蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ムラ

2014-05-31 | わたし
急に暑くなってきた。
今年の夏も、暑いのか・・・
すっと涼しい風が肌に当たると、さわやか~な快感。

などと、どうでもいい書き出しは、さておき。

絶好調と絶不調の間を行ったり来たりしている。
いわゆる、ムラ。わたしは、ムラがある。
気分屋さんのようだ。

このムラには、泣かされる。
自分ではコントロールロできないので、自分が自分に翻弄される。
わたしと同じ波長を持つ人は、そのムラのある波に振り回され、その波をまた、わたしがかぶり、
洗濯機の中で強流モードで、ごぉ~っと、ぐるぐるされるかのごとく、
いっしょに、ぐちゃぐちゃになる。

が、大抵は、自分と同じ波の人は、そうそういないので、気にすることはない。
巻き込まれそうになると、自分で気をつけ対処法を見つけ、身に付けると、どおってことはない。


ここで言う、ムラとは、・・・いい時と、悪い時があるのだ。
差が激しい。
これは、気分が良かったり悪かったりという気分屋ではなく、
好調だったり、不調だったり、の、ムラ。

このムラに振り回されると、しんどい。
まあ、たいがいの人には経験があることだろう。


下の娘にもムラがある。
波の高い時に、たまたまヒットして、実力以上の場所に乗っかってしまうのだが、
その後、それらが彼女を苦しめる。
余裕のある場所に、余力だらけで身を置いていれば楽なのだが。
ムラの波の、一番高いところに来た時が、要所要所で、運命の分かれ道になっている。
なのでかどうかは知らないが、休日は、死んだように寝ている。

わたしは、どちらかというと、波の低いところで、分岐点が来ることが多いように思う。
なので、余力どころか、実力をほとんど出していないので、楽で楽でしかたない。
が、ムラの波の高いほうが、時折やってきて、わたしに揺さぶりをかける。

波の高いほうを学生時代は、先生に指摘され、
「キミはやればできるのに、さぼっている」と、よく怒られたものだ。
いや、できないんです。ムラがあるんです。
それを「さぼっている」と、世間では言うようだ。

どちらかといえば、真ん中が無いような気もする。
躁鬱気味?
メリハリ?
アップダウンに悩まされる・・・と言いつつ、根が天然なせいで、
じっさいのところ、ちっとも悩んでいない。

わ~、わたしって、やったらできるんだ~と、無責任にテンションが上がるのみ。
そこで、放置。

しかし、あとのフォローが大変だ。
あとは、きっちり目の細かいところを細々と努力して、埋めていかなければいけない。
継続は力なり。

なんかよくわからないが、
ぱっと一発花火は上がらないってことだ。


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残りの人生

2014-05-28 | 人生
あるSNSで見かけた方々。(もちろん、面識はありません)

一心不乱に働き、家も建て、子供たちも立派に育て、奥さんとも仲良し。
愛と成功に満ちた家庭と人生。
この男性、60歳を超えて、ふと、カミングアウトしたくなったそうだ。
自分が好きなのは、オトコであると。
これまでの積み重ねはどうなる? 築きあげたものは?
子供たちは社会的にもハイポジションにいる。
いまさら、オトコが好きだ、なんて言って、どうする?
でも今まで一生懸命やってきたのだ。
これからの人生、限られた残された時間を自分らしく生きていきたい。
しかし、どうしたものか。
自分の胸の中だけに閉まっておいたほうがいいか・・・。
悩める若きオジイチャン、ジェントルマン・シニアである。


また、ある50代後半女性。
これまで、知性と教養で生きてきた。
女性的魅力をアピールするのは、良くないことだと信じ、オンナを封印して、おしゃれもしなかった。
一生懸命、フルタイムで働いてきた。
子供も育て、夫はすでにリタイア。
あとほんの数年後に迎える定年を目前に、目覚めた。
残された人生を自分の理想どおりに生きたい。
これからは、オンナとしての喜びを存分に楽しもうと。
悪い女になって、遊ぶんだそうだ。悪女志願。
いままでの封印していた鬱憤が、一気に噴出した。
贅沢で享楽的で、オンナを武器にした遊び・・・刹那的に生きたいそうな。
ただし、定年後の話。
ぱぱっとお金を一気に使いたいそうな。


60歳でオンナを武器に・・・その年齢で、どのあたりまで武器にできるのか、定かでないが、
遊ぶつもりが遊ばれ、お金をむしり取られたり、へんな男性に引っかかり騙されないように願うばかりだ。
悪人、悪質ではないにしても、
善良で時間を持て余し、でもお金がないので若い女性やお金のかかる女性が相手してくれない、
欲求不満のおじいちゃんが寄ってきて、そういう人たちと遊んでも、面白いかどうか、
そのあたりは、うかがい知りませんが。
需要と供給がマッチすると、うまくまわっていくのかも知れないが。

オンナであることを十分に満喫できなかった女性が、女性としての最終章を迎え、
その時期に狂い咲きする、と、あるプレーボーイ氏が言っていた。
ひとつの特徴ある現象なのかも知れない。

・・・

自分らしく、今までは、社会的役割や枠組みがあり、できなかったことを
残された人生、悔いのないよう、自分に正直に、やっておきたい。
そう思っておられる。

なるほど・・・。
できる範囲であれば実現されたらいいかと思うが、なにぶん、家族の了解やお金が必要なので、
自分ひとりの判断で独走してもいいのかどうかだ。
自分は納得できても、家庭が破綻し、家族が散り散りに離散したりしたら、
自分はそれでも楽しいか、どうかだ。
そのあたりは、それぞれの人の価値観によるものだろう。

今まで、頑張って、まともに来た人生だけに、揺り戻し的な反動が大きいのだろう。
溜まってるのものが、堰を切ったようにどどっと出ると、すごい勢いがある。
お二方、どうされるのかは存じないが、それぞれに後悔のないように過ごしていただきたいものだ。


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現実

2014-05-27 | 日々のこと
さて、今日は暑い日になるそうな。

いきなり「さて」から始まってしまっている。

今日は、なにも書く気がしないので。

そもそも、わたしのブログ・スタンスは、ころころ変わりすぎている。

まあ、それはそれ。

自分が救われたらそれでよい。

一種の信仰のようなものだ。

いまのわたしにとって、一番大事なものはなにか?

それを考えてみる。

ブログネタとしては、一生続きそうで、終わりがなさそうだ。

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誰も自分のことなど見ていない。
どんな服装であろうが、靴がマッチしてなかろうが、ヘアスタイルが思い通りになっていなかろうが、
自分が気にしていることなど、世の中の誰一人として気にも留めていない。
そんなものである。

が、なかには、世の中の人々との関わりに不満を持ち、AKB48事件のような行動に出る人物もいるのだろう。
(動機は、明らかにされていないが、推測、推定)

自分が世の中にどのように関わるか。
自分次第であるが、うまくいかない人もいるだろう。
若くして人生のコースから外れてしまったような疎外感を感じる人もいるだろう。

世の中への関与へのきっかけや、とっかかり、それを見出せない人もいるだろう。
ネットの中だけでしか自分を発揮できない人や、存在感を示せない人もいるようだ。

リアルでの世界は、住みにくいのかも知れない。
趣味を持つとか、それ以前に、職を持つ、自立する、そして自分の家族を持つ、
そこまでいけるのは、普通のようで、普通ではない。
皆たいへんだけど、頑張っている。

趣味や生きがいは、その後、あるいは、平行して。
現実がうまくいかないと、そこで止まってしまって先に行けない。
とりあえず、現実を進めるために、理屈や理想はさておいて、頑張らなければ。

蛇足。
そういえば、かつて、職場の後輩で、新卒の男性が、
「職場での僕は、僕じゃないんです」と言っていた。
なるほど、とてもよくわかる。
ほんとうの自分は仕事外にあるのだ。それはそれで、いいではないか。
でも、職場の彼も、彼の一部なのだ。
彼はそれに気が付いていない。
社会の顔、仮面は必要。
一種の鎧、プロテクターのようなものか。
それを持てない人は、なんらかのバランスを崩すことがあるだろう。

その彼は、在職中にカノジョにも振られていたが、まあどうにかやっていっていることだろう。
(当時)20歳そこそこの若者だもの。

朝、目が覚めて、起き上がることができたら、どうにかなるのである。


スロー

2014-05-26 | 日々のこと
昨日は、寝たり起きたりの一日。
たまたま日曜日だったので、よかった。
外出しなければいけない日なら、相当、つらい。


昨日、ブログを書いているときだけは、一瞬、回復したように思えたが、
やはりそれは精神的なもので、ブログアップのあと、寝込んでいた。

ようやく、今朝からは、本調子。
週明けから、調子が戻ってやれやれだ。


・・・

話は変わるが、
わたしのアタマの中では、着々と断捨離が行われている。
これが脳内からあふれ出て、オーバーフロー洪水となった暁には、確実に着実に、
断捨離は敢行される予定である。

ただ、わたしのアタマは、人様のアタマに比べると、いささか、柔軟性、キャパシティが大きく、寛容で、
少々のことでは、破裂せず、へたすると、たいした変化もない場合もある。
断捨離の思いが、ぱんぱんになって溢れかえってもいいはずなのに、
いっこうに涼しい状態で、平素と変わらないことが考えられる。

なので、かなり強力なエネルギーを脳に送らなければならない。
たとえば、自分にペナルティを課すとか、
断捨離が行われないと、自分の寝る場所も確保できなくなるとか、
寒空の下、外に放り出されるとか、
はたまた、強制的に第三者の手によって、すべての品々が廃棄処分にされるとか。

ほとんどゴミみたいなものである。
ただ、愛着のあるゴミほど、やっかいなものはない。
ぜひ、残しておきたいものだけを厳密にチョイスして、
あとは、すべて捨てるなり、どこかに引き取ってもらうなりすればいい。
(ご親切な方が、その処理先をお教えくださったが、今のところ、まだ、大丈夫です)

大量の、「他人の目から見れば、たんなるゴミ」のなかに、
他人の目から見ても、たんなるゴミでないものも含まれている。
それは、ピックアップするのは、いとも簡単だ。
選別方法、基準がはっきりしているから。

最悪の場合、その、誰の目から見ても大事なもの、換金性のあるものだけを残して、
あとは、捨てたらいいのだ。
その前に、保留用として、箱を用意する。
捨ててもいいが、とりあえず、おいて置く。
おそらく、そんな箱を用意すると、不要なものを箱に詰めかえただけ、
そして、全部、おいて置く、ということになりそうだ。

わたしの知らない間に捨てておいてもらおうか。
しかし、くどくど、ぶつぶつ、ぐちぐちと、いつまでも不平不満、未練、愚痴を言いそうだ。
なら、ほんとうに、断捨離して空いたスペースが、どうしても必要に迫られた時、
その時が来るまで、不要物と暮らしてもいいのではないか、と、甘く自分にささやく、もうひとりの自分。

わたしは、モノが好きなので、どうしても、モノを集めたくなる。
コレクターである。
なので、捨てるのは、身を切る思いなのだ。
(収集するばかりで使わないから、新古品だらけ)
捨てること、モノとの離別で、ストレスが溜まるのなら、溜まらない方法を取るべきだ。
ということは、とりあえずは、脳内だけで断捨離を行い、なんらかの事情での決定的瞬間を迎えるまで、
脳のなかで、ゆっくり、のんびり断捨離を行うことにしよう。

わたしが、二度と自宅には戻らない施設に入るとか、片道切符の入院をするとか、そういう時、
換金性のあるものだけを残して、あとはすべて捨ててもらおう。
(といっても、意思表示しなくても、捨てられていることだろう)

予想に反して、片道切符の予定が、意外な神様のプレゼントの往復リターン切符で、自宅に戻ってきたとき、
がらーんとした我が家を見て、わたしは、どう思うか。
その時は、その時。
今とは違う状況、年齢、心身状態なので、それなりの順応性で対応することだろう。
あるいは、心電図では波動は上下しても、顔は無反応、無表情、こころの波は停止しているのかも。

・・・

いくら、ストックルームや大きな蔵がいくつもあっても、だめ。
どんどんモノを入れていくと、いずれパンクする。
捨てていかなければ、モノは増え続ける一方。
「とりあえず、入れておこう」の保留精神が、すべての元凶。

いくら高価な服でも、何年も袖を通していないものは、処分すべし、と、世間でよく言われている。
捨てられなければ、古着屋に持って行くとか、なんらかの方法はある。
そういう類の脳内シュミレーションは、どんどん行い、膨らんでくことを期待している。
行動の早い人なら、思い立ったその日に、もう行動を起こしていることだろう。
わたしの場合、脳内保留、醸造、醸成、じっくり脳内の樽の中で、寝かせてエネルギーを蓄えておかなければ、
なかなか行動に移れない。
スローである。

・・・

パリ行きも、脳内で何年も溜めて溜めて溜めて、一向に行動に移さなかったある日、
延々と「行きたい」という仮想の話を聞かされ続けていたリアル人から、
「いいかげんに、行ったら?」と言われた。
それで、背中を押された。

掃除もそう。
掃除しないと・・・と、延々とブログで書いていたら、「はやく掃除しなさい」と言われた。

孫サポートは、まだ「はやくサポートしなさい」とは言われていないものの、
「孫より、親の世話のほうが大事でしょ」と釘を刺された。
たまたま、孫のほうが、親の世話より時期的に先だったので、孫優先となった。

意気込んだ割には、たいしたことも出来ず、体調を崩した。
上娘からは、「疲れが出たのでは?」と、やさしい言葉をかけてもらった。
なんだか、それだけでも救われたような気になった。
元気な時ならまだしも、保育所で預かってくれない病気時だけのお泊り子守は、
自分では気づかなかったけれど、けっこう、大変だったのかも知れない。
自分はこういう時にしか役に立たないのだから、頑張らねば、と多少、無理をしたのかも知れない。

・・・

ブログで延々書いて、脳内の物質を変化させ、溜めるのが、わたしのエネルギー蓄積方法のようだ。

脳内からあふれ出し、行動に移して実践した後は、じつに、すっきり、爽快である。
ちゃっちゃと行動する人から見ると、この溜め期間の長さが、いらいらの原因になるのだろう。

なんてったって、わたし、スローですから。


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不調

2014-05-25 | 日々のこと
ブログを書く元気が、すっかりなくなってきている。
季節の変わり目のせいか、すこし体調を崩していて、しんどいからだ。
やはり、病は気からと言うが、こころと体は一体化しているようだ。

健康は失ってはじめて、そのありがたみがわかるというが、まさにそのものだ。
普段は、まったく感じていない、健康であることの自覚。
健康を存分かみしめて感謝しなければ・・・。

わたしが病気になったら、ベビーの面倒を誰が見るのだ?
なので、なにがなんでも健康を維持しなければいけない。

・・・

ブログ・・・ここのところ、低調、低迷、士気もモチベーションも、閲覧数も、下がる一方。
疲れがどっと出て、さらに、トンネルの明かりが、向こうの遠くのほうに、さらに小さく小さくなっていくような気分になる。
そいういときは、無理をしないこと。
辛気臭い病気報告の内容のブログなど書かないで、自然の治癒力に体を委ねよう。


とはいうものの、気になる。自分の症状。
頭痛、喉痛、倦怠感・・・これは、・・・風邪なのか?
とりあえず、安静にじっとして、今日の前半は、ネット引きこもりでもしよう。

・・・

昨日のお出かけが影響したのか?
大勢の人々が一堂に会するところに顔を出したので、菌をもらってきたのか。
たしかに・・・多くの人々が、日本の東や西から、はるばるやって来て、
ごちゃっと、ひとつの空間に集っていたから、菌もうようよしていたことだろう。
ばい菌、雑菌、ウィルス・・・
そんなことを言っていたら、電車にも乗れない。
保育所など、まさに病原体の渦。いっぱい無数に散っていて、弱い小さい子は、もろにもらってくる。
それが親や、祖父母にも感染し、保育所開園シーズンは、一族、病気だらけ。

マスク、手洗い、うがい、こんな基本的で単純なことも、重要なことのように思える。
習慣化しないより、したほうが、自分の身を守る。
・・・と病気ネタが続いている・・・

しかしながら、ブログを書いていると、体調が悪いことを少しでも忘れられるような気がしている。
やはり、ブログは自分(のみ)を救う。


・・・

最近、哲学めいたことを書く気がしなくなった。
実生活に振り回されていると、哲学なんぞ、吹っ飛んでしまう。
なんの役にも立たない。
暇人の考えることなんだと、つくづく思う。
考えることがなくなると、いよいよ、「人間とは・・・」「生きるとは・・・」
などと考えてみたりして、暇をつぶすのだろう。

と書いていたら、なんだか、めきめき体調が良くなってきた。
うれしい。
とても、うれしい。
(偶然だとは思うが。一時的なものかも知れないが)
このまま、逃げ切って、体調を取り戻せたら、哲学様様かも。

やはり、人は、体が大事。こころと体。
大切に付き合っていきたいものだ。

(ぺろっと簡単に、やすっぽく〆ている感がある・・・気がする・・・が)

筆も絶不調なので、こんなもんであろう。


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孤高

2014-05-23 | 日々のこと
さあ、一方通行、出口のないブログ、今日もスタート。
時間制限があるのが、非常にせわしない。
なぜなら、またまたベビーが熱を出し、現在、引きこもり子守をいているので。
ベビーが寝ている、この一瞬に書ききらなければ、と焦る。
昨日、夕方からお呼び出し。
熱が出たので、保育所から、お迎えコールあり。
昨日に引き続き、ステイ保育。

一日中、ベビーとだけ向き合うと、長い長い長い。
ベビーといっても、二足歩行はするし、おサルぐらいの知恵はあるし、
口(食べるほう。まだ言語は話さない)はあるし、で、なかなか、手がかかる。

まあ、それはそれとして、寝ているときは天使ではあるが、
やはり、谷間にかかる桟橋を、走り渡るそのすぐ後ろから桟橋が切れて落ちていくような、
うしろから迫ってきている感があり、ブログには集中できない。

しかしまあ、過去において、自分も子供を保育所にも入れずによくまあ、一人で面倒見たものだと、
われながら、感心する。
(その節は、義母には、かなりお手伝いしていただき、お世話になったが)
一日中子供と向き合って、よく耐えられたものだ。
若さ、ゆえか。
自分のすべきことだと思って、黙々とやっていたようだ。

いくら、あどけないベビーと言えど、
閉ざされた空間に一日中、二人だけだと、密閉されていて出口がなく、空気が滞ってくるのがよろしくない。
なので、次から次へと、気分を切り替える工夫が必要。
ベビーが飽きないように、そして、自分もうんざりしないように。
夕方になると、さすがに外に散歩に出かけたくなる。
外の空気を吸いたくなる。
外部の人たちの風景を見たくなる。

密閉されている相手が、かわいい顔をした無邪気な子供なので、それは救われるが。
将来に向かって伸びていく子供であるからして。
子供は個人のためだけでなく、社会全体の宝であるからして。
それは、意義あることだと自分の背中から、がんばって~と自分に拍手を送る。

・・・

自分は、このまま死んでも、とても幸せな人生だったと思うことだろう。
だが、役割を全部、果たしきっていない。
孫守サポートも、親の見送りも、していない。
夫に関しては、お互い様なので、わたしが見送るのか、見送られるのか、どちらがすべきという強制的な位置付けはない。
だが、男性のほうが、平均寿命が短いので、多くは、妻が夫を見送ることになる。
夫が亡くなってから、妻はあと10~20年近く生きる。

テレビで、妻の世話や介護を甲斐甲斐しくしている夫が取材されたりしているのを見ると、
夫はわたしの世話などとてもできない、と公言している。
わたしも、そう思う。
わたしは、身内の世話にはならないつもりで、せっせせっせとお金を貯めている。
わたしも、夫の世話をする時が来たら、「誠心誠意尽くして面倒見ます」、とは、公言できない。

・・・

いかに、人の手を煩わせることなく、この世を去るか。
立派な人は、自身の消滅際まで、立派である。

・・・

とりあえず、孫サポートと、親のサポート。
これを先にしないと、楽にこの世から、サヨナラさせてもらえそうもない。

孫がいない人もいる。子供がいない人もいる。配偶者がいない人もいる。
それはそれで、うらやましかったりするが、精神的にも特定の人には依存できず、
わたしの知っている人々は、孤高の人であるケースが多いように思う。

それはそれで、自分に厳しい。が、他人にも厳しい。
甘い甘いわたしには、難しい生き方である。
孤高の人の、崇高な生き方に対する努力は認めても、同じような路線は歩めない。



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執着

2014-05-22 | 日々のこと
さて、閲覧数はすっかり下げ止まり感があり、低いところで定着している。
以前の半分~5分の3ぐらいである。
ま、おそらく、飽きられたのでしょう。

一人の、なんの関わりもない人間(ブロガー)に、いつまでも執着するということは、ありえない。
しかも、日々、リアルタイムで素晴らしいニュースや、読んで得する特典をお披露目するわけでもなんでもない。
無料の役立つ講座を催しているわけでもない。
いつも、ぷっと笑えて、ブログを読むのに費やした時間を無駄にしない、期待を裏切らない内容でもない。

また、どんなに上記の条件を満たしていたところで、人のこころは、変わる。
第一、わたし自身のこころが変わり、行動も変わるのだから。

執着しないこと。
しかし、物事は、執着しないと、大成しない。かたちにならない。
さらっと自然体でずっと生きていると、さらっとしたまんま。
味気もなければ、なんの引っかかりももない。
第一、そんなので生きていける人はいるのか?

なんの挫折も、疑問も覚えず、抱かず、するするっと人生を生きていっている人って???
すごい!
ぜひ、お目にかかりたい。

そうやって、日々の生活を支えられる人って、大天才、超能力者ではないだろうか。
お金を稼ぎ、日々、暮らしていくには、それなりの苦労がある。
その苦労もまったく感じないという人、いるのだろうか。
お金がもとからある程度あり、苦労して稼がなくてもいい人がいるとしても、
そのお金を使い果たさないようにアタマを使わなければならない。
なかには、大富豪で、使い切るのにアタマを悩ますこともあるのだろうが、
だまされたり、のっとられたり、世の中の体制が変わったりして、失うときは、一瞬だ。

アタマを使わなくて、苦労もしなくて、なにも考えなくて、それでいて、なお、問題のない人!
それは、ある意味スゴイ。
さらさらさらさらっと、無色透明。

・・・

・・・そういう、どうでもいいことをごたごた、ごにょごにょ書き続けると、
多くの人は、去っていくのだろう・・・。


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がんばって

2014-05-21 | 日々のこと
新生スロー。

自分は新しくなったつもりで、前によく見に行っていたブログをちょろちょろ訪れて見る。
みなさんは、変わっておられない。
あたりまえ。

でも、なかには、「ブログやめちゃおうかな~」、なんて弱音?を吐くブロガーさんがいて、
「こらこら。やめちゃいけませんよ」、と、母親になった気持ちで、こころのなかで叱咤激励する。
手ごたえがないと思っておられることだろうが、そうでもない。
多くのふわふわした不特定多数の不確かなものより、少数でもいいから、確かなもののほうが良い場合もある。
試行錯誤して、自分の気に入るようにしてくださいな。

自分のことが忙しくて、ブログを書く暇もないのに、人のブログを訪れる余裕は、とんとない。
が、まあ、どうしているかな?と、気にはなる。

・・・

蝶ブログは、テーマがほぼ限定されている。
ある一定の枠内でおさまっている。
リアルを基にした等身大の自分の思いだ。

この蝶ブログ以外に書いている、別テーマの日記もある。
これは、リアル生活とはまた別次元の趣味の集まり。
めったには、書かないのだが、話題によっては、けっこう、みなさんの興味を引く。
つまり、手ごたえがあるというわけだ。
しかし、小まめにコメントを返すのが、楽しいような忙しないような、
時間が取れなくて出来ないときは、気になり、焦るような。
なので、蝶ブログは、わたしの言いたい放題、言いっぱなしの一方通行が、とても気持ちいい。
自己チューは、ある意味、快感である。

コメントをいろいろ頂戴するその日記は、リアルでも顔を知っている人が、うようよいるので、
あまり、浅はかなことは書けない。
そして、反応が、速くて敏感すぎて、遊びのないハンドルのようで、
いつもいつも気にしなけばならないのが、ちょっとマイナス点。
反応が少ないと、それはそれでまた気落ちするし・・・。
なので、どっちも、どっちということだ。

・・・

わたしは、自分の思いを書くのが大好き。
ストレス解消になる。
ぺちゃくちゃおしゃべりが大好きなのと同じだ。

ここ最近、ご近所さんと、ウォーキング復活したり、おしゃべりしたりしている。
少しの時間なら楽しいのだが、長い時間になると、よくない。
それはお互いにそうだと感じる。
以前は、暇を持て余していた、このご近所さん、一人時間の使い方が上手になっている。
そもそも彼女とのお付き合いは、25年ほどになる。
同じ町内に住み、子供たちが同じ幼稚園に通っていた時から。
彼女には、あまり、気を使わない、気安さがある。
あっさりした、気のいい人だ。

1年にゼロ回、あるいは1回しか顔を合わさない時もあるだろう。
彼女は、べちゃくちゃおしゃべりをして、ストレスを発散するタイプ。
おしゃべりは大好きだが、他人の秘密はあまり漏らさない、信用のおける人だと、わたしは捉えている。
わたしが彼女に漏らした自分の重要なプライバシーが、他から聞こえてきたことは一度もない。
わたしは、そもそも、他人に知られてもいいと思うことしか、話さないのだが。
むしろ、放送局になって宣伝しまくってくれても、いいぐらいなのだが。
(ただ、その時は、彼女に対する、口が堅い人であるという人物評価は、変わるが)

なので、「重要なプライバシー」という表現には、語弊があるかも。

・・・

まあ、それはそれとして・・・

ハードな一週間は、もはや週の前半で、またもやベビーが熱を出し、
わたしは、仕事場から呼び出され、雨のなか、自転車で保育所にお迎え。
ベビーは、ぐずるし、傘が小さくて雨には濡れるし、泣きたくなるのは、こっちだ。
やっと病気が治ったと思ったのも束の間、またまたハードになった。
いつ呼び出されるかもわからない。
大変であり、気が抜けないが、まあ、しかたない。
がんばっていこう。


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比較

2014-05-20 | 日々のこと
ある時、なにかの共通項目で偶然集まった人々。
たまたま、全員、同業者、ほとんど同じような環境、同じような収入、同じような年齢。
そうなると、個性があぶりだされる。

これは、たとえば、同じ会社の社員家族寮に住んでいる妻子だとする。
同期ならある年齢まで、全員、同じ給料。
同じ住まい、同じ部屋面積、同じ間取り。

夫は全員同じ会社。同じ年齢。
とすると、違うのは、奥さんと子供。
そうなると、子供の競争になったりする。
あるいは、夫や妻の背景の違い。
同じ給料で、同じ場所、同じ住まいで、同じ生活だけれど、
ある人は、親に仕送りし、かたや、ある人は、親から援助を受ける。
貯蓄姿勢も違ってくる。
貯蓄などできやしない厳しい状況の人や、貯蓄などする必要もない人。
同じランクの服を着て、子供たちを同じ幼稚園にお見送りお迎えし、笑顔で接する妻たち。
これは、けっこう、しんどい。


それでかどうかは、知らないが、ある程度の年月が経つと、自分たちの住まいに移り、
社宅からは、どんどん出て行く。
新入社員や転勤してきた人々が、次から次へと入ってくるが、最古参になっても、ちっとも出て行けない人もいる。
年齢も違ってきて、またまた、お付き合いもややこしい。

・・・

冒頭のある集団。同じ職業。
社会的地位も同じ、社会的ステータスも同じ、使えるお金もほぼ同じ(○○円以上)。
なので、個性が際立つ。
ある人は、目をむくような高価な外車を何台も乗り回す。奥さんは、ブランド好き。
ある人は、夫婦共に、いたってクールな知的生活。
ある人は、地味でマイペース。
ある人は、趣味のカメラに没頭。
全員、背伸びもしないし、競争もしないし、人をうらやむこともしない。
「へ~、そうなんですか。それ、おもしろいですか?(わたしは興味ないなあ)」
「へ~、そうなんですか。どうやって、やるんです? 教えてください」
という感じで、距離感があって、べとつかない。

自分の時間を自分流に使う。

おそらく、ハードではあるが、自分の生き方や生活に、一生懸命だからだろう。

・・・

有るものを自慢しあって、競争するのも、ばかばかしい。
無いものを妬み、拗ねるのも、意味がない。

しかし、本当に悲惨な毎日の暮らしの場合、そんなことは言ってられない。
その暮らしを変えることは、できない。
どうやって、こころを平静に保つのだろう・・・
慣れることか? あきらめることか?
環境に順応することか?
信仰かも知れない。

・・・

毎日、平穏に過ごせることに感謝。
なにもないことの、しあわせ。
こころに波風が立たないことの、ありがたさ。

これを退屈と言ってしまえば、それまでだ。
気持ちの持ちようにも大きく左右される。
心身ともに健康であることが、進む道も平坦で安定している。
決して退屈なんかではないはず。



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普通

2014-05-19 | 日々のこと
さあ、時間がある。ブログを書こう!!

しかし、これは、目の前に美女がいて、「さあ、あなたの好きにして!」と、
甘い声でささやかれても、こんな美女なのに・・・どうも体が動かない・・・という状態に似ている??

などと、わたしは男性でもないのに、ついつい、男性的な気分になってしまう。
もちろん、男性だけに対してしか、恋愛の対象としては、惹かれない・・・にもかかわらず。

わたしは、体もこころも女性であるが、アタマの一部は男性であるように思う。
かといって、性同一性障害ではない。

・・・

うじうじ女々しい男性を見ると、うっとうしくなる。
でも、小まめにいろんなことに気配りして、やさしく接してくれる男性は好きだ。
これは、育メンの特徴ではないかと思う。
育メンに、生まれつき適している男性と、適していない男性がいるように思う。

が、適すも、適さない、も、それはジェンダー教育のせい、
男とはこうあるべき、こうすべき、という先入観、刷り込みのせいもあるだろう。

そもそもベビーは、がっちりゴツゴツ体型の男性に、抱っこされても、気持ちよくないように思う。
なので、いくら努力して頑張って世話しても、そういう意味では、男性は気の毒だ。
その点、女性は、初対面でも、「わ~、かわいい」と、ベビーをぎゅっと抱きしめると、
ベビーは、抵抗もせず気持ちよさげにしている。
筋肉質の女性や、お肌すべすべ、ぶよんぶよんの男性に対しては、どうかは知らないが。

・・・

今日から、またまたハードな一週間のスタートだ。
今だけだ、こんな、どーでもいいことを、ちんたらこんたら書けるのは。

・・・

さてさて、わたしのブログ、強制隔離の甲斐あって、禁断症状は出ないものの・・・
閲覧数が、するする下降したことにショックは覚えない、と書いたものの・・・
手ごたえがわからない、不確かなものに、何かを求めるのは意味がない、と思ったものの・・・
いやはや、するする下降の下げ止まり、低い数値が通常となってしまい、いささかの失望感を禁じえない。
人間、そのとき、そのときに思うことが違うんですね。
株価みたいなものだ。

ブログを書くことが平常になった場合は、ブログへの依存感、期待感が強まるのだろう。
ブログが書けないことが日常になった場合は、さして気にならないのだろう。
なんて、あたりまえの分析をしてみる。

今日は、お経(蝶ブログ教)を唱える気分にもならず、ブログへの依存も一旦離脱した後は、
また新たに、蝶ブログとの新しい対面、取り組みとなる。
わたしの成長?はたまた気分とともに、ブログのカラー、コンセプトが変わる。
ブログに頼り、救いを求めていたが、
新生スローは、ブログと共に歩む、というスタンスにしようかと思っている。
つまり、普通のブログだ。
もともと、普通のブログなのだが。(だらだら長文が特徴)
「普通」というのは、けっこう好感が持てる、と最近、感じる次第である。


停滞の後は、作動、行動。
歩き始めるのも悪くない。



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