四次元ではなく、三次元の時空にジャンプしました。
ここは、どこ?
いま、まさに、しなければいけないことを目の前に、
気分が乗らず、ぐずぐずしている。
ず~~っと、ぐずぐずしたまんま、なにもしていない。
お尻が、椅子に張り付いて、取れない、離れない。
半日もかけて、「したこと」といったら・・・
やらなければ、やらなければ・・・と、呪文のように唱えながら、
創作文を1本書いた。
なにしとるんや? わたし?
なんで、こんなにわたしは、愚図なんだろう。
チャージするのに時間がかかるんだろう。
もはや、熱くなることが出来ない、壊れた機械か。
もう半日もチャージしているのに。
締め切り、期限は、どんどん迫っている。
今回は、ほんとうにほんとうに、腰が重くて重くて、まったく乗る気、やる気がない。
エンジンが、かかりようがない。
最終的には、ちゃちゃっと3時間もあれば出来るはず、と、最悪の場合の算段をしている。
が、準備の目的にあたることを、全く予習していない。
勉強していない。調べも読みもしていない。
こんなにノリが悪くて、いいのだろうか。
楽しいはずのことなのだが、けっこう、こころの中では、嫌々、渋々だったりするのだ。
だから、無意識に、深層心理として、自分の意思とは反している状況に、反抗しているだろう。
私以外の人は、世の中の誰一人として、この心境は理解できないはずだ。
なにをぬかしている?と。
具体的なことを何も書いていないので、お読みになった方は、なんのことだか、さっぱりわからないと思う。
すみません。
うっすら想像がつく人は、おそらく、一人だけ存在すると予想する。
しかしながら、その人でさえ、なぜ、わたしがこんなにノリが悪いのか、まったくわからないだろう。
バスがもうすぐ出るのに、なんの身支度もせずに、まだ家の布団で(目はぱっちり開けて)寝ているようなものだ。
とりあえず
明日から、四次元の世界に行ってきます。
ああ、用意しなくっちゃ。
究極の独り言ブログ。
時間があれば、リアルタイムにアップする予定だけれど、
時間があっても精神的余裕があるかどうか、
はたまた、iPhoneの電池(バッテリー)があるかどうか。
はたまた、指が動くかどうか。
はたまた、アタマが動くかどうか。
難しい本を、い~っぱい読んでいる人がいる。
文句なしに、掛け値なしに、こころから尊敬申し上げる。
なぜなら・・・わたしは、そういうことに憧れても、出来ないからだ。
憧れるのなら、少しでも読書すればいいではないか。
が・・・脳が受け付けない。
脳の、どこかの部分が潰れているのだろう。
プロセスはいいから、結果が知りたい。
はやく結果が知りたいので、肝心の、結果を招くまでの過程を軽視する。
あるいは、過程は、まったくちんぷんかんぷん、理解できなくても、答えだけを知りたがる。
問題、設問を読み、答えだけを丸暗記するタイプか。
なぜなんだろう・・・?
おそらく、自分で考えると、迷宮入りするからだろう。
だったら、なおのこと、人の意見や考えに触れると、ヒントになると思うのだが。
原書を読まずに、原書を読んだ人の書いた総論や感想、そのまたそれを要約したエッセンスを読むのかも知れない。
はやい話、難しいことは、理解できないのだろう。
理解しようとすると一生かかっても出来ないので、誰かの考えを参考にして(盗んで)、
さも、自分で感じたかのように、錯覚して摩り替えているように思う。
それを教養だと、おぞましき勘違いをしているとすると、恥ずかしすぎる。
でも、いいんです。
遊ばないといけないので、勉学やら教養やらに時間を割いているヒマはない。
サボるためには、手間ヒマを惜しまない。(逆説か)
小説は全く読まない。
創造の世界だから。
だが、事実をベースにしてある場合もあり、真実より真実っぽいものもある(ようだ)。
読まないから、なんとも言えない。
要するに、文字が嫌いなんだろう。
そのくせ、映画は、必ず字幕スーパーにする。
日本語吹き替えは、俳優と声優の、0コンマ数秒の時差のようなものを感じる。
映像の臨場感を、録音スタジオで遮っているかんじがする。
アニメは、好きでない。
だが、映画アニメは嫌いではない。
リアルより、リアルらしいところが、感激。
感性派ということか。
だが、映画でも、自分なりの鑑賞のツボがあり、
まったく、なあ~んも考えていない、表面の映像だけを観ている人とは、感性が合わない。
なので、人の意見は我関せずで、自分の中だけで楽しむことにしている。
テレビ好きの、ヒマさえあれば、チャンネル・ザッピングをしている人間とも感性が合わない。
むしろ、嫌悪感を感じる。
観たい番組だけを観るのは、賛成であるが、
四六時中、テレビがついていないと落ち着かない人と、時間をともにするのは地獄である。
が、共有空間を余儀なくされる事情があるので、致し方ない。
自分の感覚に触れて気分が悪くなるのを避けるため、極力、五感を閉じて、感覚が働かないよう麻痺させ、
気にしないよう、努力している。
せっかく、読書する人を褒める記事を書こうとしているのに、
しょうもないことを書いて、自分で自分を貶めている。
しょせん、わたしは、この程度の人間である。
盛者必衰
今日の記事内容は、多くの人に共通することはなく、一般的ではありません。
都市部にお住みの方は、さらっと斜め読み、あるいは、スルーが良いかと思います。
・・・・・・・
親の家、娘はどう見ているか。
子供たちが自立、独立している今、
実家である親の家(今、わたしが住んでいる、わたしのお気に入りの家)の処分を彼らは、もう視野に入れている。
たんなるシュミレーションではあるものの、ちょっとショックだった。
わたしは、自分の実家を大切に愛おしく思っている。
できる限り、維持したい気持ちだ。
が、子供世代は、自分たちのことだけで精一杯。
それ以上の負担を強いられたくないという思い。
わからないでもない。
わたしが大切に思っているもの、大好きなものは、なにも、子供にとっては、大事とは限らない。
すべて、ゴミ。
家の中の不用品の山を見渡し、処分するのにも、お金がかかりそうな現状を見て、子供はため息をつく。
仮に、不用品をすべて処分し、すっきりした暮らしを手に入れたとしよう。
が、いくらすっきりしようが、家そのもの、箱モノが不要なので、売却を検討するのも、選択肢の一つのようだ。
出口を考えずに作られた、大きな、塩漬け不良債権だそうだ。
世代の違い。
わたしは、けっこう古い地域で育ったので、旧式の感覚なのかも知れないが、
今風の考えには付いていけない。
母や義母などは、想像もできない考えだろう。
時代の流れとはいうものの、こんなにも考えが親子でも違うのかと思うと、驚きを隠せない。
長い歴史など、彼らには、まったく、たんなる負担なのかと思うと、
これまで維持してきた人々の軌跡が虚しいものに感じる。
人は、この世からいなくなれば、それまでか。
残った者の好きなように、思うようにすればいいのだろう。
受け継ぐということは、いかに難しいことなのか、今頃になって重く捉える自分がいる。
自分がいかに大切なものであっても、子供にとっては、そうでない。
その現実を目の当たりにすると、なんだか、複雑な、頭ではわかっても、でも、情では、理解できない。
実際に、家を売る手続きに入っているわけでもなんでもないが、
時期が来たら、そうなる可能性は大いにある。
家は、住まい、日々の暮らしの詰まったものだと思っている。
暮らしには、こころが詰まっている。
そういう積み重ねを感じていたのは、自分だけだったのかと思うと、虚しい。
が、彼らには彼らの暮らしがあり、今から積み重ねて築いていく、現在進行形。
足を引っ張るわけにもいかない。
親を乗り越えていってもらう、親は踏み台でいい、と思いたいところだが、「無」「リセット」は、やはり哀しい。
時代は変わるものだと、つくづく思う。
が、その責任の一端は、伝統や慣わしから逃げることばかりを考えていた自分にもあると感じる。
イエ制度や家父長制などは、もう名実ともに、戦後70年の時を経て、完全に消滅しているのか。
わたしの世代は、名と実の過渡期なのか。
養子を取ったりして、頑なに守り継いでいるイエもある。
それとも、考え方は、暮らしている地域の色に染まるのか。
しかし、より良い未来のために、知恵を絞るのは悪くないこと。
カタチは、違っても、思いが伝わり、残れば、それでよいのだろう。
一戸建てと、マンション。
両方、住んだ経験がある。
時期や、場所によって、まったく感想や、住み心地は違ってくる。
幼少期、未婚期、子育て期、脱・子育て期、リタイア期、老後。
田舎か都会か、駅に近いか、遠いか。
まわりの環境にも左右される。
そして、その住居が、持ち家か、賃貸か。
これは、かなり大きい。
広さも、重要なファクターだ。
自分の持ち物でないと、わたしは、まったく愛着を持たない。
どうでもいいのである。
豪華であろうが、ヘボかろうが、どうせ、一時的な暮らし。
その時限り。一時しのぎ。
なので、子育て期においては、借り上げ社宅がいちばん、お気楽だった。
汚し放題。傷み放題。
家具も、婚礼家具は婚家に残し、子育て用にと、べこべこの、吹けば飛ぶような超安モノのものを購入した。
子育てがひと段落したあと、きれいさっぱり、処分した。
子育て中は、床も、家具も、どこもかしこも、子供に、「傷むからダメよ」と言ったことがない。
いちばんユニークだったのは、まわりは農家、その中にぽつんと、借り上げ社宅の一軒家。
近所には、牛舎があり、牛も、も~と鳴く。
公園に行っても、子供など、ひとりもいない。
そんな広々とした土地なのに、なぜか、社宅の目の前には、激近で、隣家が接近していた。
いつも、隣のおばさんと、顔を、家の中からでも合わせる、接近ぶり。
毎年、新しい家族がその社宅に入り、1年後に出て行く。
昔からの地域の住民には入れ替わりがなく、他にさして、なんの娯楽も無い近所のおばさん、おばあさんたちは、
一種の見世物のように、周りから、新人一家を見ていたのではないだろうか。
そうやって手に入れた、ゆったりした子育て終了後の生活・・・・のはずだったが、
男の子の孫が二人もできて、優雅な寝言は言ってられなくなった。
が、やはり、目は、床やら家具やらに行く。
娘は、「おばあちゃんは、孫より家のほうが大事らしいよ」と、ちくり。
せっかく手に入れた宝物、べつの宝物に侵食されそうになっているが、
同じ宝物でも、ジャンルが別なので、バトルしつつ、死守している。
行きの電車の中での読み物として、一番好きなのは、自分のブログ新記事。
なので、なにもアップしていない日は、電車の中は、退屈である。
究極の自分好き。どっぷり自己陶酔。自意識過剰、人間。
他人の目からは、そうとう気持ち悪い。
その気持ち悪さが、自分だけでは納まらない、そうとう気持ち悪いものを今朝、見た。
ブログのアクセス解析機能から、一つ前の閲覧元がわかるのだが、
わたしの、ずいぶん前のブログ記事に、検索ワードから飛んできた人がいて、その元になる記事を読んだ。
5年も前の、その記事。
自分の記事、気持ち悪すぎて、酔いそうだ。
よく、あんなに気持ち悪いものを平気で書いて、また、平気でアップしていた、と、我ながら感心する。
おぞましや。
人は、変化するものだ。
年月とともに、感性も、考えも。
自分のことが一番、信じられない。
が、諸行無常。
常に同じであることはなく、変わるものである。
と、自分に都合よく解釈しよう。
ただ、同じ年の、同じ月のアップ記事のなかには、微笑ましいものや、懐かしいものもあり、ほくそ笑む。
気持ち悪いものばかりでもないので、ほっと胸を撫で下ろす。
延々と同じブログを長年、書き続けていると、
ひやっとしたり、どきっとしたり、赤面したり・・・ひじょうに心臓によろしくない。
(毎日の電車の中は、よくても)
自分でも忘れるぐらいの、過去の記事に関しては、
いったい、どんなことを書いているんだ・・・と、お願いだから、へんなことは書いてませんように・・・!
と、祈るような気持ちで読んでいる。
が、最後の最後まで、手に汗握る。
なので、血圧に悪影響を与えるから、よほどのことでもないかぎり、読まないことにしよう。
その日、その日が無事に終われば全てよし。
あれこれをさっぱりと切り捨てて、過去から現在に移っているのに、なぜか、ブログ記事は、残っていて、
当時の自分が映し出され、とても複雑な気持ちになる。
なかったことに、しよう。
ある人のブログを読んだ。
もう何年も前から愛読している。
ずっと読んでいるわけではないのだが、ヒマでヒマで、退屈で退屈で仕方ない時、
(どうしても、やらなければいけないことを、目の前に迫る時間締め切り付きで背負い、着手していない時がほとんどだが)、
お気に入りブログに入れている都合上、てきとうに、ぶらっと行ってしまう。
彼女のブログは、・・・ブログ村のOUTポイントだけでも、一日15000~20000ぐらいは、あるか?
(正確ではないかも)
なにしろ、超絶人気である。
テンプレートが、シンプル。
無駄が一切無い、メモのよう。
彼女の性格やポリシーが現れている。
彼女のキャラクター、人間性、性格は、
その場の雰囲気や状況を咄嗟に把握し、自分の置かれた位置、役割を理解し、
最適と思われる言語行動を取り、場に合わせることができる人だ。
おそらく、人当たりも良いだろう。
ソツのない人で、学校の成績も優秀だったことだろう。
その反動で、と思われるが、ブログは、冷静を通り越して、冷徹、ここまで言う?という容赦ない切れ味。
元気な時や、切れ味に触れたい時に読むと、すごく気持ちがいい。
ジェットコースターや、スカイダイビング、バンジージャンプなどがしたい時には、おススメ。
少しの揺れにでもビクビクする、エレベーターに重い人や子供が乗って、ちょっとドシンとなるだけで、ひやっとする人なんかにも、逆に、おススメかも。
軽蔑した人に対する心情が、すごい。
心の中で、完璧に切り捨てている。
でも、その相手が彼女のところに遊びに来たり、会話をしたりするということは、胸の内を出していないと思われる。
相手は、よもやそんなことを、そこまで思われているなんて、思いもよらないのだろう。
ブログは、こころの声で、
優等生を演じる自分と、真の自分との間で、彼女は、バランスを取っていると推測する。
そういえば、そういうブロガーさん、他にもいた。
たいがい、女性が多い。なぜだろう? しかも優等生タイプ。
男性は、あまりその手のブログを書かないように思う。
おそらく、女性には核シェルター的に、逃げ場のようなセーフィネットのような、
社会と、非社会の間に、身を隠して何気なく日常生活を送れる、空洞のようなポジションがあるからだろう。
わたしが、もし仮に彼女の夫なら、一日で離縁されそうだ。
彼女の天敵であるご主人とわたしの性格が、よく似ている。
ご主人のお母さんとも、似ているかも。
彼女が批判している内容は、そのまま、ぐさぐさと「それ、わたしです」と身に覚えがあったりする。
でも、わたしではない。他人である。
ああ、やれやれ。
悪夢から目が覚めた、布団の中の瞬間のようだ。
相性というものは、いかに大切かということだ。
同じコトを言って、同じコトをしても、大嫌いな人がすると、益々、大嫌いになるし、
大好きな人が言うと、良いように捉えたり、あまり気にしなかったりする。
嫌いになると、とことん嫌いになるので、抑えようがない。
坂道をすごいスピードで転がり落ちるかのごとく。
相性の悪い人との日常生活は、地獄だろう。
しかし・・・世の中、そんなにうまくいかない。
自分の思うような生活を送りたければ、それ相応の苦労、実績を積まなければ、目一杯のことは言えない。
が、中には、どうしようもない、にっちも、さっちも身動きできない状態の時もある。
文句を言うだけで、少しは痛みが和らぐのであれば、それも一時しのぎで、悪くはないのかも知れないが。
(昨日のわたしの記事にも触れた)
人が、身内や、周りの人に対して、痛烈な毒舌を吐いているのを読んで、すきっとするのは、なぜだろう。
他人の不幸は、蜜の味?
それもあるのかも知れないが、自分に代わって、代弁してくれるから、気持ちよいのだろう。
そこまで言うか?と、なかば、あきれながら、少し離れて、批判気味なポーズを取り、
自分の手を汚さず、自分は、美しいまま、自分のうっぷん、憂さを晴らしてくれる。
悪役ヒーローが活躍する、一話一話完結するドラマのようなもの。
なので、人気があるのかと推測する。
世の中の悪に立ち向う、悪玉。悪と悪の戦い。
それを、自分は関係なくて、よかったわ~と、なかば楽しみながら観戦。
ちょっと、美しくない図である。
美しくないものに、大勢の人が寄り集まってくる。
独特の蜂蜜なのだろう。
これもひとえに、ブロガーさんの文章力によるところが、非常に大きい。
人気の秘密は、これに尽きる。
昨日の某会場、女性更衣室。
わたしの他に、あと二名。
わたしより少なくとも5歳は年上だろう。
ドレスに着替えて、楽しいダンスを!という前段階である。
A「Cさん、年金らしいけど、厚生年金やって」
B「ええなあ。たくさんあって」
A「しかも、旦那さんは、現役でまだ稼いではるらしいで」
B「そりゃ、すごいわ。年金だけやったら、ちょっとやもんな」
A「うらやましいなあ。お金もどっさり、そのままダンスにかけれるもんなあ」
とまあ、ここまでは、よかった。
へえ~。現役だったら、確かに毎月、ランニング・インカムがあって、心強い。
ふむふむ・・・と納得しながら、二人の会話を聞いていた。
A「毎日、ご主人の夕食も用意しなくていいらしいよ」
B「へえ~。いいなあ」
A「毎日、夜が遅いから晩ごはんは、いらないらしいわ」
B「仕事で遅くなるんかな」
A「なんちゃら、かんちゃらで、遅くなるとか言ってるらしいけど、そんなことあるかいな。
毎日毎日なんて、こんな不景気では残業もないはずやし」
B「マージャンていうても、毎日は、ないわなあ」
A「平日、そんなに遅くなるのは絶対おかしいわ。それも毎日やで。女でも囲ってるんと違うか」
B「ほんまやな、ぜったい、そうやわ」
と、収入が良く、さらに、夕食を作らなくても良いという羨望の黄金ステイタスに、
二人の女性は、羨ましいを通り越し、妬みに移行した。
Cさんのご主人は、女を囲っていることになってしまった。
もし、わたしがこれを他の人に伝えたとすると、あらぬ噂が広がるという図が出来上がる。
わたしは、見知らぬこの二人の会話をただただ面白く聞いていただけであるし、
Cさん自体を知らないし、知る気もない。
同じようなラインに立つ仲間が、ほんの少しの違いで、いい目をするのは、腹が立つ。
しかも、自分の力量や努力とは関係のないことで、優位に立たれると、むかむかするようだ。
ぐんとレベルが違う人であれば、あの人は特別だから、と、一目置くのかも知れない。
あるいは、陰湿にいじめたり、意地悪をしたりするのかも知れない。
人の幸せは、鬱陶しいってことだ。
とはいうものの・・・
年金しか収入がなく、毎日、ご飯の用意をしなければならない夫。
かたや、まだ稼いできてくれて、自宅には不在、夕食不要!!
この違い、天と地。
じゃあ、自分も老体に鞭打って、パートに行って稼いだらどうか。
絶対にしない。
いっそ、離婚したら?
絶対にしない。
せめて、幸せな人の悪口でも言って、憂さをはらすほうが、リスクが少ない。
ほんのちょっとだけ、自分より幸せな人、
しかも、その人の力ではない部分で、幸せな人がほんの近くにいると、気になるし、比較もしてしまうし、
実際、鬱陶しいものである。
わたしも、若い頃、学生時代の同級生だった人で、そういう人がいた。
どれをとっても、わたしの置かれている立場や状況より、ほんの少し上だった。
わたしが努力して頑張っている、その頑張り部分は、すでに備わっている人だった。
わたしは頑張りながら、彼女はいいなあ、こういう頑張りをせずに、すでに手に入れているんだから、と、
羨ましいような、腑に落ちないような、自分の頑張りが虚しいような、不公平なような、そんな気になって気分がよくなかった。
人生そのもののモチベーションが、一気に下がる思いだ。
今も彼女とわたしは、同じような暮らしをしている。
ライバル意識もなければ、気にもならない。
長い間に自分のスタイルが確立して、べつに人の生活や生き方が羨ましいと思わなくなったからだ。
自分の生き方に、そこそこ満足しているからだろう。
あまり人を羨ましいとは思わない。
更衣室の二人のように、自分にはないことを欲しがっても、しかたない。
自分で充足する気もないなら、我慢するしかない。
例えば、ダンスの才能・・・これを羨ましがったとしても、資質は人によって差がある。
プロで、家族を養わなくてはいけないなら、また話は別だが。
なんでも長期戦。長い目で見ると、シーソーゲームのように、上がったり下がったり。
悪いと思えたことも、さして悪くないようになったり、その逆もある。
その場その場では、気に入らなくても、大きな航路の中では、小さなことである。
羨ましいと感じていたことが、逆転することもある。
逆に、人を羨ましがらせていたことも、暗転することもある。
人の神経を逆撫でするような、幸せオーラを誰彼なく、あたりかまわず振りまくと、
自分の知らないところで、妬みの種になり、藁人形に五寸釘でも打たれかねない。
自分が楽しければそれでいいのだから、幸せを人におすそ分けしようとしても、相手を見てやらないと、逆効果になる。
分野が細分化され、この分野では、この人が上で、あの分野では、あの人が上で・・・
あるいは、ここ数年は、この人が上で、10年前は、その人が上で・・・
などなど、序列をつけても、疲弊するばかり。
なので、幸せ比べをするために外に出るのではなく、
幸せはすっぽり、自分の中で覆ってしまうと、母の胎内のようで案外安定していて、気持ちいい。
これは、内向的で、非社交的、目立つのが嫌いなわたしには向いているが、
派手好きで、誰の目にも、はっきりわかるカタチで誉めて欲しい人には、つまらない方法だろう。
おしゃべりして、発散するのもひとつの方法。
わたしがブログをアップするのと同じ。
あっちこっちで、ぺちゃくちゃ話して空気抜きをするのは、悪くないことだと思う。
今日も更衣室では、どういう話が展開されていることやら。
人々は、絶対に、人のこと、褒めません、悪口専門。
自分が居ない所では、自分の悪口を言われていると思っても過言ではない。
が、知らなければ、それでいい。
各々が、各々のストレス発散のお手伝いになっていることだろう。
昨日、バスに乗ろうと、自宅からバス停へと歩いていると、背後から車が来て、すっと横に止まった。
あ、ご近所の知り合いの方。
うちから、数軒ぐらいのところに家がある、超、激近。
(いつもそうなので)駅まで乗せていってくださると、たぶん思い、勝手にドアをあけ、勝手に乗り込んだ。
「ありがとう。て、勝手に乗ってるけど、厚かましかったかな?」
というかんじのことを言ったかどうか、忘れたが。
とりあえず乗り込んだ。
「家が遠いから※なかなか会う機会ないわねえ。(※入力ミスではありません)
皆さんと、会ってます?」
と、とりあえず切り出す。
駅までの4分ぐらいの間に、ここ4年ぐらいの近況報告をした。
自己紹介のスピーチか、朝の朝礼みたいなもので、時間が限られている中での話は、
内容が制限される。
彼女とは、子供会や自治会、子供の習い事でご一緒したことがあり、
彼女のほうが、数歳年上で、子供の年齢は、彼女の末子よりも、わたしの第一子が、年下。
静かで控えめで、きりりとした美人。
わぁ~と制限時間いっぱいの中、何を話そうかと思い、
まず、彼女に話を振った。
「ここ数年、なにか変化、ありますか?」
彼女の返事は、
「そうねえ、年齢を感じるようになったわ。
腰が痛かったりして、前より歳の分、衰えたと感じる」
わたしの近況報告は、娘一家のこと。
彼女からの報告は、ご近所の共通の知り合いの子供たちの近況。
子供といっても、皆さん、もう、子供がいるけれど。
彼女からの娘さんたちの報告は、なかった。
なので、あえて聞かなかったが、ひょっとすると、お子さん(お孫さん)がおられないのかも知れない。
もし、いたら、自分の口から出るだろうと思うので、あえて、そこは尋ねてみなかった。
彼女からの質問は、仕事のことだった。
自分の家庭のことは、わたしには話したくないのかも知れない。
何年かに一回の偶然の出会いで、ご近所さんとのコミュニケーションを無事果たしたが、
なんだか、ちょっとすっきり晴れ晴れしいかんじがしなかった。
彼女の口からは、娘さんたちの話が出なかったからだろう。
ご近所知り合いの娘さんたちや、わたしの娘のことは話題に上がっても、彼女の娘さんのことは話さない・・・
深読みからも知れないが、
ある程度、自分や知り合いなどの話が出た時は、ちょっとぐらいは自分の家のことも話したほうが、
へんに相手に気を使われなくてもいいようだと、学習した。
中には、聞いてもいないのに、持ち時間をすべて自分のことを話す人もいる。
彼女が控えめなのかも知れない。
25年ぐらい前から、ママ友たちの中でもそうだった。
彼女は、わたしとは年齢が上のママ友グループになるが、
彼女のグループは、教育熱心で、主張の強い人が多かった。
その中で、彼女は、あまり口数が多くない人だった。
そのキャラクターを知っているにしても、わたしもどちらかと言うと、聞き役のことが多いからか、
自分が主導権をとって話すのは、苦手である。
聞かれもしないのに、自分の娘のことを話してしまい、彼女からは情報のお返しがなかったことを、
少し、気に病んだりして、控えめ同志は、やりにくいのかも知れない。
ニュータウンといっても、ご近所さんのママ友たちとは、もう、25年以上のお付き合いになる。
特別に好きで選り抜いて付き合っているわけでもなく、嫌いで疎遠になっているわけでもなく、
「地縁」のお付き合いである。
子供たちが地元の学校を卒業すると、あちこちに散っていくが、
結婚して子育て期になると、また実家近くに戻ってくる子供もいるようだ。
息子より、娘が、だんぜん、多い。
奥さんの実家近くで生活している夫婦のほうが、うまくいくように思う。
最近は、若い世帯が入居してくるケースを見かける。
そこらあたりは、やはりニュータウンだなあと感じる。
人の出入りが、緩やかである。
地方の閉ざされた地では、人が出て行ったり亡くなったりしても、新しく若い人が入らない。
あるところでは、土地を地域の住人以外の部外者が買えないような仕組みになっている。
新しい人が入って来ようがない。
なんのためにそんな縛りをしているのか、よく理解できない。
開発乱用や、地上げや、業者や外資、個人投資家などのターゲットになり地域を壊されたくない、
変化を求めたくない、ということだろうか。
それはそれで、わからなくもないが、一長一短である。
自分の住んでいる「ニュータウン」と、嫁ぎ先である「閉ざされた地域」、
わたしは、この狭間で苦しんでいた時期もあるが、
今は、かちんこちんのカタマリみたいだった難題が、少し解けかかっているような気がする。
あくまでも、表面のあたりがほんの少しだけ。
冷凍庫から出したばかり、というかんじだ。
これから先、ゆるやかに冷蔵庫でじっくり解凍されるのか、室温でゆっくり解凍されるのか、
電子レンジで、急速に無理やり温め、表面がカチカチになって不味くなるのか、
はたまた解凍モードで、水がいっぱい出るのか、
それとも流水で解凍するのか・・・。
とりあえず、問題先送り状態で、塩漬けになりつつある観があるが、どうなるんだろう。
いずれは、直面する、わたしにとっては、避けては通れない問題である。
「いずれは」、などと悠長なことは言ってられず、実際は、目の前に接近している。
社交ダンスをやっていると、いろんな方にお目にかかる。
あくまでも、お目にかかるだけで、口をきくといっても、挨拶程度。
中身は年齢をはじめ、推測するのみ。
どこに住んでいるか、地域名も、なんらかの拍子に耳にすることがあるが、
ぜんぜん、どうでもいい。
「パラオから来ました」
とでも聞こえたら、寄っていくかも知れないが。
要するに、なんの個人情報もないまま、見かけ、行動だけで、その人物を判断している。
あくまでも、外側だけの判断であって、上っ面の下にある顔は、知らない。
見かけの重要な判断要素は、着ているモノ。
お金持ちが、エコ精神で、さほど高くないものを着る場合はあるが、
逆に生活に困窮している人が、何十万円もするドレスは着ない。
それで、だいたい生活水準を想像する。
番外編として、ボロファッションが流行っているから、これでいい、と思ってかどうか知らないが、
ジーンズの後ろの財布を入れているポケットが、財布の淵、角部分が破れている人。
それに、底の厚いスニーカー。
65歳を越えて、生活圏から電車に乗って外出時にその格好の男性の場合、
実際に知っている人の例では、お金はあまりない。
つぎに、顔。
これは、決して出来、不出来、美醜ではない。
表情から醸し出される性格、生活環境、幸せ度。
華がある顔の人もいるが、怖い顔や、嫌な表情の顔の人もいる。
べつに、術後の回復が思わしくない病室のベッドに横たわっているわけでもないのに、
楽しいダンスをしているにもかかわらず、なんで、あんな顔なんだろう??
苦痛が染み付いたような顔の人がいる。
そのつぎに、しぐさ、踊り。
ガシャガシャと落ち着きのない動作や、なんと、足をおっ広げて椅子に座っている女性!!
ドレスなのに・・・!!
こんな人は、優雅なダンスなど、ほど遠い。
あなたの、お股、座るときぐらいは、閉じましょう。
ホールを挟んで、真正面の対面の椅子に座って見ているわたしは、同性として、首を傾げる。
声がガラガラの酒やけしたような、タバコのにおいがぷんぷんしそうな、そんな人もいる。
あのガラガラ声は、先入観で決め付けてはよくない、病気かも知れないと、その声の主を見てみると、
いかにも過去の不摂生が、声に現れるような人だった。
いろんな外見を見て、その人物を総合的に判断する。
別に親しくなりたいとは思わない。
どこに勤めていて、家族構成はどうで・・・さして興味はない。
わたしのアタマの中のデータファイルから検索すると、だいたいのおおまかなラインは出てくる。
外見で想像できる。
そして、実際に合っているかどうか、答えあわせをしたい時期は、過ぎた。
ざっくり、当たっていると思う。
性格は、その後の日々の行動で、その人独自のデータを積み重ねて、想像していく。
これは、短期、中期、長期にわたると、見方が変化する。
ぱっと見たかんじと、じっくり見たかんじ、また、本人が変化していく場合。
この、徐々に変化していくところが、面白い。
猿人が人間に変化していくごとく、徐々に、洗練されていくかんじを目の当たりにみると、
一定の法則のようなものを感じる。
あくまでも、この変化は社交ダンスにおいてであり、ビジネスや人間関係においてではない。
仕事や家庭、私生活での接点がないので、社交ダンス以外には、その人物を判断する材料がない。
(が、どの分野においても、共通するものがあるかも知れない)
中身にまで踏み込むには時間がかかるし、犠牲やリスクも大きい。
なので、わたしは、外側観察をして楽しんでいる。
透明人間人になって皆さんの中で泳いでいるのだが、
時折、バッテリー残量不足からか、透明でない、うっすら色がついている時があるようで、
そのうちの何人かと接触することがある。
そこでは、外側からだけではない、中側のネタを仕入れることになる。
すると、少し、人物像に膨らみが出る。
見かけによらない人もいるし、見かけを益々強調することになる人もいる。
わたしの見かけは、一定しているようだ。
あえて、中身を外に出さないで、見かけだけのところを保っている。
ホンネは、ろくでもないことばかり考えているので、感想などは口にしないようにしている。
けしからん奴であるから、そういう自分は、けしからんと感じるのだ。
外側と中身が違うのだが、あえて、醜い中身を表情や態度に出して、露出させる必要はないと考える。
そもそも透明人間なのであるから、バッテリー切れであったとしても、わたしとの接触は控えていただきたい思いである。
なぜ、そう思うかというと、
最近、私生活において、ぽんぽんとホンネが口から飛び出して、まわりを不快にさせているのではないかと危惧しているからだ。
しかし、ホンネを捻じ曲げて、偽りのことを話すのも不本意である。
が、聞かれてもいないのに、ホンネをずけずけ言って、自分だけがスッキリするのも、自分自身、あまり気持ちのいいものではない。
くしゃみを思いっきりすると気持ちがいいが、周りは迷惑。
あれに、似ている。
くしゃみを抑えると、自分自身、不快感が残る。
そこで、小さい、くしゃみにするか、人のいないところで、思いっきり大きなくしゃみをする。
そもそも、人に不快感を与えるようなホンネ自体を持たないようにすべきだとも考える。
くしゃみをしない自分に改革、改造?
そうとう苦しいだろう。
いろんな人を見て、いろいろ思考がぐるぐる。
よくある、聞き飽きたフレーズ、「なりたい自分になる」。
この歳になっても、まだ、そんな青いことをやろうかなと思う、
皺くちゃの、もはや食べられないカチンコチンの果実である自分を発見する。
どんな味なんだろう。