蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

内向き人間

2023-10-31 | わたし
外向的と内向的。
社交的と非社交的。
自分の外に楽しみを求めるか、内に求めるか。
自分の外に喜びを感じるか、内に感じるか。
ミックス型もあるだろう。

外交すると疲れ摩耗するので、エネルギーチャージのため孤独になる時間が必要なのか。
1人でいると寂しく虚しくなるので、外交して活力を得るのか。

わたしは、典型的に内向型である。
喜びを自分の内側に求め、人と調整したり刺激を受けたりするのは、自分のエネルギー獲得のため。
自分のことではないとは言え、血を分けた愛する家族のことは、自分のこととほぼ同じ扱い。(血を分けていない家族はまだ未分類)
家族の喜びは自分の喜び。
家族の悲しみは自分の悲しみ。
ではあるが、自分のこころの問題であり、人のプライバシーゾーンにはあまり介入しない。
行動には距離を取る。
寄りかかりすぎると自立を妨げる。
家族はそれぞれが自治区。

エネルギー源をウチに持ち帰る。
外で発散なんてことはない。
インプットし過ぎて鬱積したものがあるとすると、それは滋養の元へと変換させる。
(芸術家は、負と正の諸々の情熱を昇華)
発酵させる。
熟成させる。
いずれ、別のかたちで自分のプラスになる。
役に立つ。
人生に無駄時間はあっても、無駄はない。






一人で上がったり下がったり

2023-10-30 | お出かけ
土日は夫仕事関連ミニ旅参加。
コロナで、4年間、旅行開催は休止され、この度、再開された。
4年お目にかからなかったら、ある人は、どっと老けていた。 
あんなにスタイリッシュで洗練されたモードの方だったのに、、、。
髪の毛事情と、お肌事情の影響だと感じた。
ビジュアルから受ける偏ったイメージ先入観か、ちょっとヨロついておられるように見えた。(失礼な感想、すみません)
背中がやけに内向きにカーブを描いてまんまるになっている人もいた。(わたしと同じ歳)
毎年見ていれば、そう気にならなかったかも知れないが、4年は大きい。

別のある方、Aさんは、この4年のうちのいつかの年に仕事をリタイアされた。
このAさんは、眉目秀麗、頭脳明晰、才色兼備を教科書の優秀お手本のように体現された方。
美人、オシャレ、スタイリッシュで秀才で、更にご自分の高い能力、技能から生み出す経済力がたっぷり。
ご家族仲良しで、お子供さんたちもお孫さんたちもいる。
ゴルフではコンペの賞を総なめ、明るく快活、行動力もあり、チャーミングな人で、旦那さんは学生時代の同級生。
歳も職業も趣味も同じ。
これまた、スマートで、しゅっとしていて(→関西弁)なおかつ素敵な渋みが加わり、「カッコいい」を絵に描いたような方。
今回の旅行にもご一緒されていた。(毎回、常にご一緒参加)
ご夫婦揃って、眩しい眩しい、太陽のごとくキラキラ光り輝く。
そのAさん(奥さん)が、バスのわたしの前の席で、通路を挟んで横並びの席の、少しだけ先輩Bさん(男性)とおしゃべりに花が咲いていた。
Bさんのお隣、窓側席は、やはり同業の奥さん。
その前の窓側席はAさんの旦那さん。

にぎやかトークは、Aさんと、Bさん。
2人とも同じ趣味。ゴルフ。
Bさんは同じく活発な親分肌の方で、声がまたやたら大きい。
話の一部始終は、バス中に響き渡り、今回は初めて担当となるニューフェイスのバスガイドさんの緊張感あふれる声など、全くと言っていいほど、聞こえない。

最初は、Aさんのお話、素晴らしいなあと聞き惚れていた。
リタイアして時間が出来たので、絵画、ピアノ、料理、と趣味の話。
旅先の電車の駅でストリート・ピアノをご披露された様子をスマホ動画付きでBさんに説明。
その前に行われた発表会のために練習し暗譜していた曲だそうな。
絵画教室でのデッサン、スケッチなど、熱心な取り組みや先生との会話、エピソードを面白おかしく話されていた。
こんな素晴らしい人と直接、話すわけではないにしても、TVの向こうではなく現実的にリアルに知り合いがいるなんて凄いなあ、と喜んでみたり。
Aさんの席のすぐ背後に座るわたしは、Aさんのにこやかな横顔も背もたれの隙間からチラリと見えたりして、時々クスッと笑ったり、テレビかラジオでも聞くかのように楽しんでいた。

、、、が、徐々に、椅子の背もたれ一つ隔てて聞く一方の、わたしの参加の仕方が、居心地が悪くなってきた。
アウェイ感がムクムク。
なんでわたしはここに居るんだろう?と。
明らかに場違いなんじゃないだろうか、と。
だんだん、共通点などまるでない、わたしとのあまりの違いに、もやっとした感覚が生まれてきた。
会話に自分は参加せず相手に知られないところで一方的に聞いているから、相槌を打たなくていいし、表情や反応に気を遣わなくていいから気楽でよいわ〜、だとか、
こんな素晴らしい人と(能力的にも気後れして)とても互角になんか話せないから相手に知られずに聞くだけのシチュエーションで良かったわ〜、
などと、(強引に)メリットを挙げながら、話を聞いていた。
そのうち、日本語聞き取り読解の役に立つわ〜、自分の聴力、理解力のチェックになるわ〜、と、メリット内容の質が段々変化していった。(日本語リスニング、ヒヤリング トレーニングに移行)

と、メリットをいくら挙げても沈んでいく気持ちはなかなか上がって来ない。
内気で内向的で非社交的、なんの取り柄もないわたしは、こんなところき居るべきではない。
自分の存在そのものを否定して、消えてなくなりたいような気になった。
晴れのち曇りのち豪雨。まるで、ジェットコースター。

背後に座っているだけの、なんの関わりもないわたしに、こんなに上がったり下がったりされたら、Aさんも迷惑だろう。
わたしはわたしで、わたしにも何か良いところがあるかも知れない、自分独自の長所や生き甲斐がある、、、なんて自分を慰め、立ち直ろうとしていた。

そんなこんなで、バスは目的地に着いた。
うしろのほうの席に座っていた夫は、バスを降りた後で、
「Aさんうるさかったなあ」と迷惑そうにボソっと言った。
あらまあ。
わたしは、ひとりで自分劇場、喜んだり嘆いたり、上がったり下がったりしていたのに、
夫は「うるさい」の一言、、、なんと、わかりやすい。
ひょっとして他の人も、うるさいと思っていたかも???
バスの中にいた一人一人、感想を聞いて回ったわけではないので、人のこころの中まで確認しようがないが。

ちなみに。
わたしと同じ歳か一つ歳上のAさんに憧憬はあっても、嫉妬や憎しみは全くない。
(生きてきた時代背景は年代ギャップなし、全く同じ)
ではあるが、端から端まで比べものにならないし、競う気持ちは皆無。
しかし、あまりの違いに、自分が価値がないように感じた後、思い直してまた浮上できているんだから、それはそれで良い。
人それぞれ、個性や性格は違う。
そう認識した。

同じ職場や、近所だったり、姉妹や親戚だとかで顔を合わせ続けなければならないなら苦痛かも知れないが、一瞬、ご縁でご一緒するだけの間柄。
もし一対一で話さなければならないとしたら、わたしは、超絶苦手だ。
食事の席などは、絶対に同じテーブルには座らない。
太陽(月ではない)とスッポンぐらい違う。
が、人それぞれ。タイプが違うのは当たり前。
似たような人がグループ化するのも当たり前。
当たり前すぎることである。

成り行きまかせ

2023-10-27 | お付き合い
ケチだと思われたくなくて、趣味仲間との飲食の際に相手が支払わない時は自分が払う。
だが、こんな根拠、理由ではいずれ破綻する。

相手によっては、支払っても、嫌ではないこともある。
いや、喜んで支払う。
それは娘一家との飲食。
(ご馳走してくれたら、かえって窮屈)
ではあるものの、娘婿が親が支払うことに気を遣うので、それに対して気を遣う。
いずれもっと歳を取り弱りに弱り、立場が逆になれば支払ってもらう。(たぶん、そんな日は、娘に後見人になってもらっている)
今の日本は、少し前の世代のほうが経済的に恵まれている。
年金の額も違う。
少子高齢化で、若い人は多くの高齢者を支えて大変だ。
そういう意味もあって、出過ぎず甘やかし過ぎず自立心を失わせず、手助けしたい。
援助とまではいかない。
あくまでも、手助け程度。
自分のことは自分でする、若い人に世話にならないように努力するのも、手助けのようなもの。
親子間では、足を引っ張らず、迷惑をかけず、良い距離感を保ちたい。
が、そんな理想的なことばかり、うまく行かない展開も大いにあり得る。
その時は互助会の精神で。

お金を稼ぐのは、大変である。
危ない橋を渡る場合も、お金のため。
それで身を持ち崩すこともある。
お金は人を狂わせる。
なんでだろう?
生活できるだけのお金があっても、もっと欲しがる、麻薬的、媚薬的、万能薬的効力がある。

一昔前は、男性が支払うのが普通だった。
今は違う。
だが、意識が古い人もいる。
女性も支払うべきであるが、何も相手の分まで支払う必要はない。
まして、自分のほうが年下なら、先輩を差し置いてというシチュエーションは避けたい。
やはり、ワリカンが1番平和だと思う。
そう強く自分の考えを認識した。

それはそうと。
今日は急に雨が降り、帰りに寄り道、飲食はしなかった。
そんなかんじで、誰が払う?ではなく、自然な成り行きに任せるのが良いかも知れない。

思い出すと、冷や汗たらり

2023-10-26 | 思い出
思い出はたくさん、色々ある。
現在進行形のものも、今月、来月予定のものも。
やがて、良い思い出になる。

ふと断片的にワンシーンを思い出すことがある。
脳裏に浮かぶのに至った経緯があるが、説明は割愛。


ダイニングの扉付き棚に置いている文庫本。
今、また次の本を読んでいる。
2007年初版の「フランス残酷物語」。
18〜19世紀頃を主に、フランス歴史に残る、お姫様などの裏の顔を抉(えぐ)り出す、えげつない血生臭いお話。
年代や名前がどんどん出てくるので、年代や年齢、名前や血縁関係がゴチャゴチャになり、ページを前後してめくっては、わたしの理解の悪さが露呈され、ヘキヘキする。
なので、少し読んでは休憩、また少し読んでは休憩。
休憩のコーヒー飲みたさに読んでいるかの如く。

まだダイニングの棚には、本が詰まっている。
中には、作家さんに、目の前で直接サインしていただきながら、1ページも読んでいないハードカバーの重い本もある。
けしからん、わたし。
作家さんは、学生時代の元同級生Kちゃん。
当時は、新聞や他のメディアで活躍されていた。
最近はメディアでは名前を見たことがないが、おそらく地元でコツコツ頑張っておられることだろう。
その本も、今後楽しみにしている一冊である。
(ごめん、Kちゃん)

このKちゃんは、わたしの親友Yが進んだ学部にいた生徒さん。
(わたしは親友Yと同じ学校に進んでいるが、別学部)
Yと同じ学部のクラスメイトとして、Kちゃんをたまたますれ違った庭園で軽く紹介された。
軽く会釈したぐらいで、話したことはないはず。

ではあるものの、Kちゃんは後に作家としての道を歩み出した。
多分、教職の道にも進めたと思うが、結婚後、婚家の地で暮らした。
わたしの想像では、子育てをしながら、エネルギーを溜めたと思う。
都会ではない地での風習や因習に悩まされたのではないかと想像する。(わたしがそうであったように)

そのエネルギーの発露が小説であり、文化活動であったのではないだろうか。
かつて、仕事でわたしが受け持っていた、専門的刊行物があった。
Kちゃんは、とある県の行政機関が発行する、地元の河川を紹介する冊子を監修する立場で関わっていた。
地元から発信、活躍中の作家という肩書き。
そこで、1番最初に県の関係者一同が顔合わせをする機会があった。
わたしは編集担当者として顔を出したのだが、わたしはKちゃんの知り合いという触れ込み、前宣伝、自己PRをしていた。
まるで旧知の仲であるかの如く。
しかし、実際に会議の席で顔を合わせた時に、わたしを認識されるかどうか不安だった。
誰?この人?知らない・・・という展開。

学生時代に人を介して会釈しただけの間柄。
それと、同窓生が主催した実家古民家(商家)コンサートに参加した時に、Kちゃんも来ていた。
大阪市内の古い大きな商家で、1階は、「田の字」に配置された4つの和室の襖を全部外して解放され、広い客席になっていた。
蔵も改装され2階はカフェになっていたような??
ついでにかどうかは知らないが、Kちゃんの本を紹介していて、そこでサインをしてもらった。
たったそれだけの接触なので、Kちゃんがわたしを覚えているかどうか、自信がまるでなかった。

初顔合わせの日に、ドキドキしてKちゃんが現れるのを待っていたが、なんとKちゃんは都合で不参加になった。
ドタキャン。
わたしは、とてもホッとした。
あ〜よかった。

「Kちゃん!」「〇〇ちゃん!!」というサプライズ対面ならまだしも、
「Kちゃん!!」「・・・??」
と、不穏なムードが漂っていたかも知れなかった。
それでなんだか肩の荷が降りたような(なんにも役割も責任も果たしていないのに)、安堵感を覚えた。

という、やや苦い思い出、エピソード付きのKちゃんの本は、まだそのまま、ダイニングの棚に眠ったままである。


※写真は、息子が今年の母の日にくれた(LINEで送信)花束(商品)プレゼント、
交換期限を今月末に控えて、ギリギリに交換したもの。
この花束交換も、花屋側の問題で交換できず、わざわざ電車に乗って別の花屋まで出向き、やっと交換できた、いわく付き。
電子商品の交換店として地元では唯一、1店舗だけ紹介されている花屋にもかかわらず、電子商品と聞いただけで拒絶反応を示され拒否され、あたかも電子商品を持ち込むわたしが悪いかのような態度にムカついた。





飲食はワリカン希望

2023-10-25 | 日々のこと
迷いと疑問と悩みがある。
一緒に飲食したり、行動する場合、誰が支払うか。
ワリカンなら問題なし。
お互い、自分の分は自分が出す。

ワリカンでない場合が微妙である。
どちらかが出す、誰かが出す、自分が自分以外の分も出す。
力関係が発生する。

お金を出してまで参加する気がない場合、招待や無料なら参加してもいい、あるいは、タダでも嫌、参加しない、、、色々ある。

お金を出したくない場合もあるし、出すお金がない場合もある。
お金を出したくない場合も、その行動がしたくない場合や、ケチで出したくない場合がある。
誘ったほうが出すのが暗黙のルールだとか。
行動のパターンが定着してきたら、ワリカンにする流れもあるだろう。

お酒を飲みたい人と、お付き合い程度で飲む人、少ししか飲まない人の場合、ワリカンは不公平だ。
お酒だけでなく、お茶、コーヒーもそう。
お店に入ってまで飲みたくない、自家製マイボトルドリンクや、自販機ペットボトルのお茶や、コンビニコーヒーで十分という人と行動を共にすると、自分がお店に入りたい場合、相手の分も支払わなければならない(気がする)。
わたしは、最近それが嫌になっている。
なんで、家計を共にしていない、家族でもない、独立した大人の他人の分まで出さなければならない?

この状態は1年半続いているが、もうしばらくすると、わたしは本当に嫌になるだろう。
だからと言って、相手に出させる勇気はない。
なので、その人との行動を制限するような気がする。
飲食店に以前は寄っていたのに、寄らなくなると推測する。

または、「わたし1人で行くから、ここでサヨナラ」と、店の前で別れる。
出来るかなあ、そんなこと。
でも、納得できない思いが溜まってくると、グラスの水が溢れてくるように、段々、不満を解消する方向へと舵を切りそうだ。

わたしは、お金にはうるさい。
納得が行かないお金は使いたくない。
うやむやにしたくない。
平等の立場でお互い自立しているのに、なんで他人の分まで支払わなければならない?
お互い、自分の分は自分で払うべき。
そうすると、自分がお金を出したくない人とは段々、疎遠になるのか?

いや、そうでもないかも。
共通の目的部分(趣味の時間)を共有しているので、枝葉はさほど重要ではない。
どうしても飲食店に寄って飲食したい自分と、さほどお店には寄りたくない相手がいるなら、真ん中を取ればいい。
調整、妥協。
お互いの落とし所を探る。

しかし、わたしがお店に寄りたい場合、たいして寄りたくない相手の飲食代も払わなければならない。
それが嫌ならお店の前で別れる。
それは出来ない。そんなことは。
では、喉の渇きを潤すのを諦めるか、相手の分まで払うか。
と、堂々巡り。
どっち?
悩みながらも、相手の分も支払っているわたし。
それが嫌なら寄らない。
あるいは店の前で別れる。
と、延々と繰り返し同じことを書いている。

相手は得だなあ。
フトコロが痛まない。
わたしだけが、消費欲求行動と支払いのジレンマに陥っている。
相手は、無い袖が振れないのだとすれば、
それならわかりやすい。
だが、それはそれで、経済状況が同じぐらいの人でないと、付き合いにくい。
それとも単に飲まない人なだけか。
どっちにしても、わたしとは足並みが揃わない。
わたしは不利だ。
欲求があるほうが、欲求のないほうに負けるのか。
欲求がある方が強いはずなのに。

しかし、相手の立場を自分に置き換えて、よくよく考えてみると、、、
気乗りのしない飲食に自腹では参加したくない気持ちは、とてもよくわかる。
タダならともかく、自腹では、気が進まない。
ではあるが、あまり好物でもない飲食やお金の問題はあっても、付き合いというものがある。
いわゆる交際費である。
これは、やはり最低限度は負担しなければならない。
いつも相手に払ってもらうわけにはいかない。
見栄を張ったり、忖度したり、恥ずかしがったりしないで、自分の気持ちに正直になるにはどうすれば良いか。
その場合は、度重なるのであれば、飲食店に寄ることを辞退するだろう。
相手の立場になって考えても、辞退、自分の場合も辞退、、、となると、交際費にかかる飲食代は、カットするのが望ましい。
練習の帰りは、寄り道せず、まっすぐ家に帰るのが良いということだ。
が、大概は、練習の帰りには労を労い、雑談やコミュニケーションに、お茶やビールの一杯も飲みたくなる。

だが相手が飲みたくないなら、真っ直ぐ帰るしかない。
趣味の練習だけでも満足なのに、さらに帰りに娯楽性を求めるのは贅沢なのかも知れない。

とは言え、趣味の集まりでは、帰りに寄るお店でお酒やおしゃべりを楽しみにしている人も多い。
が、全員が全員そうでもないので、参加したくなければ参加しなければよい。
しかし、2人しかいないと、相手が参加しないと、寄り道は成立しない。


と、延々、小さな小さなわたしは、小さな小さな悩みに対して、頭を整理してみた。
結局どうなのか。

とりあえず成り行きの様子を見よう。


「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」を観た

2023-10-24 | 映画
映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」を観た。
超大作。長編。
レオナルド・ディカプリオとロバート・デ・ニーロ。
デニーロさんはちょいちょい、いろんなところで見かけるが、ディカプリオはそうそうお目にかかれない。
なので、私的プライベート・スケジュールを3回も組み直して、あちこち迷惑を少しかけながら(ほんの少し)調整して観に行った。

全く予備知識なく観たので、よくわからないこともあったが、なかなか興味深かった。
血生臭のは苦手だと身構えていたが、感情を爆発させない静かな映画だった。
デカプリオとデニーロは、どんな展開になるのだろうと、最後まで緊張して観ていた。

歴史に上らない、明るみにならない、知る人は知る、知らない人は知らない、史実を元にしたものだった。
ステレオタイプの捉え方ではなく、光を当てる面(方向)、見る側を変えると180度、変わる。
時代は進んだなあ、、、と感じた。
わたしは映画評は苦手なので、いろんな方々の書かれているものをお読みいただきたい。

映画を見終わった後、あれこれ調べるのも楽しい。
一つの史実を掘り下げると、同時に諸々の事柄を知る。
時代、人、政治、法律。
専門的なことは全くわからないが、なんだか知識の扉が、ぱあ〜っと自然に開くような気がした。
遊ぶ対象は、いっぱいある、と実感して、嬉しくなった。
知的好奇心に満ちた、読書好きの子供のよう。
本の向こうには未知の知らないことが広がっている。
今の時代なら、本=インターネットである。
わたしが全く知らない、イギリスの19世紀の政治家を調べると、出るわ出るわ、延々とwikipediaが終わらない。
他にも、映画の内容に関わる、とても興味深い(日経サイトで)記事があり、今後のために、と思わず、会員登録しようとしたら、すでに会員だった。
登録していたことをすっかり忘れている。
だが、パスワードがわからないので、再登録した。
たぶん、また忘れてインターネットの海で溺れる。

ではあるものの、、、
日本だけでなく、外国の歴史を知るのは新鮮だ。
学校では全く習わなかったことが多い。
大まかな歴史は駆け足で習ったが、細かい、時代の隙間に埋もれてしまうような史実は、まるで知らない。
(近代や現代は、3学期の授業は時間切れ。
春休みに突入)

史実を利害関係で歪曲されたり、ねつ造されたりすることもあるだろう。
先住民と移植者、搾取される側と、搾取する側。
先進国と後進国。

難しい問題が山積している。





人と競わない

2023-10-23 | 日々のこと
gooのアピール記事を読んだ。
初めて知ったブログ。80歳女性。
お孫さんのことが書かれていた。
4人いるお孫さん。
1番上は社会人1年生、1番下は中学生の、素晴らしいお孫さんたち。
そして、わたしが逆さになってもマネできない、頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備を絵に描いたようような、現役トップを走る素晴らしい娘さんたちファミリー。

ブログに包み隠さずお披露目されるという(個人特定はされないが)記事の数々を読み、世の中の赤の他人の人々に対して忖度だとか、そういう無駄なことはなさらない方だとお見受けした。
正解である。
おそらく、忖度しない、迎合しないスタンスに関してはわたしもそうだろう。

色々な記事を遡って読んでみると、完璧以外の何ものでもなかった。
曇りひとつない、欠点のない暮らし、家族。
最新モデルハウスのような洗練され美しく手入れされたお住まい。お料理、設え。
お手本のような人生。
仲良し妹さん(70代)のブログも紹介されていた。
いくつも、いくつも読んで、、、、疲れた。
やはりわたしは、優等生にはなれない。
日陰か地下で拗ねているのが性質・性格に合っている。
よそゆきの正装より、ゆるっとした普段着が心地よい。

それとはまた別に、今、ブログ村エッセイの注目記事にいくつもの記事がランキングされている、初めて知ったブログ。
60代女性のようだが、前述のブログとはまた趣きが全く違う。
地に足が着いた、落ち着いた暮らし。
身近で手に取りやすく、親近感を覚え、ほっとするのではないだろうか。
皆さんのそれぞれの目線から見た毎日が書かれている。

ちなみに。
昨日のTV番組、林修先生の初耳学。
佐々木蔵之介さんがゲスト。
彼を評して、中井貴一さんが、
「彼は人と競わない。見つめるのは他者ではなく自分。そうやって自分を高める」
のようなことを仰っていた。
佐々木氏は関西弁バリバリで、同じ関西人としては親近感を持つところではあるが、なんだか関西弁が奇異な感じがした。
ご実家の佐々木酒造のお酒はいただいたことがある。
記念に栓の上に掛けてある煌びやかな京織物?西陣織?の生地(端切)を取っておいている。
(まさに断捨離の真逆。
写真に撮ってデータで保存したらいかが?とお叱りを受けそうだが)

佐々木酒造は、順々に上から息子さんたちが長男、次男と1人抜け2人抜け、今は、柔和な(想像です)三男さんが跡継ぎとなって活躍しておられる。
明治以後の創業のようで(江戸時代ではなく)意外な気もしたが、老舗には違いない。
今では洛中で酒蔵を営む蔵元は佐々木酒造だけになってしまったようだが、京都の地の良質で豊富な名水を仕込み水とした、全ての酒を洛中伝承の技法で製造しているそうだ。
地場の恵みを活かし伝統を継承して頑張っていただきたい。
と、なにやら業界レポートのようになってしまった。

中井貴一さんと共演の映画、「嘘八百」は全3作とも映画館で観た。
中年同世代(佐々木55歳、中井62歳)、ほぼ同高身長(1センチ差。佐々木182センチ、中井181センチ)、同性の2人の俳優が、精緻、かつ絶妙なやり取りで繰り広げられる展開は、コミカルで楽しい。

初耳学に登場するゲストたちは、今をときめく人気の実力者たちばかり。
成功秘話を聞くと(自慢や力説、自己宣伝では決してない)、やはり人一倍の努力と情熱で向かう。
聞き手、林修先生の引き出し方にもよるのだろうか。
ただ、別収録の雛壇ギャラリータレントは、居場所があるようで、ないようで、それはそれで微妙だ。
収録した中で、どこを使うかではあるが。
見せ方、編集、演出は、要だ。

なんていう、面白くも何ともない独り言を延々と今日も綴っている。



自分を優しく受け入れる

2023-10-22 | 老い
楽しくない娯楽性のないウォーキングではあるが、良い面もある。
それは、、、休日に寛ぐ家族連れや恋人、友人たちが秋の気候に誘われて、賑やかに繰り出してきている場面に出会うこと。
日常には顔を合わさない人々と同空間、同時間を共にする。
しかも美しい景色、爽やかな季節。

そして、1人で公園を無計画にぶらぶら散歩するのもいいかも知れないが、1人なら面倒になり、わざわざ電車を乗り継ぎ都会や遠方にまで足を延ばさないだろう。
家の近所、近場で済ましそうだ。
参加者は全員おひとり様なので、なんだか寂しくなく、団体戦的パワーを生み出す。
(歩く距離は離れていても)

悪くない。
問題は、さあ参加するぞ!と、自分の背中を押せるかどうか。
自由参加であるし、予約も要らないので、自由意思に任せた気ままな決断となる。
「いつでも行ける」は、「いつでも行かない」になり、かえって制限があるほうが、行動のモチベーションになる。
「最後の一個」だとか、「今月限り」だとか「先着〇〇名限り」だとか、そういうのに弱い。
販売促進の場合はその心理を利用して、あまりその気でなくても、購買意欲を喚起させる。

べつにモノを買うわけではないので、しかも、ご褒美がもらえるわけでもない、承認欲求も満たされない、となると、なかなか潜在欲求そのものもが薄いところを更に呼び起こすには、それなりの強い動機付けが必要だ。
誰にでも出来る、特殊技能や能力は要らない。
(病気や怪我の人、どうしても時間が取れない人、それどころではない緊急事態の人もいるが)
ただ単純に自分の足で歩くだけ。
それに意義を感じるには、考え方そのものを変えなければならない。
「健康」だけでは、ぼんやりしすぎて、重いお尻を上げるには、ぼやけてしまう。
そこに付加価値を付ける。
美しい景色だの季節感だの、明るい人々や街並みの光景だのと。

だが、若い人には全く魅力を感じないように思う。
わかる。
エネルギーの発露の仕方が違う。
方法も違う。
同じお一人様なら、1人で登山、マラソン、キャンプなど、もっと高みを目指すことだろう。
三浦雄一郎さんじゃあるまいし、若い頃からスキーをやってないと、老年になっていきなりスキーでは、骨でも折ったら大変。

リタイアして、あり余る時間をどう使うか。
行きの電車の中で、競艇だか競馬だかの新聞を広げて熱心に予想している男性がいた。
わたしの昔のイメージでは、先入観で特定の層を当てはめる。
耳に鉛筆を挟み、野球帽、グレーの緩い超普段着の中高年男性。
「矍鑠(かくしゃく)とした」の真逆イメージ。
それはそれで、好きなことに熱を入れ上げるのだから、他人がどうこうと口を出すものではない。
そういう使い方もあるわけで。
生活や家庭が破綻しない範囲内で楽しむには結構なことである。
(わたしの身近にはいないだけで)

話を元に戻す。
今回の160人超えの「歩く会」参加者。
季節、天候、場所、コースに、人が集まる原因があり、人々の参加意欲を促したのだろう。
この数は、盛況な時の社交ダンスパーティと参加人数が似ている。
年齢層もほぼ似たり寄ったり。(ダンスのほうが少しだけ若い)
だが、社交ダンスは、三浦雄一郎ではないが、ある程度、キャリアを必要とする。
70歳から始めても絶望的である。
習得するのに時間がかかる。
今から社交ダンスを始めようとしている方には申し訳ないが、雪を見たことがない南国生まれの人が、70歳から初めてスキーをするようなものだ。
この独特なカースト的偏重、閉鎖感が、社交ダンスをまた敷居の高いものにしている。
社交ダンスではなく、社交ダンス的ダンス、社交ダンス的軽体操、フォークダンスのようなものであるなら、なんの問題もない。
老人ホームなどで音楽に合わせて楽しみながら体を動かすには最適である。

と、話は相変わらず逸れている。

カラオケ同様、誰にでも気軽に幅広く参加出来るものは、重宝して有り難い。
そこから派生して、レベルアップしたりする必要もない(中には歌謡教室に通う人や主宰する人、歌手目指す人、自称歌手、とりあえず歌手もいるが)、いつも毎回完結が気楽で良い。
最初のスタート門戸が広い。
だが、その気楽さはかえって、特別なモチベーションを引き起こさない。
パラドックス。

ではあるものの、プライドの高い人、負けん気の強い人がありがちな、誰でも出来ることを軽く低く見る、そういう変な自意識は捨てるのも、ひとつの自分の殻を破ることになる。
「誰でも出来るのに、自分は出来ない」についての解釈。
「しようと思えば出来るが、そんな程度の低いことは、ばかばかしくて出来ない」と自分で高めから見て選択しているつもりでも、実際は、「しようと思っても能力が追いつかず出来ない」という、選択肢がない状態に陥っていることがある。
出来ないことを本人は気づかない。
「出来るが、しないだけだ」と思っている。

そうやって、どんどん歳をとって行く。
少しでも自覚しているなら、自分の行動を見直すチャンスでもある。
見直してそのまま、の場合は、自分の効能書き、性能も書き換えた方がいい。
「しないのは、能力的に出来ないから」
「プライドが邪魔して恥ずかしくて出来ない」という局面から、「実際に出来ない」と移行していることがある。
「やったら出来るがしない」から「やっても出来ない」へ。

ではあるものの、しなくてもいい、出来なくてもいい。
別に命まで取っていかない。
自分はどうしたいかは、自分が決める。
わたしに関して言えば、今までの自分よりランクを落とすことを受け入れている。
有名な高僧のように生きながら成仏はできない。
(なんて、高くなったり、低くなったり、例えが極端)

今まで価値を見出さなかったことをもう一度見てみる。
新しい自分に、新しい景色が広がる。


楽しくなくても頑張らなければ、、、

2023-10-21 | 健康
昨夜のTV番組、司馬遼太郎 生誕100年 雑談 「昭和」への道。
この番組について、わたしとの関わりは昨日、ブログでアップしたばかり。
なので、気合いを入れて画面を見つめる。
また寝てしまってはシャレにならない。
・・・が、まるで麻酔を打たれたかのように、ふわぁ〜っと知らないうちに眠りに落ちていた。
司馬遼太郎さんの高尚なお話、語り口と、わたしの脳波が(睡眠導入に)ピタっと合うのだろうか。
まるで魔法にかかったかの如く。
だが、最後のまとめ部分には目が覚めていた。
大事なところだけ起きているのかも。
ある意味、要領が良い。

ちなみに。
わたしは、自分が書きたいことと、読む側が読みたいこととが乖離している。
もっとわたしは忖度すべき。
ではあるものの暴走、我が道を行く。


話は変わるが、「歩く会」に本日、参加した。
ただただ黙々と脇目もふらず歩くだけ。
途中休憩もなければ、ランチタイムもない。
だらだら歩いていると、遅れて1人だけになってしまい、進む道がわからなくなり迷子になる。
なので、うんと遠くても前を歩く参加者の後を付いて行く。
参加費用は、保険料プラスα。500円。
参加者160人超え。
主催者によっては300円だったりする。
2時間歩き通して11キロ。
疲れた。

足首に、mont-bellで購入した立派な靴で靴擦れが出来て歩く度に擦れて痛い。
咲き誇るバラをスマホで撮っていると遅れる。
楽しそうな家族連れやカップルが、臨時開設店舗やテラスでスィーツを買ったりしているのを尻目に、ああ、アイスクリーム食べたいなあ、いいなあ、、、家族や個人で来ていたら、自由にフリープランで楽しめるのに、、、と、日差しがきつくなる中、腕まくりをして歩行速度を上げる。

しかしまあ、楽しいか?といえば、そんなことはない。
ある人に強く誘われたので参加したに過ぎない。
1人で歩くより大勢で歩くほうが、寂しくないとか。
何故歩く会に参加するかというと、家にじっと閉じこもっていても何もすることがないそうだ。
歩くという行為は健康維持には欠かせないとのこと。
別に楽しくて歩いているわけではない。
健康のため、というのは良いが、他の理由はずいぶんネガティブである。
わたしも断りきれずに参加したが、あと何回参加したら断れるだろう?と、決して前向きではない。
あまり好きではないことは続かない。

17年前にスポーツジムに通っていたが、自分に鞭打って頑張って、嫌だけれど健康のために行っていた。
何年か後にやめた時は、とても嬉しかった。
やはり無理をしていた。

ウォーキングも続いている人は素晴らしい。
わたしにとっては面白くないことを、頑張ってこなしているなんて、尊敬する。
嫌なことをどんどん切り捨てると、最後には何も残らなくなる。
箸一本も動かさなくなる。
なので、気が進まなくても、渋々でも、健康のための何かをすることによって、自分は実践しているのだという自負があれば、精神的救いになる。
そんなかんじで、嫌いな運動にも多少は活動したほうがよい、と、自覚はしている。
のではあるが、、、
最初は頑張っても後が続かない。
楽しくないことは続かないので。
しかし、いかに自分を追い込むか、なのだろう。
機会があれば、楽しくなくても参加したほうが良いのだろうか。
あとどれだけ続くか?だが、あまり期待できそうもない。



眠り姫

2023-10-20 | わたし
最近、脳の衰えが著しい。
その事実を認識する度に愕然とするが、徐々に慣れてきている。
新しい、衰えた脳に、古い方の脳が驚きながらも、受け入れ、組み替え、再編成された脳として再スタートする。
リセットするわけではなく、上書きされるのだが、作業の手元が狂って何度もリセットしてしまっているミスも含まれている。

何しろ、脳が弱体化している。
身体も同時進行している。
身体の衰えにはあまりショックを受けないのだが、頭脳はこの先、不安になる。
身体には、症状に応じた治療法がある。
(治療法がない難病の場合もあるが)
脳は難しい。

ただ、わたしの場合は、脳みそに問題があるわけで、こころは大丈夫。
メンタルOK。


ちなみに。
司馬遼太郎の独り言、一人で延々とカメラに向かって話す番組がある。(生前、収録)
「生誕100年 司馬遼太郎 雑談 『昭和』への道」
これは毎回45分に区切りシリーズ化され、毎週金曜20時からEテレで放映されている。
この番組を見ると、ああ、1週間が過ぎた、と、ほっとする。(放映が金曜日だから)
NHKのチコちゃん番組がわたしは嫌いなので、その時間、別の番組を見る必要がある。(別に見なくてもいいのだけど)
以前は、「あしたも晴れ!人生レシピ」という、日常生活に役立つ番組をやっていて、それを見ていた。
が、今はその番組は大阪では放映されず(東京では放送されているようだが)、とりあえず、大阪は司馬遼太郎。
1〜2回かと思いきや、結構、続く。
たぶん、司馬遼太郎、生誕100時記念番組はそろそろ終了するだろうけれど。


それにしても、司馬遼太郎さんは、良いことをおっしゃっている。
勉強になる。
大学講座か、市民講座を聴いているようなかんじ。
開かれた講座、談話。
自宅でパジャマで寝そべりながらでも受講できる。
(実際には、しっかり聴くには背筋を伸ばして)

なかなか濃い、興味深い内容を話されている。
ただ、わたしの脳みその耐久時間が限られているのが大きな難点。
最初は気合いを入れて聴くのだが、はっと気づくと終盤の〆に差し掛かっている。
寝てた??
いや、脳がわたしの指令を無視して暴走して寝ていた。
けしからん脳だ。Noだ。
だが、謀反(むほん)を起こしたのは昨日今日の話ではない。
学生時代からこの病に悩み続けている。
特に好きな授業の一つであった「経済」はこの傾向が顕著。
なので、いつもノートは真っ白。
優秀で真面目な学友に猫撫で声で擦り寄り、ノートを写させてもらっていた。
信用も人望も学力もない。

わたしは拒否しているのではなく、大いに興味があるし意欲に燃えているのに、感情や想いとは裏腹に脳が断固、拒否してくる。
困ったものだ。
もう半世紀以上の謀反、反乱に付き合って、未だ、勝ったことがない。
そろそろ諦めてもよいものなのに。

老化のせいにすると楽なのだが。
学生時代からの筋金入りのカチンコチン脳である。
ではあるものの、老化で嘆いている皆さんと一緒に、「わたしも老化で、、、」と苦笑いしておくのは悪くない。
誰も、「わたしは学生時代、半世紀以上前からこうで、ああで」などという講釈など(無駄で不毛で意味がなく)聞く人もいない。

上っ面のカルチャー、知性に憧れて、中身は、さっぱり、、、これを続けて半世紀。
中は空っぽ。

とは言え、司馬遼太郎さんは、今の時代に投げかける重要な話をされている。
転換期を迎える今の時代にこそ、ぜひ耳を傾けてみたい。
それまでの長年積まれた日本の思考などが、明治以降の、一気に押し寄せた西洋文明一色に短期間で染まった。
人を育成する期間が短かった。
政治家は、特に。
西洋一辺倒を振り返る良い機会である。

第二次世界大戦以後はアメリカ一辺倒。
なんでこう、一辺倒なのだろう。
日本人は染まりやすい?言うことを聞きやすい?
明治までは、農業国だったわけで。その一方で、高い文化や技術も生み出され受け継がれていた。
第二次世界大戦以後、一気に世界経済の表舞台に躍り出た昭和であるが。

自分が生まれ育った日々は正にドンピシャリ日本の高度成長期。
勢いがあった。
当時、子供だった自分にはわからないと思うが、今思えば、昭和!!色がプンプン匂う。

大人になってわかるかと言えば、そうでもない。
何もわかっていないということが、わかった。
家庭シェルターの中から出勤していた。
仕事と言っても社会勉強のようなもの。
子育ても、すくすく何の問題もなく。
ぶち当たった困難から学ぶとすると、大した困難もないのでは、そこから学びようがない。

が、やはり子供の時と見る目や視野、考え方が違う。
しかし、大人になってから交流を持つ人にかなり影響を受ける。
にもかかわらず、あまり影響を受けていない。
あまり変わらない。
きっと、人生観や価値観がひっくり返る程、壮絶な体験をしていないからだろう。
壮絶な体験は普通はしないとは思うが、中には、ハプニングが起きることもある。
マイナスのハプニングが起きなくて良かった。
プラスのハプニングは元々期待していない。
なので想像も出来ない。

話は逸れに逸れている。
脳が言うことを聞かない話だった。
凶暴になるわけでもなし、一瞬、意識を失うぐらいなら可愛いものだと自分を慰めよう。
もう義務は一通り終了した身であるし、恥はかいても迷惑はかけないと思う。