蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

人を羨んで何になる?

2019-05-31 | 趣味
わたしは、やはり趣味分野ではダメ。
人並み行くか、行かないか。
でも、それでいいじゃないの?

何を望んでいる?
その道で評価を得ている人のように、行かないからって?
自分は何様だと思っている?
好きな趣味に邁進できて幸せではないか。
能力もたいしたことない上に、努力もしないで、なにを好きな想像をしている?
現状で満足しなければ。

そもそも、わたしが、劣等感に陥る状況
、自分で作り出した想像の世界かも知れない。
羨ましく映る女性も、じつは、羨ましくないかも知れない。
他人には目に見えない部分がある。
自分の身の丈に応じた幸せを享受すべきだ。

努力しないで果報を手に入れようなんて、そもそも甘すぎる。
努力したからといって、その分、報われるかといえば、保証はない。
欲を出すと、ろくなことがない。
努力しない道を選んだのは自分。
努力しない程度の評価は当たり前。
努力しても、その分、得られない評価に苦しむことは多々ある。
いずれ努力が実を結ぶことも、結ばないこともある。
向上心て、なに?

まあ、色々です。
C'est la vie.

食育は人を育てる?

2019-05-29 | 子育て
孫、後日談。
次の日、家で温野菜が大嫌いで泣きながら食べていたらしい。
温野菜にかけたレモン風味のドレッシング。自分で選んだものの、酸っぱすぎたようだ。
いつまでも、口の中でモグモグして、一向に進まないのを娘婿(父親)に「飲み込め」と叱られ、泣き泣き飲み込んだと、娘からリークあり。
かわいそうなような、それでいいんだ、というような、笑えるような。

その話から端を発し、わたしの子ども(長女、次女、長男)たちはどうだったか?という流れになり、いつの間にか次女もライン参加し、現在の食生活をはじめ、食育談義、食育論に。
子供、親、その親(わたし)、と縦の線をつなぐと、面白い考察となった。

どうってことない、日常のたわいない話をいとも大げさに、大学講義のように書く、ラウドスピーカーの、わたし。
自分自身は面白がっているんだけど、暇人なんですかね。
(電車内投稿、暇つぶしには、もってこい)

一人遊びできない小学生孫と二人きりで丸一日

2019-05-28 | 子育て
昨日は、感染症蔓延予防のため、孫の通う小学校が学校閉鎖となった。
で、何も娘からは言ってこないから、どうしようかと迷った。
要請を受けていないのに、あえて、自分から手を挙げるのはどうかと。
孫守りは、黄金の自由時間を奪われる。
が、とりあえず、昨日は空いていたので、一昨日の夜、「明日、在宅です」と伝えた。

孫の反応。
「ばあちゃんち、行って(あげても)いいで」
上から目線。
まあ、わたしもいつも予定が空いているわけではないので、空いている時は積極的に協力しようかという殊勝な姿勢。

朝8時にはピンポーンと鳴って、玄関ドアを開けると、孫の、くりくりお目々。
「あれ?一人?」
娘が時間差出勤をするとかなんとか、聞いていたのに、娘の姿はナシ。
まあいいか、頼られた様子(押し付けられた、、、)

10時のおやつ、昼食、3時のおやつ、夕食、デザート、、、胃袋係はまあ、よいとして。
娘から「食事は手抜きでいいよ」とは言われたものの、真面目に作った。
孫が好きな市販のコーンスープはお代わり何杯も。
お手製のドリアは、一口食べて、「要らない、ばあちゃん、食べて」と。
そりゃないやろ。
「どこが、嫌いなの? ちゃんと説明して」と聞くと、孫は、とても上手に日本語を使い、端的に理由を表現した。
「カボチャの上にトマトが、どろっとかかって、美味しくない」

お手製といっても市販のレトルトドリアをご飯にかけ、ウィンナーソーセージ、ブロッコリー、カボチャ、トマトを乗せ、ゆで卵ととろけるチーズをトッピングして焼いたもの。
カボチャと隣り合わせに配置したトマトが、たまたまカボチャ領域を侵して重なっていたのが、「カボチャの上に、どろっとトマト」の原因か。
一口、カボチャを口にすると、変な顔になり、それ以後は、平面続きのウィンナーに進むこともなく、垂直にドリア部分を掘り起こすこともせず、ピタリとフォークが止まった。

せめて、ドリアの味が嫌い、とかなら納得もするかも知れないが、入り口の所で門前払いとは、いかがなるものか。
しかし、彼の的確な日本語に敗れた。

娘の家では、野菜中心の食事で、お残しは許されない。
娘婿が食事担当で、結構厳しい躾をしているようだ。
しかし、ばーちゃんの家では、ゆるゆるルールとなり、孫にナメられる結果を招くことになるが、まあ仕方ない。
いつの世も、ジジババは、孫には甘い。
孫にしてみると、自分の親には厳しいルール、ばーちゃんは甘いルール、さて、学校生活は?
何重線もの価値観ルールが並行してあるなか、子供たちは、どう調整していくのだろうか。(ひと事だー)


「トランプさん来日してるんよ」と、わたし。
「ばーちゃん、トランプしよう!」
と孫。
意図せず、提案のキッカケを作ってしまった。
ドンジャラや、ゲームも。(娘たちが子供の頃、遊んでいたもの)
ゲームはよいのだが、孫は、自分が有利になる、インチキ、ズル、孫ルールを強引に強要してくるので、わたしは接待に徹することになり、まったく面白くない。
「ばーちゃん、あんたがズルばっかりするから面白くなくて、眠いわ〜」と訴えても「寝たらあかん」と、寝させてくれない。

「ばーちゃん、サッカーしよう!」
「無理!」と抵抗したものの、近くのグランドで日傘をさして、サッカーの相手をした。
変な格好。
そのうち、本気モードになり、日傘を投げ出し真剣勝負に。
サッカーからドッヂボールになり、ハンドボールになっていた。

と、延々、小学生の作文は続いている。
長い長い一日だった。


疲れたけれど、彼は生まれた時から、我が家を行ったり来たり。
片方の親が単身赴任中も、孫宅で協力させていただいた。
初めて話した言葉は、「電車ー」。(電車オタク)
「パン」も。(食いしん坊)
成長するにつれ、少しずつ変化して面白い。
しかし、病気の時に預かる、病児保育のほうが、楽だなあ、と。
元気いっぱいの小学生は、トリセツがあるような、ないような。
お取り扱いが微妙だけど、一日ぐらいなら楽しい。

同居してしっかり孫育てしている人には、本当にアタマが下がる。

ブサイクとともに、これからも歩みます

2019-05-26 | わたし
ある人が写真を撮って送信してくれた。
カメラ機能が卓越だというのが売りの、新しいスマホに変えたその人が、バシャバシャとスマホをいじって試運転した。
その真ん前にわたしがいたわけだが、被写体が、たまたま、わたしになった。

もちろん、カメラ目線でもなんでもない、なんの工夫も気合も入っていない、マヌケな、どんより顔。
なんの予測も予想もしていない状態の時に、その顔が、いきなり送信されて目の前に現れると、かなりのショックを受ける。

わあ、ブサイク!!

これ以上でも以下でもない。
若くはないんだから、ブサイクは仕方ないか。
こんな顔?
それにしてもヒドイ!

先日、実家の母の部屋から持って来た、手作りブラウスを着ているのだが、果てしなく、激しく、あり得ないほど、そのブラウスの色柄が趣味が悪い。
気持ち悪いほど似合っていない。
よくあんなものを持ち帰り、持ち帰っただけでなく、恥ずかしげもなく着て出かけたなあと。
魔がさしたとしか、思いようがない。


日をまたいで、もう一回、今朝、恐々、恐る恐る見た。
ブサイクはブサイクだが、目が慣れて来ている。
ブサイクを受け入れなければならない、と自分に言い聞かせた分、こころが落ち付き、やがて、開き直りに変化した。

仕方ないやん、こんな顔でも。
目は二つ、鼻は一つ、口も一つ。オバケには見えない。

そう無理やり自己肯定に近づけようとした、プロセスの中で、
そういえば、若い20歳ぐらいの時もブサイクな写真もいっぱいあったことを思い出した。
気分が悪いから忘れているだけだ。

でもブサイクは、ブサイク。
しかし、それを引きずってはこれからの人生、楽しくない。
このブサイクは、あの新しいスマホのせいにしとおこう。
カメラ機能、写した瞬間に美人に修正していただきたいものである。
て、主観の問題だから無理か?
韓国の美容整形美人ばかりを目にしているので、目のレンズの、美をとらえる機能が画一化されているのかも知れない。

どんまい。

自分の危機を乗り越える方法

2019-05-25 | 人々の風景
昨夜見たEテレ、20時から放送のテレビ番組「人生レシピ」。

ダントツに熱心に見る「ファミリーヒストリー」の次に、ちょっと好きな番組だ。
鶴瓶の旅番組は、見ない。なぜか、ノイズになる。
人が紹介する旅はあまり好きではないし、鶴瓶の旅番組は、人情味や家族愛、ほのぼの温かさが売りなのだろうが、かえって、わたしにとっては息詰まり、暑苦しい。

さて、昨日の「人生レシピ」。
いつなんどき陥るか分からない人生の苦境を、誰の中にも備わっている“レジリエンス”を引き出し、乗り越える方法を紹介する内容だった。
「レジリエンス」、、、聞きなれない言葉。
たぶん、覚えられない。
レジデンス、レジエンス、って言いそうだ。
まあ、なにしろ、それを興味深く見た。
安藤和津さんが出演していて、一昨年まで鬱だったようなことを言っていた。

末期ガン宣告された、元タカラジェンヌが、深い絶望から這い上がるプロセスも紹介されていた。
人がどう思うとか、人にどう思われる、とかではなく、自分がどう思う、自分がどうしたいかを軸に、ものごとを考えるキッカケになったようで、過去の呪縛から解放され、病気になる前より、今が楽しく充実しているとか。

わたしにも思いあたるフシがある。
人がどう思う、ではなく、自分がどう思うか、、、。
かつて、母が、「世間なんか人のことを言うばかりで、何もしてくれない」と怒っていたことを思い出す。
わたしが人間関係のことで少し悩んでいた時に、姉に言われたこともフラッシュバックする。
「あんたの悩んでいる人たちは、人がどう思うか、それが基準になっていて、自分が無い。すべて、人に映る自分。

○○したいが、▲▲さんに非難されるからできない、というのも。
▲▲のせいで、わたしは、○○できない。

非難や反対意見を恐れては何もできない。
自分が考えているのではなく、他人が考えていることに自分が振り回されている。
自分は悪者になりたくないから我慢する。
自己犠牲と引き換えに、非難されない自分を手に入れる。
かわいそうな自分、と、皆んな言ってくれる。
「○○できないのではなく、しようと思えばできるのに○○したくないだけだ」と姉が言った。
できない理由を他者のせいにする。
受動的、被害者意識が強い、自分を悪く言われるのが怖い、ただの臆病者だと。
こころを落ち着かせて、静かに自分の気持ちに耳を傾ける。
何、言ってる?
自分はどうしたいの?
他人のノイズはさておき、自分は?

この発想法にシフトすると、余計なものは削除され、とても気持ちが軽くなった。
自己責任で自己選択する。
したいことをすると逆風とセットになるが、同時にリスクも引き受けて、突き進む。
リスクなしで、自分がしたいことは出来ない。
リスクを少しでも軽減したり、自分のやりたいことをどうしてもしたいのに邪魔が入った場合は、策略を練る。
子供みたいに、「あれ買って〜」とダダをこねたり、どうしても欲しいからと、人のものを取ったり、手段を選ばないのは、やはり非難されて当然だ。

よほど周りや世間の皆さんが同情、共鳴、応援してくれるような気の毒な状況なら別だろうが、出る杭のような、他人がしたくても出来ないことを、自我を出して一歩進むことは、良く思わない人も必ずいる。
非難されてもいい勇気とセットで、やりたいことをする。
(ただし、知恵付きで)
評価の目を気にすると、評価されることを目的にして主客転倒した行動をするのであって、それは本当に自分がしたいことなのか。
自分の胸に聞いてみるといい。
純粋に自分は評価されたいことをしたい、それがどんな辛いハードなことであっても、自分がしたいことだ、というなら、それでも大いに結構だ。
したいことをしたら、結果的に評価された、なんていうのは理想だが、なかなかそんなうまい話はない。


番組では、福島の原発事故で家も土地も失った一家が、前を向いて暮らしを再建させた様子も映し出していた。
「後ろを振り向くな、前だけを見ろ」と、旦那さんが言っていた。
彼がかつて、よく親に言い聞かされていた、「全力で前だけを見て走る、後ろを振り向いてはいけない」という教え。
宗教ストーリーでは、教えに背いて振り返った妻は塩の像にされるのだが、そういう宗教的寓話が信念の中心にあったかも知れない。

宗教でなくても、こころの柱があると、ぐらつかない。
わたしで言えば、「自己チュー教」か、はたまた「自分教」か。
教祖、兼、信者、一人のみ。
一人だから、コロコロ意見を変えても、誰にも文句を言われない。
文句を自分に言われたら、自己嫌悪が伴うにしても。

末期ガンが治癒され、快復するわけではないが、精神的に回復すれば、それが一番の救いか。
末期ガンは、他人が見た、同情すべき状況だが、本人のこころは、解放されている。
ただ、他人にはわからないだろうが、本人が良ければそれでいい。
他人にわかってもらおうとするから、お互いしんどい。
自分がわかっていたら良いのでは?
(さらに欲を言えば、ごく近い身内だけがわかってくれたら幸せ。
身内がいない人もいるし、いても断絶している人もいる)

物分かりのよい自分にするには、日頃から自分ととことん話し合っているほうが、いざという時に手間がかからない。
わたしの場合、自分との長々しい対話は、もしかの場合に備える危機管理かと言えば、そんなのでもなんでもない、たんなる、趣味なんだけど。
ブログに救われてます。


おバアの昔話、その後

2019-05-24 | 読む人々には興味ない話
どなたかが引っぱり出して読んだ足跡がある、9年前(2010.1.20)の過去ブログ記事「おバアの昔話」。
懐かしい話だ。
まだまだ、その話には追加される詳しいエピソードがあるが、まあ昔話として、一人でニヤニヤしておこう。

あんなに、かわいいトモ君をよく手放してしまったものだ。
わたしは、夢に溺れないんだなあと、あんなに若い時でさえ、冷静だ。
夢に溺れないように、父に洗脳されていただけかも知れない。
でも姉は洗脳されていないで、呪縛から逃れていたから、考えの弱いわたしが好き勝手に、そうしたと思われる。

かわいい年下の男子、結婚しようと思えば出来たかも知れかなったのに。
(無理かも知れないが、100%不可能でもない)
もったいなかったか?
いやいや、あれでよかった。
過去には戻れないんだし、もしもあの時、、、と仮定しても時間の無駄。
今が最善だと思いたい。

一人だけ、ああ、あの人と結婚していたらよかった、と後悔する人がいる。
当時のわたしが、未熟だったため、良縁を逃した。
まあ、自業自得だ。
わたしは別の人と結婚して、子供や孫に恵まれ、今の幸せがある。
とは言いながら、じつのところ、誰と結婚していても、あまり変わらなかったような気もしている。
この人ではならない、という思い込みはなく、この人がダメなら、次の人、というように、自分が挙げる条件に当てはまる人なら誰でもよかったみたいだ。
と言いつつ、条件は、あまり身近にはゴロゴロいない、かなりレアなものだったが。
自己防衛、自己チュー色は、若い当時からすでに基礎固めされていたと思われる。

結果良ければ、全て良し。
うまくいかなかった、失敗、不成功プロセスも、彩りの一つである。
彩りは、たくさんあるほうが楽しい。
失敗は成功のもと。
昔のひとは、良いことを言う。

すぐに、なんでも、すんなり理想通りに行けば、ありがたみも、面白みもない。
転んだ時に、ただで起きなかった際に地面の石ころをつかんでいた。
その石ころが両手いっぱいある。
両手では収まりきれないかも知れない。
一つづつ、思い出してみるのも、楽しい作業かも知れない。

自己否定から自己肯定へ長い道のり

2019-05-22 | 読む人々には興味ない話
せっかく注目記事に(AIによって、だろうけれど)選ばれたのに、またまた価値を下げかねない日記投稿をする。
ドンマイ、どうせ、選ぶのはAI。
でも、それにつられて読んでくれるのは、生身の人間。
ありがとうごさいます。
AIに? 皆さんに?

まあ、可愛げのないことは、さておき。
今朝、涙した。
趣味がらみ。
ダンスの練習相手のモラハラに遭った。
情け無い自分。
モラハラに対抗できない。
自分は、モラハラされるに相応しい、それだけの能力しか持っていない。
いつも努力嫌いのせいで、楽をしようとして、自分より能力の高い人を選ぶ。
能力ギャップは、浪花節で埋めようとする。
わたし、出来ないの。ごめんね。一生懸命してるんだけど。
お涙頂戴。
情けをかけてね、と、すがりつく。
みっともない。
プライドはないのか?
、、、ない、、、
打算で、努力の方向を切り替えている。
出来ない箇所を研究、練習を重ね、試行錯誤、努力して、出来るようにするのが、正しい努力方法である。
にもかかわらず、その努力方法は、解答用紙から切り取られ、抜け落ちている。

仮にもプライドがあるなら、自立せよ。
いつもブログで偉そうに言っている、わたし、だが、、、
実際は違うようだ。
プライドなんか、ない。
あるんだが、あったんだが、売り払っている。ただいま、欠品中。
お取り寄せしようにも、アマゾンに売ってるか?

で、出来ない部分を責められ、モラハラのできあがり。
受ける側としては確信犯的・受動モラハラなので、自分で自己責任で受けるしかない。
情け無い。
いつもその時点で、自問自答する。
いっそ、パートナーシップを解消してしまおうか。決裂してしまおうか。
一旦、そう思う。
仮定してみる。シュミレーション、スタート!
だが、、、シュミレーターは一向に作動しない。
なぜ?なぜ?と自問するが、答えが見つからない。
なぜなんだろう。
すでに、答えを持っていて、結論を変える気がないからだ。

自分の能力に相当する人とペアになりたくなくて、自分より上の能力の人と組みたがる。
2人足して2で割ると、自分だけの持ち点数よりも平均点が上がるからだろう。
ズルい手抜き根性。楽して評価だけ得ようとする。
卑怯だ、努力せず、人の土俵に上り込む。
だが、いつも相手の顔色を伺うことになる。
大阪商人、揉み手モミモミ。
なにしまひょ?
にこやかな、ニヤケ顔で客を迎える。
絶対に逆らわない。五分五分ではない。
が、実は魂胆の裏返し。
策略。
だが、お互い、利があれば、ウィンウィンだ。

自分より下の人と組むこともある。
平均点が下がるが、自分のほうが絶対的優位を保てる分野だと、いっこうに評価など気にならない。
自分より下の人と組むと、上に行けないことは最初からわかりきっている。
上に行こうと、はなから思っていない。
下の人は、上には、気をつかってくれる。
耳触りのよいことを言ってくれる。
愚痴もワガママも聞いてくれる。
チヤホヤしてくれる。
相手も、大阪商人。腹の中では策略。
ウィンウィンを目指す。

上であろうが下であろうが、組んだことで少しでも現状より向上すれば良い。


自分が最も重要とし、価値を置いていることには、自分を無にしてでも手に入れたい。
プライドと引き換えにしても。
自己犠牲と引き換えに、目的のものを手に入れる。
ただし、相手をやっつけたり、強引な搾取はしない。
取引である。ギブアンドテイク。


別方向で努力する。
サポート役だったり、縁の下からの支えだったり、隣で団扇で扇ぐ役だったり、応援する役だったり、快適に能率よく仕事などが行える環境を整える役だったり。
仕事や勉強そのものを頑張るのではなく、頑張ってもらう側に回る。
自分には頭打ちの分野なら、別方向から参加する。

だからといって、必要以上には期待しない。
トンビが鷹を産んだ親が、へんに舞い上がるのは良いが、トンビがトンビを産んでいるのに、勘違いして頑張らせ過ぎて、結局、親子共々、トンビを自覚するのは、哀しい。
遠回りではあるが、ある意味、親子で人生勉強をしたことにはなるが。
なににつけても、勘違いはしがちである。
勘違いで器を大きくする場合もある。
良かったのか、良くなかったのか、後にならないと、わからない。
結果論。


話は逸れた。
昨日、途中まで書き、さらに日をまたいで今朝、加筆しているため、色合いが変わってきている。
どんどん逸れている。

つまり、わたしは、自分は頑張らないで籠に乗せてもらい、籠を担いでいる人に賃金を渡しているようなものか。
賃金はご褒美である。
先払いのケースも、後払いのケースもある。
(長期にわたる建築物なんかの場合は、事前、途中、完了時、と3回に分ける?)
たんに褒め言葉だけで満足する人はあまり多くないだろうから、その人、その人にとって価値がある、欲しがるもの、ことを代価として差し出す。
物々交換。
モノ(物体)であるとは限らず、コト(具象的な行動)であることが多い。
お金なら、世界共通。(貨幣のない地域では、どうする?
貨幣に代わる、約束手形みたいなモノか?)
頑張りに対して、お金もさることながら、お金に左右されない「評価」という、最も手に入れにくいものが手に入る。
目的には入っていなかったのに、「感謝」なんていう無形のものもある。

話が逸れに逸れている感あり。
逸れついでに、好きに書こう。
早い話が、持ちつ持たれつ、ギブアンドテイク&ウィンウィンになっているということだ。
船頭は一人で良い。
役割分担して、各自の持ち場で、持ち味を発揮するのが良い。
だから、目的のために、自分の魂やプライドを相手に売っているのではない。
最も効果が高い、効率的で合理的な方法を見つけて実践しているということだ。

ああ、よかった。
長々、書きながら結論が悪い方向に行きそうになったが、どうにか自己肯定へと持ち込めた。
プロセスはなんでもいいから、自分を肯定し、応援すると良いんじゃないかと自己チュー教のわたしは、思うわけである。

ああ疲れた。
最後まで読んだ人、います?

わたしはいつも、人の長い文章は、最初と最後だけ読む。
中身は流し読み。
だって疲れるし、めんどうだから。
皆さんも、ぜひ、そうしてください。

子供が欲しい

2019-05-20 | オトコとオンナ
24歳年下夫と離婚したタレント。
理由が哀しい。
若い夫は、「自分の子供が欲しい」と。
不貞だとか、DV、ギャンブル狂などならわかるが。
責めることができない、かといって、子供が産めない年齢の、自分の要望を通すわけにもいかない。
子供好きな男性ならきっと優しい人なんだろう。

結婚生活7年のうちに、妻が急病を発症した際の夫の対応、サポートで重篤になることを避けられたエピソードもある。
それで感謝してやまない、らしい。
いつかこんな日が来ると覚悟していたかも知れない。
親からはぐれた野生の動物の赤ちゃんが、自立後は野生の森に帰っていくように。
愛情をかけて大切に育てた子供が自立していくように。
楽しい時間をありがとう、という気持ちだろう。
最初からわかりきっていることだったが、人は微妙に変化するのも想定内。
受け入れるしかない。

ちなみに、わたしなら、24歳年下男性と結婚するほどの甲斐性も魅力もない。
わたしは超サボりなので、自分が年上というシチュエーションは、選ばないだろう。
結婚や、異性の対象とは見なさず、介護やサポート、執事、用心棒、召使いの対象に選ぶかも知れない。(限りなく上から目線)
男性であれ、女性であれ、身近にいると信頼も生まれるが、裏切られる可能性も大きい。
血が繋がっていても、紛争やトラブルが起きるのだから、他人ならなおさら。
ビジネスと割り切った、からりとした関係のほうがマシか。
が、人材は要。
優秀な、自分と相性の合う人材を確保、維持するのは並大抵ではない。

件のタレントさん、7年も、ふた回りも年下の男性と楽しい時間を過ごせて良かったではないか。
でも、楽しさには必ず終わりが来る。
これは、動かしようがない。
楽しみの内容や、質を工夫して変えていかない限り、未来永劫に同じ状況をキープするのは不可能だ。
それがわかった上で楽しむと良いのだが、人間だもの、割り切れない。
竜宮城にいつまでも、いたい。
自力で岸に泳ぎ着く自信があるならいつまでも竜宮城に留まるとよいが。
岸への無料バスが出ている間に乗っておいたほうが、リスク回避だ。
自力を過信すると、後で自分が大変である。
何事も一歩手前で終わるのが理想。
しかし、そうは行かないのが、人生だ。
C'est la vie.


自分の子供が欲しい夫と、子供が産めない妻の場合、他にも解決策はあるはずだ。
だが、代理出産だとか、人工的な方法では困難があり、そこまでしたくない人も多いだろう。
となると、子供をあきらめるか、別れるか、二択か。
相手の要望のために身を引くのは、ある意味、美徳。出来た人だ。
24歳もの歳の差婚は、男性が上ならともかく、女性が上だと、もともと無理がある設定だったかも知れない。
運命のイタズラだとして、それも彩りか。
バリエーションを楽しむのも、ひとつのメリハリだ。

楽しいパーティは、いずれ終わる。
お祭りは、終わる。
ぱっと咲いて、ぱっと散るのも潔い。
楽しめない人生より、楽しめる人生。
別れても、また、次の出会いがあるはずだ。
さあ、次。
次、行こう!
きっと次には、さらに輝く幸せが待っていると信じて。

【おまけ】
だが、いつもアンハッピーエンドの流れの人は、そういうことに必然的になる体質である。
ハッピーエンドを想定しない選択を常にしているという側面を持つ。
価値観それぞれ、人それぞれである。

1年生は、お疲れさん

2019-05-17 | 子育て
平日の1日だけ、(一番上の)孫は放課後に開かれる学童教室には行かず、直接、ジジババ(わたし)の家に来る。
彼は先月、ピカピカの1年生になったばかり。
初めての日は、顔を紅潮させて、「ただいま!」と、遠慮気味ではあるが、笑顔だった。
何度か続くと、、、だんだん慣れてくるのか、厚かましくなってきた。
昨日は、相変わらず赤い顔で帰って来るなり、バタンキューと倒れ込んでいた。
よほど疲れたのだろう。
今、思えば、来月、運動会があるので練習があったのかも知れない。

ばあちゃんちに行ったら、まずは一番に宿題をすること!と、コワイ母親に彼は躾られているので、いつも、何はさておき、宿題をする。

昨日の宿題は、ひらがなの一文字か二文字を大きなマス目に2ページぐらい、点線に沿ってなぞるだけ。
楽勝もいいところだ、と、わたしは思っていた。
アタマも要らないし、パワーも要らない。集中力も要らない。
たんなる作業だ。
でも、彼は一文字、一文字、全身全霊を込めて(そんなふうに見える)、一文字、書くたびに、はぁ〜、と、上半身を机に伏せて疲れ全開。
そんなに、疲れるか?

わたしは、3歳4歳5歳の幼児を、毎日テキスト攻めにした過去の経歴がある。
今、思えば、かわいそうだった。
特に一番下の子は、算数のプリント、計算問題を、一つ数を間違えて全て記入していた。
10枚ぐらい?全部やり直し。
わーわー声をあげて泣いていたが、こころを鬼にして、やり直させた。
当時のわたしが、ある意味、自分で生み出した教育熱に洗脳されていたのかも知れない。自主洗脳。
小学生になるまでだったか、わたしの子供たちは1日も欠かさずやっていた。
(実家に遊びに行った時も、持ち込んでやらせていたため、姉からは、あきれられた)
毎日課せられたプリントをこなすため、最低30分?ぐらいは、机に向かう。
プリントの中身、たとえば、計算能力や漢字、語彙が身についたというよりは、何が何でも机に向かい、やるべきことをすまさなければ解放されない、義務を果たすまでは好きなことができない、そういう習慣が身についたと思う。

ガシャガシャ動き回る子には、苦痛以外のなにものでもないだろう。
当時、通っていた教室では、周りの子どもたちも黙々とこなしていたが、あまり長続きはしなかった子もいる。

わたしは、見極めが早い。
子供が嫌がった場合、合わないと思うと、やめさせる。
無理やり、無理強いはしない。潰れそうな場合は、さっさとあきらめる。
子供のタイプによって、得手不得手があり、どの子も同じわけにはいかない。
AIが代わりにしてくれる分野もたくさん出てくるから、知識に偏った詰め込み式教育は、今後はあまり意味がないようにも思う。
「創造力」が、キー。
(いずれにせよ、何事も基礎は大事だ)

まあ、そうやって、行けそうなら鬼の母親となって、やらせたわけだが、、、
成長するにつれての結果はその後の、各個人の頑張りに起因するものとして、あくまでも、基礎部分を受け持った。

と、それから見ると、孫のアゴ出しようったら、、、
当時わたしは仕事をしていなかったから、親が無職と有職では、違っていても仕方ないか、子供に手をかけられない分、親は仕事が出来るんだから、、、
一方が立てば、一方が立たず。
なんて考えたり。
だが、専業主婦で教育ママの子供のデキが良いとは限らない。
圧力をかけられすぎて能力が伸びないケースもある。

というか、孫の性格にもよる。
一番上の孫は、超真面目タイプなので、外の生活に疲れるのだろう。
先生の言うことを、一言も聞き漏らすまいと注意深く聞く、お利口さん。
運動会では自分が一番年下だし(学年の中でも)、小学校という新しい社会で、それこそ、へとへとだったのかも知れない。
めいっぱい頑張るから、余力が残ってないのだろう。

わたしは、頑張らないタイプだから正反対だ。
子供時代は、家では気が休まらず疲れるけれど、家庭外では、のびのびしていたから。
自分を基準に考えると、彼を理解する上かには誤解を生じるかも知れない。

孫にしてみれば、自分の親の子供の頃、頑張った話を持ち出され、迷惑、うんざりだろう。
比較しないでよ、時代も違うんだし、
といったかんじか。
頑張らせたバアちゃんが、子育て自慢したいだけか?

まあ、しかし、ついつい自分や子供の「子供時代」と無意識に比べてしまうのは、人間のサガ。
今の子供を教育することは、わたしには出来ない。
せいぜい、夕食にウインナーをオマケで追加するぐらいのサービスしか出来ない。
アンパンマンふりかけも、ついでに。

いつも、彼らには、楽しませてもらっている。
本当に感謝。
もし、孫たちのデキが悪くても、わたしは楽しい時間を過ごせたんだから、ありがたい。
デキが悪かろうが、良かろうが、大人になれば、どうにかなるだろう。
日本の国が、成熟する一方で、今の水準を維持出来るかどうか、それのほうが心配だ。
繁栄→成熟→衰退は、自然の成り行き。
他の先進国をお手本に、衰退しないように皆、英知を絞らなければ、、、。

【余談】
幼児時にわーわー泣きながらプリントをやっていた次女が、先日の母の日、帰省して、我が家で手作りチョコケーキを作ってくれた。
なによりのプレゼントだった。

機関銃トーク独り言、どこまで続く?

2019-05-16 | 日々のこと
行きつけのSNS、メンテにかかる時間が長すぎる。
36時間って、どう?
わたしは、完全に死んでしまう、、、
ではないか。
というか、どんだけ友達いないの?の世界。
仕事しなくていいんか?の世界。
なんなりと、すること、あるでしょう?の世界。

しかたないから、仕事してます。
ということは、SNSがないほうが、わたしは仕事人になり、評価される人間になれたかも知れない。
残念でした。
指折り数え、あと3時間でメンテ完了、復旧予定だ。
たんなるオタクの定位置をキープしてしまう。
が、今日は来客、来訪者、午後、夜、と続くので、スマホで背中を丸くして遊んでいられない。


オタクにとって、なにが一番苦手かというと、生での人との交流だ。
臨場感を伴い、リアルに対面を要する。
が、これがないと、人として生きていけない。
必要不可欠なものだと、(苦手なり)に捉えている。
生ではない、乾燥ラーメンや真空パック食品みたいなかんじのSNS交流は大好きだが。

こんなに人と生身交流しなくて、大丈夫?わたし?
もしわたしがこの世から去っても、泣く人はいるのだろうか。
たいして、頑張って人の世話をしたわけでもなし、泣いてくれるほどの偉業はしていない。
でも、見ず知らずの人であっても、不慮の事故等で亡くなると追悼の意を表す。
人として、別になにをしたからといって、何をしなかったからといって、生きる尊厳は保たれるべきだ。


昨夜、観たテレビ番組。Eテレ。
高齢者断酒の施設で暮らす男性たちが映し出されていた。
家族にさんざん迷惑をかけ、最終的に施設に入れられた人が多い。
中での1人は、高齢者といっても、わたしより若い。高齢者なのか?
お兄さんに面倒を見てもらい、お兄さんは弟のせいで結婚も出来ず、良い老後も送れない。
2人の若い頃の写真を見ると、爽やかな好青年兄弟だ。
兄は弟を支え、弟は兄に支えられ、生きてきた。
どう見ても、ギブアンドテイクではなく、一方的に面倒を見る側と見られる側。
兄弟の絆、血の繋がりは濃いと感じるが、血が繋がっていても断絶の道を歩むこともある。

自分を振り返り、わたしはどちらかというと、面倒を見られる側だ。
面倒を見られる側は、迷惑さえかけなければペットみたいなかんじで、面倒を見る側に安らぎや癒しを与えるのだろうか。
たいして役に立たない。
いてもいなくても、あまり変わらない。
昔は子供たちを産み育てたが、過去の話。
いつまでも、産んで育てたんだから、と恩を着せるつもりなどサラサラない。
もし、わたしに子供たちが恩返しをしてくれるとすると、自立してくれることだ。
それで十分。
お互いに自立した上で、たまには、もたれたり、もたれられたりするのが良い。
選択肢のある彩りオプションとして。


話は変わるが、
淡々と自分の役割、仕事をこなしていた祖母。
明治の女性。
時代もあるだろう。
たまたま、兄嫁と、甥の嫁が、祖母の名前と(一部)同じである。
たまたまなのだろうか。
兄と甥っ子は、風貌、気質、タイプが似ている。
自然に導かれるように、祖母が呼んだのだろうか。

わたしも、どちらかというと基本的なところに祖母的な部分はある。
憧れるとすると父方血統系。
かたや、明治の芯の強い女性(=祖母)をものともせず、平気で自分流で接する、これまたやたら強い昭和の女性の母。
2人とも、強さの質が少し違う。
最近のわたしは、最も理想としたくない母に似てきたように思う。
歳のせいだろうか。
図々しく生きたほうが、ストレスが溜まらなくて良い。
祖母、母、2人とも芯は強いが、母の場合、根性と馬力と押しがあり、繊細なこころを持ち合わせていないところが、抑えることを知らない強さに拍車をかけている。
ただし、周りには感謝されないだろうけれど、自分の人生を自分のために使ってどこが悪い?
他人から見ると迷惑な人でもなんでもないわけで。
ただし家族にしてみると、働き者ではあったが、激情ヒステリーの被害を受け、ワンマンで厄介なだけで。
「祖母&母」の、「姑&嫁」の組み合わせは、なかなかなものだ。

わたしの場合、姑の先輩たちがたくさんいるので、みんなそれぞれに嫁になり、姑になり、その立場の中で個性を出している。
やたら調和を乱す人はいなかったと思われる。

と、この話は長い。
書く人もしつこく何度も書き、読む人も、うんざり。

幾度か席を立ちながらブログ記事入力しているため、集中力が途切れている。
で、まとめは、、、?
で、で?


最近は涙もろくなり、ちょっとしたことで涙が頬を伝う。
みんなそれぞれに、一生懸命生きているんだなあと感じる。
評価が高かろうが、低かろうが。
自分の人生。
人にどう思われようが、自分が納得するのが一番だと思う。

【関係ないが、追加】
日本はスゴイ国だ。
個人に1回3349万円の投薬が公的保険適用され、税金で支払われるとは。
(ヨーロッパやアメリカでは新薬としては承認されているようだが、保険適用は?)