趣味仲間Aさんの奥さん(Bさん)の実家。
古くから続く家らしく、家にある仏具は、1600年代の刻印があるとか。
Bさんの親御さんが亡くなった後、17世紀頃より前から続く墓は、永代供養にしたそうだ。
400年の家の歴史は、とりあえず終了。
墓を終えば家はピリオドなのか?
家と墓(祭祀)は、セットなのか?
特別に代々から引き継がれる財産はないとのこと。
祭祀費用は、受け継いだ人の持ち出し。
それじゃあ、年月が流れ、現代に家が細胞分裂して核家族となって暮らす人々には、なかなか厳しいという感想を抱く。
さて、ある、阪神圏内であるが田舎の家。
直系の跡継ぎが不在でも、養子で繋ぐ。が、墓は繋がないというケースがある。
祭祀をセットにすると、子供は跡を継いでくれない可能性が高いだろうと危惧されるからだ。
養子に土地やお金を相続させても、宗教心がないため、祭祀はしてくれない。
養子が、祭祀もせずに、土地、お金だけ取るのなら、お金の使い道を指定すべき。
経済的に余裕がある、お金を稼げる養子は、そんな面倒なお金なら受けとらない。
お金のない養子なら、引き受けるだろうけれど。生計を立てる仕事として。
あるいは、自分自身のお金が有る無しに関わらず、継承に賛同する場合は、引き受けると考えられる。
義務とお金は、セットである。
祭祀の義務としては、何年かに何度か、法要を行う。
盆、彼岸に墓参り、読経。
(これは、近くに住んでないと困難。墓掃除は代行業者に依頼することも可)
適任者がいなければ、家が絶えると見なされてもいいから、いっそ、祭祀をやめてしまうという選択肢もある。
故人たちを偲ぶ会で代用する。
宗教色を抜く。坊さんはカット、呼ばない。墓終い、永代供養。
親戚たちの集まりでいいのでは?
しかしながら、日月が決まっているほうが、わかりやすい。
では、その日に、坊さん抜きで、集まる。
宗教を切り離した、家だけの継承。
だが、相続資金が底をついた段階で終了。
税金を根こそぎむしり取られるので、一代延命されるだけと予測する。
夫の家の場合、祭祀抜きは、夫の目が黒いうちは、大反対するだろう。
夫や、夫の姉があの世に行けば、家の運営に反対する人は誰もいない。
しかし、わたしは夫と同世代。どちらが先に逝くかは、わからない。
わたしが先に逝けば、あとのことは関知せず。
夫が先に逝き、夫の姉が反対しても無視する予定。
その頃は、あちらも力もないだろう。
それ以上にわたしも、輪をかけて、よれよれよぼよぼ「あなた、だれ? わたし、だれ?」だろう。
息子は、どう出るか?
楽しみであるが、期待していない。
意外に、娘が、孫を養子にして祭祀を行ってくれるかも知れない。
ただし、こちらの要望、切なる願い、潤沢な相続財産があれば、の話だろう。
仮にいくら財産があったとしても、懇々と訴え続け、諭し、想いを受け止めてくれたらの場合。
その後の長い年月は、わたしはあの世に行っているので、知る由もない。
お金と情熱を遺し、バトンタッチしないと宗教の継承は無理だろう。
家だけ祭祀から独立させて継承させる、新しい試みがあってもいい。
しかし、継承させるには、求心力のような、強力な接着剤のような、マインドコントロールが必要だ。
維持、継承するのをやめて立ち消えになると、代々から続いた家は、形骸化した、伝説、昔話になるだろう。
時代の流れには逆らわない。いや、逆らえない。
わたしたちの子供たちが、どうするか、であるが、彼らもリタイア生活を送っている年齢になり、どうなっているか。
今のわたしの年齢になった子供たちは、どう感じ、どう考えるだろう、、、
それよりも、わたし自身がどう変化しているだろう。
典型的な年寄りになって、煙たがる若い人々に、高圧的に詰め寄るか、グチグチへばりつくか、あるいは、片手で必死で持っていた手を解放し、両手ともフリー。
両手を離し、海の彼方か、宇宙に解き放されるのかも知れない。
しがらみにも、血縁にも解放されて。
その時は、幸せの絶頂か、あるいは、、、?
なるように、なる。
なるようにしか、ならない。
古くから続く家らしく、家にある仏具は、1600年代の刻印があるとか。
Bさんの親御さんが亡くなった後、17世紀頃より前から続く墓は、永代供養にしたそうだ。
400年の家の歴史は、とりあえず終了。
墓を終えば家はピリオドなのか?
家と墓(祭祀)は、セットなのか?
特別に代々から引き継がれる財産はないとのこと。
祭祀費用は、受け継いだ人の持ち出し。
それじゃあ、年月が流れ、現代に家が細胞分裂して核家族となって暮らす人々には、なかなか厳しいという感想を抱く。
さて、ある、阪神圏内であるが田舎の家。
直系の跡継ぎが不在でも、養子で繋ぐ。が、墓は繋がないというケースがある。
祭祀をセットにすると、子供は跡を継いでくれない可能性が高いだろうと危惧されるからだ。
養子に土地やお金を相続させても、宗教心がないため、祭祀はしてくれない。
養子が、祭祀もせずに、土地、お金だけ取るのなら、お金の使い道を指定すべき。
経済的に余裕がある、お金を稼げる養子は、そんな面倒なお金なら受けとらない。
お金のない養子なら、引き受けるだろうけれど。生計を立てる仕事として。
あるいは、自分自身のお金が有る無しに関わらず、継承に賛同する場合は、引き受けると考えられる。
義務とお金は、セットである。
祭祀の義務としては、何年かに何度か、法要を行う。
盆、彼岸に墓参り、読経。
(これは、近くに住んでないと困難。墓掃除は代行業者に依頼することも可)
適任者がいなければ、家が絶えると見なされてもいいから、いっそ、祭祀をやめてしまうという選択肢もある。
故人たちを偲ぶ会で代用する。
宗教色を抜く。坊さんはカット、呼ばない。墓終い、永代供養。
親戚たちの集まりでいいのでは?
しかしながら、日月が決まっているほうが、わかりやすい。
では、その日に、坊さん抜きで、集まる。
宗教を切り離した、家だけの継承。
だが、相続資金が底をついた段階で終了。
税金を根こそぎむしり取られるので、一代延命されるだけと予測する。
夫の家の場合、祭祀抜きは、夫の目が黒いうちは、大反対するだろう。
夫や、夫の姉があの世に行けば、家の運営に反対する人は誰もいない。
しかし、わたしは夫と同世代。どちらが先に逝くかは、わからない。
わたしが先に逝けば、あとのことは関知せず。
夫が先に逝き、夫の姉が反対しても無視する予定。
その頃は、あちらも力もないだろう。
それ以上にわたしも、輪をかけて、よれよれよぼよぼ「あなた、だれ? わたし、だれ?」だろう。
息子は、どう出るか?
楽しみであるが、期待していない。
意外に、娘が、孫を養子にして祭祀を行ってくれるかも知れない。
ただし、こちらの要望、切なる願い、潤沢な相続財産があれば、の話だろう。
仮にいくら財産があったとしても、懇々と訴え続け、諭し、想いを受け止めてくれたらの場合。
その後の長い年月は、わたしはあの世に行っているので、知る由もない。
お金と情熱を遺し、バトンタッチしないと宗教の継承は無理だろう。
家だけ祭祀から独立させて継承させる、新しい試みがあってもいい。
しかし、継承させるには、求心力のような、強力な接着剤のような、マインドコントロールが必要だ。
維持、継承するのをやめて立ち消えになると、代々から続いた家は、形骸化した、伝説、昔話になるだろう。
時代の流れには逆らわない。いや、逆らえない。
わたしたちの子供たちが、どうするか、であるが、彼らもリタイア生活を送っている年齢になり、どうなっているか。
今のわたしの年齢になった子供たちは、どう感じ、どう考えるだろう、、、
それよりも、わたし自身がどう変化しているだろう。
典型的な年寄りになって、煙たがる若い人々に、高圧的に詰め寄るか、グチグチへばりつくか、あるいは、片手で必死で持っていた手を解放し、両手ともフリー。
両手を離し、海の彼方か、宇宙に解き放されるのかも知れない。
しがらみにも、血縁にも解放されて。
その時は、幸せの絶頂か、あるいは、、、?
なるように、なる。
なるようにしか、ならない。