蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

だけど、あきらめない

2013-03-31 | 映画

「純と愛」について書くと、アクセス数が少し減る。
みなさん、あまりドラマはお好きでないようだ。

でも、しつこく書く。
ドラマ中、全編、インテリア・デザイナーが、女性的感性を発揮していたように思う。
男性だったりして?
そして、純と愛の服装。全編、あれ。
衣装代は、平安絵巻・時代劇などよりは、お安くついてよかったであります。
が、「プラダを着た悪魔」的要素があると、楽しめるのだけれど。


昨夜、おうちDVD鑑賞。
フランス映画「最強のふたり」(2011年)
静かで楽しい映画で、わたしは、とても、お気に入りだったが、下娘は、早々にリタイア。
夫が帰宅すると同時に、自室へ。
やはり、彼女には、早すぎた?

頸髄損傷で体の自由を失った熟年・富豪男性と、その介護人になった貧困層の移民の青年との交流が描かれ、
数々の賞に輝いた作品。

テーマは、とても重いが、現代風で、軽妙なリズムのある展開。
フランス映画って、いいなあ~と、じみじみ。
パリの街の風景や、格式ある館の様子など、パリ好きのわたしには、嬉しくて楽しくて仕方ない。
俳優の二人が、それはそれは、いい。
ふたりとも、いい。
タイトルは、まさに、どんぴしゃ。

考えさせられる・・・というよりは、ハンディキャップのある人を同情目線で見るな、ということ。
悲劇的に、重々しく扱うな、ということ。
あたかも重病人のごとく、腫れ物にさわるように描くな、ということ。
この視点が、とてもよかった。

おたがい、できる範囲で、人生を味わおう、ということだろう。
お金はあるが、体がいうことをきかない、かたや、体は若く健康そのものだが、お金がない。
この対極の二人の組み合わせが、絶妙。

ないところ(マイナス面)を補い合う。
プラスの面を押し付けるのではなく、自然なかたちで、アウトプットし、相手はそれに触発される。
嫉み合う、いがみ合う、ひねくれ合うのではなく。

階級社会で、クラスの違う層は、席を同じくすることがあまりない、ヨーロッパならでこそ、
ストーリー設定が、より活きる。
あれが、伝統的・階級社会ではないアメリカなら、視点が弱く崩れてしまう。

金持ちのステイタスは、自家用ジェット機なのね、と、上娘が言った。
(先月観た、おうちDVD「プリティ・ウーマン」の、主人公[リチャード・ギア]も、自家用ジェット。
もうひとつの共通点は、オペラ鑑賞(特別席?)だった)

ジェット機に関して言えば、
いやはや、いくら大富豪の特権だといえ、その特権を享受するよりも、
視点を変えれば、小さな飛行機は、ただただ怖い。
団体オーケストラを自邸に呼んでの生演奏クラシック音楽会も、これまた、聴くだけでは、つまらない、という発想。
ダンスしないと、音楽ではない。
このあたり、わたしは、いっしょに踊っている気分だった。
体に伝わるリズム、ビート。
(静かに、体やアタマ、神経のスイッチをオフにして聴く音楽もある、ということも、最近わかったことだが。
この年にして・・・!!)


人生は、動かなければ、風を吹き込まなければ、停滞するのではなく流れなければ、
どんな境遇でも、悲しみもさることながら、楽しまなければ、
人生、もったいない。

がしがしに固定され、決して動くことができなくても、楽しもうという気持ちさえあれば、楽しめるということ。
(「あんたは、気楽だからそんなことが言えるんだ」、と、言われそうだが、勝手に言っておいてください)
あの映画が、絶賛されたのは、そういう、諦めの気持ちを、
無理やりではなく、自然に溶かすかのように、ほぐしていくところに、あるのではないだろうか。
 
マイナス面を抱えたまんまでも、できることは、あるだろう?
Let's enjoy life.
 

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静かに、じわじわっと、ユーモアと、元気、やる気をもらった。

朝ドラ中毒

2013-03-30 | 日々のこと

純と愛。

最終回。

今日は、土曜日で、思いっきり朝寝坊ができる~と、のびのび布団のぬくもりを楽しんでいたが、
目ざましアラームが、土曜日は7時55分に鳴る。

やはり、最終回は見ないわけにはいかない。
でも。。。。
ああ、これで、やっと、土曜日は解放される。
後悔しないためにも、見なければ。

感想は・・・

脚本は、悪くないが、
ストーリー展開が、雑である。
ひとつひとつに、統一感がない。
作者は、焦ったり、めんどうくさくなったり、そういう過程やジレンマが見えるような、今回のドラマだった。

重厚なテーマを織り込みたいのはわかるが、演出、コマ送りが、チャッちい。
ちぐはぐ。
期待を大きく外された。

ゲゲゲの女房、ひまわり、カーネーションは、好きだったけれど。
次のドラマは、おばあさんと孫娘、職業展開バージョン、この設定は、「鉄板(てっぱん)」と似ている。
なので、あまりにも酷似パターンで、見る気がしない。

義母や、実母が、朝ドラを見ていたが、その心境は、まったくわからなかった。
わたしも、娘たちに、「その、心境、まったくわからないわ」と思われる世代に突入か。

朝の貴重な15分から解放されそうで、ほっとしている。
だが、ひょっとして、NHK朝ドラ病に冒されている恐れのあるわたしは、
また、この15分に振り回されるのかも知れない。

 

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ステキな暗黒・闇タイム

2013-03-28 | 日々のこと

家の者たちは、みんな、寝た。
しーんと静まりかえる、ミッドナイト。
さあ、わたしの時間!!

きゃっと喜び、嬉しい悲鳴を発したのは、ほんの一瞬。
もう、わたしも寝よう。脳からの就寝指令。
やっぱり、朝のバタバタ時間に書くほうが、威勢がある。


ベッドサイドに、漫画が3冊ある。
いつも読もう、読もうと思いつつ、ベッドに横たわると、即、おやすみ3秒。夢のなか。
・・・のはずが、夢をすっ飛ばし、
気が付くと、「いってらっしゃい」と家族を送り出す朝。
時間は、上瞼を下瞼にくっつけた、その瞬間に、一瞬にして、消えてなくなっている。
どこにいった?
わたしの、ゴールデン・タイム。

せっかくの、黄金の、制限時間のない夜なのに・・・
たったの3秒ももたない、この、もったいなさ。
羊が1匹・・・と、数える暇もない。
電気毛布の電源を入れ、靴下を脱いで、掛け布団を整えて、がばっと、上半身にかけたら、
もう、瞬間的に朝になっている。

じつに、じつに、もったいない。

夜、テレビでニュースを観ていて、ちょっと眠くなると、机に突っ伏して、ちょこっと居眠り。
気が付くと、オデコに、縄文式の模様みたいなのが、くっきり、ついている。

電車も、座席に座れる幸運に見舞われると、喜びに浸るゆとりもなく、即、爆睡。
治安の悪い外国なら、だらしなく居眠りしていたら泥棒に泣かされるところだ。

と、なにが言いたいのか、さっぱりわからない。
自分でもわからないのだから、読んでいる人は、もっとわからない。

なにはともあれ、とにもかくにも・・・
せっかくの、時間制限なし、無限大の夜を手に入れたのに、
もう、寝ようとしている。

さあ、わたしも、寝よう。
寝る子は育つ。
寝るババは、熟成しすぎるけれど、まあ、いいや、であります。
春眠のみならず、オールシーズン、むさぼる、睡眠。
暁は、何処?

では、おやすみなさい。

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My World

2013-03-28 | 趣味

あれが、あった。これこれが、あった。
そういう楽しい話を書きたいか・・・というと、
今のわたしは、そういう気分にはなれない。

ほんとうは、毎日、充実していて、楽しいのだけれど。
書きたいか、どうか、だ。

小説にする気にもなれない。
人生経験が、壮絶でなさすぎて、平凡すぎて、甘すぎて、ぬるすぎて、薄すぎるからだ。
そして、想像力や、創造力が、中途半端すぎるからだ。
しかも、本も読まない。調べ物もしない。サイテーのサボリ人間だ。
知識を得る努力もせず、組み立てる力もない。
そして、ボキャ貧。
なので、小説どころか、ブログも、すっかり書く気力が萎えている。

人の書いたものを読むのがいちばん、楽でいい。
読むのは、難しいものや、専門分野のものではなくフツーの人が書いた、フツーのもの。
読みやすい。
なぜか。
素人だから。
ボキャブラリーの量と質が、一般的だからだ。
そしてなによりも、カンタンに手っ取り早く、ワンクリックで、無料で、読むことができる。
第一、お隣に住んでいるかのごとく、身近で親近感があり、温もりを感じる。


わたしは、ファッションモデルにはなれなくても、ファッション画、デザインは描けなくても、
自分で「こういうデザインで」と、ゼロから創造しなくても、
店で売っている、手ごろな値段の既製品の洋服を買うことは、できる。
受身は、楽だ。

セミ・オーダーもできる。
既製品をあれこれ、組み合わせる。
マネマネ・盗品、ごった煮、寄せ寄せオリジナル。
ただし、お取り寄せピックアップ、抜粋するのは、自分。抜粋の比率を決めるのも。

自分の引き出しがなくても、上を向いたり、下を向いたり、左右をきょろきょろ見たりして、
自分は、じっとしているだけで、なにもしなくても、
人様からのおこぼれ、アウトプット産物に触れ、けっこう楽しむことができる。
受動態は、楽々だ。
自分で、なんの積み重ねも蓄えもせずに、枯渇した感性に潤いを与えてもらえ、
時には、触発されることもある。


ただし、チョイスは自分。
大きな大きな大海原を泳いでいるかのごとく、選択肢は360度あるが、いろんなものがある。
自由だが、それに伴うリスクは自己責任で。

文章は、とりあえず、日本語と、外来語日本語。
英語なら、簡単な中学英語。
その他の言語は、わからない。
言語で表現される場合は、「人」「考え方・思考方法」に興味がある。


興味対象は、文章以外にも、いろんな分野がある。
また、さらにインターネットだけではなく、ブログやネット以外の、実社会、実世界でのリアルな分野。
わたしは、どちらかというと、「美」の分野が好きである。
芸術系のものが好き。
のこのこと、あちこちに出向いて、わけがわからないまま、丸のみする。
食あたりすることもあるが、意外なプラスの展開をするものもある。
んでもって、経済、政治、社会には、疎い。(なんども言うようだが)


最近は、ジャズも好きになっている。
ただし、ジャズのジャの字も知らない。
でも、いいんです。

いろんなタイプのジャズをiTunesで流す。
その曲を聴き、イメージを勝手に、脳内スクリーンに描き出す。
(音なのに音響ではなく、映像)

あ、この音楽は、純喫茶風。どしりとした、古い、昭和風の店内。
民放サスペンス2時間ドラマでの、登場人物が、深刻な話を打ち明ける時にかかる、やつ。
登場人物のメイク、ヘアスタイル、表情、ファッション、・・・古っぽい。

また、別の曲は、とある静かなBAR。
「オシャレ」という表現を使うと同時に、オシャレとは対極の位置に堕ちてしまうが、
わたしの感じる、ステキな(ああ、また、「ステキ」と入力すると同時に、対極の「ダサダサ」に陥る)
なんと表現していいのか、わたしには、その素養がないので、表現しようがないのだが、
なにしろ、洗練された(ああ、また、こんな表現・・・がっかり・・・)
そういう軽妙なフィーリング(またまた、こういう表現・・・。エンドレス・スパイラル。だれか、ヘルプ・ミー)

踊るとかではなく、もっと、軽い、落ち着いた、
こころが、ふっと、わたしの知らない、どこか別世界に入り込んだような、
でも、まったく知らないわけでもないような、
どこかにあったけれど、潜在的にあったものの眠っていただけで
たまたま、いままで気付かなかったような、
憧れの世界であるような、
でも、いままで、ダサダサの自分には接点がない、縁がないとハナからあきらめていて、それで、興味もなかったけれど、

自分が、ひょっとすると、合っているかも知れないような、
対象物・自体は、不動だが、自分が変化したことにより、新しい世界が開け、
その憧れは、遠いところにあるのではなく、その世界に自分が近づき、適応、フィットしていることに気付き、
嬉しいような、くすぐったいような、そんな気分だ。

音楽の好みが変わるなんて、今まで、ほとんどないことであった。
というより、音楽自体、べつに、どうでもよかったのだ。
受け売りや、流行っているから、とか、話題になっているから、とか、そういう、受身のチョイスでしかなかった。
自分から、音楽に寄り添っていくことはなかったと思う。

ただ、ジャンルが、ジャズなのか、クラシックなのか、まだ、流動的ではある。
どっちにしても、いままで、興味のなかった世界、分野が、自分から能動的な揺さぶりが生じ、
好みが変わる、ということ、
こういう自分の変化をとても、面白く感じる。

音楽だけでなく、芸術や、美・全般にもいえる。
美を追求するのは、わたしにとって、
永遠の夢の世界に浸ることができる、架け橋をゆっくりゆっくり上ることである。


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バレた

2013-03-27 | 日々のこと

純と愛。

もうあと数回で終わりだが、どうも、まじめに見る気がしない。
いつからそうなったのだろう。
昨日なんか、テレビをつけているだけで、見ているのは、パソコンモニター。
背中で、耳だけで聞いていた。

なんだか、途中から、不自然になってきて、無理やりっぽいストーリー展開に、すっかり嫌気がさしてきた。
最初の、大阪市内のホテル勤務のときは、面白かったのだが。
愛クンのお母さんのキャラクター設定、わざとらしさ、変人ぶりには、ついていけない。
で、興味が、さささーっと、引いていったわけである。

いつもは、朝は8時から15分間だけテレビをつけるだけだが、
今日は、その後の「あさイチ」、ぽっこりお腹をひっこっめる運動と、くびれをつくる運動の再放送をちょっと見た。
ドローイングという、腹式呼吸をしながら腹筋を鍛える、あの運動は、
日常生活のなかで、いつでも、どこでもできそうだ。


さてさて・・・
今日もまたまた、けっこう疲れる、遠出の一日。遠方までの往復。
頑張って、クリアーしよう。
ひとつひとつ、こなしていくのみ。


あ、そういえば、(いきなり、話題が変わる・・・)

わたしは、小説を書く気が、ぜんぜんしない。
去年、少しだけ書いて、ほったらかしている。
そもそも、最初に、小説の先輩から、小説の「いろは」を伝授され、そのルールにこだわってしまった。
自分流の、ハチャメチャ、ノールールでいきかったのだが、
いざ、知ってしまうと、どうも、無視することができなくなり、息が詰まって、
さらさらと書けなくなってしまった。

長々、だらだら、でまかせに書くことは書くのだが、
ストーリー展開と、最後の意外性などを、意識すると、ぴたりと筆は止まる。
もともと、アタマがあまりよくないわたしは、小説は無理かと、感じている。
なので、自分の、ちゅるちゅるアウトプット・ノリは、徐々にスローダウン、
ついにはフリーズし、放置したまんまになっている。


わたしは、経済も政治も、受け売りだし、社会事情にも通じていない。
理論に筋が通っていない。
先日も、そのことをある人に指摘された。
だが、むっとしたわけではなく、
ほんとうに、そのとおり、なんで、バレたんだろう・・・と思ったが、当たり前だ。
バレるわなあ・・・そりゃあ。

感性だけでは、だめだ、ということは、よくわかっている。
なんでもそうだが、基礎がないと、いくら上になにかを積もうとしても、砂の上の城。
いきなり、うわべだけ飾ろうとしても、すぐメッキがはがれる。
社交ダンスもそうだ。

一瞬、ぱっと見、ほんの短時間であれば、ごまかしが効くかもしれないが、
長く観察されたりすると、だめだめぶりが暴露される。
根っこの部分が、短い、弱い、ちゃんと地に足をついていない。
表面に見える部分ばかりが、頭でっかちのようになって、ぐらぐらしている。
逆三角形になっている。
ピラミッド型の三角形が望ましい。


ということで、わたしのあほぶりを見抜かれたが、落ち込むこともなく、
真摯に受け取った。
ぴしゃり指摘の人物は、わたしより、明らかに社会のことに通じている人であった。
長い間、生き馬の目を抜く社会を泳いできた実績がある。
なので、わたしは、冗談っぽい口調のなかに、するどい観察コメントをすんなり受け取った。
日々、勉強。
しかしながら、わたしは、経済や政治、ほとんど興味ないし、勉強してないので、
なにを言われても、べつに傷つかない。
努力(どりょく)の「ど」の字もしていない。
あ、ついでに、理数系的なことも、だめだけど。

だから、進歩がないのだろうけれど、いいんです。

これを開き直りという。

 

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2013-03-26 | 暮らし

姉のお孫さん。小学校1年生の女の子。
今年のお正月、実家で集まったとき、仏壇の前にある木魚をぽくぽく、悪戯でデタラメに叩いて、遊んでいた。
実家で、家中、ばったばったと走り回り、一人天下。
小さな子供は、彼女だけ。あとは、全員、成人。
初孫(母にとっては、初ひ孫)である彼女が生まれてから、7年間、天下は続いている。


その姿と、両親(姉の娘夫婦)を見て、わたしの上娘の感想。

「あんな遊びを放置している両親と、その環境には疑問を感じる.
教えてあげない、両親や、まわりのみんなが悪い」
ぴしゃり、手厳しい。

してはいけないこと、よくないことは、教えないとわからない、という。
わたしより、娘のほうが、断然、厳しい。
わたしは、ちょっとだけしか、思わなかったことだが、娘は、深く、しっかり思ったようだ。

お正月らしく、着物姿の義姉が、毛氈をひいた上で、本格的にお茶を立ててくれたが、
この女の子は、これまたオチャラケで、お茶立てにも参加した。
思いっきり、ちゃかちゃかと、茶せんが傷むのではないかという勢いで、お茶碗の底狭しと茶せんをまわして遊んでいた。
それはそれで、ひとつの、いい経験だとは思うが、むちゃくちゃにやっては、茶せんは、傷む。
いくら遊びだからといっても、教えるべきである。
そもそも茶せんは、何回もかき混ぜることに耐えられることを前提として作られているが、
それにも増して、ひょっとすると、義姉の茶せんは、めっちゃくちゃ強靭なミラクル茶せんで、
少々のムチャをしても、傷まないのかかも知れないが。
知らない人には、子供であれ、まずは正しい使い方を教えるべきだ、と思うのだが、
わたしの、道具を大切にしすぎるケチ根性が、むくむくと顔を出す。

おおらかに育てることと、ルールを教えないことは、別だと考える。


うちの孫が恒例のお正月・実家集合に参加することになると、おそらく、いや~なムードが漂うと思う。
なぜなら、上娘は厳しいからだ。
躾にも教育にも厳しい。
自分の子供に躾ける内容が、他の家族の子供たちと違っていた場合、ちょっとシラけるとことになるかも知れない。

上娘に、わたしが、躾けたわけでもなんでもなく、彼女は、そういう性格のようだ。
婚家の義母たちから、背中で指導を受けた部分もある。
教育の面に関しても、知らず知らずのうちに、ある程度の目標を課されていたかも知れない。
あくまでも自然な流れであると、わたしは思っているが、
家族以外の他からの目で見ると、暖かく応援なんぞ、してやる気にはならないだろう。

まわりがどうであれ、自分は、いたってちゃらんぽらんなのは、昔も今も同じ。
なので、わたしは、いまも、逆輸入のように、この教官に指導を受けている。


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ちいさい、ちいさい。

2013-03-25 | 日々のこと

わたしは、ブログにホンネを綴っていたが、
いまは、その作業をしても、ちっとも楽しくない。

さきほども、今日の記事をさらさらと書いたが、削除した。
自分のことを掘り下げたホンネを書く気にならない。
おそらく、どんどんわたしのブログは、おもしろくなくなっていっていることだろう。
自分がおもしろくないことを、読んでいる方が、おもしろいと感じるわけがないから。

ブログを書くことへの楽しさが減少している。
なぜかは・・・自分でもよくわかっている。
飽きたとか、そういう理由では決してない。

・・・・・・・・・・・・・

それは、それ。

元気をもらいに、あちこちのブログにお邪魔するのは、好きだ。
それぞれブロガーさんから、活力の素をいただきにいく。


話は変わって・・・(えらく、はやい)
わたしは、おばさんではなく、おじさんでもなく、・・・
「中高年」という、くくりになっている。

街や店内で、自分が映っている鏡やウインドゥを遠くから見ると、
あきらかに、年齢が如実に現れている。
どこからどう見ても、中高年。

しかし、人は誰でも年をとる。
おんぎゃーと生まれて、一歩ずつ、歩いて成長して、やがて、衰退していく。
それが、どうしたの?ですが・・・

おんぎゃーの赤ちゃんのエネルギーは、すごい。
毎日、毎日、確実に、生命力を増し、パワーアップしている。

数分ごとにめまぐるしくかわる状況。
ご機嫌よかったり、大泣きしたり・・・
晴れ、曇り、雨、暴風雨、台風・・・お天気みたいだ。
一時間のうちに四季がある。
自分がどう見られるかとか、さっき、泣いたから、ちょっと辛抱しておこうとか、
そんなことは、まったく関係なく、自分の本能のままに身体じゅうで表現している。
まわりを気にする、遠慮がちの、空気読み赤ん坊がいても、コワイけれど。

生命の不思議。
自分もそうだった(・・・んだろう)。

オトナがあんなふうにやっていたら・・・
だれも、寄り付かない。
大声で全身を震わせて泣きに泣いた後の、けろっとした、あの、かわいい、天真爛漫な笑顔、
計算のない素のままの姿は、赤ん坊だからこそ。

ちいさい、ちいさい、赤ん坊。
やがて、大きくなって、そして、年をとっていくんだけれど、
元気いっぱい、頼もしい限りだ。

自然の摂理。
年がいったよ~、なんて、嘆いている自分は、じつに、ちいさい。

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少数派

2013-03-24 | 日々のこと

膨大な数の読者がいる、そういうブログは、とても面白い・・・(んだろう)。
最近、わたしは、そういう、メジャーなブログにはまったく足を運ばない。
わたしは、マニアック好みである。


(もちろん、写真のある、普通の日常を綴った、個性的な楽しいブログも好きで、お邪魔する)


文字の羅列だけで、顔が見えるような、体温が伝わるような、そんなブログが好きだ。
文章自体、文字自体が、わけがわからなかったりしても、
その、わけのわからないぶりが、ひとつの意味をなしている場合もある。


自分のこころで見る。
抽象画を見る、そんな感覚か。

ちなみに、わたし、抽象画、ほとんど、意味わからないけれど・・・
まあ、抽象画に、理屈付けして、したり顔で解説つけるのも、いかがなものかと。
ムンクの「叫び」とか、学校の美術で習ったけれど、知識が先。
中学の時に、当時の親友に連れられて、神戸の美術館に足を運んで観た記憶がある。
いや、あれは、ユトリロだったかな?(受身行動なので、いい加減だ)
でも、「叫び」はケイタイの絵文字になっているぐらいの、メジャーぶり。
それはそうと、泣き顔の絵文字は、赤ちゃんの泣き顔そっくり。
単純な線で、よく描かれている、あの絵文字。口のカタチが、すばらしい。


と、話がそれている。


「哲学」は、ヒマをもてあましたときに、遊ぶ、脳内・理屈プレー。
なにもしたくないときに、自分がサボっている理由、理屈を必死で考え出す。

電車のホームでの待ち時間があるとすると、みなさんは、ケイタイをいじっている。
わたしは、最近、ケイタイでも哲学でもなく、骨盤底筋体操をしている。
いつでも、どこでも、できる。
単純なインナーマッスルを使った、引き締め運動だけれど、1セット5回、一日に5セットが目標。
運動中、他人から見られても、その運動をしているということが、わからないが、
自分では、涼しい顔、ポーカーフェイスをしているつもりが、気張った、力んだ顔になっているかも。
ここのところ、サボリまくっているが。
気を抜くと、すぐ、サボり、そのうち忘れる。


さて、今日もバタバタ。
もっとも不得意な、ゲスト対応デー。
いつまで続くのか。
一日が、あっという間。
哲学しているヒマがない。



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今日は、これぐらいに、しといたる。

2013-03-23 | 日々のこと

好きなことを書こう。
そう思うと、楽しい気分になってくる。

わたしは、自分が大好きな、おばかちゃんである。
(おばちゃん、でもある)

自分のことを自分が好きにならないでどうする?
べつに、誰かに好きになってもらえなくても、いい。
自分が、自分を好きなら、いい。
(これ、強がり、多少、入ってます)

家族もそう。

上娘が、赤ちゃん=我が子をベタ誉めする。
「すごい、親の欲目。よく、そんなこと言って恥ずかしくないねえ・・・」とわたしが言うと、
「家族ぐらい、誉めてあげて、好きになってあげて、世界一、ファンになってあげないと」と。

なるほど・・・。
そうか、親ばかって、いいものだ。(過剰にならなければ)

甘やかしすぎ、軌道を逸した評価は良くない。
が、それは、徐々に成長する過程で、世間の中での現実に、自分で気付いて、苦労して、試行錯誤して、
自分のアイデンティティが確立される。


わたしは、親に、たっぷりの愛情をかけてもらった記憶がない。
それは、はっきりと口に出して、
たとえば「あなたは、えらい」
「あなたは、世界一、かわいい」
「あなたを愛している」
なんていう、歯の浮く言葉を、毎朝、毎夕、かけてもらった記憶がないだけだ。

そのかわりに、
「おまえは、のろい、とろい」
「おまえは、口ばっかりで行動力が伴わない」
と、母親から、しょっちゅう言われた。
父親からは、「こんなことも、わからんのか」
と、あほぶりを指摘されていた。
今思えば、それは、真実、事実を言っていただけであって、辛口アドバイスだったのだが。

さらに、「叱らずに甘やかしてきてしまったのが、よくなかった」とも母親は言い続けた。
甘やかされた記憶はまるでなく、「叱らずに~~」のフレーズばかりが、遠くアタマにこだまする。

確かに、非常に残念なことであるが、わたしは、ちょっと、とろくて、ちょっと、まぬけである。
(とりあえず、「ちょっと」という副詞を入れておこう・・・)
そして、それをあまり苦にしない、もっともやっかいな、機嫌のいい一人っ子である。(現実は、3人きょうだい)
親に言われなくても、学校でも世間でも、充分、痛いほど自覚できる機会を与えられた。
さらに、親に念を押していただかなくても、自分でもわかっているのだ。
家でも、外でも、同じことを言われると、自分の逃げ場がない。

逃避先は、脳内ディズニーランド。
アタマに広がる楽しい世界。
空想癖は、ものごころが、ついたときから始まっていた。

しかし、よくよくよくよく、ぎゅ~っと脳ミソを凝縮させて考えると、
両親の名誉のために言うと、忙しい合間を縫って、ちょこっと、ふれあいタイムもあったように思う。


幼稚園に初めて行く初日。
家の近くの横断歩道にある信号機を指差し、わたしの目線と同じになるよう、歩道手前で、しゃがんだ父が、
赤・黄・青の信号の移り変わりと、その意味を教えてくれた。
プールにも連れていってくれたこともある。
神戸の洋食レストランにも連れていってくれた。
店名は「パウリスタ」だったか? いつも、タルタルソースたっぷりのエビフライを楽しみにしていた。
怒られた記憶がほとんどだが、そうでもない記憶も、ちゃんと残っている。

(前に読んだ、田中角栄の娘さんの著書にあった内容を思い出す。
娘さんといっても、真紀子さんじゃないほうの、
正式な婚姻内でないほうの、娘さんが書いた本のなかの、角栄オヤジの断片みたいだ。
実際の著書のなかでは、こんな内容ではないが)


さらに、母親の記憶をさかのぼると・・・
お天気のいい、日曜日の朝に、まだ布団から出ていない母親の背中に乗っかって、
「親亀の背中に小亀を乗せて」状態で、甘えて遊んでいたこともある。
わたしは、母親の背中に、こじんまり乗れるぐらいだから、かなり幼い時だろう。
母親は、鬼のように恐ろしい、小言マシーンばかりでもないようだ。

今でも、基本的に「甘えた」であるわたしは、当時の心地よさが忘れられないのかも知れない。
現在の、あんな、しわしわの、ちっちゃくなってしまった(態度はデカイが)、おばあちゃんの背中に、
こんな、でっかい、おばあさん予備軍のわたしが、乗っかって、遊んでいたなんて、
非常に摩訶不思議、けったいなかんじではあるが。


さてさて、書き始めてから、ここまで書く間に、途中、どれだけ、いろんな用事、雑用を挟んだことか。
(歯科医院で治療、玄関前の草むしり、お留守番、赤ちゃん子守、食事作り、・・・)
中断しては書き、また中断しては、書き・・・
なにを書いていたか、忘れてしまった。

で、ここで話は変わる・・・
上娘は、今、iTunesで、英語とBGMを流しているが、
ベビーは、こういう音楽を聴きながら育つと、どんな影響があるだろう。
ジャンルは、クラシックと、ジャズ。
わたしは、音のない環境で、育てられたように思う。
ピアノは習わされていたものの、常に家に音楽が流れている環境ではなかった。
親が、音の見本として、音楽を、自然な流れで身に入る環境を整え、示してくれていたわけではない。

どちらかというと、忙しい両親に代わって、家でお留守番をしていた、祖母の影響、大。
相撲と、吉本のお笑いTV。
ああ、だから、わたしは、こんなのになったのか・・・??
クラシックと、ジャズが流れていたら、もっと、かっこいい、年を重ねた女性になれていたかも知れない。
(時遅し。感性は、べったり、たっぷり、どっぷり、吉本と松竹新喜劇)


好きなことを書くと、止まらない。
それよりも、なによりも、まとまりがない。
〆も、結論もない。

今日のところは、これぐらいにしておこう。

「今日は、これぐらいにしといたる」
そういうギャグ、あったなあ・・・。


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ごった煮カルチャー

2013-03-22 | 日々のこと

昨日は、嫁家のお墓参りをした。

信仰深い地でもあり、まわりのお墓は、ぴかぴか。
お花も美しく入れられていた。

そもそも、わたしは、宗教に関しては、似非(えせ)信仰者であると思っている。
宗教は冠婚葬祭につきものであるが、祝い事はクリスチャン、弔い事は仏教。
節操もなにも、あったものではない。

結婚式を神前で、だが、ウエィデングドレスという、超・中途半端ぶり。
白無垢和装でやるか、
ドレスなら、チャペルでやれば、統一感があるのだが、ここは、あえて、はずすところが、ミソ。
ミックス・異宗教カルチャー。
しかも、キリスト教に関しては、信仰もさることながら、学校の授業でかじった程度で、ほとんど知識がない。

バレンタインデーのチョコレート、クリスマス・イベント、プレゼント、ケーキ、・・・
食品業界の手玉に取られて、喜んでサイフのヒモを緩める。


最近、年のせいか、礼節・伝統的な行事も、そこそこ意識し始めた。

その手の話は、ブログ村においては、カテゴリーが違うように感じる。
自分が若い頃、年寄りの、堅苦しい話が苦手だったように、
読む側にとっては、もっとも、つまらない読みたくない話かも知れない。

わたしは、いままで、いい加減だった分、
これからは、襟を正し、少しでもかつてのフマジメ分をリカバーしようとしているのだろうか。
正しい歳の取り方、まっとうな年寄りへの道を、ひた走る、いや、とぼとぼ歩こうとしているのだろうか。

ひとは、ひと。
自分は、自分。

残された年月を考えると、自分が気持ちいいと思える道を歩きたい。
だらっとしているのも、おおいに、気持ちいい。
だが、きりっと、空気が澄んだような、凛とした張り詰めた冷たさも、嫌いではない。

 

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