ・・・
探しても探しても、見当たらない。


そうこうしているうちに、いつも参加しているスタジオ・プログラムが始まる時間は過ぎ、
そのエキソサイズの参加はあきらめた。
参加できないとなると、時間制限はなくなった。
さらに、服探しは続行。
ああでもない、こうでもない。
同じ服を二順、三順、とっかえひっかえ、はおってみる。
すべてが、違う。こんな服は、ありえない。


わたしのお出かけ用のコートは、スポーツクラブに行く時には、着たくない。
プールで、髪がびちゃびちゃになるので、帰りは襟が濡れる。
では、どうでもいい、もはや、お出かけ用には着れないリタイア引退コートを・・・と
着てみると、きちんとしたスーツ用っぽいに、靴はスポーツシューズ、というかんじで、
しかも中途半端に流行遅れ風で、もう、ヘンでヘンで、絶対にイヤ。

たかだが、家の近所のスポーツクラブに行くのに、どんな格好でもいいじゃない?!
と思う気持ちと戦いながら、

延々とやっていると、いつまで経っても行けないので、
せめてジムと水泳だけでも・・・と、自らにハッパをかけ、グズグズする自分の背中をごりごり無理やり押した。


あ、今度は、靴がない。
出かける直前に、前のめり。
もう、ブーツのシーズンではない、ということで、春用のウオーキングにぴったりな靴をシューズクロゼットのなかを探す。
ごそごそ、ごそごそ、いくら探しても見つからない。

クロゼットでは、昔のボロっちい、捨てたらどう?とういう靴にいっぱい出会った。
翌日のゴミの日に捨てる靴を、2足、チョイス。

捨てる靴は見つかっても、肝心の履いていく靴が見つからない。
冬の前まで、履いていたのに。
いったい、どこ行った??
ムキになって、なかば、執念で靴を探す。
もはや、スポーツクラブは、もうアタマから消えかかっている。

あきらめかけた頃に、ようやく見つかった。
ああ、この靴も、お気に入りだけど、なんてボロっちいの?
ゴムが切れかかっているのを強硬にわたしが不器用に修繕した。
そんなに執着する理由がどこにある?

ある日、靴屋の店員さんが、わたしのその靴を見て、こう言った。
「その靴を履いたら、他の靴は履けませんね」

店員さんは、脱帽したのだろうか、その、実用性オンリーのわたしの楽々シューズに。
あるいは、「このお客さんは、見た目を重視しない哲学がある」、ってことで、靴を勧めるのをあきらめたのだろうか。

ま、それはそうとして・・・

そうやって、どんどん過ぎていく時間に、もはや、出かける気力さえ失いかけているわたしだったが、
とりあえず、スポーツクラブに足を向けた。

で、ジムで、好きではない筋トレなどをした後、水泳は、もういいか~、となったが、
(時間がないし、泳いだ後の身支度が大変だし)、
どうしよう、どうしようと、時計をちらちら見ながら、かなり悩んで、
サボりたい自分に鞭打って、プールに行くことにした。
メークをすべて落とし、水着に着替え、いざ!!と、いうときに、あらら、スイム・キャップがない。
いくら探しても、何度探してもない。
落とした? 忘れた?
それがないと、プールには入れない。

もう、知らん・・・・!!
まったく縁がない日だ。

最初につまずくと、すべて、ずるずると後々まで尾を引く。
やはり、5分前行動、いや、10分前行動を心がけなければ。

そう書きながら、
今、ゴミペールに入れて出している、あの昨日、選択した、ボロっちい捨てる靴が気になって、そわそわしている。

断捨離とも無縁な、わたしのようで、がっかり肩を落としている。
ゴミ箱から拾い上げてこないよう、自分をしっかりセーブし、己との戦い、真っ最中だ。

 

 

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