蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

害虫は寄り付かない

2017-03-31 | わたし
わたしには、害虫が寄り付かない。
非常に結構なことだ。

害虫と、わたしの、接点がないからだと思われる。
害虫は、わたしを騙そうとする。
わたしは、騙そうとしているかも知れない害虫を警戒する。

お金を貸してくれ、と言われるとする。
お金は貸さない。
それで付き合いが破綻しても構わない。
(常識想定内の状況での貸し借りは臨機応変に行う)

いつもニコニコ現金ワリカン。
今ないお金は、明日もない。
だから、貸さない。
お金を持っていない状況で、お金がいる場に顔を出すことが間違い。
無いなら無いで、使える範囲内の行動をすれば良い。

金持ちの贅沢三昧、寄り集まりも嫌い。
服装や身なりは、ある程度の社会的ポジションを表しているが、わたしはブランドバッグに興味はない。
一つの嗜好に過ぎないと思っている。

激辛カレーが好きか、ちょっとだけ辛いカレーが好きか。
同じ激辛でも、麻婆豆腐のほうがいいのか。
個人の趣味の範囲。
なので、わたしにはどうでもよいものであっても、その人に対しては「好きなモノが食べられて、よかったね」とは思うが、「あなたもいかが?」と言われても、辞退する。
自分も好きなものなら、ありがたくいただく。

うまい話にも乗らない。
なので、わたしから何かを引き出そうとしても、何も出さないので、害虫は集まらない。

わたしが目指すものは、依存しない、共存共栄。
害虫とは、共存共栄できない。


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唯一無二の自分が大切

2017-03-29 | 趣味
私は、審美眼はそこそこ発達している。
人を見る目もそこそこある、と自負している。

社交ダンスは?
膝に、(踊り過ぎにもよると思われるが)老化のもたらす身体的弱点がある。
旅行に行くと歩く時間が多いので、ムチャをして膝を潰したくない。

競技は無理だろう。
相手に迷惑をかける。
闇雲にパーティダンスは、卒業。

自分の審美眼と、価値観と、感性の合った、そして、相手に重く寄りかからず、依存しない、これからも共存共栄していける人と踊りたい。

競技を目指す人や、目指さない人がいる。
「ダンスの上達のためには競技ダンスは早道」という説はよく耳にする。
スポーツ、体育系の人の運動熱を満たし、応援し合ったりする、大勢の競技仲間との交流を楽しむ人もいる。

私は、膝の弱点と、スポーツ系でない身体、サボリ、3点セットで、競技は無理。
目指さないのではなく、目指せない。


しかしながら、自分を否定したり、卑下したりしない。

自分は自分であり、唯一無二。
世界中で一番大切なのは自分である。
こんな大切な自分を何が悲しくて否定しなければならない?
事実を認めて受容することは、決して自己否定ではない。

所詮、趣味の世界。お遊び。
それで食べていっているなら、また違う考え方、捉え方をする。
食べていける、いけない、これ、大きい。
だから、わたしは、趣味の世界では、自分を思いっきり甘やかす。

だから、だから、、、いつも、イマイチ。
能力と成果を受容しなければならない。

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ペンの行方、思わぬ負の効力

2017-03-23 | わたし
えらいことになった。

わたしのブログ、書き方が悪かったようで、誤解を受けた。
自分では全くそんなつもりがないのに。
皮肉っぽい、憎まれ口とも取れるような表現には気をつけなければ。

信頼して親近感を感じるあまり、距離の取り方を間違え、表現方法をミスったか?
実は、距離を縮めることにはウエルカムなのに。
いつも一人で、あまり、人と交流したことがないので、経験不足が禍した?

わたしの書くもので、気を悪くされたらごめんなさい。
本人には自覚なく、人を不快にさせているかも知れない。


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愚直

2017-03-22 | わたし
ちんたらこんたら、ただただ長い、思いつくままに書いた、思ひ出ちょろちょろ。

よほどひとり、膝を抱えて寒々していると、気の毒に思われたのか、「読んでますからねー」、という、励ましの親切コメントをいだだきましたが。
ありがとうございます。嬉しかったです。
寒さには慣れています。
けっこうこれが、心地良かったりするんです。


前々から印象に残る手法がある。

単なる客観的な描写を長々、延々と書く。
私的な感情や、訴えたいことは、極力避ける。
スピルバーグ監督の映画、「プライベート ライアン」での、ノルマンディーに上陸した時の残虐な戦闘シーンが延々と冒頭20分間も続いたように。
説明は要らない。ストーリー展開もセリフも要らない。
観た人が感じる。
あれは、訴えるものがある。
客観描写のみ。

いくら美辞麗句や大義名分をふりかざしたところで、実態は、カモフラージュできない。
事実をどう受け止めるか。


わたしは語彙不足なので、いくら客観的に表そうとしても無理がある。
感性人間なので。
だが、能力不足を感性で補っているつもりは、ない。
かといって、客観的に、より正確に表現するために、あちこち調べたり、頑張らない。サボりです。

あ、あ、あ。
また、思ひ出を書き連ねたくなってきた。
これ、病気?

自分にいったい何を問いたいのだろう?



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思ひ出ちょろちょろちょろちょろ

2017-03-21 | 思い出
アカの他人の育った家なんぞ、どーでもいいだろうと、ちらと脳裏をかすめるものの、いや、大きく強く直訴してくるが、書く。

増改築、改修された家に長く住んでも、改築前の空間をよく覚えている。
すっかり建て替えてしまったとしても、毎日暮らしたイメージは強く残る。

幼い頃、暮らした間取りや、庭には、特別な思い入れがあるのだろうか。
思春期頃に暮らした家も、よく覚えている。
成人になってからや、結婚してからの家もである。
毎日の生活と密着に関わっているからだ。
暮らしには、人が関わり、衣食住全てが関わる。

昨日は、自分のアップした記事を読みながら、幼い頃、過ごした田舎の家の空間を詳細に思い出していた。

玄関を出て、真っ直ぐ行くと、厠がある。
昔の家は、トイレは一旦、屋外に出て、ちょっとしたところにある。
お風呂も少し離れていた。
水回りは、住宅が傷みやすいから切り離されたのだろう。

突き当たりにある厠の右手側に、2メートルぐらい低い、見下ろす位置に畑がある。
畑を右手に見ながら、緩かやなスロープを下ると、前に、また畑がある。右にも畑、前にも畑。
この前の畑では、小学校低学年の頃、夏休みの宿題である自由研究で、大根の種を植えて、苗を育てる観察日記を書いた。
なんのヒネリもない、ただ、だんだん苗が大きくなっただけの記録。
あれは、得点が低いだろう。
もし評価するとすると、毎日、毎日、(水やりをしたかどうかは忘れたが)見に行って記録しただけの皆勤に対して。
誰にでも出来る、決して高度なものではないが、物事の基本かも知れない。
今もわたしは、愚直なまんまである。

まあ、それはそれとして。

その愚直観察畑の前を右に曲がると、ユキヤナギや、腰ぐらいの高さに茂る植物群を左手側に見ながら、小さな家に着く。
この小さな家は、厠から見下ろしていた畑と同じ高さに位置する。
小さな家は、地元の小学校に新任教師が赴任する毎に、ここに住んでいた。
昔で、田舎なので、賃貸住宅がないからだが、祖父の地元での働きの一環として、離れを新任教師の住まいとして解放していた。
和室二間に、土間の台所とお風呂があった。(お風呂、あったかな?正確なところは忘れた)
玄関横から和室Aの前には、半間の廊下があり、格子の枠付きガラス窓からは、陽光が降り注いでいた。和室Aに続く和室Bには腰から上の高さの窓があり、その少し前には小川が流れていた。

やがて新任教師が住まなくなって、その家は、畳を上げ、木の板の上に、収穫したジャガイモをゴロゴロと平たく並べて保存していた。
いつ行っても、その家にはジャガイモがあった。
ジャガイモ専門倉庫になっていた。

そのジャガイモ倉庫と化した家の横には、大きな米倉庫があった。
米倉庫と同じ高さに、畑が繋がり、視界は全面、畑が広がる。
家屋寄りの場所に、イチジクの木があった。
畑の前には禽舎。
禽舎の横の小屋には、牛か馬を見たような記憶があるが、かなり私が幼い頃には、いなくなったと思われる。

この畑の横の細い小道を上ると、増築した子供部屋が突き出している。

子供部屋の前にはまだ小道が続き、ミニミニ人工池があり、、、、

もう、疲れた。
読んでいる人などないのに、頑張って書いても仕方ない。
また、元気な時に書こう。
もうじき電車、下車駅が近づいてきた。
今日の車中のお遊びは、そろそろ終了です。

〆もまとめも結論もない、ただただ、思い出す風景を描写したのみ。
大根の観察記録がビミョーということと、祖母の野良仕事が大変そう、という、本日の感想。

中途半端は、次回のマトモな記事につながることを期待して。
電車、降ります。


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思ひ出ちょろちょろ 2

2017-03-19 | わたし
「思ひ出ちょろちょろ」という、三年ぐらい?前の、自分のブログ記事を読んだ。
懐かしい。
オチは、時間切れのようで、大いにイマイチであったが。

育った田舎の光景が蘇る。
幼い頃は、自然そのままの田舎で暮らした。
田舎の野山を駆け巡り、川で遊び、祖母の(文字通り)手作り食材を食べて大きくなった。
味噌、梅干し、お餅、ハンドメイド。
食卓に出る野菜は全て自家栽培。
昔の人は働き者だ。
明治の女性は、芯が強かった。

無口な祖母とは、あまり話さなかった。
彼女は静かに生き、静かに生涯を閉じた。


半世紀以上前、田舎の家。
ブログにも書いた。
日本の春夏秋冬。
エアコンもない。
打ち水で涼を呼ぶ。
夏の設え、冬の設え。
季節によって、家の中を模様替えする。
襖や障子を夏用建具に入れ替え、夏の風が夏用のれんを揺らす。
井戸にスイカを冷やす、
冬には火鉢、炭をいこす、薪を焚べる、、、、


家畜や草花、田んぼ、池、小川、山、原っぱ、丘、
蚕を飼っている家があり、よく見に行った。
蚕が桑の葉っぱをむしゃむしゃ食べる様子が面白く、ずっと見ていた。

子供部屋には、ピアノと、真っ白い綿カバーがかけられたソファ。
ちなみに、洋館ではない。
大正時代に建てられた築100年ぐらいの日本家屋。
私が生まれてからでも、大規模増改築を2回している。
子供部屋の窓越しに見える小さな庭と、畑。その向こうには小川。
いつも窓から見ていた。

裏門を出た右手側に鶏小屋があった。
毎日、砕いた貝殻を餌としてあげていた。
コココ、と小さな嘴で餌を突く鶏たち。
卵も毎日、生んでいた。

敷地内には、整えられた日本庭園と、ミニミニサイズの人工池や、イチジクや木苺、野生の木々が生い茂る自然なガーデンがあった。
あとは、畑。
じゃがいも、ほうれん草、玉ねぎ、人参、茄子、トマト、スイカ、、、色々。
祖母が野菜を作っていた。今で言うところの家庭菜園である。
当時としては、食べるためにつくる野菜であって、趣味で作るものではない。

子供のわたしは、来る日も来る日も野菜ばかりで、うんざりしていた。
しかし、その食生活のおかげで、元気な身体に育ったようにも思う。
祖母には感謝である。


畑や自然の庭は、禽舎やその他の小屋と統廃合され、わたしが中学生の頃、ひとつの日本庭園になり、生まれ変わった。
時代は移り変わり、今はその庭の手入れや維持が、次世代の負担となっている。
良い意味でも、良くない意味でも、レガシー(遺産)である。


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無知は最強である

2017-03-17 | わたし
水は高いところから低いところに流れる。

今のわたしは、一方的な流れは快適でないと感じている。
相互間の協働で、向上を目指したい。

これは、「わたしが成長した」と、わたしは捉えている。
弱者向けの一時避難シェルターから、一歩、出て、自立の道を歩き始めたのではないだろうか。

この目覚め。そうとう遅い。
還暦になってからの自立。
成人を迎えるまでか、遅くとも30歳までには自立すべきと思う。
40年ぐらい、遅い。
しかも、老化を自覚し、もう、じわじわ自立できなくなってくる年齢を迎えた時期に、今ごろ、自立なんて、またなんと、間が抜けていること。
自動車専用道路の逆走である。


自立心は、切羽詰らないと生まれてこないと感じる。
(小さな子供でも、頼れる親や保護者がいないと、精神的に自立すると仮定してみたが、幼くまだ未熟なため、精神的な歪みが生じる可能性がある)
切羽詰ったことがない人は、一生、お湯の中で、自立を自覚しない。
それはそれで安泰、幸せな人生である。
不要不急なら、あえて、選択肢があるにもかかわらず好き好んでイバラの道を選ぶのは、おススメしない。
気がつかないままの一生は、幸せである。

気づきは、日常生活をぼんやり送っている中には、得られない。
なにかしら、ものごとや、出来ごと、悩みなどに直面しなければ、深く考えることはない。
映画や小説で疑似体験して、自分も一緒に考えることはあっても、実践を伴わないシュミレーションでは、所詮、お遊びである。

映画を観た後、日常に戻り、自分の置かれている現状を再認識し、あんな怖い目や、辛い目に遭わなくて、ああ良かった、と、安心や喜びを得る。
いい匂いがすると、空腹でもないのに食欲を刺激されたり、購買欲が湧き上がったり、潜在的欲求を喚起させられるかのごとく。
自分から自発的に欲するのではないのに、眠っている意識や欲求を人工的に誘引、引き起こされる。
そうやって、意図的に非日常感を力ずくで感じさせられて、なにかの起爆剤にでもなれば良いが、策略的な仕掛けには、人を利用しようという意図が見え隠れし、大抵は金儲けのためだったり、政治目論見だったり、人為的なうさんくささを感じる。
自分の目や耳を研ぎ澄まして深く考えたところで、身に迫るものが現実ではなく仮想であれば、いくら五感を駆使しようにも、リアリティがない。
(しかし、ひょうたんからコマなんてことも、あるようだが)

つまり、実際に自分の身に降りかからなければ、一生懸命考えたり、取り組んだりしない。
(中には、身を粉にして「人のため」に、行う人もいるだろうけれど)


では、
不幸を知らない幸せな人は、宗教家にも、教師にもなれないのか?
という話は、また別。
書きはじめると、とんでもなくめんどくさい。なのでパス。


人生において、徹底的に自分と向き合う時期が、何度かあるはず。
それを分岐点というのだろうか。
自分の力でどうにもならないことに、ぶち当たった時、どうするか?
ありとあらゆる方法を考え、試み、乗り越えようと努力するだろう。
それでも思うようにいかない場合、それはそれでいいのではないか。
それも含めて、その人の人生。その人の力。その人の運。

知恵と勘と努力。
三つ揃えセット。これがあれば、最強。

さて、
脆弱な土壌の上に立つ、弱々しい「わたし」。
強力なものは、なにも無いので、きっと偶発的アクシデントには人一倍、うろたえることだろう。
しかしながら、書くこと(考えること)と、実際に行うこと(実践)は、少しでも距離が縮まってほしいものだ。

だが、無知は強力。破壊的パワーがある。
厚顔無恥との三つ揃えで、乗り越えられそうだが、へんに知恵がついては、かえってパワーダウンする。
知恵をつけろと言ったり、つけるな、と言ったり。
どっちやねん!
しかし知恵は、味方になるはず。


・・・いっこうに結論にたどり着かない。
長いばかりで、眠くなってきた。
矛盾だらけの、道、途中のわたしである。

なにごとも表裏一体。
答えは、有るようで無い。無いようで、有る。


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自分の負けを認めて後退する

2017-03-16 | わたし
あなた(goo蝶ブログ)よ、聞いておくれ。
あなたのところに、へろへろになって帰ってきた。
あなたは、なにも、言わずにわたしを受け入れてくれる。
(そりゃそうだ、自分で編集して好きなこと書いているのだから)

わたしは偽善者である。
自己の欲のために行動している。
自分のために人を利用しようという意図がある。

人間は、行動するのには、動機がある。
その動機は、わたしはいたって不純、極まりない。
もし、親切心で手を差し伸べたとしても、善行をしている自分に、うっとりする。
こころの底からの善行ではない。
ある時は、世間体のためだったりする。
ある時は、見返りを求めている。

自分が有利になるよう、優遇されるよう、人を利用しようとする。
その自分の魂胆が見え見えで(自分のことだからお見通し)、吐き気さえしてくる。

一生懸命勉強したり、仕事したり、尽くしたりするのは、人のためにではなく、自分のためである。
評価や見返りは、自分に返ってくる。


ある、こころ美しい立派な人がいる。
爽やかで努力家で、社交家でもある。
わたしのような、偏りのある人間にでも、暖かい手を差し伸べてくれる。
だが、それは、一方通行。
お互いではなく、高いところから、低いところに、水が流れているだけ。
それを勘違いしてはいけない。

そういう立派な人は、立派な人に相応しい立派なレベルの層がある。
残念ながら、わたしはその層ではない。下である。

上だの下だの上下を区別して下位にいる自分を否が応でも不愉快に認識しなければならないのなら、区別する基準や、カテゴリーを変えればよい。
そこに、食らいついている必要はない。
別の分野で、別の価値観で見ると、同じ評価にはならない。

だが、価値観が染み付いていて、なかなか取れない。
そういう場合は、苦痛や屈辱、劣等感を感じる場所、カテゴリーそのものから、遠ざかるとよい。
相手は自分が優位に感じることができるので、親切心もあり、うじうじ一人暗いわたしに、声をかけてくれる。
明らかに対等ではない。
相手は、自分が優越感に浸れて快感を得ていると推測できる。
それをわかっていなければならない。

わたしの手が届きそうなレベルであるにも関わらず、相手が優越感に浸っているケースもある。
相手が自分で思っているほど優位だとは、わたしは感じていないので(今は、さほど大したことはないが将来が期待できる見込みの成長株)、余裕で、不快感も屈辱もなく、応援と協力というかたちで、喜んで相手の優越感を満たしてあげる。
優越感を感じることによって、相手はますますやる気が増し、頑張り、努力する。
ある意味、共存共栄の気持ちである。
シーソーのように、お互いの力を出し合って向上を目指す。
リターンが期待できる。

餅つきの、杵を打ちおろす役と、臼の餅に水をつけて混ぜる役。
(子供の頃、祖母が、混ぜる役をやっているのを見た。懐かしい風物詩のひとつの光景→話が脱線)
「お餅が出来上がる」という協働プロジェクトの恩恵をシェアできる。


だが、
自分が絶対に手が届きそうもないことに対しては、距離を置こうと考えている。
甘い招待には、要注意。罠が待っている。
それは、宗教の勧誘だったり、物販だったり、なにかの会の入会だったりする。
なにも罠がなくても、単にその人物の優越感を満たすだけの役は、ごめんだ。
何かしら還元され、わたしにもメリットがあるなら別だが、無理して他人の優越感を満たしてあげることに生きがいや喜びを感じるほど、わたしはマザー・テレサではない。
まだまだ発展途上であると思っているし、蠢き生きている。
自分にほんの少しでも見返り、得るもの、プラスの実感、手応えがないと、虚しいだけだ。
一方的ではなく、双方間キャッチボールを必要とする。

これまでの痛い経験から、自分が傷つかない術をある程度、知っている。
なので、前を向いて笑顔を見せながら、足は少しずつ後退していこう。
そろりそろり、後ずさり。

前進ばかりが良いとは限らない。
立ち止まることも、方向を変えることも、後ろに下がることも必要だ。

すべては自分を守るため。
わたしの基本スタンスは、自己チューである。
喜びを得るための努力は惜しまないが、悲しみや失望を引き込まないプロテクトのための、あまり楽しくない努力も(気は乗らなくても)自分に課している。

楽しい分を確保しようとすると、楽しくないことを我慢しないと、一方だけ手に入れるなんて虫が良すぎる。

後退〜〜!!
と、部隊長が叫んだ。
なので、わたしは、腹這いになって、じりじり後退する。

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不純な安売りバーゲン

2017-03-12 | わたし
自己嫌悪。
気に入られるために、商売人の揉み手。
自分を安く安く売っている。
プライドは、ないのか?
武士の魂は、ないのか?(あ、武士じゃなかった)

努力して自分の実力で勝ち取ればいいのに。
努力の方向性を間違えている。
ただし確信犯なので、タチが悪い。
いつも、こうやって、ズルして、猫なで声で、ダダをこねて、人様の努力の産物である賜物、うわ前をはねる。

いや、待てよ、と、双子のきょうだいが言う。(双子のきょうだい、いないけれど)

世の中、手数料とか、コンサル料とか、サービス料とか、目に見えにくいものにも値段はついている。

人はそういうものにはお金を払っていないつもりでも、価格の中に含まれている。

わたしの働きに値段をつけるとすると、
努力を算定するとすると、
ずぼっと真ん中ではないが、同じカテゴリーの流れの一環ではないか?

わたしなりの努力は、わたしなりに成果の果実を享受してもよい(はず)。

と、弾まない気分で、自分を安売りして揉み手をしに行く電車の中で、ノリの悪い自問自答。

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ユルシテ〜〜

2017-03-11 | わたし
イジけた自分を無理やり肯定するのは困難である。
マイナスなのに肯定しようとするから無理がある。
肯定ではなく、受容することにすればいいとか。
赦す、に似ているか。
自分で自分が許せない人もいる。
わたしは、許して許して、ゆるゆるである。
相手が許さないと怒っているのに、ユルシテ〜、と、ニタついている。
だめかも。自分基準は、甘すぎて。

しかし、誰も自分を許してくれないなら、せめて自分が許してあげないと。
キリストに懺悔して許しを求める前に、自分で許してしまっている。
いいのか?
わたしは、キリストさんより偉いのか?
まあ、自分基準なので。
宗派も違うし。

と、書きつつ、待ち合わせの相手から、頭から湯気を出してそうなメールが届いた。
ユルシテ〜〜。

あかんか。