性同一性障害の人のブログをgooユーザーサービス「アピールチャンス」で偶然読んだ。
本日は、たまたまMtFの男性だった。
時々ブログ村エッセイカテゴリーでお目にかかるのは、FtM?またはL?の女性。
ちょっとよくわからないが、パートナーはどちらか(男性か女性か)あたりは、複雑でややこしい。
今朝、読んだMtFの男性は、恋人や元配偶者は女性。
ブログ村エッセイのFtM?またはL?の女性は、お相手も女性。
人によって込み入っていて、いろいろ違うようだ。
時代は変わったものだ。
ひと昔前は、カミングアウトをしてもしなくても、世間には受け入れられなかった。
今は堂々と自分に忠実になって声を上げ、性的マイノリティとしての立場、居場所が認められるようになった。
一生悶々と隠して生きてきた人も大勢いるだろうし、今もいるだろう。
自分はそうではないからマイノリティは理解出来ないというのもわかるが、
彼ら側から見ると、理解されずに生き続けなければならないという時代は終わったように思う。
同好者たちが絶対的な鉄格子で隔離されなければならないことはない。
本人たちは公に、肩の力を抜いて普通のこととして声を上げることがあまりなかったため、一般の人々は理解する機会に触れることは稀だった。
昔からからそういう人々がいることは知っていたが、あえて理解する必要を感じず、理解できないものとして大きな括りで別枠にしていたのではないだろうか。
正に、生き辛い時代。
理解したからといって、自分も同じ道に入るかどうかは、まるっきり別問題だ。
わたしは肉体的エネルギー減少に伴いホルモンも減少する年齢なので、一歩引いて物事を考えるようになった。
ギンギンギラギラとは真逆。
だが、パサパサでもない。(と自分では思っている)
30年以上前に、カルチャーセンターのエッセイ教室に通ったことがある。
その時の製本された作品集に、60歳を超えた男女の恋愛モノがあった。
最初のあたりちょっとだけパラパラと行間を流し読みしたまま、読んでいない。
でも、何度かの本の断捨離危機をすり抜け、いつか読むだろうと、しまい込まずにいつでも読める所に置いている。
結局、自分がその年齢になってもまだ読んでいない。
目に見えない透明のバリアが張っているようなかんじ。
神聖とかではもちろんなく、なんだかなぁ〜、である。
なら、捨てたら良いのだが、、、。
どこか繋がってそうで、なぜか捨てられないでいる。
同じく30年以上前の知り合いが書いた小説があるのだが、ハードカバーで装丁も豪華。
これは、一気に読んだが、感受性豊かな彼女の若い日々のパッション発露だった。
彼女はわたしより文化世代が一世代上。
団塊の世代?
時代を感じた。
彼女は弁護士の夫亡き後、カナダに渡り、自宅兼B&Bでお客さんをもてなしていた。
女性ではあるが男性的な豪快な手料理もさることながら、多くの絵画を描いたり木工クラフトを創った。
力仕事もバリバリこなすバイタリティの塊。
こんな人がよくまあわたしの自宅近くに住んでいたものだと、当時、驚いた記憶がある。
カナダから作品を携えて帰国した時に、彼女のお宅で、ある会の皆さんと集まりお会いした。
その時、彼女から絵画を買い求めたが、オマケとして、野菜用皮剥き器をもらい、今も現役で使って重宝している。
わたしには、絵画より、実用品のほうがしっかり使いこなし、役に立つようだ。
と、話が逸れついでに、、、
もう一人、豪華なハードカバーの自作の本をくれた人がいる。
これは出版社が出し、流通している本。
この本は彼女には申し訳ないが1ページも読んでいない。
現役の作家なので、なぜか、またいつか読もう、、、と、お取り置き状態が何年も続いている。
メディアで彼女の活躍を見るたびに、頑張ってるなあと応援しているが、まだあの本は読んでいない。
彼女は元同級生なのでわたしと同じ時代背景。
しかも地域が同じ、環境も似ている。
だが、やる気と、能力、努力の人である彼女は、ぬるいわたしとは真逆だった。
いただいた本のテーマは、かなり重く厚い歴史の積み重ねを扱ったものだったので、その時にはわたしにはズシリとして支えきれなかった。
いつか読もう、、、と楽しみにしているのだが、いつか、なんて彼女に失礼である。
(話はどんどん逸れついでに、テーマをLGBTから大きく変えてしまおう)
失礼ばかりを重ねているわたし。
今、振り返ると共通点を見出す。
自分では出来ないことをしている人に憧れ応援しているわたし。
しかも対岸から。
決して同じ場所からではない。
自分は出来ない、たぶん努力や困難、試練を乗り越えなければならないようなことはしたくないのだろう。
テレビや映画の向こうで繰り広げられていることを感情移入して、自分がやっているかのような想像、シュミレーションをして、自分のことのように歓喜したりしているのと同じ。
自分は何もしないで、結果だけ享受した気になっている。
それが嫌なら何かしたら?
いえ、何もしません。
それがわたしです。
世の中によくいる多くの何もしない人の一人か。
そういうと、「わたしは、何もしてないことはありません!」とムキになって怒る人もいるだろう。
すみません。傷つけたらごめんなさい。
では、例外的少数派ということにしよう。
まあ、なにしろ、自分は努力しないで、人がした努力の果報を横取りはしないものの、自分もお相伴にあずかろうとする、、、この精神はいかがなるものか?
映画などの空想の世界ならいざ知らず、実社会や実生活にもそのスタンスが根付いているとすると嫌だなあ、、、と我ながら思う。
ミュンヘンブログに登場していた、ドイツの有能弁護士さんのパラサイト妻みたいなかんじ?
何もしないで権利だけを声高に叫ぶ。
だが、在宅ワークやリモートワークのように、実際に身体は動かさずに、1ミリもその場を動かなくても、仕事をしていることはある。
労働は身体や口や目や耳を動かすことばかりではない。
実際、初めて行く海外に、家から一歩も出ずに全て予約、手配、振込など準備を整えたことは、多くの人が経験済みだろう。
現実と空想は、ごちゃごちゃにはならず、はっきりとした線で繋がっていることがある。
いきなり話は変わるが、
コロナ時のみ在宅ワークになっている次女が帰省して、実家(我が家)に滞在している。
さっきお風呂に入ったと思ったらもう出てきた。
「えらく早いね〜」とびっくりしてわたしが言うと、
「もう1時間経ってるで〜」と。
浦島太郎のわたしは、延々とスマホでブログを書き、お土産の玉手箱を開けると、煙が出ておじいさんに。
1時間が1分に感じられる熱中できる趣味、ブログを持って幸せだなあと悦に入っている。
自分は何もしなくても、アタマのバーチャル世界であれこれするのは、近未来の図だと思っていたが、
近未来ではなく、現実である。
わたしは、早々と実生活で先取りしているのかも知れない。
そう思うと、ああわたしは動かず何もしない、、、というマイナス思考に陥る必要はないようだ。
これから先も、どんどん自分がしたいこと、楽しいことを思い浮かべて自分を喜ばせよう。
と、なんでわたしはいつもこんなに楽天的なんだろう、、、