蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

台風が来るらしい

2012-09-30 | 日々のこと

台風が来るという。

軒下にぶらさげている玉ねぎを家の中に移動した。
ついでに、大量のビニール袋や紙袋を一気にキレイなビニール袋に詰め替え、家の中に緊急避難させた。
いつも、ばたばた掃除、整頓の度に、屋外に出して、その場しのぎをしていた厄介モノだ。
紙袋は来る古紙回収の日に、ビニール袋はプラスチックゴミの日に、出す予定だが、
なんだか、家の中が、えらいことになっている。
ちょっとしたゴミ屋敷のようだ。

ところてん式の、このゴミの始末方法。
家の中の、ゴミに近い不用品→溜まる→屋外に出す→溜まる→一気に大量ゴミとして出す
もっと、こまめに対処すると、いいのだけれど、
面倒くさがりのわたしは、台風でも来ない限り、切羽詰らないので、やる気が起こらない。
いつも、後ろから攻め立てられて、やっとこさ、火の粉がかかってきそうになると、重い腰を上げ、動き出す。
でも、どういう延滞プロセスであろうと、事後は、すっきり。
とても気持ちいい。

ついでに、物干し竿や、小さい洗濯物干し台、ステンレス布団干し台、木製折りたたみ椅子、などなどを
抜いたり、折りたたんだり、横に倒したりして、地面に直に置きなおした。
これで、風が強くなっても、大丈夫。
あとは、宅配牛乳瓶箱2つと、ゴミペール2つを家の中に入れると、ほぼ、完了。
風が、どんどん強くなってくると、やる気が起こるが、
もっともっと強風びゅんびゅんの中、雨びしゃびしゃになって、敢行するのは、げんなり。
その一歩手前が、望ましい、行動どころ。
といっても、今まで、こうやって備えても、台風は、ちっとも大きくならず、とっとと通り過ぎてゆく。
まあ、それでもいい。
台風が去った後は、どっちにせよ、爽やかな気分になるものだ。
人生においても、重大事や揉め事、悩み事が過ぎ去ったあとは、こころが晴れるように。


今日は、台風につき、夫は、ゴルフも中止の様子。
嵩(かさ)高い人物が追加され、家の中の酸素は、減少しているが、
窓を開けているので、少し閉塞感は免れている。
が、雨足がきつくなると、窓を閉めなければならない。
背後でテレビが、がんがん、アタマが痛くなってきそうだ。

彼は、ゴルフがない時ぐらいは、家でのんびり休養をするのも、いいことだ。
いつも、体力フル回転で、仕事も遊びも頑張りすぎ。
もう、そう若くはないのだから、
ぼーーっと身体と神経を休めることも、よいのではないかと考える、優しい妻、の、わたし。
(じつは、長女に、先日、そう助言された・・・)

台風は、家族がそれぞれ、外出もできず、案外、家の中に集まって、悪くないかも知れない。
そう感じたことは、今まで、一度もないといってもいいほど、なかったのだが。
どうしてなんだか、なんのキッカケもないのだが、年をとったからか、心境の変化だろうか。

優しい目で見守り、昼ごはんを作った。
主役は、頂いたばかりの採れたて新米。
今日は、あの、食事中の、夫の犬ぺちゃの音を聞いても、いつもほど、わたしの神経がピリつかなかった。
(でも、どういう考えであろうが、犬音は脳を通さず直接、受け感じとってしまう)

まあ、それはよしとしよう。

わたしの犬音に対する敏感体質が、特異なのであって、他の正常な人なら、なんの問題もないのかも知れないから。
妻が、わたしでなければ、夫は、ここまで、犬音を非難されることはなかったのだから。
夫は、気の毒な被害者かも知れない。


まあ、それはそれとして・・・

頑張って作った、大根、人参、レンコンの煮物を一口も口にしなかったことで、わたしは気分を害した。
これは、妻が夫に言ってはいけない禁句「あんた、なんで、給料、こんなに安いの?!」
に匹敵するぐらいの、暴挙だと思っている。

ま、そんなこと、どーでも、いいですけどね。

無理やり食卓に出された食べ物を食べなければいけないのも、残酷なことのひとつかも知れないし。
作った人の気持ちを考えること以上に、食べたくなかったんだろう。
というか、なんにも考えてないのだろう。
なので、わたしも、そのお返しを、日々の中で、お返し復讐することをなんの胸の痛みも感じずにできる、というものだ。
貸し、ひとつ追加。

向かい合う、人のこころは、鏡なり。
良いことも悪いことも、自分のしたことは、自分に返ってくるということだ。
自分の戒めにもなりそうだ。


で、・・・つけっぱなしのテレビタイムは、延々と続き・・・

テレビの報道番組で、前に殺人容疑事件を起こした女性の取材が行われていた。
ホステスをしていたそうだが、接客、素行は最悪だったそうだ。
(容姿は、皆さん、ご存知だろう)
でも、その女性に寄ってくる男性もいたようだが、その中には、家庭も仕事も捨てて、同居に至った男性もいた。
高齢でも病気でもないのに、まったく働きもしない無職のこんな男性、
寄ってきて欲しくないと思うが、類は友を呼ぶのだろう。
家庭を捨てるのは、わからないでもないが、現状では介護や育児の必要もない状態の女性のために、
わざわざ仕事を捨てる、の、意味がわからない。
犯罪が起きる背景は、普通の意識、感覚、常識が機能しない世界のようで、コメントのしようがない。

安藤忠雄氏の特集もあった。
とても興味深く、見た。
設計事務所(オフィス)を紹介されていたが、
あんなに大量の書籍を吹き抜け状態で、何階にもわたって棚に陳列していたら、
地震の時に、凶器となって、頭上から降ってくるのではないかと、危惧する。
建築家だから、そこのところは、考えているのだろうけれど。
(本が降ってこない場所を、地震の避難場所として設定してあるとか? 素人のチャチな憶測だが)

梅田の丸ビルに植物を這わせ大木のごとく、大阪の緑化シンボルとしたい、という構想を立てているそうだ。
中之島沿いのウオーターフロント ビル群にも川沿い側にグリーンを這わせ、
ウオーター・プラス・グリーンの大阪の名所に仕立てたいとの案には、とても大賛成。

ひとつ、あの特集で、ヒントを得た。
うちの、塀にも、ツタを這わせたいと、本気で思った。
我が家の斜め前のお宅の塀が、全面、植物に覆われていて、いいかんじなのだが、
自分の家にも、と思ったことはなかった。
でも、塀の吹きつけが黒くなってきているので、吹き替えをしようかどうか思案中だった。

・・・・・・

わたしの好きな家、インテリア&アウテリアのコンセプトは、
月日を重ね、使えば使うほどに、味わいが深くなり、しっとり馴染む、
どこかで見た懐かしい、古いのか新しいのかよくわからない、洋館やヨーロッパ建造物、落ち着いた日本家屋、
真鍮のランプ、アンティーク、アール・ヌーボー、アール・デコ、古伊万里、漆塗り工芸品、・・・
古いものと新しいもの、西洋と東洋の融合・・・

・・・・・

関係ない方向に、ずるずる・・・
延々、だらだら、文が終わらない。
このへんで、終わりにします。

 

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偏見から解放される頃

2012-09-29 | 人生

わたしは、若い頃、足を踏み外すほど、遊び呆けなかった。
さぼったり、遊んだりもしたが、とりあえず、自分の足元がぐらつかない程度。
小心者といえよう。

そこで、遊び友達の、遊び友達にも接した。
彼らは、ものすごく遊んでいて、足元に、何もない人たちだった。
彼らは、死守するものがない、と、当時、高校生のわたしは、感じた。
わたしは、共感するものがなかった。
人生のタイプが違う、というか、わたしは、自分がサボりだったにもかかわらず、サボリ人間は嫌いだった。
自分はまだ高校生のくせに、同じ高校生の遊び呆ける彼らを見て、目標は、ないのか?と思った。

どんなにイケメンや、かわいい子でも、ただ外見だけ良くても、そういう子には、こころは、動かなかった。
ドキっともしなかった。
これは、ちょっと病気に近かったかも知れない。

遊ぶだけなんて、虚しい。
勉強や義務があって、それを果たす一方で、休憩したり、遊んだりする。
わたしは、そういう考えだった。

若い頃は、若い時期そのものが、遊び一色の時期かも知れない。
それを、シラけた顔で、定位置に戻っていくわたしは、嫌なヤツだったかも知れない。

でも、わたしには目標があった。
中学生の同級生たちは、すでに、もう、将来の職業の目標を定めている子もいた。
わたしは、そんなことは、まったくできず、すごいなあ・・・と、
進路を決めた同級生を驚きの目で見る、女学校時代の梅ちゃん先生のようだった。

遊び呆けるといっても、彼らは、今、思えば、じつに、普通だ。
善良な市民だ。
不良なんかじゃない。
自分とは、少し、コースが違っただけだ。
そもそもコースなんていう、選択方法、コースを設けること自体に問題がある。
今のわたしなら、そんなコースを設けず、彼らと、和気藹々と遊べたと思う。
残念だ。

彼らの中には、絵が上手な子や、心根の優しい子や、いろんな長所を持っていた子がいた。
でも、当時の、わたしの見る目のフィルターを通してみると、あまり、こころに、ひっかからなかった。
なぜなんだろう・・・
偏差値教育に、毒されていたのだと思う。
小さい頃から、この、偏見に満ちた価値観を刷り込まれると、修正するのは、並大抵ではない。

自分の足で立てるようになった、このごろ、ようやく、その凝り固まった数値から解放されたように思う。
楽しく、笑って、しゃべって、ありのままの自分を素直に解放することの楽しさ。
いろんな付随するものをとっぱらって、素の自分で、接することは、素晴らしいと気づいたのは、
つい最近ではないだろうか。


でも、基本的には、アリとキリギリスでいえば、わたしは、アリだ。
先のことを考えて、遊ぶ。
かなり小市民だ。

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妖怪七変化

2012-09-28 | わたし

わたしの髪は、適当に自分でアップにしている。
このヘアスタイルは、ずいぶん前から、ずっと同じだ。
長年のワンパターン。
なんの創意工夫もない、カンタン、便利、スピーディ。ただ、それだけ。

時折、「キレイに結っておられますね」、とか、
「自分で結ってるの?」、とか、
あまり話したことがない人からの、話題のネタにふられることもある。

スポーツクラブの化粧室で髪を結いなおしていると、高齢のご婦人に
「へええ・・・そういう風に、結うのですね。
いやあ、今日は、いいものを見せていただきました。
ありがとう」
と、しみじみ礼を言われたこともある。(ごく最近)

姉(あね)さんみたいだ、とも言われることがある。
任侠系らしい。
襟をぬいて、帯をやや下に結ぶと、いい感じが出るとか。
ぜんぜん、まったくわたしのキャラとは違うけれど。

見かけと中身のギャップが面白いそうだ。

教師や医師に、間違えられたこともある。
オクサマに見えるとも言われる。
ブティックを経営していると思われていた人もいた。
どこかの飲み屋のママからは、同業だと思われたこともある。
なにかの経営者とも思われたこともある。
髪を結っていない時は、保険の外交員に見られたこともある。

要するに、見た人の思い込みで、相手がそう見えるという現象だ。
見た人の、特定の職業に対する偏見(誇張された特徴)が反映されているようだ。
じつに勝手なものだ。


だいたい、3分ぐらいで、ちゃかちゃかっと結う。
天気や湿度によって、髪の毛が、ちりぢりになったり、
シャンプーしたてだと、ぴしっと決まったり、
その日の仕上がりは、その日の風任せ。
自分の意志が反映されない、いうことをきかない、手に負えなさもある。
(でも、本人は微妙に思っていても、人の目から見ると、いつも、だいたい、同じ)
時間切れになるので、制御不能のまま、振り切って出かける。

この便利なヘアスタイルは、超手軽で、どんなファッションにも合うので、
(無理やり、自分では合っていると思い込んでいる)
なので、なかなかやめられない。

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地獄の沙汰も金次第、とは、よく言ったものだ

2012-09-27 | 無題

日本人の、こころ。
急激に変わっていっているように思う。
ビジネスも、そう。
成果主義で、ノルマを果たすため、生き馬の目を抜く社会で、
よく意味のわかっていない、世間ずれしてない善良なお年寄りが、
食い物にされている例を間近に見ると、こころが痛む。

お年寄りたちが、一生をかけて守ってきたもの、それは、金銭もさることながら、
精神的なもの、例えば、家族の絆や、先祖崇拝のこころ、
そういうものが、徐々に消えつつあるように思う。

お年寄り一代だけなく、代々、守り継がれてきたものが、消え行く寂しさは、相当なものだろう。
時代が変わったと、一口に言ってしまえば、それまで。
時代とともに、価値観も変わり、お年寄りは、それについていけない、柔軟なアタマを持たない、
そう言ってしまうのは、あまりにも、気の毒な気がする。

次世代の考え方に由るところが大きい。
その次世代は、独自の考え方で、新しい方向を見据え、舵を切る。
古い考えを、きっぱり、すっぱり切ってしまう場合もあるだろうし、調整しつつ進められる場合もあるだろうし、
なにも考えずに、ただただ丸のみして受け入れ、受け継ぐ場合もあるだろう。


ここで、ちょっと、宗教っぽいお話になります・・・

先祖崇拝の考えは、仏教の芯となるようだが、
近年では嫁ぎ先として、長男は毛嫌いされ、姉妹だけの家は、跡取り問題で悩み、
挙句の果てには、先祖の霊を祭る人はいなくなり、永代供養になる。
非合理的だとか、時代に合わない、だとか、労力や、お金が、かかりすぎる、
今の時代、そんな余裕はない、極力、抑えるものは抑え、生きつなぐべき、
そういう考え方もある。
あるいは、自分たちの世代だけ楽しければいい、
その楽しみを削ってまで、理念的なもの、目に見えないものに、身を粉にして仕えるようなことは、したくない、
そんな享楽的な考えも蔓延している。

信仰上の問題であり、べつの宗教を信じている人が跡取りになると、まったく、また話は違ってくる。
地域によって、宗教色は違う。
都市部と田舎では、違う。
先祖代々から住む地に生まれ、そこを一歩も動かない人にとっては、その地の考えが全てである。
流動的に住まいを転々とする人は、流転に応じた考えが根付くだろう。
定着しないので、考えそのものが、根付かないかも知れない。

江戸時代のように、住まいを移すことが許されない、職業の自由もない、
そんな時代でもない、今は、自由自在の時代だ。
「個」が重んじられ、運命共同体意識もかなり薄れてきている。

各自、自分が置かれた立場、位置、状況によって、考えは培われる。

都会では、珍しくもなんともないという、永代供養。
田舎でも、絶家になると、そうなるのだろうけれど。
お年寄りたちが、代々、必死で守ってきたものが、いともカンタンに、時代の波に飲まれてしまうのか。
人の家は、人の家、隣の家は、隣の家。
自分の家は、自分の家。
各自、自分の考え、ポリシーで生きていくのが、いいのだろう。
そうとしか、言えない。

ただ、守り抜くために多くのことを犠牲にして、辛抱強く耐えてきたあまり、
守っていない人々を、見下したり、否定したりするのは良くない。
人は、人。自分は、自分。
自分の考えで選んだ道なら、辛くてしんどくても、ガマンして突き進まなければいけない。
だが、このコース選択は、おそらく、水と油となって、同じコース、同じ価値観の人同士が、寄り集まることになるだろう。

ばしっと、コースごとに、バリケードで分離させる必要はないにしても、
その手の話題になると、ささーっと、差し障りのないことを言って、切り抜けることだろう。
ケンケンガクガクと、討論、議論し合うことではない。
日本とは違い、多数の民族が寄り集まるヨーロッパでは、
社交の場であるパーティにおいては、宗教と政治の話は、タブーとされている。

「ここは、日本だ」という声があったとしても、宗教問題は、話題を避けたほうが、無難だ。

信仰は、自分のためにあるもの。
自分のこころを救うもの。
じゃあ、博愛チャリティの精神は?
わたしは、キリスト教のことは、よく知らないので、安易になにも言えない。

人の目を気にして、彼岸の前に、必死で墓掃除をするのは、これは、信仰か?
自分から自然な気持ちで、自主的に行うべきだが、ルールやメニュー、期日が決まっているので、たいへんだ。
このルール通りに、こなしていると、複雑なものから魂が救済されるのなら、じつに、カンタンかも。
お布施の金額や、戒名の金額で、救済される範囲や大きさが、違ってくるのなら、地獄の沙汰も金次第、で、
じつに結構なことかも?
世の中、金。これで、自分が救えるなら、それはそれで、ありがたいのかも?
(わたしは、肯定も否定もしていません。客観的な目で見ているつもりです)

少なくとも、人に押し付けるものでもなければ、
どう?すごいでしょ!と、自慢するものでもない。
こっそり、ひっそり、しっかり、自分を守るために、人知れずお祈りするのが、よろしいのでは?
ただ、問題は、他の家には関係ないことであっても、家庭内では、個人の勝手でしょ、というわけにいかないこと。
こっそりやっても、「あとは、お願いね」、という時期が来て、継承する人が必要になってくる。
家庭内、もしくは、血縁関係者内で、人材を確保し、結果的に、押し付けることになる。

魂の救済方法は、人それぞれ。
自分のやり方が、いま一歩わからない、確信が持てない人のために、宗教はあるのかも知れない。

 

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夫への暴力

2012-09-26 | 日々のこと

新聞を取らなくなって4ヶ月。
スーパーの安売りチラシも、百貨店の夢のある広告も、折込はすべて、なんにも入らない。

読まない新聞と、折り込み広告の後始末とに、毎日、追われていた。
しかも、月末には必ず、集金人がやってくる。
他の支払いは、ほとんど銀行引き落としなのに、
新聞代だけは、手渡しなので、なんだか、ずしっと重く、高いような気がしていた。

やっと解放されたら、アタマも同時に解放され、ニュースから遠のいた。
じつは、新聞をやめる最後のあたりは、第一面の天気予報しか見ていなかった。
(洗濯の関係上、いまは、毎朝、ケータイで、チェックしている)

まあ、それはそうと・・・ニュースは、テレビとインターネットだけが、頼りとなった。
案外、すっきりするものだ。
アタマも、こころも。
社会から隔離された、遠い、無人島で生活しているかのごとく。
新聞をじっくり時間をかけて読む、という作業は、ついに、わたしには定着せず、卒業という羽目になった。
喫茶店で、モーニングセットとともに新聞、あるいは、お昼休みに、週刊誌、
そういうことも、わたしは、あまりしないタイプだ。

情報社会に、どんどん疎くなっている。
なぜなら、ネットでは、あまり興味がないと、ニュースや時の話題、トレンドを追いかけない。
お年寄りと過ごす割合が増えると、世の中の時間の流れとは別の世界に身を置くかんじになる。
自然にそうやって、お年寄りの年齢に移行し、自分も年を取っていっているのだろう。

しかし、お年寄りとて、足腰の丈夫な人は、それはそれは、丈夫だ。
1時間でも2時間でも、手を抜くことなく、ぶっ通しで踊っても、けろっとしている。
ある人は、健脚で、若い頃は、毎週末には折りたたみ自転車を抱え、六甲山の麓まで行き、
芦屋から神戸へ、六甲山を東西にざざーっと自転車で横断していたとおっしゃる。
毎週、毎週、それをやっていたら、足も元気になるだろう。
爽快な汗で、仕事へのストレスも、ふっとぶだろう。

そうかと思えば、ほんの1レッスン受けただけで、へろへろになって、足がガクガク、もう、ダメ~という人(女性)もいる。
わたしは、2レッスン続けて受け、そのまま休憩せす、足早に別の会場に移動し、また、ロングで引き続き踊るが、
体力って、人によって、こんなにも違うのだと感心する。
(さすがに、帰り道は、全エネルギーを使い果たし、一歩一歩、足をひきずる、牛歩の歩み。
死刑台に向かう受刑者のように、足は重い)

わたしの場合、自分の努力でもなんでもなく、たんに身体が丈夫、というだけなのだが、
健康体に産んでくれて、親にはつくづく感謝している。


体育館や、行政の施設で催されるパーティの場合、入場料は、500円~600円~700円。
重要文化財の建造物で催される場合でも、1100円~1300円。
毎日毎日、なにもすることもなく、ぼーーっと退屈な時間を送るのなら、
600円ほどで、半日、運動しながら遊べるとなると、パチンコよりもずっといい。
帰りに爽快なビールをほんの1杯、仲間と飲めば、言うことなし。

ごくたまにレッスンに顔を出す女性が言っていた。
「家にいると、テレビを見ながら、ぼーーっと、なにもせず、寝てばかりいるわ」と。
その方は、80歳ではなく、どう見ても、60歳ぐらい。
ぼーーっと寝てばかりいるには、まだまだ若すぎる。

その話を女性更衣室で服を着替えながら背中で聞いていて、ふと思った。
わたしは、ぼーーっとテレビを身ながら寝ているなんていう行為は、したことがないなあと。
これは、個人の好みであろうけれど。

まず、日中に、明るいうちからテレビを見たことがない。
(夜、ニュースはちょっと見る)
第一、子供が小さい時期、以降は、休日以外に、家にいたことがない。
家にいても、することがない。
退屈だ。
家事は、すごい勢いで片付けていたし、日中、時間をかけて、などとは程遠い、スピード感、荒っぽさ。
休み以外で家にいるときは、身体の具合が悪いときなので、布団の上で、しっかり本格的に寝ている。

ネズミがなにかをかじっていなければ歯が伸びてくるかのごとく、
なにかしていなければ、落ち着かない。
かといって、家事とか、手芸とか、全然、しない。
典型的日本人かも知れない。
(その割には、ルーズで、行き当たりばったり、いい加減だ)


今朝のNHK「あさイチ」で、夫に暴力を振るう妻の特集をやっていたが、
そういう人は、真面目で、はけ口のない奥さんに多いとか。
(夫に暴力を振るう奥さん自体、絶対数は多いのかどうか、疑問だ)
ストレスがたまって、はけ口がない妻が、なにかのスイッチが入って、夫に暴力を振るうというものなのだが、
抵抗しない夫のことを掘り下げない番組の進行ぶりに、あほらしくなって、番組の途中で、見るのをやめた。
(ひょっとすると、後半、お偉い専門家が、解決策や、いいアドバイス、すきっとした分析をしていたのかも知れないが、
忍耐力なく、途中でリタイア)

最近、あさイチも、イマイチだ。
内容もさることながら、有働アナウンサーが、前ほど、輝いていない。どんより年をとった。
わたしの目が曇っているのか?

あさイチで取り上げられている、オクサマ方の悩みに、わたしが、ついていけないのだろう。
連続テレビは、見るが、それ以降、朝からテレビ見てたって、なんのいいこともない。


ということで、さて、今日は、いきなりですが、朝のおしゃべりは、ここで終了です。
わたしは、ここ、蝶ブログで、ぶーたれているので、はけ口は確保され、
夫への暴力には及んでいない。

めでたし、めでたし。

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使った時間よりも、残された時間

2012-09-25 | 人生

人生、生きてきた、今までの道と、残りの道。
どっちが、長い?

当然、わたしの年齢からすると、今までの道のほうが、長い。
費やした時間より、残された時間のほうが、短い。

例えば・・・ダンス。
やりはじめて、仮に3年の人がいて、その人は、73歳だとする。
「ダンスが、わたしの人生のほとんどを占める」と、その人は、おっしゃる。

え?
「でも、『73分の3』じゃないですか?」
そう聞いてみたら、
「過去の時間は過ぎ去ったもの。未来の時間は、あと少ししかない。
今の時点では、残りの人生のほとんどは、ダンスで占める。
73年のうちの、たったの3年ではなく、仮にあと元気で過ごせる期間が7年だとすると、
7年のうちの7年=残された人生の全て」
そういう計算になるそうだ。


ライフ オブ クオリティの高い時間は、実際の時間より、さらにもっと少ない。
PPK(ぴんぴんころり)の人は、生きた時間と、元気に活動した時間が、ほぼ同じだろうけれど。
たいがいの人は、健康に蔭り(かげり)が見え、生活の質が下がってから、ある程度の期間を生きるので、
そうカンタンには、あの世に行かない。

今まで過ごしてきた時間を宝物のように大切に愛しがっていた、わたしは、
けっこう、目からウロコ状態だった。

そうか、残された時間が、あまりないんだ。
確かに現在を築いているのは、過去の積み重ねや努力のおかげだけれど、過去は、過去として、
未来を大事にして生きていかないと、時間がない。

過去の時間をゼロと計算し、残された人生の時間だけを考えると、
自分の人生、なにに使うか、なに色で塗られるか、
今のままの延長で行くのか、
時間は有限で、なにもしても、しなくても、どんどん時間が経っていく。
過去も大事かも知れないが、
現在と未来こそ、どう生きていくか、ちゃんと考えることが、自分の幸せを創る。

 (でも、それって、ご隠居さんなら、そうだろうけれど、
まだまだ、やるべき義務に振り回される状況の人には、適用は難しいが・・・)

人生の先輩を見ていると、いろんな示唆がある。

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エリートって、なんだ?

2012-09-24 | 人生

わたしが中学に入ったとき、生徒総会のその年のメインテーマは、
「エリート意識をなくそう」だった。

これって、すごくない? なんの、こっちゃ?

ぽっと出の、(そりゃあ、小学校を卒業したばかりだから・・・・)、田舎モンであったわたしは、
たまたま、なにかの流れで紛れ込んでしまった中学で、
そもそもエリートの意味もわからなかった。

生徒会長さんは、学年2つ上のお方。
さらに、アタマよさそうな、そしてカッコイイ上級生がズラリと並んでいたような印象があった。
しかし、今、思えば、いくら2つ上の上級生といっても、たかだか中学生である。
なにが、わかる?

今の中学生は、それなりに、ややこしくて、生きにくそうだけれど、
当時の中学生も、そこそこ、ややこしかった。

他の地元の中学生と違うところといえば、
地元の学校では、スニーカーみたいな靴だったけれど、黒い革靴、腕時計OKぐらいなことか。

地元中学との違いを勝手に感じ取って、勝手にエリート意識を持っているのかどうか、知らないが、
コトの起こりは、そもそも先生自体が、エリート意識を持っているということだった。
なにかといえば、自分は、そんじょそこらの田舎教師ではなく、
エリート教師であるという自負が、ぷんぷん臭っていた。
そんな学校、そんな教師、ある?

エリートだか、なんだか知らないけれど、
みんな、それぞれ、各高校に進学し、さらに大学に進学し、就職し・・・
どこの学校にいようが、径路は違えど、最終的には同じところで出会ったり、行き着いたりしている。


例えば、クラス全員がエリートだったとする。
エリート意識は、どのようにして持つのか?
他校と比べるのか?
会社が一流だったとする。
他社と比べるのか?

エリートは、エリート街道から踏み外さないように、こころを砕いている人もいる。
必死でしがみついている人もいる。
自然体のエリートもいる。
エリートというレッテル、枠組は、けっこう、重くて、めんどくさいもののようだったりする。
維持するプレッシャーは、思いのほか、苦しいと想像する。
自分は、エリートではないので、ただただ想像するだけなのが、哀しいところだが。


エリートの人は、気さくに話しに応じてくれる。
非エリートとされている人は、話の場にさえ、出てこない。
出て行っても、おもしろくないそうだ。
そんなこと、まったく気にしない、非エリートもいる。

では、非エリート同士、集まったらどうだろう?
それはそれで、楽しい場合もあるし、楽しくない場合もある。
たんに、「エリートか否か」だけで、くくろうとするから、無理がある。
そのほかの重要なファクターで、同好の人々が集まると、けっこう楽しい。

仕事を終えた、リタイア組みになると、もう、エリートだの、非エリートだのは、過去の話になる。
こだわっている人がいるとすると、ちょっとお気の毒かもしれなくて、それもまた面白い。
聞き手は、おお、それはすごい!と、驚くだけであって、
今の生活に、その過去が、どれぐらい影響を与えているのか、そのほうが重要だ。
年金の額が違う、とすると、これは、かなり影響は大きい。
同じ年金生活者であっても、自由になる金額が異なると、ライフスタイルが違ってくる。
非エリートでも、お金持ちもいるし、その逆もあるだろう。

エリートと非エリートは、年金や退職金の金額だけでなく、付き合う人脈も違ってくるようだ。
が、会社をリタイアした人は、リタイア直後は、よく同期の仲間で集まっているようだが、
次第に、遠のいてくる場合もある。

社会背景や、ポジション、給料などで、人を判断される時代が、リタイアによって終わると、
判定の軸がごろっと変わる。

学生時代から偏差値教育を受け、
大学、就職も、値によって、ランキング、格付けされた時期が、人生の半分以上を占める。
それが、カサブタが剥がれ落ちるように、すっと、つるんとなくなると、
なにが、見えてくるか?
なにを基準に、人を見るか?

わたしは、この、価値観・見直しの洗礼を、二度受けた。
それは、仕事を通しての経験だった。
一度も社会に出たことがなかったとしたら、この貴重な経験は出来ずじまいで、
石アタマかちんこちんの、思い込みの強い、先入観・偏見の塊り、昔の価値観を固持していたかも知れない。
それは、わたしがエリートではなかったせいで、その機会に見舞われたわけだが、
今思えば、柔軟な見る目を養い、楽しいことを知ったり感じたりする範囲が、広がったように思う。


コンプレックスは、水平線よりマイナス方向に、がくんと落ち込んでいるが、
その落ち込み分と同じ分だけ、元に戻ろうとする力が働き、ついでに、ゼロから、さらに勢いがついて、
びゅーんと、プラスに跳ね上がることがある。
なので、コンプレックスも、優越感も、両方、味わえることになり、2倍のお得な人生を送ることができる。
素のままになると、やはり、マイナスなのだが、ブランコを漕ぐように、ぐううんと足に力を入れて漕ぐと、
浮上することもできる。
それがわかっただけで、楽しく、定位置のマイナスポイント(サボリ・パターン)に、いつも自分を置くことができる。

そりゃあ、エリートで、いつも定位置は、高い場所で、力もいつも、たっぷり蓄えられ、
余裕いっぱい、なんていうのが、望ましいが、
人には、人の、個性というものがあり、わたしには、エリートの個性が備わっていない。
(「エリートに匹敵する能力がない」とも言う)
なので、同じトラックにいないから、競争する必要がないので、
エリートさんと同席しても、卑下することも落ち込むことも、ライバル視することもなく、
なんの躊躇も、力むこともなく、ごくごく普通に会話することができる。

これは、じつは、つい最近、感じたことである。
へえ~、わたしって、エリートさんと、自然体で話せる、接することができる、非エリートだ、と、
これは、きっと稀な人材で、珍しいことではないかと、自分を見ている。
上下・縦横・斜め、行ったり来たり、自由自在だ。
(ヨーロッパの階級社会を自在に往来する旅人のよう・・・良いように、言いすぎか)
が、たんに、年をとっただけかも知れない。


今のわたしの最も重要ポイントは、ダンスがどれぐらい上手いか、だったりして、(皆さんはシラけるだろうが)、
ほとんどの人は、ダンスなどしていないので、
このジャッジの針が触れることなく、穏やかに人と接することができる。

エリートとダンスは、あまり、相対しない。かぶる要素がない。
お国の官僚でもヘタはヘタ、左官さんでも、上手は上手、また、その逆もあり。
これをダンスに置き換えずに、
釣りとか、スポーツ、音楽好きか、とか、いろんな趣味に置き換えると、また話が広がってくる。

ただし、先立つもの(お金)と健康は、(現役世代は、時間も)、行動範囲を狭めたり、広げたり、多少の制限を生む。
が、ジャンルによっては、まったく制限を受けない分野もある。


話が、どんどん広がり、エリートから遠のいていく。
これは、いつもながら、話のマトメ能力がないからであります。
悪しからず~。

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車内から、鼻歌が漏れ聞こえる訳

2012-09-22 | 日々のこと

あああ・・・やれやれ・・・

我が家に泊まることが決まったその日から、ずっとずっと気になっていた、
おっちゃん軍団台風が去っていった。
漬物石どころではない、メガトン級の重い物体が、アタマにどかんと載っていた。
やっと、終わった。
この喜び、すっきり感、しあわせ満載感。

おっちゃん軍団は、意外にも、わたしよりも、けっこう年下だった。
思わぬ年下の男性諸君ではあるが、わたしが、年がいっているため、
少々年下であろうが、すでに、おっちゃんである。

彼らを接待しようなんていう気は、最初からない。
彼らは、舌も肥えているし、目も高いし、あらゆる高級なものをよく知っている。
手を変え品を変え、いろんなところへの接待も、されなれている。
高品質な快適サービスも受けなれている。
頑張って接待しても、絶対に、満足していただけるような、
わたしのホスピタリティ能力は、高くないのは、わかりきっている。
ただただ、一泊していただく木賃宿のごとく、それに徹することにした。
そもそも、遠方からの参加のせいで、翌朝、ゴルフに出発するのが早いため、前泊するだけなのだ。
それに便乗して、前泊する必要のないM氏まで参加。

しかし、はるばる遠方からやって来る。
お土産も、あれこれ持ってきてくださる。

まあ、いいのだ、わたしは、わたしの流儀で。
無理をしないのが、わたし流。
わたしは、彼らが来る、1時間半前に、外出先からデパ地下経由で帰宅した。
それから、猛スピードで準備スタート。
布団を敷いて、歯ブラシ・歯磨きセット、バスタオルを用意。
あとは、知らん。


・・・美味しいお酒の会となった。

宴会がお開きになるや否や、客人は、布団に大の字になって横になり、即、大いびきガーガー。
とてもリラックスしていただいたようで、まあ、あれでよかったように思う。

はじめは、お酒だけでいい、とのことだったのだが、
「夕食は食べないで、お伺いします」
そう、話が追加された。
え、えらいことだ。
でも、彼らは、酔っ払い軍団なので、お酒が美味しければそれでいいのだ。
前日にインターネットで、宅配のお寿司を発注し、あとは、適当。

「お、こりゃ、うまい!!」
と、客の一人であるM氏の、大きな声。
その食品は、デパ地下で、買った生春巻きだった。
「奥さん、これ、作られたんですか?」

「わたしが指示して、作らせました」
わたしが苦し紛れにそう言うと
M氏は、すかさず、
「オリンピックも監督の采配で勝敗が決まりますからね。やはり、監督は要(かなめ)ですよ」
と誉めてくれた。
お互い、苦しい中にも礼儀あり。

いちばん人気は、M氏ご持参の(夫からの指示で九州でM氏が買ってきた)辛子レンコン。
ああ、よかった。

どうにかこうにか、翌朝、夫の号令で、やたら早くから、皆、元気に出て行った。

案ずるより産むが易し。

その後、お昼、わたしは、お彼岸の墓参りに行く車中、
こころは、晴れ晴れ、鼻歌気分だった。

 

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ぼろぼろ

2012-09-21 | 趣味

さて、
決して見てはいけない禁断のブログ村ポイント、
ああ、降下の一途を辿り、どんどんランクは落ちていく。
まあ、いまに、始まったことではないのだが、やはり、秋の風。ひゅ~~。

気にすまい、気にならないぞ、へーき、へーき・・・でも、なあ・・・。
不特定多数の行きすがりの皆様方、・・・そう、行きずり・・・なんです。

そんなことは、とっくに卒業し、
いまでは、眉のひとつもぴくりともせず、なんの感情も動かないんじゃなかったの?
そんなことは、どうでもいいことでありまして、(きゅっと襟を正す)
わたしは、わたしの道を進んでいくことにします。

それにしても、この日本、平和であると実感するとともに、この平和は揺るぎないのかどうか、
いささかの不安も感じる、今日この頃。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話は、ごろりと打って変わって・・・

わたしが、ダンスパーティに行き始めた最初の頃(今年の2月終わり~)、よく踊っていた人がいる。
わたしは、他の人とも踊りたかったのだが、その人は、ずっとわたしばかりと踊るので、困っていた。
「僕には、パートナー(女性のダンスの相方)がいるけれど、飽きてきた。
でも、パートナーシップを解消するわけにもいかない」と、言っていた。

その人は、踊りも、正式にはあまり深めておらず、我流のようで、クセがある。
踊っていて、わたしが気分よく心地よく汗が流せる踊りではない。
わたしの正統派・私的コーチが言うには、「お腹を突き出しすぎ」と、踊りの評価は低い。
今、思えば、わたしが、パーティ初心者だったから、こりゃいい、とばかりに、自分流を押し付けていたように思う。
一昨日、久しぶりに踊ってみて、さらに実感したが、彼は、踊りにくい。
よく、あんな踊りの人と、ある一定期間、踊り続けていたなあ・・・と、そんな踊りをしていた自分が不思議だった。

わたしは、しかたなく、その後、その人を避けるため、彼の出没しないパーティ会場を選んで行くようになった。
たまたま会場で会っても、わたしは、逃げの一手ではあったが、
「あなたとは踊りたくない」というメッセージは、どうにか伝わったようだった。

○○会場以外では、その人は、毎回、踊る相手を特定せず、踊っている。
各会場ごとに、別の特定の相手がいると、聞いたこともある。

そうこうしているうちに、その人は、特定の踊る相手を見つけたようだ。
○○会場では、必ず、△△さん(名前は知らないが)と、いつも、ずっと踊っている。
その女性の踊り方は、何度見ても印象に残らない。
(ドレスは、いろいろ、凝ったものをとっかえひっかえ、お持ちだが)
必死で、評価しようと目を皿のようにして見ても、やはり、ぜんぜん、わからない。
すごくヘタでもない、すごく上手でもない、すごく個性的でもない、ごくごく普通の踊りなのだろう。
しかしまあ、なにがよくて、あの男性の相手を務めているのだろう。
世の中、いろんな人がいるから、成り立っているんだと、しみじみ思う。


少なくとも、わたしは、この半年ちょっとで、変わった。
たった、7ヶ月間のことではあるが、大きく大変化を遂げた。
最初は、おどおど、踊る相手の一挙一動に、一喜一憂していたが、
いまでは、なんのその。
まったく、非常識な、ひどい態度の男性に当たると、砕けるどころか、
「まあなんと、こんな最悪な男性もよく存在したものだ。
相手の女性は、なにがよくて、こんな男性と組んでいるんだろう」
と、不思議を通り越して、同情を通り越して、理解不能になっている。

パーティでその場限りで踊るだけなら、
たんに、パーティ馴れした、適当に不特定多数の人をあしらう、すれっからし、のようなもの。
末期医療、回避のために、寝たきりゼロを目指し、健康維持を図る老人の溜まり場と化するパーティ会場においては、
今のわたしは、明らかに、目的が違っている。
ただただ現状維持と、気晴らし、時間つぶしのために、身体を動かしている方々とは、
目的が違うという自負がある。
今は、日々、トレーニング、精進を重ねる時期だと決めている。
ここ1年~2年が、山場だととらえている。
一気に攻めなければ、上達への階段が遠のくだろう。
そのためには、個人レッスン、団体レッスン、両方を積み重ね、技術の鍛錬に励んでいる。
パーティ会場に出没する、多くの素人・教え魔もいるが、教え魔レベルも、ピンキリで、だいたいわかってきた。
わたしの個人レッスンの先生である、競技ダンス現役プロのT先生に、優る人はいない。


今後の目標は、相手に頼りきらない踊り、自立した踊りをする、ということだ。
そのためには、もっとも、不得意なシャドウ(一人で踊ること)と、カウントを自分で取れるようにすること。
これまでは、相手に頼りきっていたので、すべてお任せで、なにも考えず、ついていくだけ、
好きだということと、勘とノリだけできたツケを、いよいよ精算し、自分の足で立っていかなければならない。

これは、今までの自分と決別するぐらい、大変なことで、楽しいばかりのダンスとは趣がちがってくる。
教えられるだけ、導かれるだけではできないことで、自分から能動的に取り組まなければ、身につかない。
わたしの長所は、相手に合わせることだったが、
逆に、いちばんキライで苦手な、自分で覚え、考えなければいけない。
受身から能動へ。守りから、攻めへ。相手に合わすダンスから、積極的に発信するダンスへ。
基本に帰り、一から踊りそのものを見直し、土台、芯となるものを作りなおさなければいけない。
そういう、新たな課題、方向性が見えてきた。
長所を生かすのは楽しいが、それはそれとして、短所を克服するという、すごく困難、イバラの道だ。


ちなみに、
踊りがダメな人ほど、威圧的。子型犬は、鳴き声が、甲高い。
自分の非、不出来を決して認めない。相手のせいにする。
これは、不動の鉄則として、ひしひしと感じる。

しかし、一昨日、突然ではあるが、
ほんとうに、突然、ダンスに、気持ちが動かなくなった。
なにがどう嫌になった、という、ハッキリした原因があるわけではないのだが、
すぽっと空洞に落ち込むかのごとく、
あんなに張り切って、楽しみにしていたことが、なんの熱も放たず、ひや~っと温度が下がった。
どうしてだろう。

こんなこともあるのか。
おそらく、緊張の糸が、ぷつんと切れたのだろう。
糸が劣化、磨耗したのかも知れない。
急にやる気が消滅し、昨日も眠気が襲い、ジムも、さぼってしまった。

今夜から明日にかけての、おっちゃん軍団の、我が家へのステイが、無事終わり、
翌日、彼岸の墓参りがすむと、ひと段落しようと思う。
ここずっと、頑張りすぎていたが、本人には無意識だったのかも知れない。
そういうと、頑張らないことが、わたしのモットーだと常日頃からブログに書いていることと、
大きく矛盾する。

ああ、わたしのブログ。
なんで、こう、いつも、ころころ違うことを書いているんだろう。
いつもいつも、同じことを書いていて、うんざりすることもあるのに。

雨の日も、晴れの日も、いろんな日があるっていうことだ。
完璧なものでなければアップしない、などという方針とは程遠い、わたしのブログ。

ぼろぼろだ。

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醸成される日は、来ない

2012-09-20 | わたし

来る日も来る日も、飽きもせず、よくぞ毎日、ブログを更新しているものだ。
と、つくづく、わが駄ブログを見てそう思う。
(好き勝手、書いているだけだが)

ブログ仲間内では、もう、とっくに終わっている、冷めた話題を、蒸し返し、深追いしてみたり、
タイムリーな熱い話題には、ぜんぜん、乗らなかったり、
時機を読まない、あいかわらずのマイペースを貫いている。

わたしには、どこまでも果てしなく深く、内省的に掘り下げる能力が、あまりない。
ちょっと反省しているフリをしているものの、顔は日本的だが、思考回路は、実は、ラテン系だ。

ぐじぐじ、しょうもないことに囚われ、ぐるぐる同じ場所を何回も回っていたり、
そういうパターンには、よく陥る。
時間と労力の消費以外の何ものでもない。
本人は、考えている、熟考しているつもりなのだが、
じつのところは、事態が動き、出るタイミングを計っているだけだ。

あまり、深くモノゴトを考えられない、脳ミソを持っているようだ。
もっと、もっと、浅い考え方の人もいると思うけれど、
考えたって、考えなくったって、結果は、また別ものだったりする。
なるように、なる。

最悪の事態を想定し、回避する策を講じ、状況に応じた最善策を練るのがベストだろうけれど。
一生懸命、考えようとするのだけれど、
どうも、ラテン系がジャマして、トマト投げで大はしゃぎ、みたいなノリになってしまう。

やるだけのことは、やった。
あとは、天命を待つのみ。
そういうことが、できない。

やるだけのことは、やった。
ただ、そのやったこと、内容、レベルは、けっこう、幼稚で、小さくて、え? なんだ、それ?みたいな中身で、
人には、絶対言えないような、奮闘ぶりで、ドジぶりで、
小さいところを、キャンキャンと駆け回っているだけ。
本人は、頑張っているつもりなのだが、あまりにも、傍目からみると、頑張っていないように見える。

見るに見かねて、まわりが手助けしてくれて、そうして、またまた苦労する機会を失い、辛酸をなめそこない、
ずっと、幼稚なまんま、大人なんだか、子供なんだか、わからないまま、年を重ねてしまう。
醇厚やら、醸成、熟成とは、かけ離れた、へんな、おばあさんが、長い年月をかけて造られる。

その割には、恥にはけっこう強い。(恥という認識がない)
打たれ強い。ダメージには、強い。
あまり、めげない。
雑菌にも強い。

いままで、あまり、幾多の苦労を重ねてきていないので、それがコンプレックスといえば、コンプレックスだ。
(まわりが、苦労を強いられている可能性はある)

自分だけを取り上げると、ほぼ、ゼロだ。
能力やら、パワーやら、やってきたことやら、価値やらは、やたら低い。
ただし、核は、ある。
でなきゃ、生きていけない。

自分は、人に恵まれている。いい人ばかりに、助けられている。
幸運に感謝。


ああ、なんだかお腹が減ってきた。そして、なぜか、眠い。
こういうの(空腹、眠気)ばっかりに襲われ、毎日、その繰り返し。

たいへん、けっこうなことだ。


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