蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

生々しすぎは、干してから

2019-07-30 | 日々のこと
帰りの電車内で、つらつら、ホンネを淡々と書いたが、アップできない。
しばらく、今の事態が収まるまでは。
今は、わたしの気持ちが、まだ生々しすぎる。
書くのは良いが、公表するのははばかられる。
とりあえずは、文字群たちは、お蔵で静かにしてもらおう。
水にさらして、アク抜きして、さらに冷蔵庫で寝かして、それからどうするか考えよう。

え〜?こんだけ〜?

2019-07-30 | 日々のこと
今朝は退屈だ。
昨夜から下準備していた、孫弁当。
それも作り終え、手渡し完了。
待ち時間に、草むしり。
ゴミ出ししたら、もう朝の仕事が終わった。
出かける準備まであと30分あると計算してブルーマウンテン・コーヒーを入れた。
いつの間にか残り時間はあと10分。

なんにも出来なかった感がある朝。
孫弁当は毎日続くので、無いアタマを絞る。
今朝、孫に手渡したら、「え〜?、こんだけ〜?」と不満顔。
多過ぎても負担だろうと、気を使って少し容量を減らした。
さらに炭水化物に偏ってはいけない、と思い、サンドイッチ2切れを抜いて、ミニ容器にトマトを入れた。
中味ボリュームに気をつけているが、孫は多くても良いようだ。
夏休みの間は毎日なので、試行錯誤。
御飯を炊いても、冷ましてからお弁当に詰めないといけないから、少し時間を要する。
しかし、前の夜のご飯は、明らかに美味しくない。
孫にはわからないだろうけれど、作る側としては、不味いものは渡したくない。
でもサボりなので、つい、サンドイッチの回数が増える。
サンドイッチは、前夜にゆで卵やら、具材を用意するだけ。
朝に、ちゃちゃっとパンに挟んで、切って、詰める。

そう言えば、20歳の時、オックスフォード近郊にホームステイした時、ステイ先のmamaに、いつも、お弁当を持たせてもらった。
毎回毎回、楽しみに、とても美味しくいただいた。
毎日サンドイッチだったが、中身は少しずつ違っていたような気がする。

ちょうど、あのmamaと、わたしは同じぐらいの歳。
娘さんや、可愛いお孫さんも、今の娘たちや孫たちと同じぐらいの歳。
リタイアされていたpapaも同世代。
朝には可愛いお孫さんが、breakfast is ready!と部屋まで呼びに来てくれた。
懐かしい光景、のどかな風景が蘇る。

、、、詳しく書きたいのだが、今、場所を移り電車で移動中。
お盆の予定、問い合わせ、調整にあたふた中。
続きはまた、帰りの電車内で。

「嫌い」の徹底分析、のつもりが、、、

2019-07-29 | ブログ
嫌いな人のことを書くと、不思議とわたしは盛り上がる。
好きな人のことを書いても、さほどイキイキ感は自覚できない。
なんでだろう?

それは、好きな人、ことは、リア充となり、満足しきっているため、今更文字にして発散する必要性を感じない。
自慢たらたら日記や、これ見よがし感が臭うインスタグラムの人は、おそらく、「もっと褒めて〜」という欲求が十分満たされてないのだと思う。

嫌いな人に向かっては、わたしは問題解決に向けて動かず、くさいモノに蓋をしているだけなので、溜まってくると中で発酵したり、化学変化を起こし新たなガスが吹き出したりして、上に乗せている蓋を押し上げる。
時には蓋を外すほどのパワーまで肥大化することがある。
爆発する。

マイナスエネルギーは、プラスエネルギーよりパワフルだと感じる。
行動、アクションを起こさせるのは、マイナスエネルギーからだと思う。
「必要は発明の母」と言われるのも、ちょっとそれに似たイメージがある。

マイナスを取り除かないと、美しいキレイなプラスは、上には育たない。
腐ったものの上には、良いものは育たない。
砂上の楼閣は、長持ちしない。

深刻な犯罪を犯す人の背景には、氷山の一角のような黒いマイナスがあるが、その下には膨大な動かしようのない闇黒マイナスがある。
塩漬け負債のように、カチンカチンになって溶けない。

犯罪にまで発展しなくても、親子のこころの軋み(きしみ)、歪み(ひずみ)も、深刻である。
育成歴だけでなく、DNAも関わってくる。
同じ血が流れていると個別に分けて切り離すことが出来なくなる。
親も子も、自立は人生の重大ポイントである。

とまあ、アタマに浮かんだことをだらだら書いたが、わたしが嫌いな人のことを書こうとしただけで、これだけ脳が喜んだ。
わたしの中には、イジってほしいマイナス因子、分子が、まだかまだかと取り上げられる順番を待っているのだろう。

一種のセルフカウンセリングかも知れない。
自分がクライアントで、なおかつ同時にセラピスト、カウンセラーだ。
カウンセラー料金も発生しないし、時間はいつでもいいし、場所もどこでも移動しながらでも良い。
「ありがとうございました」と、お礼を述べる側と、「どういたしまして。お役に立てて嬉しいです」と言う側が、同一人物。
まさに、ブログはセルフカウンセリングの有効ツールである。
良かったねー。手軽で便利。

であるが、それはいいから、、、なかなか「嫌いな人」の話に辿りつかない。
わたしが嫌いな人は、わたしとは全く共通点を持たない考え方、感性を持つ人。
真逆な人は面白いと感じるのだが、こころが正常に働いている人の真逆は大いにウエルカムだが、なんらかの怨みを抱えたまま長い時代を生きてきた上で歪んで形成された脳や精神の真逆は、接したくない、触れたくない、近寄りたくない。
見なかったこと、無かったこととして、掘り下げない。
問題として、ピックアップしない。

自分が関わるのは、必ずプラスの人。
嫌いなタイプ、性質は、即わかる。
そういう人はそういうタイプの人々と、分かり合え共有し合うようだ。
だから、お互いに接点を持たないため、分離され、争いは起こらない。
タバコの分煙みたいなものだ。

内容、性質に関して書かない。
書いても、血湧き肉躍らない。
該当すると思われる人をへんに刺激したくない。
そっとしておく。
そんなので、わたしのこころは晴れるのか。
不思議と晴れる。
アタマの中で、もやもやが整理整頓されると、じつにスッキリする。

しかし、たっぷり熟睡したのに、また眠くなってきた。あまり脳は騒いでいないようだ。
脳エネルギー、夏休みかも知れない。

上から目線、下から目線

2019-07-25 | ブログ
わたしのブログ。
イヤミったらしいなあと、逆・自画自讃。
自虐テイスト風を装い、結局は自慢。
隠れ「上から目線」で自己満足している。
他人を攻撃したいとか、目立ちたいとか、そういう思いは全く自覚していない。
深層心理としても、今のところ、そういった真実を発見するには至っていない。

過小評価は、過大評価の裏返しかも知れない。
わたし程度でさえ、こんな自分を過小評価しているのに、もっともっとヒドイ人、ダメな人が全く悪びれず過大評価している。
それが許せない。不思議でもある。
もっとレベルは低いんですよ、あなた。
と、そう言いたい。
自分共々、引きずり下ろしたい。
でも、無知な人、世間が狭い人は、幸せだ。
そういう人には、かなわない。
人のささやかな幸せをぶち壊してまで、現実を知らしめる必要はないと考える。
なので、言わず語らず。

逆に、最近は下火かも知れないが、これ見よがしに、インスタグラムやブログ、ツイッターなどで、自分の生活を見せびらかす人がいる。
(わたしのブログにもそういう要素は隠されているが、隠されていると思っているのは本人だけで、アタマ隠して尻隠さず。ぷんぷんニオイを発しているはず)
人様が見せびらかすことに対しては何も思わないが(内情は、外に現れていることほどでもないのが、よくわかっているので)。
問題は、そういった発信されたものを鵜呑みにする人。
必ずいる。
華やかな人、活躍している人に対して、自分共々比べ、羨望、焦り、絶望感を覚えたりする。
例えば、NYから夏休み帰省してきたママ友。(女性ファッション誌からパクリました)
ママ友たちのホテルランチは、このファッションでキメよう!
なんて、キャッチコピー。

服やバッグ、靴、アクセサリーを売るための戦略なのだが、実際のNY在住、美人有名人を起用して、ママたちのこころを揺さぶる。
服は、どこが良いのか、わからない、たいしたことないと感じてしまう。
単に、ゼネレーション・ギャップだと思うが。
センスには、生きてきた時代が反映されているから、30.40代女性とわたしが、同じファッションセンスだとすると、そのほうがおかしい。
実際、娘たちともファッション・センスは合わず、孫に買う服も、一体どこが良くて?みたいなもの。

わたしが、笑ってしまうのは、仕掛ける側の、女性たちへのこころの、くすぐり方。
就学ぐらいの子供がいる、外国在住ママ友も交えた、ママ友たちとのランチ会をイメージしているところが、面白い。
(この面白がり方は、明らかに上から目線なのであるが)

自分が帰国子女でもなく、海外で活躍しているわけでもないのに、なんか、ネタ・バレバレ感を感じてしまう。
実際に活躍している、娘の友達たちの様子を聞いたりすると、ファッションイメージとは大きくかけ離れる。
わたしが知らないだけかも、であるが。
(知らないくせに思い込みは強い傾向あり)

自分の持つ「上から目線」が嫌で、意識して無理して打ち消そうとするうちに、なんだか、不自然な「下から目線」になってしまったような気がする。

父などは、時代のせいもあり、かなりの上から目線だった。
姉とわたし。同じ環境で同じ親の元に育った。
ああいうの、嫌だよね、と姉は独自の路線を築き歩んだ。
わたしは、嫌だよね、とは思ったものの、嫌な路線に自分も乗っている。
独立、自立せず、同じような道を歩んでいるが、時代の風潮や価値観の変移もあり、父ほど露骨ではない。
父のように、家庭内だけでオフレコでホンネをいつも口にされると、そのような環境下で育つとどうなるか?
否定するか、影響を受けるか、どちらかだ。
ちなみに、兄は、全く別のキャラクターを形成している。
兄は、日本語を話す宇宙人のような人。
ひょっとして、我々きょうだいは、変人きょうだいか?
姉だけでもマトモな路線を歩いてくれたら、御の字だ。
我々きょうだいの救世主である。

長々だらだら書いたが、なんの話だった?
まあそういうことで、「上から目線父親」と「感情動物母親」を親に持ち、世間の荒波で揉まれ(揉まれているのに、揉まれている実感が欠如?)、自分で修正、調整が不十分であると、わたしのようなキャラクターが形成される、というわけだ。

本来、元から備わっている「上から目線」と、後に作った「下から目線」が、うまくミックス、融合されず、極端に上に行ったり、下に行ったり、と、乱気流で進む。
だから、わたしのブログは、「けったい」※なのだろう。

※ググると、関西弁で、「変」「奇妙」となっていた。
年配が使う関西弁なんだそうな。
ついに、わたしも、年配者!!仲間入り!




保身の笑顔

2019-07-23 | わたし
下記、1週間前に書いてボツにしていたけれど、蔵から出して来てアップします。
今、読んだら悲痛な叫びが聞こえてきそうで面白かったので。
現在、わたしは小康状態。



ああ、つまらない。
何をしても面白くない。
こころも胸も弾まない。
あと30分ぐらいで出掛ける準備をして、さっさと出発する。
今日も、お見舞い。
昨夜持ち帰った姑の洗濯物。
洗濯して昨夜から今日にかけて乾かしている。

楽しくないのは当たり前。
しかし、仕事が楽しい人もいるだろう、勉強が楽しい人もいるだろう、親孝行が楽しい人もいるだろう、世間の皆さんのお役に立つのが楽しい人もいるだろう、、、、
楽しくない人もいるだろう。

同じ、しなければいけない義務なら、楽しんでやりましょう!
お掃除も楽しんでやりましょう!
人助けも楽しんでやりましょう!

しかし、わたしはそんな出来た人物ではない。
理想とのギャップ。

生きることは、尊いこと。
生きるお手伝いをさせていただくなんて、喜んで身を捧げましょう!
なんて、、、どこの宗教?

もし、自分が逆の立場なら?
悲観主義者、pessimistになることはわかりきっているが、おそらくわたしは、アタマが楽園になっているだろうから、何も感じないことだろう。
はやく、後光が差す生き仏になって、人様にこころから救いの手を差し伸べたい。
そんな時には、きっとわたしの脳は壊れていると思う。

燃える火に、灰をかぶせるか、水をかけるか、酸素をシャットアウトする。
冷静、クールになる。

そんなに無理して、そんなに嫌なら、自分のこころに素直をなれば?
そういうわけには、いかない。
社会で生きる社会人として、果たす義務、役割がある。
義務を放棄すれば、そのほうが更に苦痛かも知れない。

嫁の役割。
娘の役割。
目の前の相手は同じような状態、病状だ。似たようなもの。
違いがあるとすると、義務感か、自主的か、の違い。
皆さん、通って来た道。
頑張ろう!
お世話になった人ではないか。
何食わぬ顔で、何事もなかったような笑顔で、接しよう。
皆さんも、そうしてるし。
出来ないことはないはず。

なんだか、眠くなって来た。
明らかに、無理してる。

壊れた人に、こころを添わせられない

2019-07-22 | 日々のこと
お見舞い、帰りの電車、、、寝過ごした、、、。
おマヌケも、ほどほどに。

腰が痛くなるほど寝過ごした。
いったん、終点まで行って、また一からやり直し。
何やってんだか。
最も脳が赤信号なのは、わたしなのでは?

入院先で、姑のリハビリに着いて行った。
姑、「こんなに歳がいっているのに、キツすぎます」と担当者に、(姑にとっては)過酷なリハビリを緩めてもらおうと、お涙頂戴アピールしていた。
なんと、彼女は歳をサバ読んで、3歳老けた年齢を口にしていた。
「女性は1歳でも若く見られたい」なんてのは、余裕がある人の話のようだ。
リハビリ担当の人に、「なにも年齢が高すぎるのではなく、1番あなたの年齢の人が多いんですよ」と諭されていたが、聞く耳持たず。
姑は、少し手を差し伸べてサポートしてもらうと自力で歩ける。
なのに、病室では、全く動けないようで、一切を任せて、身体を横にもナナメにも微動だにしない。

わたしは、数年前、盗作疑惑で問題になった、盲目で障がいがあることを装った作曲家を連想した。
姑の場合は、わざとではないと思うが、強い思い込みが、そうさせると推測した。
自分は重病人だと思い込んでいる。
耳も聞こえないらしいが、小さな声でも聞きたいことは聞こえている。
聞きたくないことは聞こえないようだ。
脳が仕分け、ジャッジする。
耳がダメなら目で、と、わたしがカンタンな単語を大きな文字で書いて見せても、わからない。
読む気がないだけで、理解しようという姿勢を拒んでいる。
脳の問題。司令塔の問題。
本人にその気がないから、仕方ない。
いくら、ぎゃーぎゃー、がーがー言っても無駄。
姑の気持ちになって、全てを受け入れ認め、理解し、気持ちに寄り添い、不安を取り除くと良いそうだ。
ニコニコ、大仏さん、観音さんのように、慈愛に満ちた笑顔で包み込むには、まだわたしの修行が足りない。
もう少し、この現実を受け止めるには時間が必要である。
今、即座に全てを肯定する、にこやか阿弥陀如来になれない。


実母の場合は、すんなり行った。
強烈なプライドや思い込みがないからだろう。
訳のわからない変なことを言っても、仕方ないなあ、とわたしに余裕があった。
病気だから仕方ない、と。
姑の場合は、なかなかスムーズに認めることが出来ない。
なぜだろう?

姑の精神的な問題が、トラブルの元を作っている。
思い込みが激しすぎる。
一種の脳の病気なんだろうと想像する。
母の病気の出方と、少し違う。
人それぞれなのだろう。

なぜ、実母に対しては、壊れていることをすんなり認めることが出来て、姑には出来ないのか?
実母の壊れ方は、猫が仰向けに寝てお腹を出しているような無抵抗感がある。
姑は、違う。
抵抗しても無駄なのに、髪を振り乱してナイフや包丁などの凶器を隠し持っているような、そんなかんじ。
しかも、凶器の先が、リュックからはみ出て人を傷つける恐れがある、そういうイメージ。

壊れ方によって、すんなり認めることが出来ないものは出来ない。
諸刃の凶器で精神的にわたしまで壊れてきそうだ。
姑の実の娘さん(義姉)にお任せしよう。

現状に慣れるまでの辛抱だ。
慣れたらきっと、どうも思わなくなるに違いない。(と期待しよう)
あと少し。
体験を重ね、経験を積むと、わたしも理性的になれると思う。

デキが悪い嫁は、愚痴っても共感得られず

2019-07-22 | 日々のこと
さて、今日は姑のお見舞い日。
義姉さんから、くれぐれも無理しないでね、と労いのお言葉を(メールで)頂戴した。
息子から所用でメールが届いたが、返信内容は下娘に聞かなければならないことだったので、メールでccを付けてやりとりしていた。
それをキッカケに、上娘がLINEの新グループを作成してくれた。

わたし、息子、上娘、下娘のグループLINE、新誕生!
なんだか、すごくへんなかんじ。
なぜなら、息子は糸の切れた凧のように、海を隔てて飛んで行ったきり、ほぼ音信不通。
生きてるんだか死んでるんだか、安否確認にはググって調べている。
久々ぶりにググってみると、動向がわかり、どうにか活動しているようで、なにより。

まあそれだけ疎遠の息子であるが、、、
週に数回、顔を合わせる上娘、昨日、帰省してきた下娘との3人グループLINEは、盛んで毎日、おんな、かしましピーチクパーチク。
これに、疎遠息子を入れた4人LINE。
最初は、パーっと姑の病状報告やりとりで盛り上がったが、今度いつ帰ってくる?と上娘が息子に聞いたら、プツンと終わり、静かになった。
まあ、そんなもの。
メールよりは、マシになると喜ばしく思っている。

で、100%姑寄りの息子のありがたいアドバイスを受け、今後も対応していこうと思う。
2歳ぐらいの頃、わたしたちの遠方の(夫の赴任先)住まいを訪ねてきてくれた姑が帰ってしまった日に、一日中、「おばあちゃん、おばあちゃ〜ん」と泣いていた息子。
三つ子の魂百までも、か。
うちの子供たちは、おばあちゃん(姑)が大好きだから、絶対に悪くは言わない。
わたしのみ、悪者。
良い行いをしていると、良く思われる、という典型の姑。好循環。
なんの文句がありましょうか。
ない。

誰に愚痴っても、わたしが至らないとの辛口アドバイス。
スコ〜ンと痛快なコメントを発してくれるのは、姉と姉の仲間たちぐらいだ。
でも、それでとても救われている。

悪魔のささやきコメントをバイブルのように、そっと忍ばせ、こころに繰り返しリピートしている。

皆さん、口ではきれいごとを言っても、いざ自分が世話をする段になれば、きれいごとでは済まされない。
それをよく知っているのが、姑介護経験者である、嫁たち。
理想と現実は違うのだ。

息子だって遠くから理想的なことを言うが、実際に実践するのは、わたし。
あんた(=息子)、代わりにする?
と言っても、できないことがわかりきっているので、結局、嫁の肩にかかる。

わたしとて、お世話になった姑。
できるだけのことは、するつもり。
ただ、自分の心身を壊してまではしない。
どんなに非難されても。
非難する人がいたら、わたしの代わりにやってください。お願いします。
「自分はこれだけ尽くした、なのにそれに比べてあなたは、、、」
と言う人がいたら、あなた、そんなに頑張り屋なら、ここに来て代わりにして頑張ってくださいな。
わたしは、とてもその人に感謝する。
(どんな人か知らないけれど)
ただし、やり方が気に入らないと、感謝しない。
だとすると、その人はくたびれ儲け。
誰も喜ばず、疲労するだけ。

と、行きの電車であれこれブログで愚痴っている。
なかなか電車が目的地に着かないから、なかなか終わらない。



自己嫌悪に苛まれる

2019-07-17 | 日々のこと
出発準備するまでの30分間にブログ記事を書いたが、お蔵入りにした。
暗いし、ハラワタ真っ黒で、公開するのは気が引ける。
わざわざ真っ黒を見せつけられて、誰が嬉しい?
だから、しまい込んだ。

で、新しく行きの電車内で別記事を書いている。
でも、おそらく根っこのところは同じなので、洋服を替えたり、パッケージを替えても、本質は変わらない。


さて、今日も姑の入院先へ。
昨夜持ち帰った洗濯物は、昨夜洗濯して、室内干しから天日干しにチェンジし、本日、持っていく。
うちには、ゴム手袋がなく、汚物が付着した洗濯物をあらかじめ部分洗いするのに、素手だと、かなりの勇気が必要。
それを愚痴ると、長女がゴム手袋を持ってきてくれ、とても助かった。
姑の洗濯物と夫の洗濯物は、同時に洗濯機に放り込んで洗う。(予洗いは済んでいるから、陰湿なイジメではない、、、と自己擁護)
夫と姑は親子だから、一心同体でいいんじゃないかと。
ちなみに、わたしの洗濯物は、別洗いする。
親子じゃないし。(もし、親子でも、別洗いする)
将来、息子の嫁が、わたしの洗濯物を息子の衣類と一緒に洗い、嫁の分を別洗いにしたら?
いちいち報告してくる人もいないだろうから、知らぬが仏。
だが、息子に嫁がおらず、息子が洗うことになると、ちょっと哀しいかも。
嫁がいても、息子が洗うことになれば、あまり哀しくないかも。
娘なら、「お母さんの洗濯物だけ別に洗ってる。面倒やけど汚いから」なんて、ズバっと言いそうだ。
病院のレンタルパジャマを利用するかも知れないが、夫は渋い顔。
どっちにしても、下着は汚れる。

さて、ここから帰りの電車内での入力。
くたくたに、疲れた。
自宅介護している人は、本当に頭が下がる。
老々介護で、痛ましい悲惨な事件が起こるのは必然だと感じる。
病院のスタッフの皆さんには感謝のみ。
来る日も来る日も、3Kの仕事。
本当に大変である。

病院でお世話?すると、必ず、「娘さんですか?」と聞かれる。
必ず、である。
つまり、嫁は来ないか、あるいは、来ても娘の次なんだろう。
嫁は、じつに、つまらないポジションだ。

いっぱい入院先に持って来た、洗った洗濯物は、2倍の量の汚れものと交換。
ゴム手袋の出番が増える。
しかし、洗濯など、楽なものだ。

何年も介護している人は、言語に尽くせない苦労を抱えている。
人間はああならないと、土には還れないのか。
アタマが壊れ、脳が司令塔として機能しないため、身体が動かず、他者が動かそうとすると、やたら重い。
アタマが壊れていることを本人は自覚していないのが、厄介だ。
体力的なことではないが、意外に強烈にストレスの元になる。


晩年、認知症になった母方の祖母を、お嫁さんが何年も自宅介護した。
お嫁さんはお姑さんを送った後、そう時間が経たないうちに亡くなった。
介護疲れが死期を早めたと思う。
昔の人はハードな時代を過ごした。

踏ん張り時だ。
覚悟を決めるしかない。

が、電車、乗り間違えて、30分無駄な待ち時間。自己嫌悪。
夫の帰宅時間が迫るし、食材買い物の時間やバスの時間、帰宅後の外干ししている洗濯物の処理など、時間逆算すると、たいへん貴重な30分である。
疲れている上に、こういうのが、私にとってはすごく、トゲトゲ神経に刺さる。

最大のストレスは、夫からわたしへ、労いの気持ちがないことである。

嫁のホンネは強烈

2019-07-13 | わたし
姑の入院とほぼ同時に、兄が入院した。
あちこち、お見舞い日を決めるにも予定が詰まっていて、何かを犠牲にしなければ時間を作れない。

しかも、姑は、夫が毎日お見舞いに行っているにもかかわらず、「息子だけが顔を出さない」とボヤいている。
夫、目の前で言われて、かわいそう。

わたしも、姑の認識では、「先生」から「嫁」になったが、また、昨日は「先生のお嫁さん」になった。
先生と嫁をちょうど足したようなかんじだ。

あんなに賢かった姑が、、、
ため息、、、
賢すぎるのは不幸だ。
実母は、あっけらかん〜と、いつもゲラゲラ、ハッピーマインドだが、姑は哲学者になっている。
生と死を見つめて、人生を嘆いている。
すっかり深刻な悲観主義者になっている。

入院病院の医療スタッフの目が行き届く観察室にいる姑のお世話をしに通っているわたしだが、何をしていいのやら。
すっかり気が滅入る。まいる。
重苦しい気分。
姑は、わたしである認識があったり、なかったり。
すぐに忘れてしまう。
何をしても、ザルに水。

相手はわからなくても、お世話する側が気が済むまでお世話して悔いがないようにする、という、おエライ人がいる。
わたしは無理。
相手は何もわからないのに、自分の自己満足などとても得られない。
自分に嘘をついて、無理して頑張って、自分を消耗、疲弊させて、誰が喜ぶ?
いったい、誰のためにお世話する?
学生時代習ったキリスト教の教義に、「無償の愛」という、見返りを求めない愛があったが、わたしはキリスト教徒にはなれない。
人を救ってもいないのに、努力し、それでも自分は救われていない。
空回り自己満足。
できそこないの虚しい愛だ。
義務感100%、こころに黒いものを抱え、形式だけのお世話もどきをする。
誠心誠意、真心を込めていないが、とりあえずは顔を出す。
しかし、それでわたしのスケジュールは支配される。
ある臨界点を超えると光り輝く、立派な心境になり、お世話させていただく喜びに満ち溢れる日が来るやも知れない。
(勉強もしないで、ある日、突然、100点が取れるかも知れない、と言っているようなものか)

奥歯に物が挟まったような、表面に美辞麗句を並べてカモフラージュしたような、スッキリしない内容になっている。

夜、姉からたまたま業務連絡の電話が入った。
ついでに雑談。
姉のスポーツサークル仲間たちの、ホンネトークは、そこまで言ってしまう?というぐらいスカッとする。
みんな、妻であり嫁。山あり谷あり。
山場を乗り越えてきている人々の言葉はチカラ強い。
掛け値なしに、ストレートに響く。
しかし、あんなにハッキリ言っちゃっていいのか?
もう怖いものは何もない人は、本当に強い。
勝利者宣言だ。



気付きを得た(帰りの電車)

2019-07-12 | わたし
わたしは自分がアホなので、アホな人に寛大か、と言えば逆である。
アホ同士、アホっぷりが、カチンカチンと来て、精神衛生上良くない。
わたしとは違う性質のアホには、耐性がない。
同質のアホも嫌いだが。
自分に甘く、人に厳しいアホ。

特にどういう性質のアホにカチンと来るか?
理知的レベルが低過ぎて、感性が合わないタイプ。
教養がほとんどないので、最初から教養を求めなければ良いのだが、へんに、自信ありげな言動をされると、カチンカチンカチンと来る。

教養など別に辞書になくても何の問題もない、人が良い、純朴、素朴、純真無垢な人には全くカチンとも来ないし、むしろ、こころが洗われ、清々しい気さえするのだが。
そういう人には、別のステージで感動をいただく。
わたしのような、こころが真っ黒な人間には、むしろまぶしすぎて近寄れない。

身近な人だと、どうしても自分が許容できる範囲を超えると、カチンと来る。
最初からわかっていても、無意識で最低でも自分と同レベルを求めてしまう。
すると、無意識状態で、不意に求めるものとのギャップがガツンと来る。

きっと、このガツン、わたしも身近な人に、よくやらかしていることだろう。
わたしのことをアホだとわかっているけど、つい、忘れて、頭に来られる。
ガツン同士がお互い様なら行ったり来たりで良いが、ガツンと来る人と、ガツンと来られる人が、別の人物。

人にイラつかせているんだろうなあ、と、自分がイラつかされてみて、初めてよくわかる。
仕方ない。最小限の摩擦に止めるよう、気をつけるしかない。

人の欠点を見て、自分の欠点が見える。
人の行いを見て、自分の行いが見える。
イラつく人に接して自分がイラつかされなければ、自分も人をイラつかせて人がイラつかされている気持ちが理解出来ない。
まあ、相手の立場に立って、人の気持ちを思い遣ることの大切さを、自分の欠点を通して知る。

Aさんにはいつもイラつかされ、
Bさんにはいつもイラつかせている。
Aさんには、イラつかされる以上の長所がAさんにあり、
Bさんには、イラつかせている以上の長所がわたしにある。
バランスだ。

Aさんは教養がないが、気は優しくて力持ち。
Bさんに対して、わたしはヘマばかりしているが、わたしは一生懸命フォローしようと頑張る。
お互いに無いところを別の引き出しから持って来て補充、埋める。
そうでもしないと、接点はどんどんすり減り、続かない。

長い帰りの電車時間にブログ記事を書きながら、気付きを得た。
暇つぶしブログであるが、まるまる無駄でもない。

ちなみに、入院中の姑は、最悪だったが、何かしても、何もしなくても、時が進めば、また少しずつ、良い方向に向かうことだろう。
悪い方に進んだとしても、動きのひとつ。
動こうとする動きは、誰も止めることは出来ない。