蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

がっかり爽やか

2012-03-31 | 日々のこと

ブログランキング ブログ村でのOUTポイントで、一気に1位から5位にダウンした。
このランキング、小さな世界で、(人気記事は)基準も曖昧、踊らせていただいているだけだが、
毎朝の血圧計みたいなもので、チェックして血圧や体温の上がり下がりに、眉をぴくっと動かせている。

血圧計との長いお付き合い、もう、大きく喜んだり、大きく落ち込んだりしない。
ちょこっと、眉の端っこが、ほんの一瞬、動くだけだ。

最近、OUTポイントが少なくなって、2位との差はほとんどなくなり、
もう、抜かされるだろう、今日こそは、今日こそは・・・
と覚悟していた。

すると、今朝は、一気に5位に落ちていた。
それぐらい一気だと、少しずつ下降するより、なんだか、あっぱれ、爽やかな気分になる。
わたしの精神の糸、こころセンサーは、一定以上を越すと、別の反応をするのだろう。
というか、びくびくして、脱落するのは今か今か・・・と不安に思いながら待つより、
一気にドカンと落ちたほうが、気がせいせいする。


自分は、どうしてブログなんか書いているんだろう。
書きたいからだろうけれど、その向こう側にある、読んでくださる人、ランキング、そういうものも意識しているようだ。
へんに媚びたり、受け狙いをしてみたり、じつに浅ましい。
アップした日や次の日ぐらいはいいのだが、後日、そのわざとらしさに、胸が悪くなることもある。

評価を受けたいから書くわけではない。
最近、そう思えるようになってきた。
書きたいから書いているのだ。

ねずみやビーバーが、なにかをかじっていないと、歯が伸びてくるように、
わたしは、なにかを書いていないと、こころが停滞する。
マグロは泳ぎ続ける習性があり、激突死してまでも泳ぐ、という哀しさ。
わたしは、そこまで根性はなく、芸術家でもない。単なる一般ど素人のオアソビだ。


ここらあたりで、ノッてきたぞ・・・と身を乗り出して、キーを打つものの、
先ほどから、メール着信音が続く。
時計が気になりだした。

今日、明日と、とても大事な案件を抱えているので、
書きながら、用事がちょこちょこ出来たり、ああ、あれもあったと、思い出したり、
一気に思いをぶつける勢いが、途切れ途切れになって、ぷつんぷつんと切れる。
無意味にコーヒーを飲んだりして、もっともっと切れる。

というか、書いていて時間を忘れ、出かける時間に食い込んだりして、自己満足のつもりが、
あわあわと、冷や汗や、ほんものの汗をかき、とんだことになる。

今も、ケータイに入ったメールの返信をしていたり、出かける時刻を考えて、準備にかかる時間を逆算したり
もう、アタマでは、ほかのことを考えて、そわそわしている。
ブログにはちゃんと取り掛かれないし、用意はちゃんとできないし、どっちとも宙ぶらりん。

それに、今、思い出したが、今日の集合時間を大きく間違えていた。
2時間近く計算ミス。
えらいことだ。
さっそく、準備にとりかからないと。
オシリは完全に宙に浮いている。

じっくりブログに向かおうと思った矢先、大きく方向転換。
そもそも、わたしは、ツメが甘い、
いつも出たとこ勝負の風まかせ、評価を気にするほうが、どだいおかしい。

 

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夜の暗さ

2012-03-29 | ブログ

夜、書く文章と、朝に書く文章は違うと、よく言われる。

本日、アップの記事は、翌朝は早く出かけないといけないので、夜のうちに入力したものだ。


わたしは、昨日の記事あたりで、読む人に、少なからず不快感を引き起こさせたことだろう。
多くの人から共鳴、賛同していただける内容は、わたしには書けない。

そもそも、いつも同じような内容に偏ったブログなんて面白くない。


そういえば、あることを思い出した。

わたしのブログの存在を知っているリアル知人が、何人かいる。
「教えて」と乞われて、お教えした人もいる。
彼らの顔が思い浮かび、書く内容が制限される・・・と、自分では思っていたし、実際、制限を受けた。

ところが・・・ぜんぜん、彼らは、わたしのブログなんぞ、読んでいないことが最近、判明した。
「近況を知らせてください」なんていうメールも、もらう。
ブログを読んでいない証拠だ。

ある方も、はじめの頃は、まあ読んでくれていた。
お世辞なども交えて、ブログの感想や、内容について、延々、熱っぽく話し合ったりしていた。
でも、それは最初の頃だけ。
次第に、うんざりしてくるんだろう。とても、よくわかる。
読むのが面倒くさくなってくる。
付き合い切れない気分だろう。その気持ち、わかりすぎて、胸が痛いぐらいだ。

自分本位の思い込みを延々と駄長文で訴えられても、重いし、何回も何回も、となると、読まされるほうは、そう長続きはしない。
そうなら、一切、読んでくださらないことを願う。
その人、一人だけのために、書けないこともあるんだから。
(加害者と被害者みたいに言われたら、心外だろうなあ・・・うっとうしいだろうなあ・・・)

なあんだ、読んでないんなら、気を使うことはなかった・・・

というか、ブログのことだけではなく、そのリアル知人と、別の事情もあって溝がはっきり出来たことを感じた。
さびしいけれど、そんなものだ。
最初は、わーっと盛り上がるが、盛り上がりは、そんなにいつまでも続くものではない。
盛り上がりが早ければ早いほど、熱が高ければ高いほど、必ず降下する。
もっと淡々と、上がったり下がったりしない、同じテンションで、お付き合いするのが、いちばんいい。

しかし、接点がなくなると、とたんに温度が下がってくるようだ。

人はいつもいつも、同じ状況、特に絶好調や、ノリノリは保てないものだ。
見る見るうちに、わたしとの温度が、どんどん下がる様子を目の当たりに見ると、とても複雑な心境になる。
温度の降下は、お互い作用し合い、スパイラルにさらに下がる。

ああ、具体的に書きたいが、ひょんなことで、万が一、そのリアル知人がブログをご覧になったら・・・と思うと、書けない。
このまどろっこしさ。
どうせ、見ないだろうに・・・


また、こんなケースもある。
何度も聞かれて、乗る気がしなかったけれど、ブログを教えたとたん、コンタクトをとってこなくなったリアル知人がいる。
イヤだったんだろう、このブログ。ニオイ、ぷんぷんの。
それまで想像していた、わたしとはあまりにも違っていて、ひゅーーんと、イメージが地に落ちたんだろう。
あるいは、へんに飾りすぎる(ねじ曲がった)虚偽のニオイに、うぷっと、なったのだろう。


なので、新しく出会った人には、(前から知っている人でも)、ブログを教えないことにしている。
そのほうが、いい。絶対にいい。

 

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暗くて、眠い内容になったようだ。やはり、夜は寝たほうがいい。


落ちこぼれ

2012-03-29 | 人生

人生で、男が女と対等に渡り合える方法。
それは認めること…女のほうが秀でていることを。

こういうご意見を、ある男性が仰った。

そこで、ふと思った。
対等に渡り合うということは、ケンカしたり、トラブったり、砕け散ったり、分裂したり、別れたり、
あるいは、永遠に溝が出来たり、・・・そういう危険性もはらんでいる。

どちらかが、少し劣っていると、引っ込んだり、押したり、バランスが取れるのかも。
ただし、どちらかが常にどの分野でも一方的に、優位にあるのではなく、
分野分野によって、優劣は交替するほうがいい。
お互い、補い合うことが対等ということだろうか。


わたしは、子供の頃、本人の実力とは合わない進学校に入れられてしまったので、
へんな学力コンプレックスのカタマリがある。
で、学力不足著しく、のちに、偏差値の高い名門校には入れず、最終的には、花嫁学校卒業。
落ちこぼれ転じて、今度は、
カワイイ花嫁さんになれるよう、花嫁修業証書を手に、男女平等路線ではない結婚へと舵を切る。

時代の波は、男女平等へと動くなか、
イエ制度は崩壊したっていうのに、亡霊にとり付かれた古い価値観へと、逆行を強いられる。
世の中は、先人たちの汗と涙と努力の結果、男女平等の世界へと進む。
わたしは、子育て期間を経て、抑えられないものに突き動かされ、仕事の世界に顔を出す。
そこで、体制や組織には、男尊女卑や古い価値観もまだ根強く残っている部分も感じつつ、
それを跳ね返すだけの、能力も力量も、ノウハウも根性もなかった。
自分なりの、ほそぼそとした仕事をするが、
つくづく、本質は、オトコもオンナも関係なく、能力第一だと痛感する。
「男尊女卑だ」と涙ながらに訴えられない、そんな手は卑怯すぎて使えない、男性も女性も歯を食いしばって闘っている、
そこには厳しい仕事の現場があった。

自分の身の置き所をあっちへやったり、こっちにやったり。
次々、鞍替えした世界の、このギャップ。
どの選択も、すべて、落ちこぼれた故のシフト。
消極的選択肢。暗さ、負けが、つきまとう。


義母たちの世代は、まだマシ。
イエ制度崩壊の憂き目を嘆いていればいいだけ。
選択肢がなかったせいで、自分の実力について、真剣に考えたことはなく、
運命や宿命に身をまかせて、泣いたり悔しがったりしているだけ。
ほんとうに、裸一貫で社会の荒波で実力を競い合わされたら、どうなっていた?
案外、能力を発揮していた人もいるかも知れないが。

わたしは、進学校では、自分の学力のなさを知り、受け止め、(楽な)お嫁さんコースにコース変更し、
仕事では、自分の根性の甘さを知り、受け止め、片足オクサマコースに身を落とし、
いろんな選択肢を与えられたにもかかわらず、結局、保護される優先座席に座っているだけ。
ホームレスにはならなかったのが、幸いだが。
女性はプライドを捨てられるからか、どうかは知らないが、ホームレスにはならず、どこかに引き取ってもらう道を選ぶ。

 

たくさんのコースがあっても、結局、ものに出来なかったら、無能だってことだ。
たったひとつのコースでも、精進して頑張れば、それはそれで素晴らしい。
仕事であろうが、家庭であろうが、どの分野でも、どんなレベルでも、
そこそこ結果を出すことができたら、それでいいんじゃないかと思う。

出来ないくせに、へんに頑張ろうとしないで、身の丈にあったコースを選ぶほうが賢明だ。 

しかしながら、
わたしのポリシーは、実際にやっていることと、思っていること、現実と理想、が、バラバラだってことだ。

なので、読んでいる人から、「ええかげんにせい!! ここまで読んだのに、時間、返せ!!」と
逆鱗(げきりん)をかうシステムになっている。

あ、最初に、お断りしておくべきでしたね。ごめんなさい。

 

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暗闇から、やぶにらみ

2012-03-28 | 趣味

社交ダンスパーティには、いろいろある。

半官半民みたいなかんじの施設を利用したパーティは、入場料は500円とか、600円、高くても1300円まで。
100%民間の営利経営のホールでも1000円~1500円。

その金額で、半日、遊びっぱなし、踊りっぱなし、運動しっぱなし。
飲み物や、ちょっとしたお菓子が提供される場合もあり、踊って疲れて、飲んで、一口食べて、という会場もある。
ただ、わたしは、お腹が減っていても、ほとんど食べない。
もぐもぐ、口に食べたばかりの物の余韻を残して、ダンスをするのは、
お相手に与える印象を考えると、はばかられる。

停滞した空気のなかで、じっとパチンコしているより、ずっといい。(と私は思う)

パーティに行く人の行動目的は3パターンある。

第一パターンは、ダンスの向上を目標に精進する人。練習以外のバリエーションのひとつ。
第二パターンは、踊ってしゃべって、社交もする人。ダンスすること自体を楽しみに、運動しに来ている人。
第三パターンは、セクハラまがいの人。相手を物色したり、べたっとくっついて、ニヤける、けしからん人。

パーティ会場も、ぐっと格調が上がって、一流ホテルのディナー付きになると、1万円~15000円ぐらい?
デモ発表会になると、もっともっと高い。が、デモに出る人がパーティ券を負担する場合が多い。

昨夜、ホテル主催のパーティに参加した。

若い男子学生さんが、ダンスのお相手として(通称リボンちゃん)待機している。
その数、総勢20人ぐらいいて、生で歌手が歌ったりもする。
高齢の女性たちが多く参加され、リボンちゃん待ち席にズラリと座って順番待ちをし、リボンちゃんと踊る。

学生さんは、大学2回生ぐらい?(20歳ぐらい?)、女性は、70歳ぐらい。
だいたい孫ぐらいの年。すらりと背の高い童顔の学生さんと、小柄な人が多い老婦人たち。
蝉が大木にしがみついているようなかんじ。
年齢の対比とあわせて見ると、けっこうこの絵は印象的。
あっぱれ、というか、異様な光景というか、高齢女性のお遊びの場なのかなあ・・・というか、
端で見ている分には、面白い。

学生さんは、関西圏の大学の社交ダンス部(学連)の部員で、あれだけ大勢になると、下っ端ばかり。
どう見ても、やる気なし。

老婦人たちのお相手をすると、踊れば踊るほど、理想的なダンスの基本のカタチが崩れるし、
ちゃんと踊ろうにも、ちゃんと踊れる相手がいないこともあって、
学生さんたちは、超手抜き。
今まで見た中で、いちばん、ひどかった。
数さえ揃えればいい、ってものではない、と痛感した。


人のことはさておき、見ているばかりでは意味がない。
自分はというと、ひんしゅくモノのレベルの低い踊りを、知り合いがいないことをいいことに、
恥はかき捨て、とばかりに、学生さんの比ではない、いい加減なひどい踊りをした。
やはり、ダンスは、どんな相手と踊るか、がいちばん大事。


少なくない金額を投じてホテルに集う女性客の、ダンスの力量レベルは、低いと感じた。

皆さん、ダンス自体を楽しみに来ておられるのだから、なんの問題もない。

問題は、たいして踊ることもできないくせに、人のあらさがしばかりして、えらそうなことを思う、わたしだろう。
ナニサマは、常に自滅を招く。


わたしの目標は、ダンスの向上。正しく美しいダンスを身につけること。
現実は、ご高齢のご婦人方よりも、さらにもっと踊れない。
つまり、言うばかり、理想ばかりが高くて、現状が追いついていない。

それを口に出さずに、こころで思っているだけだが、こうやってブログに書いていたら、言っているのと同じ。
ただ、話す相手としては、誰に言っているのか、よくわからないが。
地中に穴を掘って、言いたいことを埋めておくべきだ。
できもしないことは、言うな、というのが鉄則。
できてから言え、ってこと。

いつかは、いつかは・・・きっと、いつかは・・・上手くなって踊りたい。
あんな踊りじゃなくて・・・と、人の踊りを見て、けなすのではなく、
こんな踊りをしたい・・・と、熱く精進したい。
でも、上手い人の集団では、すっかり、しょげ返って自信喪失で、しょんぼり。
一秒も速く、その場を立ち去りたい、わたし。

人と比較したりして、間違った優越感や、劣等感に振り回されるのではなく、
自分の足で、ちゃんと立つ日を夢見て、今日も頑張るしかない。

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人が楽しんでいるっていうのに、こんなこと思ってるわたし、つくづく嫌なヤツだ。
自分だって、人に「下手な踊りだ」と思われているのに。

 


逆恨みの逆襲?

2012-03-27 | 趣味

わたしは、男尊女卑の陰で泣いている側の人間だ。

そして、男女平等になると、一瞬にして、男性に負ける側でもある。

なので、不公平だ~と、男女平等を訴えると、とたんに、自分が不利になる。
どうすればいい?

自分が劣っている分、優先座席のシートみたいに、かばってもらえる。
わあ、楽だ。

でも、ふつうにしていると、気が付くと自分の定位置は、常に低い場所にある。
そして、男尊女卑だ、と声を上げると、「しかたないなあ・・この人は・・・」と、
へきへきした顔で、手を差し伸べ、時折、底上げしてくれる。

こういう人間がいると、いちばん困るのは、優秀な女性だ。
「おんな」というひとくくりで、みなされてしまうので、実に、気の毒だ。
おんなの足を、おんなが引っ張る。

最近は、男女平等の枠内に、きちんと優秀な女性枠がキープされているようなので、
ちょっとほっとしている。
わたしのような女性のせいで、足を引っ張られることなく、
のびのびと実力を発揮できる舞台が確保できるような社会になりつつある。

ただし、女性だからと、甘くは見てもらえない。
事故や災害の時などは、女・子供・老人は、屈強な成人男性に比べると、身体的能力が劣っていることが多いので、
比較的、優先してもらえると思うが。
戦争等では、あえて、弱いものをターゲットにする悲惨さには言葉を失う。


女性は、子供を産む年齢制限があるので、その点では、出産時期や、仕事の予定や管理には、男性より選択肢が狭まる。
母乳の人は、冷凍する方法もあるが、でも、男性に比べると、たいへんだ。

おしめを替えるのは、男性、女性、どちらが適しているか、ということはないと思う。
食事・掃除・洗濯もそう。

強いて言えば、収入を多く稼ぐ方の人は、稼ぐ方に力を注いでもらうほうが、経済的には合理的。
拘束時間が緩やかな方の人は、育児などを臨機応変にしてもらったほうが、うまくコトが進む。
ただし、家族で話し合って決める。

プロの料理人や、建築家、華道・茶道家などに男性が多いのは、それなりの社会的背景もある。
特に伝統的な家元制度は、その歴史などをよく熟知したうえで、モノ申すべきだ。

わたしなど、いつも生半可な知識で、したり顔をして、めちゃめちゃ間違ったことをヘーキで言ったりする。
あとで、顔が火事になっているが、後の祭り。
いつもいつも、顔から火を噴いていると、化粧のノリが悪いので、
「わたしは、ええかげんなコト、いつも言ってます」と、先に前置きすることにしている。

それで、免れるわけではないのは、十も承知。
免罪符には、なりません。

免罪符にならないことを承知で、無理やり、免罪符にしようとしているところが、
「わたし、男尊女卑の陰で泣いてます」の、涙ながらの直訴アピールに、近いものがある。(わたしにだけに、関して言うとです)
確信犯は許されないのに、
強引に、電車の小さな隙間に、およそ入らないだろうというカラダをねじ込んで座ろうという、厚かましさを持っている。

そうやってでも、生きていかないと、
生きていけません。

食べるものに少々、ホコリがついていようが、賞味期限が過ぎようが、
食べないことには、生きていけません。

 


そう言えば・・・


社交ダンス・レッスンの生徒さんで、とほうもなく、あり得ないほど、ムカつく人がいる。

前々から、この人は、このレッスンには不向きだ、とは思っていたが。
適材適所、どんな分野でも、その人に合ったところで、活躍されることが一番いい。

その人は、ほぼ初心者の方で、足型をほんの少しだけ覚えられ、軟体動物のフォークダンスのようなかんじで、踊られる。
わたしが個人レッスンを受けている先生(プロの現役競技選手)の、グループレッスン・クラスに入っておられる。
そのレッスンは、同じ先生の個人レッスンを受けておられる女性の生徒さんが結構、多い。

女性の生徒たちは、デモや、いろんなことを経験された方が多く、キャリアも長く、年齢も比較的若い。
そこで、基本をさらに美しくブラッシュアップするために、先生のグループレッスンを受けている。

その、ミスター軟体動物は、このクラスに、何ヶ月か前から入っている。
「同じ踊りばっかりで、つまらない、飽きてくる、疲れる」
とまわりに仰る。

基礎の同じことの繰り返しではなく、難しいステップを教えてもらいたいようだ。
そのクラスは、何年も個人レッスンを受け、そこそこデキル人が多く、難しい基礎の動きを学ぶクラスなのだが、
難しい基礎は、彼の目には、単純で面白くないように映るようだ。
というか、基礎のキの字も、できていないんだけれど。基礎は、素通り。

基本が出来ていないなら、おとなしくしていればいいものを、へんに先生のマネをして(したつもり)で、
ぐにゃぐにゃ軟体動物踊りをされる。
その動き、ぜんっぜん、まったく、ちがう。

なぜ、その人が、あのクラスにいるのかは、まるで不思議な世界。
ジャマさえ、されなければ、まあ、いいか、ぐらいに思っていた・・・・
が・・・、わたしは彼に、前回のレッスン中、「あ、ここ、手は、こうやって広げるんですよ」と、指摘された。

なんで、あなたに、わたしが教わるわけ???
ぶっちーーんと、ブッちぎれた。
その瞬間、わたしの顔は、おそらく笑っていただろう。


あの人は、趣味仲間がいないのか?
話を聞いたり、アドバイスをしあう人がいないのか?
巷のあふれる情報に耳を傾けないのか?

どう考えても、来る場所、属するクラスが違うやろう??
周りと自分とのギャップに、なにも感じないのか?

ギャップがあることさえ、気付いていないのだろう。
さすがのわたしも、驚きのお方だ。

 

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 いくら注意されたからって、ナニサマ発言、やりすぎました。


始動、パワー不足につき、ブタとなる

2012-03-25 | 日々のこと

運動不足で、食べてばかりの日は良くない。

昨日は、1日の行動予定として、ダンスのレッスンを2コマ受け、その後、昼食抜きで、その足で、一駅歩いて、
ダンスパーティに参加しようかどうか、迷ったのだが、
結局、行くことをためらって、一歩も外に出ず、ずるずると1日が過ぎた。

わたしはいつも、人と一緒に行こう、と約束をしない、一人行動なので、行っても、行かなくても、自分次第。
1日の予定は、昨日の場合は、朝の9時までに始動を決定、開始しなければ、もう、あとは、なし崩し的に計画は、だらけ、消滅する。
9時までが、決め時。タイミングをはずずと、もう、だめ。
9時までに決めるには、
前日の夜までに、「よーーし、明日は、ぜひとも行くぞ!!」と気合を入れなくては
翌朝の気分次第にしよう、なんて、そのまま朝を迎え、
当日、ぐずぐず、どうしよ?どうする?なんて、自問してたら、どんどん時間が経ってしまう。
結局、行かずにサボって、1日、だらだら過ごす。

運動はまったくしないし、カラダを動かす代わりに、絶えず、コーヒーと、もぐもぐお菓子で、口を動かしている。
動くのは、目と指だけ。
パソコンの画面と、にらめっこ。

翌日も日曜日で休みなら、1日は外で活動、1日は家の中で、ネット三昧と、メリハリをつけたいところだ。
これじゃあ、1日が終わって、ああ、せいせい、楽しんだ1日だった、なんて充実感はない。


翌日も同じような怠惰な日曜日を送り、つくづく、昨日、サボったことが悔やまれる。
これを反省の材料とし、これからは、(来週末は予定があるので無理だが)
ブツギをかもす前に、人さまに迷惑をかける前に、カラダが動くうちに、
しゃかしゃかと、外で活動したいものだ。


しかし、今日は、いつも休日は自宅にはいない人物がうろうろしていて、
わたしは気が散って、ブログに取りかかる気がしない。
この人物は、珍しく、ゴルフの予定が入っていないようで、家の酸素が急激に薄くなっている。
酸欠につき、酸素ボンベが必要だが、薄い空気でガマンしている。
休日はやはり、健康的に外で、お日様の光を浴び、爽やかにゴルフを楽しんでいただきたいものだ。

お互いの幸せのため。それが、いちばん。

各家庭には、各家庭の幸せの方程式がある。

 

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ブツギをかもす出来事

2012-03-24 | 日々のこと

わたしは、週に一度だけ、スポーツクラブに行っている。
「通っている」、とまでは言いにくい、そんな程度の運動量だ。

そこは、まさに、老人ワールド。
はじめて足を踏み入れたときから、かれこれ6年9ヶ月になる。
平日お昼間に利用するデー会員は、仕事をしていない人か、
もしくは、その日だけが、仕事がオフの人。
毎日、平日べったり昼間にジムに行く人は、ほとんど日常にさして用事がない人(と思える)。

スタジオで、どたばたインストラクターの指示通り動き、汗を流し、
ジムでは、マシーン相手に黙々と、筋力と会話する。

プールでは、レーンの行き、帰りに、誰かと足や手が衝突したり、
後ろから泳いでくる人に、ガンっとぶつかってこられたり、
隣の水中歩行レーンの人から、波しぶきがかかる、とクレームがきたり、
多くの人が歩くと、その歩行の波が、横のレーンを泳ぐには逆方向の波となり、抵抗力で泳ぐ動きをさえぎられたり、
同じレーンでは、泳ぐ順序を譲り合い過ぎて効率が悪くなり、快適なスイム・ペースが保てなかったり。

どんな場にも必ずいる「教え魔」には、もう何度も同じコトを注意され、その人の顔を見ると逃げ腰になっている。
わたしは、好き好んで、腕が曲がっているわけではなく、
せいいっぱい痛いほど伸ばしても、腕が曲がるのだ。
ほっといてちょーだい。
何度も何度も注意されて、直らないってことは、そういう可能性もあるってこと、察してほしい。
わたしの口から、実際に、「わたし、伸ばそうとしても腕が、まっすぐにならないんです。ほっといてください」
と、ある日、思わず、するりと出てしまわないか、恐怖だ。

でも、先週、別の人にも同じ注意をされた。
やっぱり、誰の目から見ても、腕は曲がっているのだ。
そして、わたしは、頑張って努力しても、腕は曲がるのだ。
これ、どうしたらいい?

プールの水を、ザッブーン、がさっと全部ひっくりかえしたい気分の時もあるが、それは物理的に無理なので、
そのせいか、どうかは知らないが、
予期せず、突然、善人・小市民へのスイッチが入り、右腕を伸ばすよう、努力したりしてみる。
なんだか少し、マシに泳げたような気にもなったが、その腕に気をとられるあまり、プールの壁に激突した。

まあ、なんやかんやで、泳ぎ始めて、約7年。
顔見知りも、ちらほら出てきた。


先週から、スポーツクラブで、ある事件が起きている。

それは、まさに高齢化社会の縮図の出来事。
大浴場やサウナで、めまいや立ちくらみがしたり、倒れたりする人は、ちょいちょいいる。
これは、湯あたりというか、なんというか、長い間、そういうところに居続けるせいだろう。
個人個人の自覚で、制御していただくとして・・・

問題は、・・・あるモノ・・・ブツである。
あるブツが、落ちているのだ。

パリの街路にもよく犬のブツが落ちていて、世界中で悪評が高い。
フランス観光局は、パリの街、背筋をしゃんとして歩こう!!とPRするが、
そんなことしていると、必ず、靴でブツを踏んづけてしまうので、
猫背になって、下をよおく観察して歩かないとたいへんな目に遭う。
パリジャンやパリジェンヌは、馴れきっていて、自動的に踏まずに避けて歩く装置が備わっているようだが、
観光客は、一足一足、一踏み一踏み、注意しなければいけない。

と、これは、まったくの脱線ハナシである。

そのパリの犬のブツではなく、
わたしの通っているスポーツジムの、床に落ちているブツ・・・のハナシだ。


あるときは、トイレで誰か、発見者の困惑声。
要請を受け、清掃係のスタッフさんが、2人で掃除してくれた。ご苦労様です。
「うわ~」と、ふたり、げんなりしながら、協力して力をあわせるスタッフさんは、年配の女性たち。
掃除する側と、される側は、ほぼ同じ年齢と思われる。

あるときは、ロッカーの前。

あるご年配女性(じつは、わたしがあまり好意を抱いていない、ナニサマ風の人)が、
「まあ~??!! なにぃ~?? これぇ??」と悲鳴に近い怒号の声。
ぐちゃっと、素足で踏んづけてしまったようだ。
わわ。

いやあ、お気の毒に。
わたしのロッカーから2メートルぐらい離れていたものの、ひとごとではない。

騒ぐ、騒ぐ、その女性。そりゃあ、そうだろうけれど。
ご自身のおみ足は、シャワーで洗い流し、テッシュやらなにやらで床を拭き、大騒ぎ。
その後も、まだ、小さいブツが点々と見つかったようで、また、ひと騒ぎしていた。

わたしが想像するに、トイレの犯人と同一人物ではないかと思う。
老齢化社会だから、生理現象だから、暖かい目で見るべきなんだろうけれど、
プールの中にも落ちているのではないかと思うと、うっかり目も開けられない。(開けているが)
ご本人は、おそらく自覚がないと想像するので、それだけに、より恐ろしい。
病院の患者さんならともかく、場所が場所なので、まわりの人々も受け入れ態勢や、覚悟が出来ていない。


知人の勤めている医院では、とても上品な美しい老婦人が患者さんとして通院されている。
いつも、彼女が横になったあとのマッサージ用ベッドは、ブツで汚れているそうだ。
シーツだけでなく、ベッド自体や周辺も影響を受け、たいへんなようだが、
彼女だけ特別に、前もって直前に、ベッドに防水シートを敷くのは、はばかられるので、スタッフは、忍の一字らしい。
だが、毎度、彼女が来院する度に、困り果てているとか。

ご本人は、気付いていないことに大きな原因がある。
もし、わかっているのなら、外出用・紙おしめをして、
そのうえに下着を何重にも着用するなり、なんらかの方法があると思う。


ふつうに一般生活を送ってきていて、
意図せず自分が粗相(そそう)するなんて、そんな屈辱的な目に遭うのは、さぞや認めがたい、耐えがたいことだと思う。
かといって、その、人間としての誇りを尊重するあまり、その人の防御努力なしに、
一般の人が迷惑を受けるというのも、どうかと。
誇りと、粗相は、同じもの? 別もの?
自覚するプロセスが大事かも知れない。

もし、自覚すると、おそらく、一歩も外出はしたくなくなるだろう。
外でのいきいきとした活動から、一切、身を引きたくなるだろう。
わたしには、そんな経験がまだないが、いずれ、自分のこととして、とらえる日がくるだろう。

でも、哀しいけれど、それが、潔い身の引き際かもしれない。
あるいは、きっちり、防御して、万全のケアで臨めば、そんなに卑下したり、情けなく思ったりすることではないだろう。
ただ、もしも出先で・・・と、予想すると、そっちのほうが気になって、外出自体を存分に楽しめないかも知れない。

自分の状態にあった楽しみ方ができるよう、徐々に調整するだろう。(仕方ないけれど)

大勢の人が、裸やスポーツウエアで利用する、スポーツクラブは、
お気の毒だけれど、余暇活動の場所から外していただくのが賢明だと思う。

わたしは、利己主義?
もし、自分の親がそうやっていたら、行くのを控えてもらうか、防御ケアするようアドバイスする。
もし、自分がそうだったら、かなしくて、泣けるけど、まあ、今から心準備しておこう。

 

 

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ニオイ

2012-03-22 | 無題

確定申告の時期も過ぎ、昨日の辣腕・若手税理士K氏は、まったく元気がなかった。
連日の睡眠不足が続き、ぐったり。

「とにかく、眠りたいです」

くたびれきった顔で言うK氏の顔を見ながら、
この人も、いっちょまえ(≒一人前)に年を取ってきたんだなあ・・・と時の経過に妙に納得した、わたし。

初めてお会いしたときは、少年に、年齢を少し加えたような人だった。
彼が属していた会計事務所から派遣されて、わたしに面会に来た時だった。
その頃は、仕事内容や、やり方に問題意識を抱く、少し前だったと想像するが、小柄で、あまり印象に残らない青年だった。


人は、考え方、問題意識、やる気、努力、行動力、成果、生き方で、見かけはどんどん変わるものだ。


いつもわたしは、ナニサマ発言である。
ブログを読んでくださった方に「そんなナニサマっぽさは感じません」と心優しいコメントを頂戴したが、
そのことを「上から目線」と酷評してくださったお方に伝えると、
「いやいや、上から目線、ぷんぷんです」と、がんとして主張を譲らなかった。
そうかなあ・・・きっと、そうなんだろう。
というか、見方によって、見え方、感じ方は変わるということだ。
見る人の数だけ、感受性は存在するし、同じ一人の人でも、対象物によって、いろんな感じ方をする。

白にも黒にも見えるってことだ。
わたしは、色は、いろいろあるほうがいい、という主義なので、何色に見えていただいても、
わたしは、わたしなので、
わたし以上でも、わたし以下でもないので、いっこうにお構いなしだ。


色だけでなく、立体、3Dに見えても、動き、声、音響が加わっても、ニオイや振動がついてきても、
(わたしにとって)不快や恐怖のマイナス方向でなければ、イマジネーションの世界には、なにも妨げるものはない。

「ナニサマ」、「上から目線」が、そんな立体的なイメージになると、どんな感じになるのだろう・・・??
この分野は、たいして3Dや動画にする必要はなさそうだ。意味がない。

ひとつだけイメージ要素を特化してピックアップすると、「ニオイ」だろう。

ニオイは、同業者や、同種、同類の人間が、嗅ぎ分けてくる場合が多い。
目に見える見かけだけでは言い表せきれない、ニオイというものだ。
この、ニオイを嗅ぎ分ける嗅覚というものは、人生においても、かなり重要な役割を果たすことがある。
意識せず、天性のもので勝手に嗅覚が働く場合と、努力や必要性に迫られて研ぎ澄ませている場合とがある。

解決できない大きな問題に発展することもある。

なので、ニオイを感じても、あたりさわらず、そっと、軽く反応し、場合によっては、知らん顔しているほうが
深入りしない、身を守る、ずるがしこいやり方かもしれない。


ニオイというものは、共通項のある人にしか感じることはできないものもある。
が、そんなもの、あろうがなかろうが、いいニオイ、悪いニオイ、これは誰にでも感じることができる。
ヨーロッパ貴族は、香水で、体臭を消したように、自分自身が好まないニオイを嗅ぎ取られるのは、嫌な人は多いと思う。
マネーロンダリングみたいに、出どころを消しちゃうわけだ。
そのうえで、好きなニオイを重ねて、オリジナルなニオイをつくる。


特殊なニオイを共通して感じる人同士は、いつも一緒にいないほうがいいと思う。
影響力を与え合うのは、同じニオイの人だと思うけれど。
感性が響き合いすぎて、神経がいつもONになり、くたびれる。

芸術家同士は、高めあうときはいいけれど、衝突すると、粉々になる。
だからといって、鼻の詰まっている人よりは、
普通のオーソドックスなニオイ判定をする人と、一緒にいるのがいちばん、いい。
なので、ニオイの違う、違った分野の人といるのが、お互い、適度な距離を保てて、いいのかも知れない。

ニオイもひとつだけではないので、いろんな分野の中で、ひとつ、もしくはいくつかが、共通していれば、それで十分。

好きな香水をつけて、本来の自分とは違うニオイを楽しむのもいい。
時には、いつもと違った香水で、違った自分になるのも、いいかも。

 

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 ちなみに、わたしが好きなのは、あま~い薔薇の香りの香水です。
(イメージ合わなくて、すみません)


語らい

2012-03-21 | 暮らし

1日、1日が、まるで違う1日のようだ。

過ごす相手、内容によって、まったく違う。

日めくりカレンダーのように、パラパラと。
連続性がある場合もあるし、まったくない場合もある。
ちょっと落ち着かない今日この頃。

大きなイベントを抱えていて、それが済まないと、気が落ち着かない。

ブログは、わたしの話し相手だが、このお相手は、友人の姿をした、他でもない、もう一人の自分だ。
この友人は、うわの空である場合もあるし、
時間がない忙しい友人であることもある。
手ごたえがまるでない、霞(かすみ)のような友人であることもあるし、
ずっしり重みを勝手にひとりで感じていることもある。

この友人としゃべると、こころが軽くなるが、しゃべりすぎると、自分が、からっぽになって疲れる。
友人の顔色を見ようとしても、ちっとも反応がない。
肩をたたこうにも、なんの手ごたえもない、透明な肩にすっと手が入りこみ、肩透かしをくらう。
ああ、そうだった、友人なんていないんだ、一人二役、自分が友人のフリをしているだけだった、と、当たり前ながら、気付く。

友人のフリをしたブログでさえそうなんだから、
親や子供、肉親のフリをした、愛する人々は、実体があるような、ないような。
この世にいても、いなくても、わたしのこころに大きな影響を与える。

自分自身と語るのがブログだとすると、大切な人たちと語るのは、何だろう?
時がお彼岸だったりすると、語る大切な人は、この世にいない人だが、
この世にいて、遠くに住んでいたり、近くに住んでいたり、いっしょの家に住んでいたりする人は?

語らいというのは、声帯をふるわせて、たんに声を発することだけではない。
思い、想い、のやりとりである。

何気ない日常では、気持ちを表す必要もなく、ルーチンワークで日々が過ぎていく。

この、どうってことない、一見、無意味のような日常が、途切れない限り、わたしは幸せなんだと思う。

今日も、いつものように、一日が始まる。
日めくりは、どんなページになっているだろうか。

後に振り返れば、この平凡な日々がいちばん幸せだったと気付くことだろう。

 

 

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無資格者が、言うのもなんですが

2012-03-20 | ブログ

今回
わたしのブログをお読みになられる方が、(またもや)わたしのことが大嫌いになるような内容ではありますが、
キーボードを打つ指を抑えられないのも、不徳のいたすところであります。


ある、浮気亭主に悩まされる妻の会ブログ。
このブロガーさんの意見、考えは、とてもはっきりしている。
自分が歩んだ道、とった行動、選んだ道は、なにがなんでも正しい、と、強く、一点のかげりもなく信じておられる。
彼女のブログに思いを寄せる、浮気されて離婚を要求されている妻に、
その考え、信念を、正しい道として、とうとうと説き、正しい道に導く。

ブログ上での、そのやりとりの回数は、ハンパではない。
そのやりとりをいちいちのぞきに行く、わたしのヒマ人根性、のぞき見趣味も、ハンパではない。

同じように、亭主に浮気されて、結果的に離婚した人には、さして関心を示さないブロガーさん。
浮気され、離婚を要求されているが離婚していない妻には、執拗なまでに、救いの手を差し伸べる。
浮気されて、でも離婚しなかった人たちとは、縁側に集う家族の会のごとく、和気あいあいと。

いくら、自分が選んだ道が正しいと納得したいからって、他のコースを一切がっさい全否定って、すごい。
自分が救われたら、それでいいのだから、関係者ではない他人は何を言う資格もないし、なんの効力も強制力もない。
よかったね、という、暖かい拍手を送るべきなのだろう。

夫に浮気された苦境を「幸運」と、とらえるそうだ。
わたしは、幸運だなどと思えない。どう見ても不運だと思う。
自分を変えるキッカケを与えてくれた、幸運なんだそうだ。
(その割には、自分の非を認めることなどせず、まったく消化も、昇華もされていない
ドロドロの憎悪、悪意のカタマリが、消えることなく強くこころに渦巻いている)

浮気されて苦しんでもいない人には、わかるまい、というスタンスだから、
浮気の苦しみ経験がない人は、人間扱いされていないので、道端の石ころのごとき、扱いを受ける。
というか、そんな、関係ない、接点のないブログに、なんで、そうちょいちょい見に行くのか、わたし?
(浮気騒動の経験がない、わたしを含め、世のオクサマ方も、
ただ、夫の浮気を知らないだけ、発覚していないだけの、幸運な人々である可能性もおおいにある)


わたしは、逆説の論理を楽しんでいる。
不幸な人の不幸を楽しもう、なんて、そんな人として最悪、最低の思いはさらさらない。
そうではなくて、まったく、思考回路や考え、フィーリングの合わない人が世の中に存在していることに、
斬新な驚きを感じるのだ。

自分と同じものだけを純粋に拾い上げ、すくい上げ、それらに囲まれてだけ過ごす、心地よさ。
それは、だれしもあるだろう。
他を一切、排除する、その様子がありありとわかる、ブログというものの、面白さ、怖さ。


浮気され、離婚してくれと懇願され、でも、がんと離婚しない妻。
なんで? Why?
夫が他の女性に走って、そっちに鞍替えしようとしている。
夫は、愛人にそそのかされているだけで、たんに熱病だと言い切る。
べつに夫を愛しているわけでもない。
あるのは、執着心と、自己愛と、妻という社会的身分保障と、ついでにお金。
(ひょっとすると、見捨てることが出来ない、介護が必要な高齢の親がいるのかも知れないが
それも、ある程度、お金で解決できる)

十分な慰謝料を用意できない夫、十分な慰謝料が用意されないと離婚したくない妻。
離婚すると、少ない慰謝料では現状の生活レベルが維持できない。
自分の代わりに、夫の愛人が妻の座に、ででんと座ることへの、耐え難い屈辱。


ここで、今回の記事が終了していれば、斬った!というかんじになって、毒舌路線で完結する。
わたしの弱点、難点は、じゃあ、自分は?と自問して、わけがわからなくなり、ドツボに陥ることだ。


わたしなら、どうするかな~??
十分な慰謝料をくれないなら、離婚しないだろう。
つまり、あのブロガーさんや、被害者の方々と同じなのだ。

が、十分な慰謝料を闘って取る可能性もないわけではない。
そうなると、わたしは、離婚しても、しなくても、どっちも選べる、二者選択の余地があるというわけだ。
その時点で、十分な慰謝料が取れそうもない気配の
(というか、たとえ少しでも慰謝料を取って離婚する方向には導かれない)彼女たちとはちょっと違っちゃうわけで、
同じ視点で見ることができなくて、上から目線になってしまうということだ。

ということは、そんな場所から、批評家やカウンセラーみたいに、したり顔で物申すなんて、けしからんことだ。

夫の浮気に苦しむ=お金に苦しむ、という構図。
夫に適正な金額のお金がないから、苦しむ。

生活を取るか、こころを取るか。


自分の現実はさておき、仮定として、もし、十分な慰謝料が取れないとすると・・・どうする?
一生懸命、仮定法で考えるが、結婚のいろんな状況を考えても、わたしの想像力がちっとも働かない。
慰謝料だけの問題でもない、いろんな方面の問題が、複合的に、ごちゃっと詰まっていて、
こんがらがった糸を解くには、たいへんな作業となり、わけがわからなくなって、面倒くさくなってきて、
ついには、どうでもよくなってくる。

あれこれ考えると、そんなたいへんな目に遭うのは、夫もわたしも、うんざりすることだろう。
それを考えると、そんな面倒な事態は出来るだけ回避したい方向にもって行きたい。
ということは、そんな事態を引き起こす行動は、慎むということ。
それが、面倒くさがり屋には、いちばんの近道。

なので、自分たち夫婦のこととしては、シュミレーションできない。感情移入できない。
離婚騒ぎは、ありえない。
平和で仲良し、熱々で、プラスの要因で離婚はありえないのではなく、
面倒くさがりで、イザコザはうっとうしいという、マイナス、消極的理由で、離婚は、ありえない(いまのところ)。

なので、決定的な亀裂が生じて手遅れにならないよう、日ごろ、あまり大胆な衝突は避けようと、小さな努力を積み重ねる。

そうすると、ドロドロの浮気された妻の会とは、どんどん生活実体が離れていってしまう。
自分とは、かけ離れた世界のごとく感じる。
なので、いくら正当性を訴えられても、まったく、こころに響かず、正反対の、考えが合わない集団として映る。
その自己主張っぷりがあまりにもすごいので、ホラー映画を見るかのごとく、ついつい、のぞきに行ってしまう。


ああ、話が、堂々巡り。
悪い予感がしたとおり、なんか、よくわからなくなってきた。
わたしは、上野千鶴子教授の、爪のアカを煎じて飲んでも、お腹をこわしそうだ。
ぐるぐる、ぐるぐるぐる。

なんか知らないけれど、そういうわけで、「夫に浮気された妻の会」ブログ
引き寄せられるのは、なぜなんだろう・・・と自己分析してみた。

 

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