「人間が死ぬ寸前に思うこと」
どこかの国の看護師さんが書いた本が紹介されていた。
人間は死を前にすると、一生を振り返り、後悔するようだ。
「期待に応えるよりも、“自分らしく”生きればよかった」という後悔。
死を目の前にしないと、人生のピリオドに気付かない。当然だ。
まだまだ先があるから、その時にしようと、先延ばしにする。納得だ。
今でなくてもいいだろう、今日出来ることは、明日しよう、と。
逆に、「明日出来ることを今日するな」という教えもある。
表裏一体か。
「がむしゃらに働いたこと」の後悔。
男性は一家の大黒柱という位置づけだった。
日本がどんどん国際的に成長していく中、
今日の日本の地位を築くには、がむしゃら労働は、必要不可欠だったと思う。
いまでこそ、ゆとりの時代だとか、男女平等、子育ても家事も夫婦でシェア、が当たり前になっているが、
時代の流れも大きい。
あんなに家族のために頑張ったのに、
今では、家庭ゴミ扱いされるんなんて、過去の実績との雲泥の差をひしひし感じる高齢男性も多いことだろう。
強くなってしまった女性たちは、もはや、もとには戻らないので、現実は現実として受け止めることが大事だ。
時代には、ある程度、迎合していけないと、生きにくい。
「自分を押し殺し、我慢して自己主張しなかった」という後悔。
自分さえ我慢したら、まるく納まる・・・
そう歯を食いしばって頑張って、ストレスをためて病気になったのでは、だれが責任を取ってくれる?
少しずつ、トライして調整して、バランスを取ってみると、身が軽くなる。
が、死ぬ寸前では、時遅し。
「友達とあまり交流しなかった」という後悔。
生活に追われたり、歳をとって疎遠になったりで、手を抜いていた友人関係も、
残りわずかな時間となると、後悔するらしいが、
わたしに関しては、あまりない。
著者の看護師さんは、一般的に、多くの人を見てそう思ったのだろう。
「自分の幸せを追求すればよかった」という後悔。
著者は、そう書いているが、
多くの人は、尽くし我慢した分が報われなかったと感じるのだろうか。
わたしの場合、世の中のことで一番の関心事は、自分の幸せなので、
自己チューである自分に関しては、この項目は、問題なくクリア。
死ぬ間際になるまで、自分は生かされていると思っていたのだろう。
神の与えた生であり、死である。(わたし、神様を信じているわけではありませんが)
なので、能動的に生きている、と気づく人は、ほとんどいないと思う。
自分の人生の軌跡は、宿命だとか、運命だとか、偶然、与えられるものと考えている。
幸せそのものが、選択肢であることに気づかない。
旧来の価値観から解き放たれることなく、また、反対勢力の逆風を受ける勇気もなく、改革する気力もなく、
安易に今までどおりの生活を、愚痴りながら送る。
自分ができないでいることをしようとする、新しい芽は、非難し、つぶしにかかる。
右へならえ、まわりの人と歩調を合わせることだけを考え、自分流を確立しようとしない。
死ぬ間際になって、
あれ?
自分って、なんだったの?と気づく。
反省したり、悔やんだり。
ああ、楽しかったと笑って死ねる人なんて、あまりいないように思う。
ピンピンコロリが理想だが、どんなにヤンチャな人生を送り、周りに苦笑いされたとしても、
死ぬ時は、優秀、優等生的に死にたいものだ・・・が、おそらく、無理だろう。
時間の関係で、焦って駆け足で書いたので、集中力散漫、雑になってしまった。
駆け足で書く内容ではないのに、ね。
きっと、死ぬ直前にならないと、マジメに、真剣に考えないのだろう。