蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログ

2014-01-31 | ブログ
ブログには、いろいろある。

(1)ぼやき、つぶやき、愚痴。
こころの声を、直接、面と向かって言えないから、書いて発散。
こういうのは、多いと思う。
わけのわからないことを書いている人もいる。
やたら暗いのもある。

(2)日記。
今日、こんなことがあった。あんなことをした。
一種の覚書。
フェイスブックっぽく使うこともある。

(3)趣味などに特記した、こだわり分野のもの。
時には、自慢くさいものもある。

(4)自慢。
一見、普通の日常レポートっぽいが、自慢がちりばめられている。
自慢してナンボで、賛同者が現れ、おたがいに満足。
よくあるパターン。
やたら美しい写真とかもアップしてあることが多い。
ちょっと前と違って、最近は、アップされる写真はかなり質が高くなっている。

(5)社会、文化、時事ネタ
インテリ・リタイア男性に多い。
新聞や本は、読むばかりではなく、アウトプットして、脳を活性化させ、老化防止に役立てる。

(6)有名人ブログ
有名人というだけのブログで、ファンでなければ、なにも面白くない。

(7)実用ブログ
経済、マネー・トレンド解説や、料理など、毎日、リアルタイムに役立つ。

(8)ペットブログ
すごく多い。
癒されるらしい。
わたしは、まったく(申し訳ないが)、興味なし。

(9)複合型
あれこれ、混ぜ込みタイプ。ブロガーさんを軸にした、多岐に渡るもの。
ただし、偏りがある。
逆に偏りがないものは、面白くない。
それなら、ニオイやカラーのない、ニュースサイトや解説を読んでいるほうが、まし。

などなど・・・

今は、わたしは、時間的なこともあり、特定のブログは、ひとつか、ふたつしか読まない。
趣味のSNSに飛んでいき、そこで、日記や、コメントのやりとりを見る。
一人一人を個別に見るよりも、テーマが統一されているので、効率がいい。

あとは、ニュースサイト。
興味あるものを拾い読み。

なぜ、あまり、ひとのブログに時間を割かなくなったかというと・・・
自分のブログを書くのに、少々、ある一定のエネルギー・時間がいるようになってしまった。
どんな人がいるのかな~と、広い広いネットの海のなかを泳いで探すより、
ピンポイントで、自分が探したいものを絞り込んだほうが、無駄がない。
つまり、「ヒマ」「闇雲に」という状態がなくなった。
時間を持て余して、ぶらぶら、ということがない。
なので、ネットを無目的にうろつくことはない。ネットサーフィンは、しない。
人のブログにも、あまり興味がなくなった。

状況が変ればまた、変るだろう。
こういうのは、随時、移り変るもの。


で、唐突に、
せかせか、本日も時間に追われ、ここで終了いたします。



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コース

2014-01-30 | 日々のこと
閲覧数、これは、どうも信用しがたい。
コンピューターがやっていることなので、しかも、無料なので、あれこれ正確さを追求するには、
厚かましいかと思い、自分の胸で、もやもやするだけ。

いくらブログ村のランキングで上位になった記事、あるいは、まったくノーマーク記事でも、閲覧数とは無関係。
そして、一番の疑惑は、閲覧数とgooブログ順位である。
閲覧数が多いのに、順位が低いことも、閲覧数が少ないのに、順位が高いこともある。
同時に多くのブログが団子状態で固まってランキングされている場合もあり、同位ランキングの誤差を差し引いても、
ほとんど同じ閲覧数なのに、順位がぐっと上だったり、ぐっと下だったりする。
順位が大きく差があることもある。

どうなってるの?
そういう、単なる数字で、毎朝、健康管理のごとくチェックしているわたしは、ほんとうにアホと思う。
今日の血圧は・・・体重は・・・血糖値は・・・閲覧数は・・・
ちょっと小躍りしたり、ちょっと残念だったり。
これって、血圧計や体重計、体温計が壊れているか、
電池不足で正しい数値が示されなくて、ときどき、ヘンになるか、そういうかんじなのだろう。

・・・

自分の思ったことを文字にして、もやもやを解消する。
女性たちが、ぺちゃくちゃオシャベリしているのと、同じ。
しゃべってナンボ。書いてナンボ。
ブログは、わたしを救ってくれている。

自慢したいときもある。
特に、そのことを大々的に取り上げてはいないが、
おそらく、いつも、イヤミったらしく、控えめ姿勢や謙虚を装って、行間に自慢がぎゅぎゅっと詰まっていることだろう。
臭う人には臭うことだろう。
それがまた、いやらしいところだが、まあ、自分を救うためのツールなので、副作用もある。
読む側には、弊害。
これは、ブログや、SNSやテレビ番組の広告のようなものと捉えよう。
そういうのもないと、キレイゴトばかり綴っていても、凡人であるわたしの、なんの救いにもならない。

・・・

世の中には、いろんな人がいる。
すべて平等でなければならない、ということは理想であるが、皆、それぞれ、違う。
優劣つけてはいけない、競争させてはいけない、と、運動会での子供のカケッコも、気を使う。
全員、同じ。
それは、無理。
では、それぞれに素晴らしい・・・ことにしておく。
これで、角は立たない。ポエム。
たんに、角が立たないだけで、問題は解決していない。
というより、問題を解決する必要はないと思う。

個々に素晴らしいが、それぞれのフィールドにおいては、やはり優劣、順序がある。
それをわかって、見てみないふりをして、無視するのか、アタマから否定するのか。

優劣は認めたら、楽になる。
優劣があって当たり前なのだと。
へんに、ないものとして処理しようとするから、ややこしい。
自分が優劣のどっちに側にいるか、これが大きい。

ふむふむ、10番内では、5番目か。
10000番内では、7342番目か。10000000番内では、9865448番か。
なんでもいい。どのあたりか、把握するのは、悪くない。気が悪いなら、見なければいい。

そのフィールド自体、大きくレベルに分かれている。
アマ、プロ/世界第何位、クラスで第何位/近所で有名、世界的に有名/
学校で1番といっても、その学校自体が、一番手の学校ではなかったりすると、1番って?となるが、
どこの学校も世界各国からすべて集めて、その中でも1番、となると、本格的に1番なのだろう。
その学校は園芸学校なのか、料理学校なのか、科学分野先端技術学校なのか、
学校のフィールドが違うと、また、まったく違ってくる。

・・・

最初のスタート地点で、どの分野からスタートするかで、人生はずいぶん違う。
その後、就職し、退職し、余生を送る。
おおまかには同じだが、コース内容は大きく別れる。
仕事内容や出会う人々も違う。
そうすると、10代の頃からが、すでにコース分岐点になっていそうだ。

・・・

リタイア後の生活は、それまでとはまったく違う。
そう言っても、築いてきた家庭は、自分がそれまで築いてきたものだし、仕事はなくても、延長上にある。
シングルの人は、シングルで、それまでの生き方を踏襲する。
だが、仕事という経済活動がなくなると、生活は大きく変る。
経済のみならず、活動内容、場所がシフトする。
やはり、それまでの人生が生活基盤を作ってきているので、リタイア後にも影響する。
退職金の額、持ち家の有無、年金額・・・就職先や仕事の内容、評価によって違う。

・・・

まあ、恵まれた人は優雅に、そうでもない人は、それなりに、工夫。
70才まで働く人もいる。さらに、もっと働く人もいる。
病気になる人もいる。頑張る人もいる。

・・・

なんだか、まとまりが、どんどんなくなってきた。
よけいに広がっている。
なにが言いたいのだか。
もやもやが、何なんだかもわからない。


どんなコースを歩んでいたとしても、途中でリセットすることもできる。
物理的なことは無理としても、精神的なことは可能だと思う。

価値観は、ころっと変えることはできない。
が、ものの見方を変えることはできる。
今までの価値観を否定するのではなく、余裕をもった見方をするということ。

それは、「年をとって、まるくなった」、というらしい。



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待つ

2014-01-29 | 子育て
のんびりした子供を持つ親は、イライラするらしい。

次女が3歳、幼稚園年少さんの時、担任の先生は、とてもおっとりした、色白の目のぱっちりした、かわいい人だった。
学校を卒業したばかりの先生自体が、幼稚園児のような、そんな印象も受ける、幼いタイプの女性だった。
でも、小さな身体で(小柄だった)、一生懸命、頑張っておられた。

その彼女に輪をかけた、おっとりの、次女には、さぞや手を焼いたことだろう。
ちょこまか動き回るタイプと正反対の次女は、行動がのろい、遅い、マイペース。
なにしろ、盆踊り大会の真っ最中に、踊りながら眠くて、こっくりこっくり居眠りしてしまい、でも、踊っていて、
まわりをはらはらさせ、ついには、前のめりに倒れた子なので。
(わたしに一番似ているので、ある意味、恐怖)

だが、ちんちくりんのオチビさんの3歳児でも、
意思が、やたら強く、頑固者で、どんなに言ってきかせても、なだめても、すかしても、脅しても、
やりたくないことは、ぜったいに、しない。
三つ児の魂百までも、の見本、典型。

その、超のんびり、スローモーション次女に、おっとり先生は、
「○○ちゃんは、ほんとうに、ゆっくりなんで・・・」と、ほとほと困っておられた。

・・・

親も先生も、子供を待てるか、待てないか。
そりゃあ、いらいらするだろう。
ブチブチ、何本もアタマの血管が切れるだろう。
「はやくしなさい」そう追い立てても、できないものはできない。

・・・

子育て時代の遠い昔、
毎朝、1歳の次女を抱っこし、3歳の長女の手をひき、長女の幼稚園へと慌てて送り出す。
いつも時間ギリギリなので、長女の口にはパンをくわえたまんま。
はやくはやく、と、急がせて、時間に間に合わせようと、玄関から足早に出て行く。
その時、2歳の息子は、一生懸命、靴をはこうとするのだが、なかなかはけず、
置いていかれる自分が悲しくて、「待って、待って」と、わーわー弱弱しく泣いていた。
「早く、早く」と、わたしは、口では言うものの、両手が子供でふさがっているので、
長男まで構っていられないし、当然、待っていられない。

毎朝、長男に、そういう辛い目にあわせていた。
思えは、とてもかわいそうなことをした。

できるわけない状態で、はやくしろ、と急かされ、サポートもされす、切り捨てられるかのように、置いていかれそうになる息子。
これは、気の毒なハンディだ。
あれが、一人っ子なら、思いっきり抱きしめてあげることができたのに。

・・・

まあ、もうすんだ話。
反省点は山ほどあるが、どうにか、ふつうに成長してくれたので、(ちょっと変人だったとしても)
胸のキリリと痛むことは、いつまでも引きずっていても精神衛生上よろしくない。

・・・

ちなみに、その、かわいそうな長女幼稚園時代は、半年で終わった。
長女が登園拒否になり、ピリオドを打った。
もう、息子は、置いていかれそうになる自分が悲しくて、わーわー泣くこともなくなった。
まったく幼稚園に行かなくなった長女だったが、おそらく自分だけが幼稚園に行くのは、嫌だったのだろう。

・・・

人生トータルすると、次女が一番、就学時間が長期だったことになる。
3歳児は、保育園ならともかく、幼稚園では、まだ、幼くておぼつかない。
なので、状況に応じて、家庭でも幼稚園でも、保育園でも、どこでもいいと思う次第だ。
無理に行かせることはないと感じる。
時代も変化しているので、今のお母さんたちとは、感覚が違うかも知れないが。


息子は、たまたま仕事などの事情で、幼稚園には年少組では入園しなかった。
先生の手を焼いて困らせることもなく、登園拒否もなく、家庭にいたので、すんなり、なんの問題がなかった。
多くの人に囲まれ、家で機嫌よく楽しく遊んでいた。
置いていかれそうになって、わーわー泣かせた、あのかわいそうな分、少しは取り戻せたかも知れない。


・・・

その後、引越し、転校後、長女が年長さんの時、年中・年少の幼いきょうだいの手をしっかり引いて、幼稚園に行く彼女は、
後々、いろんな人からその姿が、凛々しく健気だったと聞かされた。

凛々しすぎて、今では、すっかり逆転の、しっかりモノ、
我が家では彼女が来ると、お尻をびしばし叩かれる、恐怖政治だ。
なにごとも、ほどほどに。



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2014-01-28 | 人生
人って、積算すると人生でトータル、同じ値なのだ。

素晴らしい人は、短命。
そうでもない人は、長生き。
短距離と長距離。

眉目秀麗、性格最高、気遣いの人。
かたや、どれをとっても、ふつう、回りなど、ほとんどかまわないマイペースの人。
卓越エクセレントな人と、凡人。ハンデのある人もいる。
わたしは、憧れることはあっても、勝負しようなどという気には、まったくならない。
なぜか?

フィールドが違うから。
というか、もし、同じフィールドで競争しなければならないとすると、悲惨だ。
学生時代は、学力や人望、人気など、無理やり、どの子も同じ舞台に立たされた。
学生なのだから、当然、主に評価は学力。

学生時代が終わると、べつに、競争させられないから、とても平和だ。
と思いきや、またまた社会でもレースは続く。

・・・

ほんの一時期、わたしとほとんど同じタイプのフィールド、人生を歩いていて、
ほんの少しだけ、向こうのほうが、最初から一歩お得な人がいた。
競争するのに、最初から、数メートル前からスタートしていた。
その時は、腑に落ちない、不公平感を感じた。
が、今では、ぜんぜんだ。
その後、幾枝にもコースは別れる。
先に行っていたからと、やっかんでも、二周目三周目四周目で追いつき、追い越すこともある。
しかも、追い越す必要もない。
コースを降りる選択だってある。
「ごくろうさん。わたし、やめますわ」
そして、トラックの外の観客席から応援する場合もあれば、
「まだ、やってんの?」と冷ややかな、ある種の優越感に浸ることもある。
たとえ人から見て、負け犬の遠吠えに見えても。

どうみても、どう逆立ちしても勝てない人がいても、勝とうという気がない。
勝負する気も、比べる気もない。
わたしは、人生レースから降りてしまったのだろうか。

おそらく、自分のスタンスのようなもの、軸を持つことができたのだと思う。
自分の足で立つと、周りは、さほど気にならない。ぐらぐらしない。
なので、観客になってみたり、応援してみたり、客席でお弁当を食べてみたり、余裕で、いろんなことができる。

自分の足で立つまでが、たいへんなのだが。

これは、あくまでも精神的自立である。
たとえ、四肢が不自由であっても、病気であっても、人のお世話になっていたとしても、
精神的に一人で立てているかどうか。
しかし、一人では生きることはできない。生きている限り、感謝は不可欠である。

いくつになっても、年齢が高くても、自立していないと思われる人もいる。
超高齢の頃になって、ようやく、気がつく人もいるし、気がつかないまま、あの世に行く人もいる。

だからといって、そう、事態や状況が変るものではない。
ただ、自分の見る目が変るだけだ。


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2014-01-27 | 日々のこと
わたしは、年相応よりももっとボケていて、(じつは、若い時から天然)
おそらく、ブログには、なんども同じコトを書いているだろう。
なので、ああ、またか、とお思いの方は、こころやさしくスルーしてください。

人間は、同じことを何度も何度も言いたくなるようだ。
なぜなのだろう。
一度や二度、吐き出せば、そこそこスッキリするのではないのか?
だが、何度も何度も何度も、呪文か、お経のように、同じ話をすることがある。
わたしもおそらく少しぐらいは、心当たりがあるが、年を重ねると、その傾向が益々大きくなるようだ。

高齢の人にはよくある行動で、不思議でもなんでもない。
だが、これを毎回毎回、聞かされると・・・けっこう、こたえる。
こちらに蓄積してしまう。
なので、ヒアリングの電源を一旦オフにするといい。あるいは消音に切り替える。

ああ、またはじまった、ちょっと音を小さくしよう。
そうして、なにかの折に、うなずく。

「ふうむ、そうなんですね」
「たいへんでしたね」
「すごいですね」

適度に相槌を打つ。
プライドの根源を否定するようなことも、しない。

・・・

口から出るのは、楽しかった頃の思い出とかではない。

ある人は、苦しかったことや、悔しかったこと、そういうことばかり。
いまは、幸せなんだから、もう、いいではないか。
そう思うが、そうでもないのか。
今の幸せをかみ締めたいから、逆に、昔の苦しかったことを思い出して、その逆差に喜びに浸りたいのか。
そういうふうにも、見えない。

あるいは、自慢を言うと、人に嫌われるので、自ずと、辛い経験を話すのだろうか。
苦しい体験のほうが、同情や同調を得やすいのか。

・・・

人生のピークだった頃の話をしたがる人も多い。
リタイアして長いのに、現役時代の活躍していた話。いきいきした表情になる。
それはそれで、いいとわたしは思う。
自分の話したいことを自然に話すのは、こころを開放させ、精神衛生上、オススメだ。
文字を操る人は、書いてナンボ、で、快感を得ていることもある。
皆、そうやって、自分のガス抜きをする。

が、できない人もある。
気を使ったり、こころを許せる人がいなかったり、閉塞感に苛まれる。

・・・

わたしは、人の話を聞くのは嫌いではない。
自分で話すのも嫌いではない。
ただし、自分本位の話し方なので、自分の頭の中ではつながっているが、
聞く人は、文脈がバラバラで理解に苦しむようだ。
ブログも然り。
反省。

話し手が、話している話を順序よく組み立てられず、支離滅裂で意味がおかしくても、
聞き手が、話し手の言葉の使い方を(聞き手の)頭の中で修正したり整理したり、不足分を補って汲み取って理解してくれる、
そういう聞き手ばかりと話していると、
話し手は、話し方を考えたり、修正したり、改善する能力がどんどん低下する一方だ。
というようなことを、娘に言われた。
この場合、話し手は、わたしのこと。聞き手は、娘のこと。
これは、いつも言われることである。

「おかあさんの話は、わかりにくい。
いつまでも改善する努力をしないのは、まわりに、わかりにくいのに、補い理解できる人がいるから」

いつも強力なサポーター、自分を補ってくれる人がいると、能力的にも努力的にも、スポイルされるわけである。


ある程度の高齢になると、仕方ないが、わたしの年齢では、とりあえず、叱られる。
苦言の対象となる。
「だってぇ~。もう年だしぃ~」と、よろけてみても、容赦ない。

なので、わたしは、高齢のひとたちには、けっこう甘い。
どうぞどうぞ、ぞんぶんに、よぼよぼになってください。
そんなに頑張らなくてもいいですよ、と思ってしまう。

が、年寄り特有の我侭、自己チューが鼻につくと、放置する。
そのあたり、まだ、わたしには、寛容なこころ、忍耐力、包容力に欠ける。
修業中。道、まだ途中。

・・・

話は元にもどって・・・

人が楽しそうに話すのは、聞いていて、嫌な気はしない。
なので、本人が話したいことを話してもらうのが一番いい。
それが、たとえ、苦しい時代の話ばかりであっても、それはそれでいい。
本人が、生きている今を実感できれば、いい。
感情を吐き出すことは、脳の活性化にもつながるのかも知れない。

まだ、そこまで高齢でない、中途半端な、年寄りが、ややこしい。
(わたしを含む)
都合のいい時だけ、「年だから」という。年齢枠・免除を申請する。


まあ、それはいいとして、
人が自由に話す内容は、その人の人生が出る。
自由なテーマにすると、なおさら。
限られた話題だと、わかりにくいが、話したい話を自由に話してもらうと、今までの軌跡のようなものが、よくわかる。
これはなにも、年齢によらないのかも知れないが、
高齢ではない人は、まだまだ自分の社会的義務に振り回される要素が多いので、話したい内容が変ってくる。

お仕事をされていない、お子さんのいない主婦の方は、また違う。
子供あり有職主婦とは、違う。
リタイアされている男女も、また違う。
老若男女、既婚か、非婚かで、また違う。

興味の対象が、違う。

・・・

人は、いろんな側面を持ち、年齢が上がるにつれ、デフォルメされる。
だから、面白い。
面白くない人もいて、面白くなさ過ぎて、それはそれで、面白い。
各自、意識の持ちようで、同じ状況でも、千差万別。

・・・

ああ、ちっとも、話のオチがない。
延々、続けても、まとまりそうもない。

で、なにが言いたい?は、次の機会に考えるとして、
今日は、ここで、書き散らし、散らかしたまんま、終りです。


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清貧

2014-01-26 | 暮らし

ある人。
一見、ふつう。身なりはキチンとしている。
でも、お金がない。

そういう人でも、しっかり、めいっぱい、趣味を楽しんでおられる。
(これ、失礼な発言?!)

なにもなければ無事一日が過ぎるが、なにか少しでもあると、一日一日の生活にも困るほど、
お金がカツカツにない人がいる。
毎日、毎日、綱渡りをしているような生活である。
何事もないことが前提で、何かあったら、そこで、おしまい。暗転。
病気でもしようものなら、たちまちに医療費の捻出ができない。
そういう人は、案外、多いのかも知れない。

いかにもそう見える人なら、街でも見かけたりする。
(あるいは、ほんとうに大変な人は、街には出ないで自宅におられることだろう)

見かけは優雅で、まったく苦しそうでもない人が、意外に、お金がない。このギャップ。

・・・

パリでは、街角の角、角に、物乞いがいた。
若くてキレイなおねえさんだったり、若い健康的な男性だったり、あっけらかんとしていて、悲壮感はなかった。
地下鉄通路には、額を人々が歩き通り過ぎる地面にこすりつけ、土下座をもっとハードにした格好で、身動きせず、
長時間、物乞いする、立派な体格の中年男性もいた。
あのポーズを持続するのは、けっこう、体力がいると感じた。

お正月にいくつか見たテレビ番組のパリの特集では、どれもこれも、グルメや芸術だった。
パリの乞食、これはあまり報道されているのを見たことがないが、なぜなのだろう。

ロシアでは、乞食の地下組織があるそうだ。
乞食スタッフとして動員されるのは、子供、赤ん坊を抱いた母親、四肢にハンディキャップのある人・・・。
実際、サンクトペテルブルグの有名な観光地では、
小学生たちが団体旅行で訪れているところに、車椅子に座った、小学生が入り口で物乞いをしていた。
お互い、同じ年頃。
わたしは、複雑な心境で、どう感じていいのか、戸惑った。
政府や市民団体などは、そういう現状は、見て見ぬふりなのだろうか。

・・・

話をもとにもどそう。

その、一見、キチンとした人。
カツカツではあるが、キチンと計算して毎日の予算を組んでおられる。
年金暮らしと予想されるが、使う金額、使える金額が決まっている。
そういう人が、お金に不自由しない人々と同じ趣味を持ち、接することは、サーカスの綱渡りのような妙技のように見える。
お金は不自由であるが、時間と身体は、自由。
お金が自由な人との違いは、お金の面だけだ。(あたりまえ)

あれこもれも、と行動を広げない。
時間はあっても、お金がない。
とすると、行動を厳選することになる。
一番に制限を受けるのは、人付き合い。
声をかけられ、あちこちに参加していては、お金がもたない。

だが、趣味以外では、お金をかけない人付き合いもできる。
スーパーや商業施設で、テーブルと椅子がおかれた空間で、仲間で集まってオシャベリに興じている人々もよく見かける。
近所の仲良しさんが、ふたりでいつまでもベチャベチャしゃべっている姿も目にすることがある。
無料。
公園。無料。

お金をかけなくても、交友はできる。

同じように考える人同士が集まって、同じように楽しむ。
これは、非常にけっこうなことだ。


趣味などの場合、お金がある人も、ない人も、混じっていて、うまい具合にバランスをとって行動しておられるようだ。
お互いの生活パターン、領域に踏み込まないよう、崩さないよう、接点をもつ。
いろんな層の人がいるので、お互いに棲み分けをしながら、共通点である趣味をシェアする。
その場合、絶対に、みじめになったり、傲慢、高飛車になったり、そういうのはご法度。

ただ、共通して言えることは・・・
お金に余裕のない人は、その趣味の分野では実力が上位ランクの人であることが多い。
なので、お金に余裕のある人に対してでも、卑屈になることはまったくない。
もし、お金や社会的背景を持ち出して、優位を保持しようとするなら、趣味仲間には嫌われる。
「あの人、卑怯」と。
実力で勝てないから、お金でごり押ししようとして、浅ましい、と。
カッコ悪くて、みじめ。
そうすると、お金がある側のほうが浅ましくなり、お金に窮している側が、崇高になったりする。
立場、逆転。
気分、すっきり。

地獄の沙汰も金しだい・・・ではない。
お金で優位を確保できる趣味もあるが、わたしは、胡散(うさん)臭さを感じる。
そういう人は、
「趣味(または芸事)というものは、お金と時間をかけなければ大成しない」と言い切っておられる。
確かにそうだが、わたしは、そういう、いかにも上から目線、お金ぷんぷんのニオイは嫌いである。
いけ好かん。
しかも、実力は、たいしたことがない。

優位をお金で買える自分を、自慢したくてしかたないように見える。
そういう人に限って、人と比較したがる。
そして、趣味の世界なのに、
趣味とは関係ない、(聞かれもしないのに)自分の社会背景などをさらりと漏らして(実際、全然、さらり、ではない)
いやみったらしく自慢する。
豊かな商人系の方に多い。
で、自分の嗜好、志向が見えてくる。
あんなの嫌い。

・・・

娘は、清貧を目指すそうだ。
生活信条は、究極のエコをコンセプトに。
これがまた、厳しすぎて、ついていけない。
義母などは、完全に対極の暮らしだろうが、高齢枠の優遇措置でクリアー。
わたしが、もっとも風当たりが強い。
成金嫌いのわたしの影響だとしたら、自らが蒔いた種か?
なにごとも、ほどほどに・・・、と、泣いてすがりたい思いだ。

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終活

2014-01-25 | 日々のこと
ブログを開設したまんま、亡くなる人が増えてきているそうだ。
ある日、突然、更新がぴたりと止まる。

・・・ある一定の時間経過の後、
「母が、○月○日、他界いたしました。
母が生前、このブログで、お世話になりました。
私は、娘です。母に代わって、ここにご挨拶しています」
というような内容が、ある日、アップされる。

娘に言われた。
「おかあさん、あとは、やっといたげるから、大丈夫やで~。安心してね~」
これって、頼もしいのか?
まだ、平均寿命よりも何十年もわたしは若いんだから、予定では早々近いうちに死にません。

・・・

しかし、わたしは、つい最近から、終活にシフトしている。
意識しはじめたのは、今年の初詣のときだろうか。
護摩木に、年頭の願いを毎年書いて、神社におさめている。
それまで、わたしは、開運だとか、上昇運だとか、○○隆盛だとか、○○成就だとか、そういうことばかりを書いていた。
しかし、今年は、・・・もう、上昇しなくてもいい、と思った。
運も開けなくていい、と。
今で十分。
なので、「無病息災」と書いた。
欲がない、ついでに言えば、覇気もない。

・・・

「家にモノが多すぎる」と、娘に苦言を呈される度に、しゅんとなる。
彼女は、キツイ。容赦なく、ためらいなく一刀両断のもとに斬られる。
なにもない、すっきりした空間こそが、最大の贅沢な快適空間だと、彼女は感じている。
つまり、わたしとは、対極の位置にある。
「いいの! ここは、わたしの家! モノだらけで、なにが悪い!」と開き直ってみせるものの、

「終活しようと思っている。モノを処分して、残された人たちの迷惑にならないように、少しずつ」
とも健気にわたしは言ってみた。
「いつからするの? そんな気もないくせに」と、娘はお見通し。
いや、わたしは、決めたのだ。
とりあえず、終活しようと決めただけで、まだスタートしていないのは事実だが。


すると、あら不思議。
1月バーゲン追い込み真っ盛りの、繁華街、デパートの各売り場に足を運んでも、まったく買いたいと思うものがない。
まったく、まったく、まったく、ない。
少々あったとしても、手にとって、値段を見て、いつ、どこで着る?と考えると、
出した手も、ひっこんでしまう。

また、あのモノだらけのモノの上に、さらにモノを増やすつもりか?
もういい。
着飾ったところで、なにが楽しい?
これは、あきらかに老化によるホルモン低下。オンナ指数が下がっているに違いない。
それはそれとして・・・。

で、買ったのは、地下、それも地下1階の夢のあるスイーツではなく、地下2階の生鮮食料品売り場、
今夜のおかず、鍋の材料。
わざわざ都心のデパ地下で、どこのスーパーにでも売っている、えのきやら、くずきり、豆腐などを買うわたしも、どうかと。
しかも、スーパーより高いし、遠方の自宅まで持ち帰るのが重い。
が、今のわたしには、コートやおしゃれ用品よりも、今夜をいかにクリアーするか、が大事。
(家の近所で買うには、時間調整的に、苦しいし)
それは、ある意味、「風が吹けば桶屋が儲かる」に通じる理論展開。
終活すると、買うのは、お鍋の材料。

・・・

終活に向けて、雑念を取り省き、自分にとって大事なものは何か、優先順位をつける。
あれもこれも、ではなく。
けっこう、冬の澄んだ空のように、すっきりするから不思議だ。

とはいうものの、ちっともすっきりしていない、あいかわらず、モノだらけの家を見て、
「終活宣言」をしたわたしだが、期間を、今から35年と設定した。
長すぎて、終活にもなにもなっていないか。
死んでるか。あとは、お任せ~。

まあ、いい。
気持ち、・・・気持ちだ。あくまでも。
そういう気持ちでいれば、買わなくてもいい高いコートは買わなくてすむし。
(が、ストレスが逆に無意識にたまって、別の機会に逆噴射して、要らないモノをたっぷり衝動的に買い込むかも?)

とりあえず、少しずつ、少しずつ、終活路線に向かっていこうと、気持ちだけは、終りに向けて張り切っている。
終りの始まり?
消滅への頑張り?
逆ベクトルが同時に作動している。


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強者

2014-01-24 | 人生
ある女性。
長い間、姑さんと同居し、姑さんは高齢で他界された。
姑さんに子供の教育に口を出され、思うような子育てができなかった。

「そんな姑さん、無視したらいいのに」
そう言うのはカンタンだ。
「なんで、そんなに家族全員が、言うことを聞くの?」と疑問に思ったりする。
が、毎日、一緒に生活していて、マインドコントロールに近い、恐怖政治のような暮らしを共にしていると、
そうもできない、という見方もある。

たとえばDVを受けている人に、
「逃げ出したらいいじゃない」とコメントを言ったとしても、
逃げ出せるものなら、とっくに逃げ出している。
逃げ出せないところに問題があるのだ。

自分はどうもなかったから、うまくいっているからと、自分と同じ目線でモノを言う人は、強者の目線だそうだ。
「こうすればいいじゃない」
しゃーしゃーと言ってのける、強者。
じつに、無神経で恥ずかしくもある。
したくても、できない、その現状なり原因なり背景なり、そこが問題なのに。


・・・

さて、前述の、お姑さんに嘆く女性。
彼女は、その被害を避けることはできなかったのか?
夫はなにをしている?

そもそも結婚するときに、
「あのお母さんは、たいへんだから、やめたほうかいい」と、人からアドバイスを受けていたそうだ。
それでも、努力でどうにでもする、と豪語し、突き進んだ。
しかし、やはりたいへんだった。
子供が小さい頃、離婚しようかと考えたが、夫がいっしょに家を出てくれた。
(ふつうに言うと、核家族になって親と別居)

が、舅が亡くなり、また同居に戻った。
姑と諍いのせいもあり、子供たちも親の顔色を見るようになったのだろう。
教育はうまくいかなかった。
姑が亡くなった後も、うまくいかなかったのは、あの姑のせいだ、と言われ続けている。


この人生コースを選んだのは、当の本人である。
結婚の時に、「難あり」、というアドバイスを無視して、困難なほうをわざわざ選んだ。
自分で犯した過ちは、軌道修正するなり、自分で始末するしかない。
苦し紛れに、もがいた頃もあった。
今はご主人と、とても幸せな毎日だと思う。
山あり、谷あり、で、結果的にはハッピーエンドである、とわたしは思う。

確かに、あの姑さんでは気の毒であるが、姑を含めて、道を選んだのは、彼女である。
そのことは、考えたこともなく、
そういう考え方があるということも知らず、考えようともしないで、
ぜったいに、ひとのせいにする。
自分は悪役にはなりたくない、悪と闘わない、
弱弱しく、哀しい、多くの同情を集める、悲劇のヒロインである。

が、モノゴトの芯、軸は自分にある。
人はどうであれ、自分がどうであるか。
かんじん要のところが抜け落ちている。

彼女は、受身の人生だ。
だが、それのほうが幸せを感じる近道かも知れない。
へんに、モノゴトが見えると、かえって絶望的になる。
敵は自分の中にある、諸悪の根源は自分である、と思うとやってられない。
自分を責めて、それこそ、こころの病気になってしまう。

なので、人のせいにする、というのは、ある意味、自分を守る。
しかも、無意識に。
なので、こころも痛まない。
健気で美しく、苦難に耐える自分が、人の目には映る。

・・・

わたしは、いろんな人生話を聞かされるのだが、(あんまり聞いてないけれど)
たいして意見を言わない。
その人の人生を否定する気はまったくないし、
(人に多大な迷惑をかける人でなければ、どんな人であれ、そこそこ平等に肯定する)
第一、あまり巻き込まれないほうが、自分の幸せを守るからかも知れない。
卑怯だが、自分しか自分を守ってくれない。
なにごとも、深入りしないほうが、無難である。

完全に守りの人生になっている。
いや、むしろ、逃げの人生。

ということで、本日も、話をまとめず、逃げます。



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2014-01-23 | 趣味
女性は怖い。
とっても。
女性同士の足の引っ張り合いをする。

これは、あるダンスホールでの話。
男性が少なくて、女性が多いせいで、熾烈な男性争奪戦が行われる。
とくに競技ダンスをしている男性は、女性をとっかえ、ひっかえする人もいる。
ある人、Aさんは、いつも、最悪のタイプの女性をお相手に選んでいるそうだ。
今のパートナーさん、前のパートナーさん、前の前のパートナーさん・・・
捨てられた歴代の女性たちが、うようよいる。

彼女たちには共通点があるそうだ。
全員が全員とも、性格がめちゃめちゃ悪いらしい。キツイ。
前に更衣室で、定価50万円のドレスを買った話を誇らしげにしていた女性は、現、パートナーさんだとか。
なるほど・・・答え合わせとしては、ばっちり。

そんな性格が悪い人たちを、次々にチェンジする男性は、いったい、どんな性格なのだろうか。
Aさんの顔は知っているが、話したことはない。
が、別SNSの彼の日記を読むと、前のパートナーさんの悪口を散々書いて、こき下ろしていたりして、
しかも、彼や元パートナーさんたちを知る人が悪口に同意したりして盛り上がっている。
わたしは、そのようなタイプの人は好かない。
類は友を呼ぶということか。

・・・

他にも、自分は上手いと思っている女性がいて、わたしごときの「へたっぴ」が、
数少ない男性と踊っていると、露骨にイヤミったらしい態度をとってくる。
こわい~。
なので、「ワタシ、ニホンゴわからないよ~」というかんじで、関わらない、知らぬ存ぜぬを貫き通す。
どうでもいい。

・・・

言葉でなく、態度で示す輩もいる。
じ~~~っと、穴が開くほど、見つめられる。
男性にならよいが、女性に、である。
しかも、二コリともせず、無表情に近い、こわい顔でこちらを見続ける。
あれも、いい気分はしない。
なんですか? わたしの顔になにか付いてます?

・・・

わたしは、逆の立場の場合、そんなことはしない。
が、ダンスの場を離れた、例えば、フードコートや電車の中など、大勢いる場で、やたら騒いでうるさい人たちなどには、
じ~っと見て、無言の抗議をする。
ということは、わたしは、あの、じ~っと見られる行為は、無言の抗議をされているというわけか。
わたし、なにか、悪いこと、しました?

・・・

女性には、なるべく近づかないほうが賢明。もちろん、男性にも。
世の中、人がいっぱい集まるところには、いろんな種が落ちている。
紛争の種を拾ってこないようにしないと、ろくなことはない。


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2014-01-22 | わたし
わたしは、人の死にまともに直面したことがない。
人生の最も大事な局面、深刻な、影響を与えることに向き合ったことがない。
これは、ある意味、まったくシワのない、つるんつるんの脳をもっているのと同じかも知れない。

しかしながら、とりあえずは、肉親は亡くしている。
父方の祖母、父、母方の祖父、祖母。
この中で、祖父母は、わたしの年齢からみて、現在生きているとするとプリザーブド・フラワーの人間版で、
彼らは、とうの昔に、平均寿命を全うしてこの世を去った。
哀しいかといえば、90歳を軽く過ぎて枯れるように老衰で旅立った父方の祖母などは、
「おばあちゃん、おめでとう」という涙を流して喜んでくれる親戚さえいた。
悲痛な涙を流した人は、おそらく一人もいないのではないだろうか。

口数少なく働き者、優しい、穏やかな、芯の強い、明治の女性だった。
幼い頃、ずっと、忙しい母に代わって田舎でお世話になった。
この祖母には、晩年、一言だけ言われたことが印象に残る。

「選り好みせんと、ええかげんにしなさいよ」
これは、わたしが結婚適齢期の頃、わたしに相応しい相手に対してでも、なかなか首を縦に振らなかった時のこと。
自分の未熟さ故の行為であったと今は思う。
見てるとこは、見てるんやな~、おばあちゃん。


わたしの祖母は、大人しい控えめな性質であったが、夫の祖母は、凛とした理知的な人だった。
嫁いで、はじめてお目にかかったとき、
「ここをあなたの永遠の家だと思ったらいいんですよ。なんの遠慮もいりませんからね」と言われた。
こころ優しい、思いやりが綴られたお手紙も頂戴した。
それは、今も大事にとってある。

わたしの父方の祖母と、夫の祖母は、年齢的には一回りほど違い、わたしの祖母の方が年上である。
夫の祖母に、ご挨拶のようなものを言われたとき、わたしは「言葉って、すごいなあ」と思った。
明確に言葉にすると、気持ちや、考えが、はっきり伝わる。
まして、書いたものは、もっと明確に伝わる。

日頃、やたら口数の多い人もさることながら、めったに話さない人の一言というのも、効く。
わたしなど、考えずにしゃべっているので、
「で、なにが言いたいの? オチは、ないん?」などと娘に言われてしまう。

「オチは、話、ぜんぶやん!全体の流れで、最後のところあたりやん!」と、あきらかに苦しい言い訳をする。

・・・

死に面したことがない、という話から、テーマが「言葉」に移り変わっている。
すぐに脱線する。

・・・

で、わたしは死に面したことがないわけではなく、父も義父も、義祖母もあの世に行った。
何度も言うようだが、皆、平均寿命を全うしている。
さすがに、全員、老衰というわけにはいかなかったが。
もし、母や義母が、この先、この世にいなくなったとしても、これまた、今で、すでにもう平均寿命は過ぎているのでは?

だが、彼女たちには生きてもらわないと、困る。
二人とも、重要な役割がある。
用のないお年寄りというわけには、いかない。
さすがに、寄る年波には勝てず、現役ばりばりの頃のようにはいかないが、要となる案件をいくつも抱えている。
世の中のヒマな、お迎えを待つばかりのお年寄りとは、ちょっと違う。
彼女たちは「はやく、引退させて欲しい」と嘆いてみせるが、ちょっとやそっとじゃ、引退しない。
が、明らかに、年齢的な衰えは避けて通れないようである。

・・・

わたしは、死に別れるといっても、さほど哀しい目に遭っていないので、人間としての究極の苦痛の経験がない。
人の痛みもわからないのだろう。
壮絶な人生とは、対極の人生だろう。
それはそれで、深く感謝しなければならない。


エネルギーというものは、負であっても、正であっても、溜まるものである。

わたしの場合、正のエネルギーが溜まっているはずだ。
(サボっていて、あまりエネルギーを放出しないせいもある)
が、不思議なことに、知らない間に、放置された電池のように、放電してしまっている。
溜まるのは、負のエネルギーか?
なぜだろう?
性格か?

日頃、生活するにあたって、正のエネルギーを無意識に使っているようだ。
仕事や、家事、いろんな義務、・・・
なので、無意識に正のエネルギーは、いつも残量が少ない。
でも、負のエネルギーは、自然に減ることがないので、溜まる一方。
特に努力もしないのに、チャージされっぱなし。
もし、努力するとすると、無理やり減らそうとしないと、減らないかも知れない。

で、負のエネルギーが爆発しそうになるぐらい溜まると・・・
ポイントの有効期限が来る直前に、ポイントを商品と交換して使ってしまうかのごとく。
わたしの場合は、正のエネルギーに変換して組み入れているのかも知れない。
負のエネルギーをせっせせっせと、日常使いしてしまっているのだろう。
だから、負の感情やストレスが溜まらない。
正のエネルギーが、溜まっているようなかんじ。
正のエネルギーの出口が小さいから、
「究極の無駄な使い方」を追究したりして、無駄に消費しているのかも知れない。


すごく大きな負があり、特異な性質の負である場合、正に変換できないこともある。
すると、変換されずに、ずっと溜まったまんまになり、ずしっと重いことだろう。
小まめに負から正に変換する方法を、各自、習得していると思う。
それが備わってない、できない場合、溜まりに溜まって、たいへんなことになる。

・・・

と、またまた、テーマがズレまくり。

で・・・、オチは?
ないやん!と言われそうだ。

永遠にオチなどないのだ。
開き直ることが、オチか? (情けない・・・)

本日は、まとめることもできす、
書き散らしたあと、片付けることもせず、
弱弱しい背中を見せて、とぼとぼ退散いたします。

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