蝶ブログ。
9年半前の記事を次々読んでくださる足跡あり。
まさかと思うが、登場人物、ご当人?
それはない、、、はず。
懐かしく、自分でも読んでみた。
美人さんとランチした内容。
情景、光景、、背景、会話がくっきりはっきり思い出せた。
ランチのお店も、お店の明るさやティストも蘇った。
なのに、、、不思議とその美人さんの顔が思い出せない。
体型は細身の方、思い出したのに。
自分は美人じゃないけど、ガンバローみたいな、健気な、痛々しいことを書いていた。
美人に対するコンプレックスをひしひし、いや、全開、感じた。
ダンスはやはり、最初の見た目イメージ。
そして、見知らぬ人は顔が大事。
会話なんか、飛んでしまう。
だが、9年半経って、肝心の美人さんの顔をすっかり忘れて、会話内容を思い出すということは、、、
実際はあまり感動していなくて、こころに残っていないということだろうか。
美人、美人と騒いでいても、自分の深層心理では、美人に負けない何かで勝負したい!と強く思ったのかも知れない。
コンプレックスをバネに??
しかし、わたしはコンプレックスだらけだ。
見た目、外見、容姿もさることながら、能力、気力、、、、自信なし。
自信があるとすると、鈍感力と回復力と、楽天家なところ。
あと、余裕。
すべての面で余裕があり過ぎて、イラつかれることもある。
人によっては、無神経にも感じられるかも知れないので、極力、人には近付かないようにしている。
歳を重ねると社会の重荷になる。
そう考えると老人鬱を引き起こしかねないから、考えないようにする。
どんな人も平等に歳を取る。
団塊の世代がどかんとボリュームゾーンを形成しているが、政治家も歳を取っている人もまだ現役でいるので、一斉に年配を切り捨て御免はないと淡い期待を寄せている。
であるが、その一方で、健康保険や児童手当の優遇措置に収入枠(年収の高い人は割増やカット)を設けるのは致し方ないと考える。
高齢者が生きにくい世の中の風潮にはなってほしくない。
が、医療が発達しすぎの弊害もある。
皆んなそれぞれ全員、尊い命ではあるが、自分で判断出来ないぐらいの状態になる時の準備は必要だと思う。
ちなみに、、、先週の出来ごと、、、。
郵便ポストに、カバンから出したばかりのハガキを投函し、ハガキを入れていたホルダーをしまおうとカバンのチャックを閉めることに集中して(自分のことだけに気を取られて)道を歩いていると、前から来た若者に「邪魔!」とすれ違い様に言われた。
すごくショックだった。
こんな広々、幅6メートルはあると思われる誰も歩いてない道なのに、と。
貴方が勝手にわたしの真ん前から来るんじゃない?と。
だが、別のある日、同じような光景を目にした。
カバンから何かを取り出そうとしている、あるいは、しまおうとしている高齢の女性。
まったく前を見ずに自分のことだけを考えて歩いている。
あ、あれだ。
周りは避けたらよい話でさほど迷惑を感じていないが、見る人が見ると癇に障るのではなかろうかと。
本人は、まったく自覚していない。
そのことで、舌打ちする人がいることなどまるで想像もできない。
わたしがそうだったように。
わたしは、若者に「邪魔」と言われたことで、最初はカチンと来て腹立たしくショックを受け、自分が正しいとムカついた。
が、他人の行動を見たことによって自分の無意識の行動が見え、さらに同時に他人の無意識の行動も見えることになってしまった。
自分と同時に他人にも気づきがあった。
目が開いたために、他人の行動まで気になるようになった。
わたしにとっては邪魔でもなんでもない、そのカバンごそごそ高齢女性を見て、かなり複雑な心境になった。
無意識であるその女性の行動が妙に不快一歩手前のような気持ちになった。
自分も意識すべきなら、他人も意識すべきだ、などと、自己正当化意識から発生したにもかかわらず、他人にも強制したい、気付くべきだ、と感じた。
これは、自分は学習したものの、他人に対しても厳しい目で見る副作用、弊害付きである。
自分に厳しく、他人に厳しく、というものか。
自分に余裕がないと、他人に優しく出来ない典型、わかりやすい例だと感じた。
自分もちゃんと出来てなくて厳しく言われている、まだ克服しきれていない状態では、他人に優しく手を差し伸べられない。
わたしのようなトロい人間は、自分に優しく他人にも優しく、、、が、一番、無理がない方法のように思う。
わたしに「邪魔」と言った青年のように、人に気づきを与えるのは、親切なのか、お節介なのか、はたまた傷つけることなのか。
アカの他人に邪魔と言われ、社会で生きて行くのは、細やかな注意が必要なんだと感じた。
しかし、若者が高齢者に「邪魔!」と言うのは、高いところから低いところに向かって唾を吐くようなものではないかと思ったりもしたが、
年齢は関係なく、個人個人の性質の違いかも知れない。
ぼーっとした若者もいるし、シャカシャカした高齢者もいる。
みんな、知らない人同士であっても、優しいこころで接したいが、なかなかコロナ禍もあり、余裕なくギスギス、カリカリしているのかも知れない。