蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2020-06-29 | 
旅の記事を目にすると、何かがわたしに訴えてくる。
わぁ〜っとだったり、じわ〜っとだったり、しっとり、しんみりだったり、、、。

旅情というには畏れ多すぎる、わたしの感想。
わたしの思いは小学生日記のほうがぴったりくる。
理由を推測してみると、知識不足に尽きる。
小学生の時から社会科が不得意だった。
特に地理は無人島に一人で住んでいるかのように悲惨。
今では地理はすでに鉄道マニアの小学2年孫Aに追い越されそうな勢い。

地理や歴史にうとくて旅をすると、
わあキレイ、だの、あらスゴイだの、感嘆詞ばかりが目に映りこころに焼きつく。
客観的に説明が出来ない。
3D映像に自分がドッキングしている体感体験。
現地の自然と一体化しているような気になって、わーわー言っているだけ。

それに加えて、夫。
彼は旅の全てを人まかせにする。
個人旅行にせよ団体旅行にせよ、旅行業者に、行き先の国と日程だけから選んであとは丸投げ。
有名な景勝地や、美術館に絵画を見に行っても、知識と現物の「チェック」をするに過ぎない。
なんて言っているわたしは、どうなんだ?
場所、地名すらもわかっていない。
これは旅と言えるのか?
テレビを見ているかの如く。
与えられ用意されたレールに乗るだけの参加型?

でも、学校の教科書やテレビ、映画などで見る地に自分がいることは、脳を直撃する何かがある。
だが、自分の心身に消化、吸収、昇華され、仮に記事にしたとしてもお粗末なものになる。
ぜひ行ってみたいと思える旅の記事を書く人は素晴らしい。

旅記事には二通りあると思う。
行き方、ノウハウ、役立つ生情報がぎっしり詰まったものと、かたや主観色が強いもの。
読む側としては情報が知りたいのは山々だが、行った気にさせてくれるというのも重要な要素かと思ったりする。

元仕事仲間Fさん。
(直近の蝶ブログ記事に登場する人物ではない)
この人は、バックパッカー。
旅は手作りでないと旅ではない主義。
飛行機や電車を降りた後の移動は徒歩。
なので、歩く距離も半端ない。
宿の部屋に戻った瞬間、疲れ果ててリュックを背負ったまま、ベッドに仰向けに寝てしまった亀の甲羅返し経験を持つ。
靴ももちろん履いたまま。

彼女は去年の秋にイタリア、シチリア島に行き感激していた。
ご主人も同時に旅行したが、現地、ナポリ?で一瞬合流しただけで、あとは、二人バラバラ行動。
それも「せっかく旅行に行ってるんだからご主人とどこかで落ち合ったら?」と知人の言葉を受けてのことらしい。
いかにも彼女流。

息子さんも旅行好きで、アクシデントもいっぱい。
旅先で通過国での地で集団スリに遭いパスポートを盗られ入国困難になった事件はちょっと困ったようだ。
また、その時は日本への帰国時間がずれ込み、帰国後、海外出張同行を予定していた上司が日程が確約出来ずヤキモキしていたとか。
去年末も飛行場での手荷物検査で別国青年がリュックを取り間違えてお互い別人のリュックを持ったまま、それぞれの目的国に降り立った。
手元に戻るのは帰国日に近かったらしく、リュックには衣類全てを詰めていたので旅先では不便だったようだ。
衣類ぐらいはなくてもどうにかなると息子さんは言うものの、下着をはじめ一から買い直さないといけないし、防寒着も必要だろう。
だが、あんまり細かいことには拘らない様子。
若い人は身軽で羨ましい。

ちなみに、、、
観光資源の豊富な観光立国は、環境維持と観光収入のバランスが難しいと思われる。
重要文化財指定地区になると、周りと調和しない勝手な建築は許されないだろうし、補助金は出ると推測するが修復もかなり費用がかかる。
だが、何世紀もの間、保存維持されている街や景観は、自然災害や戦争から難を逃れた幸運と努力の賜物。
古いヨーロッパの街並みには、無意識下で醸成されたわたしの憧れが詰まっていると感じる。
が、待てよ、、、とよくよく考えると、若い頃と今では多少、憧れの質が変化している。
視野を広げ、自分の住む地、周辺を見てみると、快適な暮らしを支えるために税金が投入され整備されている。
こんな風に書くと、市役所の広報部の人間のように思われそうだが、、、。

さらに、夫の実家のある歴史地区においては、身近過ぎて日常過ぎて、憧れは詰まっていないが、風情ある趣のあるものではないか。
外国人の目で見たと仮定すると、なかなか渋い。
アジアの人々は同じ仏教なので珍しくないが、西洋の人にとっては興味深いものであるようだ。
多くの欧米人が訪れている。

日本各地、景勝地や名所はたくさんある。
とりあえず心身健康で足腰が動くうちにと、優先順序として遠くの地から旅しているが、日本国内にも目を移すと、刺激を受け、見識に深みを増し、こころ和ませてくれる所がいっぱいあると感じる。
コロナ禍が終息したら、これから先、訪れたい候補地をポケットにいっぱい詰め込んでおきたい。
たとえ実現しなくても、ポケットが膨らんでいるのを感じるだけでも楽しい。

と言いつつ、やはりまずはバイタリティがあるうちにしか行けない所から先に行きたい。
そう思うだけで、なんだか身体から元気が湧いてくる。
だが、世界中が元気にならないと、自分だけではどうにも出来ない。
その上で、自分の心身の健康と、心配事を抱えていない状態が合致して初めて実現の運びとなる。
いつでも出来ると思っていても、いつでも出来るわけではない。
自分を喜ばせるには受け身ではなく頑張って能動的にならないと、チャンスは知らないうちに逃してしまう。
知らなければ知らないで、それも良いのだが。
(どっちなん!?)

つらつら書いていたら、ちっともまとまらなくなってきた。
小学生日記のほうがずっと潔い。







幸せオーラの家

2020-06-28 | 暮らし
ある家の前に停めてあった車の中から、ひょこんと顔を出した男の子。
乳歯が抜けた後、大きな永久歯がスカスカに三本ほど生えている。
その子が歩いているわたしを見てこう発した。
「あ、○○君のおばあちゃん、、、?」
最後の語尾が上がるところが、ひょっとして違うかも?というあたりのニュアンスで可愛い。
愛敬ある、よく日に焼けた元気な子だ。
わたしは思わずマスクの下で破顔になり、うんうんそうだよと頷き大きく手を振った。

その時のわたしは、メガネに大きなマスク。
よくわかったなあと、びっくり。
わたしは知らなくても、近隣のちびっこたちには、小学校の行事だったり、街中だったりで、時々、「○○君のおばあちゃん」と声をかけられることがある。
孫の保育所仲間である。
わたしはたまに、お迎えに行く程度でほとんど顔を知られてない(はず)。
でもちびっこたちは、目ざとく見ているようだ。
しかし、卒園して1年以上経つのに驚いた。
「たまに」も、週1で4年間続くとちびっこたちの記憶にも残るとみえる。


うちの近所に親ごさんとその娘さん一家が住む二世帯同居家族の家がある。
車から顔を出した男の子はその家に遊びに来た、近所に住む弟家族のちびっこ息子さん。
つまり、親世帯からすると外孫。
子世帯からすると弟一家、住んでいるちびっこからすると、イトコちびっこ。
家にきょうだい一家がよく集まってきている明るい家だ。

ついでに情報を付け加えると、その家の娘さんの弟は、わたしの長女の小学校の同級生。
その同級生も、とても感じのいい男の子だったらしい。
あの親にしてあの息子。なるほど。
お母さん(おばあちゃん)は、玄関前のお花をよく手入れされている。
ああやって、きょうだい一家が集うのは、とても明るい家庭なのだろうと想像する。
やはり、同居は娘一家のほうが円満だと感じる。
妻の親と同居するマスオさんも、家の前で子供さんと遊んでいるのを見かけるが、優しげで良さげなお方。

その家と隣の家の敷地には、数年前は一戸建てが1軒建っていた。角地だった。
更地になり土地が売りに出された。
そこに2軒、ニコイチで家が建った。
先に売れたのは、角ではない方の真ん中の土地。
この男の子の、おばあちゃん&おばちゃん一家宅になる。
角地のほうが土地の価値は高いため、値段も高い。
角地は、後に売れ、モデルハウスのような素敵な家が建った。
だが、住んでいる人の匂いが全くしない。
人は住んでいて空き家ではないが、温度が感じられない。
生活感がない。
なぜなんだろう?

先に売れたその土地に建つ家は、モデルハウスとは言えない、堅実なタイプ。
だが、いつも地に足が着いた幸せなオーラや賑わいをそれとなく感じる。
何なのだろう?
前々から不思議に思っていた。
やはり、家の中心となるおかあさん、、、かなあ、、、太陽の役割、、、かと。
求心力を持つ。

で、今回の男の子に声をかけられ、わたしは自宅まですごく楽しい思いで歩いて帰った。
鼻歌気分。
わたしなど、透明人間だと思っていたのに、意外だったこともある。
あの男の子や家庭に何かあって、仮にマスコミ取材を受けたとしたら、有らん限りの褒め言葉で、褒めちぎりそうだ。
あの家をよく知りもしないのに。

逆に、わたしの家はどう見えるのだろう。
わたしのせいで付き合いの悪い家ではあるが、30年間、同じ場所に住み、問題は起こしていない。
それは近隣の家々も同じである。
問題がないから住み続けているのだろう。

大きな問題はないが、小さな問題なら各家々も抱えていると思う。
子供が小さい時は子供の学校などにコンプレックスを抱えていた家もやがて子供たちは成長し、花開く。
だが、その家の娘さんは離婚して親元に子供を連れて戻ってきているような気配。
でも、その子供も成長し、背丈もぐんぐん伸び親を抜いている。
やがて次代を担う。
何が良くて何が良くなくて、、、である。
たかだか30年の間に各家々にはドラマが繰り広げられている。
外には現れないが。

そう考えると、付き合いの悪いわたしの家も、時間の流れと共に暮らしを積み重ねている。
外からはどう見えるか?
客観的事実は、噂好きな人によって広められていることもあるが、あまりベラベラ喋らない人も多いように思う。

うちの小学2年孫Aは、最近、人見知り傾向が現れ、ご近所さんにはこれといった良い印象はたぶん与えていないだろう。
だがお互い、皆、小さな喜びを見つけたり、平凡に静かに暮らしたいと想像する。
近隣住民同士、気持ち良い距離感を保っているように思う。


さて、疑問は解決されていない点が一つ。
あの男の子の一家は、なぜあんなに幸せオーラが漂っているのか、、、?
よくわからないけれど、わたしは羨ましがるわけでも、ひがむわけでも、妬むわけでもないので、幸せな家庭があればあるほど結構なことである。
あの男の子に幸せのお裾分けをしてもらい、にっこり微笑んでいる。



下手の横好き

2020-06-27 | 趣味
昔は読み書き算盤が社会で生きていく上での基本だった。
が、なんでもAI、直近では演算スピードを誇る計算能力パソコン、世界一の座を射止めて素晴らしい!の一言である。
なのではあるが、いくらスマホ決済で現金不要といっても、街でちょっとしたお釣りの計算ぐらい出来ないと話にならない。
(わたし、計算しないで相手を信じる、ズボラタイプ。
ますます脳が錆び錆び)

で、今日は短めの助走、序章。

わたしは、ミュンヘンブロガーさんの熱愛的ファンのひとりであるが、またまた共通点を見つけて狂喜している。
(年齢はおそらく二回りぐらい違うとは思うが。もちろん、わたしが歳上)
育成時代が共通しているとは思えないが、なぜか幼い頃のお稽古ごとが同じだった。
日本では20年ぐらいそういう時代は続いたのかも?

つい最近、テレビドラマで、「子供がピアノを習っている家はお金持ちの象徴だった」と、犯罪に巻き込まれる青年が言うセリフがあった。
あんな若い青年の言うセリフではないと思う。
作者か脚本家は何を意図していたのだろうか?と深読みしてしまった。
ワザと?
あるいは、何かの間違い?
または、脚本家の書くストーリーには監督やプロデューサー、スポンサーも不可侵、内政不干渉?
あのセリフの青年が熟年以上ならわからないでもない。
が、すでにわたしと同じシニア世代でも、「ピアノ=お金持ち」の絶対的な定義は違うと思う。
団地にピアノ、という同級生もいたし(だが、後に、音楽、ピアノの道に進んだ)、
東京(の)藝大教授に毎週新幹線で通うなら、お金もかなり必要だ。
後にピアノの道を挫折した小中高時代の元同級生が、輝かしいコースに乗れるのは「強力なコネ」だと悔しがっていた。
親が音大出身、あるいは、音楽家の子供はそれなりの専門的教育を受けている。
が、その後はイバラの道が待っていることもある。

なので、前述のドラマの青年のセリフには補足が必要である。
ピアノ=お金持ち、だから、どうした?の話だが。
ピアノ<お金持ち、かなあと。

まあドラマ脚本家がどんなセリフを言わせようが自由なのではあるが、あの回の、あのストーリーにおいては、ちょっと違和感があった。
まじめに見てなかったせいもあり、なんであの青年がドラマ内で殺されたのか、よくわかっていない。
まじめに見ていても、よくわからないことは多々あるが。

と、これは寄り道、道草。
中途半端ですみません。
ピアノ、算盤、習字。これにバレエ。
最後のバレエこそが、本日の本題。

バレエには苦い思い出がある。
わたしの思い出は、たいがい苦い。
輝かしい思い出はほぼ皆無。
(安心してお読みください)

ある日、母にバレエを習いたいと告げた。
姉は無関心。わたしだけ。
母の返事はノー。
わたしの根性の薄さを見抜いているのだろう。
伊達に母親業をやっていない。

だが、少しわたしは粘った。
ピアノ、習字に加え、小学校高学年の同時期、更に別の習い事希望の算盤は二つ返事でオッケーだったのに、バレエはダメ。
なんでやー。
それはわたしが一番よく知っていた。
たんなる憧れだったからだ。
薄い薄い浅い浅いミーハーのわたし。
ほんとうに、漫画チックな憧れ。
なんの素養もないのに、単に憧れた。
(次女が高校ぐらいの時に少林寺拳法に憧れて、地元のクラブに入ったのと同じぐらいの、実のない憧れ。
すぐに辞めるのは目に見えていたが渋々許可した。
案の定、道着は汚れもせず美しいままである)
そういう時期は誰にでもある。
ただし、姉の琴線には触れず、バレエのどこがいいんだか?と無関心、無反応。

近所の商家の娘さんたちも同じ教室に通っていた。
学年3才ぐらい上と、3才ぐらい下。
二人ともとても別嬪さんだった。
今、思い出すと、小学校の同じクラスの女子もたまたま同じバレエ教室で習っていたような、、、。
才能どころか、向き不向きで大別すると、間違いなく不向きに入るだろうバレエをわたしが辞める日はすぐ来ることは、誰の目にも明らかだった。

発表会ではチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の「花のワルツ」を踊った。
今でもこの曲が流れると懐かしい。
というよりは、自分の浅はかな憧れは、まだしつこく尾を引き、じつのところ、今も懲りずにやっている。
さすが種目はバレエではなくシニア向きにシフトしているが、音楽に合わせて身体を動かす踊りには変わりない。

なんだろう?
上手くなりたいだとか、綺麗に踊りたいだとか、そういうのではなく、理屈抜きで楽しい。
好きなんだろう。
小さい時から客観的結果にとらわれないミーハーだったようだ。
これを自己満足という。

趣味にも承認欲求がある場合とない場合があるが、わたしは見事にない。
ただそれだけの、オメデタイ人間である。

あの頃のキラキラはすぐ色褪せたが、懲りずにまだやっているわたしは、芸事の超えられないところまで突き進んで追及して挫折したパターンとは真逆。
大衆の浅いお遊びなんだろう。
挫折を味あわせたくないから習わせない方針の親もあれば、その一方であんまり何にも考えていない親もいる。
どうしてもやらせたくない事は禁止するだろうけれど、わたしの親はだいたい何でもオッケーだった。
きょうだいみんな、それぞれ趣味を見つけ、生きがいにしている。
あくまでも趣味。 
だが、下手の横好きではあるものの、大好きな趣味と出会えて良かったとしみじみ思っている。

頭痛

2020-06-26 | 日々のこと
昨夜はインターネットに関するレクチャーを受けた。
ボランティア・ティーチャーは娘婿。
次々質問はするものの、半分もわかっていない、打っても響かない相手に、根気よく説明してくれ、よく頑張ってくれた。

受講理由は、インターネットとメールの関係性、ポジションを確かめたかったから。
元仕事仲間の発言に対して、なんと知識のない人だろうと驚いたものの、いや、ひょっとしてわたしもドングリの背比べなのではないかと、ふと不安になったので。
大いにあり得る。
さらに、その元仕事仲間は、時事ネタに関しても明らかに間違っている初歩的なことでも、あまりにも堂々と言い切るものだから、こんな当たり前のことなのに、ひょっとしてわたしが間違っているのかと自信を無くして調べてみることも度々。
(最近ではコロナ)
調べ直すその労力と、こんな当たり前すぎる常識に対しても自信がない自分に対して、どっと疲れる。
それと、こんな人が仕事仲間であるという事実を叩きつけられ、自分の仕事レベルはこんな程度なのかと思い知る。
周囲のレベルが高くて叱責されるのもストレスだが、レベルが低くて嫌になるのも結構ストレスである。
わたしは、自分より下の人は容認出来ない。
なぜなら、自分が一番下だと思っているので、それ以上「下」は、あり得ない。

生まれてから10キロ範囲から出たことがない、1日の仕事は水を汲みに行くこと、10代前半で結婚して世界を知ることなく一生を終える女性の話など、ユニセフがらみで知ったりするが、それとはまた違う。
また、一般的な赤の他人なら別になんとも思わないが、自分の仕事に関わることだと、大いに落ち込む。
自分の位置を知ることになる。
だが、人は多面的なものであり、一面だけを捉えて結論付けるのは良くない。
色んな良い面も悪い面もある。
しかも、表裏一体だったりする。


それはそれとして。
またまたしつこく、ブログ村、AIが選ぶ注目記事について。
疑問がぶり返している。

最近、少し移動がある。
前と同じ流れなのに、順位が入れ替わっている。
AIに設定条件を変えたのだろうと想像している。
それと、読者の動き、バラツキが少し出たことをAIがキャッチしたのかとも推測している。
とは言え、相変わらず、摩訶不思議なAI選出である。
方向性においては、人間が意図して少し手を加えていると考える。

無料で成り立っているものは、ビジネス要素が水面下に隠れている。
サイトやブログが商品購入の足がかりになったり、ビジネスに効果的に誘導されたりする。
カウント数が多いのは、ただただ面白い純粋なものだけだとは限らない。
人気の秘密には、色んな要素があり、データを元に利用されたり、人工的に加工されることもあるそうだ。
というのは、昨夜の娘婿レクチャーのわたしの「まとめ」。
世の中、ビジネスが大きく影響を与える。
お金で回っている。
小さな個人の域を出ないものに関してはそんなことはないだろうが、グーグルレベルになると大きな力を感じる。
ビッグデータはかなり要である。

わたしが関心を寄せる、ブログ村の注目記事ランキングなど、かわいらしいものだ。
馬の目の前にぶら下げられる人参。
でも、明らかに疑問を感じると、踊らされる自分が馬鹿馬鹿しくなる。
他の力によって踊らされないと、パワー不足で自発的に自分では踊れなくなっているのかも知れない。

昨夜から今日は、気候の変化に対応出来ないからか、強い頭痛に見舞われている。
そのせいか、書く内容も暗く重くなり、ブログ記事も書いては消し書いては消し、お蔵入りが重なる。
たかがブログ、されどブログ。
わたしの心身健康のバロメーターのようだ。

関白宣言、その後

2020-06-24 | 人生
昨夜のNHK歌番組、生放送に、さだまさしが出演していた。
で、「関白宣言」を歌っていた。
ん?
歌詞内容に違和感がある、、、
なんと41年も前の曲ではないか!
150万枚も売れたようなので、時代を超えるといえば、超えるんだろうけれど。

浮気するかも知れないから覚悟しろ、
仕事が出来ない男は家庭を守れない、
家を捨てて出てきた女性を嫁にもらう、

夫より早起き遅寝はまあ100歩譲ったとしても、
今ならどうかな?と首を傾げることがいっぱい。
さだまさし、地方出身だったはず。しかも九州。
だからアタマが旧式古代なのは納得。

と、疑問符が脳内を駆け巡っていると、曲の後半、トーンダウンして、俺より先に死んではいけない、から始まり、愛する女性はお前ひとりだけ、と断言してくれる、、、
これには、なぜか、じーんとした。
言い切ってくれるところが素晴らしい。

たとえ他の歌詞は気に入らなくても、最後のところ、〆は良かった。
一日でも遅く死ぬべし、とのことだが、男性より女性の平均寿命のほうが長いから、ほっといてもたいがいは女性が残るだろう。

関白宣言は、責任をもって全力で愛してくれる宣言なわけだ。
自分のことは自分でやってね、と、クールに割り切り自立のシェア婚もいいが、ひと昔前の人間(わたしは、さだまさしとほぼ同世代)には、「関白宣言」は過度期的な響きに感じる。
最後はホロリとしたあたり、わたしもかなり涙腺が弱りまくっている。

※後に続編として「関白失脚」が発表されたが、内容はぐっと現代に近づいている。

と、昨夜の話は、おいといて、、、と。
相変わらず助走、序章が長い。
ほんとうは、さだまさしのウキペディアから始まり、色々読んであれこれ調べて知らないことを知ったのだが、どんどん広がり収集できなくなりそうなので、一旦、手を放す。
まとめ、なし、で放置。

ところで、、、
元仕事仲間と話していると、わたしのことをメールのやり取りで一日過ごしている、と思っていたようだ。
この人は、とても親切で優しい人なのだが、少々、知的要素に欠ける点がある。
それはそれで別に個性なのだが、自覚症状がないため、自分の知識に疑いを持たないで臆面もなく間違っていても堂々と悪びれることなく断言、言い切るところが最大の難点。

今回も、インターネット=メール、という思い込み。
まるっきり間違っているわけではないが。
メールはインターネットのひとつだが、インターネットといえばメールだけではない。
インターネット>メール

ブログについては、閉ざされたメールではなく、手書きしたチラシを何枚かコピーして、そこら中にばらまいているようなかんじ、と、説明しておいた。

ちなみに、、、
寝室の掃除をしていて7年前の週刊誌を見つけたが、その中の記事に、「勉強が出来すぎる女子の孤独と不幸」というのがあった。
なにしろ7年も前の週刊誌なので、時代は少し動いてはいるだろうけれど。

わたしには真逆の内容だけに興味深く読んだ。
「友だち出来ない、夫がバカに見える、満足出来ない」
というサブタイトル。
自分のレベルが高いと、ピラミッドの頂上では人数が減ってくるから、相応する相手も減るのは致し方ない。
わたしなど、底辺をうろついていると、どかんと人数ボリュームも多い。
だが、お互い、バカ同士、バカに見えることもある。
カチンと来るのは、バカなる所以か。
ドングリの背比べ。
その一方で尊敬に値する賢い人は、めちゃくちゃたくさんいる。

ひと昔前ならそれで良かったが、
ただ、昨今は、男性も女性に対して自分と同等なレベルを求めるようになってきている。
(昔タイプは昔のまま)

もし1世代わたしが若かったら、結婚相手の特徴は今と違っていただろう。
もっと社会に通用する専門的スキルを要求されていたと思われる。

7年前のその記事によると、
東大卒の賢い女性が、東大生同士、同級生と恋愛して、いざ結婚となると、オツムの弱そうな、女子力の高い女子に、かっさらわれる実例があげられていた。
家事能力と引き換えに。
これ、7年前の記事なのに、40年前と同じではないか。
女子力は、家事力か。
五分五分の仕事をし、五分五分の収入なら、女子だけに家事を押し付けるのはおかしい。
そこで、五分五分ではない女子を選び結婚し、自分は家事育児をしない。
こういう男性も普通にいるわけで。

娘は、そういうのが嫌で、そういう男性とは結婚しなかった。
女性も相手を選べる。
が、お互い選考が難航して結婚しない人が多くなっている。
非婚を選ぶ。
その結果、人口減少、国力衰退。

女子も不幸、男子も不幸。
男女平等の理想は、こんなことを望んでいたのか?

話を戻す。
前述の元仕事仲間、あまりにも無自覚な無知で驚くのだが、東大女子が、一般男子に失望するのとはレベルが全く違うにしても、流れ的には同じようなかんじか。

結婚相手は自分と同じレベルが違和感なくて理想的だ。
教養や知識は、ある程度基本的なところで、同じレベルであるほうが摩擦が少ないし、失望したりされたりするリスクを回避出来る。
失望なら、まだマシだ。
なぜそんなことも知らない?と腹立たしくなったり責めたくなったり軽蔑したりするよりは。

だが、自分が興味ない分野には全く関心がないため、知識も理解もしていないことはよくある。
年齢による特徴もある。

元仕事仲間は、メールとブログ、SNSの違いをわかっていない。
説明する気にもならないが、わたしのことを理解してもらおうという気持ちは一気に消え失せた。
というか、この話題はパス!
共有出来ない分野の一つだということがわかれば、それには今後、触れなければよいだけだ。
よく考えたら、母たちもわかっていないけれど、別に何の問題もない。
人に自分をわかってもらおうという気持ち自体が僭越なのではないだろうか。

知識や教養があっても、常識がない人もいるし、こころが死んでいる人も性格が終わっている人もいる。
相手を理解しようとする気持ちや思いやりが必要だ。
ビジネスなら最低限の業務をこなせば、それでいいのかも知れないが。

気になることや、固執することは、それぞれの今までの歩みによって違う。
頭がいくら良くても、人の欠点ばかりが目につくような器は、ある意味、勉強だけに偏っている。
せっかく良い頭脳に恵まれているのだから、長所を活かすことが出来たら理想的。
だが、なんであれ、譲れないものは譲れないのだろう。
とは言うものの、ひとつでも良いことがあれば、それでいいんじゃないか。
欲で身を滅ぼすのはつまらない。






そんなに勝ち誇ってる?

2020-06-23 | 老い
わたしは夫とは3歳違い。
わたしのほうが下である。
わたしには4歳年上の実兄と、2歳年上の実姉がいる。
夫には1歳年上の姉がいて、兄嫁はわたしと同学年。
つまり、近親者のわたしのまわりは4歳の間に6人がひしめき合い、似たり寄ったりの年齢であるということだ。
男女比は、男2人に対して女4人。
姉の夫(義兄)や、夫の姉(義姉)の夫を含めると、年齢が少し上がるが、4対4で男女比は同数となる。
さらに、その義兄や義姉のきょうだいや配偶者を入れると、ほとんど年齢的には同窓会メンバーになる。
別に不思議でもなんでもないが、皆、似たような地域出身で、似たような学生時代を送り、似たような暮らしをしている。

さて、長い前置きだった。
(あれ?誰もいない、、、)

似たような年齢の似たような人々を横にズラリと並べると、どういう並べ方になるか。
美醜で並べるのも芸能人じゃあるまいし、意味がない。
好みもあるし、基準もあいまい。
わかりやすいところでは、頭脳。

嬉しいことに、と言えば良いのか、悲しいことに、と言えば良いのか、、、
わたしは飛び抜け、最下位である。
特に夫とわたしの格差が激しい。

小学校、中学校では(生徒数は少ない中)優秀な生徒は結構いたが、わたしが進学した高校では、(生徒数が多い割には)、中学ほど優秀な人はそれほどいなかったように思う。
少数精鋭vs一般。
なぜなら、優秀な生徒は私学や越境して他市に流出し、普通の生徒だけが地元高校に残る。
だが、あくまでも高校の時の話。

で、夫とわたしの格差は著しいのであるが、夫は、わたしの実姉や兄嫁には勝てない。
なぜなら、頭脳だけの問題ではなく、性格のせいもある。
夫は自分より劣る格下のわたしを傘下に選んで、優越感に浸っているのだろう。
たとえ夫のほうが優秀でも、すぐ後ろにピタと付いてくる姉や義姉は強敵。
義姉においては、同レベルか、抜いたり抜かされたり?
実姉もかなりなもの。
おかしなことを言えば鋭く指摘される。
キーンと斬れる刀の音が飛び交う。

わたしのように、はるかかなた、話にもならないような無接点に近いぐらいが、どんなことをしても、何をしても、しなくても、絶対に勝てる相手には神経をピリつかせなくてよいようだ。
ウサギと亀。
亀は永遠にゴールにたどり着かない。
試合以前に、レース種目やレース日時を間違えていたりする。

子供へは、遺伝子的にはどちらかと言えば頭脳面では優秀なDNAを受け継ぎ、問題はなかった。
幸か不幸か、わたしの遺伝子を受け継いだ子供はいなかったように思う。
いや、一人いるかも?(ごめんねー)


まあそれはそれとして。
優秀な頭脳を誇る夫。
最近、順調にエイジングしてきて、見ていると面白い。
どんなに優秀でも老化には勝てないようだ。
自分の老化を決して認めたくなく、忍び寄る脳への老化を全面否定しているかの如く見えるが、、、
ある意味、気の毒である。
もともと、高いものを持つ人はプライドも高く、たいへんである。
ご苦労様。

長嶋茂雄の如く、「なんてことはなく、来たボールを打てば当たるんだよ」のノリで、出来ない人の苦悩は理解できない明るい朗らかな人にとっては、初めての試練なのではなかろうか。

そういうタイプの人と、わたしは実は合う。
苦節何年、苦労の人は、努力を人にも要求してくる。
何?出来ない?
努力が足りない。
血の努力をしろ。

そういうハード熱血系より、むしろ長嶋茂雄風のほうが、軽くて爽やか。
ただ、さほど多くはいない。

あまり血の滲む努力系ではないため、人に強要したり、見下さないが、自分が出来ないという事実を認められないだろうなあと。
出来る人には出来る人の、ハードルが高すぎる故の悩みがある(ようだ)。
出来ない人の悩みなら、わたしはよくわかるが、出来る人が出来ないというのは、さぞや衝撃的落ち込みだろうと想像する。

しかし、毎日、自己主張のぶつかり合いの修羅場生活を共にしていると、出来る人を思い遣るこころを持つほど、わたしは余裕はない。
敵のマイナスは、こちらのプラス。
少しでも有利になるよう、敵の弱点を逆手に取る。
だが、あまりあからさまに攻撃すると、窮鼠猫を噛む、の被害者になりかねない。
ので、顔色を見ながら、、、。


ある時、夫が先にお惣菜を食べようとして、自分のお箸が無いと言ってきた。
お箸は夫の目の前に、本当に目の前の洗いカゴに入っていた。
わたしが、「目の前にあるやん」と言うと、急に怒り出して、
「そんな勝ち誇ったかのように言わなくてもいいやないか!
そんな大きな声で!」
と声を荒げる。

わたしは、キョトンとした。
そんな気はないのに、ひょっとして無意識下にそんな気があって、いかにも勝ち誇ったように言ったのだろうか??
いや、夫の被害者妄想だと思う。
だが、当事者同士は自分に有利に物事を捉えるため、ここで言い争っても不毛だ。

しかし、、だ、、、
例えば醤油。
いつも置いている場所とほんの10センチ程位置がズレているだけで、夫は無いという。
他にも「○○が無い」とよく言ってくるが、あるではないか。
よく探せないようだ。
まだ未発見、未解決ブツは他にもあると思われる。

あんなに頭脳には自信があった夫が、パープリンのわたしのいる、こちら岸に来ている。
きっとショックだろうなあ。
とは言いつつ、いつもわたしをボロカスに貶していたくせに、ざまあみろ、と、同情など微塵も感じず、いい気味であるが。
それが反映したのだろうか、、、?

そう言えば、父より10歳若い母が、「あんなに賢いおとうちゃんが、物忘れしたりする、、、」と驚いていたことがある。
と言っても父はリタイアすることなく現役のまま他界したから、さほど深刻なものではない(はず)。

しかし、我々、、、
言った、言わぬ、ドタバタ泥沼。
真相は謎。闇の中。
神経に障ることをほじくるほど、わたしは無神経&悪趣味ではないので、そっとしている。
こういうのを「放置」ともいう。




土曜日の夜はテレビっ子になった

2020-06-21 | 日々のこと
昨夜、見た、民放テレビ。
番組ではジャニーズJr.メンバーから芸能人水泳トップチームを作るためにのオーディションがあった。
ジャニーズJr.といっても、乃木坂46などわんさかメンバーがいるアイドルグループのようなもので、センターなら良いが、その他大勢の中の一メンバーから目を出すのは運だけではない。
芸能人で売れるための登竜門のようなもの。

あら、芸能界なんて興味ないわ、と、一瞥してポイする人もいるだろう。
わたしも、たまたまテレビをそれとなく偶然見ただけ。

しかし、意外にも面白かった。
何も芸能界に限ったことではない。
どの業界、どの方面にでも、伸びる、能力を発揮する人材を発見するノウハウが凝縮されていた。

ジャニーズJr.だからと、見た目、プレゼン力、歌や踊り、芝居だけとは限らない。
(だが、ご存知、ジャニーズJr.だから筆記テストなどは論外)
スポーツ系に力を発揮する。

今回の選考基準は水泳力だが、今、泳げる力を見るだけではない。
タイムを競うだけなら単なる水泳大会。
フォームを評価するだけでは、しっかりした水泳歴が長い人が有利。
そうではなく、ポテンシャルが高い人を選ぶ。
まだまだ伸びる人。

その見極め方は、、、
先ずは、プレゼン、自己PR。
次に、全力で泳がせる。
ちらとメンタルややる気、ガッツも、合間にチェックする。
更に、世界トップレベルの水泳動画を見せ、コピー再現させる。

中には、カナヅチなのに応募したという強心臓、強面、向う見ずがいたが、特別枠で選ばれた。
この選び方は今風だと感じる。

再現性がキー。
自分のやり方に凝り固まっていては、今は良くても伸びしろがない。
観察して取り入れて再現する能力。
良いコーチに恵まれたら伸びる。

それと、、、
まだ出来上がっていない人。
発展、発達途上の人。
これからの出会いや行動で、大きく変化する。
だが、基礎的能力は不可欠だと思う。
砂にいくら水をかけても、濡れるだけで、ざーざー素通り。

それに共通するようなことをまたまた引き続きEテレで見た。
テレビナイト・サタデーとなった。

奥田瑛二と39歳の茅葺職人の対談。
去年放映されたものの再放送。
茅葺職人はなかなか良いことを言っていた。
職人の徒弟制度を今の若者に取り入れると、すぐ辞めてしまうらしい。
頭ごなし、理屈抜き、理不尽、、、などで、全行程終える前に辛抱できずに嫌になるとか。

そこで茅葺職人は、頭ごなしではなく、やんわり優しく言う。

いちいち文句を言わず、取り敢えず、全部やってみろ。
まるまる呑み込んでみろ。
一定の厚みを抱えてから、意見なり感想なりを言え、と。
奥田氏にそういう考えを説明していた。

よくわかる。
だが、かつて、仕事で求人募集しても若い人が次々と辞めていくのを目の当たりにしてきたわたしとしては、逸材などはそんじょそこらにころがっていないと感じる。

人の層の種類、品質は、厚い壁で分断され、行き来出来ない。
厚い社会層が立ちはだかる中で、よほどの根性とモチベーションと能力、出会い、運がないと、なかなか今いる社会層から抜け出せない。
不満を抱えモチベーションは下がり、やる気は失せ、、、
やがて諦めて大人しくなる。
あるいは、拗ねる。
または、不公平感を訴える。

全力でやっても報われないなら、手を抜くという、間引き運転もある。

辛抱も、ずーっとずーっと辛抱し続けて心身を擦り減らし磨耗し、潰れていくのも良くない。
そこで、見切りや見極めが肝心かと思う。
発想の転換。転身とでもいうのか。切り替え。
泥舟に同乗して沈没は避けたい。

ちなみに、、、
ある程度の年齢になると、自分のポテンシャルには興味がなくなる。
なぜなら、ポテンシャルが低くなり、底を尽きそうだからだ。
いや、自分はそんなことはない、とがむしゃらにしがみつく人もいるが、コトと次第によっては、老醜、老害。
はやく足を洗って、程よくエイジングしていけばよいと、わたしは思うが。

生きた屍のようになるか?
それは、おかしい。
生きているんだもの。

何ごとも、ほどほどが良い。
人様のポテンシャルシャワーを浴びて、自分のエイジングを楽しむのも一つの方法かも知れない。
自分との違いに落ち込む人もいるだろうけれど。
自分にも出来ることはある。
順調にエイジングしながら、残り僅かな自分のポテンシャルと向き合うのもオツなものである。
最後の最後まで。




ブランド主義

2020-06-20 | 暮らし
わたしは、モノが持つ因縁をわりと気にする。
例えば、、、
大きなところでは、家。
住んでいた人が不幸な最期を遂げた物件は売れにくい。
不動産屋は説明義務がある。
同じ場所で開店してしても、次から次へと閉店に追い込まれる地もある。
建物だけでなく、その地にまつわる、解明できない因縁のようなものがあるようだ。

素晴らしい大邸宅も、競売物件だと、なんだかなー、と気が乗らない。
ウォーキング途中でよく売り物件を目にする。
長く売れない物件もある。
昨日まで生き生き生活していたであろう、趣向を凝らしたお宅もあり、手入れの行き届いた花などを見ると、急に手放すことになったのだと想像する。
密かに前々から売ろうしている家は、草ボウボウで、植木屋さんも入っていないから周りは変化に気づく。

家だけでない。
宝石や絵画も。
オークションを見たりすると、歴代の持ち主は錚々たるメンバーだったりする。
が、幸せのあげく手放す経緯は少ない。
悲劇や不幸が詰まっていることがある。

なので、所有せず見る専門が気楽でよい。(第一買えない)
盗難の心配もないし、頭の中身や目に映るスクリーンまで泥棒は盗っていかないから。

立派な芸術品や美術品は家ごと寄付するという手もある。
パリで観た邸宅美術館はそうだった。
だが、あの邸宅美術館は、19世紀の貴族の館を模倣して20世紀に建てられたものだったので、古い伝統的建物ではあるが、やや微妙な時代のズレがある。

と、こんな話はたぶん誰も興味ない。
書いて楽しんでいるだけ。

さて。
今日は、また新しいブログと遭遇した。
なかなか新鮮だった。
社会性がないせいもあり(ご本人の弁)、月5万円で生活しているというブロガーさん。
貧困労働者による受給者バッシングがテーマだった。
ブログによると、カツカツ暮らしの受給者を贅沢だとバッシングをしていたのは、ブランドで固めた女性らしい。
そこで、ブランドで固める?について考えてみた。

わたしは、ユニ○ロが大好き。
家族もかなりユニ○ロ愛好者である。
だが、ユニ○ロで固めるわけではない。
しま○らもある。青○もある。
ダー○ァンはない。(この度は閉業残念だった)

伏せ字にするとわかりにくいが、まあよい。

ユニ○ロは、エアリズムなど、品種品質改良に余念がないのと、宣伝が上手。
だが、一つ難点がある。
街や、町内、そこかしこでユニ○ロユーザーを見かけることだ。
自分はその時、着てなくても持っている服だったり、ダブる。
買うときに商品を吟味しているせいで、商品には精通している。
なので、ユニ○ロ製品は、一発でわかる。
お主もそうか、、、(にまっ)
で、良いのだが、、、

定価1980円を1280円で買った人も、定価2980円を1980円で買った人も、同じ製品を着ている。
製品は全く同じ。
なんだか面白い。ミニ不平等感。
そして、品質の良さはよくわかるが、値段もよくわかる。
知らない家の冷蔵庫の中を見てしまうようなもの。
まあ、別に、冷蔵庫の中に鹿肉が入っていようが、豆腐が入っていようが関係ないが。

その、前述したバッシングのブランド主義の人は「値段」にこだわるのだろう。
「ユニ○ロ主義です」では、誰もが頑張らなくても手に入るものなので、自分の価値を高められないのだろう。
頑張らなくて快適なものが手に入るのなら有難いことだが、そういう考え方はしないようだ。

なぜ?
うーーん、、、

人より秀でていたいから?
では、努力すれば?
努力しても無理だから。
じゃあ諦めたら?
諦めるのは負けたことと同じだから。
負けるのは嫌?誰に負けるの?
世間の人、全てに負ける?
全てって、何億人?

わたしは、最低だ、、、
と仮に思ったとしても、自分比では?
身近にいるリアル人と比べてなのだろうけれど。

小さな世界で勝った負けたと一喜一憂して毎日を過ごすのもメリハリのある活気と言えばそうだが。
わたしには、つまらないことに思える。
人は人。
自分軸は?

と、またまた独り言。
ユニ○ロに久々ぶりに行って、なんだか感激して、ユニ○ロ開業当時を思い出した。
世の中に初めて出た、ユニ○ロブレイク第1号のフリースも、わたしのワードローブではまだ第1線で毎冬活躍している。
わたしはこんなのだから、モノを大切にし過ぎて、大量生産、大量消費の時代にはマイノリティだったが、省エネの時代が来て、やっと居場所が確保できた。

話はころころ変わり、下手な運転手が運転するバスのよう。
カーブや急停車、急発進、ブレーキとアクセルの踏み方が悪いので、乗客は振り回される。
それに似ている。(ああ長い説明。しかも的を得てない)

思考バラバラでとりとめなく、まとまりなく、今日は、お終い。
まあそんな日もあるということで、、、。

熱狂的ファン

2020-06-19 | ブログ
わたしの好みは偏っている。たぶん。
熱狂的になる。偏狂的とも言える?
その例。
ブログである。

わたしが大好きなブログがある。
言わずと知れた(て、変ですが)ミュンヘンブログ。
なぜ、こんなに好きなのか。
(別にご本人に宛てたファンレターではないのでスルーしてください)

先ずは、憧れの地にお住まい。
この理由が意味のない、ミーハー的無知から来ることを承知の上で書く。
明治以後、西洋文化かぶれした、明治維新で名をあげた元武士階級じゃあるまいし、、、
西洋というだけで、無教養の見本のように無条件に憧れてしまうDNAは、いったいどこから来るのか?

第二次世界大戦後、敗戦から復興しようとする最中に、庶民目線で見るアメリカの豊かさ。
テレビの中のアメリカドラマ、ステキな優しいマイホームパパが、大型冷蔵庫から取り出す美味しそうな、たっぷりの食品。
て、じつは、わたしはこの世代ではなく、リアルタイムには経験していない。
令和の高校生が昭和の歌を当時の話を先輩たちから聞いて、歌うようなものか。
(時代考証、ちょっと離れすぎ。
わたしは、団塊の世代より少し下。
お腹が空く焼け跡時代ではなく、高度成長期世代。
海外現地交渉にあたり、ペコペコ何度もお辞儀をして、首からカメラをぶら下げメガネをかけたサラリーマン(日本人ビジネスマンに対する当時のアメリカ?での風刺画)が、猛烈に働いた時代。

話が逸れている。
逸れついでに。
よく、洋楽趣味は家庭の影響からという人がいる。
親がビートルズ世代で、とか、日常に家で海外の曲が流れていたとか。
わたしは、全くそんなことはなく、田舎で同居していた祖母が、三波春夫ファンでテレビで相撲中継同様に、よく見ていた。
ついでに、浪花のお笑い。
これは、オシャレな文化背景を形成するには真逆の環境だと思われる。
では、三波春夫や相撲はダサいのか? 何を根拠に?
これを掘り下げると、話がまたまた飛んでいって戻ってこないので、またの機会に。

子供の頃、江戸時代と全く変わらない風景の田園地帯の田舎に住んでいたわたしは、わたし独自の地球儀感覚があった。
例えば、具体的には駅。
自分の住む田舎からバスで30分の最寄りJR駅の次の駅は、大阪駅で、その次は東京駅、さらに、その次の駅はアメリカ駅だと、ぼんやり思っていた。
いかに、片田舎の隅々までアメリカ文化の影響が大きいか、いや、いかに、何にも考えていないか、である。
洗脳に近い?
これが18歳まで続いていたなら大変なことだが(オシメが取れないかのごとく)、学校で学ぶに従って、事実に近い知識を得ることになった。
といっても、事実そのものが捻じ曲げられて伝えられていることもあるし、現代史は学期末で時間がないせいにして、授業で抜かされていることもあるし。

と、どんどん脱線。
まあなにしろ、東京駅の次はアメリカ駅だと思っていたが、当時とあまり脳みそに発展はない、高校出たての頃、イギリスに行った。
その時のわたしは、江戸時代に江戸に藩米を届ける途中に漂流してロシアに漂着した廻船の乗組員のようなもの。
ぼや〜っとメディアの切れっぱしから想像していたものと、実際が違って驚いた。
逆の意味で。
あんなに憧れていたキラキラが、映画やメディアのせいで、作られた上澄み液だということを知った。
勝手に想像を膨らませる方もどうかと思うが。

一番初めに感じたことは、、、
イギリスって、老大国なんだなあ、と。
よろよろして、リフォームも十分できない、古い建物や車、、、ガタイのいいおじいさんのイメージがした。
失望というより、驚き、新発見だった。
だが、もう40年以上経つが、しっかり脳裏に焼き付いている。
ある意味、映画そのものの暮らしがあった。

て、そんな回顧は横に置いて、、、。
なんだか知らないが、まあ憧れは、無知から来るものなんだろう。
知らないほうが美しいままでキープされて良いことは、世の中に山ほどある。

で、イギリスではないが、その憧れの地に、ミュンヘンブロガーさんはお住まいなだけでなく、ちゃんと自立して生活されている。
憧れを通り越して尊敬している。
素晴らしい語学力。

そして、文章力。
表現力だけでなく内容。
感性、考え方。
プラス写真。

ついでにオマケとして、一部、育成背景、家庭環境に共通点がある。
兄姉がいる3人きょうだいの末っ子。
父が知的で気難しい人。(結婚に対する姿勢は真逆だが)
でも母親像は正反対のよう。

じゃああまり、共通点はないのか。
まあよい。
なにしろ、ゾッコンなのだ。
彼女のある日のブログにも書いてあったが、あまり、急接近したり、急沸騰するのは、よい結果を生まないことが多い。
賛成。共感する。
なので、ちょっと文字にしてみたかっただけである。

他にも好きなブログはある。
すごい読書家で、文章が深い、ちんこんさん。
滅多には書かれないが、深い掘り下げに思考の深さを感じてシビレる。
逆にあまり興味がないブログもある。
(それとは別に、毎日安心して訪ねるブログもある)
ブログは色々あって、楽しい。

そういう時代

2020-06-17 | 映画
ブログ村エッセイの自分コーナー、「幸せ」という文字が入ったタイトル3つ続けて並ぶ。
どうも良くない。

わたしは、どこへ行っても同じだ。
パリのアパルトマンに長く滞在していても、部屋っ子だし。
一人でいると、なんであんなに落ち着くのか。
じゃあ、コロナ自粛はもってこいだったのか。
No.
わたしにはメリハリは必須。
全く微動だにしない時間と、活動する時間。
この時間比率や、濃度比率は、人とは多少違うかも知れないが。

一生のうち、ほとんど動き回っていて、一瞬でも止まると死ぬという、マグロみたいな特徴を持つ人もいる。
わたしが知る、あるリアル人もそういうタイプで、年がら年じゅう、仕事と遊びに東奔西走している。
とっくに還暦は過ぎているのに、リタイアも全然出来ずに、いつまでも忙しく立ち回っている。
本人が選んだ道。
ひーひーいいながらまんざらでもなさそうなので、M系傾向もあるのだろうか。
周りに多大な迷惑をかけないなら、自分がよければそれでいい。

ただし、人にも自分の道を押し付けなければ。
人には押し付けないものの、承認欲求が鼻につくのが、タマにキズだが。

「いいよな、何もしなくて。
退屈じゃない?
つまらないだろう?
ひょっとして、何もしないのではなくて、何もできないの?
能力がないの?」

ちょっとこちらが優位な発言をすると、途端に
「そう!!よかったね!!」とイヤミったらしい逆の表現で、明らかに面白くなさげ。
自分を承認するために、人を下に見ようとするが、逆転の分野があると一転して認めたくなくて、卑屈になる。

わたしから発する、絶賛とまでいかないクールな反応でよければ、いくらでも、ひーひーいってくれたらよい。

わたしは、あれした、これした、あれ出来る、これ出来る、と、あまり言わない。
言いたくない。
なぜなら、きっと、嫌な臭いがするだろうと想像するから。
人に自分を知ってもらっても、さして喜びを感じない。
自分が自分を知っているから、満足。十分。
自分を通り越して、人にまで承認欲求が及ばない。
たぶん、内向的な性格から来るものだろう。
それと、変な自意識過剰。
砂糖と塩の混ぜ方を間違えているかんじか。
隠し味の砂糖は料理を引き立てるが、甘さが出過ぎると逆効果。
ほどほど出すのは、バランス感覚が必要だ。
やり過ぎと、やらなさ過ぎの、中間が良い。


ちなみに話はごろっと変わるが、
ドキュメントやニュースで、誰にも知られず最期を迎えた人のことを知る。
不幸の連鎖により、誰にも知られなくなった経緯、いきさつは気の毒である。
ドキュメンタリーは、伝える側の気持ちが反映されている。
本人は本当にそう思っていたのかどうか、わからない。
事実だけを淡々と伝えると、見る側は客観的事実からその奥にあるものを想像する。
不幸な人々や、喜びに満ちた人々、色々いる。
一人の人にも喜怒哀楽がある。
一つ一つのドラマは人の数だけある。

才能や作品に恵まれた有名俳優も、病魔に冒されたりする。
華やかな光の部分を世界中の人が知っているだけに、明暗の落差は周知の事実となる。
一般の人々は、色んな想いを抱く。
人の想いに蓋をするわけにはいかない。
有名人は特別枠だとしても。

しかし、あんまり人の思惑ばかりに囚われると、自分の幸せを逃す。
だが承認欲求は、自分が得たい幸せのために、承認されることを渇望する。
ぐるぐるそういう矛盾と闘うことになるのだろう。

その代わりと言ってはなんだが、人に承認されなくても、自分に承認されたい欲求がわたしにはある。
つまり、自分が課した理想像。
これを目指して走るのだが、公表していないので、実現できなくても何の問題もない。
途中で変更も大いにあり。

内容も、なにも前向きの素晴らしいものでなくてもよい。
人に見せるためのものではないので。
自分を喜ばせるためなので、さじ加減ひとつで、どうにでもなる。
これは、じつは、楽しい、、、。

今、コーヒーを飲んで一息ついたら、ブログ書きかけ途中で嫌になっていたのに、意味も理由もなく、ポジティブシンキングに変化していた。
なんて単純なわたし。

全ての具象、森羅万象には人間の頭では解明できるようなものはなく、それを超えた意味がある。
つまり人間が考えることはたかが知れていて、意味はないのかも知れない。
AIは人間を超える?
人間を超えるものがAIだとは思いたくない。
SFの世界は現実の延長。


ちなみに、、、やっとまともな具体的な話に移る。
遅い!もう誰も読んでいない、、、。
前半、カットすべきか、、、。








先週観た、「わたしの若草物語」のファッションが素晴らしかった。
特に色使い。色の組み合わせ。
原作は、1868年ごろに発表されたものらしい。
物語では父親は、南北戦争に行っていた。(後半には帰還)
映画のなかでは、電気も車もなかった。
長女は女優、次女は小説家、三女はピア二スト、四女は画家を夢見る四姉妹。
全部、文系、芸術系なところが興味深い。
生産的、実務的な職業ではない。
社会の上層部は全て男性が牛耳っていた?
女性でも農業や職人、奉仕人などの仕事もあるのに、四姉妹の社会的属性が白人、中産階級だったからなのか?
年配の住み込みメイドさんが一人いたが、母親と年頃の女性四人の世話は大変。
若いパワーモリモリ、バリバリの女性たちが大勢寄って集って、年配女性を平気でこころ痛めることなくこき使うとすると、時代なんだなあと。
メイドさん(使用人)が若くパワフルで何人もいて、雇主サイドの家族が少人数ならともかく。
金持ちの当たり前の特権だと思っている金持ちもいるようだ。
(別の電子コミックにもそういう誇張描写があり、笑いを誘う作者の意図が見える)

(※話は横道に逸れるけれど、若草ならぬ道草、、、
ストーリーでは、近所の貧しい子沢山のシングルマザー家庭に、四姉妹は母親の提案でチャリティー精神によって朝食を施すシーンがあったが、、、
赤ちゃんや幼児にお菓子ばかり与えてるのは現代ならちょっと的外れ。
持っていけるものがお菓子しかなかったのなら仕方ないが。
今の子育て家庭に、お菓子をどっさり持ち運んだら、嫌がられると思う。
子供がお菓子ばかり食べて、バランスを配した食事を用意しているのに栄養が偏るとクレームをつけられかねない)

話は戻り、そう言えば、学生時代の親友Yちゃんの家も、父親は長期不在、元気盛りの母親とYちゃんがいるにもかかわらず、お手伝いさんとして、幼児がいる若いママが育児の合間に忙しい時間をやりくりして一部の家事労働を担っていたなあと記憶する。
お互いの労働時間を売買、ビジネス成立である。

カフェブレイクの後、やたら書きたいことが次々ムクムク出てきたが、今日はこの辺りで終了。
書き溜めて冷凍保存しない主義なので。(自分にしか意味のないこだわりです)