蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

明るく楽しいハイテンションの日

2024-11-18 | お出かけ
ピアノは、続ける気がないと続かないと思う。
わたし世代は、ピアノはソロバンを習っているのと同じノリの普通ぶり。
人気があった。そういう時代、時流。

ただ、今も続けている人はどれぐらいいる?
ピアノを売ってしまった人もいる。
わたしも、その一人。
夫の実家に、義両親が孫たち(わたしの子供)のために買ってくれたピアノを、3年前にその家をリフォームした際に、売却した。
義両親の夢が詰まっていたと思う。
実家に帰ってきた時も孫たちが練習できるように、と。
ほとんど弾かずに、ほとんど新品ピカピカ、新古品状態で売った。
買って30年以上経っているのに、結構、良い値段が付いたので、さすが、腐ってもヤ◯ハ。
自宅のピアノは、孫のオモチャ用に残存しているが、あまり子供も孫たちもピアノで遊ばない、
遊んでいるのは、おばあちゃんの、わたし。
せっかくだから、有効活用しないと、もったいない。

終活には、ピアノは一番に手放すものかも知れない。
逆に、震災で壊れたピアノ修理を(ボランティアで)してもらって大感激している高齢女性がTVで紹介されていた。
生きがいを失いそうになっていた矢先、ボランティアの申し出があったようだ。
音楽は人を救う。

わたしは、フレイル予防だとしたら、ちょっと澄んだこころではなく、濁っているかも?
なので、少々、音が外れていても気にならないのだろう。
濁ったこころに、濁った重音。
今のところ、新しい曲には挑戦しないので、あまり脳トレにはならないが。

ちなみに。
遊び相手に返り咲いた、元同僚と、都会のど真ん中で、映画を観た。
映画の後は、おしゃべりに花が咲き、わはわはと笑い転げる、うるさい、困った、元気なオバさん二人。
本当は、おばあさんなのだが。
お互い、今日は夫が(仕事で)帰らない日なので、底抜けに明るい開放感を分かち合う。
お酒も飲まないのに、コーヒーだけで、やたらテンションが高い。
映画館が入っているビルの屋上は、空中庭園。
ついでに、初めて登った。
そこは、多国籍人種のるつぼだった。









団体ハイキング、盛況の理由

2024-11-07 | お出かけ
昨日、参加した、JR各路線の秋晴れのハイキング。
なぜ、200もの人が参加したのか?
推測、考察してみた。

まず、季節。
暑い暑い酷暑には、動くに動けず、家に缶詰、エアコンのお世話になる。
じっと涼しくなるのを待つ。
秋には、さあ!!と、一気に屋外に出る。

ウォーキング協会の会員さん以外に、一般参加者が、100名ぐらい、いたらしい。
主催者である、歩く会の人は、そんなに大勢の人が参加することは想定外で、地図や備品が足りなくて右往左往。
現にわたしが手渡されたマップは、会員さんに既に渡されたものを流用されたようで、しっかり折り畳みジワがあった。
てんやわんやは、嬉しい悲鳴なのか、ストレスなのかは知らないが、あたふた主催者側の、参加者を受付るスタッフさんの一人(女性)が、まあ怖いこと。
まるで叱られているかのごとく。
あんな地声なのだろうか?
うんとお高いサービス料を支払っているわけでもないので、まあ仕方ないか、、、とは思いつつ、ガミガミ声に、気分は盛り下がる。
しばらくは、なぜそんな声、話し方をするのか、その人の顔ばかり見ていた。

次。
行き先。
コスモス畑や、法隆寺など、奈良の秋の風情を目一杯楽しめる場所。
日本の田園風景も美しい。
斑鳩あたりの、地元の日本家屋の見事なこと、立派なこと。
大きな門、塀、蔵、、、。
素晴らしい邸宅がたくさんあった。
長い年月、火災などには見舞われなかったのだろう。
だが、家々を見ていると、闇バイトの事前邸宅リスト作りをしているような気にもなった。
大きな門の隙間から見える、手入れされたお庭、、、お金ありそう、、、。

ある参加者が、一部、土塀の壁土が剥がれているのを見て、何度も「これは修理せにゃあ、いかんね」と言っていた。
何度も。
土塀の修理にどれだけお金がかかるか、知っている口ぶりだったが、なんで、何回も言うのか、胸中を察しかねた。
日常の生活費にお金がかかり、医療費や介護費にも蓄えが必要だし、住まいも修繕したりしなければならないのに、一番外側の土塀の修理など、しかも高額なのに、そうそう直ぐにできるものではない。
(崩れ落ちて、事故になったり、外側を歩く人に迷惑をかけるかも知れない塀こそ、一番に直すべきだ、という考えもあるだろうけれど)
それをわかって、何度も呟いているあの参加者は、、、自分に言っているのだろうか?

まあそれはよいとして。
「家で、じーっとしていても仕方ない、外に出るだけでもいい」と、誰かが言っていた。
自分の居場所を作るのが大事と。
年金生活が厳しくて、水道代節約のため、お風呂にもそう度々は入らない、と話す人。
交通費が1000円以上かかるところには、絶対に参加しない、という人もいた。
単身参加の男性が多かった。
女性は、友達と連れ立って来ている人もいた。
男性は、一人行動で、連帯しないようだ。
とは言え、皆さん、かなりのお歳。
90歳近い人もいる。

わたしに強く誘いかけて来る友人は、そのあたりの微妙な事情、機微がわかっていない。
わたしの年齢の人は少なかったように思う。
まだ仕事や家事、他の趣味に忙しいのではないだろうか。
早々と引退しているのは、あの群団の中では若い少数派。

つまり、年齢を早取りしているわけだが、なんだか少し違う、、、。
自分で計画を立てて、自分で動ける人は団体ハイキングには参加しないのではないだろうか。
お安い、用意された便利なハイキングなので、会員さん以外に参加者が多かったのでは。
元々の会員さんは、スタスタ歩く健脚の人がメインかも。

まとめてみると、、、
①暑い夏の後の、爽やかな秋、ベストシーズン。
②行き先が、古の都、奈良。
③家にいても何もすることがなく、暇を持て余している。
が、出てくる気力はある。
④健康志向。
⑤独りぼっちではない。

わたしは、他の趣味や、旅行、他の友人たちとの交流や楽しみもあるので、景色は良いものの、娯楽性が乏しい、ただただ歩くだけの会にはあまり参加したくない。
たまになら良いが。
たくさん歩くと足が痛くなるので、他の行事に足エネルギーを取っておきたい。
贅沢なことを言っている。
ただし、大事にお取り置きしすぎると、足が弱り、いざという時にヘタる。
日頃の適度な歩行、さじ加減が大事。

なんと、選択肢が多岐にわたる。
選択肢が少ないほうが、幸福度が高いらしいけれど。

法隆寺。こころは晴れ、後、曇り、後、小雨

2024-11-06 | お出かけ
今日は憂鬱なハイキング。
気候はベストシーズンで、行き先も最高に良いのだが、ひたすら団体で歩く。
シニア群団がまさに群れをなして固まって移動する姿は、圧巻。
200人超えの行列、行進に、周りのひとは、目を丸くしていた。

悪くはないのだが、、、当日の朝まで、家を出るまで、行くまで、が最大級の憂鬱。
電鉄会社推奨、地域の歩く会が主催、保険料500円だけで、予約不要。
それは大変良いのだが、、、。
問題は、友人に強く誘われて、なかば無理やり、渋々参加すること。
1人ではきっと参加しないだろうから、誘われなければ自主性は出ないだろうから、誘われた時に行かないと、おそらく行かない。
と、電車の中でさっきまでそう思っていたが、この記事を入力中に、気持ちに変化が生じた。

誘われて渋々行くより、自分が好きな時に、参加すればいいんだ。
自主性が生まれてきた、胎動を感じた。
自主性というのは、断る方向にも動く。
相手によって、天候が左右されるわけじゃなし、現地集合、現地解散、気分が向いたら1人参加でも行けるのではないか。

ChatGPT にも散々、相談し、あれだけグダグダ悩んでいた霧が晴れたような気がした。
途中、降水確率40%だが、雨でも、こころは晴れ。

・・・
と、ここまで書いて、今は帰路。
雨には降られず秋日和だった。
秋の法隆寺。
世界遺産に登録されている、その地域内の仏教建造物、、、
法起寺、三重塔、写真はバッチリ。

帰りに、誘ってくれた友人に感謝の言葉を!!
と言いたいところだったが、行きの電車内で決意したように、「もうハイキングは事前に約束して2人で行くのは、これが最後です」と決裂のフィナーレ。
帰りに寄った飲食店で切り出した。
勇気を振り絞った。
店を出てからすぐ「ありがとう、さようなら」とLINEが来て、胸がきゅーんと痛くなった。



東京駅

2024-10-29 | お出かけ
東京駅周辺は綺麗。
ゴミもないし、世界に誇れるのでは。
無機質と雑踏と、インバウンド。
駅の前は皇居。
人工的スケールが大きい、大都会。
ビジネスマンが多く、遊ぶエリアではないところが、へんにザワザワしなくて、邪魔にならなくて、スッキリ落ち着く。

昨日は午前2時、就寝。
明日は6時にホテルを出るのに、まだ寝ずに、だらだらしている。
なんだ、家に居る時と同じじゃないの、と可笑しくなる。

おひとり様でホテル宿泊は、じわじわ満たされる。
非日常も良いものだ。

かやぶきの里

2024-10-22 | お出かけ
今日は朝早くからお出かけだというのに、就労時間ぐらいの長さのロングLINEを夜更けまでしていた。
途中、居眠り休憩あり。
まあそれにしても、なんと長い。

昨日一緒にウォーキングしたご近所さんと、別れ際にLINE交換した。
で、今日はありがとう、とLINEした。
向こうからも絵文字ペタペタ返信。
が、最低限度に留めておいた。
LINEが長くなりそうだからだ。
わたしも知恵がついた。
長くなりそうな気配を察した途端に手を打つ。

昨夜のロングLINEの人は、なかなか離してくれなかった。
いい加減、疲れた。
が、プラスもある。
それに、わたしは、人が気分がノっている時には流れに任せてお付き合いする主義。
どこまでもお付き合いしたら、ミッドナイトを突き進んでいた。
何かしら、そういう時があるのだろう。
わたしはお付き合いするのみ。
疲れるなら、やめたらいいのに。
わたしも嫌ではなかったのだろう。

今日は、元同僚とドライブ。
美山かやぶきの里、京都のあたり、南丹市。






わたしは横に座っているだけ、超かんたん、便利。
と乗る前は思っていたが、この人の運転、マインドフルネスならぬ、超ストレスフル。
ではあるものの、運転、ご苦労様。
元同僚さん、ありがとう。 
万歩計は、さほどカウントされなかったが、ドライブだから。
それはいいのだが、途中で頭がキーンと痛くなった。
やはり寝不足か、風邪でも引いたか。
上手い具合に、行かない。

帰りに京橋駅(大阪市)で、日本共産党の志位さんが熱弁。
京橋は、JR、京阪、地下鉄の多くの路線が乗り入れ、交差する地域なので、平日通勤時の演説には効果があるだろう。
いっ時、どーっと響めきが上がり、聴衆、けっこう盛り上がっていたが、サクラかも?なんて、根拠なく勝手に思った。
私はまだ誰に入れるか決めていない、浮動票。








お墓がズラリ

2024-10-01 | お出かけ
「虎に翼」、同じ感想でも、優れた立派な素晴らしい解説、感想が書かれたブログ記事があり、頭脳の良さが嫌味なく自然に露呈されている。
それに比べて、わたしの蝶ブログは知能指数が低いのがバレバレである。
蘊蓄の数々、解説は興味深く答え合わせのごとく、インプットは出来ても、わたしは客観的なアウトプットが出来ない。
つまり、具体的事象や正確な知識は、理解するプロセスの段階で消化されてしまって、残っていない。
人に理路整然と説明できない。
で、結局どうなったの?と、結論重視。
まあよい。
劣ったものがあってこそ、優れたものの良さが際立つ。
不味いものがあってこそ、美味しいものに舌鼓を打てる。
持ちつ持たれつ、お互い、相乗効果。

さて。
高野山。
わたしは何度か訪れている。
直近では、つい1週間前。
しばらくは、高野山の写真が続きそう。

写真を撮ろうと思ったのだが、お墓の写真は1枚だけ。
しかも、墓とは言えない、書いたものを供養する?「楽書塚」。
まさにムダ書き散らし蝶ブログの供養。自分向け?
それはさておき。
なぜお墓の写真を撮らないかと言うと、今年4月に参加した「歩く会」で、三田(兵庫県)にある白洲次郎とそのご先祖様たちのお墓を訪れた。
その際、お墓の写真をどんどん撮ったら、お墓から出た直後ぐらいから、急に頭痛に襲われた。
やっぱり、お墓の写真はダメなのかなと、頭キンキン痛いなあ、と刺さる痛さをもって、わたしに(墓主が)訴えてきた。
それ以来、お墓の写真を撮るのには慎重になっている。

夫の実家の仏壇前にお供えした、お盆の里帰りご先祖様への(記録のための)お膳料理写真もそう。
何か写ってないか、恐々見てみるが、何も写っていない。今のところは。
ご先祖様の皆さんからはクレームはない、とわたしは受け取っている。
この夏から、なんと、ノリタケの新古品デミタスカップ&ソーサーで、淹れたてコーヒーを(ついでに)(自主的に)お供えしている。
コーヒー好きは、義父(舅)だけなんだけど。
夢の中にニコニコ笑顔は現れないが、期待もしていないからよい。

自分の家はよいが、やはり、他人様のお墓には気を使うようになった。
コラコラ!人の聖域に土足で踏み込むな、という頭痛パンチのお見舞いは、鈍感で無信心なわたしにも効いた。



ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル

2024-09-15 | お出かけ
ミュージカル「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」を観た。
地方公演は、大阪が初らしい。
しかも昨日が公演初日!
良い音響、良い舞台。

ただし、ご招待だったので、知り合いご夫婦を3組見かけた。
しかも、隣はガタイのデッカい旦那さんだったので、圧迫感を感じたが、観ているうちに隣の存在は忘れ、没頭した。
素晴らしかった。
特にビートの効いた歌とダンスは、直接、目から心臓に響く。
さすがに歌が、上手い。
ダンスは、血が騒ぐ。
(書けば書くほど、稚拙で平凡な表現になっていく、、、、)

ちなみに、大都会、梅田。
超久しぶり。 
土曜日の夜ということもあり、すごい人。
わしゃわしゃと、どこから降って湧いて出て来るのか、若者いっぱい。
ではあるが、梅田芸術劇場に集まる人は、そんなに若い人ばかりということはなかった。
落ち着いた年齢層の人々もいて、すこし安心した。

梅田は庭のうちの一つではあったのに、もう遠い昔のよう。
田舎ネズミで、強烈な方向音痴、そこにグレー・プレ認知症のわたしは、ちゃんと会場に行けるかしらと不安になった。 
自信がなかった。
だが、身体で感覚を覚えていたようで(子供の頃、乗れた自転車には、ブランクがあっても乗れるのと同じ)、全くロスなく一歩も間違えることなく現地に着くことが出来た。
待ち合わせの時間まで30分近くあり、人間ウォッチングをして待っていた。

ある面識のない女性二人に、いきなり、スマホで二人の写真撮影をお願いされた。
しかも、すみません〜、とかではなく、不躾に、ツアーの添乗員に頼むかのように当然な感じで頼まれた。
人にものを頼む態度ではなかった。
二人とも洗練された格好をした熟年なのに、礼儀がなってない。
単にスマホ撮影など、誰でも簡単に出来るが、わたしは自分のスマホを片手に持っていたし、バッグも抱えていたので、けっこう、モタモタした。
しかも、シャカシャカ敏速に行動するタイプではないので、自分なりには、負担だった。
何枚かシャッターを切ったが、その画面を確認した二人は「まあいいんじゃない?」と、たいして礼も言わず、目の前からいなくなった。 
引き続き、待ち合わせ場所である会場建物(梅田芸術劇場)の玄関前で待っていると、また二人はお互いに写真を撮っていた。 
田舎ネズミのわたしは、都会では、立派な良い歳をした熟年になっても礼儀知らずな人はいるものなんだなあ、、、と思った。

座席場所はわかるかしらと、じつは、ドキドキしていた。
というのは、わたしは飛行機では何回か座席番号を間違えて座っている黒い経歴がある。
前と後ろの座席を勘違いするのだろう。
なので、人一倍、ナーバス、慎重、そして自信がなかった。

なにしろ、グレー・プレ認知症になってからはほとんど新しい場所には切り込んで行っていなかったので、感覚がどんよりしていた。
最近は、広々した自然に接することで、身も心も解放されていたついでに、脳みそも緩んでいたのではないかと危惧していた。
でも、まだ、大丈夫みたいなので、とりあえず、安心した。
だが、またいつ、ポカミスをするか推測できない。 
有名人の名前がアタマに浮かんで出てこない不安に特に今、駆られている。
が、皆さんたぶん、通る道。 
グレーのまま、ずっと行く可能性だってあるわけで。

今回、一緒に行った次女は今、知的ジャンル、芸術鑑賞にとても興味があるそう。
直近ではバレエの舞台を観たらしいが、自分には響くものがなく、あまり次には繋がらなかったようだ。
わたしもバレエはロシアで観たが、まったく脳を素通りした。
昔、少し習っていたのがウソのよう。
次女が通っていた中高学校では、音楽や舞台など芸術鑑賞が行われていた。
知らない分野に触れる、良い取り組みだと思う。
それもあって、次女は、また脳が活性化され、子育て真っ盛りではあるものの、その合間を縫って、復活したのかも知れない。

わたしも、いろんなものに触れたいと思った。
若い頃にあれこれ行ったり観たりしているのだから、またエンジンが動くうちに活動したい。
まだ都会に出向けるところに住んでいる間に。
田舎ネズミが動ける間に。




体調悪化は、なぜ?

2024-05-12 | お出かけ
さて。
今日は疲れた。
毎日、そう言っている。
疲れた、と言わない日は、何もすることがなく退屈だった、と嘆く。
悪い状態だ。
やはり、ミニ鬱?
かなり体調が悪い。
医療機関に出向き、受診しようかと思うぐらい。

お墓の写真をバシバシ撮ったから罰が当たった?
12キロ、ウォーキング、白洲次郎のご先祖様を巡る。参加者は90人?
お墓のあたりから急に体調が悪化した。
「お墓の写真は撮ったらだめ、って言われてますね」と、参加者の女性の言葉が妙に引っかかる。
宗教分野、スピリチュアル分野は、ひとそれぞれ好みがあるから、何も感じていない人にとっては、鬱陶しいことこの上ない。

かつて、姑Aの「占い」に家族中、いや、親戚中が、振り回された。
わたしは、たまたま強いメンタル(無神経、鈍感)だったため、(それと打算=言うことさえ従っていたら、あとは全くなんのクレームももたれない)姑Aの占い内容に従った。
姉にも言うと、姉は、姑Aの占い内容を一切姉には知らせるな、とわたしに釘を刺した。
気が悪いからだ。
人の運命や行く道を、いちいち占いで指示されるなんて、鬱陶しい人にとっては鬱陶しいだろう。
指示に従わなかった人の運命の下降線を確かめて、生きた見本、材料にするあたり、本当に気が滅入る。
ほらほら、やっぱり事故、病気、不幸はあのせいだ、なんて、タチの悪い新興宗教のようだ。
あまりにも姑Aが熱心(うるさい)ので、皆んな、渋々従っていた。
やがて晩年、姑Aは自分の健康だけで精一杯、人のことに口を出すほどの余力がなくなって、占いどころではなくなったようだ。
家族のことを思う気持ちはよくわかるが、迷惑以外の何ものでもなかった。
家族の安全や無事を祈るのはお百度でも踏んで自分の行動で完結してくれるならよいが、「◯年◯月に、◯◯に移動しろ」などと、いちいち人の行動を指図されるのは有り難くもなんともない。
姑A自身の安心を得るため、不安を払拭するために家族は振り回されていた。
人には、なくて七癖とはよく言ったものだ。

断れば済むこと、拒絶すれば良いことなのだが、姉のような強い心を持っていないわたしは、姑Aが何も指示しなくなるのを待つだけだった。

舅も夫も姑Aの言いなりになっていた。
姑Aは真面目で良妻賢母で優れた良い人なので、ひとつぐらい意思を通す機会があってもよい、と考えた?(わたしも、そう考えたうちの一人)
それで、あとは丸く収まるなら。

大きな目で見ると、ささいなことかも知れない。
だが、ことあるごとに嫌な気持ちを思い出す。
やはり、不満、鬱憤、怨みを抱えたまま解決せず、後々、その後世まで持ち越されるのは良くない。
一代限りなら、当人が亡くなると鬱憤も消える。
けれど、人には良い面も嫌な面もあるのは、皆、同じ。
断り、拒否できなかった自分にも原因はある。
人間は弱いものだ。
ストレスの99%は、対人関係かららしい。

※写真は、昨日撮影、日本初の民間博物館。今は石碑のみで現存していない。








好きなことをしていると、ヘマも同時についてくる

2024-04-06 | お出かけ
「(年収200万円で)こころ豊かに暮らす」と、「(年収200万円で)豊かに暮らす」は、微妙に違う。
「豊か」は、人によって様々。
価値観や捉え方によって違う。
年収200万円でも、持ち家で、預貯金があり、健康な場合と、そうでない場合では大きく違う。
年金暮らしとあまり変わらないのでは?
タイトルに惑わされてはいけない。

お金と生活は切っても切れない。
暮らし方を見直すとしても、見直す前のライフスタイルが身についていたら、慣れたものから変えると苦しみが生まれそうだ。
特に生活レベルを下げる時は。
次第にまた慣れるが。
順応性がある種が生き延びるらしい。

自然体で出来ることが望ましいが、こんなことは当たり前過ぎてアドバイスにもなんにもならない、スパイスの効かない意見である。
というか、自分の志向への確認である。


さて、今日もまたまたウォーキング。
昨日はダンスに出かけた。
今夜から次女母娘が家に泊まりに来る。
これだけ書くと、他のブロガーさんのgooブログ記事に紹介されていた理想的老後パターンか。
わたしは別に目標をかかげて目指したわけではない。
目標を達成するために計画を立てたわけではない。
気がついたら、こうなっていた。
周りの景色を楽しみながら、自分が楽しいと感じることをしていたら、こうなっていた。
シャカリキになって頑張ってきたわけではない。
頑張らない道ばかりを選んだようだ。
あかんたれ、だ。

好きなことをするためには、多少なりとも嫌なことには目をつぶらなければならない。
苦手なこともしなければならない。
多少は。
苦手なことや、嫌いなことが好きになるかと言えば、そうとも限らない。
先ずは何を優先するか、優先順序が要かと思う。
最低限やるべきことはやってベースを作れば、あとは応用、オプション。

だが、「最期」はこうはうまく行かない。
一発逆転、人は皆、平等である。
最後の最後までわからないから、面白い、、、というか、手が抜けない。


・・・・・と、ここまで書いて、、、
乗っていた電車が方向違いで、しかも降りるべき駅を過ぎていることに気づいた。
今日のウォーキング集合時間には余裕を持って家を出たものの、、、冷や汗たらたら。
全員集合して一斉に歩くのではなく、各人でそれぞれに地図を片手に歩く方式だったため、集合時間に遅れることはなかったものの。
いつも、調理に例えると、蕎麦を茹でる手順で、沸騰してお湯が溢れそうになった時のビックリ水みたいに、スマホで何か夢中になると、必ずといっていいほど、電車のヘマをする。
アタマからシャワーを浴びる感覚。
学習能力ゼロをまたまた再自覚した。



妄想、幻想、現実

2024-04-04 | お出かけ
海外の親戚の住む地に滞在10日、良いなあ、、、羨ましい、、、。
1週間では短い、2週間では間延び。
ぴったりの長さだと思う。
わたしは、もう随分昔、2週間を3回、自由滞在した。
20歳の時は1ヶ月滞在。
遠い遠い過去の話。
その思い出を糧に、少しずつ貯めた体験貯金を切り崩すように、毎日を生きている。
なんていうと、まるで寝たきりか、入院中か、監獄に収監されているかのようだが。
ではあるものの、自分にとって素晴らしい記憶はいつまでも自分のエネルギー源になるということ。
チャージして繰り返し使える蓄電池みたいなものか。
時折、太陽からの自然エネルギーでチャージしなければならないが。
太陽は?
曇りの日も土砂降りの日も、自然災害と向き合う日もある。
太陽が照り輝く間に、思いっきり存分に光を浴びて満喫して楽しむ。
あとは、余波、チャージしたものや、日々の営みから安らぎを得る。
保存食で、しのぐ。
とはいうものの、あと一回は、ぜひ思い出づくりの旅に行きたい。


話は変わるが、
「女性が描く理想の老後とは?」という内容のブログ記事を読んだ。
まだ30代や40代、50代の女性が想像する老後と、60代、70代が想像する老後、さらに、80代、90代が直面する現実の老後とは、少し温度が違う。
共通するものは、「心身の健康」と「お金」のようだ。
かつて何十年か前は、仲間や友人、家族という「人」も必須とされていた。(今もかも知れないが)
お一人様が増え、家族に代るものを必要とされるが、お互いに距離感を保つ。
もたれかからない間柄となると、それはそれで自制し、結構大変である。

京都・東山、ねねさんの終焉の場である「圓徳院」を訪れると、尼さんになってこんなところで、しっとり、ひっそり世を去るのは理想だと感じた。
超超超高級スペシャルVIP待遇老人ホーム。
豊臣秀吉の奥さんぐらいにならないと、例え平民であっても、無理だろう。
いや、大谷翔平の妻なら可能かも?
だが、わたしが大谷翔平の妻になること自体が不可能である。
残念ながら。
仮に、企業創始者の家族ぐらいなら、可能かも知れないが、これまた残念ながら空想、いや、妄想の世界になる。

理想は、自立出来なくなるまではギリギリまで自宅で通いのヘルパーさんに補助してもらい、補助は限界となったら、普通の老人ホームに入る。
自宅療養だとか、家族には無理は言わないつもり。
自分を犠牲にしてまで、身を粉にして、それだけの手間暇かけて家族に愛情を注いで来なかったツケとして、見返りは期待しない、というか、期待したらバチが当たる。
お互いに、じつに、あっさり。

TV(Eテレ)で自宅での看取り、美しい最期を紹介されていたが、余命数ヶ月の家族だった。
それなら、(看るのが)わたしなら全力で取り組むかも知れない。
(看られるのが)わたしなら、どうだろう?
自分に悔いが残るかどうか、である。

ねねさんが、圓徳院に移り亡くなるまで(58〜77歳)は、今のわたしと重なる年齢。
身体が動くうちは、夢いっぱいの幻想を抱ける、いろんな光景、風景を見て歩きたい。






と、妄想を膨らまし、幻想に耽って楽しんでいたら、、、
突然の電話。
今から行くから、昼食はミートソーススパゲッティお願いします、とのこと。
ものの10分もしないうちに、玄関から大きな可愛い声。
3人kidsの笑顔が現れた。
4番目孫は保育所があるが、それ以外は春休み。
今日も、昼食、夕食、連チャンになる。
春休み限定、おばあちゃん食堂。