蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

真っ二つに分かれたコメントの行方は?

2016-01-24 | 日々のこと

同居人の独身アラサー次女○○、最近、家庭内の趣味に没頭している。
家事がマイブームである。

クッキーを一週間分作って、冷蔵保存し、おやつに職場に持っていく。
ミニ保温水筒に、自宅で淹れたドリップコーヒーと共に。
もちろん、こっそり、自分の分のみ。
職場で、休み時間にひとりで楽しんでいるのだろう。

パン焼き機も、長女宅から借り受け、試作スタンバイ中。
自分の部屋も、断捨離は定期的に行い、要らない余分なモノをわたしにくれる。(押し付ける)。
まだ、くれるだけマシ。
衣類など、全く「これ、要る?」と聞きもしないで、どさっと、とっとと捨てる。
わたしの目から見ると、宝の山。
わたしが買おうと、売り場を物色している類のものもある。
いちいち、わたしがうるさいから、最近は、ゴミの日には、ゴミペールに先にゴミを入れて自宅前にすでに出してある。

今日も、壊れかけのプラスティックの3段衣類ケースをゴミに出したいけれど、どう処理すればいい?と持ちかけてきた。
このゴミは、こっそり捨てるわけにはいかないから、相談してきたのだ。

夫にも相談してみた。
「最近、彼女は部屋も気合を入れて、断捨離したり、掃除したり、収納方法にこだわったりしてるみたいね」
と、わたしが言い、
「いよいよ、かなあ」と付け加えた。

「いよいよ、家に腰を落ち着けて住む覚悟で、自宅の自分の部屋を快適にしようとしてるんやね」
と、わたしが言おうとした矢先、
次に出た夫の言葉は、予想もしていなかった。

「いよいよ、家を出て行くから整理してるんかな」
と。

え?
わたしと正反対のコメントが、とても意外で、斬新で、ユニークで、面白かった。

わたしと同じ家にいて、同じ二人の子供で、同じように育てている過程を共有しているのに、
同じ家にいる娘の行動や心理についての感じ取り方が、こうも違うものかと思った。
観察のポイントは同じだが、感想が真逆。

空気がスパッと爽やかに斬れた気がした。
「いよいよ、、、」の後の解答が、気になるところだか、娘は、ノーコメントだった。


日に日に、余計なモノがなくなり、美しくなっていく娘の部屋を見て、う~~ん、、、と、感慨深いものがある。


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ココロオドレバ

2016-01-23 | 無題

渋谷すばる。
「ココロオドレバ」大好きだ。
「味園ユニバース」という映画で知ったのだけれど、
この人、関ジャニ∞なんだそうだ。
ぜんぜん、知らん~。

ちょっと猫背で、あんまり若々しくないけど。
元気になる。この曲。
途中で、声がひっくり返るところが、いい。
ただし、ぜったいに自分ではテンポが速すぎて歌えない。
聴きながら、1歳児の孫にみたいに、カラダを揺らすのみ。
へんな、ばあちゃん。

「古い日記」も映画の中では歌っている。
和田アキ子より、だんぜん好きだ。


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プライドだけでは、空腹は満たされない。

2016-01-21 | 暮らし

どうやらわたしは、「サボり」のようだ。
キャラの基本。

自分の蝶ブログで100万回、書いている。

理想と現実の乖離も、1000万回、書いている。
サボりのくせに、理想が高い。
能力が低いくせに、プライドが高い。

行ったり、来たり。アップダウン。
そこへ突然「ムラ」という症状が現れる。
おそらく、上下のギャップを無理やり混ぜて、緩和しているのだろう。

「ムラ」のせいで、偶然、自分より高いところに一瞬、上がる。
ところが、あとは、中身が着いて来ず、キープするのに疲労する。
疲労はするが、磨耗はしない。
色々サボる手段を考える。

この「ムラ」は、自分でコントロールできない。
後から振り返ってみると、一生の何度かの大事な岐路となることが多いようだ。
「ムラ」は、自分で苦しいほど頑張っている時もあれば、
雲の上にひょいっと飛んでいるかの如く、無意識の時もある。

「ムラ」のせいで、今日の自分があるわけだが、
コントロールできないものに頼っている自分に対して、なんだか不甲斐なさを感じる。
「偶然」と「運」と、長い待ち時間と、ほんの少しの決断。
(魚釣りみたいだ)
高いところで、ふと我に返ると、いつものダメな自分がいる。
なんで、こんなところにいる? 自分の実力より、うんと上の場所。
低位置にいると、プライドがむくむく、不快な影が、まとわりつく。

日常、通常は、たんなる怠け者。
実体なんか、ほとんどない、
信念とプライドだけで生きている、ここぞという時しか動かないサボりである。
(冬眠中のクマさんみたいだ)

自分にとって最低限度、必要なものは何か。
(あ、これ、精神的にです。モノに関しては、断捨離おちこぼれ劣等生)
ランニングコストを極力、抑え、省エネの時代には合っているかも知れない。



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何度もコケると、痛くないようにコケる

2016-01-17 | 人生

わたしのブログは、あまり時間を経ても、変わらない。
人からの影響を色濃く受けていることがあるにしても、消化し、自分の確信を強めるだけで、
自分のキャラのほうが強いと見受けられる。


青春を軍国一色で塗りつぶされた少女が、終戦後、ころっと価値観の大転換と、世の中の様変わりに、ついていけない・・・・、
かというと、そんなこともなく。
その年代は、母の世代なのだが、母たちは、戦争を挟んでも、価値観はまったく揺らいでいなかった。
そのほうが、不思議だった。
女性は逞しいから、毎日の食事の支度に追われ、国がどうの、価値観がどうの、
そんなことを言っている暇があったら、食材を調達して調理し、お腹を減らした家族に食べさせることを優先するのだろう。
考えている暇があったら、働け、か。

わたしは、日本が豊かになろうとしている、上がり調子の時に生まれ、成長したので、リアルタイムでは戦争を知る由もなく、
過去のことは、映画や小説、史実が書かれた本やドキュメント、古いニュースでしか、当時のことは知らないのだが。

戦争のことは、わたしの周りの戦争経験者の人々はあまり皆、口にしないところを見ると、よほど嫌な思い出だったのか、あるいは、生活にまみれて、次の時代を生きて過去は上書きされたのか。

まあ、とにかく、過去の話といっても、世の中とはまったくリンクしない、幼い頃や嫁入りした頃のできごとを熱く延々と語る義母。
やたら古い、明治前後あたりの話も延々と延々と延々と。
彼女の頭のなかの時計は、だれがネジを巻いているのだろう。
電池はとっくに切れている。

実母は実母で、自分の想い、希望を熱く「語る」のではなく、強く「要望する」。
これまた、かなわない。

わたしもいずれ、必ずといっていいほど、ああなることだろう。
彼女たちは、自分の世界にしか、自分は生きていない、
ということは、今のわたしと同じではないか。
わたしは、うんと先の世界を先取りしているのか。


話、変わって・・・

わたしは、自分の理想と現実のスリ合わせ、調整に、いつも手こずっている。
理想が高く、実力が低く、バランスが取れずに難航している。
ブログにも何度も何度も、飽きずに書いている。

しかし、この悩みは、わたしの生まれた時からすでに起因はスタートしている。
本体(わたし自身)と悩みとをひっくるめて、わたしは、この世に生まれてきたわけだ。
(べつに、怪物君や妖怪人間ではありません)
人間は悩む葦なんだから、べつに、どおってことはないのだが。
悩んでいない人など、一人もいないのであって、人生に悩みはつきものであり、ユニバーサル・スタンダードである。

どんな悩みか、どうやって向き合うか、が、人によって違う。
この違いは、大きい。
「社会が悪い」と、社会を怨む人もいるだろうし、他人のせいにして、責任回避する人もいるだろうし、
「自分が悪い」、とウツ病になる人もいるだろう。

上を見ればキリがなく、下を見ればキリがなく。
間違った優越感や劣等感に苛まれる可能性もある。
横を見れば、ライバル心はムラムラ。
五十歩百歩、どんぐりの背比べ、めくそ、はなくそを笑う。
こころ休まるヒマも余裕もなく。

こころが明るく、プラス志向で、悩みが全くありません、という人がいるとすると、
「わたしは、生まれてきて一度も嘘をついたことがありません」という人と同じぐらい、
わたしは疑心暗鬼になる。
本気で本当にそう想っているとすると、その人の周りは相当悩まされていると予想する。

母などは、自分の悩みを人に丸投げする。
どうにかしてくれ、と。
昔からそうである。
発注し、苦情を言うだけの人、これは、仕事の関係では、顧客、クライアント、お客さんである。
企画を練り、計画を立て、人やモノを手配し、実践するのは、受け手側。
仕事の場合は、金銭の授受で成り立つのだが。
デキないものはデキなく、破綻する場合もある。
社会問題になる場合もある。

発注すれば、なんでもしてくれる、なんでもデキル、デキなくても頑張ってすべきだ、なんて、大間違いのことも多々ある。
現況、現状を理解していない場合に、そういう横暴で無茶なことに陥りやすい。


自分で考え、自分で切り開く訓練をしたことがない人は、脳に、その回路が備わっていない。
知識がなければ、仕入れるべきではあるが、知恵がないと、知識も手に入らない。
世の中すべての誰も彼もが、できることではないようだ。

試行錯誤をして調整していくにしても、試行錯誤に進む、取り付く島も、とっかかりすらない。
そういう場合もある。
リサーチするということは、大切だ。
キーマンが近くにいる、と、とても心強い。

情報弱者の方であるなら、おそらく、わたしのこの蝶ブログを直接、読むこともないだろう。

アンテナを張り巡らせていると、ヒントがどこかに落ちていることがある。
自分は、バランスの悪い人間なので、常に自問自答しつつ、無意識で、道になにか落ちていないか、見ながら歩いているようだ。

そうやって、けつまずいて転んだら、大笑いである。(わたしは時々、転ぶ)
今度から転ばないように、注意すれば、5回転んでいたのが4回に減ることだろう。
打撲する重圧も、ちょっとは軽減されるだろう。

生まれつきバランスの悪いわたしだからこそ、あれこれ悩んで、けっこう楽しく暮らしているのかも知れない。

 

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猿も迷惑です。

2016-01-16 | 日々のこと

どこの、どなた様かは、存じ上げませんが、
わたしの3年も4年も5年も、何年も前のブログ記事を読んでくださる方がおられるようだ。

ここ、gooの自分のブログに、人気記事ランキングとして、そういった記事が入っている。
自分が書いたとは言え、今、読んで、まあ、おどろき、もののき。

性格、性質、心理、行動・・・今とまったく変わっていない。
おそらく、中学生の頃から、変わっていないと思う。

5年前は、その内容で、楽天家ではあるものの、悩んでいたようだ。
5年経って、それらは克服できたか?
じつのところ、当時とまったく同じ事態である。
変わったのは、現象のとらえ方。
前は、グズでサボりで困ったことだと捉えていたが、
今は、「今日出来ることは、今日するな」「明日できることは、明日しろ」
つまり、グズで、前倒しにできないことを悩んでいたわたしだが、年齢が上がり、ステージが変化すると、
ころっと逆の発想になった。
仕事モードと、人生モードは、明らかに違うようだ。
成果主義 VS アンチ成果主義なのか?

仕事では、ぐずぐずしていると、自分の首を絞める。周りにも迷惑をかける。
しかし、自由な人生編では、あくまでも、ぐずぐずしているほうが、自分らしい。
ぐずぐずしながら、締め切りに追われないで、無から自分を創り出すのが楽しい。

受身パターンを嘆いていたが、自立できない「受身」を、今は、「受容する」「受け入れる」と考えている。
開き直りとも取れるが、精神衛生上は、自己肯定は、悪くない。

デキないことに捉われ、執着し、嘆くのではなく、
デキることに目を向け、デキることで、残りのほうが少なくなった人生を組み立てていく。
わたしは、けっこう、楽しいと思うのだが。

 

話は変わり、
今日、読んだ本の一部に、「自分のことしか興味がない人」が悪い見本として書かれていた。
どきっとした。
わたしのことだ。

悪い人々の分析として、
他人に迷惑をかけて平気で、自分を正当化するためには嘘をついて平気で、
保身のためには人を傷つけても平気、
そういう人といっしょのククリで、「自分のことしか興味がない」という項目があった。

わたしは、他人との関わりはあまり積極的ではないし、自分を強く認めてほしいとは思わない。
誰に気づかれなくてもいいから、自分のことに興味がある。
一種の精神的・自己フェチか。
だが、他人を押しのけたり、迷惑をかけたり、傷つけたり、は、極力、避けるスタンス。
なので、この悪人見本は、わたしとは別バージョンであると見なした。(自分の正当防衛)


話は、またまた360度、ごろっと変わるが、(長くなるから、明日のブログに書けば良いものを・・・)
話したら止まらない人、という人種がいるようだ。
女性に多い。

今日、電車の中で、お向かいの座席に座っている女性が、そうだった。
二人連れなのだが、相手の女性は、ほとんど話さない。
一人の女性が、一方的に、まさに、機関銃のごとく、べらべらと話しまくっている。
声はさほど大きくないが、まあ、うるさい、うるさい。
間髪無く、のべつまくなしに、がんがん、まくしたてる。
相手の女性の反応など、どうでもよいようだ。
話し出したら、止まらない。
病気ではないかと思うぐらいだ。
わたしも、ひょっとして、家で娘相手にこういうかんじかも知れない。
(娘は、ひょいっと席をはずして逃げるから、長時間は無理であるが)
わたしの場合は、ブログで、マシンガン・トークをやっている(のと同じ効果)。

おしゃべりな皆さん、(特に、女性に多いです)
みっともないし、周りに迷惑なので、不特定多数の人がいる空間では、やめましょう。
わたしは、その女性が、ある駅で下車して、こころの底から拍手した。

彼女、見かけはごくごく普通の60代女性だが、アタマがヘンなのではないかと思ってしまった。
特別にオカシイわけではないが、少しオカシイ。
自分では気が付かないようなので、人のふり見て、我がふり直そう、と、感じた次第である。

あんな一方的トークでは、人に聞いてもらう必要も、意味もない。
しゃべって、うっぷんを晴らしているのだろう。
べつに、相手に同意を求めているわけでもないだろう。
話し相手は、犬でも猫でも、猿でもいいのでは?
家で、ペットに話しかけたほうが、スマートだ。

では、わたしの、このブログの一方的トークは、なにに当たる?
こっそり、猿にでもメールをしたほうが、スマートか?
わざわざ猿を呼んでこなくても、非公開にすれば、済むことなのだが、
なぜか、手が滑ってしまって(確信犯です)、公開してしまうのだ。

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奥にあるイルミナージュ

2016-01-13 | お出かけ

奥河内イルミナージュを見に行った。
光の饗宴が、大阪府下の各地で繰り広げられている。

三連休の中日だったが、人は、ぱらぱら。
でも、寂しくてしかたないほどでもない。
大阪府立、花の文化園、冬の一定期間以外は、花園になっている。

無料の中ノ島のイルミネーションに比べると、大人ひとり1000円の入場料、
家族で行くと4000円を払って、これか~と思ってしまう。
目が肥えてしまうのは、決して良いとは限らない。

中ノ島は、なんといっても無料だし、バラ園や、川に沿ってのロマンチックな光景が続く。
市役所から中央公会堂へのプロムナードを経て、洗練されたアート感漂う。
企業の協賛があるから、この違いは仕方ない。
松井さん、奥河内のイルミネーション設置費用と入場料収益、費用対効果、どう見るか。
イルミナージュのみならず、花の文化園も閉鎖しようなんてことにならなければいいが。

乳幼児を連れて、中ノ島まで行くのは、やはり負担。
奥河内の花の園、
植物園を動物園のように見立てたイルミネーションは、ちょっと幻想的だった。
都心には無い、奥には奥の楽しみがある、ってことだ。

 

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アンチ・アンチエイジング派です

2016-01-09 | 老い

最近、とつぜん、アタマの中で、ぴっと、つながることがある。
ノーベル賞を受賞した研究者が、寝ていてふと起き上がった時や、何かを足でまたいだ瞬間に、
ピンとくる、というか、電球がぴかっと光るかんじだ。

あ、そうだったのか。
と、目からウロコがぽろぽろ。
わたし独自の人生セオリーを発見する。

ある時は、台所の流し台に立っていた時、
またある時は、義母の一方的マシンガン・トークを延々と聞いていた時。


昨日、本屋に寄った。
寂しがる実母に、なにか絵画集か、仏教系の本でもないかと探した。
広大な売り場面積を誇る書店であったが、わたしのイメージする本はなかった。
母は、びっしりの活字はもう、読む気力がないだろうから、
こころやすらぐテイストの絵画と、1ページに一言、禅の教えみたいなものはないかと、本屋中をうろうろした。

で、仏教コーナーあたりで、並べられている本に書かれている、幸せへの指針みたいな内容を見て、思った。
あれ?なにこれ?
これ、わたしが実践していることと同じ、思っていることと同じだ、と。
仏教界の幹部か、お坊さんになったのか? わたし?

足るを知る、だとか、一期一会だとか、昔から聞き知っている内容ばかりだ。
わたしの場合、生煮えで、精進していないから、生身の分だけ生臭く、煩悩いっぱいである。
でも、ほんの少し、悟りをひらくこと、煩悩を少なくすることが、幸せへの近道であるということをこと最近、感じはじめているようだ。

ただ、同時進行して、困った事態が起こっている。
脳みそ破壊。
ぼけぼけになっている。

記憶力減退、理解力ダウン、モノを探せない、置いたところを忘れる、、、、、
バスの乗降時、平気で間違った回数券をかざす、つっこむ、取り忘れる、
おツリの計算は、めちゃくちゃ適当、
煩悩を忘れるついでに、実世界、実社会のルールや決まりごとも忘れる。

これって、美しい幸せの国、あの世に一歩近づいてきているのではないだろうか。
しかも、精神世界。
わたしは、体は丈夫、病気知らずの健康体なので、
アタマだけ、美しい国へ。ぼけぼけの、兆候、大。
ああ、母のDNAを強く感じる瞬間である。

ちなみに、もうじき還暦というものの、まだどうにか50代末席であるので、ちょっと早いような気がする。
一方が立てば、一方が立たない。
両立って、難しい。
が、バランス感覚を磨いて、清く正しく美しい、正統で正当な「老化」へ、まっしぐらに突き進んでいこう。

わたしはアンチエイジング主義ではない。
大きな自然の流れに、しゃかりきになって逆らっても、ストレスがたまるだけ。
本末転倒である。
なので、老いをすんなり受け入れる方向である。
副作用として、悟りも、ぼけも、両方受け入れることになるけれど。
とりあえず、趣味のダンスは足腰が動かなくなるまでは続けるつもりではあります。 とは言いつつ、順調な老醜と美学の壁あり。

 

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文字の乱打ち

2016-01-08 | 人々の風景

このごろは、スマホでもブログ記事がアップできる。

なので、電車の中でも、ほいほい。
電池残量は減るけれど。

「ほんの少しの時間でもあれば、スマホをいじっていますね」、と、同行者に指摘された。
その人が駅のトイレに行っている間の、待ち時間を利用していただけなのに。
待ち合わせの場所に向う電車内、ブログでもなんでもなく、ラインで話の途中だったので、気になって。

他人から見たら、スマホ中毒。
しかし、電車で座っている人を見ると、スマホをいじっていない人はほとんどない。
ホームも然り。
情報を一方的に見ているだけの人も多いと思うけれど。

対面していても、スマホをいじる人もいる。
これは、大事な用事なのかも知れないが、こちらとしては、けっこう、不愉快で気分を害する。
ほんのちょっとした時間でもスマホを見るということは、自分もそういう印象を人に与えているということだ。
株価チェック、ビジネスメールチェックだったとしても。

と、いまこれは、パソコン入力。
わざわざパソコンで入力するような内容ではなかった。
ま、そういうものです、ね~。
文字の打ち捨て。垂れ流し。一筆書きの、乱れ打ち。独り言。

一文字一文字、吟味して入力、アップしている人もいるのに、ごめんさない、の気持ちです。

That is why I am.

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年齢フリー

2016-01-07 | ブログ

わたしの蝶ブログ、「リンクしていいですか?」と、わざわざご丁寧にも、お尋ねがあった。

じつのところ、最初は、ちょっと戸惑った。
どんなブログかもわからないので。

わたしは営利系・広告が、ばんばん入っているものや、集客意図のあるものは辞退している。
販売や営業が目的で、スタッフがブログを書いているものも、Noさんくす。

スタートしたばかりのブログのようだ。
他にリンクしてあったブログを見て、これならOKと思った。(何様発言、わたし)

わたしの悪いところでもあり、良いところでもあるのだが、
実態が伴わないくせに、やたらプライドだけは高い。
理想が高いが、それなりに努力もしている(つもり)。
ちょっと、痛々しさ満載だが、人のことばかりを意識していると、自分がなくなる。

なので、未完ではあるが、走り続ける。
(といっても、実際は、亀より遅い)

若い人たちと感覚が合うかというと、毎日、顔を合わせている若い衆(こどもたち)に、
ことあるごとに「昭和のニオイがする」と言われている。
言っている本人だって、昭和(末)生まれ。
最近、平成生まれが周囲に出てきて、昭和生まれを意識するようになったのか?
かなしき、アラサー。
わたしは、実り多きアラカン目指して、まっしぐら。

へんに若いと、年齢が気になるようだが、
ある程度、年を重ねると、意外に楽しいものだ。
お年寄りはみんな、老化をはじめ、年によるあれこれを嘆いているが、
ひとりぐらい楽しい年寄りがいても、いいんじゃないか?
なんて、老化も、まだ深刻ではないから、無知ゆえの軽薄な言葉を平気で吐いているのだろう、わたし。

が、楽しい自分がいいに、決まっている。

今年も楽しく年を重ねたい。

 

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5年後、10年後、20年後

2016-01-05 | 

長い長い長い、年末年始が終わった。
2016年、やっと平常モードに戻りつつある。

年末から年始にかけて、民族大移動。
それぞれの核家族が、実家に帰省する。

長女一家は、お婿さんの実家へ。
ちょうど、関西と関東の境目ぐらいの位置か。
年末の一週間。
あちらのお父さん、お母さん、ご苦労様。
一番、手のかかる乳幼児連れが、一週間も滞在。
日頃、老夫婦、二人だけの静かな生活に、若手が、どかどか乱入。
しかし今回は、まだお婿さんのお兄さん一家も同時滞在、芋の子を洗う戦場でなくて、よかった。
一緒だと、お風呂の順番なんて、なかなか回ってこないと、長女が言っていたような気がする。

我々は、夫の実家へ。
日頃、老人一人住まいのところに、大人が3人加わる。
義母とのやりとり、どっと疲れる、嫁のわたし。
風習だの、慣わしだの、伝統だの、簡素化しようとするわたしと、
体が動かなく、記憶もだんだんぬるくなってきているのに、想いとアタマと口の達者な義母と、ことごとく衝突。

お正月明けて、長女一家、乳幼児連れが、どかどか4人乱入。
むこうの、お婿さんのご両親、おそらく万歳三唱。やれやれ、と。

こちらは、迎春準備はバタバタだったものの、明けて、大人だけの静かなお正月に、活発どたばた世代が増加。
ダイニングキッチンは、ぎゅうぎゅう詰め。

さらに、そのメンバーで、今度は、わたしの実家にGO。
実家では、姉一家(姉夫婦、シングル甥っ子や、ちび連れ姪っ子たちファミリー)と合流。
若いお婿さんは、これで、3人に。
母や兄たちは上座に鎮座。
各世帯、お年賀品・交換会、物流、交流、わーわー。
老若男女向き・和洋折衷・昼食、お茶&和菓子、コーヒー、と、進んで、あっという間にお開き。
ばたばた。


各家々に三々五々の後、我が家には、うちの長男が帰省。
我が家が、「モノが多すぎる」と、長男による断捨離の粛清が始められる。

ぽいぽい、ゴミ袋に入れる息子。

「それは、捨てたらあかん」
「どう見ても使ってないで」
「これは、大事に取っておいているものなんやから」

「賞味期限、過ぎてる」
「塩昆布は、べつにいいのよ」

「こんなもん、まったく要らんものや」
「いや。要る。わざわざ買って、集めているんやから」

あちこちで、すごいスピードで、ゴミ箱行きに仕分けされる。


息子が帰ったあと、捨てられたものの中から、執着心のあるものをわたしは、レスキューする。
が、息子が言う通り、なくてもよいものばかりではある。
が、見切りをつける期間が、わたしと息子では、時間の長さが違うのだ。

次女は、
「お兄ちゃん、一年に一回しか帰ってこない、実家の大掃除して、どうする気や?」
と、冷ややか。

義母宅の冷蔵庫を賞味期限切れチェックをして、はるかに賞味期限が切れているのを見て呆れておきながら、
自分の家では、息子に呆れられている。

自分の実家に訪れる身でありながら、子供に実家を訪れられる身、同時進行している。
核家族が、いっぱい。
交通整理しないと、統制がとれない。
求心力、まとめ役、牽引役が必要である。

子供は、あと30年すると、自分の子供(わたしの孫)に実家を訪れられ、実家を訪れられる気持ちがわかるだろう。
そして、子供と孫が、「おばあちゃんち」として、うちを訪れることになる。
我々は、30年先、実家を訪れるとすると、そこには誰が住んでいるのか?
我々? ひ孫? それとも、Nobady?
メビウス状態になってきた。


実家に移住しないで、自宅から通って管理だけするとするとしても、
高齢になって自立できなくなると、自分は老人ホームに入ろうと思っている。
管理は、子供にバトンタッチということになる。
子供も高齢になってくると、管理は孫にバトンタッチということになる。
管理費は、どこから捻出する?
遠方にいる場合は?

よほどの信念と経済力がないと、困難である。
親が居なくなると、売却してしまい、はい、それでオシマイ。
死んで、あの世から化けて出てくるわけにはいかないので、自分がいない後のことなど、
だれが約束してくれようか。
(存命のうちに自分の家を売却する人もいる)

核家族になって分裂して、消滅して、それでオワリ。
これをあきらめるのか、自分の目の黒いうちに、スピリッツと資金を残しておくのか。
そのつもりにしていても、
自分の死に際に、予想以上におカネがかかってしまって、残す資金がなくなってしまったら、それはそれで、しかたない。
老人ホームに入るプランは立てられても、死期プランは立てられない。
その時はその時。どうせ、自分はこの世にいないのだから、どうなっていてもわからない。
せめて遺言だけは、残しておこうと思う。

通いで管理するのがだんだん、体力的に辛くなって、軸足を実家に移すかも知れない。
軸足を移す時の準備をしておくのも、選択肢のひとつではある。


5年後には、夫は、仕事を減らし、義母は、通院か入退院で、自宅と病院を行き来か、老人ホームを検討。
あと10年すると、夫は完全にリタイア、義母は、あの世とこの世の中間。
その頃、わたしはどんどん下り坂、順調な老化のカーブを曲がっていると思われる。
やりたいこともやりつくし、
というか、やりたいことを続行しようとすると、老化などで、支障をきたし、やりたいことが出来なくなっておもしろくなくなって、したいことを変更しているかも知れない。
その微妙な頃は、親を見送る時期と重なることだろう。
親の介護に専念したとしても、そろそろ本格的に介護という覚悟が自分の中で出来上がり、
やりたいことも、見送りも、「やり残した感」はそうないと予想する。

しかし、70歳ではまだヒヨコで、80歳にならないと、老境に突入しないかも知れない。
自分の老いとの闘いは、80過ぎてから、85ぐらいで本格的かも。
その頃には、親はあの世に行っている(はず)。
本腰入れて、自分との老いと向き合うことになる。

今回、息子にも言われた。
自分の入りたい老人施設、決めといてね、と。
順調にいけば、まだじっくり時間はある。
今から20年~25年の間に決めよう。
あ、その前に、義母。


なるように、なる。
なるようにしか、ならない。

 

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