蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

タラレバ後悔

2023-09-30 | 人生
何年かに1回、やって来る「あの時の過去に戻りたい」熱。
全く無駄で不毛な、時間を遡る熱。
ああすれば良かった、なぜそうしなかったのだろう、、、。
延々、悶々と迷宮へ。沼にズブズブ。

今日も朝からその熱の波はやって来た。
この波が一番初めにやって来たのは、結婚して1年目の時。
41年前。
なぜ、あの人と結婚しなかったんだろう。
あの人は、ストレートに真面目に直接、求婚の動きを見せてくれた。
親もかなり熱心に勧めてくれたのに。
わたしは、なんてバカなんだろう。
後悔した。
自業自得。

後悔しても始まらない。
第一、あの人と結婚していたら、今いる子供たちも孫たちも、この世に存在しない。
それを思えば、どんなことにも替えられない。
でも、何十年かに一度、ふと、頭をかすめる。

別にその人とは深いお付き合いがあったわけではない。
お見合いで初めて出会い、3回ぐらい会っただけ。
手も握らなかった。
3度目ぐらいに会った時、直接、わたしの家に挨拶に見えた。
わたしはまだ22〜23歳だったので、学校を出たばかり(ひょっとすると在学中??まさか?)、地には全く足が着かない夢だけ見る、無知な女の子だった。
ほんとに、自分でもハッキリ言うが、バカだった。
バカまるだし。

単なるふわふわしたバカが、揺らぎないバカに確定していくプロセスがある。
時間の積み重ねで、バカ認定が濃厚になった。
だが、結婚して最初の1年でそう思ったには何かあるのだろう。
それが何なんだかよくわからないということは、たいした何かではないと思われる。
夫もわたしも若いし、未熟だったと想像する。
若さに躍ったには、自分が若かったからだ。
落ち着きのある大人に魅力を感じるには、わたしはあまりにも幼稚で浅い人間だった。
そんなことを言っても始まらない。
神様は一人一人に合った人物をマッチングさせてくれているに違いない。

結婚、離婚、再婚を繰り返す人もいる。
わたしには全くそんなことは考えられなかった。
せっかく努力して、苦労して、選び選ばれ、結婚したのに、リセットする理由はない。 
気に入らない小さな理由は、チマチマあったとしても、取るに足らな過ぎる。
DV、不貞、酷いハラスメント、ギャンブル依存症、アルコール依存症、病的な何かの依存症、虚言症、、、などなど、誰が見ても破綻を来たす理由なら、とっとと離婚するだろう。
わたしの力で更生させてみせる、などというタフで殊勝なこころは、残念ながら1μ(ミクロン)も持ち合わせていない。
わたしは、ダメンズには絶対なびかないタイプ。
ダメな男性は嫌いで、近寄りたくないし、なぜか、ダメンズも近寄って来ない。

(広義の意味では)ダメンズではなく、人には言えない(ブログでしか愚痴れない)小さな不満しかなくて、運が良かった。
そう思うと、不幸ではないということは、幸せなのだ。
何をこれ以上、望む?
望むとしたら、この上なく厚かましい、欲どしい。

でも、ふと、思い出す。 
ふと思い出しては、やはり今が良かった、それ以外は不可能、と再認識する。
過去には戻れないのに、タラレバ仮説を立てても不毛なだけ。
ただ、どうなっていたかな?と、想像するのは楽しい。
失恋小説を読む気分。
人生をいくつも味わっているようで。

インターネットで調べてみると、その人のルーツはとてもよくわかる。
仮にその人と結婚していたとしても、今とそう変わらないような気がする。
(今のほうがちょっと格は落ちるかも知れないが)
でも、そうなっていたら、少なくとも、今、この世に存在する子供や孫たちはいないわけで、現在の子供や孫たちの上を行く幸せは想像出来ない。


※ちなみに。
昨夜は中秋の名月。
明度、彩度、ぴかぴかのお月さまだった。
写真はスマホで、イマイチなのが残念。






おしゃべり遊び

2023-09-29 | お付き合い
楽しいこと、感動したこと、素敵なことはいっぱいあるのに、ブログに書くのは、それとは違う、思っても言えないこと。
感情のはけ口?
いえ、人間関係をスムーズにするための必要悪。

ある人。
いつもわたしの、ペラペラおしゃべりに付き合ってくれているので、こちらも聞かなければ、相手も楽しくないだろうと思い、その人がポツリポツリと口を開くと耳を傾ける。
が、、、ある話はいつも同じ語り口。
話題は同じでもいいから、表現方法を変えるとか、詳しく話すとか、なんらかの変化があれば良いのだけれど。
録音したものを再生するかの如く。
話したい内容はあるようだが、具体的なことは言いたくないと感じる。
いつ、どこで、誰と、どうした、は、ない。
例えば、家を購入した話。
何回も買ったらしい。
何度も聞いた。何度も何度も何度も聞いた。
だが、どこの地域なのか、遠いところなのか、近隣なのか、他府県なのか、さっぱりわからない。
話が具体的に見えない。
突っ込んで質問していいものかどうかわからないし、こんなに何度も話されているのに、具体的なことを話さないには、理由があるのかも知れない、と推測して、あえて聞かない。
が、何度も話すということは、話したいのだろう。
わたしも自慢話やくだらない話ばかりしているので、たまには相手の話を聞かなければと、気を回す。
ではあるものの、プライベートな案件は、本人の口から出る情報だけに留めておく。
興味本位に聞き出すのも品がないと思い、受け身に徹する。
が、手を変え品を変え、登場人物を変え、ではなく、いつもワンパターン。
わたしも結構、我慢強く、辛抱強く聞いている。
「ひょっとして、この人、認知症かも?」と、わたしに、あらぬ疑いをかけられるぐらいなら、ハッキリ質問して話を進めたらよいのだろうけれど。
どうも切り出す勇気がない。

人は自分が話したい話題でも、全てを話したいわけではなく、ハイライトだけ話したい人もいる。
そんなかんじで、わたしは気を遣って、進展のない面白みのない話を聞いている。
本当は踏み込んで聞きたいのだが、その欲求を抑え、あえて踏み込まずに、宙ぶらりんの話に甘んじている。
なので、話が一通り終わるのを待たねばならず、退屈である。

とかなんとか、他にも話題はたくさん。
日々、どんどん生まれているので大丈夫。
言葉遊びには事欠かない。
話題の新陳代謝は次々、行われる。


アタマも爪も隠す人

2023-09-27 | ブログ
なかなか面白いエッセイを発見した。
他の大手SNSで新人会員として日記を紹介されていた。
3つほど日記を読んでみたが、何を何を、、、どこが新人なのだ?!
鋭い文章、キレがありスマート。
リズム感と頭の良さ、、、、
あれは只者ではないと見た。
小学校の作文以来、作文を書いたのは久しぶりとのことだ。
が、アタマ隠して尻隠さず。
すっとぼけても、わかってしまう。

コメントは付けず、拍手を一つだけした。
あまり食い込んで行っても煙たがられると心外だし。

ずっと前に一度、キレを内に持ったブロガーさんと、ブログ村で袖振り合うご縁があった。
が、キレ過ぎて、わたしには毒だった。
読むのは研がれたキレキレの文章が好きだが、踏み込み過ぎると火傷する可能性がある。
なので、自分は昼行燈、暖簾に腕押しが、マイワールドとなっている。

前述の新人会員さんの書いておられた中で、
興味深い箇所があった。
その人は今、読書にハマっていて、中でも小説に夢中だそうだ。
どんどん影響を受けてインプットしているが、アウトプットできる才能は限られている、とのこと。
無から生み出すクリエイターはスゴイ、と。
これは、大変、納得した。
その例を世界的に有名な芸術家の言葉を引用して説明してあった。
教養がまたまた深い。
わたしは足元にも及ばないが(次元が違う)、別に競争しているわけでもないし、そんなことなどサラサラ考えていないにしても、
こちらが影響を受ける分にはどんどん目が覚める刺激あることを発信していただきたいものだ。

瞬く間に大勢の読者が現れることだろう。
ブックマークして次の投稿を探さなくても、多分、そのサイトでまた紹介されると想像する。



先の長い楽しみができた

2023-09-26 | 
長女一家、次女一家と、長女の2番目孫の合同誕生日パーティ。
アイスケーキには、今回のスーパーマリオやディズニープリンセス、トイ・ストーリーやら、何やらかんやら色々なバージョンで今までお祝いしてきた。
にもかかわらず、うちのテーブルクロスは10年以上同じ。
変わり映えがしない。
(上にかける透明ビニールクロスは変えている)
ヘタをすると20年間、ケーキの写真をアップするのは良いが、同じテーブルクロスなのがバレてしまう。
まあ、ケーキが主役だから、それでよい。
ブログに見せるための忖度作業はしない。
(とか言って、ちょっと恥ずかしい気もするが)

と、可愛げなく開き直って。(じつに、可愛くない)
さて。
次女Rに夫の実家について、最近、発見したことを一気に、ばばばばっと図や写真を見せながら、早口でまくしたてた。
息もつかぬ、一人しゃべくり舞台。
次女Rの娘(2歳)が寝ている間に、時間は限られている。
図は、大きな包装紙の裏にわたしが前に書いたもの。
下書きの家系図。
写真はその前日、発見した書をパチリ。
遠い親戚をインターネットで確認できた喜びもついでに、エピソードと共に熱く語った。
ではあるが、さすがに興味ないことを延々聞かされている次女Rのうんざり空気感が伝わり、そこで、一呼吸。

「あなたの年齢では興味ないだろうけど、70歳近くなると、自分のルーツに関心が出てくるみたいよ。
わたしは、おばあちゃん(姑)に、あなた(R)の年齢で延々と聞かされたから、当時は、またかと、さすがに飽きてすっかり嫌になったけれど」

と、わたしは次女Rの顔色を見た。
すると次女Rは、ぼそっと言った。

「小説、書いたらいいんちゃう?」

おう!それだ!
それがいい。
あの世に行くまでの待ち時間、楽しみができた。
次女R、ありがとう。






八つ当たりされた

2023-09-25 | 日々のこと
ある大手サイトに日記をアップしている方。
わたしより一つ歳下の男性。
リタイア人生を充実されているのだが、日記内容を読んで、なんだか、うぷっ、と胸焼けがした。
お金わんさか、時間たっぷり、行動力、実践力、行動力、バリバリ、タフ、健康優良、夫婦仲良く、海外旅行、毎日夫婦でジム通い。
わたしなら、そういう内容、書かない、書けない。
いくら趣味三昧のリタイア生活と言っても。

感想。
いろんな(お金がいっぱいかかる)趣味を満喫されるのは良いことだけど、あれした、これした、と、ざっくり箇条書き程度に書いておられるが、考察や感想がなくて、で、それがどうかしたの?と、意図が読めない、深みを感じられない。
わざと? 忘備録?
自慢と受け取られてもしょうがない内容。
だがしかし、人の思惑などまるで気にせず、自分がやりたいことをする、それのどこが悪い? 
人に迷惑をかけていなければ何の問題もない。
行くこと、実行することに意義があるのだろう。
それを日記(ブログ)に、どかどかどかと、(いかにもお金がないと出来ないような、人が羨むような内容の)表面的なことだけを記録、羅列してある。
わたしのブログもこんな風なら心外だ。
自分の考えや好みを客観的な目で見る(再認識する)機会になった。

読む側(わたし)の心理としては、うんざり、自慢、嫌味に受け取るのは、自分自身の俗っぽいこころに問題があるのか。
自慢箇所を随所に敏感に感じるが、嫌なら読まなければよいわけで。
先方さん(ブロガー)は人にどう思われるかを忖度せず、自分を開示してくれているので。
共感や憧れの気持ちを抱く人もいるかも知れないし。

ところで。
映画「ミステリと言う勿れ」を観た。
舞台となる古民家や広い庭は、どこかのお寺か、今は居住せず保存され、イベント等に利用されている旧家なのではないかと思った。
蔵はホンモノではないような感じだった。
菅田将暉、very good!
彼の映画(主役)は、封切りされた直後に、8本以上観ている。
数えてみれば、その多さにびっくり。
どんな役も難なくこなす、カメレオンのような有能な超売れっ子俳優。
(彼の歌も大好き)
しかし、人工的にも見える、尖りすぎた鼻がチャームポイントでもあるが、気になる。

映画館は平日なのに、結構入っていた。
あんなに面白いのに、わたしはところどころ居眠りをしていた。
明治以後、急に大きく繁栄した〇〇家という設定だったが、時代考証的に、わたしの想像とはどうも違和感があり、なんだか疑問が残った。
とは言え、なかなかインパクトのある、緊張感のある映画だった。
(居眠りしておいて、どの口が言う、、、)
脚本に、聞き入る箇所があった。
が、ストーリーとは無関係の、独立、切り離された、作者の独り言のような気がした。
(その唐突な独り言は、女性目線で共感したが、オプションの一つかと捉えた)

話はころっと変わる。
ふとした検査で病気が見つかり、来週手術をする知人と話す機会があった。
ご自身の病気も気が滅入るが、加えて娘さんが離婚するようで暗い気持ちになっていた。
それは同情出来るが、政治や政策などに不満があり、怒りを込めて批判する。
わたしに怒っても、わたしは総理大臣でもないし、行政側の人間でもないので、「すみません」と謝る必要もない。
人が沈んだ気分の時に話すものではない。
八つ当たりされて、何の良いこともない。
感情の捌け口にされる筋合いはない。
こちらも人に話したいことは、たっぷりあるのに、自分のことは一言も話さず。話せず。

人と接する時は、状況が悪化して、落ち込んだり、気持ちがマイナスの時は避けたほうが賢明だ。
ひっそり時が過ぎるのを待つ。




彼岸

2023-09-23 | 
ブログ記事、書いたがボツにした。
自分の本日の行動日記。
スケジュールの羅列。
単なる忘備録である。
しかも、なんだか嬉しそうで、自慢に取られたら心外だし、、、
アップするのは気が引ける。

ということで、その内容はやめたが、代わりに、といっても、たいしてボツにした内容と変わらない。
どっちみちツマラナイ内容なら自分さえ満足すればいいかな、と。


今日はお彼岸で、夫の実家にお坊さんにお参りしてもらった。
が、電車が遠い。(自家用車運転は、数年前から止めた)
朝、6:50のバスで自宅を出た。
夫の実家の近所の家にお参りに入るお坊さんの後ろ姿を見つけて、お坊さんより早く家に着かなければと焦りながら到着。
雨戸を開け、お布施やお供えを用意し、バタバタしていたら、早々とお坊さんは家に来た。
早っ。
お坊さんがお経を読んでいる間に、急いでお茶と、おしぼりの用意をした。
あ〜、焦った。
ギリギリセーフ。

て、またまた、出来ごと、忘備録になっている。


いにしえの人々に想いを馳せる

2023-09-22 | 
今朝の涼しさ。
幸せをもらった。
昨夜は集中豪雨(線状降水帯)の地域もあったようだが、異常気象は、人間が人工的に変えられない。
自然の厳しさ、過酷さと、自然の恵み。
自分ではコントロール出来ないだけに、一喜一憂してしまう。
農業人口が多くを占める昔の人が、生活の糧を得る元になる、雨乞いの儀式をしたり、神頼みになる気持ちもわからないでもない。

悪い意味で(不安になって)気になるなら、
堅牢な建物の奥深くに閉じこもっていれば、外の自然に接することもないだろう。
台風や大雨の時は、外の自然の猛威を遮断すれば良い。
竜巻の時は地下へ退避。(アメリカ映画でよく見かける)
地震の時は?
ミサイル攻撃には、核シェルターへ逃げ込む?
いったい、どこにある?

我が家は雨戸さえ無いので、いつも自然と共に生きている。
どの部屋にも窓があるので、逃げ込む部屋もない。
雷、稲光は、最も怖いものの一つ。
押入れに頭から突っ込み隠れるしかない。

異常気象の度に、ビクビクしている。
ゲリラ豪雨では、あっという間に庭が水田になる。
2階のベランダ、排水が心配。
排水量より、雨が降る量のほうが同時進行で多い時、頭の中でシミュレーションして、雨水がベランダ側のガラス窓を押し破るのではないかと、ドキドキひやひやする。
わたしは怖がりである。

逆に、少しでも良い風が、すーっと入ると、幸せ気分に浸れる。

と、朝の気温ひとつで、駄文だらだら。

さて。
わたしは人生が整ってきた感がある。
自分なりの人生。
余計なものや、こころ乱されるもの、憎しみなど、段々なくなっている。減っている。
モノ(物品)としては余計なモノだらけで、断捨離の概念に抵抗して闘っている。
わたしの敵は、断捨離。
一生、目の上のタンコブとして君臨して、わたしを苦しめ続けることだろう。
(こういう自己肯定の仕方もある)

ブログには、感情の吐け口として必死で思いを綴っていた頃があるが、憤慨したり逆上したりしているその時のブログのほうが熱く力があって、面白い。
今は、すーーっと力が抜けて、読む側としては気が抜ける(と思う)。
ツマラナイ。
これも変遷である。


と、ここで話が変わる。
わたしは今、昔の人々と対話している。
夫の実家にある、昔、先祖が暮らしてきた足跡を発見するにつれ、感慨深い。
蔵にある、昔昔のおばあさんの箪笥の中をふと5日前に覗いたところ、日常に使っていたクシや髪飾りなどを見つけて、怖いと思う時もある。
日用品、使い込まれている。
長年、使っていた当人の魂や息吹まで感じる。
辛く苦しい目に遭っていた当時の女性の怨念が篭っていたらどうしよう、、、。
(わたしのブログのように)
断捨離指導者から見ると、1番に捨てるべきものだろう。
断捨離優先順序、1番が100個ぐらい同時に並んでいる。

骨董品、アンティークショップで買ったものや、世界のあちこちで見つけた掘り出し物とは違い、確実にその地、その家で暮らしてきた実在の身元の知れた人々の生きた証拠である。
何年生まれ、何年没、戒名、親、きょうだい、夫婦、子供、孫、、、その中での何時代の誰それ、、、この場所、この家で生まれ育って亡くなった、その証が実際のモノが物語る。

人形やクシなどは、魂が篭っているから、お祓いして処分するのが良いとされる。
人形だけに特化した、人形を供養する神社もある。
針供養するところもあるらしい。
お役目ご苦労様、というものだ。

医学の発展により、昔は多産多死だったが今は寿命は伸び続けている。
過去の一人一人に思いを馳せると、(やんごとなきお姫様とは程遠いが)さながら絵巻き物のようだ。
幼い子供を亡くし、でもその後も家族は生き続ける。
立ち直り、生きる。
時間軸を遡り、過去から現在に繋がっている。

わたしは、血が繋がっていないから、夫の家とは血縁としては関係がない。
が、外から来た血を継ぎ足し、次代を繋ぐ役割りは果たしている。
第一、跡取りをはじめ、大事な子供たちを産んでいる。
嫁達の役割は結構、大きい。
お殿様ならたくさん嫁以外にも子供を産む女性はいるだろうけれど、一般庶民ではそうはいかない。
少なくとも、夫の実家では、同時に複数のお腹からは子供は産まれていなかった。
(ひょっとして表に出ていないだけか?
だが、実証できない。証拠がない)

子供がが生まれなかった場合は、養子を迎えたりして繋ぐ。
夫の実家は、不思議なことに、子供が生まれなかった代はなかったようだ。

今は、墓じまいや仏壇処分も行われる時代。
跡を継がないからといって非難されない。
自由。
煩わしいことや、制限を受けることから逃れる選択が出来る。
宗教を信仰しない自由もある。
価値観も変わる。
強制は出来ない。
各家、各人、個人の自由。
続けたい人は続けて、やめたい人はやめたらよい。
個人を取り巻く事情もあるだろう。
そういうことだ。

わたし個人に関して言えば、先祖の皆さんに関心を寄せている。
皆さんの生き様を想像している。
先祖を大切に大事に思っている割には、日頃の仏様への扱いが超手抜き。
わたしは、彼岸と盆、正月しか、直接、現地で接していない。
バリバリに熱心な仏教信者ではない。(日本人によくいるタイプ)
が、外国でも皆さんも各国、各人、各宗、似たような宗教的な行事が行われている。
俯瞰的に見ると、何教かは、それほど大事ではないように思う。
宗教同士を比べてみても不毛。
ただ、皆さん、家族を大切にしている、その強い思いが伺い知れる。

小さな部屋に置かれる小さな写真や祈りを表すものに、毎日、思いを込める。
それで十分。
祈りに形は関係ない。宗派も。
今の気持ちを伝える。
そうするとなんだか生きる力が還元されるような気になる。

ではあるものの、歴史を紐解くと、宗教の違いは古今東西、紛争の元となっている。


逆ギレ

2023-09-20 | 日々のこと
逆ギレした。
明らかに、わたしが悪いのだが、それ以上に気分を害した。
これを逆ギレというのだろう。

ムカつく。
昨日、母の居る老人施設に専属シャトルバスで行った。
姉と一緒だったので、バスの最後席に座り、おしゃべりしていた。
途中で前から2番目の席に座っているおばあさんが、わざわざ体を捻って顔をこちらに向け、後方の座席に座っているわたしたちをしっかり見た。
なんか、嫌な予感がしていた。
10分から15分後にバスを降りた途端、くるりと振り返り、そのおばあさんが、わたしの顔をまじと見て、目を見つめて言った。

「うるさいから、バスの中では静かにしてください!」

お喋りしていたのは、ほとんど姉で、わたしは聞き役専門だったにもかかわらず、わたしだけに言った。
ムッとしたものの、大人の対応で「すみません」とわたしは小さな声で答えた。
それ以来、ムカついてムカついて、気分が悪く、不愉快この上ない。
わたしたちのおしゃべりは、大声ではない。
しかも一番後の席。
彼女は前から2番目。その間には誰も座っていない。(それで遮るものがなくて、よけいに聞こえたのかも?)
おしゃべりが耳障りだったのだろう。
密室ではない場で、おしゃべりする方が悪い。
確かに。
100%、こちらが悪い。
なのに、反省どころか、この気分の悪さはなんだろう。
即座に謝ったものの。
バスや電車内で、「携帯電話で話すのは遠慮してください」と、よくアナウンスされている。
それと同じか。

うるさく感じて気分が悪いのはよくわかるが(すみません)、あんなに、ピシャリと直接、きつくモンクを言われると、角が立つ。
腹が立つ。
それが、逆ギレなのだろうか。
話していたのは、ほとんど姉なのに、何故わたしに言う?
それもムカつく原因の一つである。
時折、バス内で話している人がいるが、うるさい場合もあるし、内容が興味深いこともある。
同じ目的地に向かい、行ったり来たりするバスだから、あんなにハッキリ言ったら、今後、顔を合わせるとギクシャクするだろうに、彼女はお構いなし。
が、、、そんなにうるさかったかなあ、、、と、今でも首を傾げている。
シーンとは、していなかったが。
老化すると耳が遠くなることはよくある話だが、耳が益々冴え渡る人もいるようだ。
わたしなど、家で、家庭でも耳栓をして夫の出す大音量に耐えているので、堂々とクレームを言う勇気が羨ましい(恨めしい)。

今も思い出すと、胸に黒いものが、どよっ、どろっと沈着している。
こちらが悪いのに、この気分の悪さはなんだろう。
常識の捉え方に温度差があると感じる。
大きな声でクレームを行って先に攻撃した方が勝ちのようだ。




暑すぎて、一つ、脱落

2023-09-19 | 日々のこと
タスク2つ、完了。
今日は3つ目。
朝が早いから、満員通勤電車が疲れる。
都会には人がいっぱい。
電車から見る風景は、緑はなく、マンションがぎっしり、ひしめく。
わたしは、ああいうところに住むのは絶対に無理だ。
都会に出て暮らしている人々が多いのだろうと推測する。
人々の暮らしが見えるような気になる。

若い頃は都会に憧れたが、今のわたしの年齢になると、自然が広がる落ち着いたところが気が休まる。
刺激は要らないが、感動と安らぎが欲しい。
メリハリ。
そして、長く暮らした場所も、住めば都。
馴染み、愛着が生まれる。

ちなみに、夫の実家。
リフォームして本当に良かった。
生活スタイルが変わった。
部分的リフォームではあるが、つくづく行動に移しておいて良かったと、大満足している。
姑も最後に自分のお金でリフォームしたが、それで姑のお金を使ってしまった感がある。
あとの身の始末?世話は、子供がどうにかしてくれるだろうと楽観的。
だが、自分では何も出来なくなってからお金を残しても仕方ないので、やりたいことをやれて、幸せだったことだろう。
家(家屋)にお金を使うということは、悪くはない。
そこにまだ家族が居続ける場合。
仮にお金を残して亡くなったとしても、、、、、リフォームに使ってくれていたほうが、形は残る。

さて、と。
いきなり、話は変わる。
3つ目のタスクを終了した。
ところで、ここ2、3日の暑さは尋常ではない。
で、明日、過酷な暑さの中、炎天下で行う4つ目のタスク(スポーツの一種)をドタキャンしようかと目論んでいる。
この暑い中、苦しんでまで参加する意味は、今のわたしにはない。
ドタキャンして、中休みしたい。
ただ、一緒に参加する予定の人に、どうやって口実を作るかが問題だ。
主催者側の人間でもなく、予約不要の上(従ってキャンセルも当然、不要)、一般参加者として一人でも十分参加することも出来るので(お一人様参加がほとんど)、一人では行けないなんていうことは、おかしい。(ドタキャンする側の勝手な言い分)
幼児じゃあるまいし。
一緒に行こうという約束を履行しないことに対しては、いささか後ろめたさが残るが。
ひょっとして相手もわたしが行かないことで、ほっとしているかも知れない。(益々、勝手な言い分)

今週末、土曜日のタスクは同日、3個。
早朝、午前、午後と。
まだまだ続くタスクの、その日に備えて。
ドタキャンの口実、方法については、少し考える。

ああ、アタマが痛い。



VIVANT最終回

2023-09-18 | 日々のこと
まだまだ暑い。
まだまだまだまだ。
この暑さには、まいる。
川で水遊びをする子供たち。
例年なら、水温はもっと低いはず。

夫の実家で、昨夜は「VIVANT」最終回を観た。
娘一家も滞在していたが、リビングルームのTVを独占させてくれた。
前々日から、「最終回を見るよ」と宣言していたから。
「おばあちゃん(わたし)は忙しいシンデレラタイム」と娘が言ってくれた。
「おばあちゃんはシンデレラなの?」と孫娘たちが次々に聞いてくる。
説明に窮する。

「一緒に観る!」と3番目孫I(6歳女児)が横に来る。
来なくていい、来なくていい。
「血がいっぱい出て、怖い番組だから、見たら夜に寝れなくなるよ」と諭したが、しばらくは観ていて、数分で寝室にしている和室に移動した。
今朝、目を晴らしたIが起きてくるなり、
「怖い夢、見なかったよ」と近寄ってきた。
あらまあ、ちょっとしか見なかったからね。

しかし、最終回。
よくわからないなりに、最後は一筋の涙が流れた。
と思ったら、まだ話は続いていて、なんじゃらほい、とエンドレス。
作者は、あれこれ、こねくり回すのが好きなようだ。
時間をかけたらかけるだけ、構想が駆け巡り、ストーリーが目まぐるしく展開していきそうだ。
が、とりあえず、終了。
豪華キャスト俳優陣、気合いの入った生放送番組宣伝(先週)、お疲れ様でした。