蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

お金の使い方、時間の使い方、人の使い方

2017-02-26 | 無題
自分の不得意分野をどう克服するか?

わたしの場合は、温度が低い。
あっさり。
人の手を借りる。
つまり、他人を利用する。

善意やボランティアで助けてくれるからと甘えると、気疲れする。
有償で、割り切る。

不得意分野が多すぎて、お金がいくらあっても足りない。
金融引き締め、出費を抑えるため、不得意でも嫌でも、出来ることは自分でする。

どうしても出来ないことや、やる気が起きない場合、苦痛な場合、最後の手段として、人の手を借りる。
ただし、不得意分野と、やりたくない分野を混同しているケースが多い。
(たとえば、家事、育児、介護、教育)

有償か、無償か。
手助け内容や人間関係、立場にもよる。
有償にすると、水くさいと、不快に感じる人もいる。
(わたしは、くれるというものは遠慮なく頂く主義)

人の時間は無料ではない。時間は無尽蔵ではない。
なので、無償でもやはり、人の時間を使うと、それなりに気を遣う。
自分の時間を生み出すため、時間をお金で買う場合もある。
(たとえば、公共交通機関に乗り遅れた時のタクシーや、調理済食材)

人が、喜んで、生き甲斐や、やり甲斐を感じて、行動してくれるなら別だが。
そんな行動内容は何だろう?
ちょっとしたことなら、普通の市民生活にはたくさん転がっていることだが。

大きな労力と、まとまった時間を割いてもらう場合、頭を悩ませる。
同士、同友、盟友、仲間、親友、恋人、家族なら、目的を同じとする場合は良いが、それ以外は?
どちらかというと個人主義のわたしは、人との関わり、オンブにダッコ、もたれかかり合い、相互依存については、距離の取り方がよくわからない。

気軽に頼んで、厚かましいと取られることを恐れる。

有償は高い。
無償は気が引ける。
じゃあ、フトコロ具合と相談して、任せることは任せ、出来ることは自分でするしかないか。
自分が快適で、負担なく、ストレスを溜めない方法を自分で見つけるしかない。

無償の人間関係が一番ナイーブで難しい。
思い遣り、相互フォローが要だろう。

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自分の行く末を見る

2017-02-24 | 老い
今から電車を降りるまでの時間内でブログアップできるか?
あちこちサイトを見て回ったので、バッテリー残量も心配だ。
でも今日は、充電器を持参しているので安心。
さて、今、芦屋。
神戸まで、あとどれぐらい?

母。
躁鬱気味。
機嫌良く、朗らかで穏やかだったのに。
留守電で、「なぜこんな老人ホームに入れられている!」と逆切れシャウト。
「家に帰りたい。迷惑かけないから」と哀願する。

気持ちはわかるのだが。
自分のことが自分で出来ない、自立出来なくなり、皆んなが顔を出せる地(わたしは片道2時間半)にあるホームにいるが、
たまには家に帰りたいと思うのは、当たり前。
だが、それには計画、準備、人手がいる。
しかも、先月、帰ったばかり。
すっかりそのことは忘れている。

わたしは、一昨日、母の所を訪れたばかりなのに、今日もまた行く。
それぐらいしか、わたしの出来ることはない。


自分も、幸せに病気もせず長生きすると、ああなるのだろうなあ。
幸せには、ほどほどのあんばいがある。
いくら美味しいものでも、食べ過ぎたり多すぎると嫌になる。
世の中、大変なのに、自分のことしか見えない。
贅沢で深刻な悩みである。


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今でちょうど、神戸駅。
うまく、収まった。やれやれ。

おしゃべり、べらべら

2017-02-23 | 無題
こんなことがあったのよ。
あの人ったら、ああ言ったのよ。
あれを食べたらこうで、これを買いに行ったらああで。

延々と続くおしゃべり。
ランチタイムや、カフェ。

あったこと、目についたことへの感想を思いつくまま、口にする。
ストレス解消になると思う。
幼児や子供が思いのままに話すように。

自分のことを知ってもらう。
自分の考えを誰かに話したい。
声を出す発声は、一種の声帯と口の運動。
内にこもるのではなく、相手のリアクションが欲しい。
相手の表情や声を楽しむ人もいるだろう。

ただただ話したいだけの人もいる。
自分を出したい。表現したい。
理解してほしい。同意してほしい。認めてほしい。誉めてほしい。
承認欲求を満たしたい人もいる。
慰めてほしい。同情してほしい。
そういう人もいるだろう。


さて、わたし。
べらべらしゃべらないほうだ。
日常の出来事、日記的なことは、なんのために話すのか、よくわからないぐらい。

今日の出来事を、家族や友人に、夕食時や休日に話す。
これは、団欒で、良い時間だと思う。
話自体の内容に別にたいした意味はなくても、コミュニケーションである。
相互理解を深めると共に、親しみが増し、距離感を縮める。
あたたかい時間を共有する。

とすると、大して近寄りたくもない、仲良くなりたいと思わない人と、しゃべっても意味がない。
が、話しているうちに、好感を持つかも知れない。
食わず嫌いは、良くない。

街で、ぺちゃくちゃお話をしている人たちの話を聞くともなく聞こえてくると、実にどうでもいいことをしゃべっている。
文字にしてまとめたら、数行のことを延々と何時間もしゃべっている。
明らかに、感情を発散して、自分の脳と心をリフレッシュさせている。
ヨガや瞑想のような効果がある。
人によって、精神バランスをキープする方法は、まちまちである。

わたしの発散先は、ブログやメール。
ブログは特定の人を対象にしていないし、コメントや、同意を強要しないから、迷惑はかけないが、メールは一対一なので相手に負担をかけるかも知れない。
LINEは、いちいち細かく反応するのは、煩わしいと思うので、家族としかしない。

ブログやメールやLINEも、日常のどうでもいい報告的なものはしない。
日常の目についたことや、重要報告事項、興味深かったこと、疑問に思ったことを伝える。
暇つぶしに、退屈しのぎには、決してしない。
と、偉そうに明言しているが、その割には頻繁にやっている。
退屈だからしているのではなく、やっていると退屈を感じるヒマがないだけで、実質的には、能動的か、受動的かの違いだけで、やっていることは同じである。

LINEの相手は家族の中でも、娘たちだけ。
彼らは、気がおけない人々(気を遣ってくれない人々)なので、無視されることもあるが、へんに無理して構ってもらうのも心苦しい。
いくら親娘だからといっても、もたれかかりすぎて、べったり重いのは避けたい。
「ごくたまに」重いのは、許容範囲内だと思っているが。

こんなことがあって、あんなことがあって、という、いつもの日常の出来事を話すのは、小学生ぐらいまで。
中学生にもなると、話さなくなると思うが
大人になっても、まだ、ぺちゃくちゃ話している人々を見かけると、ある意味、おもしろい。funny である。
が、愛すべき人々なのかも知れない。

しかし、時として、電車内だったり、店内、至近距離だったり、声が大きいか、よく通る場合、うるさい。

それはそれとして、
他愛ない話を思いつくままに、感情的に話せる相手がいて、自分を洗いざらいさらけ出してアウトプットできる人や場があるということは、素晴らしい。
ただし、そういう関係を築いたり、維持したり、努力が必要である。


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時代によって変る価値観

2017-02-19 | 
わたしには、自分の身を支える軸足が、田舎とニュータウン、二つある。
田舎のほうの家は、日本全国、似たような傾向にあるようだが、ほぼ空き家になった。
軸足は一つ減って、ニュータウンの自分の家だけとなった、というなら模範解答の一つなのだが。
(さらに核分裂して、娘がニュータウンの我が家の近くに居を構えた)

田舎から引き上げて撤退、統廃合!なら合理的で解り易いのだが、そうはいかない。
田舎には、夫の、目に見えぬ代々のご先祖様の幽霊が彷徨っている。
生きていなくても、手がかかる。
これをどうしたものかとアタマが痛い。

夫は幽霊たちと仲よく一心同体。
わたしは?
血がつながっていないが、背後から目に見えない怖いオーラが迫ってくる。
オーラごと息子に押し付けようとしていたら、逃亡を図られた。
今からこの25年の間に、どうするか筋道を立てる予定だ。
(まだ四半世紀もある!)

幽霊にマインドコントロールされている夫が、一番、厄介だ。
夫は、わたしと同世代なので、どちらが先にあの世に行くかは、わからない。
夫があの世に行くのを待っていたら、わたしの現生の生活に支障をきたす。
なので、切り離し作戦。
同時進行パラレル・ライフが基本コンセプトである。

やはり軸足は二本ということになる。
空き家であろうが、なかろうが。
価値観そのものに、歩み寄りがない。
嫁は、「女偏(おんな へん)に家」と書く。
女は嫁げば、婚家の方針に従うもの、という、時代に逆流する価値観を持つ夫には、相容れないものを感じる。
あたしゃ、あんたと結婚したのであって、あんたの家と結婚したんじゃないよ。
と言いたいところだが、
しかし、そもそも、わたしの結婚相手の選択には、イエが付きまとう。
自らが蒔いた種。
だが、時代は変わる。

軸足が二本のまま、うまく歩けるか?
人間は二本脚なので、大丈夫だろう。
と、価値観が真っ二つに別れたまま、引き続き歩いて行こうと考えている。

義務を放棄し、権利だけ主張。
これって、いいとこ取り? 許されるのか?
あまり突き詰めて考えても、また時代は動く。
世の中が、自分と同じような流れになってきている。
が、皆んな全員、こけるかも知れない。
問題点に気づき、方向転換を図り、いち早く脱出方法を考え出して、泥舟から抜け出すか、あるいは、運命に身を任せ、ブクブクと沈んでいくか。
とりあえずは、様子を見てみよう。
あと四半世紀もあるんだし。

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才能ある美男美女と、自分

2017-02-18 | 趣味
今日は、遠路はるばる、一度も行ったことのない地へ行った。
バス〜私鉄〜地下鉄〜私鉄を乗り継ぎ、家を出てから2時間半後に到着した。
スマホのアプリを使うと、見知らぬ駅から徒歩で、まったく行ったことも聞いたこともない場所に、スイスイほいほい行ける。
海外でも使えるのなら、嬉しいけれど。(WiFiのないところでは、海外用の自前のものを用意しないといけないだろう)

目的は社交ダンスパーティ。
会場は、そうとうマニアックだった。
かなりわかりにくい、地元の人にしかわからない場所にあり、参加者はとても少なく、思わずUターンしようかと思ったが、主催者に引き止められた。
そりゃあそうだ。
わたしだって、片道2時間半もかけて行っているのだから、のこのこ帰ってくるわけにはいかない。

このパーティには、コンセプトがあった。
社交ダンスのペアを組む相手を求める人が集う、お見合いパーティー。

お見合いの人は入場料も違い、番号が書かれたバッジを付ける。
もともと、わたしは、冷やかし半分、本気半分であったが、大幅に遅刻したことや、劇団員の白熱した練習風景のような、研ぎ澄まされた凛とした、本気ムードの会場に、腰が引けた。
なので、へらへらと一般客として参加した。

お見合い成立は、1組。
とびきりお上手な美しい女性と男性だった。
わたしは、こんなハイレベルな人々の中にいるのは、明らかに場違いであった。
片道2時間半の場違い。
まあ、行ってしまったものは仕方ない。

そこで、感想。
芸事や、ダンス、なにかに秀でている人は、美しい。
容姿端麗、俳優のように美形である。
成立したカップルも美男美女。
ダンスは勿論、飛び抜け上手だが、容姿、器量も、これまた群を抜いている。

わたしは、自分の容姿には自信がない。
客観的な事実を見ても、家系などDNAも、美形遺伝子はない。
トンビが鷹を産む確率はいたって低いので、美形が産まれることは、ほぼない。
スポーツ系に優れたDNAもない。
だから、素晴らしい目を惹く美形で、抜群にダンスが素晴らしい人々を見ても、それは自分と比較する存在ではなく、飲む水が違い、棲む世界が違う。

じつに、冷静に、その違いを感じた。

そもそも、わたしは、美形は苦手なので、あまり接点も接触も交わりも交流もない。
だから、羨ましいとか妬ましいとか、そういうのはなく、胸がザワザワしないで、クールに客観的事実を受け止めることができる。

よかったね。
なのか?



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40年ぶり?の同窓会

2017-02-13 | 日々のこと

今日はパソコンで入力、投稿している。
なんと、この、お久しぶり感。
思わずログイン・パスワードを忘れそうになった。
銀行なら、三度、間違えると、ロックがかかるところだけど、ここのブログgooは、どうなんでしょうか?

新鮮というか、自宅でパソコンは、もう自分の中では過去の出来ごとになりつつある。
なぜか自宅でもスマホ。
スマホは、小さくてチマチマしていて、背中を縮めてかじりついて、いかにも健康に悪そうなのに。
あの小さな薄い手のひらサイズのツール。自宅でも移動中でも、常にいっしょ。
背中を丸めて内臓は内側に偏り、生活時間や思考時間を奪われ、いかにもリアル空間での世界観が狭いけれど、小さな針孔から繋がる世界は、広い。
小さな穴から落っこちる、不思議の国のアリスのように。


一昨日、高校の同窓会に、前にいつ行ったのか忘れるぐらい久しぶりに参加した。
おそらく、地元で暮らさないわたしの参加は、前回が初回、今回が二回目。
35年ぐらいは軽く前だろうとは思うのだが、、、。
今回の参加者は総勢120名余り。

ちなみに、出身校とまったく関係ない知り合いで、同窓会幹事を趣味にしている人がいる。
65歳を超すと、みなさん、暇らしい。
わたしの年齢はまだリタイアしている人はほとんどいないので、暇な人はいない。
が、仕事がなくなると、同窓会のメンバーで遊ぶのだそうだ。
へえ~。
わたしには無い発想だ。たぶん、今後もないだろう。

わたしは、遊ぶにも大義名分を求める、めんどくさい人物である。
だらだら遊ぶのはいやなのだ。
寄せ鍋の最後はラーメン、といったように、同じ遊ぶのにも〆が欲しい。

近況をひと通り説明して、つぎに昔話に花が咲いて、喫茶店でだべり、あとは居酒屋やカラオケに流れる。
そういうコースが多いのだろうけれど。
なんか、もう、いいんだ、ノーサンキュー。
とはいえ、まだ、そういうコースをまったく体験していないのだが、体験する前から、腰が引けている。

一人でなんにもしないで、ぼーっとするのは苦ではないくせに、
大勢でがやがや暇つぶし、みたいなのは、嫌い。
一時、花火が上がって、頬を紅潮させたまま、まだまだ居たいけれど帰る、みたいなほうがいい。

なんて、じつは、これは負け惜しみ。
高校の時はあまりにも、地中にうずもれていたので、知り合いが少なく、旧交を温めるにも原体験の関わりそのものが少なく、
とぼとぼと寒く肩をまるめて帰ってきたのだ。
中学で同じだった子もいたりして、顔を見れば過去に瞬間移動するのだが、やはり、過去そのものにわたしは、あまり良い思い出がないのだろう。

が、話をした人はほぼ100パーセント、わたしの実家のことを知っていて、今さら隠しようがない。
新しいわたしも、旧いわたしも、実家の看板の下に隠れてしまっている。
わたしという「個」は、昔も今も、社会の外側にはないのかも知れない。

「ぜんっぜん、まったく変わらないね」と口をそろえて、そう言われる。
みんなも似たり寄ったりだけれど。
卒業してから43年も経っていて、全然変わらないって、どういうことだ?

クラス分けされたテーブルに座ると、たまたま右は、学年最下位べべ成績の、田舎のヤンキーもどき女子Yさん。(じつは、わたしと、よく遊んでいた)
左は、色白で上品、清純無垢でかわいらしく、品行方正でおしとやかお嬢様タイプの女子Mさん。
なんで、こういう両極端な席になってしまったのだろう。
お嬢様Mさんは、元不良少女Yさんに「Yさんは活発で目立つ人でしたね」と言うと、YさんはMさんに「ごめん、わたし、ぜんぜんMさんのこと、覚えてないのよ」と直接、Yさんに言っていた。
なぜ同級生をまったく覚えていないのかと神妙な顔をしていると、「ぜんぜん接点がないからやと思うよ」とズバリYさん。

不思議なことに、わたしは、MさんともYさんとも接点がある。
三人の共通の話題がなくて、いささか困ったが。
そうこうしているうちに、元不良Yさんの元カレがやってきて、びたっとYさんの席から離れなくなった。
わたしは、彼らのお話にお付き合いする気はさらさらないので、お嬢様と不良カップルを席に残し、さっそく、トイレに立つついでに、席を離れた。

ちょこちょこ、見覚えのある女子と話すと、わたしは昔っから大人っぽかったんだそうだ。
今も変わらず大人っぽいね、と言われた。
熟年を超え、老年に差し掛かろうとしている現在の年齢になってみて、大人っぽいと言われると、とても微妙な心境になる。
高校生の目で見た大人っぽさが、還暦の目で見ても、やはり大人っぽいということなのか?
まあここは、良いように解釈しておこう。
大人っぽさとは別に、複数の人に、当時のわたしのイメージに対する同じ感想を言われて、へえ~と改めて驚いた。
40年以上経って、はじめて複数の同じ内容を耳にすると、これは、やはり驚く。
悪い内容ではないので、これもまあ、裏をあまり考えずに素直に受け止めよう。

男子は、話したのが、8人。女子は、10人。
小中高と顔はすごく長年知っているのに、まったく話さなかった人が、多数。
会場だけでは、限りがある。
ちょっとサワリだけ予告編を駆け足でのぞいたかんじになった。
が、同窓会関係の人々と遊ぶ、今後の展開は、ないだろうなあと感じた。

会が終わって、いちばん、こころに残ったのは、大人しく控えめながらも自分のことをちゃんと話してくれた、最初の席の、お嬢様Mさんかなあと、
アピール、ガンガンしなくても、静かに伝わるものがあると感じた。

 

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ゆ〜ら、ゆ〜ら

2017-02-10 | わたし
二歳の男児。
我が家での晩御飯の後、ゆ〜ら、ゆ〜ら、と言いながら、身体をゆっくり左右に振る。

彼はつい最近、やっと言葉を話すようになった。
話す言葉もどんどん進化する。

生まれてからずっと彼を身近で見てきているが、初めて聞く言葉と仕草に、「どこで覚えたの?」と聞くと
「ほ、い、く、え、ん」と、はっきり答える。
ゆ〜ら、ゆ〜ら、がお気に入りのようである。

最近は、なんでもかんでも「コレ、ナニ?」の連発。
吸収力も目を見張るものがある。

成長過程では、ごくごく普通のことだが、自分の子育ての時は全く余裕がなく、観察もできていなかった。
ヒトの成長を間近で見ていると、かなり興味深く面白いものがある。

彼よりも1年7ヶ月先に生まれた、年子のお兄ちゃんとケンカが始まる。
プラレール(電車とレールのオモチャ)に夢中。
だが、遊び方に微妙なズレがある。
こだわりが、衝突する。
お兄ちゃんが弟を叩く。
弟は泣き、父親に訴える。
そのうち、兄を叩き返す。
が、やはり兄が圧倒的に強い。
弟は泣き崩れる。
兄は強気。
自分の遊びルールを強制する。

弟を叩いたことで、父親に諭される。
この父親が、何故、叩いて自分の主張を通そうとする兄が良くないのか、これまた優しく丁寧に、冷静にわかりやすく、兄に言って聞かせる。
兄は一時納得するも、また兄弟ゲンカが、始まる。
母親はノータッチ。テキパキと帰る支度を始める。
「いつまでも遊んでたいなら置いてくよ!」
うわぁ〜ん、兄弟二重唱。
私は外野で様子を見学。

家庭の外で、社会でもこういうケースに、これから度々遭うのだろうと想像する。
まさに、家庭内教育は、子供の基礎を作るのだなあと、しみじみ思う。

親はどこまで干渉するか。
わたしは祖母なので、たんなる緩和剤、クッションになればいいと考えるが、さして役にも立たない。


週の何日か、不得意な料理で、縁の下の小さな小さな隅の穴から、ささやかに支える程度だ。
頑張りすぎると、つい見返りが欲しくなる。
こんなに一生懸命しているのに、当たり前のように利用して、用が済んだら捨てる気?なんて、自虐的にもなりかねない。
無理はしないこと、それは自己防衛策でもある。

自分だって、祖父母に支えられて育ってきた。
子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんに支えられて育ってきた。
祖父母たちは、なんの見返りを要求したか?
なにも要求せずに、静かにこの世を去っていった。
お礼の言葉のひとつも、わたしは掛けただろうか。

感謝の気持ちを伝えなかった後悔があるとするなら、その気持ちをそのまま順送りに、孫たちに子育てサポートで返したい。
そんな大それた仰々しいものではなく、孫たちと接することができる機会に感謝したい。

姑が言っていた。
「孫の世話をさせてもらえて、ありがたいことやで」

今頃になって思うのは、かなり昼行灯であるが(わたしの主要キャラでもある)
見返りを求めず、一生懸命助けてくれたお年寄りたちに改めて感謝したい。

上を見て、下を見て、自分を見て、
過去を顧みて、現在を知り、将来を見つめる。
自分は、大きなものの、流れの中のひとつなんだと感じる。


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揺り戻し、落ち込み

2017-02-04 | わたし
また落ち込んでいる。
揺り戻しか。
今度は前のボトムより更に下まで落ち込んでいる。

わたしは自分に甘い。
うまくいかなかったら、なにもしないで寝るだけ。
寝て待つだけの戦法は、所詮、他人のミスを待つだけだ。

自分の頑張りがないことに気づいた。
頑張りがあるとすると、ただただ諦めずにじっと待つだけ。
上から落ちてくるものを口を開けて待つだけだ。

自分の望みは、他人からの施しが欲しいのか。
真の実力が及ばないからといって、同情や憐れみで、点数を取りたいのか?
コジキ?
一寸の虫にも五分の魂。
プライドがある。

地面の奥底に再び落ち込んで、また暗闇でもがいている。
しばらくは、このアップダウンに悩まされることだろう。

またまた寝て待つ耐久戦法か?

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冬眠からの目覚めも間近?

2017-02-01 | わたし
ここのところ、いいかんじである。
プチ鬱が、どこへやら姿を隠したか?
明るい方向に向きつつある。

全くなにもしたくなかった。
やる気が起きなかった。
気持ちが萎んで、がちがちの石のようだった。

原因を推定、分析してみると、心身の、変わり目か?
年齢による、体や脳の変化。
今まで、出来ていたこと、出来なくなったこと、などなどの移り変わりで、バランスを崩したと見られる。
(まるで、超高齢者の心身のようだが、段階的にはその一つ前の、年齢によるカーブの曲がり角)

自然に任せて、真っ暗な中で、じっと冬眠していた。
あまりにも寝すぎて、退屈になり、ちょっと掃除でもしてみようか、となった。
本も買っていたものの、全然、読んでいない。
せっかく買ったんだし、読んでみてもいいかな、と思うようになった。

たまたま、まわりが動き始めた。
ひとつ良いことがあると、なぜかふたつ目の良いことに出遭う。
事態が好転しだした。

じっと待つ。
あがかない。
流れを見る。
時が来れば、やがて自然な方向に、コトは動いていく。
確かな明日が来るということがわかれば、それで救われる。

衰えた新しい自分を受け入れると楽になる。
意外に元気でパワフルな自分だったりする。
落ちるところまで落ちて、怖いものなしになったせいか、余裕も出てくるから不思議だ。


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