蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

しょうゆうこと!

2016-05-31 | 日々のこと

朝、早朝でもない、起きている人は、とっくに起きている、まあ、普通の朝。
朝、6時40分ぐらい。
突然、「おかあさんっっっ!」という声に、飛び起きた。
娘の声である。

寝巻きの上から、エプロンをとっさに引っ掛け、玄関に走って出て行った。

あれ?
だれも、いない。

なに?
あの声は・・・?

ついに、きたか。わたしに神の声。神のお告げ。
いえ、認知症状。

眠い目をこすりながら、まだまだ眠いので、もう一度、ベッドに入ろうと思ったが、
せっかくであるし、そのまま戻らず、起きた。
庭の草むしりをし、ゴミを出し、朝から、せっせせっせと働いた。

あれは、「働けっっ!!」という声か?
それにしても、あの声、娘ではあるが、上の娘であるようでないようで、下の娘であるようでないようで。
娘ではない、別人かも知れないようでもある。
よくある、オレオレ詐欺の「ばあちゃん、オレ」、という、孫のような孫でないような、そういう声かも知れない。

はっきり聞こえたところが、そうとう深刻である。
夢にしては、時間があまりにも起きる時間であるし、現実的でリアルすぎる。

「○○子(姑の名前)!!」と、同時すでに亡くなっている舅が姑を呼んだ、というハナシを姑から前に聞いたことがある。
あれに近いものか。
たんなる、勘違い。
アタマの中で創り上げた、幻聴だろう。

自分としては、ほんとうに聞こえたのだ、と言い張りたいが、
哀しいことに、わたしは、科学的に解明できないような、非現実的なことは、たとえ自分のことであっても、
信じない。
「ほんとうに、ほんとうに、聞こえたのだから。はっきりと」と声を大にして訴えたいところだが、
確かに自分は聞こえたのだろうけれど、客観的に判断して、現実としてはそういう声はないのである。
なので、よく、現実味の無い、へんなことを言い張る人の「本当なのよ。信じて!嘘じゃない!!」という気持ちはよくわかるが、
わたしは、自分のことでさえ、あっさり、幻聴だと信じる。

なので、おそらく、他の人々も幻聴だろう。
「いいや、違う!!」と、主張して止まない人がいても、ほっておく。
面倒くさい。
そんなことにこだわるより、起こされて早起きした時間を有効なことに使うようが、ずっとよい。
こうやって、ブログも更新できたことだし。

(ここで、そう書いたとたん、和室から絶妙のタイミングで、「しょうゆうこと!」と、壊れたオモチャが、鳴った。
これは、醤油差しを乗せると、村上ジョージ(吉本興業)の声で「しょうゆうこと」と声がする、醤油台オモチャなのだが、
壊れていて、押しても振っても音がしないのに、いつも好き勝手な時間に突然、唐突に、「しょうゆうこと」と鳴る)

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・・・で、ハナシを戻す。
二度、三度、同じようなこと(幻聴)が起こったら?
その時は、専門家の門をノックしてみようか?
おそらく、しないだろう。
「誰なの?あなた?」と、とても興味をもって接するかも知れない。
意外に、面白いかも。

またまた村上ジョージが、「しょうゆうこと」と言ってくれたりして。
流れ、やり取り、受け答えとしては、意味不明。
(ギャグですから、正しい使い方ではあります)

幻聴のひとつとして、「しょうゆうこと」は今後、定着するかも知れない。
が、肯定であるので悪くはない。

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おもしろい

2016-05-24 | わたし

あああ。またまた駄文を連日、アップすることになる。

かつては、アップすることを日課とし、励みとし、
アップしなければ、皆さんから忘れられるような、根拠の無い焦燥感のようなものも抱いていた。
まったくの幻想であった。
思い込み、とも言う。

「皆さん」って、なに?
自分が勝手に創り上げたものに他ならない。

その思い込みは、自分の中で解決した今日この頃。
氷解した。


で、・・・他のサイトをちょっとうろうろして、ため息。
なにがため息かというと、面白くないからだ。
しかし、自分が行くサイトに集まる人々の書いているものが面白くないだけであって、
自分のチョイスが良くない。
ただ、それだけだ。

もっと面白いサイトは山のようにあるのに、そこに行かない自分が悪い。

書くのもハバカラレルような感想が次から次へとアタマに浮かぶ。
書きたい衝動を抑える。
最近は、サイトにアップしている誰かの記事にコメントをつけて、そのままアップしないことが多い。
まあなんと、建設的でない虚しい無駄な時間の過ごし方。
それをわざわざ文字にして、自分の蝶ブログに書く意味・・・まったく、ない。

自分は唯一無二。
他の皆さんも、それぞれ、唯一無二。
世の中、唯一無二だらけなので、そういう人々と考えや感性が同じなわけがない。
奇跡的ピンポイント的接点はあるにしても。

ひとりで、突っ込んでみても、じつにくだらない作業である。

嫌なら見なければいいのに、なぜ、見に行くのか。
そこに、得体の知れない、(解明できるけれど、したくない)根源がある。

自分は、「こういう人が大っっっ嫌いだ」と確信を強めるのには、意味があり、意義深い。

なんでも、意味の無いものは無いってことだ。

しかし、貴重な持ち時間。
人生の残り時間がカウントダウンされるっていうのに、暇つぶし?

わたしの小学校の担任の先生が、「人生は死ぬまでの時間つぶし」とよく口にしていた、とリアル時に話題にあげると、
こう言った人がいる。
「人生は、死ぬまでの憂さ晴らし」

なるほど。

憂さ晴らしは、暇つぶしより、ずっと良いに違いない。

嫌なものや、嫌いなものには近寄らず、
絶えず、面白いと感じることに接して、自分を面白がらせる。
「面白い」は、そうとう深い。

あああ。今日の記事、論点が、ぼやけて、シャキシャキ感がゼロである。


 

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しあわせ脳への歩み

2016-05-23 | わたし

偉人たちは、すごい名句を遺している。
う~んと唸る・・・。

今、わたしは、まだ生きていると、なかなか美味しい干物にはなれなくて。


芸術ってなんだ?
わたしは、芸術を理解していない。
理解している自分に憧れるが、知識・教養の一部程度で留まっている。
入り口の告知板の前で、ポスターをじっと見つめる。
それ以上は、わからない。

芸術の理解の仕方・・・そういう手引書みたいなのが、いっぱいある。世の中には。
わかりやすく明確にまとめると、義務教育の、音楽、美術の教科書に書いてあるような内容だ。
歴史・背景・人物・作品・・・実際にそのうちの代表的なものに接してみる。

そこで、やわらかい感性の学生は、鑑賞して衝撃を受けたりするのだが、
ああ、私は、寝ている。脳の休息時間。

5教科以外の副教科は、お休み時間。
脳に刺さった苦痛が取れる時間。答えを迫られる苦悩からの開放時間。

今、思えば、これは究極の脳の悦びなんじゃないかと。
そう、こじつけてみる。

芸術に理屈はいらない・・・はず。
しかし、何年も必死で生涯を捧げて研究している人に、そんなことを言うと、
その人の人生そのものを否定しているかのようになってしまう。


芸術は、理解する側と、創る側に分かれる。
あと、理解しない無関係側。

喝采を浴びている芸術がまるでわからないと、けっ、と思ってしまう、わたし。
上手ではあるが、芸術との違いがわからない。

本人が死んだ後、評価される芸術家も多い。
時代より先に生まれてしまった人々だ。
時代は、微笑まなかった。
では、芸術を評価する人そのものって、何なんだ?


今日の記事、おそらく、10000%の人が興味ないだろう。
そして、「自称・芸術がわかっている人」ほど、うさんくさいものはない。

哲学&芸術・・・これって、「生活」と真逆の次元。
超・現実主義者であるわたしは、今晩のおかずを考えてしまうのである。
しかし、この「超」は、「とても&大変&非常に」という意味なのか、「スーパー&超越している」という意味なのか。

眠って死んだように静まり返って、脳を休めている時間が、わたしには究極の至福の時なのかも知れない。

あ、それなら、小学生の時からだ。
授業中、よく居眠りしてた・・・
とても幸せな小学生だったわけで、今日までそれが続いているってことだ。

このラインは生涯続くと思われるので、将来は、安らかに永遠の眠りにつけそうだ。

 

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期間限定・町内会掲示板

2016-05-21 | ブログ
なんだか、とても楽しい気分。
リアルタイムに、違う別のエリアで同時コラボしているようなかんじ。
舞台に、突然、仲間が友情出演してくれるかのノリ。
サプライズ・ゲストとセッションしているようで、愉しい。

絶妙の距離感であります。

仏店の郵便受けにコメントDMを入れてもよいのだけれど、
あえて直接ではなく、蝶店の店内ポスターに貼ってます。
(すみません、わかる人しかわからない内容になってしまっています)

絶妙コラボと言えば、
ユメアイさん、いつもお客さんに蝶店を紹介いただき、ありがとうございます。

お客さん紹介システム?
ポイント制?
和気藹々、互助会?

と、訳のわからない内容、今回限りにいたします。


閉じたり開けたり

2016-05-21 | ブログ

懐かしの、閉店セールをしていた仏ブログをちょこっとのぞいてみた。

あらま、再開店準備中の店先で、とても優雅なお客様とのお話に花が咲いていた。
リニューアル キャンペーンの打ち合わせだろうか。

どうやら、閉店セールは、やめるらしい。

わたしの蝶店も、閉店したり、開店したりしていた。
今も、同じ場所で同じ店構えで、細々と営業中である。

蝶店には、仏店から、毎日、お客さんがやってくる。
一日、複数人数。
どうやらお客さんは、あのお店が好きらしい。
閉まっているからしかたなく、蝶店に寄るのだろうか。
蝶店も最近、閉めている日が多いのだが。

でも、仏店、また開店するらしいから、あっちに行ってみてください。
おばあちゃまも華やかににこやかに、花を添えてくださっているようですよ。

 

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自分のお葬式は、こんなかんじでお願いしますね

2016-05-18 | 人生

蝶ブログへのアクセス足跡から辿ったブログ。
いつもありがとうございます、の、お得意様であるが、お墓やお葬式のことが綴られていた。
・・・で、急にそういう類のことが書きたくなった。

わたしは、宗教にはあまり興味がなく、嫌々、渋々、家の宗教と、お付き合いしている。
摩擦を少なく生きるためである。

宗教は、そもそも、戦争や、病、貧困などの苦しみから身を救うためにある。
今の平和な日本は、戦争もないし福祉も整っている。
わたしは、苦しみから逃れるために、つまりマイナスを排除して、明るい光や希望を求めて生きるために、宗教とお付き合いしているわけではない。
今までの慣習を破る気力、勇気、英断がないだけである。
強い逆風に刃向かい、打ち勝つ苦行より、従うほうが楽だから、軟弱なほうを選んでいる。

お寺さんなどに、ばんばん多額の寄付する義母たち。
どうぞどうぞ。それであなたの気が済むなら。
至らぬ嫁のアラを探す時間や気力を、宗教に向けてもらったほうがマシ。

じつのところ、わたしは、ミジンも宗教など信じていないのである。
が、みなさんが、それで安心して暮らせるのなら、あえて反対はしない主義。
ただ、強制されると、がらりと顔色が変わる。

お寺さんは、商売であり、信者や檀家からお布施だかなんだか、いろんなお金をもらって生業を行っている。
どこの宗教家が無料で、宗教活動を行う?
寄付があってこそ。

無料のものは、効き目がない。ご利益がない。
おカネを払うと、これで守ってもらえる、と自己満足するのだろう。
こころの安心をおカネで買う人を咎める気持ちはさらさらないし、止める気も非難する気もない。
僧さんと信者、両者、合意の上で、幸せを分かち合うとよい。

さて、こういうマインドのわたしではあるが、わたしの墓は、もう何十年も前から決定されている。
樹木葬とか、できそうもない。
よほどわたしが、声を大にして子ども達に伝えるのなら、望みも叶うだろうが、
わたしも子ども達も、めんどうだろうから、子ども達がやりやすいようにしてくれたら、それでよい。
わたしがあの世に行ったあとも、そのまま吹きっさらしで放置して、カラスや犬の餌にはしないと思う。
たぶん、後のトラブルを考えると、めんどうくさいから、火葬後、今のお墓に納骨、埋葬することだろう。

なんでもいい。
わたしは、その時は、この世にいないんだから。
残った人々に、お任せである。

お参りは、してもしなくてもいい。
お墓や仏壇には、他にたくさん眠っている人々がいるので、手を合わせると、否応なく、ついでにわたしのことも参ってくれることになる。
お経を唱える時に、「仏壇やお墓にいる人の中で、スローさんだけ除外しますね」なんて、わざわざ、いちいち、めんどくさいことは思わないだろう。

何人も何人も、顔も名前も知らない人々を月命日だのなんとか命日だの、ことあるごとに、わたしは延々と拝む気にはなれない。
そもそもわたしは、血がつながっていない。
言うならばアカの他人である。離婚したら、ほんとうにアカの他人である。
生前、ほんの少しでも接触があれば別だが、アカの他人のことをこころを込めて延々と拝む気はまったくしない。

そもそも仏教は先祖崇拝なので、そういう信教なのだろう。
イエを存続させるには、もってこいの宗教である。

かといって、わたしは、ずらずら並ぶ位牌を蹴っ飛ばすかというと、決して蹴っ飛ばさないし、丁寧に扱う。
現実に信じている人がいるのに、人の宗教は否定しない主義である。


わたしのお葬式は、遺された人々がやりたいように執り行うお葬式でよい。
いっそ葬式なし、でもいいのだが、遺された人々の社会的な顔もあるだろうし、おそらく、無難なお葬式になるだろう。
要は、なんでもいい。わたしは、この世にいないのだから。


じつに自己チューの権化であるが、わたしは、もう自分の人生の中での役割を放棄してもいいと考える。
あえて放棄せずに、今まで通りやっている。選択して、放棄しないだけだ。
子供を自立させた後は、もう、完全に余生の人生だと捉えている。
なので、もう、いつ幕が降りたとしても、思い残すことはない(はず)で、それはそれで突然の完結であり、それも人生である。

とかなんとか言って、
仏壇に向かい手を合わせ、「少しでも長生きさせてください」、と拝んだりして。
そういう日がもし来たら、確実にあの世からのお誘いが迫っていることだろう。

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過去、現在、未来。あれれの、れ?

2016-05-15 | ブログ
リアルタイム・アクセス解析をちらと見てみると、どこぞの誰かさんが、過去記事を引っ張り出して、読んだ形跡あり。

その記事、5年も前の自分の書いた「癒しの微笑には、ワケがある」を読んで、大いにウケた。

私は、ブログは、自分のために愚痴やらなんやらを書いている、と自分で思っていて、記事にもそう書いている。
その時の自分の憂さ晴らしだ。

が、ひょっとして、そうではなく、意図しないにしても、未来の自分を面白がらせるために書いているんじゃないだろうか、と思ったりする。

未来の自分に対するエンターテイメント。
書いている今も楽しんで、未来も楽しめる。
一石二鳥。

そうなってくると、閲覧数がどうとか、ああとか、別の次元になってくる。

現在の自分は、過去の自分に同調して共鳴し、拍手を送っている。
これって、悪く捉えると、進歩がないってこと?
まあ、よろしいじゃありませんか。


未来の自分は、現在の自分にどんな感情や考えを抱くのか、楽しみになってきた。

なにもない

2016-05-09 | わたし

どちらかと言えば、資本主義社会の権化とも捉えられかねない、金の亡者かも知れない、拝金主義の私が、
この歳になって、お金ではない、お金では買えない価値があることがある、お金に振り回されない、プライドの高い生き方もあると気づきました。

もちろん、知恵を駆使した生き方です。
だらだら流されるままではありません。
信念、芯を必要とします。

ある程度のことは、お金で買える時代です。
でも、お金では買えないものがあります。それは、心身の健康だと思います。
人間関係も、ある程度、お金で買えると思います。趣味も然り。
人間は欲深い生き物です。
ある程度、豊かな社会になると、健康以外にも、お金で買えないものを求めます。


ちなみに、私は、あまり結果や成果を急ぎません。
少々、気に入らないところがあっても、気長に対応するタイプです。
元々、合わないこと、人とは、まったく長く続かず、出会ってすぐ決裂になります。
中途半端は、ないです。
合わないこと、人とは合わないので、努力するだけ無駄、しんどいです。

合わないのに頑張るのは、何故そうするのか?
思惑があるからでしょう。
まあ、人それぞれ、皆さんには皆さんの道があります。
キリスト教、仏教、、、宗教は幸せを求めるものです。
イスラム教とキリスト教は、激しく対立していますが、価値観は、宗教にお任せ丸投げにすると、楽ですね。

「もっと、気持ちを込めて仏さん(仏壇)を拝みなさい」と姑に昨日、言われましたが、私は拝むのを一秒、増やしただけです。


価値観や、ものの考え方は、自分を幸せに導いてくれます。
もし、たとえ思い描いた通りにならなくなっても、そう極端に嘆かないと思います。いつも静かに燃焼しているからです。

自分では素晴らしいと自負している人であっても、結果的にはマイナスを招く行動 をとっていることがあります。
頑張った自分を評価してほしいと思うのは、当然だと思いますが。
しかしながら、負に導くぐらいなら、あえて、なにもしないという選択肢もあります。
なにをしたか、ではなく、結果が全てかも知れません。

私は、燃え尽き症候群にはなりません。
もともと、なにもないからです。
なにもないということは、柔軟で意外に強いようですね。








GWが、過ぎた

2016-05-07 | わたし
GWは、ああなって、こうなって、そしてGWは、終わった。

自分は、GW前とまるで同じ行動をしている。
GWなど、なかったかのように。
でも、なにかが変わったような気がする。

時間がまとめて取れるようになったら、詳しいことは書く予定。
といっても、人生相談ではない。

何事も、表裏一体である。
まったく違う、正反対のことが、ぴったり張り付いていて、表になったり、裏になったり。

あまり、突き詰めて考えては、老人性精神病になってしまいかねないから、やめておく。
(そんな病気、あるんですかね?)

白黒はっきり決着をつけずに、曖昧に。
ひと昔流行った、「ファジー」。
決着をつけると、壊れてしまう。

ヒビが入ったまま、そっと庇うようにして日々、生きていけば、案外、長持ちする。
ヒビをヒビと思わず、プラス思考にとらえるとよいのだが、適切な名句が思いつかない。

GWが、あっても、なくても、時間はしっかり過ぎたことだけは確かだ。