蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

他人さまは、気ままなものであります

2016-02-28 | ブログ

わたしは、蝶ブログを延々と8~9年ぐらい書いているが、ここのところ、ヘン。
なにがヘンかというと、閲覧数が上昇していること。
嬉しいを通り越して、薄気味悪い。不思議でもある。
だれがいったい、読んでくださっているのだろう。
だいたい、想像はついているが、(しかし、確認する術もなく)、前にもこういうことが一時あり、また、一定期間経つと、元に戻った。

さらに、突然、すーっと、昨年、激減の時期を迎えた。
なんだろね、と、得体の知れない、実体のつかめないものは、気にしないようにしていて、
でもやはり気にして、書く気力が衰えた。

長いスパンで見て、閲覧数が、上がったり下がったりは、
ある程度、ブロガーを知ると、読む側は、飽きるか、
あるいは深く知ると、今度は嫌いになるのだろう。

リアルタイムアクセス解析を見てみると、開設、初期の頃のブログを閲覧されているようなので、
そのブログを恐る恐る、ほんとうに、恐る恐る読んでみる。
自慢っぽいものを発見すると、うっ、となる。
鼻をつまみたくなる。
必要以上にキツイものを発見すると、痛っ、となる。
個人情報の範囲が狭まるものを発見すると、特定を緩めるために、ちょっと手を加える。
イヤミなものを発見すると、ああああ、、、となる。

自分の日記に、ヒヤヒヤ。
ヒヤヒヤしない記事は、「展覧」「映画」などの感想が述べられているもの。
(写真を入れたり、かつては今に比べると時間をかけていたようだ)
といっても、映画感想はひとつ記事を読んでみて、長いばかりでおもしろくなかったので、その他は読み返さないけれど。
(例外として、自分のお気に入りは、「夏時間の庭」。これは、ごく、たま~に、読んでみる)
「展覧」で、日本美術鑑賞は、興味深く読んだりする。
たかだか8年ぐらいの間に、自分自身の関心ごとが変化しているようだ。
分野によって、興味がなくなったものや、増して深まってきたものがあるのだろう。

それと、「旅」は、まあ、なんと真面目に写真やレポートを頑張っている。
だが、蝶ブログをご覧になる方は、旅に関しては、もっと素晴らしい他のブロガーさんの旅ブログを訪問するようだ。
蝶ブログには、地名や交通手段など、旅の計画に具体的に役立つ情報が少なく、心象風景が多いからだろう。
(ちなみに、旅だけに特化した、わたしの別ブログは、
1年に1~2回ぐらいしか更新しないのに、いまだに毎日、一定の閲覧数が維持されている)
今では、わたしは、たとえ1週間旅しても、記事はたったの1記事。
エネルギーがダウンしたことが、如実にわかる。

「趣味」に関しては、これまた別のSNSに書いている。
これは、反応がはっきり即座にわかりやすい。
が、そのSNSも、参加登録人数と、実際に書いている人の実数には開きがあり、興味を引き合う人はごくごく少数である。
けっこう、今は、そのSNSには、わたしは退屈している。
自分の楽しいことと、皆さんが楽しいこととが違うので、わたしは楽しくないからだ。
なので、楽しそうに皆さんの日記がアップされ、書き込みの応酬があっても、わたしは、低い温度でシラけている。
水を差すような意地悪なコメントを入れる気もないので、そーっと後ずさりするのみ。

わたしのブログの閲覧数にも(長期的にみて)アップダウンがあるのも、おそらく、そういうかんじなのかなあ・・・と。
前を向いて微笑んだまま、静かに後退。
後退の時期が皆さん、同時だと、数字に跳ね返りやすい。
相手は、不特定の皆さんなので、インターネットの曖昧さを、自分なりに良いところだけを取り入れたらいいのかなあ・・・と。
来るもの拒ます、去るもの追わず。

自分の嫌いな部分もよくわかるし、受け入れるのもよし、諦めるのもよし、開き直るのもよし。
良い部分は、書いたとたんに、「青い鳥」は「黒い鳥」に変身するので、書かないほうが、いい。
長所を自覚して、それを人にアピールするなんて・・・とてもできない・・・などと、かわいらしい謙虚なことを言ったとしても、
そんなこと言っていたら、就職時の自己アピールもできない、積極性ややる気のない人物と評価されてしまう。
(仕事でアピールする時は、実績を淡々と報告した後、熱意を一言添えると、効果的である。
↑いまさら感がある発言)


幸せなことに、人にアピールして自分を売り込まなくてもいい状況にあるので、
もともとアピール嫌いのわたしは、居心地のよい居場所を、長年かけて、結果的に、自分のために自分が築いた。
(これは、ブログのことでは、ありません)

最近は、ブログ記事も、起承転結なしでもいいか~と思っている。
(じゃあ、これまでは、あったのか?  ない、ない)

と、いうわけで、晴れやかな日曜日、楽しいブログ作業をして、悦に入っている。

 

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がまん自慢

2016-02-25 | ブログ

昨日、非公開にしたブログ記事、大正解だった。
といっても、非公開にしようが公開しようが結果は同じなのだが。
なにが大正解だったかというと、自分自身に向き合い、自問自答した結果、
対象に対してアクションを起こさず、それをじっと自分の中で抱え、爆発せずに持ちこたえたところ、
事態が想像していなかった意外な方向に、とても好転したのだ。

窓がしなるほどの激しい雨風に、部屋で縮こまって、マイナスの気持ちを抑え、歯を食いしばって耐え、
嵐のあと、そっと窓からのぞいたところに、真っ青な晴れ間が見えたかの如く。
その部屋の中での心象をブログ記事に綴り、こころを落ち着かせていた。
目をぎゅっとつぶって拳を握り締め、数を数えて、ハードな時間が過ぎ去るの我慢して待っていた。
(歯医者さんとか、胃カメラの前、こんなかんじです、わたし)

こころを落ち着かせていると、だんだん、次のものが見えてくる。
暗闇で目が慣れてくるように。
方向性が確認され、今は、我慢の時、待ちの時、と認識でき、バタバタせず、じっとする。
自分の目的は何なのか、現状はどうなっているのか、そのためにどうすればいいのか。
一時の感情で動いては、自分の目的が達成される邪魔になる。

自己否定と感じていたが、あれは自己否定なのではなく、自分を目的のために、一時、押し殺していたのだった。
精神的にパワフルで、考えがないと、感情に流されやすい。
「ひとつの作戦、試みは、成功した」と実感した。

なにごとも、持ちこたえることのできる体力、余裕が必要である。
それって、忍耐力と持続力、あきらめないこころ、なのかなあと。
かんたんにいうと、信念。自分のスタンス。
こういうふうにして、成功例や失敗例を積み重ね、
人の芯は、かたちとして肉付けされて形成されていくのだと感じた。

なので、折込広告チラシの裏でもなんでもいいから、自分の思い、考えを書いて、整理してみる。
ぎゅっと深く考えてみる。
書きなぐったチラシは、ゴミ箱に捨てるのもよし、古紙再生、紙ゴミの日に出すのもよし。
ブログでもよし。
公開してもよし、しなくてもよし。

 

快晴の朝、昨夜の嵐を顧みて、感想を綴ってみた。(チラシ広告の裏にではなく)

【蛇足】
嵐の中での航海の後、後悔しなかったことを、公開してみた。

 

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非公開ネタ

2016-02-24 | ブログ

わたしが別に持っている、超不人気ブログで、現在の心情を綴りつつ、自分の気持ちを整理し、自己分析した。
推敲も重ね、ブログ村のタグも貼り付けたが、公開しないことにした。

超絶・少数閲覧、だれも見に来ないブログだから、べつにいいやん!となるところだろうけれど、
あえて、非公開にした。

ネットではない、現実の世界で、
自分の気持ちをその場でぱっと表すと、良くない反応を招いたりするので、
しばらく、自分の中で寝かせることにした。
今までは、ブログに書いて自問自答し、こころを落ち着かせていたのだが、今回に限り、書いたけれど、それで終了。

よく考えれば、今回に限りではなく、ここのところ、他のSNSでも、人の意見や日記にコメントを書いても、アップしないでそのまま消してしまったりしている。
なぜだろう・・・?

書いたら自分はすっきりするので、それでオワリなのだが、自分の書いたものを不特定多数の人はまあいいとして、
おそらく、ある程度、わたしを(ネット上で)知っている人に見られるのを避けたいのだろう。

そんなことなら、今回の今の記事だって、非公開にすればいいじゃない?と思われそうだが。


先日、アドラー心理学と、ブッダの言葉の本を立ち読みした。
立ち読みだから、ほんの短い時間だ。
心理学は、実生活に実践として役立てられそうな内容だ。ブッダも。

人に自分を知ってほしい、という気持ちはない。
逆に、人に自分を知ってほしくない、という気持ちが出てき始めた。
これは、なんだろう。
自己否定かも知れない。
なので、自己肯定の導きの助けがいるのか。

お天気おばさん、のーてんき、ではあるが、天然と哲学の間を行ったり来たりで、
少々疲れ気味である。
自分の声を素直に、静かに聞きたい、という気になれない。
むしろ、聞きたくない。
そういう時は、じっと休憩しているのがよさそうだ。

 

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しあわせシーソーゲーム

2016-02-20 | 人生

母に会ってきた。
何も心配事は、ないようで、穏やかな顔をしていた。
綺麗に髪をカットして染めてもらって、こざっぱりした清潔な服装に身を包み、血色の良い顔色だった。

 「もし、なにか心配事があったとしても、心配したところで、どうしようもないのだから、心配しないことやね」
とわたしは言っておいた。
「何も考えることがないなら、眠る時に100から3ずつ引いて、数の計算しながら寝たら?」
と提案すると、横になると、おやすみ3秒で、あっと言う間に眠りにつき、朝が来るそうだ。
「睡眠薬のお世話にならないと眠れない人もいるのに、健康でなによりやね」と言い、けっこうなことと受け止めた。
決して嫌味ではない。
本人は、理解していないだろうけれど。

わたしが1歳か2歳の頃の話をしてくれた。
広々としたお花畑にわたしをちょこんと座らせて、遊ばせていたという、わたしの大好きな話だ。
わたしたち、きょうだいを産んだ時の話や、当時の家の様子など、懐かしい話で花咲き、
そのせいで時間をすっかり忘れ、バスに乗り遅れてしまった。

どこからどう見ても、まともで穏やかな母だが、
ドラマに、作りこまれた伏線があるのを発見するかの如く、やはり、現実はどこか、ほんの少し、本当にほんの少しだけ歯車が合わない部分がある。
人間は、きっちり歯車が合わないと、社会生活は送れない。

異常に気づきながら、気づかないふりをして、そっとしておくのが一番だと、わたしは考える。
完璧主義で、ご両親の老いた姿に接していない人には想像できないことだろう。
子育ての経験も、自分の思い通りにはならないという、理想と現実のギャップを受け入れる試練になる。


おんなの人生レース。
母と義母、現実としては、義母が母を追い抜かしたと感じたが、今日は、母が義母を追い抜かしたと思った。
毎日、シーソー。

その理由は・・・
義母は、辛い時期、辛かったことを延々と話す。
母は、楽しかったこと、自分やこどもたちが幼かった頃などを楽しそうに話す。
彼女たちの人生。
(二人とも、共通点は、たいへん熱心な働き者である。ぐうたらや、怠け者の対極)
客観的に見たり、近くで接したりすると、母のほうが、自己チューだ。
歯を食いしばって頑張り、成果を上げているのは、義母である。
評判もよく、慕われ、高く評価されるとすると、義母だろう。
だが、頑張る人は、その疲れが晩年にどっと、自分に跳ね返ってくるとすると・・・

自己チュー街道まっしぐらのわたしは、この自己チュー、母親譲りかも知れないと、慄きながらも、
決して悪くはないかも、と思ったりしている。
ただし、自分は救われるが、周りは、ちょっと迷惑・・・。当然ながら、プラス評価は期待できない。
そのあたり、バランス感覚を磨いて、できるだけ迷惑をかけないよう、自己チュー磨きをしようと思う。


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不純な人の、純粋論

2016-02-09 | 無題

毎日、毎日、ブログをアップする、安っぽさ。
垂れ流し。
わたしには自分の中での、こだわり、というものは、ないのか。
「プライド」などという厳かで敬虔なる言葉は、My辞書にはないのか。

ちらりと見かけた美しい文章。
24歳という、わたしの半分にも満たない、純粋で美しい魂に触れると、
だらだら駄作を大量に流す自分を顧みて、透明度を自己検閲してみる。

もはや24歳は、自分の子供の年齢にも満たない。
わたしの子供達は、社会の灰汁(あく)にまみれ、逞しくなっている(だろう)。
と同時に濁り始めているだろう。
(わたしは、小さい時から、濁っている・・・ああ、哀しき現実・・・)

純粋な・・・自分のリアルで接する範疇にそんな若い人は、もはやいない・・・
と、シュンとしていたら・・・

いた・・・。

いる、いる。
しかも、至近距離に。
純粋すぎて、もう、動物。
1歳4ヶ月と3歳の、ヤンチャボーズ。
ガキンコ・キッズ・ブラザーズ。

彼らの、純粋を通り越した「純粋」に触れると、青々とした純粋のカタマリの人は、どう感じるだろう。

社会の灰汁にまみれていなくて、気楽でいいよな、おまえたち、
食べるものの心配もしなくていいし、さ。

となるのだろうか。

(しかし、ガキンコたちは、日々、鍛錬の連続。
転んだり、アタマを打ったり、タンコブや切り傷だらけ。
いかにすると身を痛めないか、コツをつかみバランス良く立つだけでも、学びの日常を送る)


「純粋」をどう捉えるか、だ。
美しく澄み切った純粋に、思わずたじろぎ、劣等感に襲われたわたしだが、
いやはや、比べるものや、抽出するもの、方法が違う。

リンゴとミカンは比べられるが、リンゴとボールペンは、比べられない。
せいぜい、モノのカタチとしての比較か。
オレンジと、みかん、はっさく、夏みかん、デコポン、ブンタン、きよみ、なつみ、はるみ、いよかん、ポンカン・・・
そういうものは、味比べや、気候や育て方の違いによる諸々など、
微妙に比べたりできるけれど。

同じ分野、同じ性質、同じ性能、同じ重さ、同じ大きさ、同じ値段、同じ品質、同じ成り立ち、同じ成分、
同じ歴史、同じ背景、同じ宗教、同じ信条、同じ生活、同じ教育、同じ能力、同じ個性、同じ志向、同じ嗜好、
同じ体格、同じ顔、同じ性格、同じ行動、同じ体験、同じ反応、同じ意識、
ああ、めんどうになってきた・・・(十分、暇にまかせて書いているが)

というように、ほとんど似たようなものの性質である場合、比較すると、違いがわかりやすいが、
少しでも違うと、違うのである。

だから、純粋にもいろいろ、微妙に違うということが、言いたかった。

しかし、そんなことに時間を費やすわたしは、ぜったいに、純粋ではない。

 

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ブログは、二度、おいしい

2016-02-08 | ブログ

いま、わたしは、自分の蝶ブログで、グリコのオマケ的楽しみを味わっている。

gooには、編集面に「リアルタイム解析」という機能があって、
リアルタイムに、わたしのブログにアクセスされている状況がわかる。
表に出ている「このブログの人気記事※」とは、重なるものもあるが、違うものもある。
(※蝶ブログのトップページの次に、何かの特定記事を選ぶと、その記事の下に「このブログの人気記事」が載っています)


アクセスしている人がわかるケースもあるのだが、誰がアクセスしているか、は、気にしないようにしている。
気になるのは、お互い、よくないから。
駆け寄って、仲良くしよう、とか、近寄ろうとか、思わない。
急接近したり、時間をかけないやりとりは、すぐ飽きたり嫌になったりして、熱しやすく冷めやすい。
最初のご挨拶はしたとしても、
あとはベタベタ接しないで、長期スパンで、「遠くでコラボ」が、わたしにとって、気持ちよい距離である。

(なにさ、お高い人ね!と思われた可能性あり。
何人か、前を向いたまま後退、後ずさりする姿、発見?)


で、楽しんでいるのは、アクセスされた記事。
なにしろ、9年にも及ぶ、膨大な記事数。
どこから読むか、なにから読むか、自分でもため息。(読まないけれど)

それを、わざわざピックアップして、引っ張り出して、読んでくださる人々がいる。
その記事を読むのが、とてもオモシロいのだが、入力ミスを時々発見する。
その度に、膨大な記事を遡って、訂正している。
昨日も、ごくごく最近の記事タイトル、堂々の入力ミスを見つけて、赤面した。

何が読まれているか、よりも、当時の記事を読むと、当時の自分に出会えて興味深い。
書いていることは、書いている時に、実際にそう思ったり、感じたり、考えたりしたこと。
ほとんど変わっていないところが、自分ながら、ブレナイ自分に、
「意外性がないこと」に対して、意外に、意外性を感じたり。

クールだとか、冷たいとか、感情がない、とか思われることもあるだろうけれど、
感情とは別に、常に冷静な自分がいることを発見する。
感情をコントロールすることができる傾向にあるので、大きな過ちは犯さないようだ。

ただ、感情が出にくい時は、もうひとりの自分が、「行け、行け、今だ!!」とか、
「ここで、泣く? へーんなの」とか、
いろいろ、ハッパをかけてきたり、感想を言ってくる。

あまりにも煮え切らない時や、決定・実行に時間がかかりすぎる場合は、陣痛促進剤・投与みたいな時もある。
それ以前に、まわりからの圧力がかかる。

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 とか、なんとか、かんとか言いつつ、いつも冷や汗をかきながら、過去の記事を読んでいる。


「ありがとう」の一言

2016-02-06 | 人生

わたしには、両親がいる。
父は他界、母は、おひとりさま。

わたしは、この両親と結婚するまで一緒に暮らし、彼らに育てられた。
嫁いで初めてあちらの義・祖母(姑の姑)に言われた。

「ここは、今までと同じように、あなたの家だと思って、くつろいで楽しく暮らしてくださいね」

これは、本心だったと感じる。

結婚してからは、義理の両親に育てられた(ようなもの)。
婚家で学んだことを、今、実母に逆輸入している。

婚家での、当時、腑に落ちないことや、大嫌いなことも、
今では、よかったんじゃないかなあ・・・と感じるようになった。

従うべきことを全部否定して、反論して、逆らうこともできた(はず)。
でも、わたしは、しなかった。
できなかった、のかも知れない。しなかったのかも、知れない。

婚家も義父は他界し、義母は、おひとりさま。
実母と義母の年齢の違いは、たったの1歳である。

しかし、彼女たちの人生には、微妙なアップダウンがあり、
この「おんなたちの人生レース」は、今、実母を義母が追い抜かした。

勝因は、日々の心がけ、行いの積み重ねなのか、時代の流れなのか、まったくの、たまたまの偶然なのか。
はたまた、全部か?

義母の、黒田官兵衛のごとき、戦略勝ちかも知れない。

今、実母に、ちょっとずつ、その戦略をアドバイスしている。

しかし、人には「合う」「合わない」がある。
彼女たちの性格は、まったく逆だから適応しないかも。
逆に、意外にぴったり、的を得ているかも知れない。


姉は、姑さんに苦労した。
人生の半分~3分の2近くを疲弊したと思う。
でも、旦那さんが良い人だから、足して引いたら、幸せのほうが上回る。

わたしは、重箱の隅をつつくような、つまらないことで夫にケチをつけるものの、
それは生活のスパイスである。
あふれる幸せを、実母にリターンバックしようと思っているぐらいだから、やはり、それぐらい幸せである。

昨日も、実母に、恥ずかしげもなく言ってしまった。
「わたしが幸せになれたのは、おとうちゃん、おかあちゃん(実母)が、ちゃんと育ててくれたからやで。
ありがとう。感謝してる」

(わあ、美談! 
出来すぎで、気持ち悪い、安モノのホームドラマの脚本みたいになっている。
あるいは、結婚式で読み上げる、両親に捧げる謝辞メッセージ作文!?)

母は、わたしが言ったことの意味が、わかっているのか、わかっていないのか、わからない。
そういう母の状況にならなければ、こんな、気恥ずかしいセリフは決して言えない。

実母が、肉体的にも、精神的にも、権力的にも、強い時は、
とてもそんな気持ちにもならなかった。

わたしも、年をとったということだ。


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これを書いて、ふと思ったが、キャストに夫が出てこない。
ひょっとして、これからは、わたしが夫を育てる???
固く辞退、遠慮申し上げたい。
わたしは、そんな器ではございません。


「ほんとうは怖いグリム童話」のごとく、
幸せの裏には、死ぬまで続く苦悩があり、
幸せを裏側から、しっかり強く支えているのだろうか。
そうやって、幸せは成り立っているのかも知れない。


人の幸せには、むやみに近寄ってはいけない

2016-02-04 | ブログ

久々ぶりに、とある他人の幸せブログを見た。

人の幸せには微動だにしないわたし・・・のはずだった・・・が。

・・・疲れた。

良かったね。ばら色の人生。
拍手を笑顔で送る予定だった。
が、だんだん自分の幸せ色が薄まっていくように感じた。
ピンクの酸素が減ってきているような気になった。

これは、一種の嫉妬、妬みであろうと自己分析する。

自分もじゅうぶん、幸せであると感じている、わたし。
だが、欠点がある。
欲張りなこと。
もっと、もっと・・・と思ってしまう。

目に見えなければなにも思わないが、
具体的に(記事や写真で)見えると、潜在的欲求のようなものを喚起されてしまう。
うなぎの蒲焼屋の店先のニオイに惹かれるのと同じか。
駅前の、バターがこげ焼ける、なんともいえない幸せのニオイに頬が緩むのと同じか。
頬が緩むのならいいが、買えなくて、空腹なら、腹が立つのみ。
マイナス効果である。

しかも、わたしののぞいてきた幸せブログは、わたしより人生の歩みとしては少し後。
5年~10年、わたしのほうが先輩である。
その人の幸せと同じ分野の幸せは、わたしは既に経験済みである。
しかも、わたしは存分に、満足している。
にもかかわらず・・・。
そうとう、わたしは強欲であると思われる。

さらに加えて、わたしが経験して、その人がまだ経験していない(もうすぐ経験する)幸せを想像すると、
どっとアタマが重くなる。
ひとの幸せで自分のアタマが重くなる、ってどういうこと?

これは、自業自得、欲が深い自分を戒めるには、もってこいの教材、題材である。
その人を否定することは、カンタンである。
比較したり、勝ち負けの分野、部分を見つけると、必ずある。
しかし、人をけなしてまで自分の満足を得たいかというと、そんなことはない。

人を不幸にして、強奪した金品で、身を飾っても、楽しくないようなもの。

その部分をピックアップして、「わたしのほうが勝ってるわよ」と仮に思ったとする。
それは、傲慢なだけであり、勝ったもの、戦利品は、そう思った瞬間、途端に色あせる。
人に自慢するために、頑張ったのではない。
自分のために頑張ったのだ。
それで、仮に人より勝っていたとしても、こころの中でだけ誇りに思うのは自由だが、
わざわざ、口に出して表現するのは浅ましい。

なにげなく、自分がしたいからしている、数々の素晴らしい幸せな毎日。
それを純粋に、自分の日記としてアップされているものに対して、あれこれ思うのはどうかと。
(わたしも、思われている可能性、大。わたしは、純粋ではないけれど)

しかしながら、その人、ほんとうに純粋なのか、ちょっと疑いたくなる時もある。
見せびらかし、自慢?と取るわたしは、やはり、人間が出来ていないのだろうなあ。
不純な目では、純粋なものも、レトロな分厚いガラスを通してみるように、歪んで見えるのか?

見ないことに限る・・・と、今回もそのブログを訪問して、そう感じた。

むやみに、不急不要に、うなぎの蒲焼屋の前は通らないこと。

よい勉強である。

 
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むんずと腕をつかまれたモノ

2016-02-03 | 日々のこと

とある方のブログを読んだ。
今回は、散文的。

ウツになりそうだったが、ピアノにむんずと腕をつかまれ、弾けといわれたそうだ。
で、ウツから逃れられるわけであるが、
趣味って、人生をバラ色にしたり、彩りを添えるだけでなく、
自分を生きさせてくれたりする。

わたしも社交ダンスは趣味であるが、足を故障したり、健康を害したりすると断念せざるをえない。
とすると、自分の生きる活力まで奪われるか?
というと、ちょっとショックだとは思うが、おそらく気を取り戻すだろう。
なぜなら、趣味はひとつではないから。
リスクヘッジをとっている。
バランス。
どっぷり浸かりながら、どこかに、引き戻れる退路を確保している。

カラダ(動)と、こころ(静)のバランスで、休んだり、動いたりする。


蝶ブログは、ブログ村の「エッセー」カテゴリーに登録しているものの、
わたしは、残念ながら読書嫌い。
創作作品よりも、ニュース記事や、世相を斬る記事のほうが好きだ。
最近は、写真や絵と文章が、半々、もしくは、絵のほうが多いという本を好む。
読書より、映像・音響の、映画に、イージーに移行している。
(といっても、もともと読書はしないから、移行ではないが)

もっとカラダが動かなくなったら、鑑賞方面に軸足を移すことだろう。

で、昨日。
帰りにスーパーに寄ったら、3本98円の西洋ニンジンが呼びかけた。
「わたしを、買って」
と。

家にはニンジンが1.5本あるのだが、
なぜか、その強い呼びかけに、ふらふらとニンジンに手を差し伸べた。
時間も無いので、家で、手作り柚子味噌(いただきもの)をつけて、ステック※にして食べた。
(※切るだけ、とも言う)
わたしに強く訴えかけたニンジンは、ウツを救うかわりに、栄養偏りを救ってくれた。
ついでに、安かったので、家計も少し助けてくれた。

わたしは、芸術家になれそうもないので、ウツにはなりそうもない。
やはり、女性※は、「生活」である。

(※女性による女性への、女性・偏見バイアス発言か。
訂正するなら、
「やはり、わたしは、『生活』である。」



しかしながら、生活防衛は、自分を救う。


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おじいさんになりたい小学生

2016-02-02 | 

お若い方から、蝶ブログをリンクしていただき、とても光栄です。
「とても光栄である」と書きたいところだが、「です」「ます」体で表現したい気持ち。

で、お若い方の年齢は、まあ、なんと、わたしのこどもたちと同じ世代。

わたしには、アラサーの男女3人のこどもがいる。
こども、といっても、大人であるが。

このアラサー3人。
わたしに似ているのか、似ていないのか知らないが、ほんの少しだけ変わっている。

息子。
彼は、小学生の時から「はやく、おじいさんになりたい」と言っていた。
今、毎日、彼の願いは、どんどん目標に近づいてきている。
こういう目標って、なんの努力もしなくていいから、いいなあ、と、不思議なわたしの感想。

しかし、今は、まだ彼はアラサーで、おじいさんではないので、まだまだ目標はほど遠い。

下の娘の同僚で、この息子の元・高校の同級生とやらがいるそうだ。
その元・同級生の弁によると
「彼は、あんなに純粋だと、社会で生きていけないんじゃないかと心配します」
とのこと。

当時の中・高校生のまんまだと、生きていけないだろう。
雑菌だらけの我が家で、しかも超おおざっぱな手抜き子育てで、なんであんなに純粋に育つのか、
親の顔が見たいところだが。親は私なので、ナゾは深まるばかり。
雑菌対応システムがオートセルフで組み込まれているのか。 あくまで、対応であって、自動除去装置ではないはず。

小学生の時は、クラスの同級生のおかあさんに、
「うちの息子みたいな乱暴な、トモダチのいない子にも優しくしていただいて、
とてもありがたく思っています」
と言われたような気がする。

別のおかあさんには、「どうやって育てると、ああいうふうになるんですか?」
と、筆記用具を携え(うそです)、メモメモ態勢の人もいた。

高校を卒業し、進路が決まったある日、
息子が居なくなった彼の部屋で、
「ああ、これで子育て卒業。子育て戦争終了」と感慨深く、ひとりで呆然と座っていたわたしがいた。

高校を卒業して、別に住むようになって、もう長い年月が経っている。

たまに帰省したりすると、息子に、おちょくられたり、からかわれたり、わたしは悪戯のターゲットになる。
生活様式について、咎められたりもする、世の中によくいる(らしい)姑のようなこともする。

あまり息子のことはよく知らないのだが、摩訶不思議な人物であることは確かだ。


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