蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

今宵のワイン

2008-08-31 | グルメ
今宵のワインは、さっぱりした後味の白ワインでした。
手巻き寿司との相性は、ばっちり。
ほんの少し甘みもあるかも?
少しずつ、自分の好みを自覚していこう


Leroy-Takashimaya 2001 30ans

Rully
Appellation Controlee

Mis en bouteille par Leroy Negociants
a Auxey-Meursault (Cote-d'Or)
LEROY
PRODUCT OF FRANCE
輸入業者及取引先 高島屋商事株式会社

リーファーコンテナ使用
マダム・ルロワがギャランティ(保証)した蔵出し直輸入ワインです。


LEROY&マダム・ルロワ
http://www.fuchu.or.jp/~class30/html/2002/wine_currenttopics_2002_06.html

SEX AND THE CITY

2008-08-31 | 映画
SEX AND THE CITYを観た。

劇場から出てきた若い女性連れの声。
「久しぶりに、すかっと気がハレる映画をみたわぁ~
「でも、横のオヤジ、ず~~っと、・・・(聞き取れなかった)・・・で、
すっごい嫌やったわ~。いい加減にしてほしいわ~」
と、別のことで、おかんむり。

ファッション、インテリア、住まい、パーティ・シーン、街角は
とても素敵だった。
特にファッションは、各デザイナーごとに、
トータルデザイン、色、素材、テキスタイルデザイン、etc・・・
それぞれにアクセントが効いていて、目が喜んでいた。
観るのに集中しすぎたせいか、音楽は、あまり印象になかった。
女優陣は、華やかでエネルギッシュだったが、
若さだけでは勝負しないところがいい。
リズム感のあるテンポで、展開。
ノリは、確かによかった。
恋は、ちょっと出来すぎで、現実味が薄いようなかんじ。
ミスター・ビッグが、カッコよすぎるからかも?

もとのTVドラマのことは、「負け犬の遠吠え」の酒井順子が、
著書の中でちょいちょい引用していて
20代後半~30代の女性には、ぴったりの内容なんだろうと想像していた。
TVのシリーズで見続けていたら、さらに楽しめただろう。

子供が出来ないと、すぐ養子をもらってしまうところは
(しかも人種の違う)、日本人との文化の違いを感じた。
さすが、人種のサラダボウル、異人種共存国家、アメリカだ。
もらったすぐあとで、実子が出来ちゃうのだが、
分け隔てせずに育てられるのだろうか?

養子のほうが、デキがわるかったり、怠け者だったり、
逆のケースもあったり、リスクはあるだろう。
まあ、ブラピ&アンジェリーナのところもそうだし、
あまり日本人のように、血にはこだわらないようだ。

でも私は、あそこまで濃い、女性の友情は、育てられない。
自分の失言について、3日も続けて謝りに行ったり、
落ち込みの真っ最中を共有したり、
あんなにワーワー、キャーキャー、自分を曝け出せない。
失恋旅行は、いいかも知れないけれど。

いわゆる、社会でそこそこの地位を築いている人々のお話なので、
観ている分には、目の保養にもなるし、楽しい。
仕事に、恋に、オシャレに、
都会で、毎日を素敵に生きる、憧れのライフスタイルだ。
そのあたりが、「田舎モノがハマる」と、揶揄されているのかな?

あれが、毎日の食べるものや、住居にも困窮している人々を
描いていたとしたらどうだろう?
恋愛やSEX、心の交流は、共通のテーマになるだろうから
それはそれで、笑いとユーモアをふんだんに取り入れて
ケ・セラセラで生きる、明るく逞しい、恋愛モノにはなるかも?

それはそうとして、
女性には、愛と勇気と希望を与えてくれる、
テンションの高い、楽しい映画でありました。

劇場内で、寝ている男性たちを、ちらほら、見かけた。
女性たちが目を輝かせ、心躍らせて観ている一方で、かたや、高いびき。
寝不足なのか、お酒でも飲んでいるのか、
はたまた、夫婦割引で引っ張ってこられたのか、知らないけれど
それぐらい、恋愛というものは、男性と女性の意識が違うってこと、だ。

オトコとオンナは、理解し得ない異星人同士、
温度差があるのは当然なんだろうが・・・。

ニュータウン

2008-08-22 | 
ニュータウンとは・・・
あちこちから引っ越してきた人々の集まり。
造成され、売り出される前は、山だった。
山だったところに、人工的に作られた街。
大都会に通う人々のベッドタウンとして、計画的に作られ、発達した。
インフラは整い、交通の便も良好、区画整理され整然とした街並み、
美しく整えられた街路樹や公園、歩道。街灯も常に切れることはない。
街全体が、衛生的で、すみずみまで整備されている。

もともと地域に根ざす、絶対的な既存のオリジナルなどなく、
行政によってお膳立てされたハード面の上に、新しく入ってきた人々が、
自分たちで個々に時代に応じてソフト面を創造しようという、
地域の特徴を持っている。
カラーで表現すれば、透明or白? 
全国のどこにでもある、大規模チェーン店のように、
金太郎飴的で、どの地方も画一的で似たかんじ?


歴史や伝統がない分、気楽で自由だ。
(もはや、ニューではなく、何十年もの年月が過ぎてはいるが。)
快適さを追求するあまり、他人に干渉しない結果、
結束力に欠け、自己中心的傾向があるかも知れない。


私は、閉ざされた昔ながらの地域の、重苦しい家から(一時的に)開放され、
自由闊達なニュータウンで生活し、見聞きし、子供を育て、いろいろ経験した。
とりあえず、(親の惜しみない協力も得たが)、
今日まで来て、これから先の道をあれこれ模索中だ。

ニュータウンの、実にあっさりした人間関係、
開放的で、人工的、計画的、住みやすい環境は大いに気に入っている。
このまま終の棲家にしたいとういう思いは、重々だ。

ニュータウンに住みながら、ちょいちょい、田舎の重苦しい家を管理しつつ
(実際のところ、それは叶わぬ希望なのだが・・・)
やがて身体がいうことをきかなくなったら、
重々しい家は、息子に任せて、(息子、かわいそー)
介護付き施設に入り、最期は病院で、この世とお別れしたい。

もっともっと年齢を重ねた時、どのように考えが変わっているかは
自分でもわからない。未知数だ。

「自宅で家族に看取られて、最期を迎えたい」なんて、超贅沢なことを言って、
家族を介護に巻き込み、生活のリズムを狂わせ、嫌がられ、
一日も早い死を待ち望まれているかも知れない。

正気なら、そんな贅沢なことを希望しないと思うが、
正常でなくなる可能性もあるので、なんとも言えない。
頭がおかしくなる前に、今から、一筆したためておこうかな。
あるいは、バリバリに正気だけれど、ころっと気が変わるかも知れない。

なにぶん、今は健康そのもので、なんでも自分で出来る。
行こうと思えば、世界中のどこにだって行ける。
自立できなくなっている自分を、今は想像できない。

その時その時に、絵を描くしかない。


宗教 ②

2008-08-18 | 
私は、なにも、新興宗教や、外国の宗教に改宗しようといているわけではない。
頭からなにも考えずに、ただただ言われるままに、信じる、ということが、
納得がいかないだけなのだ。

宗教は、心の問題。
人に指図されて、信じるものではないと思う。
キリスト教の踏み絵が頭に浮かぶ。
キリスト像を踏むぐらいなら、死を選ぶ人もいるぐらい、
たかだか宗教とは言えない、ナイーブで、激しい問題なのだ。
信仰の違いで、古今東西、多くの人が血を流している史実も多々ある。

しかしながら、私は、なるべく波風を立てないように、
婚家では行事はこなしている。
お墓にも参る。
仏壇で手も合わせる。
ただ、それは、ポーズであり、私には大して強い揺ぎない宗教心など無いのだ。

ところが、お経を唱える、となると、
ポーズでは済まされないことだと、私はこの度、感じた。

人の心を無理矢理、従わせさせようとしても、拒絶反応が起きるばかり。
自然な流れで、ある年齢に達したら、あるいは、重い病気でもしたら、
科学では解明できない困難や不安を解消する必要性が生じた時、
あるいは、強い願い事をし続ける場合(勿論、努力をし続けて)
自分の力ではどうにも出来ない事態に直面して、
自然に宗教心が芽生え、感謝の心も生まれてくるのではないかと思う。

早急に、焦って、時期を待たずに従えさせようというなら、
本来、心の安定を得るはずの宗教なのに、逆の作用が働く。

現代のように価値観が多様になると、情報に振り回されすぎて、本筋を見失う。
私のように、頭でっかちな嫁が、うじゃうじゃ出てくるのだろう。

信仰は毎日の生活にとけこみ、伝えられる。
不幸を避けようとする先人たちの知恵である宗教は、
揺れる心をひとつにまとめて、大きな心の支え、指針、導きになっている。

だが、そういう悟りに近い心境に達するには、時間がかかる。
何の情報もない昔ならいざ知らず、
手順を踏まず、いきなり「読経」には抵抗がある。

右を向けと言われたら、
何故そうするのかもわからず、わかろうともせず、
いつまでも右を向いているような従順な嫁が、今時、いるとすると、
それは単に何も考えてないだけだ。
思考力ゼロだ。
それを善しとするなら、嫁には人形かロボットをもらえばいい。

ただ、何でもかんでも、すべて感情で反抗するのも、愚かである。
自分が納得すれば、従えばいいし、納得できなければ、次善策を練ればいい。

今回の出来事は、嫁としての、自我の目覚めだった。(かなり遅いけれど)
言われた通りに、なんでも聞き入れている自分が嫌だったのだ。
自分なりに自問自答し、試行錯誤の結果、
たとえ元の姿に戻っても、それはそれで意味があると思っている。

すんなり受け入れるより、よけいなエネルギーが必要だけど、
自分自身と対峙する、いい機会だ。

宗教 ①

2008-08-17 | 
婚家も、姑の実家も、私の実家も仏教だ。
(ただし、宗派は違う)

ただ、いくら婚家の宗教だからといって、盲目的に、
信じてもいない、教義もよくわからない、お経の意味もわからないのに、
いきなり、お経を唱えろ、と言われても、
実家の宗教も、ちゃんとまじめに、信じてないのに・・・。

姑に、私は、畳み掛けて言った。

「教義もろくに理解しないで頭ごなしに、嫁家の宗派だから信じろ、
と言われても、抵抗があります。
これこれの理由で、他の宗派とは違う良いところがあるので、
うちはそれを採択し伝統として継承している、とういうのならわかります。
歴史的背景や、教祖の偉業や経緯、宗教的流れ、意義、経典、
全部、説明してください。」
と次々、質問が口からすらすら出た。

ついでに
「伝統とういものは、やみくもに何でも踏襲するのではなく、
色んなものをふるいにかけ、良いものを見極め伝承することじゃないんですか?」
と、日ごろ思っていることを一気に言った。

すると姑に
「意味なんか、わかってる人なんか、一人もいません。
お経を読めと言われたら、素直に何も考えずに読むものです。
自分もそうしてきました」
と毅然と反逆された。

さらに私は、
「宗教の違いは、離婚原因として、裁判の判例にもなってますよ」と反撃。

姑は、冷静な口調で続けた。
「自分も若い頃は、随分、義母や周りを驚かせるほどの無知さを露呈していました。
50歳過ぎた時でさえ、うちの宗派の仏像の種類も知らずに、お寺にそれを聞きに行きました。
今思えば、姑(先代の)はさぞや、心が広い人だったんだなあと、感謝しています。
今頃になって、よくわかります」と。

暗に私の無知や、従わないことを非難していた。


お盆

2008-08-16 | 
お盆には、ご先祖様が家に帰ってくる。
今年は11日にお墓に仏様をお迎えに行き、
家に着くとまずは「お帰りなさい」と、お迎え団子をお供えする。
生前から直接知っている舅には、好物のコーヒーを、
舅の母(義祖母)には、高野豆腐を供えたりもする。
皆さん、1年ぶりのふるさと。それぞれに寛がれている。
よもやま話に、花が咲いていることだろう。

13日は、お坊さんが来られて読経だ。
仏間の隣の部屋で夜、寝ていると、真っ暗で、静まり返ったなか、
直接、顔を知らない人々が、団体さんで隣の部屋にワイワイ居るかと思うと、
なんだか怖いような気もする。
写真でしか知らない人、
遺品があれこれ現存する人、
達筆の書を残した人、
蒐集家の人が残したコレクション類、
代々伝わる秘伝の万能薬の処方箋、
語り継がれている人、人、人、人、・・・・
何かしら現在に、足跡を残している。
けれど、夜中に、誰も私に話し掛ける人がいなくて、ほっとした。
とりあえずは、不足はないようだ。

14日朝から、昔から伝え決められた通りのお供えを、順々にお出しする。
味がほとんどついていないような精進料理のオンパレだ。
次から次へと、1日にわたり忙しい。
最後のお供え物をしたあと、家の者でお経を唱え、
いよいよお墓へ仏様をお送りする。

その時、姑に、お経の本を手渡され、
「『何ページのココから、何ページのココまで』般若心経を唱えなさい」
と言われた。

ただし、お経は私は新米なので、
無縁仏さん(迎え入れてくれる家のない仏様をお祀りする
お盆の間だけ、屋外に祀っている簡易で粗末な祀りもの)向けの読経だ。
ご先祖様の分のお経は、仏間のご仏壇に向かって、姑が唱える。

ところが、私はこの年になって、反抗期を迎えていた。
「はい、わかりました」と言えばいいものを、
素直にすんなりお経を唱える気持ちになれなくて、
「心の中で、唱えます。私は、仏教徒じゃないので・・・・」
と予期せぬ反応を見せたのだ。
姑は、驚いたような、一瞬「??」の顔をしたが、つかさず、
「皆、どことも仏教徒です」と、ひるまなかった。

とりあえず、私は、わざと必要以上に早口で、あちこち、つっかえながら
(デタラメも入れて)、お経もどきを読んだ。

そこから、姑との宗教戦争が始まった。


若気のいたり

2008-08-12 | 人生
真摯に結婚を申し込んでくれた、その人は、私より11歳年上だった。
親にも、結婚相手として最高だと強くプッシュされた。
「そんなに薦めるんだったら、お母さんが結婚したら!?」
と、私は聞く耳を持たなかった。
当時、学校を出たての私は、まだ22歳になったばかりで、
売りは、若さだけだった。

まだ遊びたい年頃でもあり、わくわくする魅力を求めていた私は、
渋い、落ち着いた男性は、異性として目に入らなかった。
人間の価値が、深くわからなかった。

やんわり、柔和な笑顔を見せてくれるその人は、
芯は気高く、誇りをもっておられた。
かといって自分のことを自慢するわけでもなかった。
思慮深く、深い慈愛に満ちた、人徳のある、教養あふれる立派な方だった。

そのあたり、自己PRを強烈にしてくれていたら、
私も結婚していたかも知れない。
なぜ、もっと、しっかり具体例も織り交ぜて、
プレゼンテーションを行ってくれなかったのか、
(はっきり説明してくれないと、おバカにはわからない)
今となれば、逆恨み状態だ。

あの人のことを色々な記事等で、あれこれ知るにつれて
他人に、押し付けがましくアピールしないところが、
あの人の素晴らしさだと、後になって、気付いた。
能ある鷹は爪を隠す、だ。ほんと。

自業自得とは言え、逃した獲物は大きい。
親の言うことは、素直に聞いておくものだ。

若気のいたり。まさに、その通り。
あの人にふさわしいレベルに自分が達してなかった、という結果なのだから。
私はキラキラ光るものに憧れていたが、
実は、「チャラチャラ」していただけ、だったのだ。


新婚1年目に、早くも
「しまった・・あの人と結婚していれば・・・」と思った。
しかし、子供を産み育て、日々の生活に忙殺されているうちに、
すっかりその人のことは頭から消えた(ように思えた)。
それが、また、ひょんなときに、「ああ、あの人と結婚していたら・・・」
という思いが、頭をよぎったりする。
が、あれこれ考えても、無駄なこと。なんの足しにもならない。

そんなことは、百も承知だが
この年になって、自分が選び、歩んできた人生の、中盤答え合わせ、
自己採点しようとしているのだろうか。
今なら、まだ修正がきく、仕切りなおしができる、とでも言いたいのか?
自問自答。答えは自分で考えるしかない。

もし、あの人と結婚していたら、
今いる、愛する子供たちは、この世に誕生していなかったのだ。
それに、よく知りもしないで、あの人を美化し、偶像化しているだけで
実はすごいアル中かも知れないし、
ペッチャ、ペッチャ、すさまじい音を立てて、ものを食べるのかも知れないし、
外面がいいだけの、家では元気のない人だったかも知れない。
第一、私が、地方の静かな生活に、満足できなかったかも知れない。
その人と結婚していても、きっと愚痴ってるにちがいない。


それはそれとして・・・
まさに今、出会っていれば、絶対に、ばっちり、即決オッケーなんだけど、
運命の人の出現時期が、私には早すぎた。
自分の成長が遅すぎたせいで、
運命の人は、私の手から、するりと、こぼれ落ちた・・・

若いときの価値観と、年齢を重ねたときの価値観は、変わる。
今の私なら、あの人と、しっくりするのに。
誰も時計を止めて、待ってくれない。

あ、あ、あ、・・・ないものねだり。

人間の欲には限がない。





暑気払い、恐怖劇場

2008-08-10 | ご近所さん
バス停は、怖い。
ご近所のオクサマ、A夫人にばったり会ってしまうと、心臓に悪い。

バス停で、おしゃべり。
まずは、ほめ殺しのご挨拶から始まる。
待っている人々は、ご近所の方が多いから、話の内容に気を使う。


「お宅の上のおねえちゃんは、○○をご卒業されて、
○○にお勤め、でしたよね~。で、ご結婚は?」
「は、はい、、あの、、い、え、、」

「下の坊ちゃんは、、○○に在学中ですよねっ。
ご卒業後は、どうなさるの?」
「あ、はい、そ、そー、です、ねー。。。」

「下のお嬢ちゃんは、、、○○をご卒業されて、
確か・・・ご卒業されたんですよね」 
「はい・・、え、と、・・いいえ、えっと、、、」
「え?ご卒業されてないんですか??? あれ? 何されてますの?」
「え、、、え、ええっとー、、、、」

「お姉さんのご主人は、昇進されるってお聞きしましたが、
もう、昇進されましたの?」
「いえ、あの、えーー、まだ。。。です」

「伯母さんは、癌を発病されて、ずいぶん、お長いですけど、
まだ、お元気ですの?」
「あ、あの、その、はい、いちおう・・」


しつこい。とことん。
自分が聞きたいことは、別の話題を挟んだ後に、また聞いてくる。
しかも、いつも同じことを繰りかえし聞く。

私が話したくないことや、人に聞かれたくないことも、お構いなし。
A夫人は、どんどん、がんがん、話す。
マシンガンだ。
ちょっとは、察してくださいな。

次は、バスの中。
しーーんとしている中、話し声は、車内に響き渡る。
ご近所だけではく、同じバス路線の方々も乗り合わせている。
乗客は何もすることもないし、聞き耳を立てる。

さらに、次は、電車へ。
げ、電車も一緒。いったい、どこまで?
近くまでならいいが、最悪、降車駅まで一緒のことがある。
電車の中も、しーーん。
ハナシ、まる聞こえ。
ぺちゃくちゃ、オバサンのしゃべくりは、
他の乗客にとっては、読書や音楽鑑賞の邪魔。
誰が聞いているか、わからないのに、
あいかわらず、個人情報漏えい、しまくり。

子供の進路は、根掘り葉掘り、聞いてくるし、姑との仲にも、興味津々。
自分の知っている事項を、次々としゃべり続ける。
車内アナウンスしているようなものだ。
しかも、私が振った話題には、全く乗ってこない。

A夫人をバス停の遠くから、お見かけしてしまった場合は、
仕方ないが、急きょ、バスには乗らず、駅まで徒歩コースに変更。
そんな時間的余裕がない時や、運悪く、バスにご一緒してしまった時は、
降り際に「電車、ギリギリですから、お先に失礼します」
と言って、駅に向かって猛ダッシュ。

そういうオクサマは、A夫人1人だけではなく、ご近所にあと2人もいる。

私にとって、バス停は、恐怖劇場の入り口と化している。


かわいた、風景

2008-08-09 | わたし
退屈な一日。
何もすることが、ない。
これは、実は、ものすごく贅沢な愚痴だ。


ふと、先日、中之島の国際美術館で見た、
現代芸術家(日本人)の作品を思い出した。
黒い、やたら大きなカンバス一面に、白い小さな文字で、びっしり
「何もすることがない、何もすることがない、何もすることがない・・・」
と埋め尽くされていた。
笑ってしまってはいけないのだが・・・笑いそうになった。
難解な作品ばかりが続く中、緊張を緩和する、ネタか?

作者は真剣に芸術を追求している、たぶん、おそらく。
何もすることがない現状を、膨大な時間を割いて、
「何もすることがない」と表現しているが、
そのせいで、超多忙だ。
深い・・・???のだろう・・??・・きっと・・・

犬が自分の尻尾を追いかけて、ぐるぐる回っている図を連想した。
人間の一生も、似たり寄ったり?


さて、本題に戻る。
何もすることがない、なんて、・・・・
本当のところは、私はとても満たされている。
世の中が面白くない人々には、申し訳ないのだが、
私は、退屈を楽しんでいる。

しかし、電話は時折、鳴るし、
(ほとんどは、セールス。ごくタマに、ちゃんとした電話があるので、
留守録設定にしていると、あとでクレームが来る。)
配達人は宅配品を持ってくるし、郵便人は「ハンコください」
と待っているし、ゲリラ的に私の優雅な時間を脅かす。
居留守を使えばいいのだが、また、出直してもらうのが、わずらわしく、
郵便屋さんと、宅急便屋さんには、渋々玄関先に出て行く。

いただき物をすると、このシーズン、多いときは食べ切れないので、
どこかに持っていかなければならない。
消費期限があるから、時間に追われる。
おすそ分け先を工面するのが面倒な時は、
自宅で消費し尽くすときもあるが、結構苦戦している。
大好きだったものが、嫌いになったりする。

庭の手入れの大変さは、重々知っているので、
庭の木々に水をやらなくてもいいように、草を抜かなくてもいいように、
テラコッタをびしっと一面敷き詰めた。
インナーテラスにもイタリア製テラコッタを敷いているのだが、
なぜか外から土が入ってくるようになり、想定外の侵入物に手を焼いている。
輸入扉や窓は日本の気候に合わないようで、トラブルも発生する。
扉の部品調達は、1年越しだ。

植物といえば、玄関先のシンボルツリーと、公道側に植えた低木類、
庭の、やたら巨木になってしまって持て余しているモミジ、
その他、少しばかりの木々があるだけだ。
(お花類は、季節ごとに咲き終わり、完結)
でも、草があちこち伸びるし、
気付けばガレージの屋根に蜂の巣が作られていたり
猛暑で、去年植えたハナミズキの葉先がカラカラになっていたり
休めない。
まあ、ほっておけばいいハナシだが、そうもいかない。


パソコンに、かじりつく。
パソコンは、どんなにぶっ通しでも、ありとあらゆる分野でも、
文句を言わずに相手をしてくれる、24時間対応のお友達だ。
ネットサーフィンはしない。
ニュースをざざっと見て、お気に入りのブログをチェック。
かたや、リアルタイムの株価、為替の動きに目が離せない。
充実のメールタイムは、ゆっくり考え、自分と向き合う。
くだらないブログも覗く。
これは、怖いもの見たさ。
くだらなさを感じている自分は、まだ意識が正常に働いている証拠。

私は純粋で美しいものだけを見て、触れて、生きていきたいのだが、
どうも、自分には、へんな虫が巣食っていて、
余計なものにも、首を突っ込んでしまう。
世の中の美しい上澄みだけをチョイス、なんていうのは、
マヤカシとわかっているからだ。
清濁併せ持って、生きていくのが人間だと思っている。
自分を騙して、うっとりする器用さが、私には欠如している。

(しかし、古今東西、ジャンルを問わず、
人々を感動させる美しいものには、心洗われる自分がいる。)

世の中には、欺瞞が満ちている。
欺瞞と隣り合わせに生きていかなければいけないのは、
業を背負って生きている人間の宿命。
単純に純粋な善人が、心の底から羨ましい。

実に乾いた感性の持ち主なのに、涙腺はいたって弱い。
クールになりきれない。

女同士の足の引っ張り合いは、恐ろしい。
女性の戦いには、「なりふり構わず生活密着型」と、
後ろ盾のカサを着た「静かな火花飛ばし型」がある。
そういう世界では、私は、絶対に生きていけない。

私は「生活感がない」とよく言われる。
それはそれで、いい。

平穏無事、が、好き。
退屈な日があるから、刺激的な日が際立つ。
行動する日に向けて、静かに気力を蓄える。

なにもない日は、それだけで幸せを感じる。
そう思えるようになったのは、つい最近だ。










キャビア パーティ

2008-08-03 | グルメ
家人の後輩、グルメなM氏。
ゴルフ仲間のお知り合いから、キャビアをどっさりいただいたそうだ。
そのゴルフメートは、あるロシア女性と交友があるという。
わかりやすく言うと、ラブラブらしい。
ゴルフ氏は、ロシアがらみで、よくキャビアが手に入るので、
M氏に、ほんの軽い気持ちで、おすそ分けしたのだろう。

そのロシア女性は、なんだか神秘的な人で、彼女がロシアの空港に降り立つと、
つつつーとお迎えが来て、入国手続きはフリーパスなんだそうな。
怪しげだけど、どうも政府中央寄りの人物らしい。
(ひょっとしてFSB関係者?)
女性のほうが、超大物、というカップル、なんだか楽しい。
まあ、私にとってはアカの他人だけれど。

冷凍にしているけれど、早く食べようということで、M氏は焦っていた。
M氏や他のお友達の住まいを地理的に見ると、我が家がちょうど中間とかで、
パーテイ会場として白羽の矢が立った。

私は料理が(も)不得意なので、おもてなしできない、と尻込みしていた。
美味しい料理は作れない、と前もって伝えておいたら、
ゲストの皆様からの、お気遣いの品々。
百貨店で購入されたらしいが、
鍵が掛かった所から、うやうやしく取り出されたという、ドンペリをはじめ、
M氏が子供の頃からこれで育ったという、某有名肉店のお手製ビーフシチューやら、
(M氏のお母様、お忙しいのはよくわかりますが、ちょっと手抜きじゃありません?)
あれこれ、いろんなものを持ってきてくれ、どうにか楽しいテーブルになった。

「オニオンみじん切り、ゆで卵みじん切り、半熟卵、サワークリーム、
レモン、サンドイッチ用薄切りブレッド、クラッカー」
と事前にオーダーされ、家庭科実習のように忠実に従った。
なにしろメインは、キャビアなので、それを際立たせればいい!
という私のイージーな考え。
そもそも私は、「頑張らない接待」をモットーとしている。
それに皆様、大のドリンカー。
ある程度進むと、何を食べてるんだか、飲んでるんだか、わからなくなる。
(前も、大切にしている6客お揃いのワイングラス、酔って割られた・・・)
私の手料理なんて、別に、いいって、いいって、の世界。

なにしろ、キャビアは大量にあった。
昨年、ロシアに行ったときに、キャビアを買ってきたが、
小さなスプーンに、ほんのわずかで1万円だった。
あの量だと末端価格は、いったい、いくらなのか見当がつかない。

あんなにたくさん、キャビアを食べたのは初めてだ。
皆、もう、十分、これ以上は無理~というぐらい、キャビアを満喫した。

持つべきものは、国家級VIPを恋人に持つ知人を持つ、知人だ。


VIP女性と、ゴルフ氏は、後にめでたく結婚したと聞く。
結婚のご報告は、ぜひ、キャビアでお願いしますね