蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

退屈で幸せ

2024-07-30 | 日々のこと
何もしない退屈な1日だった。
これはある意味、幸せが満ち溢れすぎ、平和ぼけか。
何もする気が起こらない。
いたずらに退屈しのぎに、スマホをいじる。
ほぼスマホ依存症。

ちなみに。

小学6年生と中学3年生の全国学力テストが直近、行われたところ、思考力は点数が低かったそうだ。
スマホやゲームをする時間が長く、その分、勉強時間が少ない子供は、スマホ時間が短く、その分、勉強時間が長い子供より、テスト成績は落ちるらしい。
何を今更、当たり前。
小学6年向けの思考力を伴った算数問題が紹介されていたが、わたしは目を伏せた。
なんか、出来ないような気がして。
わたしの頭脳は、もはや小学低学年か。
と同時に、勉強を強いられ競う時期が済んだことをこころから喜んだ。

ある令和の男子中学生。
勉強する意味を見出せず、高校に進学するのが嫌で、マグロ漁船に乗った。
17歳で年収550万?円だったが、過酷な労働内容に比べると、報酬は少ないと本人は感じたそうだ。
想像を絶するキツイ肉体労働で、2年でやめたとか。
2年も続いたことに、わたしは賞賛する。
ホストでチャラく稼ぐことも出来るなか、マグロ漁船とは。
小林多喜二の蟹工船、プロレタリア文学の世界。
今の時代、肉体労働も、勉強も、かつての競争時代と温度差を感じる。
成長の後は停滞、その後、下降、衰退。
衰退に変わる成熟の先があってほしい。

それはそうと。

やることは、いくらでもあり、それらに手を付けていない状況を見ると、余計に落ち込む。
まだ、ミニ鬱は完全に治っていないのか。
静かに浮上するのを待つ。
近々、大きなイベントをあと2つ控えているが、嵐の前の憂鬱ブルー。
さらにもう1つは、新幹線運休で既に当日キャンセルになって、実のところ、心身の負担が軽減されて、ほっとしている。

ところで。

一昨日、3番目女児孫が、7歳のバースデープレゼント品であるネイルセットを我が家に持ち込んで、ばあちゃんちで、ネイルサロンを営業した。
紙とクーピー、鉛筆で、ネイルサロンの看板や店内ツール、説明書を作り、来店記念プレゼントの(紙で作った)指輪もくれた。
そして、ネイルをしてくれた。
透明に近い色に、キラキラ、ラメが入っている。
今日も指先はキラキラ輝いている。
とても嬉しい気分で、楽しませてもらっている。
こういうのを幸せというのだろう。

素晴らしい身体能力

2024-07-29 | 人々の風景

阿部一二三さん、金メダルおめでとう!

 
先週末、NHK TV「ファミリーヒストリー 
柔道家 阿部一二三・詩〜強さの秘密は家族の絆〜」を見た。
1回目放送は見逃していたのだが、再放送を深夜に見た。
その夜は、さあ寝ようと消灯し、寝室のある2階に上がって、いつものように寝る直前に、布団に寝転がって(快眠には良くないとされている就寝前)スマホを覗いた。
ぱらぱらとNHK番組表を見ていると、その時間に再放送が始まったばかりだった。
慌てて、1階に降りて、電灯を点け直し、ガッツリ番組を見た。
 
阿部さん。
まあお父さんのカッコイイこと。
俳優の吉田栄作に似ているイケメン。
お母さんの若いこと。可愛いこと。
二人とも、あまりにも若くて、ああそうなんだ、オリンピック選手は若いんだ、、、と今更ながら思った。
 
それは当たり前のことで、よいとして。
はつらつとした若いご両親、特にお父さんは現役消防士として、身体能力の良さを活かして活躍されている。
父方は、徳島、母方は、奄美大島がルーツのようだ。
両家とも、身体能力抜群のご先祖様の血を引いている。
さすが。
ローマは1日にしてならず。
 
奄美大島の歴史を少し調べた。
知人に、母方が喜界島出身の人がいる。
それにしても、よくそんな遠く離れた島からご縁があったものだ。
ご先祖様たちは、何代か前にはルーツの地から出て、出先の地で相手を見つけて結婚した。
素晴らしい。
なかなかの行動力、実践力。
梅田の繁華街であろうが、ナンパであろうが、親の世話にならず、ちゃんと結婚して、家庭を持ち、子供を育てておられる。
強いDNAだと思われる。
 
何代も前になると、ルーツは言い伝えられないようだ。
その代わりにNHKが取材力を駆使して、調べてくれている。
知らないこと、目に見えない縁、繋がりを新たに知ることになる。
 
出生の地から遠く活動拠点を移すのには、エネルギーが要る。
食べていくために必要迫られての場合もあるが、立身出世を夢見ることもある。
都会には、全国各地から、色んな人が移り住んでいる。
それぞれの人々の波瀾万丈の集大成だ。
その後、何代かに渡り定住すると、平和で穏やかに、繋がり、絆が生まれる。
 
 
 
 
 

日本からパリを見て

2024-07-28 | 無題
gooアプリが動いた。
動かなくなった朝から6時間後。
焦って「動かない」と、記事にアップしてしまったではないか。
まあいい。

しばらく放置していた。
で、気を取り直してもう一度、一からやり直してみた。
で、ビクとも動かなかった原因は、、、スマホでWEB散策や、何度もSNSをうろうろ行ったり来たり、思いついて調べ物などをしたり、いくつもいくつも、あちこち窓(タブ)を開けっぱなしにしていた。
画面の下に画面がいーーっぱい、幾重にも幾重にも重なって、ほったらかされていた。
だれだ?
こんなに行儀の悪い、後始末をしない奴は?
はい、わたしです。
なんと初歩的ミス。 
しかしまあ、これだけ大量のタブを開きっぱななしにしていたら、そりゃあアプリも音を上げる。

その初歩ミスに対して、gooだけが不平不満ストライキを起こし、固まった。
他のアプリは平気なのに。
というか、他が丈夫過ぎる?
突然の骨折は、軽い捻挫に過ぎなかった。
捻挫にも及ばず、おっとっと、と蹴つまずいて転びそうになっただけだった。
やれやれ。

ちなみに、パリ、混乱しているようだ。
たかだか普通の日の新幹線(日本)だけでも、今週アタマは私的には、ものすごく振り回された。
わたしのスケジュールに大きな狂いが生じた。
世界が注目する、あらかじめ日時が決まっている大イベントを控える警戒体制は大変なものだ。
責任者の緊張感は想像に難くない。
ピリピリ、ピリピリ。
TVニュースにフランスの国鉄や五輪責任者たちが、ちらっと現場でマイクを向けられていたが、わたしの目には、眉間にシワを寄せるわけでもない、ゆったりした余裕の表情に見えた。
が、怪我人など出ず、何も起こらなくて良かった。

王妃の首を抱えて歌う演出に、TVの向こうの日本人は度肝を抜かれたようだ。
王妃を断首した上に、あの神経はいったいどうなっているのだろう。
他国への、わかりやすいアピール?
古いもの、伝統を一旦リセットして、新しいものを生み出す姿勢?
過去に固執しない、柔軟性?
斬新なクリエイティブ精神?
民意反映、ストライキの国。
混在する人種。

日本で例えると、明治維新の前夜、将軍一家、お家断絶、その最期の残酷な様子を国民にショーアップして見せるようなものか?
(平和的、無血のクーデターだったようだが)
それに比べると、最後の将軍、徳川慶喜さんは、明治以後、長生きして、大正時代まで、素晴らしいリッチで文化的余生を送った。
次々と西洋から取り寄せた新しいものに触れ、使い、謳歌していたと見られる。

第二次世界大戦終決における天皇への扱い然り。
(戦勝国と話し合われた結果もあってだそうだが)
日本とは、全く文化が違うように感じる。
ヨーロッパは陸続きで、しかも、クロマニヨン人というと、わたしはすごく強い肉食イメージを描く。
「魚」対「肉」。今は、「草」対「肉」?
平和な島国日本に暮らしていると、想像できない、ということ。
今でこそ、インバウンド観光客が押し寄せ、嫌というほど日本のあちこち各地で、ガイジンさんを見かけるが。
観光を主要産業にしなければ、今後、日本は持たないのかと思うと悲しいやら残念やら、生きていくには協力しなければいけないのやら。
これは、わたしは急激な変化に着いていけない老人の類に足を突っ込んでいるのだろう。

海外に出ていかなくても、向こうからやってくることは、不思議でもあり、恐怖でもある。
黒船来航、いやでござんす(1853)ペリーさん。
開かれた日本は、明治維新以来??
良いことばかりではないが、お金を落としていってくれるなら、仕方ないか、、、と、やたら消極的、非協力的、ペシミストである、保守的田舎モンのわたし。
遠慮なくドカドカ大量に、というのが、わたしは苦手なのだ。
ヒト、モノ、情報のボーダレス移動、国際化。
グローバル化の波の到来が謳われたのはもう何十年も前。30年前?50年前?
あれから随分時が経っている。
賃金の高い外国に日本から若者が出稼ぎに行く時代になっている。
円の弱さを実感する。
とは言うものの、急激に世界舞台にのし上がった日本だったが、明治の前、江戸時代のように、今よりずっと少ない人口で、細々やって行けたらよいかな、などと思ったりする。

地球温暖化は、先進国の責任が重いと言われている。
電力に過度に頼らず、自然エネルギーの力を借りながら暮らせるようになりたいのが、わたしの理想。(無理を承知で書く)
もうここまで来れば、エアコンの力を借りなければ生活出来ないのだろうけれど、「我慢せずにエアコンをつけて涼しい部屋でお過ごしください」とTVでは呼びかけるばかり。
対症療法ではなく、根本治療が必要だ。
が、太陽や雨量を調節したり、天候を変えるわけなはいかない。
「自然」と「人間」。
攻防の知恵が必要だ。

というか、平均寿命が伸びているのは、嬉しい幸せなことではあるが、そうとばかりは言っていられない側面もある。
だがしかし、政治家や学者は、発言を一部分だけ切り取られて報道されることがあるため、誤解を受け糾弾される場合がある。
公人は、発言には十分注意しなければならない。
大変だ。



アプリが動きません

2024-07-27 | ブログ

いらいらいらいら。

gooアプリがビクリとも動かない。

でーんと、聳え立つ大門が封鎖され開かない(かんじ)。

「アプリが作動しない時はこうしましょう」というWEB情報を参考にして、あちこち方面から、トライしてみる。

しーん。ムダ。だめ。開かない。

で、仕方ないから、スマートホン版からではない、パソコン版から入って入力している。

ただし、スマホ画面でのパソコン版。

なぜか、文字入力すると、一行ずつ、行間が空いて困る。

どうやって、行間を詰めるのか、試行錯誤するのがメンドクサイので、今はとりあえずは一行空き間隔で行く。

わたしの甘い詰めによると、アプリ版はそのうち時間が経てば復旧するはず。

にしても全くその兆しを見せない、gooアプリ画面。

このままでは、とても困る。

突然、足を骨折した人の日常生活のような感じだ。

今日、明日、復旧しなかったら、明日の夜、娘婿にSOSを出して泣きつく予定。

なるべく迷惑はかけたくないのだが、出来る範囲で頑張ってみる。

もし、明日の蝶ブログ更新記事も一行空きだったら、頑張ったものの復旧トライを放り出して諦めたと思ってください。

それにしても骨折すると、シャワーもろくすっぽ浴びれなくて、不便だ。

 

(※注)

アプリが動かないことを「骨折」に例えています。

と、説明を加える、このダサさ。


女同士の戦い

2024-07-26 | 人生
あるブロガーさん。40代、専業主婦。
子供一人。
今月、初めてブログを読んだ時には文章に引き込まれて、結構、はまっていた。
わたしの娘世代である彼女の、何がわたしの琴線に触れたのかと考えてみた、、、。

彼女は田舎で生まれ育ち大学は都会へ(たぶん東京「の」大学)。
大学で知り合った、同級生、A子さんの話が興味深かった。
田舎モンであるブロガーさんは、都会モンのA子さんの全てが眩しかった。
お金持ちで自宅通学、おしゃれで遊び上手、自然体で男性に取り入るのがうまいA子さん。
遊び慣れていない、田舎の親からの仕送りで細々生活するダサいブロガーさんとは天と地の差。
コンパでもA子さんに、男子からの人気をみんな持って行かれた。
A子さんは、中高大と一貫教育のお嬢さん学校出身だったが、そのままお嬢さん大学に進学するのに抵抗を覚えて、普通の大学に進学し、ブロガーさんとそこで出逢った。

なんでこんなに違うのか、、、と、差をつけられ、ヤキモキしていたブロガーさんだったが、年齢を重ね、女性の魅力を十分活かせなくなってきたA子さんは、結婚に2度失敗する。
その一方で、ブロガーさんは夫のヨーロッパ赴任に(短期)同行し、子供も授かる。
差が開いてくるわけだ。

A子さんの女性的魅力は時間制限があることを予め知って、期限切れの後も活動できるように備えるべきだったと、ブロガーさんは考察を加える。
そもそもエスカレーター式お嬢様学校が嫌で飛び出したのだから、その時点でお嬢様ではないコース変更の舵を切るべきだった。
実家がお金持ち、地元に持ち家有りなので、結婚しなくてもやっていける、受け皿があるから、そうアクセクしなかったのはよくわかる。
切羽詰まらないと人間はやる気を起こさないのは常。

しかし、勝負を結婚に求めなくてもよいのに、なぜ、結婚を勝った負けたの判定基準にするのか??
お嬢様学校から出た時点で結婚が勝負ではないと気づくべきだったが、何しろ家がお金持ちでは、、、まあ仕方ないか。
茹でガエルの法則。

ではあるものの、自分が得意とする「若い女性の魅力」分野がどんどん下落して行っても、家まで没落しないのでは?
仮に家業が倒産したとしても、、、その時からアタフタして(必要に駆られて)頑張るのも一つの道。
実家が経済的に保たれていれば、親の介護や家の維持など、A子さんの肩にかかる。
経済的に苦しくなれば、実家を売ればよい。
A子さんは、そんなに嘆く必要はないと思うし、プロガーさんも、そこまで、まるで脱落者に対する哀れみの目をもって、気の毒がらなくてもよい。
ある意味、ブロガーさんは、女としての勝負に勝った!!と、悪い気はしていないのでは?
わたしは、そこに、小さなナニかを感じる。
負けていたけれど、逆転した!!
爽やかな勝利感。
勝利の美酒に酔っている?

そんなふうに見るのは、実にイジワルな女ごころかも?
だが、勝ったも負けたもないはず。
なのに、そう感じるのはなぜ?
女を磨き、結婚。美容やファッション。
ついでに、それだけじゃないのよ、とばかりに興味ある分野を掘り下げ、知性も磨く。
だが、知性も趣味範囲、アクセサリーのようなものだ。
(なぜそう思ったかと言うと、、、ブロガーさんが、本を読まない人に対して軽蔑しているような、自分が上であるような優越感?自負を感じたから
だが、なんだか努力の仕方が違う、方向性が違うような気がする。
といっても、単にわたしとベクトルが違うだけであり、どちらが正しいだとか、そんなものはない。

今からまだ人生、後半がある。
実社会との関わりは続く。
前半で鼻差で勝ったの負けたの騒いでいても、その後、どうなのか。
それからこそが、注視したいところである。

言っておきます。 
長いです。
老後。

じゃあ、蝶ブロガーさん、あなたはどうなの?
いいの、いいの、わたしは、場外から透明人間になって試合を眺めるだけ。
一緒に試合に参加する気は、さらさらない。
「それ、卑怯ですよね?」
「はい、じゃあ、そういうあなたは?
というか、あなた、だれ?」

田舎だの都会だの、オシャレだのダサいの、お金持ちだのそうでないの、
もしそれが老後の何かにカタチとして現れるなら、例えば、豪華客船クルージングあたり?
だがしかし、わたしは、豪華客船には興味がない。
世間から離れて「ゴージャスな体験」を一度してみたいのならいざ知らず、外側の見た目にこだわるのは、いかにも薄っぺらい。
お好きな人にはたまらないのだろうけれど。
嗜好は人それぞれ。
誰しも人の嗜好に口出しする権利も、口出しされることもない。
(犯罪はダメ)
(崩壊につながる嗜好だったとすると、ご本人が考えるとよい)

今のわたしが興味あるのは、涼しい山の中で拘りコーヒー焙煎豆を使ったカフェを開いている人だとか、(先日、よく行くブログで紹介されていたブロガーさん)
嗜好スタンスが生き方として実現している場合。
自分には出来ないから、遠くから憧れる。
1日も長く営業していただきたいが、健康問題もあるし、思い通りに行くとは限らない。
遥か彼方から応援するのみである。

暑い夏休み

2024-07-25 | 日々のこと
平日の、ものすごく楽しみにしている時間、、、それは、NHK朝ドラ、「虎に翼」。
今まで2回、うっかりして見逃したことがある。
(見始めたのはスタートしてから2ヶ月遅れだったものの)
1回は、朝のゴミに出そうと草引きしていて、すっかり8:00を過ぎたことを忘れていた。 
2回は、国民的休日(海の日)のため、平日ではないお休み気分で朝ドラの存在がアタマから飛んでいた。
それ以来、7:30頃からNHKテレビをつけ(見るわけではなく、つけるだけだが)スタンバイ。
しかも7:45頃からテレビの前に座り、始まるまでの時間、気分を盛り上げる。
始まると、没頭。
必ずといっていいほど、見る度に涙。
(今日など、涙が止まらない)

それだけ全身全霊、朝ドラ「虎に翼」にゾッコンの幸せ者のわたし、、、なのだが、、、。

小学校は夏休みも始まり、昨日に孫を預かってほしいと娘の要請を受けた。
娘夫婦ともに、出勤。
先週金曜日の孫守りも打診されたが、わたしには予定があり、予定優先、子守見送り円満解決。
とは言え、後ろ髪を引かれていた。
それもあり、昨日は快く引き受けたのだが。

さあ、朝のわたしの翼虎黄金タイムだ!と、TVにかじりついていた。
まさか、こんな朝ドラタイムには来ないだろうと、たかを括っていた。
8:15以後ならまあよいか、などと、ぼんやり思っていたが、、、
まだ始まって2分しか経ってないのに、玄関からピンポ〜ンの音。
ぎょ。
早すぎる。
しかたなく、玄関に行って3人を迎えた、、、が、また続きを見た。
すると、3番目(小1女児)孫が、「ばあちゃん、これ見て。家から来るまでの道で録画したの」と子供用カメラ画像を見せてくれる。

「あらまあ、そう。
また後で見せてね」
と、わたし。

孫「ばあちゃん。こっち向いて。ほら、こんな撮影も出来るのよ」
わたし「ほんと。後で見るわ」

孫「ばあちゃん、画像をこんなふうに変えられるんよ」
わたし「ごめん。8時15分になったら見るから」

孫「ばあちゃん、ばあちゃん、ばあちゃん」
わたし「悪い。これ、終わるまで見させて」

ドラマの内容が、気が散って頭に入らない。
が、まあしかたない。
15分になったら終わるのだから辛抱してもらおう、先は長いのだから。
と、朝ドラマが終わってからは、罪滅ぼしと言わんがばかりに、3番目孫相手に頑張ってお相手をした。
しばらくは、カメラで遊んでいたが、まあ1日、長かった、、、。
にいちゃんたち兄弟(小6と小4)は、途中でいつものごとく、ケンカをし始めて、弟は、キーキーいうし。
エアコンはあまり効かないぐらいの熱気。

子供たち、途中で気分転換に散歩に行かせるといいよ、と、娘からアドバイスもらったが、この暑いのに散歩する気にはとてもならない。
「ばあちゃんも行こう」というのを、小1女児孫に「子供だけで行ったらどう?」と提案したら、一生懸命、家からの行き先、道順を地図にして描いていた。
にいちゃんたち声をかけると、アイス買いに行くなら即、オッケー。
その地図を玄関に放り出して、にいちゃんたちとコンビニまでアイスを買いに出かけた。
やれやれ、、、アイスで、うまいこと言いくるめられたようだ。
これも娘からの入れ知恵。

少し曇ってきたこともあり、午後4時から雨という天気予報だったので家にある折り畳み傘を持たせたが、小1女児は「(そんな地味な傘ではなくて)かわいい傘がいい!」と、メンドクサイことを言う。
仕方ないから、次女が置いて行った、パリ風オシャレガールっぽい傘を持たせた。
「オバちゃんの傘だから、どこかに忘れてこないでね」と念押し。うるさい、おばば。

18:30には保育所に4番目孫をお迎えに行き、全員に夕食を食べさせて、長い長い1日が終わる予定だった。
が、夕方に、娘婿からLINEが入り、お迎えは彼が行き、そのまま帰りに3人を連れて帰る、とのこと。
飛び上がらんばかりに喜んだのは言うまでもない。
ああ嬉しい。 
この(贅沢な??)喜びは孫守りをした人にしかわからないだろう。

とかなんとか。
早朝からではないものの、、、
今日もまたもや、孫軍団が来る予定になっている。
冷茶給仕係、プラス、食堂係、プラス、小1遊び担当係である。







人と比べる人

2024-07-23 | 人々の風景
人と比較して得るものは何?

自分だけヘンなのではないか、TPOに合っていない恥ずかしい行動なのではないか、悪目立ちしてないか、、、
ちらちら周りを見て様子を伺う。
わたしは、悪目立ちが一番嫌なのだ。避けたい。
目立つとロクなことはない。

日本では同調が求められ、少し個性的なことをすると目立つ。
それは、ユニーク天然系であるわたしには苦手なのだ。
みんなが知らないところで、思いっきり自分らしいことをのびのび行う。
見られたくない。知られたくない。
(その隠したものが、蝶ブログとなって現れるようだ)
たんなる内向的性格。

それはそれとして。

出る杭は打たれる。
「出過ぎる杭は打たれない」と、あるタレントが言っていた。
そのタレントが出過ぎているようにも思えなかったが、一般人と比べると出過ぎているのかも知れない。
タレントさん自身が自分で言っているあたりが、自分は出過ぎるほど突き抜けているという自負があるのだろう。
どこらへんが?と、ちょっと首を傾げる。
私的内面やプライバシーまで知らないから、わたしの知らないところでは出過ぎているのかも?
何しろわたしは、人物事典に載っているような有名人、偉人しか知らないので。

ちなみに。
今、子供向きの世界史漫画を読んでいる。
ハードカバーの表紙の裏側には、ラスコー洞窟の牛の壁画。
昔、わたしが自分の子供のために買った教養漫画で、まだ第1巻なのだが。
このハードカバーの漫画と解説、なかなか読み進められない。
なぜかというと、人類がやっと登場してきて面白くなりそうだと期待しているのに、まだまだ延々と紀元前が続く。
いつまでも紀元前。
しかもほとんどが、戦争。 
国を築いたり滅ぼしたり滅ぼされたり、占領したり占領されたり。
ギリシャだのローマだの、知っている地名がどんどん出てくるのは良いが、歴史って、戦争の繋がりなんだと、感じた。

とりあえず、戦争以外の展開が早く出てこないかしらと期待しながら読み続けている。
もしわたしが小学生なら、歴史の成績はゼロ点、間違いなしだ。
だが、ひとことコメント、感想を書いて、零点は免れるかも知れない。
なぜなら、点数をつける小学校の先生より、わたしのほうが人生時間が長いから。
それに感想には、点数を付けられないし。

とかなんとか。
話を元に戻す。
わたしは、人と比べるのではなく、時系列で自分と比べるとことのほうが恐怖だ。
過去、現在、未来。
人より優れていようが劣っていようが、幸せであろうがなかろうが、同じ時は続かない。
必ず変化する。
仏教でいうところの「無常」。
仮に、人と比べて自分が幸せだったとしても、将来もそうである保証はない。
まだわからない未知なことに対して怯えるのも馬鹿らしいから、自分で楽天的にどんと構える。
自分が幸せの絶頂期であっても、絶頂期は続かないので必ず下降する。
その時に人にどう思われるか。

そもそも他人や世間とは、、、自分が作り上げた自分のこころを映す鏡である。
他人がハッキリ口に出してイヤミを言って石でも投げられたなら、適切な場に出て訴えることも出来る。
インターネットで誹謗中傷されたり、発表したものをこき下ろされたりしたら、、、必ず、そういうことをする人は世の中にいるので、嫌ならブロックするとよい。
意見には賛否両論ある。
が、ネット上での評判が良いと喜び、悪いと悲しむ、、、のは当たり前だが、良いことだけを聞くのでは片手落ちだ。
精神衛生上、良いことしか聞かない人もいるが。
両方聞くか、両方聞かないか。どっちかにするとよい。
名も名乗らず一方的に暗闇の中から攻撃してくる人に対しては防衛のしようがない。
「同じ土俵に立たないこと!」と、「虎に翼」の寅ちゃんも言っていた。

わたしは、熊に遭遇した時と同じ行動をする。
目を合わさず、寝たふりをして相手を刺激せず、静かに静かに後退り。
熊は木にも登るため、警戒しても警戒し過ぎることはない。
熊には逆らわないこと。
かといって、どうぞ!と、柿を差し出すのはよくない。

話がなんだか逸れている。
人と比べるのではなく、参考にする。
ああなるには、どうしたらよいか、
ああならないには、どうしたらよいか、
人の振り見て我が振り直す。
人は外を歩く参考書みたいなものか。

人の幸せを妬むのは、自分が不幸だから。
自分より更に不幸な人を見て、自分を慰めることはある。
そういう話、先週土曜日(大阪、FM802では18:00)ラジオの「真実(ほんとう)の物語」(ナビゲーター・朗読/オダギリジョー)で聞いた。
不幸な子供が、自分より更に不幸な子供にイジワルする話だった。

子供でなくても大人になっても、そういう人はいる。
幸せな人も不幸な人も、不幸な人の攻撃ターゲットになるのであれば、どうしようもない。

は、、、と、今、気づいたが、今朝の記事、えらく長くなっていて、びっくり。
文字数がやたら多い。
そんなに口に泡を飛ばして熱心に言いたいことだったわけでもないのに不思議だ。

最後に。
東海道新幹線、復旧されて、やれやれ。
本来なら今は、東京にいるはずなのに。



未完、半日の旅

2024-07-22 | 日々のこと
朝、5:30起きで8時台の新幹線に乗る予定で新大阪に向かった。 
指定席は事前に購入していた。
が、保守作業用車両の衝突事故ため、名古屋、東京間は運休。
新大阪駅、新幹線入り口前は、足止めされた客でごった返していた。
名古屋まで行けてもその先は行けない。
名古屋で延々と待ってもなあ、、、と、悩んでいた。
JRの若い女性社員に、もうすぐ発車時間が来る指定席をどうすればよいか、聞くことにした。
が、前の人が延々と質問して、すぐ後ろにいるわたしの順番がなかなか来ない。
アナウンスや大声での説明や、大勢の人がごった返す中、若いJR女性はマスク越しにゴニョゴニョ話す声が聞き取りにくい。 
何度、耳に手を当てて、聞こえないおばあさんの仕草、風体をしたことか。
夫が耳の聞こえが悪いため、日頃、TVの大音量被害にわたしは遭っているせいで、耳が悪いことに対して憎悪していたが、自分も耳の悪いおばあさんそのものになっている。
「え?え?なんですって?
聞こえない。
もう一度、言って!」
と、わたしも必死である。
耳の遠い年寄りであろうがなんでもよい。
あんなに聞こえないと思ったのは初めてだ。
周りの大騒音と、女性のマスクの小さな声。
最悪。
自分の耳の聞こえが悪いせいとは思えなかった。
自分の耳ではなく、自分以外のせいにする、ついに典型的老人の仲間入りである。

何度も何度も聞き直して、やっとわかったのは、今行っても、後から行っても、名古屋までしか行けないということ。
急いでいるなら購入済み座席指定の電車に乗ってもよいが、払い戻しは、名古屋ですると払い戻される金額が安くなるということ。
新大阪で払い戻したほうが金額的には良いと思われる。
ちなみに、思うに、わたしの耳が悪いのではなく、理解力が悪いようだ。
ああ、自分はお年寄りの仲間入りを実感する。
こういうことでもないと、なかなか実感する機会には遭遇しない。

待ち合わせは東京駅11:30。
絶対に間に合わない。
待ち合わせている相手にLINEする。
運転再開は早くとも午後0時になるとのことだったので、行動予定時間を後ろにずらして計画変更にしようかと提案してもらい、検討していた。 
キャンセルするか、決行するか。
頑張って行くことにした。
ではあるが、おそらく東京まで電車は立ちっぱなしなんだろうなあ、、、と想像して疲れがどっと押し寄せた。
東京に着くまでに体力を消耗してしまう。
東京に着いてからが本腰なのに。
東京では2両日、目一杯、充実のダンスプラン。
気合いで自分にハッパをかけて行くのはよいが、アドレナリンが背中を押す強行軍に、後にぐったり疲れの後遺症が残るかも知れないと不安にもなっていた。
というか、どうやればいい?
座席指定切符を払い戻して、また買うのか?
払い戻しのお客さんは長蛇の列。

が、アナウンスがまた流れ、再開は更に遅れて夕方になるとか。
夕方どころか、復旧の見込みは今日は立ってないとのこと。
そりゃあかん、と、今日の東京行きはキャンセルしよう!と引き返すことにした。
ああ、残念。
というか、行くまでに何ヶ月も前からワクワクしたり、手土産を買ったり、準備に追われて行く前から、特に前日の夜には既に疲れていた。

帰ると決め、下り在来線へ。
行きは当然、ラッシュアワーで満員電車、帰りも新大阪駅から電車に乗ろうとしたら満員で乗れず、一本見送った。
都心を抜け自宅に向かう電車は、スカスカ。エアコンもきいて、気持ちよかった。
だが、バス停から自宅まで、日傘を差してもアスファルト照り返しがきつい、灼熱の太陽に身がジリジリ焦げるような暑さだった。

6:55に家を出て、11:30に帰宅した。
半日の新大阪駅までの旅。
慌ただしい、不思議な旅だった。
でも、頑張り過ぎて後日、疲れが後からやってくる時間差疲労を未然に防げてよかった。
無理は禁物。
キャンセルして肩の荷が降りた、一番の安堵原因は、荷物が重かったこと。
この重い荷物と2日間も行動を共にするのかと思うと、不安でもあり、どっと疲れた。
今度は荷物対策を考えよう。

帰宅してやれやれ。
家のエアコンが効いた部屋でアイスクリームを食べたりコーヒーを飲んだり、これはこれで至福の時間だとしみじみ感じた。

休日は嫌いだ

2024-07-21 | 暮らし
わたしは、旅行記は、読む側。
書かない。面倒なので。
誰かが書いたブログを写真と共に眺める。
つい最近行った場所だったりすると、全く同じコースで、おさらい、復習になって良い。
地理や交通機関、地元歴史背景など、記事の記述が正確でなければならないため、文責を考えると、サボりなわたしは、どうも後退りする。
ただし、撮った写真はブログに記事内容とは無関係に使う。
関係ないイメージイラストみたいなものだ。
真面目にやり過ぎると、気分屋お遊びブログは続かない。

で、いつも読みに行く高齢ブロガーさんの、さらっとした旅日記を拝読して、ひと休み。
それとはまた別の、若いブロガーさんのかなり癖がある、こだわりのオリジナル旅は、読み応えがある。 
最近は旅はひと段落して、博物館の解説が続くが、ざざざーさささーっと目を通す。
さらに、記者目線の別のブロガーさん独自の足で見つけた、新規開拓地ではトレンドが予見できて楽しい。

読むのは楽でよい。何の責任もない。跡が残らない。
書くのも何の責任もないのだが、自分の記事が残るから、あまりにヒドいと、後で自分で恥ずかしい思いをする。
たいして校正しないので、その場でアタマに浮かんだことを書きっぱなしのことがほとんどだし。

ちなみに、、、
連日、猛暑が続くが、「エアコンをつけた涼しい部屋でお過ごしください」とテレビでは毎日、言っている。
「夜通し、エアコンを消さずにお願いします」
とも。
さて、今日は仕事オフ、日曜日で家に居る夫。
(休日はゴルフに行ってくれると大変よろしいのだが)
わたしが居る部屋(ダイニング)の室温が30度を越えると、エアコンをつけろとうるさい。
扇風機や時折、通り抜ける風で十分だ。
が、「高齢者はそうやってエアコンをつけないで倒れるんだ」と、まあうるさいこと。
30度なんて、たいしたことはない。
汗が出ることの、何が悪い?
日本中の各家庭のエアコン稼働を全国民に推奨して益々、地球温暖化が高まる。
負のスパイラル。
どこがSDGsなワケ?

夫はダイニングと仕切り一枚隔てたリビングルームで、エアコンをつけ、カナダ。
仕切り一枚、こちら、ダイニングは、インド。
それなら、リビングルーム・カナダに二人で居たら良いではないか。
イヤなのだ、わたしは。
夫と同じ部屋で、大嫌いなTV番組が。

だが、正午になり益々太陽は高く上がってくるとダイニング・インドの室温は高まる。
絶対に夫は何か言ってくる。

地球温暖化防止対策のために夫と同室か、はたまた、ダイニングはインドのまま、諍いを起こすか、それとも、穏便に、地球温暖化対策に背を向けて、ダイニングもエアコンを付けて、続き2部屋ともカナダにするか。
へんに選択肢があるために、しなくてもよいバトルをしている。

エアコンのない、テレビがある1部屋しかないなら、どうなる?
(今時、エアコンがない部屋はあるのか?
いや、エアコンのない部屋に住む人を一人、知っている)
バトルの内容が変わって来る。
テレビを消せ、消すな、おまえが出て行け、アンタが出て行け、、、
モノが飛んでくるか、刃物が飛んでくるか、、、
鬼の形相か、能面のようにのっぺりした感情のない顔になっているか、、、はたまた、、、

と、苦悩のブログを書いていて、ふと。
仕切りの扉を少しスライドして、リビング・カナダの冷気を、ダイニング・インドに流せば良いのではないかと思いついた。
ブログは、家庭の諍いを減らし、地球を救う。
壮大だ。

なんて書くと、皆さんからの冷た〜い視線を勝手に感じるわたし。







素晴らしい人

2024-07-20 | 映画
わたしとほぼほぼ同年代(年齢誤差1歳ぐらい)の女性たちのSNS日記を読んだ。
わたしとはほとんど同じ歳なのに、なんとわたしの意識の遅れていることか。
強く強く感じた。時代遅れ。
彼女たち(わたし)は、「虎に翼」時代が親世代、その一世代後から活動している、、、。
先人たち女性の不遇時代の後に、我々の時代がある。
バリバリに男性と肩を並べて社会で働く、わたしと同世代の彼女たちは、夫婦別姓が認められないのは日本ぐらいだと嘆いておられる。
バリバリにも色々ある。
わたしが想像するところの、本当のバリバリである。

優秀な男性と同じレベル、あるいはそれより優秀な彼女たち。
彼女たちの大半はリタイアされているが、リタイア後の生活がまた凄い。
バリバリ現役の活動があってこそのもの。

わたしと同じであるところは、年齢だけ。
まったく、年齢だけ。
ため息が出るが、年は同じでも、そりゃあ個性が違うのは当たり前、、、にしても。
わたしがこれまで書いてきた蝶ブログがとても恥ずかしくなった。
自分を否定するわけではないが、個性の違いだと片付けられない思いが湧き起こった。
それまで堂々と誇らしげに出していたものを静々と引き下げるような、、、。

だが、そんなことを言うと、わたしの次女がわたしに先日、放った言葉を思い出す。
「社会にはいろんな集団・層がある」

人々には様々な色々な活躍があるが、どうしても、わたしが義務教育中に学校で植え付けられた価値観が根っこのところから消えない。
偏差値教育の弊害を引きずっている。
それを乗り越えられない自分は、未熟なまま老いていくのだろう。
柔軟なものの見方から程遠い、凝り固まり。

優秀な男性たちは尊敬する。
それ以上に優秀な女性たちもいて、しかも、同世代!
まったく別の集団であるものの、子供の時から一緒に成長していく過程で、能力に応じてコースが分かれて行った。

これがアスリートだったら、また同じような思いを抱くのだろう。
わたしは、全くアスリートではなかったし、アスリートコースの人たちは周りにいなかったので、何も複雑な思いは感じず、ただただ純粋に、自分とは切り離された人として応援する。


話を戻す。
同世代の彼女たち、優秀なのは頭脳だけではない。
行動力がスゴイ。
自分の能力で得た行動力、お金。
突き抜けた能力、バイタリティ。
わたしのように、同世代であるにもかかわらず、「寄れば大樹の陰」スタンス、人の力で安泰を得て、人の後ろから着いて行くタイプではない。
性格も違うのだろうけれど、やはり能力の違いだと思う。
わたしは、優秀な男性や優秀な女性ではないから、同じ集団にはいないものの。

仕事はリタイアされ、自由な身になっている皆さんの中には、到底、入っていけない。
やはり実力や熱量が同じぐらいでないと、わたしはふにゃふにゃと溶けてしまう。
あんなバリバリの人々とは元来持って生まれたものが違うように思う。
彼女たちは健康優良児で、わたしは虚弱体質。
(本当は弱いのは身体ではなく、頭と精神で、根性なしのナマケモノ)

天性の素養にプラスして、努力して能力を磨き、自分の力だけで、稼げる素晴らしさ。
女性枠の優待座席もなく、頼れるものは、自分の能力だけ。そのバイタリティたるや、、、。
優待枠にあぐらをかいているわたしには、逆さになってもマネできない。
同世代だけど。
最近は電車の優待座席にいち早く駆けつけ、堂々と座っている。
早く行かないと、若者に席を取られてしまうから、高齢者と言えど、見るからに弱々しくないと座席は自力で手に入れなければならない。

と、話は逸れている。
逸れついでに、、、。
草笛光子90歳生誕記念映画、
佐藤愛子、人気エッセイの映画化作品「九十歳。何がめでたい」を観た。
「キングダム 大将軍の帰還」に多くのスクリーン会場を奪われ、1日1回、(しかも午前開場)しか上映されていないにも関わらず、お客さんの入りは良かった。
なんと、(わたしを含め)おばあさんばっかり。
わたしが最年少客かも知れない。
おばあさんは元気だ。
唐沢寿明、痛烈で、明るく面白かった。
三谷幸喜が出ていたので、彼が監督、脚本かと思ったが、そうではなかった。
90歳の草笛光子が演じる90歳役は、まさに実物大と言える。
わたしの姑は、高齢だからと、周りは老いに対して腫れ物に触るように扱い、姑自身も歳を意識して慎重に生活していたが、まだまだ荒っぽく大胆に自分を扱ってもよかったのでは、、、高齢特別優待枠を自分で設けて大切にするあまり、自分を甘やかしすぎて、かえって早めに弱ってしまったのだと思った。
が、転倒して骨折でもすると、年齢がどうこう言えない事態になる。

しかしまあ世の中には、元気なお年寄りもいるものだ。
それは、他人事、わたしとは別もの、、、などと、自分に対しては、きっと自分で自分を過保護にしそうだ。
自分で年齢枠を勝手に設けるようだが、もっと自由に解放して、過保護年齢はもう少し上でもよいのでは、と思った。
が、個人差があるからなんとも言えない。