蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

もたもた・・・もやもや・・・ビシバシ

2012-07-31 | 趣味

自作・駄小説、日曜日にあらすじを変更した。
月曜日に、また、あらすじを変更した。
火曜日、暑いこともあり、さらに、アタマのなかで、ぐるぐる、ぐねぐねしてきた。

いつまでも続編をアップせず、ほっているわけにもいかず、ここのところ、嫌々草稿を書いていた。
納得いかないまま、安物小説を渋々、前に書いていた分を日曜日にアップした。

すると、コメントが入っていた。
書きこぼれたところを指摘していただき、助かった。
自分では、気づかない(いや、気づいていても、手抜き確信犯)部分のご指摘。
そういう、ちゃんとした感想は、なんだか、うれしい。
で、手直ししていたら、ブログ更新する時間がなくなった。

なにやってんだ、わたし。

でも、ちょっとだけ、小説のストーリーを考えるのが苦痛ではなくなってきたかんじ。

わたしの歩めなかった人生、主人公に歩んでもらおうか。

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ぎりぎり、セーフ? アウト?

2012-07-30 | ブログ

ご近所さんブログを回っていたら、自分のブログを書く時間がなくなってきた。


いつも、出発時間をオーバーして、あたふたタクシーを利用する羽目になるので、
5分前行動から10分前行動を自らに誓ったばかりなのに。



これまでのブログの遍歴を綴られていた、あるお方。
そうか・・・苦しい時代を乗り越えて、今日があるのか・・・。


忘れたい時代もあるんですね。


わたしは、こんなに、へんな自分も、いつの日からか、肯定してしまっているから、
過去のブログも愛しいのか・・・。
気づきませんでした。
気づかせていただいて、ありがとう。


わたしは、苦しい、忘れたい時代が、どうやら、ないようだ。
あるとすると、学生時代の数学のテスト前の時期。
いまだに、夜中に脂汗で、うなされる。
そうとう、ひどい、数学のデキだったようだ。


先生や、クラスメートに多少いじめられたけれど、おもしろいほど、おかしいほど、
こりゃあ、一歩間違えたら、小説の世界だ、
わたしが、グレたとしても、おかしくないはずだ・・・


小学生時代、友人が、ママに叱られたって、泣きわめいていたけれど、
なんで、あんなに騒いでいるのか、ちっともわからなかった。
わたしの母に比べたら、ぜんぜん、どうってことないかんじだった。


なんて、ひとりで、惨状を冷静に観察していた。
わたし、かわいそう・・・・なんて、自分に同情していたり。
その頃から、おかしな変人の芽はにょきにょき芽生え、すくすく育っていたのかも?


 


それから・・・
人さまのSEXを笑っちゃいかん、の、お話。
あの方の感想も、枯れていて、自然な成り行き。
人間は、自然に年を取るのが、いちばんの幸せ。

ちなみに、わたしは、その手の話は書けません。
恥ずかしいので。
変人ではありますが、へんに、そのあたり、クッキーや、せんべい、とまではいかず、
(飴や、お干菓子でも当然なく)
かといって、賞味期限は本日中という、生クリームたっぷりの生ケーキとは、いかず、
卵の黄身が、ちょっといいかんじの柔らかさの、半生菓子?


ま、なにしろ、無理です、その話題、自分から書くのは。
いまのところは。
にこにこしながら、読ませていただくのには、とても楽しい。


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指折り数えて、卒業を待つ

2012-07-29 | 趣味

頭が痛くなりそうなほど、暑い日曜日。

リビングの温度計は、ただいま、33度、湿度は58度を指している。

ちまちま昨夜から進めている小説は、いっこうに、スピードがあがらず、もたついている。

今日は、日曜日か・・・。
そういえば、昨日もこんな暑さのなか、ふーふーはーはー、鼻の頭が乾いた犬みたいに、過ごしていたなあ。

ちなみに、・・・・
突然、話題は、変わるが・・・

ダンスパーティは、出たとこ勝負で、その日、その日の出来高が違う。
いい日もあれば、悪い日もあり、予想がつかない。
デキのいい日は、ラッキー、よくない日は、アンラッキー。
楽しく過ごせた日は、バンザイ、気分を悪くさせられた日は、げっそり。

いま、右手首を少し痛めている。
たぶん、ジルバで、相手に捻られたようだ。
強く? 無理な角度? 急激に? リードされた結果だろう。
案外、女性の手首を捻って痛めることになっているとは、男性は、気づかないだろう。

男性は、(女性もそうかも知れないけれど)、自分勝手だ。
自分の踊り方に合わないと、女性が合わせられないと、気持ちよく踊れないようだ。
それを露骨に態度に出す男性が多い。

「いい部分もあるんだけど、もうちょっとやな~、という部分もあるなあ」
「ん?」(首を傾げたまま、いかにも気に入らない様子)
「違うんやな~・・・」(不服そう)

いちいち感想を口に出したりして表現する。
こっちだって、踊りにくい人はイマイチだと感じるけれど、言われっぱなしは、腹が立つし、フェアではないし、腑に落ちない。

ダンスのペアを個人的に組むと、基本的には他の人とは踊らない。
フリーの人でも、パーティではお気に入りの女性がいて、その人とばかり踊ることがある。
いかにも、自分が、そのフリーの人に気に入られないのが、はっきりわかると、あまり気分のよいものではない。

だが・・・たいして上手でもない人に気に入られて、ずっと踊っていても、なんのメリットもない。
むしろ、上手な人と踊る機会を失うし、ヘタな人の踊りが伝染してしまうので、デメリットのほうが大きい。
なので、よほど上手でもないかぎり、どんな人と踊ろうが、自分のことを気に入らなかろうが、こっちには、痛くも痒くもない。
(・・・はずなのだが、やはり、人間なので、ちょっと嫌な気がする)

社交ダンスは、技術面が大きいので、どんなにスタイルが良くて、美人でも、かっこよくても、ヘタだと、どうしようもない。
なので、少々、外見にコンプレックスがあっても、踊りの努力で、それはカバーできるところが、面白いところだ。

(わたしは、踊る人の容姿・見かけに左右されて、まだ、ちゃんと正当に踊りを評価できないようだけれど)

ただ、若さは、大きな要素だ。
若くて、やる気があれば、どんどん上達し、あっという間に、追い越し、追い抜かれる。
なので、若い人に対しては、羨望の目を向けられる。

ただし、一朝一夕にダンスは、うまくならないので、若い人は、よほどの努力をしない限り、
年長者は、優雅に構えていても、そうそう急に追い抜かされるものではない。
若い人は、やる気と、技術を教えてくれる機会に恵まれないと上達しない。
それは、レッスン料(お金)であったり、上手な人の手ほどきだったりする。

上手な人は、若い人に教えて、めきめき上達する手助けをするが、追い抜かれると、自分が優位に立てないので、
あまり一生懸命教えてくれない。
あるいは、正当ではない我流の踊りをする人に教えてもらっても、たんなる弊害にすぎない。
上手な人は、たいがい、パートナーがいるので、なかなか教えてもらえない。
なので、プロに頼るしかない。
それには、お金が必要だ。

うまくできている。
なにごとも、上達の究極の分岐点は、お金か。
よき指導者に恵まれること。ただし、ボランティアでは、そんな人はいない。
それをわかって、練習に励めばいいのだが・・・・。

そしてパーティは、道場破り、修行のひとつ、刺激を受けたり、腕を磨くヒントを見つけたり。
中には、出会いを求めて、それをエサに近づく人もいるようなので、しっかり自分の方針を崩さずに対処するといい。

ダンスの話になってしまった。
ブログでのダンス話は、とばす(スキップする)という人が多いのではあるけれど、それはそれ。

わたしは、すっきりした。

でも・・・
あと少しで、パーティは卒業したい。

 

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決別

2012-07-28 | わたし

ブログ休養宣言(夏休み・期間限定)をされた、ご近所ブロガーさんがいる。

わたしも、そうしたいかも知れないが、無理。
毎日、ついつい、禁断のフタをあけてしまう。
パソコンの電源を入れてしまう。

パソコンがないところでは、ケータイで、ブログをチェックしてしまう。
ケータイで入力する気持ちはないが、見るだけ、ブログをのぞくこともある。

昨年、秋、わざわざパリに一人旅までしたのも、その行動源のひとつは、パリでブログを更新したいためだったのかも知れない。

パリのあれこれを紹介せずに、自室に引きこもって、パンをかじりながら、ちまちまと、iPadをいじっていた。
うまくつながらないときは、
近くのイタリアンスタイルのカフェに行って(せっかくのパリなのに、なぜ、わざわざイタリアン?)、ブログを更新した。
なんのためのパリ?

自分をアウトプットする手段は、霊界とつながるイタコみたいに、ネットなのか?
それも、なんだか哀しいような気がした。

で、今までのこのブログ、記念に紙に出力(製本)しようかと考えた。
旅の写真もあるし、1冊だけ、自分の分だけ、こっそり作ろうかなあと。
ただし、わたしが、退院の見込みのない長期入院や、老人ケア施設への入所などの折、
あの世に行くすこし前、家族がその本を発見したら、ぱらぱらと、ちょっとだけ見て、きっと、うんざりすることだろう。
読むのも面倒だし、嫌なことが突然書かれていたら、気分が悪いし、焼いてしまうのも、こころ痛いから、
「ブログ本を棺おけに入れて、わたしといっしょに焼いてちょうだい」って、遺言を残そうかな。

とりあえず、紙(製本)にしたら、このブログを閉じてもいいわけだし。

わたしは、ご近所ブログのみなさんのように、それまでのブログを閉鎖して、次から次からと、新しいブログを立ち上げる気がしない。
わたしも、実は、去年に旅ブログ、今年に小説ブログを次から次から立ち上げたが、
この蝶ブログは、引き続きまだ、しつっこく続けている。
(小説ブログは、ある日、突然、なんの前触れもなく閉鎖している可能性はある・・・。根性なし)


ま、例外はさておき、(小説ブログをさっそく例外にしようとしているのか・・・?)
なんでも、かんでも、わたしは、長く続けてしまうのだ。

中学の時から延々と綴った学生時代の日記を、最近、実家の母からもらってきたが、読む勇気がない。
台所の、パントリーの奥に、何冊もかためて、ほうりこんだままだ。
なんで、場所が台所なのか、よくわからないが。

蝶ブログ・・・製本して、いちど、やめてみようか・・・閉店、閉鎖。
そうすると、蝶のかわりに、新しく次に立ち上げたブログでは、まったく、新しい自分になれる。

新しい自分になりたいのか?
いったい、ブログに何を求めているのだろう。

そろそろ、これまでの自分と決別したいのか?

 

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砕け散った・・・

2012-07-27 | 日々のこと

今日は、わたしらしくなく、こころに元気がない。
なぜか・・・
理由、原因は、はっきりわかっているが、書く気がしない。
よけいに、落ち込みそうで。

ここのところ、内省型ブログではなくなっている。
そもそも、わたしは、気持ちのはけ口として、ブログに書きなぐっているだけだが、
そういう気にもならない。

少なくないリアル人の目も気になる。

健全な同世代の方々のブログを拝見すると、
ますます落ち込んでいく。
かといって、だらしない、なんの得るところも、吸収するところもない、ダメなひとのブログは、見る気もしない。

原因があって、結果がある。
結果は、毎日の積み重ね。
こころが、折れるには当然、原因があるわけで、
それに立ち向かうには、原因を分析、解析し、改善する努力しかない。

  

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ジージーゼミ

2012-07-26 | 日々のこと

毎日、暑い日が続く。

蝉がジージー、ジンジン、ガラガラ? 庭木のあたりから、何重奏にも響き、賑やかだ。
夏ですね。

自分のこのブログ、書くのは飽きないけれど、読んでいただくには、みなさま、飽き飽きへきへきのご様子。
数字に如実に表れている。(ブログランキングではなく、ブログのアクセス数)

ブログランキングは、実際の内容を反映していないこともあるので、もう、どうでもいい。
でも、どっちでもいいけれど、とりあえず、貼り付けている。

朝の時間が短いことも、ブログ内容が薄い原因のひとつ。
人のブログもじっくり読めず、さささーっと駆け足。
今も時間を気にしながら、あと10分で終わらなければいけない。

あ、そいいえば、深夜の女子サッカー、途中まで見ていたが、その時点では負けていた。
今朝、耳にしたところによると、勝ったとのことで、よかった。
サッカーは、あんな広いところを走り回るの、そりゃあ、選手に死者も出るというのは、よくわかる。
えらくハードだ。

さて、高齢者でも、お元気な方は、本当にお元気だ。
高齢者というには、まだそんな年齢ではないと思うものの、
大企業で働いておられる、あるお方、会社勤めをしながらダンス。(推定年齢63~70歳)
度々の海外出張が合間に入るなか、個人レッスン、団体レッスン、パーティ、
それはそれは、タフ。
パーティで偶然、ご一緒しても、疲れ知らずで、ぶっとおし、踊りっぱなし。
すごい健脚。
山登りをしていた時期もあり、足には自信がおありとか。

暑いなか、元気な人は、あくまでも元気だ。
わたしも、そんな元気モンのうちの一人。

さあ、今日も暑いなか、がんばって行こう!!

さて、目標の時間内に、ブログ更新は終了した。
やれやれ。

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駄馬は、名馬にはなれない

2012-07-25 | 趣味

社交ダンスネタです。
はい、ここで、お帰りの方、せっかくご足労頂いたのに申し訳ありません。
(といっても、手間は、ワンクリックでしょうけれど)


でも、どんな分野にも共通する、精神論でもある。
(だから、社交ダンスネタの時は、いつもすっ飛ばす、とおっしゃる方、帰らないで、ちょっと読んでください・・・)



今日の個人レッスン、教わったことを覚えていないので憂鬱だ。
先週はお休みだったので、2週間あくと、完全に忘却の彼方。
わたしは、覚えは、いたって悪く、その場で覚えきれていないものを、
どうしてそのまま放置して2週間のブランク後に、いきなり出来る?
出来るわけがない。


実は、この個人レッスン、わたしには、ブタに真珠で、悩んでいる。
幼稚園児に、東大の教授がつきっきりで専門に、ついているようなもの。
音楽系などでは、英才教育で、小さい頃から有名な先生に師事して、
遠方地から親が付き添って東京に通う、なんていうこともあるようだが、
わたしは、ぜんぜん違うわけでして。


北島選手に、水泳を習っているようなもの。
わざわざアメリカに行って、イチローに、野球を教えてもらっているようなもの。
わたしなんぞには、近所の、ちょっとその道が得意なおっちゃん、おばちゃんレベルでいいのだ。


イチローが、わたしの打った、とてつもないヘンなボールを、グランド狭しと、拾いに走り回ってくれているのを見て、
こりゃあ、もったいなさすぎ・・・と、感じているのに近い感覚だ。


わたしが、ちっとも覚えないので、何回も何回も何回も、幼児に身振り手振りで、振り付けをつけるかのごとく、
(いや、サルか、犬に教えているかのごとく。いや、彼らのほうがもっとカシコイ)
いくら、生活の糧だといっても、優秀な踊り手に、そんなことをさせては、いけない。
すごいエリートのサラブレット馬に、馬力をふりしぼって、荒れた田んぼを耕させるようなもの。


オーラがする、ため息がでるような、素晴らしい華麗な踊り手に、あんなことをさせてはいけない。
あまりの覚えの悪いわたしに、うんざりしながら何度も教える先生を見て、そう、前回、しみじみと思った。


先生は、こんなことをするために、ダンスの世界に入ったのではない。
でも、現実と理想の差は、こんなものだ。
ハレの舞台に立つためには、自分たちの苦しい練習もそりゃあ、欠かせないが、
それよりも、お金を稼ぐための、レベルの低い客に、くだらないレッスンをすること、
それは、割りきらなければならない。
いくら虚しくても。

こちらは、高いお金を払っている。
あちらは、高いお金を受理している。
ただ、金銭のやりとりで成り立つといっても、そう割り切れるものでもない。
人(の力)を買うのは、それなりにお互いが納得しなければ、人身売買みたいになってしまう。


・・・で、いつも緊張する、その素晴らしい先生・・・
もう1年になるが、いまだに、わたしは緊張している。
そして、緊張のあまり(じつは、たんに覚えが悪いだけ)、覚えられずに、レッスン中はもちろん、終わったあとも後味も悪く、
こんなデキの悪い生徒では、先生も戦意が失せるだろうし、たいへん申し訳なく、
たとえ、お金で成り立っているにせよ、とても、とても、こころ苦しい。


なので、そろそろ1年。
もっと自分にあった、荒れ果てた、かちんこちんの田んぼを、ともに汗水ながして耕してくれる、
エリートでなくてもいいから、見かけも悪くてもいいから、丈夫で、力持ちな、先生にチェンジしようかと思い始めている。


こんな、ブログ更新しているヒマがあれば、2週間前の、忘れきっているステップを、いま、復習すべきだ。
はい、そのとおり。
どんな先生が助っ人として手を貸してくださっても、
実際にやるのは、実践するのは、汗をかいて努力すべきは、自分自身に他ならないのだから。


がんばろっと、今から10分、練習しよっと。
(時間、少なすぎか・・・)


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それよか、眠くなってきた、わたし、・・・こりゃ、もう終わってる?!


 





鎖につながれた関係

2012-07-23 | 日々のこと

田舎の法事は、疲れる。


生活の糧を得る仕事がらみの関係者が、地元に、うじゃうじゃいる。
親戚の集まる席で、なにか、へんなことを言ったりしたら、
「あそこの、あの人が、ああ言った」と各家の末代まで語録として伝わりそうだ。
ただし、かんじ悪い人や、非常識な人などいない。みんないい人ばかりだ。
が、個人と組織の関係みたいで、わたしにとって、親戚、というだけで、どんないい人も、別のものに変化してしまう。


血縁、親戚、仕事、生活・・・すべてが、同じエリアに濃厚に凝縮されている。
しかも、人の出入りの少ない地域なので、
子供の世帯に、自立生活できなくなった老親が引き取られたり、入院したり、老人施設に入居したりする以外は、
転出、転入など、ほとんど聞いたことがない。


法事の食事の席で、いろんな話題が出る。


わたしは、すべて、口(くち)チャック。
話せるのは、野球やテニス、ゴルフの話題ぐらい。
(わたしは、そのスポーツを観戦も、プレイもしないが、聞きかじりの一般論で。
といっても、うんうん、そうですね、と顔で応戦)


義母から、いろんな人の話をいっぱい、30年前から叩き込まれているので、
かなり昔にさかのぼった詳しい情報まで知っている。
あの家は、あんな家。あの人は、あんな人。
この家は、こんな家。この人は、こんな人。
あの人のお母さんは、どこどこから嫁に来て、あんな人、お嫁さんのお兄さんはこんな人、
生まれは、どこ、育ちは、こう、実家は、昔は、こう、今、こう、
跡継ぎは、今、ああなった、長男は、こうなった、次男は、そうなった、長女は嫁いだ、次女は、嫁いだが戻ってきた・・・
その子供は、どこどこに、いって、ああなった、それから、こうなった・・・
いろいろな個人情報を隣の県とあわせた2県エリア限定で、50~100年まえぐらいからの情報を延々、伝え聞かされる。


そのわりに、あんまり覚えてなくて、この人、だれだっけ?
どういう関係だっけ? 
前にも同席したし、その前にも、また、その前にも同席したんだけれど、だれ、あの人?
ごくごく身近な人にも、はてな?で、いまさら、あなた、どなたさんで?とは聞けない。
参加者は、非常に少ないにもかかわらず、わたしは、けっこう、義母の説明を、聞いていないことを再認識する。

聞いても、理解するのに時間がかかり、せっかく時間をかけて、理解しても、こんどは、すぐ忘れる。
なので、義母とわたしの会話は、時間と口数ばかり膨大で、中身を要約すると400文字ぐらいかも?
先生(義母)と生徒(わたし)、生徒のレベルが低すぎる。
学生時代と同じで、わたしは、はいはい、と聞きながら、脳に空気穴があいているようだ。
脳と、こころは、すこーん、と通り抜け、風通しがいいので、ジメジメはないが、サラサラすぎて、肝心なことをちゃんと聞いていない。


そんな、うろ覚えの情報では、親戚の席で、ぺらぺらしゃべって、間違ったことでも言ったら、まためんどうくさい。


ひたすら、会が終了するのをじっと待つのみ。


が、料理も終わり、デザートも出て、コーヒーまで出たのに、まだまだ話は続く。
長い~。
にこにこ、を通り越して、にたにたするのも、いい加減、疲れる。


あとで、鏡を見ると、鼻のあたまは、てっかてか。
化粧(ファウンデーション)と汗と、脂が、分離して、奇妙な光を放っていた。
お化粧は、壊れた冷凍庫に入っているアイスクリームのようになっていた。
どろっ。


あの顔で、いくら、にたにた微笑んでも、薄気味悪いだけだ。


口はあるが、話せない、って、けっこう、辛い。
ほんの時たま、そりゃ、ちがうやろ、と、ぴくっとなることがあるが、おさえる。
しょうもないことを言って、めんどうなことになっても、しかたない。
ただただ、逃げの一手。
聞こえても、聞かない。
ひょっとして、なにも話さない、自分を出さない水くさい人だ、と思われてたりして。
なんでもいい。なんとでも、思ってください。
あれこれ、考えると、きりが、ない。
ので、思うことは、だだひとつ。
早く帰りたい。


かくして、義務の法事は、二日経った今でも、ブログネタになるほど、わたしに負の感慨と、疲労をもたらした。



来年は、ウチも、法要を行うらしい。
義母に、「あなたに、任せましたよ」と、きっぱり言われた。(前々から言われているが)
とりあえず、今年いっぱいは、なにも考えないようにしよう。


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バレては、いけない・・・

2012-07-22 | わたし

わたしは、見た目、悪いイメージではない(らしい)。
が、ひとたび、口を開くと、イメージがた落ち、だそうだ。
じつに、もったいないではないか。

せっかくのイメージ、こんなものは、無理して出そうとしても、出るものではない(はず)。
俳優か、詐欺師でもないかぎり。

複数の人から言われた、わたしの見た目は、
子供の時は大人っぽく、若い頃はセクシー、年を重ねてからは、清楚、
時として近寄りがたい雰囲気もあり、だが、しゃべると、真逆。
中身は、小さい頃から現在に至り、一貫して、おかしなヤツ。変人。ユニーク。

じつは、その変人傾向は、小学校高学年ごろから始まり、中学ではピークに、
高校時代は、それを隠そうとして殻に閉じこもり気味だった。

小学校や中学の学期末お別れ会では、出し物として、わたしは先生やクラスメートのモノマネをやった。
けっこう、ウケていた。
「スローちゃん、ようやるわ・・・」と、涙を流して笑う、クラスのかわいい女子の顔を見て、
わたしも、かわいく上品に笑いたかったのに、なんで笑われる側に、しかも自ら望んでやっているんだろう、って、
ふと思ったりもして、自分がかわいそうにもなったりした。

思春期には、そういう過去の自分がカッコ悪すぎて、自己嫌悪ぎみに、ふてくされて、怒っていた。

高校を卒業したあたりからは、急に、男子から、女性として意識され、戸惑った。
おかしなヤツだったわたしは、フェロモン系っぽい、わたしになった。(作為的ではなく無意識)
当たり前の成長過程の一環ではあるが。

この時期は、悪女に憧れた。
だが、中身はあいかわらず、へんなヤツ。そして、当然、悪女でも、遊び人でもなかった。
外見や雰囲気と、生真面目な未経験な中身とのギャップで、流さなくてもいい涙を流した。
外見と中身を統一したほうがいい、と、思った。
そのほうが、トラブルが少ないし、他人にも自分にも混乱を招かない。

結婚し、子供を産んでからは、ママだけの自分が嫌だった。
母、妻、嫁だけの自分、家族という限られた枠の中にだけしか存在理由のない自分は嫌だった。
アイデンティティを求めてさまよった。
で、仕事をした。

結局、仕事人としても、ダメ人だった。
結婚制度の枠内で、下駄をはかせてもらって、ぬくぬくと生きていたら気づかないような辛酸もなめた。
小学校の、あのかわいいクラスメート女子みたいに、わたしのモノマネを見て、無邪気に笑っていたほうが、幸せだったかも。
純粋無垢で、(自分のレベルの低さとか、低能ぶりを)なにも知らないままのほうが、良かったかも知れなかった。
世間の垢にまみれず、すくすくと(偏差値の低い)一貫校のお嬢様学校にエスカレーター式に進学し、
同じような環境のお嬢様たちと、きゃあきゃあ、はしゃいでいたほうが、ずっとずっと美しい人生を送れたに違いない。

(いや、どんなところに進もうが、その道では落ちこぼれ、失敗していたかも知れない)

でもわたしは、家庭内のことばかりネタにする、街でお見かけする、ぎらぎらランチ・ママ軍団みたいにはなりたくなかった。
いくら着飾っても、あの光りの元は、太陽のように自らが輝いているのではなく、
自分で稼いだわけでもないお金の上にあぐらをかいているだけに思えた。

一番、問題なのは、てかてかランチ・ママ本人に、その意識がないということだった。
でも、集団によっては、ただただ、気晴らしに、おしゃべりしているだけでなく、
目的意識を持って、得たい情報を手に入れるために参加しているツワモノもいた。

(最近は、あの、きんきらランチ・ママの輝きも、人によっては、まあ、わからないでもないなあ、と、こきおろすというよりは、
ある意味、評価をしている。
が、あい変わらず、どうしても首をかしげたくなる人種が現存し、絶滅していないように思う。
これは、おそらく、なんの裏付けも取らない、根拠のない思い込みだろうけれど)


で、自らが蒔いた種とは言え、
こんなに、くたくたになって、暗い地下であえいで、ふてくされていたにもかかわらず、
今は、外見としては、楚々としている、と言われる。

人は、見かけによらない。
見かけなんか、大嘘だ。
でも、せっかくいいように思ってくださるのだから、あえて、否定するのも、もったいないので、
静かに微笑している。
だが、中身は、あい変わらず、変人だ。

ほんの最近、ホンネトークで、内面を、つい、うっかり出してしまったことがある。
で、外見と中身とのギャップを指摘され、今度は、別の機会では、だんまり、モナリザの微笑み作戦で行ったら、
「みんなと、もっと話さんと、あかんで」と別の人にアドバイスされた。

話題や内容を選択したりして、あまり変人ぶりがバレないよう、
意見や感想を言うのときは、さらっと、ノーマルな感覚で受け入れられるように吟味して、厳選して、口に出す?
外見と中身を、どうやって調整しようか、折り合いをつけようか、試行錯誤中だ。

あれ、この人・・・???
口の動きと、声が出る瞬間に微妙なズレがある???(口ぱく?)
人間のカタチをした人工知能ロボットのように、
ちょっとしたぎこちなさを、目ざとく気づかれないようにしなければ・・・。

 

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懺悔

2012-07-21 | 暮らし

今日は、遠い遠い遠縁の親戚の法事に行った。
朝の早くから、1日がつぶれた。

法事って、好きなひとなんぞ、いないだろうと思う。
主催する側も、参加する側も。

好きなことばかりやって、キライなことをやらなかったら、世の中、おかしくなる。

労力、時間、お金・・・これらを使って、
自分の家の者だけでなく、親戚の労力、時間、お金をも強制的に使わせて、
死者を円満、円滑にあの世にお送りする。

キリスト教には、法事なんてないんだろうなあ。
その代わり、奉仕活動とか、そういうのがあるのかな?  (詳しくは、正確には、よく知らないが)

愛する家族の法事なら、わかる。

なんで、一生のうち、数回しか会ったことがないような人に対して、
親戚までもが、遠いところを、えんやこらさ~と、行かなければならないのか?

嫌ならやめたら?ってことだろうけれど、それが出来ないのが、情けないところ。
地域や親戚から、仲間はずれに、されちゃうじゃないですか。
仲間はずれにされてもいい勇気を持たない。村八分は、嫌。根性なし。

となると、もはやこれは信仰心ではないですね。

わたしには、まったく、法事の意義、意味がわからない。
でも、参加もするし、主催もする。
何度、出席しても、何度、主催しても、何度、僧侶にお経をあげてもらっても、いっこうに、信仰心が芽生えない。
読経のあいだは、まったく違うことを考えている。

でも、それを誰かに、口に出して言うわけでもなく、非難するわけでもなく、
ごく自然な生活の一コマとして、捉えている。

おそらく、なにも悪いことが起こらない、平穏無事に過ごせているということが、この信仰の効果。
まじめに祈らない、という、フマジメ信仰は、幸せな毎日を送っている証拠だ。
必死に祈るような時は、不幸から脱したいと強く願う時かも知れない。

こんな、いいかげんな気持ちでやっていて、安易に平和を手に入れていることに、もっと反省しないといけないかも。
信仰心(無信心であること)に逆らって、地域や親戚、まわりと歩調を合わせるのも、
カラダだけでなく、こころも抵抗し、少し苦痛だったりするので、
それはそれで、その代償として、「(無信仰のくせして)、デキのわるい、あんたが皆に合わせて、がんばったね」と、
小さな安泰をご先祖様がプレゼントしてくれているのか?
その「ご先祖様プレゼント発想」自体、小さな小さな信仰心の芽生え?

幸せボケ。
現に、さっきから眠くて眠くて、うつらうつらしながら、これを書いている。

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