蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

そぎ落とし

2016-07-30 | 人生

あんまりわたしは、頑張らない性分である・・・
が、疲れた。

ここのところ、気力も体力も、へろへろになっているような気がする。
頑張らないわたしが、疲れるって、どんなの?

もうべつに、そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?
シャカリキにならなくても、
と思ったりする。
たんなる夏バテだろうか。

なにがなんでも、こうしなければならない、という、気迫みたいなものがなくなった。
自然に、成り行きにまかせたらいいのでは、と。

大きなものを抱えて、成し遂げなければ、と、無理に追い込む必要はないかも知れない。
できることだけ、やればいい。
できないことは、切っていってもいい。
「やることリスト」から削除。

残り20年の年月、体力を鑑みて、わたしの人生計画は縮小傾向にある。
あと20年しかないのだから、あれもこれも、と貪欲に、チャレンジしたいのかと思いきや、
意外に反対の動きを見せそうな自分に驚いた。
新しい発見だ。

体力、気力、時間が減っているのに、やりたいことを増やして、どうする?
やりたいことを減らさなければ、どれも中途半端になる。

あれもこれもは無理なので、取捨選択し、厳選したものに、じっくり取り組みたい。
とは言っても、雑事やら義務やらが生じて、自分時間は減るだろうけれど。

時間とエネルギーの分散、配分を真剣に考えたい。

 

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失うものは、もう残っていない

2016-07-29 | 老い

とある方から、メッセージをいただいた。

・・・・

世代交代はとても難しい。
高齢、高年、中年が同居している現代社会。グローバリゼーション。
私は、たとえば、です。父親は数年前に辞めました。対等になりました。
その構図の中に、私の高齢があるのです。
個人主義の厳しい所は、たぶん、この余生の在り方だと思います。
自力しかない。
悲惨な風景も多々、目に入ります。
どうするか? 
私にも良く分からないのですが、健康な体と脳。
これしかないみたいです。でも、「あれば」です。

・・・

・・・じつは、わたしは、小さなトゲの悩みが、いくつかある。
おそらく、この方がおっしゃている「老化への対峙」とリンクするものだろう。

わたしは、一人が大好きなので、友達など必要としないで、十分、楽しいのであるが、
だから、暮らせる程度のお金(プラス予備費)と健康だけあればよいと考えていた。
が、趣味仲間の知人を通して垣間見た現実がある。

健康を害した、お金のない人の行く末。
お金がなくても仲間で楽しくやれるのだが、とことんお金がないと、仲間に借金を申し込む。
そこで、助け合いの精神が生まれるか否か。
お金の貸し借りは、人間関係に歪を生じさせる可能性がある。

華やかな場所に常時、顔を出し、残りの人生を謳歌している知人。
しかしながら、貯金ゼロというのは、今までどういう人生を送ってきたのか。
現役の頃の生活態度は? 
わずかな年金の中では、生活費を切り詰めて趣味に費やし、貯蓄もままならなかったのだろう。
が、趣味仲間に借金を切り出した途端、仲間は離れていく。

お金が無いなら無いで、趣味を制限し、最低限度の蓄えをすべきだと思う。
いつ病気になるかも知れないのだから、すべてのお金を使い切ってしまうのは、いかがなるものか。
病気にならないスーパーマンだと信じているのか。
本人とて、好きで病気になっているわけではない、気の毒な状態だということは重々承知である。
自分にだって、いつ病気になるやも知れない。


当然ながら、お金だけの問題ではない。
どんなに蓄えが多くても、健康を取り戻せないこともある。

健康な体を維持できなくなると、趣味(生きがい)を維持できなくなる。
医療費のために趣味にかけるお金が捻出できず、これまた趣味を維持できなくなる。
いくら大金持ちでも、健康を害すると、人生を楽しめない。
いろいろ援助、サポートしてくれる仲間に恵まれても、病気の身なら辛いだろう。


この趣味仲間の知人。
それまでの綱渡り・その日暮らしを謳歌していた。
が、健康を害したところから、人生計画が狂った。
趣味(生きがい)、友人を失った。
(お金はもとから無いので、それ以上、失うことはない)

しかし、老後が実質的にやってきたわけで、第二スタートである。
これからが、本格的な老後が始まる。
余生ともいうのだろう。

 

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愚痴と自慢と無気力

2016-07-28 | わたし

「愚痴になります。
苦手な方はスルーしてください。」

と前置きが要るとすると、わたしのブログの99パーセントは、愚痴である。
あるいは、自慢。
苦手な方だらけだろう。

最近そう感じるようになると、書く気が失せた。
つまり、自分には愚痴と自慢しか詰まってないということだ。
自分への嘆きと、自分への励まし。
わざわざ文章にするほどでもないのに、まあ、文章を書くことは、昔からの好きな行為、嗜好であります。

考えをまとめるために、まず、整理し、からんでいる感情を取り除く。
汚れものを水で、まず、ばさばさっと大きく予洗いするかんじか。
書いて、考えをまとめているうちに、感情が落ち着く。
思考の邪魔になっていた余計な感情がなくなったあとは、ゆっくり策を練ることができる。
書くことは、よけいな泥を取り払うこと、洗うこと。

しかし、泥を拭ったあと、ニュートラルになって、さて、どうしよう?
人間は感情の動物だ。
感情が動いてこそ、行動の動機が生まれる。
(わたしの場合、勘定、打算の動物でもある)

好きだ、嫌いだ、腹立つ、情熱がわく、熱狂する、寂しい、悲しい、その他もろもろ。
その感情を守りたいために、あるいは、取り除きたいために、なにか行動を起こす。
なのに、その感情がなくなってしまうと、静かに横たわる意識のない生物になってしまう。
息をしていて、心臓が動いていて、死んでいないだけ。

感情が落ち着いて、そういう、凪のような状態になってしまっている、今、
どうしようかと作戦を練りかねている。
待ちの姿勢、受け身の体制が、わたしの基本スタンスかも知れない。
が、決して、言われるままに従うという受け身ではない。
作戦上の受け身である。
後手。

先手を打って、今まで成功したことがない。
ただし、スタンバイ、臨戦態勢をキープ。
いつでも動けるよう、トレーニングしておかなければ、命令されるだけの、ただの使用人。

しかしながら、待ち時間は長く、つらい。
天ぷらを揚げるときも、箸でつつくと良くないが、つい、やってしまう。
天ぷらにも、忍耐あるのみ。
からりと美味しく揚がることを想像して、じっとガマン。

明けない夜はないという。
しかしなあ・・・明けてもね、べつに、特に目を輝かせて期待して待つ朝はないのであって。
気力が落ちているのかなあ・・・

 

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にっこり満足して、さようならが言えるか?

2016-07-24 | 人生

ここのところ、小さな悩みがチマチマと募っていた。

悩みは小さいのだが、自分の選んできた道は間違っていたのだろうかと、自信がなくなったり。

トゲがちくちく刺さるような、神経が少しピリピリ痛いような。
今までさほど感じたことのない感覚だった。


あと20年。
好きに生きることができる年月。
20年後は、覚悟しなければならない。
泣いてもわめいても、自分の人生の落とし前を自分でつけないと。
ぴったり20年後というわけではなく、多少の年月のズレはあるだろう。
だいたい大まかに見ている。
(不慮の事故などに遭わない、幸せコースの想定である)

鳥越俊太郎氏も、自分の残り人生を考えて、立候補したのだろう。
彼は、少しお疲れ気味であるし、あまり余裕を感じないし、やや無理をしているようなかんじである。
当選しないような気はするが、それでもいい。
たとえ落選しても、なにもしないでいることに耐えられない、今の政治に対する疑問、危惧、懸念、不安、不信、反発が、彼を動かしたのだろう。
生きるエネルギーである。
死ぬというのは、どう生きるかだ。


どう生きるか。

自分は超高齢なのに、日本人の平均寿命をとっくに超えている、いつ死んでもおかしくない年齢なのに、
人は生きることにしがみつく。
人間を含め、動物、生物は年を取ると自然に帰るものだと、達観などできない。

わたしも、あの世に行くのは20年後と思っているのは、終活・準備期間の猶予をカウントしていないので、
実は、25年から30年後と根拠なく楽観的に、胸算用している。
でも、案外15年後に、エンマさんからお誘いがあれば、「予定より早すぎてこころの準備ができないじゃないか」、と、わめきちらしそうだ。


人命だけではない。
モノの命、モノの寿命を感じ、別れを惜しむ気持ちになる。
自分が生きている今の間にじっくり、この20年間に、慈しむものや愛でるものは、しっかりと、悔いのないように、こころにすっぽり納めたい。
目に焼き付けたり、触って感触を楽しんだり、空間や空気を肌感覚で感じたり、匂いや光、音、温度など、五感を使って、ありとあらゆるモノの命を、自分の命と同時進行して大切に味わいたい。


人の命→自分の命ばかりを考えている。さすがの自己チュー。
よく考えると、家族との別れは悲しいはずである。
今のわたしの想像では、現世の人々との別れよりも、自分の命そのものがなくなることのほうが重大のようだ。

今までは、自分は生きたまま、自分ではない人がこの世を去っていく、自分の前から消えてなくなる経験が多く、寂しかったり悲しかったりしたが、
今後は、自分がこの世から去ることに重心、視点を移す。

自分がこの世からなくなった経験は、まだしたことがない。
自分がこの世からなくなると、したいこともできず、悲しいだろう。
今、元気でバリバリなんでもしたいことができるときなら、さぞやこの世から去るのは悔しいだろうけれど、
弱ってきていたら、バリバリの時ほど悔しくて悲しいことはないだろう。
なんの生きがいもなく、ただ生きているだけなら、早く次のステージに移りたいと思うことだろう。まして、病気で苦しみ回復困難となれば、一時も早く楽なところに行きたいだろう。


超高齢なのに、この世に未練たらたらの人は、今が楽しいからだと思う。
幸せであることの証拠のようなものだ。
なんでもそうだ。
パーティの真っ最中、ノリノリ状態の時に帰らなければならないと、ショックでしょんぼり、おもしろくなくて悲しいように。
ピークも過ぎ、人も帰りかけ、会場の人もまばらになり、そろそろお開きか、という、そのタイミングなら、納得することだろう。
楽しかった余韻だけが、じんわり残ることだろう。
キャンプファイヤーの残り火が消えていく過程で、胸がきゅんと切なくなるだろう。
消える瞬間は、心臓が止まりそうに痛いだろう。
でもまた、次のパーティがある。
が、高齢の人の場合は、もう先がない。

次回を期待せず、いつも、その時その時を最大に燃えて満足していれば理想である。
いつお迎えが来てもいいと思えるほど、充実の時を過ごせると、最高の人生だ。
が、そうはうまくはいかない。
思い通りにならないのが、人生だ。

20年後は、おそらく違うことを考えているだろう。
30年後は、きっと、なにも考えていないだろう。

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好み

2016-07-23 | わたし
私の好み。
書けば書くほど、他人に嫌われるだろう。
鼻をつままれるだろう。
人にも言えない。
言えば、顔を背けられるだろう。
(変態とか、そんなのではありません)

では、誰にでも嫌がられない好みを持てば良い。
が、無理。

鼻もちならない好みを持つ、わたし。
ブログにも、プンプンそれが臭う。


耳をすませば何が聴こえる?

2016-07-22 | 読む人々には興味ない話
またまたホンネが書けなくなった。
しかし、わざわざ書いて公表する必要はないわけで。
かといって、ウソを書く必要もないわけで。
書いて闇に葬ることにした。
それでも気は紛れる。

ただし、期限があり、答えを決定しなければいけない場合は、なにかしら自分で考えなければならない。
対話の相手は自分。
自分の声に耳を傾ける。

利害関係なしの位置にいて、感情移入せず、客観的、ニュートラルな考えを持つ人のアドバイスがあれば参考になる。

が、頭が痛い。

エッセイ同窓会

2016-07-20 | 無題
おパリでは、ブログ村・級友たちが盛りあがって同窓会の模様。
「どこでもドア」で参加しているツワモノも出現しているらしい。
うちの、どこでもドアは、電池切れにつき、せいぜい移動は、室内間のみ。
冷蔵庫まで移動とか、やたらリアルな要望には応えてくれる。
おパリまでは、無理。

同窓会、遅れて、あんな人、こんな人が参加しそうで、光景を想像して楽しんでいる。


人の人生

2016-07-19 | 老い
認知症の定義は難しい。
アカの他人の見知らぬ誰かのブログに、「鳥越俊太郎は、認知症(の疑いあり)である」と書かれていた。
認知症のお母さんを世話しておられる人のブログだった。

この記事を読んで首を傾げた。
このブロガーさんは、認知症の現場で苦労されているはず。
認知症の症状に日々接していると、認知症を理解し、寄り添おうとするあまり、感覚も認知症寄りになるのだろうか。

しかしながら、わたしの尊敬する、昔から大好きな鳥越さんのことではあるが、わたしのコメントは、あえてここには書かない。


さて、認知症の定義であるが、かなりボーダーラインがあり、限りなくグレーゾーンがある。

緻密で難解で困難なことは出来ても、2分前のことは忘れたり、
歴史の史実をひとつの狂いなく正確に覚えていても、現在、今、今日のこの時間、自分の置かれている状況が理解できなかったり。
高度な計算や化学式は、すいすい鼻歌でも、ボタンのかけ方がわからなかったり。

人によって、いろいろムラがある。

認知症のせいなのか、老化で人格に歪みが出たのか、よくわからない場合が多い。
スーパーのレジでキレる老人なども、その例かと思われる。

重い認知症ならわかりやすいが、問題は、軽度のもの。
理性を失いつつある身内に、愛をもって寄り添いすぎると、自分が壊れる危険性がある。
かつての人格のままなら、自分と深く関わりのある、愛する身内が自分自身を潰してまで寄り添ってほしいとは思ってないはずである。
認知症は、いくら軽くても、どこかが壊れている状況だということを知ってないと、本当に認知症の人を理解できない。


自分は認知症ではない、と、胸を張って自信満々の人がいるが、計算や講義はできても、自分のことをわかっていない。
脳に自信がある人ほど陥りやすい。
そういう人は、自分の老化を認めることができない。

体力や健康に自信がある人もである。

ため息が出るが、その人の人生は、その人のもの。
わたしの人生ではない。



本妻と妾

2016-07-15 | オトコとオンナ

とあるブログを、初めて読んだ。
素晴らしく文章がキリリと冴え渡っていた。
思考回路、目線にしびれた。
それよりも、なによりも、表現の仕方よりも、中身。
お料理も見かけも大事だが味。人間も然り。
その中の、「雀のお宿」の、本当は怖いグリム童話・日本昔話版を読んで、無性に書きたくなった。

本妻と妾。
妻妾同居は、かつて、国の福祉政策代わりに、おカネのある人がやっていた。
国家のおカネを歳出するのではなく、個人のおカネで救済していたと見る。
まあ、それはよいとしよう。(よくないが)

女性が夫と男妾と同居している例は、あまりない。
文豪同士で、元女房をやりとり、交換していた例はあるようだが。
芸術家の岡本太郎のお母さんも、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして、芸術を爆発させる元を作っていたのか?
一人の女性に複数の男性。重複・同時進行型。

まあ、それはよいとしよう。(人は人)

愛を勝ち取るための、冷静な戦略。
これは、すごい。
愛でなくても、国盗り物語風の、国家戦略とか、逆に、国を牛耳るための策略とか、
自分の思いを遂げようとすると、情熱だけではなく、知恵と理性と策略と実践力がいる。
強力な優秀ブレーンがいると五重マル。

一時の嫉妬や激情に振り回され、理性を失うのではなく、じっくり自分のもとに夫が帰ってくるような冷静な判断ができる思慮の深さこそ、
これがホンモノの愛だ!!なんてことになるのだろうけれど。
わたしは、策略を練る余裕のある(男女の)愛なんて、クビをかしげる。
愛は常に狂気を伴うものだと思っているからだ。
冷静な慈愛に満ちた愛は、男女間の愛には、ちょっと違和感を感じる。
恋のライバルを蹴落とす方法を、刃を研いで練る、というのも、わからないでもないが。
策略を練るシーンとしては、わら人形系がぴったり、しっくりする。

まあ、それはよいとしよう。

自分のもとに戻ってくるための、緻密な計画を練り、冷静沈着な人って、怖くないか?
善人なのか?
(確かにヨミは鋭いが)
しかも、良い人、素晴らしい人、よく耐えた人、という絶賛評価つき。
狂って、はちゃめちゃしている人のほうが、人間らしくてかわいいような気もする。

物語は、たいがい、「頑張った人にご褒美」というコースが用意されている。
そのほうが、読む人が安心するからだろう。
自分が辛い立場にあっても、地道に努力を続けていると、神様が見てくれている、と思いたい。
うまいことやった、要領の良い人が、のうのうと幸せをつかむストーリーは、不公平で腹が立つに違いない。

なので、気の毒だった人が、頑張って、乗り越えて幸せになる筋書きに、人は惹かれるようだ。
意地悪人間が、はじめは勝っていても最後は、負ける、そういうのが好きらしい。
水戸黄門さま的勧善懲悪が、日本人は、毎日の安心ご飯か。

まあ、それはよいとしよう。

賢い知恵者に対して、いささかの胡散臭さを感じてしまう。
それもそうだが、雀のお宿(本当は怖いグリム童話・日本昔話版)の、最後は奥さんのもとに帰ってくる夫、
このハナシ、出来すぎ。
元妾はもちろんのこと、奥さんにも見放されるほうが、ハナシとしては現実味があり、活気があると思う。

「あんた、いらん。お払い箱」
ぽいっ。

そこからストーリーが始まるほうが、面白い。

(いまや、そういうのも、斬新さや新鮮さに欠けるかも知れないが)


ふと思った。
カネ目当ての元妾が、とっとと逃げていった、あの展開、
「カネ目当ての妻がとっとと逃げていった」にすると、笑うに笑えない、ストーリーになるのだろう。
(第一生命のサラリーマン川柳で優秀作品があった。
「退職金もらった瞬間、妻ドローン」)

元妾は、カネ目当てではなく、愛情を抱いていたとすると、これまた平凡な、お仕着せ倫理ストーリーになって、温度が下がる気がする。
愛情ではない、なにか、ということにすると・・・?
なにか、って、なに?

いったい、どんな展開がいいって言いたいの?と自己ツッコミ。
う~ん・・・
人の数だけ人生はあるけれど、読み物と現実は交差してるのか?

みなさん、自己責任で各々の幸福を追究してください。

 

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人気ブログを見て

2016-07-14 | ブログ

わたしのブログ。

最近、「老い」一色。
偏りを感じる。

だってね、人生の一区切りなんですよ、わたし。
昔はもう死んでいる年齢。
子供を産み育てて、それでもう死ぬ年齢。
ちょっと昆虫みたいなかんじか。

「死ぬ」と表現するから、なにやら物騒であり、おかしな雰囲気が漂うのだ。
「やり直す」「リセットする」と書くとよい?

しかし、ブログそのものをリセットしなけれは、延々やっている、この蝶ブログで、
いくら「リセット!」「リセット!」「リセット!」と叫んでも、無。

歴代、何人かの、このブログ村でコメントをいただいた方のことを思い出す。
単発の方もおられた。
何度かやり取りのあった方もおられた。
文章の達人もおられた。
アメリカで生活している気分を味わせていただだいた方もおられた。
実のお母さんと同居して、苦しんでいた方もおられた。
ブログ記事内で、セッションする新手の楽しみ方も知った。
最近では、お若い方が励ましてくださる。

ブロガーさんの方々の中には、その時その時の自分のブログは、使い捨て、ぽい。
トカゲの尻尾きりのごとく切り捨て、全く違うブログ名になって、また再スタートされていることだろう。
感情を吐き捨てたら、それでお役目ごめん。
気ぐるみを脱ぎ捨てて、新しい自分になり、また、脱ぎ捨てる。
自分を再生させるためのツールとして利用、活用するのは悪くないはず。
所詮、匿名。


新しいブログがどんどん増えている。
ブログ村のランにキングは最近、えらく様変わりしている。
停滞しているよりは、いいんじゃないかと思う。

ちなみに、ブログ村は、書く人たちの同好会なんじゃないかと思っている。
なので、読者といっても、皆さん、書く方が多いのだろうと想像する。
同人誌みたいなものである。

いつまでも、いつまでも、同じ顔、同じ装い、では、進化も変化もなにもない。
老舗や百貨店でも売り場をリニューアルする。
それに比べて、蝶ブログ、
まったくリニューアルもグランドオープンもしないで、かといって、感性を日々、磨き、研いでいるわけでもなし。

「変わらない老舗の安心・信頼の味」なんてのならまだしも、
ころころ変わることもある、蝶ごころ。
「変わり映えしない」というのと、「変わらない」とは違う。
「変わらない」と「普遍」とは違う。

いったい、どっちやねん!
と自己ツッコミ。

今朝は、意味の無い独り言をいってみた。

タイトルは、「人気ブログを見て」とした。
「人気ブログを読んで」ではないところが、ちょっとした意味がある。

 

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