バービー人形が大好きなのは、わたしの世代だけではない。
バービーは、1959年、ニューヨークのトイ・フェアでデビューした。
わたしは、その頃はまだこの世に生まれていなくて・・・というのは、ささやかな嘘。
生まれてはいたものの、自分では記憶はまったくなく、お花畑で、じっと、ニコニコしている、あどけない幼子。
小学生になってから、親に、おねだりして買ってもらったのは、日本製のタミーちゃん。
リカちゃんの前身、先輩みたいなものになるんでしょうか。
小学生の頃、バービーちゃんに親しんでいたのは、うんと年上のお姉さんがいる、おませな同級生、Mさんだった。
彼女は、当時、グループサウンズのモンキーズのファンだったが、わたしたち同級生の中では、一歩先に行っていた。
元祖ビートルズでもない、それから後に騒がれることになる和製グループサウンズのタイガースでもテンプターズでもない、
わたしには、よくわからないグループだった。
当時、テレビでは、モンキーズの番組を放映していたが、どうも、ピンと来なかった。
とりあえず、アメリカで生まれ、日本バージョンが作られてから手に入れるという、
わたしはいつも、流行の先端ではない場所にいた。
夫の姉は、子供の頃、バービーちゃんを買ってもらい、キレイに揃えていた。
うちの子供たちは、その、まるで今日の「バービー展」に出展されている、そのままの、
義姉のクラシック・バービーちゃんで、よく遊んだ。
幼児が遊ぶのと、ある程度大きくなった子供が遊ぶのとでは、人形の傷み方が違う。
なので、おちびちゃんだった、子供たちに、
惜しげもなく、義母は、義姉のクラシック・バービーちゃんを与えてくれたのはいいものの、
今、思えば、なんと、もったいないこと。
あんなに完璧なカタチでコレクションされていたのに。
子供たちは、その後、リカちゃん人形に移り、シルバニア・ファミリーなどでも遊んだ。
子供が成長して残ったのは、くたくたになったオモチャやお人形。
当時、新しく買ったリカちゃんなら、ともかく、
使い古されたクラシック・バービーちゃんと、細やかなバービー・グッズ、帽子・手袋・靴・バッグ・アクセサリー・小物たち。
精緻に丁寧に作られたそれらの愛おしい品々は、戦いの後のように、うちくたびれて、見るも無惨。
実に、心残りだ。
二代にわたり、女の子の感性を刺激し、愉しい時代を過ごさせてくれたバービーちゃん。
ありがとう、と感謝の気持ちでいっぱい。
今、見ても、時代の先端をいくファッション。
リカちゃんより、ずっとずっとオシャレだと感じるのは、わたしが、そういう、ポスト・バービー世代だからだろうか。
目を細めて、バービー展で、きらびやかな歴代のバービーちゃんを、まじまじと見て来た。
うっとり。
デザイナーとのコラボのバービーちゃんには、目は、ピンク・ハートに。
ショップに売っている、現代バービーちゃんを手に取り、思わず買いそうになったが、
ぐぐっと抑制して、ポストカードで我慢した。
「なりたいものに、なんでもなれる」
女の子の夢が、ぎゅぎゅっと詰まっているバービーちゃん。
いまでも、バービーちゃんを見ていると、なりたいものになれそうだ。
そんなこと言ってたら、わたし、一生、モラトリアム、まちがいなし。
とても愉しい時間だった。
事務所で、せっせ、せっせと、入力しております。(仕事に差し障りないように、ですよ)
ケータイで撮った写真も、ケータイで縮小して、あれこれ試行錯誤中です。
iPadやケータイで入力するより、パソコンのほうが、ずっとラクで、大助かりです。
自宅のパソコンは、いつ復活するかは、目下のところ、未定ですが、
とりあえずは、iPadやケータイ、事務所のMacで、モタモタやっていきます。
「アルフォンス・ミュシャ展~生誕150年記念」に、行ってきた。
なかなか時間が取れなくて、またまた展覧会・最終期限とニラメッコしながら、
アセアセ、と。
芸術をアセアセ観るひとは、明らかに、残念なひと。
展覧が行われているのは、堺市にある、堺市博物館。
JR阪和線・「百舌鳥駅」を降りて、6分ぐらい歩くと、大仙公園があり、その中に、堺市博物館はある。
こんな駅、はじめて降りたので、ガイジンになったかんじで、「ココは、ドコ?」と、
街のマップをまじまじ、一生懸命、見る。
でも、表示が道のあちこちにあって、
どんくさい方向オンチのわたしでも、すいすい、迷わず辿りつけた。
ありました。
堺市博物館。
歩くひとの姿は、まばら。ぱらぱら。
博物館に向かうと、右手側にはお茶室があって、左手側には、千の利休さんの銅像があった。
さすが、堺。
堺といえば、刃物と、与謝野晶子と、ミュシャと、利休さんですものね。
さて、お目当てのミュシャ展。
さてさて、どんなかな?
時間はたっぷり。
といっても、わたしのスケジュール上、最大2時間以内の設定で。
わたしとしては意外にさっさと観たようで、1時間ちょい、ぐらいの所要時間。
音声ガイドは、今回は借りなかった。
ちょっと中心地からはずれた博物館で、人出もそう多くなく、
ミュシャなら、まあ要らないか・・・なんて、テキト―な理由。
もともと「カメラのドイ」の創業者、土井さん(故人)が、新婚時代を堺市で過ごされたとかで、
彼の多くのミュシャのコレクションを堺市に寄付されたそうだ。
堺市内の別のミュージアムでは、常設展でいつもミュシャを観ることができる。
なので、ミュシャ展といえば、年がら年中行事、みたいな感覚。
土井さんのおかげなのだが。
ミュシャは、プラハ生まれ。
5年半ほど前に、プラハのミュシャ美術館で、ちらりと観たのだが、
ちいさい美術館で、「ほんとに、美術館なの?」と、思ったぐらいだった。
作品もごくわずかしか展示されていなかったし。
まるで、出店みたいで、全然、気合いが入っていない印象を受けた。
今回の堺市博物館の展覧会では、
プラハ市立美術館や、チェコ国立プラハ工芸美術館蔵の作品も結構あり、
ミュシャ美術館とのポジションが違うのだろうか。
ミュシャの絵は、誰もが一度は目にしているほど、世界中で有名だけれど、
50歳を過ぎてからの「祖国とスラブ民族の再生」に熱情を注いだことは、あまり知られていない。
数多くの油絵を観て、ミュシャが油絵を描いていたことを、わたしは、まったく知らなかった。
商業デザインのリトグラフで、一時代を切り拓き、築き上げたミュシャ。
時代の寵児となり、超多忙で、次から次へと、注文をこなしていたようだが、その作品数は、すごい。
(リトグラフだと、何枚も同時に、数多く出回るけれど)
作品の少ない芸術家もいるが、そもそも芸術家と、商業アーティストの違いって?
認められるか、認められないか。
パトロンがつくか、つかないか。
生活のためにやっているのか、自分のためにやっているのか。
微妙なところだ。
が、多くの人々に感動と影響を与え、ひとつの時代だけでなく、後世にも作品を遺した
そういう偉業を成し遂げた人が、芸術家なのだろう。
もともとわたしは、アール・ヌーヴォ―の大きな特徴である、
あの優美で繊細な、しなやかな曲線が大好き。
家具や、アクセサリー、建築、内装にも、ああいったテイストを取り入れてあるものには、
強く魅力を感じる。
ただし、東欧旅行では、クレジット・カードを持って行くのを忘れ、(自分でもマヌケぶりに、びっくり)
わずかばかりの現金だけだったので、プラハのお店で、重厚な素晴らしい品々を見たものの、
指をくわえて眺めていただけだった。
買ったのは、わずかな現金をはたいて、無名の絵描きさんの版画と、
ステンドグラス(一番下の写真)と、アール・ヌーヴォ― デザインの銀のネックレスだけだった。
帰りに、そんなことをあれこれ考えながら、
ゆるやかな日差しを浴びながら、公園を抜けて帰った。
今回は、作品についての感想がほとんど綴られていません。
わたしとしては、「永年の大親友の結婚式に招かれて、スピーチを頼まれた」、といったところ。
いまさらながら・・・言わなくてもわかってるよね、・・・といったかんじです。
(よく知りもしないで、しゃーしゃーと言ってのけるところが、また、・・・
恥知らずな、残念なところですね)
ミュシャもパリで活躍。当時のパリの空気を吸って開花。
「パリ」というキーワード、わたしにとっては、得体の知れない、でも、麻薬みたいな、
そういう不思議な吸引力を持っています。
もうすぐ、終わってしまいそうな「ウフィツィ美術館~自画像コレクション」
焦りつつ、国立国際美術館に足を向けた。
左右に見えますのは、土佐堀川。
中之島界隈は、静かですね。
事務所、激近につき、このあたり、いやというほどよく歩いた、場所。
きっとわたしの靴の足跡、ここかしこにあるはず。
いまは、もう、事務所が移転されたので、このへんに来るのは、週1回だけとなった。
いつ来ても、なんか、好きですね、しーんとした、このクリアーな雰囲気。
さて、見えました。
本日の、お目当ては、これ、「画家の自画像」です。
入口で、ぱちり。
あら、わたしの自画像が・・・いえ、反射して、像が映ってますね。
芸術家たちと、コラボ。わたしと、一体化しています。→うそ
エスカレーターで、地下に降りて行く。
時間は、たっぷり、ということもなかったが、時間が足りないということはなかった。
またまた、音声ガイドを借りる。
無名のアナウンサーだったので、
演出効果にまどわされることなく、内容だけがすんなり頭に入った。
ちなみに、恥ずかしながら、わたしは「ウフィツィ美術館」なるものを知らない。
ルネッサンス美術の殿堂として名高いイタリアの、超有名な美術館なのに、知らない。
ま、それはそれ。
これから、まだ死ぬまでに、時間はたっぷり。
おいおいに、知って行くことにいたしましょう。
わたしが、良い、と感じた2枚の肖像画のポストカードを購入。
ピンぽけ写真では、99.9%、その良さが出ていないのが、残念。
(残念とかいうレベルではなく・・・て・・・ですが)
↓左の、なにが映ってるのか全然わからない写真、この絵画は、結構サイズが大きく
赤い花々が精緻な描写で、とても美しかったので、ぼーーっと見とれていた。
かんじんの、自画像は、友人をモデルにした可能性もあり、本人ではないかも知れないとのこと。
ニコラ・ファン・ハウブラーケン「花輪のなかの自画像(?)」1720年頃の作品。
やっぱり、わからなさすぎるので、
撮り直したものの、写真には作品の良さがまったく表れていない・・・
↑左の人は、ジャコモ・バッラ(1928年作)とやらで、写真のごとく写実的。
この方、前衛的な作風だったが、正統な写実的な画風に戻ったとのことで、
あれこれ、芸術の海で、試行錯誤し、
元、パンクロッカ―が、地方公務員になったようなかんじなのかなぁと、想像する。
小指を立てたポーズに、ちょっとした意味があるそうだ。
1664~2010年までの、350年にもおよぶ流れを、ウフィツィ美術館が所蔵する
自画像コレクションを通して、つかみとる、日本ではじめての本格的な展覧会らしいのだが
わたしには、ちょっと、豚に真珠だったかも。
時の歴代の君主たちは、権力を芸術で示そうとしたあたりは、わ~~、さすがヨーロッパだな~
と、ミーハーなわたしは、そんなことに感動した。
日本なら、どうなんだろう~
キンピカ茶室や、キンピカ屏風絵みたいなものが、とっさにアタマに浮かんだが、
くわしく知らないので、よくわからない・・・
教科書に載っている、超有名な作品を描いた巨匠自身の自画像よりも、
遺した作品はよく知らないが、自画像自体が面白い、惹きつけられるもののほうが
わたしには印象に残った。
強烈なインスピレーションで、ぐっときたものも何点かあったが、
かなしいかな、ポストカードになっていなかった。
ひとつひとつ、あるいは、たった、ひとつでも、
なにかわからないけれど、こころのポケットに入っていればいいなあ・・・と
通いなれた中之島の街を後にした。
地下鉄・淀屋橋駅を降り、市役所の南側を、土佐堀川に沿って東に、とことこ歩く。
中之島図書館、中央公会堂の前を、すたすた。
ノスタルジック大阪ですね、このあたりは。
この近くにオフィスがあり、永年勤務していたので、この界隈はわたしにとっては、庭。
いまさらながら、写真を撮っている自分の姿が、なんだかおかしい。
さて、目の前に見えるのは、大阪市立東洋陶磁美術館。
本日のお目当て、ルーシ−・リー展が開催されている。
入口に進むと、コートや持ち物を預けられるロッカーがあって、おお助かり。
日曜日に、下娘Rが、ぽろっと、こう言った。
「ルーシー・リー展やってるって、ポスターが貼ってあったわ。」
「へー、そんな人、知らないわ・・・
中国人みたいな名前やねえ。だれ?」
とわたしは、言い終わらないうちに、グーグルで調べた。
テレビCMにも顔を出している、今、話題の30代女性陶芸家が、先日、TVで紹介されていた。
番組中、その人が、ある陶芸展に行って、感激しながら観ていたが、
この作家、ルーシー・リーかも知れないと直感で思った。
大阪での展覧は、2月13日まで。
ぼやぼやしていたら終わってしまう。
わたしが、行ける時間は限られているので、さっそく、行ってみた。
この東洋陶磁美術館に足を運ぶのは、2度目。
初めてのときは、朝鮮・古美術展だったが、けっこう、ちんぷんかんぷんだった。
音声ガイド器を借りる。500円也。
ナレーターは、樋口可南子。
あまり、役に立たなかった。
おそらく、事前に予習していったからだ。
それと、ガイドを聞きながら、観ながら、さらに、説明書を読みながら、を同時にやったので
アタマと目と耳が、ミックスジュースになってしまったようだ。
女性客が多い。
平日の日中ということもあってだろう。
若いカップルも、ちらほら。
若くないカップルも。
ピンク、深く澄んだブルー、グリーン、ゴールド、濃い茶、オフホワイト、うすいブルー
シンプルなフォルム、溶岩釉の奇跡、・・・
芸術は、いつの時代にもモダン。
とりわけ、ピンクが気に入ったのだが、その器の前で、じっと動かない若い女性がいて
わたしは、ぜんぜん、観られなかった。
しかたなく、それは飛ばして、ほかの作品を観ていたが、ある程度、時間が経過して
その女性が立ち去ったあと、引き返して、やっと観ることができた。
女性は、老いも若きも、ピンクが好きなのかな。
今、店頭や食器棚に並んでいる、ふつうに、毎日、目にしている食器。
これは、伝統を切り拓き、新たな作風を生み出す先駆者がいて、
それが認められ、浸透し、流行し、
さらに模倣され、大量生産され、定着しているのだろう。
ルーシーは、ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に育ったが、
忍び寄る戦争のため、ロンドンに亡命した。
この、情報収集力、人脈、財力、早い判断が、命を救ったともいえる。
国に留まった、多くの才能ある人々が、ナチスに捕えられ、命を落としたことだろう。
戦争の頃は、生活のため、陶器のボタン作りに精を出し、
来る日も来る日もキャベツだけ、という苦しい生活を送っていた、
そう、当時を振り返るルーシー。
(うちも、いま、来る日も来る日も、キャベツ、キャベツ、キャベツ。
娘Rは、「ルーシーは、『第二次世界大戦』で。うちは、『キャベツ戦争』だ」という)
はい、ハナシが脱線しました。
時代の先端を行く、その背景には、なにがある?
伯父の家には、古代美術品が並び、それらが大好きだったというルーシー。
開業医の父は、フロイトとも親交があった。
20世紀初頭のウイーンは、クリムトやシーレなどが活躍し、新しい芸術の風が巻き起こっていた。
新進・天才建築家に依頼して作ってもらった新居は、とてもシンプルなもので、
機能美あふれるデザインは、ルーシーに大きな影響を与えた。
そういった背景、環境、実際に目で見て触れ、実感し、
知的要素、美の要素を、醸造し、独自の感性で創り上げ、数々の芸術品を生み出した。
ご本人は、「自分はたんなる陶芸家であって、芸術家ではない」、とおっしゃっていたが。
1995年に、93歳で亡くなったルーシーの、没後、はじめての本格的な回顧展。
年齢が上がるにつれ、円熟みを増すとともに、作品にはますます瑞々しさを感じた。
感動すること、そして、わきあがる情熱。
これって、大事ですね。
おなじみ、ルノアール。印象派の巨匠。
芸術や絵画をほとんど、全くと言っていいほど知らない人でも、その名前は聞いたことがあるだろう。
名前は知らなくても、ルノアールの絵には、なんらかで、どこかで、お目にかかったことがあるにちがいない。
かく言う私も、そう。
中学校の時、美術の授業で、有名な絵画を模写する課題があった。
私は、ドガにしたが、友人は、ルノアール。
あの、やわらかそうな髪の毛ふさふさ、キラキラぶりを再現するのに、かなり手こずっていた。
同じクラスの友人に誘われて初めて行った美術館では、ルノワールをやっていた。
ただ、その頃は,友人があまりにも高尚な趣味のように思えて、ただ着いて行くのがやっと。
まだ中学生なのに、その頃から趣味は早くも確立されるようだが、実際,私にはチンプンカンプンだった。
さて、私、その後も彼女に連れられて、
ユトリロや、ムンクなど、あれこれ、観たような気がするが、あまりよく覚えていない。
ルノアールは、あちこちの美術館でちょいちょい、つけたしのように観たような気がする。
それよりも、世の中に出回っている、ルノワールの印刷物やらなんやらかんやら、本物ではないものを観すぎたせいで、
本物に初めてお目にかかっても、なんだかあまり感動しなかった。
そっくり!! よく似てるなあ・・・と。
国際美術館は、大勢の人。
いつものように、音声ガイドをレンタル。
松坂慶子の声に導かれて、お勉強。
絵を観ながら、あれこれ、くっちゃべっている人が何人かいて、不快の極み。
本人たちは、なんとも思ってないのだろうけれど、はっきり言って、すこぶる迷惑。
なんで、いちいち、絵を観ながら、しゃべるのか。
わけがわかりません。
光と色彩。
幸せに満ちた光景。
優しい気持ちに包まれるようだ。
少女の清らかさ、美しさ、愛らしさ。じっと見つづけた。
しかしながら、絵は、いつ観ても、やはりよくわからない。
基本的な知識や、絵の見方がわからないので、お勉強のように、説明と絵画を照らし合わせて、
順番に観て行く。
私には、まだまだ、はるか遠い存在だ。
好きなのに、手が出ない、近寄れない。
高値の花、といったところだろうか。
絵には、答えがないので、少しずつ自分なりに鑑賞していけたらいいと思っている。
死ぬまでには、まだ時間は、たっぷり、ある。
一度に理解できなくても、いっこうにおかまいなし。
お気に入りの絵があると、その前でじっと足を止める。
ただ、それだけだ。
色々観ているうちに、また違う感想が湧き出るかも知れない。
絵の外側、表面だけで、なかなか深淵には入り込めないだろうと思うけれど、
積み重ねているうちに、何かがふと見えるのかも知れない。
「この絵、好き」
ただそれだけで、十分かも知れない。
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寒いく強風が吹き荒れる中、
天保山にあるサントリーミュージアムまで、クリムト作品に会いに行った。
19世紀末ウィーンでは、保守的な芸術の流れを打ち破ろうとする芸術家たちが、
新しい芸術を確立した。
19世紀末といえば、日本は明治維新の後、新生日本の立ち上げで、芸術どころではなかった頃。
というか、西洋文化がどっと入ってきて、
芸術界も、西洋芸術系人材を育てるための基礎を築いている頃?
日清戦争など、新しい日本は、どんどん力をつけている頃。
ヨーロッパでは、それまでの王政政治から、大きく時代が激変して1世紀近くが経っていた。
私がウィーンを訪れたのは、折しもモーツァルト生誕250年祭を半年後に控え、
街はイベント準備の最中だった、今から4年前のこと。
伝統的な建物の多い中、モダンな建物にも目を奪われた。
印象的だったなかでも、もっとも目を引いた、かなりユニークな外観の建物が、
クリムトなどが参加する分離派が1898年に建てた、「分離派会館」だった。
クリムトの絵画は、宿泊したウィーンのホテルの室内装飾にデカデカと施されていたので、
まだ何の心づもりもしていない自分の体や頭に、
否応なく、肌感覚で、クリムトの洗礼を受けたような経緯を持つ。
ナプキンや、紅茶缶も、クリムト模様のものをお土産に買って帰った。
金ぴか、クリムトだらけ、
その強烈なイメージが、旅から年月が経つ今も、私にはまだ残っている。
今回の展覧では、クリムト作品は少なかったが、同時代の作家の作品が多く紹介されていた。
こういう時代、なぜか、私は、わくわく、ぞくぞくする。
一つ一つの絵画の制作年代を、日本の時代、年号に照らし合わせて、じっくり観て行った。
観ているうちに、「ワタシ、絵画が、とても好き!!」、と、突然、今更ながら感じた。
自分の目や心から、自分のアタマに発するシグナルを自分で感じた。
当時の風景、情景、人々の暮らし、表情、服装、いろんなモチーフを題材に、描かれている。
作者の目を通して、それぞれの感性で、時代の息吹が表現されている。
旧態依然とした古いものから、それを打ち破り、新しいものへと移る、
新しい胎動により、それまでの価値観の殻が壊される、
その時代、その実践した人々、彼らの作品に、とても心動かされるものを感じる。
グラフィックデザインのポスターの色は、抑え気味で、少ない色彩、シックだ。
赤が、効く。
今、現在、世の中に氾濫しているデザインの素、根源、お手本みたい。
この時代のここから発生し、今日に引き継がれているんだと思うと、感慨深いものがある。
絵画の前で、しばし、時代や空間を超えて、うっとり時空旅行をしているような気分。
こういうことは、展覧会に足を運び始めた初期の頃は、感じなかったこと。
なにかが、私のなかで、動き始めたのだろうか。
また、ウィーンに、ぜひ行かなくっちゃ。
パリもいいけれど、ウィーンもいい。
その道の専門家から見れば、私はなんと浅い、無知で、わけのわからない恥ずかしい人だろう。
所詮、芸術ミーハーの域は超えていないとは思うけれど、
あれもこれもと、欲張りな私は、
一つ一つに専門性を追及するほどの、時間も、体力も、頭も、持ち合わせていない。
ちょっぴり明るい、アタマの弱い「偽オタク」かも知れない。
でも、うっとり素敵な時間を過ごせて、心が、きゅきゅっと躍った。
国立国際美術館に、ルーブル美術館展を観に行った。
考えることは皆さん同じのようで、結構、会場は混んでいた。
ぞろぞろぞろ。
自分のペースで観ることができない、苛立ちは、まあ、しかたない。
我慢できないのは、エアコン効きすぎの、あの寒さ。
音声ガイド器を借りたのだが、観るペースのほうが早くて(寒いから早足)、
音声が作品の後追いすることも、しばしばだった。
ナレーターの藤村俊二の発音が、部分的に、おかしなところがあり、それが気になった。
ナレーターで、発音がおかしいというのは、命取りだと感じた。
ちゃんと発音できない音があるなら、ナレーターとしての仕事は、辞退するか、引退すべき。
彼が後期高齢者の仲間入り直前といっても、大目に見ることはできなかった。
肝心の内容だが・・・・
同時展覧の「やなぎみわ」の「婆々娘々(ぽーぽーにゃんにゃん)」は、
とてもおもしろく、興味津津。
フロアーが違うせいか、その時は、まだ冷房も苦痛に感じるほど効いてなかったし。
ただっ広い空間に、大きな作品・・・なのだから、
せめて、作品の横に掛けてある、作品に関連した説明文(散文=イメージコピー)を
もっと大きくしてほしかった。
誰か一人が、文字の目の前で読んでいると、
他の人は、遠く離れた位置からは、文字が小さすぎて読めない。
散文を読みたくても、あまりにも読むのが遅い人が読んでいる場合は、
散文は、飛ばして、次の作品に行かなければならない。
幸い、他に誰もいなくて自分一人になって、散文を読むことを独占できても
目の前でも文字が小さすぎて、あまりよく読み取れない。(私、目が悪い・・・)
あの小さい文字、あれもデザイン効果、視覚を考えてのことだとしたら・・・
「50年後の老後の自分」を表現していることがテーマの展覧なのに、
肝心のところが抜け落ちているような気がした。
所詮、机上の空論。
老化した自分を想像するのは、頭の中だけであって、
老化後の体の衰えの表現も、見かけだけに、とらわれ、中身を重要視していない。
作者はまだ若い女性なので、そのあたり、理解しろ、といっても無理だろうけれど。
内容は面白いけれど、せっかくのテーマを、うわべだけのお遊びにしてしまっている。
核心のところでは、かなりボヤケた、理想論、空想論に終わってしまう。
かえって、若い人の無理解に、哀しさを覚えた。
と、ここまでで、ルーブル美術館展の手前の展覧に、こんなに文字を費やしてしまった。
エネルギーは、ほぼ使い切った感がある。
テンションを維持できない。
申し訳ありませんが、ルーブル美術館展に関しては、
他のメディア(特に朝日新聞)などで、論評をご覧になってくださいませ。
とは言うものの、ちょこっと感想を・・・
子供を軸に展開した、人類の遺産との対話。
観る前に資料、解説、内容などを把握して行っていれば、もっと、ちゃんと観たのかも知れない。
一応、すべての展覧品は観たが、(しかも有料の音声ガイド器まで借りて)
事前予習なく、さささあーーっと、観てしまった。(寒いせいも、大いにあったが)
自分が好きなジャンルは、古代モノではないようだ。
何千年も前に出土された貴重な品々には、あまり興味がなかった。
私はキンピカ宝飾類、あるいは、重厚な作品が好きのようだ。
鑑賞用品、タペストリー、絵画、陶器、衣装・・・そういうものが好き。
中では、キューピットの天使たちが、可愛らしかった。
自宅に帰ってきてから、詳しく載っている資料を読んでみると、
とてもとても重要で貴重な品々が、いっぱい集められていたことを知った。
今回は、美的好奇心、歴史的興味より、寒さに負けた。
それと、あまりにも古いものには興味を示さない私。
完璧なままの姿の美しいモノが好きなようだ。
それにしても、ああ、寒かった!
じっと座っているスタッフの方々、さぞや寒いだろうとチラリと見ると、
長袖パンツスーツに、大判ショール、・・・羨ましかった・・・。
3時間も観ていた私が悪いのかな?
今度は、防寒用品をどっさり持っていこうっと。
本やテレビで学ぶより、ナマの本物を観て、じかに感じるほうが、
臨場感あふれ、リアリティがあるから手っ取り早い。
ゴルフの打ちっぱなしの練習をあまりせず、
いきなりグリーンを回るようなものか?(ちょっと違う?)
ゲンブツを観たあと、その後に書物や映像などで、復習のような気持ちで、
おさらいすることも自分には有益だと思っている。
東本願寺は、1602年に建てられたが、4度の火災に遭い、1895年に再建され現在の姿になった。
そのお宝。
丸山応挙や狩野元信、棟方志功など、ダイナミックな肉筆襖絵を主にした展覧だった。
作品そのものは、棟方志功以外は明治時代のものが多く、
近世ではあるが、題材やモチーフは古来のもの。(中国も含む)
作品だけ見ていると、もっともっと昔のものであるように感じた。
小さいときから家でよく目にしている、日常の風景の一部である、
屏風、掛け軸、襖とダブり、どうも新鮮なかんじがしなかった。刺激に欠ける。
もちろん、民衆の手にあるものと、一流芸術家の作品は、全く違うものであるが、
モチーフや、描かれた時代の共通性は相通じるものがある。
同じ時代の空気を肌で感じる。というか、馴染んでしまう。
しかしながら・・・今更・・・というかんじ。
京都人が、外国人の京都フィーバーを見て、不思議な気がするとの同じような感覚だろうか。
私は、日本文化、日本美術は、特別の思い入れがない。
特に、ああいった、明治時代のもの、年代を経た劣化ぶり(いい味)が、
まさに幼少の折から慣れ親しんでいるもの、そのまま。
とは言うものの、懐かしいというものでもない。どうも近すぎて、緊張感がない。
幼馴染(おさななじみ)と婚約するようなものか?(ちょっと違う?)
なので、自分の原体験の中にない、ヨーロッパの石の建物などを見ると感動する。
かといって、日本文化を軽んじる気持ちは、全くない。
東本願寺が、時代の中で重要な役割を果たしていたことを示す史料も展示されていた。
徳川慶喜の書簡は、貴重な幕末史料として大変興味深かった。
彼は、男前の結構イイ男で、書道もお上手なので、感心、感心。
大政奉還は、日本の歴史上、大きな節目、大切な時期である。
ペリーさんの顔を想像した。
黒船にやってきた当時、幕府はどんな大騒ぎだったのだろう。
書簡は虫食いのあるものもあったが、キレイなままで保管されているものもあった。
まるで、今、現在、書かれたかのように。
近世JAPANの文化、芸術に触れ、自分にとっては特別のものでない
まさに血や肉の一部のようになっていることに、改めて気付いた。
北海道の裕福な商人の家に生まれ、東京の女子美術専門学校に進学。
職業婦人は少ない時代。
卒業後、小学校の教師になり、仕事に追われ、絵を描く暇がなくなった。
「子供たちを教育するのは、絵を一枚一枚描くのと同じぐらいの価値がある」
と悟ってからは、
そのイライラ、ジレンマから解放され、心が落ち着いたそうだ。
80歳を超えても、毎年、毎年、作品を発表。
84歳で、文化勲章受賞。
描かなかればいけない。
描くことがあるから、休んでいられない。
死ぬなんて、とんでもない。
突き動かされるエネルギーが筆を握らせる。
富士山の絵が多い。
四季折々、違った表情を見せる富士山。
富士山に、感謝の気持ちで、献花の意味を込めた花々を添える。
真っ赤な富士山は、強烈なイメージだ。
展示会場で、私は、青い富士山の前で足が止まった。
惹き付けられた。
他にも、歴史上の人物を、彼女の目を通して、造り上げ、肉付けする。
芸術を創造した人々に、とりわけ興味があった球子は、
同じ稼業の人々を尊敬の念を込めて描く。
私は、生き様そのままの顔もさることながら、
着物の色や柄に、目が釘付け。
片岡球子は、日本画専攻だそうだが、独創的タッチ。
ダイナミックな魂の色に、こころ揺さぶられる思いがした。
理屈や技法では,語り尽くせない、生きる力がみなぎっていた。