毎日、素晴らしい写真と共に、凛とした文章を届けてくれるブログと出会い、感激している。
しかも毎日、無料で、安定した高品質のものに触れられる。
どうか、ずっと続けていただけることを願うばかり。
わたしの大好きなテイストである。
内容も、表現も。
わたしには真似しようにも真似できない。
憧れか、、、というと、また違い、現実の一部として感情移入している。
写真の感性も、もしわたしがそこにいたら、こういうアングルで、こう撮りたいだろうなあと、リアル感が迫る。
実際には、シャッターチャンスの捉え方が、いまひとつ遅れたり、ボケたりする。
わたしの脳裏に残る風景が色鮮やかに蘇る。
脳内疑似体験。
今朝も、ほろりと涙を流した。
ステキな電子の贈りものをありがとう。
そして、ブログ村さま、ありがとう。
良いものに、ぞっこん、こころを奪われた後に、自分のブログを書くのはいささかエネルギーがいる。
まあ、わたしはわたしで別もんなので、それもありかなあと。
でなきゃ、生きていけない。
で、話は、個人的な将来へと想像を巡らせる。
高齢になったら、どういう生活を送りたいかなあと。
1)自分の生家に住むのはどうか?
無理。
例え、メンテを完璧にして、最新の設備を整えたとしても、ハード面は快適でオッケーだが、ソフト面がよろしくない。
買い物は不便だし、ふらりと外出にもイマイチ、近隣住民ともお付き合いなし、知り合いもなし。
(あ、父方の叔母が、ま隣に住んでいた。が、隣でも田舎だから遠い)
一日中、家の中に居るのなら、なにも遠い生家に住む必要はない。
あの生家を利用して、何かするのであれば、訪れる人やスタッフとも交流があるだろうが、わたしはもう関与したくない。
毎日、がやがやと人と接するのは、しんどい。
やる気なし。
2)駅前至便マンションに住む。
これは、あり。
どの駅か?
やはり知った顔が近くに居る、そういう駅か。
でも誰かと同居、シェアするのは嫌かも。
生活スタイル、スタンスの違いで摩擦が起きそう。
しかし、一人で、頑丈な鉄の扉を閉めて一切遮断し、引きこもるのも孤独すぎる。
3)老人ホーム
これは、ありかも。
元気なうちに自立棟に入居し、介護が必要になれば介護棟に移る。
自立棟の時は万が一の時しかスタッフは顔を見せないから、自室のプライバシーは確保できる。
万が一の、緊急時にも、お一人さまでも不安はないので、両方の良いとこ取り。
4)自宅
好きなように過ごす。
今のパターン。
定期的にヘルパーさんに来てもらう。
ただし、ゲリラ豪雨や台風、自然災害の時はただただ恐ろしい。
日頃の家屋メンテや備えが必要。
以上。
旅先で季節滞在、なんていうのもありかも知れないが、具体的に計画するほど、精神的にエネルギーや情熱が満ち溢れていない。
ダンスは自分でもうやめたほうがいい、と、セルフストップをかけるまで、踊る。
有終の美を目指し、美意識からも健康面からも、引退時はある。
あるいは、、、
季節の良い時に、夫の実家で、ちまちま骨董品探し。
今は、本でいうなら目次をざっと見て内容を知っているる程度。
一章一章、目を通してじっくり向き合うのも趣きがあるだろう。
だが、今はそんな気にならない。
歳がいって、老境に達したらそうしよう、、、と代々の人たちも、そう思いつつも、誰もせずに、この世を去っている。
口頭のみの、言い伝え。
わたしも、そうなる可能性は大いにある。
足腰が動かなくなっても出来そうな趣味だが、実際に動けなくなると気力もなくなるだろう。
それを見越して(かどうか意識はないが)、目についたお気に入り骨董品は、ちゃっかり自宅に持ち帰って、時々、手に取ったり、愛おしく見ている。
それは、骨董品に限らないが。
体が動かなくなったら、精神もダウンするだろう。
体が動いている今、体が動かなくなった時のシュミレーションをしてみても、精神的にも元気な今の想像では、お門違い、見当はずれの予想になるだろう。
趣味や余暇は、きっちり細かく予想できないとしても、住まいは大まかに枠として決めておきたい。
器が決まると、入る中身も決まる。
しかし、海の見える場所がいい、とか、そんな希望は特にない。
自然に囲まれて育ったから、のびやかな、おおらかに過ごせるところがいいけれど。
逆の場合もある。
中身に応じて、器を決める。
しかし、この歳になると、中身は減少する一方。
濃度が高まり、カサが減る。
だとすると、器は大きくなくてもいい。
だが、小さな器は狭苦しい。
余裕がほしい。
自分を放牧したい。
認知症が進むと、放牧もままならず、外から鍵をかけられるのだろうが。
あれこれ、半歩先の自分を想像して、進路を選びたい。
ヨレヨレの自立出来ない自分を想像して進路を選ぶとしたら、介護付き老人ホームに決まっている。
それは、楽しくない想像だが、まあ、避けて通れないので、行き先コースの通過点の1つである。
結局、楽しい想像としては、どうしたいの?
やりたい事をしようと思えば出来る今を存分に楽しみたい。
そして、老境に差し掛かってからしたいと思っていることも、少しだけ具体的に前倒しでスライドして、取り掛かってもいいかなあ、、、と、うすぼんやり、アタマの隅っこで思っている。
老いと共に歩く、落ち着いた時期。
安らぎの満ち足りた時を過ごしたい。
でも、今はまだ机上の空論である。
なぜかというと、健康な今、十分満ち足りている。
これ以上の幸せはないと思っている。
健康でなくなったとき、同じようには思えないだろう。
が、少しずつ老化が進み、健康を害してきたら、気持ちも変わり、対応していくと予想している。
(かと言って、事態はどう急変するかは、神のみぞ知る、、、である)
必ずそういう時は来るということを知りつつ、実際にその時になれば、その時、考えよう。