蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

制御不能、壊れかけの自分

2018-09-20 | 趣味
ある日、本当にある日、憑き物でも落ちたかのように、趣味のダンス熱が引いた。

大賑わいの会場、見慣れた顔の皆さん、ほんと、お互いによく見る。
(でも挨拶するのはごく一部)
昨日は混んでいて、芋の子洗い一歩手前。

雷に打たれた、の別バージョンで、雷状の滝みたいなものが、頭上からドカーンと降ってきて、熱情を洗い流したかんじ。
別に何があったわけでもない。

自分が見る光景は、音楽が消え、満員の人々の顔や踊りだけが、淡く薄い色合いになり、動いている。

あんなに熱にうなされていたのがウソのよう。
食傷ぎみ、というか、(原因不明の)食あたり?
成長期の子供が突然見舞われる、知恵熱のようなものか。
一気に、一切が嫌になり、興味がなくなる。
とりあえず、一旦リセットしようという無意識の心理が働いたのか?

例えてみると、、、
ぎゅうぎゅう詰めの冷蔵庫、いったん、全ての食材を出して、チェックし、破棄するものやら、優先順序をつけて食べていくものやら、整理する。
で、冷蔵庫を空っぽにする。
冷蔵庫を開けると、中の明るい照明だけが目に入る状態。
いつもなら、食材で暗い冷蔵庫内。
といったかんじだろうか?
(滝に打たれる衝撃例えから、一気に日常の些細な小さな主婦光景例になる、、、)

きっと飽和状態になって、制御不能で壊れかけ寸前なのだろう。
心身がストップサインを出しているに違いない。

しかし、溢れて無理やり押し込んだものが、すっかり無くなると、間違いなく虚無感に襲われる。
欲を張って、今のぱんぱん状態を維持したいのだが、思いと現実にギャップが生じているようだ。
休みなさい、と神の声?
ブレーキが効かず、ぶつかり大破するまで猛スピードで進んでいるかのごとく。
自損事故の前に、止まれ!と。

日頃、回転数が少ないわたしが、キャパを超えた回転数に上昇し、エンジンが焦げるニオイ。
エンジンを切って冷却すべし。
冷蔵庫と同じ。

ちなみに、頭の回転数が著しく速い姑は、そういう事態に度々、陥っていた。
自分で「落ち着け、落ち着け、○○さん(姑の名前)」と口に出して自分をなだめていた。

わたしはトロイので、回転数を上げろと言われても無理。
不可能なことを無理してしない主義なので、トロイまんま、周りをイラつかせる。
出来ないものは、出来ない。

そんなわたしであるから、自らの回転数アップに耐えきれず、ブレーカーが落ちる事態には経験がない。
とことん行かないタイプだから。
常に余力を残している。
でも、そのパターンが破綻したようだ。経年劣化?老化か?
余力を使い切って、動かなくなるまで突き進んでしまったと感じる。
でもブログに書いている余力はあるようなので、消耗し尽くしたわけではなく、まだ少しぐらいの最低限のエネルギーは確保、保存されていると思われる。

ブログを書いて、脳に冷却水を注いでいる。

ストレスフリーは、他者にストレスを押し付けているだけ

2018-09-18 | わたし
ストレスは病気になるモトらしい。
ストレスを溜めないためには、一日のうちの、ほんの数分でもいいから、何も考えない時間を持つことらしい。
禅の教義にも通じるところがあるとか。
頭を空っぽにする。と同時に、こころも。

こう教えてくれた人がいた。

あれ?
わたし、いっつも空っぽの時、多いです。
意識して意図して空っぽにしなくても、空っぽです。

上記の教えの場合は、頭にぎゅーぎゅー詰まっている人のストレス発散、解決策らしく、人によって違うそうだ。
わたしのようなタイプはストレス自体がない。
それはそれで素晴らしいから、今のまま
変えなくてもよい、と言われた。

しかし、別の人に同じ話をすると、
わたしがストレスを感じていない分だけ、他者が感じていると指摘された。
これには、ぐうの音も出なかった。
確かに、確かに、、、。

わたしの周りでも、思い当たる人がいる。
ストレスを感じていないと思われる人は、好かれていない。
自分の好きなことばかりしている。
ストレスを感じない自分って素敵!なんて思っていたら、えらい思い違いをしていることに気づく。

しかし、他者ばかりを重んじて、自分を封じ込めると、こころの病気になってしまう。
が、自分ばかりを前面に出すと、たんなる嫌われモノ、鼻つまみモノである。
バランスが大切だ。
他者には時として甘え、自分の負担を軽くする。
しかし、わたしの場合、いつも他者まかせで思い遣りなし。
たまには自分で制御して他者のことも考えるべき。
自己チュー、一本やりでは人として良くない。
何を今更、なのであるが、ストレスがないのは、他人にその分、ストレスを与えている、と言われて、ちょっと反省した次第である。

ちなみに、話は変わるが、ある知人Aさん。
今、ストレスの真っ只中にいるそうだ。
郷里の高齢のお母さんを引き取り、自宅で暮らし始めて3ヶ月。
一番キツイ時だとか。
頭が下がる。

彼女は、着道楽で、着るものには大層凝る美人さんなのだが、わたしはあまり羨ましいとは思わない。
食べ道楽も着道楽も、旅などの趣味も、自分の嗜好を満足させるもの。
嗜好自体が各個人で違うので、他人の嗜好を羨ましがることはない。
羨ましいなら、自分もすればよいのだ。
しない、ということは、羨ましいわけではなく、別の道を選んでいる。
趣味は、人それぞれ。
それで、気持ちが晴れるなら、活力になるなら、大いにやればいい。
ただし、自分を喜ばせるためであり、人から評価を受けるためではない。
ましてや、人を羨ましがらせるため、なんてのは、もってのほか。
そんな人は、いずれ、自分の思いに自分の首を絞めることだろう。

人の思惑を気にしないところあたりは、わたしは自己チューと言える。
どんなに評価してもらっても、自分が価値や楽しみを見いだせなければ、意味がない。
人のためにするのではなく、自分のためにする。

話を元に戻すが、頑張り屋のAさん、心身を壊さないように祈っている。

痛い目に遭わないと、人は変わらない

2018-09-13 | わたし
ものの考え方。
これを書こうと思う。
若い人や、これからのポテンシャルを活かす人には不向きだ。
わたしのような、もうあとは、いかに楽してあの世に行くか、という人向けである。

一応、若い頃はそれなりに、わたしなりに頑張ってきた(つもり)。
(そう言うと、笑う人が必ずいるが、無視)

じつは、この記事、趣味SNSから影響を受け、わたしがその正反対、対極の位置にあるので、あちらに書くのはやめた。
やめた理由は、ある一人のメンバーに読まれたくないから。
(なぜ、読まれたくないかは、割愛)

元々、趣味SNSは、実際のリアル人ばかりの集まりで、わたしのように、ひたすらリアル自分、実態を明かさない人は相手にされない。
なぜなら、日記やコメントばかり、口先だけで別人を演じたり、架空の人物を作ったりできるからだ。
複数のアカウントを持ち、入会、退会を繰り返す人もいる。
ただ、趣味の中でも、実際、競技大会に出たりパーティに参加したり、そういうリアルの交流の場があると、ワケのわからない謎の口先人間は、はじかれる(はず)。

にもかかわらず、わたしは天性の詐欺師かも知れなくて、リアルを晒さないのに、堂々と仲間に入れてもらい、日記のアクセス数も上位にある。
かといっても、「上位」イコール「人気がある」「評価が高い」ではない。
書けばいつもアクセス数が高い、ある人、Aさんはいつも、かなりしょうもない、内容の薄いことを書き、ダンスレベルも高くなく、日頃の行いも仲間内ではあまり感心しない行動で知られている。
アクセス数が多いのは、読者がリアル参加していない、一般の外野的な人が多いからだろう。
あるいは、大阪メンバーの皆さんは知っている人なので、どんなヘマをしたのかな、と、優越感を感じたり、なごんだり、興味本位の息抜きかも。
(わたしに対しても、どちらかというと、それ系)

ちなみにわたしは、Aさんを知っている。面と向かって話したこともある。
Aさんは絶対にわたしを忘れていると思う。

話は逸れるが、人は、誰かと会って印象に残る場合、容姿が際立つとか、ユニークな言動や、自分と共通項を見つけた時。
わたしのように、人の後ろにそっと立ち、なんの自己紹介もしないような、影の薄い無色透明の幽霊みたいな人間は脳に入らず、すっと抜ける。
視界にも入っていないかも知れない。

と、逸れた話はさて置き、Aさんは、さしてどうってことのない人物だが(失礼極まりないことを平気で書く)、でも、アクセス数は高いという実例を知っているので、わたしの日記がアクセス数が高くても、なんの人気の証拠でもない。


で、長々と前置きにうんざりしながら、とある人に読まれたくないためだけの理由で、こちら、蝶ブログに書く。

趣味SNSでは、わたしのお気に入りの、とある女性から、体脂肪率を減らし、腹筋を6個に割る話題が出ている。
女性のお腹がプニョプニョ出るのは許せない、と。
筋トレばりばり、ライザップの嵐で盛り上がっている。
わたしは、その対極の位置にいる。

そこで、自己肯定しても始まらない。
ほんの少しでも、自分が出来る範囲で何かしら努力するのが良いと思う。
でも、しない。
単に、苦手でサボりなだけだ。
努力と結果をはかりに掛けると、努力が上回り、ストレスが溜まるだけ。
でも、しないより、したほうがよいのは重々わかる。
しかし、腹筋が割れるより、ストレスフリー重視。
贅肉タプタプでもいい。ぽっこりお腹でもいい。
ピチッとした、体に張り付くような服を着ず、ダボっとした服を着ればよい。
そうやって自分を甘やかし、どんどん服のサイズが大きくなっていくのだろう。

例えば、右手を高く上げると痛いんです、というなら、右手を高く上げなければよい、と考える。
痛くないところまで上げたらよいのでは。
右手が何もしなくても、寝ていても痛いのなら、処置なり治療なりが必要。

そうやって、初期発見、初期治療が遅れ、手遅れとなるのだろう。
結果はどうなろうが、自己責任である。
悔やんでも始まらない時が来るとすると、わたしのブログ内容は変わってくるだろう。
その時から、「サボりは良くない、初期始動が大事!」とシフトするだろう。
人間は痛い目に遭わないと、なかなかポリシーは変えられない。
一生、同じポリシーを貫ける人は幸せである。

友達がいない

2018-09-12 | 無題
今夜、Eテレ、NHKのハートネットTVを見た。
高校時代、友達がいなくて、一人で過ごした教室。
固定された仲間同志の付き合いをスクールカーストと呼ぶらしい。
番組ディレクターが高校時代から20年を経て、こころの空洞を埋めていく。
とても興味深かった。

友達がいないことに対して、自分がどう思うかではなく、友達がいないことを周りにどう思われるか、に囚われていたとディレクターは言う。

これ、姑が、夫を亡くした時によく言っていた。
未亡人という目で見られるのが辛い、と。
わたしは、まったく理解できなかった。
配偶者は平均寿命で亡くなった。つまり生命体としては旬。
姑自身も、高齢者であるので(独居老人への心配はあっても)、未亡人だからどうこう、という目など、全くないとわたしは思った。
しかも、長い介護生活からの解放。
戦争で若い身で夫を亡くしたならともかく、いたって順調な人生の送り方。
未亡人になりたくなければ、夫より先にあの世に行くことだ。
別にわたしは姑を嫌っているわけでもなんでもなく、むしろ好意を感じ感謝している。
でも、考え方や感じ方は、違う。理解できない。
個人は別個のもので個々に違うから、そんなものだろう。

話を元に戻す。
ディレクターは、友達がいない自分を人にどう思われるかを気にして悩んでいた。
自分がどう思うかではない。
わたしは、友達はべつにいなくてもいいと思う。いても、いいけれど。
自分がどうしても友達が欲しいなら努力すればいい。
努力も面倒、友達を持つことをさほど欲していない。

友達に何を求めるか、だ。
助け、助けられ、助け合い、相互、互助。
自分がピンチの時に助けてもらえるよう、保険をかけるかのよう。
見返りを求めず、やったことが感謝され、リターンがあるかも知れない。
リターンは、目的にはしていない。
たまたまの副産物だ。

災害などで地域で互助、助け合いはある。
これは、友達なのか?
日頃、お付き合いがなければ、助け合いから外されるのか?
濃い情報などは、友達から得ることもあるだろう。
友達のいない人は孤立し、情報も得られないのだろうか。
情報を得るために友達になるのか。

わたしは、学生生活を終えてから、あまり友達づきあいをしていない。
友達がいないことに何も感じないのは、おかしいのだろうか。

今、わたしが一方的に友達だと思っている人はいるが、ちゃんと定期的にコンタクトを取っていない。
友達じゃなくなっているのかも知れない。
一方的に思っている、わたしは、変なのだろうか。
友達関係を確認できる行動に表さなければいけないのだろうか。

友達って、なんだろう?
行動するのに便利だから付き合うのは、深い意味では友達とは言えないと思う。
友達100人いる人、一人一人とちゃんと向き合っているのだろうか。
友達3〜5人ぐらいが 負担がない人数?

よくわかりません。

ひとつには、自分と同じ環境にいる人が少ないので、分かり合えないだろうと、こころのシャッターを下ろしてしまう。
わたしは、あまり自己開示したり、悩みを打ち明けたり、相談したりしないから、人の意見は必要ないタイプ。
いかにも友達がいない典型的キャラである。

それを苦にしていない、問題だと思っていないところが、良くないのかも知れない。
「友達はいるほうがいい」という一般的定義に外れているから、努力したほうがいいのだろうか?
(あまり努力しそうもないが)
堂々巡りである。

人のことを心配するヒマがあれば、、、

2018-09-11 | 趣味
ある、憧れの上級ダンサー女性Aさん。
わたしより10歳近く若い。
しかし、家庭の事情は大変良くない。
小さな生鮮食品卸小売の自営業のため、毎朝、3時起き。
早朝から仕入れ、夜まで店を開けている。
夫と、夫の母親と同居。
普通は、同居の場合、夫が妻と母親の間に挟まれて、すったもんだ苦労することが多いが、このダンナは、飲み屋のお姉ちゃんフィリピーナに入れあげている。
アホ息子と嫁の間を取持ち、苦労しているのは、お母さん。
Aさんは、姑の気配りや頑張りにほだされ折れて、アホ夫と姑さんと、3人で、辛い自営業に労働力を提供し、協力している。
条件は、ダンスを認めてもらうこと。
それだけは、絶対に譲れない。

アホ夫にも、よく出来た姑さんにも、文句は言わせない。(言わない)
あれだけ頑張ってるんだから、ダンスを認める。
もし認めなければ、家を出る、と言いかねない。
貴重な家庭内労働、マンパワー。出られては商売にならない。

お母さんはもう高齢なので、あと5〜10年ぐらいしか、甘えられない。
その時に、この夫婦はどうするのか。
強力な協力者、取持ち役がいなくなると、この夫婦はだめになるかも。
糸が切れたタコのように、Aさんはダンス三昧になるだろう。
仕事は徐々に減らし、お互い好きな余暇タイムを過ごすと思う。

あら、あんまり、うちと変わらないじゃない?

だとすると、うちも危機?
うちは別に現在の危機は今に始まっていない。危機は初めからで、現在のまま将来もスライドしていく。
危機なんだけど、危機なりに危機に慣れ、あまり意識しなくなり、長持ちしている。
Aさんの場合は、お母さんが退いた後、Aさんが頑張る気力を失うだろう。
その頃は、商売も閉業するかも知れないが、結婚生活もピリオドかも?
まあ人の家庭の心配しているヒマがあれば、自分の家に気配りしろ!と、神の声。

人は人なんだけど、わたしにはそんな過酷な労働を強いられていないし、夫がそこまでアホではないので、恵まれていると感謝しなければならない。


豚は痩せても美しくない

2018-09-10 | 趣味
さて。

今日の雑感。
痩せた豚は美しくないのでは?
豚は痩せた自分を目指して頑張るが、所詮、豚。
引き締まった豚なら、イノシシ?
どちらにしても豚である自分を乗り越えようにも、豚には豚の本来の特性がある。
これはあくまで「豚」を例に出しただけで、ぽっちゃりが嫌なわけではなく、ガリガリ、ギスギスのスジだらけが美しいとは、私は思わない。

本来の特性を無視してまでも、大変身は出来ないということ。
豚とピューマが短距離走をしようという発想は、私にはない。

夢や理想を抱き、モチベーションアップは大賛成。
ただ、自分は豚(動物に例えた場合の、ものの例え)であるなら、豚に出来ることをしたい。
豚なのに、ピューマにはなれない。

自分を知りすぎると、飛躍できない。
未知の自分があるかも知れない。
だが、豚の未知の自分はピューマ寄りではない。
豚は色々考えるのだが、やはり豚は豚。
否が応でも、自分の身の丈を知る。

努力をあきらめ放棄するのは、楽。
それを認めたくないから、自分が描く豚のイメージを根本から変える方法で、発想の転換を試みてみるのも一つの手だ。

しかし、離陸時にエネルギーを使い切った後の、今は単に、頭打ち、閉塞感、挫折の予感?
上がった後には上がり続けても、上がっているとは感じない。
下がったようにさえ感じるだろう。
下がった後にはまた上がることを信じて、とりあえず、やめずに続けよう。
一定期間続けて、様子を見よう。
苦しい時期だが、乗り越えられるか?

自信がない、、、





午後のひととき、嵐の後と、嵐の前

2018-09-06 | 日々のこと
私の父は22年前に他界した。
男性の平均寿命あたりで、この世を去ったので、年齢としては、まあまあ早くも遅くもない。
バブルがはじける前に亡くなったため、その後の世の中を知らない。
ある意味、幸せだったと思う。

父が生まれて育って、青年期も中年期も壮年期も晩年も過ごした故郷にある、地元の墓に眠っている。
戦争で遠く東南アジアに駆り出され、無事、生還した。
生死を分けるギリギリ際のところにいても、幸運にも命がつながった。
あんなに、あちこち行って、あんなにいろんなことがあっても、生まれた場所に見事にピンポイントで帰ってきて、父の両親や夭折した子供たち(わたしの兄たち)と静かに眠っている。
不思議なものだと、つくづく思う。
人の一生、、、。


不動産は土地の価値を地価や需要で決められる。
田舎で需要のない土地は、値がつけられないほど安い。
タダでも要らないと言われるだろう。
地方の空き家は廃屋になり、朽ち果てていく。
頑なに守り通し維持する後継者の有無、また、維持費の捻出に腐心した結果、先祖代々の土地を手放すことになる。
手放すなら、まだシロクロはっきりするが、手放す勇気も決断力もなく、事実上、放置。
そんな土地・家屋が全国にはいっぱい散らばっていることだろう。

かたや、過酷な自然状況に見舞われず、何をするにも便利な都会周辺に人々は集まり暮らす。
買い物、医療、介護、日常のサービスが行き届いている地域に移る。
それは自然な流れであって、止めようがない。

都心に近い高級住宅地の大邸宅ですら、住み手がいない。
税金が高く維持費もかかり、家の手入れも高齢化した人々の手に負えなくなり、高齢者住宅に入る。

高い相続税がかかる高級住宅地の大邸宅は、個人から会社の所有となったり、売却後、マンションに建て替わったりして、個人の手を離れる。
住居に莫大な資産を注ぎ込んだ、往年の大金持ちは、次代にバトンタッチされるのが苦しくなり、今や存続できない。

タダみたいな田舎も、廃屋になり、高級住宅地は所有者が変わりマンションになり、個人の顔が消えていく。
これは時代の流れなのか。
日本に、明治、大正、昭和初期にかけて見られる、富の象徴のような大邸宅は、(ほんの一部を除いて)消滅していく方向にあるようだ。
(先日の建物探訪ツアーで、残存する大邸宅、御殿をマジマジと見てきたが)
古き良き時代は、過ぎ去る。

その代わりに、枯れた古い大木から新芽が出るように、新しいものが誕生する。
古き過去のように凝ったお金のかかったものではなく、シンプルでランニングコストがミニマム、エネルギーを無駄に消費しない、守りの住宅であり、ライフスタイルであろう。
何もないのが、贅沢。
「何もないのが、貧乏」と思われた、モノの無かった時代の真逆。
大量のモノに埋もれて暮らすことに、反旗をひるがえす。
モノに固執する、モノを捨てられない世代は、少しずつ、この世から姿を消して、残るのはシンプルに生き抜く次世代。

親の時代は終わった、と実質的に感じられるが、我々の時代もほぼ同時に終わりつつある。
いつまでも引退しないお年寄りが、やっと引退しても、我々のすぐ後にはもう次の世代が押し寄せる。
我々世代は、じつに短い天下である。
しかし、天下なんか要らない。というか、取れない。
リタイアした瞬間に、力ははく奪されている。
それでもいいけど、いや、よくないような。
・・・
なんだか、またまた、眠くなってきた。


娘から、今日、わたしが孫たちを保育所から引き取ったあと、引き続き、今晩泊まらせて預かって〜とライン。
うわぁ。台風が過ぎたばかりなのに、また、、、

鬼の居ぬ間に洗濯。
今のうちに、うとうと昼寝しよう。

午後の至福の居眠りタイムに移行します。
と思ったらまた目が冴えてきた。
どうしよう、、、

台風一過

2018-09-05 | 日々のこと
このタイトルがあちこちで蔓延していることだろう。
昨日の台風は、すごかった。怖かった。
一番上の孫が怖がってウルサイ、と娘が言っていた。
そりゃあ怖いだろう。
私も、怖くて家のあちこちをウロウロしていた。
窓の隙間から浸水してくる場所を三箇所見つけ、雑巾で吸い取り、絞り、吸い取り、絞り、を繰り返していた。
家は、みしっと、しなるし、軋(きし)むし、揺れるし、飛ばされたり窓ガラスが割れたりしないかと、一番外からの影響が少ない部屋で、小さく丸まって恐怖に打ち震えていた。

今朝、娘からのラインの写真であちこちの被害を見た。
近所では、根こそぎ倒れた街路樹、ガレージの屋根が前の道路を超えて向かいの家に飛んでいったり、倉庫が隣家に落ちたり、それぞれの家も大変だったようだ。
やはり、あれだけわたしが怖がるというだけあって、相当な風の強さだったのだ。

一夜明けて、青空。
ああ、よかった。
好きに任せて昼寝をしたり、SNSで遊んだり、ネットで商品探しをしたり、他人のブログを読んだり、思いっきり、のびのびした1日だった。
何事もない幸せを存分に噛み締めた。

ほっこり、バタバタ

2018-09-03 | 


近場の温泉に娘家族と合流して行った。
久しぶり。
近くなので、楽々スケジュール。
清潔で感じの良い旅館&温泉だった。
この歳になって、初めて温泉もいいな、と思った。
それまでは、温泉に行ってもお風呂に入る以外は何もすることがないから退屈だと感じていた。
今回は、いつもと同じような早い時間に眠りについたにもかかわらず、目が覚めたのは、朝食予約時間の2分後だった。
娘は孫をメッセンジャーボーイとして呼びに来させたものの、まだ寝ていたわたしは潔く見捨てられ、彼らは、とっとと先に朝食会場へと消えていた。
焦った焦った。
すごい勢いで浴衣から服に着替え、ノーメイク。
髪ザンバラぐしゃぐしゃは、いかにも、あまりにも、、、なので、番町皿屋敷の井戸から恨めしく出るお岩さんでも、もうちょっとマシかと思える髪だけはちゃちゃっと結い直して、急いで会場に飛んでいった。

あんなに早く寝て、枕が変わってるのに、なんでこんなに寝坊するのかなー、と我ながら不思議だったが、また新しいわたしの1ページが開かれた印象。
と言いつつ、じつのところ、若い時から変わらない超天然、いつものわたしである。